雅叙園観光:目黒雅叙園の外客ホテル化と米軍専用ホテルへの転換
1948年〜相続争いの渦中にあった料亭の洋館だけを取得した創業
目黒雅叙園は、昭和初期に細川力蔵氏が開いた料亭だった。その細川氏が世を去ると、後妻と先妻の子の間で相続の争いが起こり、外部の勢力が未亡人を立てて介入した。1947年の暮れ、父の名を継いだ二代目細川力蔵氏が、興行師の松尾國三氏を新富町の旅館に訪ね、助力を求めた。当時の日本は外客の来訪が相次ぎ、その宿舎の不足が痛感されていた。新たに設けられた施設は、貿易庁直営のホテルが数ヵ所という程度にとどまっていた。目黒雅叙園は戦災を免れて建物が残っており、料亭から宿へ用途を移せば、供給の足りない市場へ最も早く出られる資産だった。松尾氏が火中の栗を拾ったのは、争いの義理よりも建物事情が悪化していた東京において、需要を満たせる好機を見出したためであろう。
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「第三国人に売渡される雅叙園」
- [1]目黒雅叙園は昭和初期に細川力蔵が創立した料亭である
- [2]細川力蔵の死後、後妻の未亡人と先妻の子の間に確執が生じ、未亡人を表面に立てた外部勢力とその黒幕が介入した
- [3]昭和22年の暮れ、二代目細川力蔵が新富町の躍金旅館に松尾国三を訪ね、雅叙園を守るための助力を求めた
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」【創業】
- [4]終戦後の日本は外客の来訪が相次ぎ、その宿舎の不足が痛感された
- [5]当時新規に設けられた外客用の宿舎は、貿易庁直営ホテルが数ヵ所という程度だった
- [6]戦災を免れた目黒雅叙園を外客宿泊設備として利用するために会社が設立された
戦後における雅叙園観光の実質的な創業者となった松尾國三氏は、旅一座の荷物かつぎとして興行の世界に入り、子供芝居の巡業で育った人物である。敗戦の翌年、福岡県の警察部長から進駐軍相手のキャバレーの開設を求められている。松尾氏は土居町に残る十五銀行跡の焼けビルを帝国銀行から譲り受け、一階と二階を映画館、四階をキャバレーとして開いた。この建物はのちに福岡雅叙園ホテルへ改造され、西日本相互銀行の希望によって売却された。雅叙園観光株式会社は1948年6月15日、資本金5000万円で設立され、松尾氏が社長に就任。目黒の話が持ち込まれたとき、松尾氏の手元にあったのは自己資金ではなく、占領軍を客とする営業を国の要請で立ち上げた実績という信頼だった。
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第一章〜第二章
- [7]松尾国三は旅一座の見世物師の弟子兼荷物かつぎとして入座し、子供だけで演じる芝居一座の巡業で育った
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「キャバレーの“防波堤”づくり」
- [8]昭和20年、福岡の汐谷薫警察部長から、中央の命令として進駐軍専用のキャバレーの開設を依頼された
- [9]土居町の十五銀行跡の焼けビルを家主の帝国銀行から取得し、一階と二階を映画館、四階をキャバレーとして開業した
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「留置場入り」
- [10]このキャバレーは廃業して福岡雅叙園ホテルへ改造され、のち西日本相互銀行の希望によって売却された
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」
- [11]昭和23年6月15日、資本金5000万円で設立、社長は松尾国三
雅叙園は目黒川沿いの高台を切り開いて建てられ、上が洋館、下が日本式の料亭という構えだった。松尾氏が二代目力蔵氏と相談して買い取ったのは、力蔵氏の名義になっていた上の洋館、すなわち二号館と三号館だけだった。料亭の部分は細川側に残り、未亡人側は工事中止の仮処分を申請した。遺産の争いは、その後二、三年にわたって法廷で続いた。1963年の時点でも目黒の営業所は、細川力蔵氏・合資会社雅叙園・細川合名会社の三者を相手方とする賃貸契約のうえで営まれていた。新宿・芦屋・奈良の営業所も、それぞれ日活、松尾氏を含む三者、日本ドリーム観光との契約のうえに置かれた。建物を持たずに営業だけを預かるこの形は、会社の資産の持ち方を制約することになった。
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「第三国人に売渡される雅叙園」
- [12]雅叙園は山を切って建てられ、上は洋館、下は日本式料亭という構造だった
- [13]松尾国三は細川力蔵名義だった上の洋館(二号館・三号館)を買い取り、ホテルとして出発した
- [14]未亡人側は工事中止の仮処分を申請し、弁護士を松尾国三のもとへ差し向けた
- [15]同族間の遺産争いは二、三年にわたり法廷で争われ、未亡人の生活を見ることで和解した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【重要な提携】
- [16]目黒ホテルは細川力蔵・合資会社雅叙園・細川合名会社の三者を相手方とする賃貸契約による
- [17]新宿営業所は日活、芦屋営業所は松尾国三・松尾育英会・猿丸弁治の三者を相手に賃貸契約、奈良営業所は日本ドリーム観光へ売上額の10%を納める
参考文献[1]-[17]
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「第三国人に売渡される雅叙園」
- [1]目黒雅叙園は昭和初期に細川力蔵が創立した料亭である
- [2]細川力蔵の死後、後妻の未亡人と先妻の子の間に確執が生じ、未亡人を表面に立てた外部勢力とその黒幕が介入した
- [3]昭和22年の暮れ、二代目細川力蔵が新富町の躍金旅館に松尾国三を訪ね、雅叙園を守るための助力を求めた
- [12]雅叙園は山を切って建てられ、上は洋館、下は日本式料亭という構造だった
- [13]松尾国三は細川力蔵名義だった上の洋館(二号館・三号館)を買い取り、ホテルとして出発した
- [14]未亡人側は工事中止の仮処分を申請し、弁護士を松尾国三のもとへ差し向けた
- [15]同族間の遺産争いは二、三年にわたり法廷で争われ、未亡人の生活を見ることで和解した
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」【創業】
- [4]終戦後の日本は外客の来訪が相次ぎ、その宿舎の不足が痛感された
- [5]当時新規に設けられた外客用の宿舎は、貿易庁直営ホテルが数ヵ所という程度だった
- [6]戦災を免れた目黒雅叙園を外客宿泊設備として利用するために会社が設立された
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第一章〜第二章
- [7]松尾国三は旅一座の見世物師の弟子兼荷物かつぎとして入座し、子供だけで演じる芝居一座の巡業で育った
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「キャバレーの“防波堤”づくり」
- [8]昭和20年、福岡の汐谷薫警察部長から、中央の命令として進駐軍専用のキャバレーの開設を依頼された
- [9]土居町の十五銀行跡の焼けビルを家主の帝国銀行から取得し、一階と二階を映画館、四階をキャバレーとして開業した
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「留置場入り」
- [10]このキャバレーは廃業して福岡雅叙園ホテルへ改造され、のち西日本相互銀行の希望によって売却された
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」
- [11]昭和23年6月15日、資本金5000万円で設立、社長は松尾国三
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【重要な提携】
- [16]目黒ホテルは細川力蔵・合資会社雅叙園・細川合名会社の三者を相手方とする賃貸契約による
- [17]新宿営業所は日活、芦屋営業所は松尾国三・松尾育英会・猿丸弁治の三者を相手に賃貸契約、奈良営業所は日本ドリーム観光へ売上額の10%を納める
1949年〜進駐軍向けへの付け替えで得た協調融資と、民営ホテル第一号の認可
中華料理のレストランとして造られた建物をホテルへ変えるには、相応に手を加える必要があった。荒れ放題の状態からの復旧には、資金を投じなければならなかったが、。ところが当時のホテルは融資順位の低い第三種営業に区分され、銀行は容易に融資をしなかった。そこで、松尾氏が考えたのは、進駐軍関係のホテルにすれば建設資金の融資も可能になるという筋書きであった。日本銀行の融資斡旋部長を通じて各行に集まってもらい、説明会を開催。席上、当時の日銀総裁であった一万田尚登氏が『ホテルは第三丙種に属するが、進駐軍関係の営業となればドルを稼ぐ。君たち、協調融資でやっているだろうね』と述べ、この一言で四行の協調融資が決まった。工事を施工した竹中工務店は、1955年8月末に28万6720株を持つ大株主として株主名簿に並んだ。
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「第三国人に売渡される雅叙園」
- [18]中華料理専門のレストランとして作られた建物をホテルにするにはかなり手を加える必要があった
- [19]当時のホテルの融資順位は第三種営業「いそがざる事業」に属し、各銀行とも貸し出そうとしなかった
- [20]松尾国三は、進駐軍関係のホテルにすれば建設資金の融資が可能になると考えた
- [21]日本銀行融資斡旋部長の太田剛らの援助で各銀行を集めた説明会を開催した
- [22]日本銀行総裁一万田尚登の一言で四銀行の協調融資が決まった
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【大株主】
- [23]昭和30年8月31日現在の大株主に竹中工務店286,720株
目黒の雅叙園の改造が終わり、披露宴を待つばかりという間際に、米軍から呼び出しが来たという。GHQのハーフ大佐は『民間のホテル経営は認めない。ホテルは全部国営にする。ついては、雅叙園は都心から少し離れてもいるし、軍人、軍属の家族ホテルとして最適であるから、全館、進駐軍関係のホテルにする』と通告。当時のホテルは運輸省の管轄にあり、民間経営のホテルは存在しなかった。民間に任せれば配給品の横流しは避けられない、というのがGHQの言い分だった。松尾氏はこれを断り続け、マーカット少将に直接の面会を申し込んだ。役人による国営経営は管理が行き届かないが、民営は利潤があってはじめて成り立つため管理が厳しくなると主張し、試行を認めさせた。この結果、雅叙園観光ホテルは戦後の民間経営ホテル第一号として認可を得た。貿易庁直営ホテルが外客のみをドル建で扱ったのに対し、雅叙園観光は民有民営の形式のもとに置かれることになった。
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「叩けばほこりが出るぞ」
- [24]竹中組の施工で改造を終え披露宴を控えた間際に、米軍から呼び出しが来た
- [25]GHQのハーフ大佐が、民間のホテル経営は認めず全部国営にする、雅叙園は全館を進駐軍関係のホテルにすると通告した
- [26]その頃のホテルは運輸省の管轄で、民間経営のホテルはなかった
- [27]食品から飲み物まで一切が軍からの配給であり、民間営業では配給品の横流しが必定だというのがGHQの言い分だった
- [28]松尾国三は国営化の申し出を断り続け、マーカット少将に直接面会を申し込んだ
- [29]役人による国営ホテル経営は管理が行き届かず、民営は利潤があってはじめて成り立つため管理が厳しいと主張し、マーカット少将から試行の許可を得た
- [30]雅叙園観光ホテルは戦後の民間経営ホテル第一号として認可を得た
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」【変遷】
- [31]貿易庁直営ホテルが外客のみの弗建であるのに対し、当社は民有民営形式をとった
1949年1月に雅叙園観光ホテル(ややこしい点だが目黒雅叙園とは異なる。2011年には雅叙園観光ホテルの跡地がアルコタワー・アネックスとして開業。現在はAmazonの日本法人が入居)は、目黒雅叙園と隣接する高台にて営業を開始した。外人客を主としながら広く日本人の利用にも供し、ドルと円の両建てという特殊な仕組みを採用。1950年3月には資本金を1億5000万円へ引き上げた。同年6月28日、設立から二年で東京証券取引所へ株式を上場するなど、都内のおける貴重な宿泊先として急速に業容を拡大した。同年9月には新宿日活の地階にレストラン雅叙園を開設し、ここも日活を相手方とする賃貸契約で営んだ。定款が掲げた事業は、ホテルと観光施設の経営のほか、美術工芸品の紹介、土産品の製造販売、飲食店やダンス教授所の経営、建物の賃貸にまで及んでおり、ホテルを軸とした多角化を志向した。資金面では、土地と建物へ資本を寝かせない代わりに、増資と株式公開で自己資本を積む財務戦略が定まった。
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」【創業】
- [32]昭和24年1月より雅叙園観光ホテルとして営業を開始した
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」【変遷】
- [33]外人客を主としつつ広く日本人の利用にも供し、弗・円両建の特殊システムを採用した
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【沿革】
- [34]昭和25年3月、資本金1億5000万円に増資(1対1)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【上場開始】
- [35]上場開始は昭和25年6月28日・東京
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【沿革】【重要な提携】
- [36]昭和25年9月、新宿日活地階にレストラン雅叙園を開設。新宿営業所は日活を相手方とする賃貸契約による
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【主なる事業内容】
- [37]主なる事業内容はホテルその他観光施設の経営、芸術文化の交流斡旋並びに美術工芸品の紹介、竹細工その他の土産品・日用雑貨・食料品の製造販売、飲食店・料理店・キヤバレー・ダンス教授所の経営、建物の賃貸
参考文献[18]-[37]
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「第三国人に売渡される雅叙園」
- [18]中華料理専門のレストランとして作られた建物をホテルにするにはかなり手を加える必要があった
- [19]当時のホテルの融資順位は第三種営業「いそがざる事業」に属し、各銀行とも貸し出そうとしなかった
- [20]松尾国三は、進駐軍関係のホテルにすれば建設資金の融資が可能になると考えた
- [21]日本銀行融資斡旋部長の太田剛らの援助で各銀行を集めた説明会を開催した
- [22]日本銀行総裁一万田尚登の一言で四銀行の協調融資が決まった
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【大株主】
- [23]昭和30年8月31日現在の大株主に竹中工務店286,720株
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「叩けばほこりが出るぞ」
- [24]竹中組の施工で改造を終え披露宴を控えた間際に、米軍から呼び出しが来た
- [25]GHQのハーフ大佐が、民間のホテル経営は認めず全部国営にする、雅叙園は全館を進駐軍関係のホテルにすると通告した
- [26]その頃のホテルは運輸省の管轄で、民間経営のホテルはなかった
- [27]食品から飲み物まで一切が軍からの配給であり、民間営業では配給品の横流しが必定だというのがGHQの言い分だった
- [28]松尾国三は国営化の申し出を断り続け、マーカット少将に直接面会を申し込んだ
- [29]役人による国営ホテル経営は管理が行き届かず、民営は利潤があってはじめて成り立つため管理が厳しいと主張し、マーカット少将から試行の許可を得た
- [30]雅叙園観光ホテルは戦後の民間経営ホテル第一号として認可を得た
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」【変遷】
- [31]貿易庁直営ホテルが外客のみの弗建であるのに対し、当社は民有民営形式をとった
- [33]外人客を主としつつ広く日本人の利用にも供し、弗・円両建の特殊システムを採用した
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」【創業】
- [32]昭和24年1月より雅叙園観光ホテルとして営業を開始した
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【沿革】
- [34]昭和25年3月、資本金1億5000万円に増資(1対1)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【上場開始】
- [35]上場開始は昭和25年6月28日・東京
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【沿革】【重要な提携】
- [36]昭和25年9月、新宿日活地階にレストラン雅叙園を開設。新宿営業所は日活を相手方とする賃貸契約による
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【主なる事業内容】
- [37]主なる事業内容はホテルその他観光施設の経営、芸術文化の交流斡旋並びに美術工芸品の紹介、竹細工その他の土産品・日用雑貨・食料品の製造販売、飲食店・料理店・キヤバレー・ダンス教授所の経営、建物の賃貸
1953年〜全館の米軍専用化と、固定収入へ預けた七年
1953年6月、米軍の懇望により、雅叙園観光ホテルは全館が米軍専用のホテルとなった。同じ月、長野県軽井沢に軽井沢雅叙園ホテルを開設している。目黒の営業は、以後、米軍ホテル管理部を主な取引先として回った。1955年3月から8月までの半期で、軍との契約による月収は6150万円だった。契約を超えて生じた収入は3155万3000円で、両者を合わせると9305万3000円に達した。隣接する1956年2月期の営業収入が9444万5000円だったことと並べれば、この時期の収入はほぼ全額が米軍との契約から立っていた。このため、終戦直後の雅叙園は、東京にありながらも進駐軍が得意先となっていた。
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」【変遷】
- [38]昭和28年6月、米軍の懇望により雅叙園観光ホテルはその専用ホテルとなった
- [39]昭和28年6月、長野県軽井沢に軽井沢雅叙園ホテルを開設し直営で営業した
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」
- [40]主なる取引先は米軍ホテル管理部
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【営業状況】
- [41]昭和30年3月〜8月の営業状況、ホテル部門の軍契約による月極収入61,500千円
- [42]昭和30年3月〜8月の営業状況、軍契約による超過収入31,553千円
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【過去の業績】
- [43]昭和31年2月期の営業収入94,445千円
1956年2月期の営業収入は9444万5000円、税込利益は1380万円だった。続く1956年8月期はそれぞれ1億422万2000円と1719万4000円へ伸びた。配当は各半期750万円、年率10%が1955年から1957年まで据え置かれている。従業員は1955年8月末で388人、株主数は同じ日で1886名を数えたが、株数の7割超を個人が持っていた。大株主には松尾氏の69万2040株と並んで、前の所有者である細川力蔵氏の11万1480株が載っており、戦前からの元々の所有者である細川氏も一定の影響力を保持した。宿泊の実績に左右されない月収は、季節と景気に左右されやすいホテル業の収入を安定させ、上場企業として配当を続ける原動力となった。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【過去の業績】
- [44]昭和31年2月期の営業収入94,445千円、税込利益13,800千円
- [45]昭和31年8月期の営業収入104,222千円、税込利益17,194千円
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【剰余金処分】
- [46]昭和29年8月期・30年2月期・30年8月期の配当金はいずれも7,500千円、同年率10.0%
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」
- [47]従業員388人(昭和30年8月期)
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【株式分布状況】
- [48]昭和30年8月31日現在の株主数1,886名、個人その他の所有株数比率73.9%
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【大株主】
- [49]昭和30年8月31日現在の大株主に松尾国三692,040株、細川力蔵111,480株
1957年3月から8月までの半期で、目黒の月極収入は6000万円と前の水準をほぼ保っていた。ところが契約を超えて生じた収入は826万3000円まで落ち、二年前の同じ半期の四分の一になった。営業収入は8371万8000円、税込利益は966万6000円で、前年同期の半分に満たなかった。配当率は1958年2月期に8%、同年8月期に6%へ下落。1959年2月期には税込利益が20万1000円の損失に転じ、以後1961年2月期まで無配が続いた。1959年12月に資本金を3億円へ引き上げたものの、2号館と3号館が一般営業へ戻ったのは1961年3月だった。進駐軍という大口顧客が利用を減らしたときに、内需にシフトに出遅れたというハンデをもたらした。
- 株式会社年鑑 1958年版「雅叙園観光」【営業状況】
- [50]昭和32年3月〜8月の営業状況、目黒の契約による月極収入60,000千円
- [51]昭和32年3月〜8月の営業状況、目黒の契約による超過収入8,263千円
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【過去の業績】
- [52]昭和32年8月期の営業収入83,718千円、税込利益9,666千円
- [53]配当は昭和33年2月期が年割0.8、昭和33年8月期が年割0.6
- [54]昭和34年2月期の税込利益は201千円の損失、昭和34年2月期から36年2月期まで配当なし
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【資本異動】
- [55]昭和34年12月、資本金3億円
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【沿革】
- [56]昭和36年3月より雅叙園観光ホテルの2〜3号館は普通営業を開始
参考文献[38]-[56]
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」【変遷】
- [38]昭和28年6月、米軍の懇望により雅叙園観光ホテルはその専用ホテルとなった
- [39]昭和28年6月、長野県軽井沢に軽井沢雅叙園ホテルを開設し直営で営業した
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」
- [40]主なる取引先は米軍ホテル管理部
- [47]従業員388人(昭和30年8月期)
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【営業状況】
- [41]昭和30年3月〜8月の営業状況、ホテル部門の軍契約による月極収入61,500千円
- [42]昭和30年3月〜8月の営業状況、軍契約による超過収入31,553千円
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【過去の業績】
- [43]昭和31年2月期の営業収入94,445千円
- [44]昭和31年2月期の営業収入94,445千円、税込利益13,800千円
- [45]昭和31年8月期の営業収入104,222千円、税込利益17,194千円
- [52]昭和32年8月期の営業収入83,718千円、税込利益9,666千円
- [53]配当は昭和33年2月期が年割0.8、昭和33年8月期が年割0.6
- [54]昭和34年2月期の税込利益は201千円の損失、昭和34年2月期から36年2月期まで配当なし
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【剰余金処分】
- [46]昭和29年8月期・30年2月期・30年8月期の配当金はいずれも7,500千円、同年率10.0%
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【株式分布状況】
- [48]昭和30年8月31日現在の株主数1,886名、個人その他の所有株数比率73.9%
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【大株主】
- [49]昭和30年8月31日現在の大株主に松尾国三692,040株、細川力蔵111,480株
- 株式会社年鑑 1958年版「雅叙園観光」【営業状況】
- [50]昭和32年3月〜8月の営業状況、目黒の契約による月極収入60,000千円
- [51]昭和32年3月〜8月の営業状況、目黒の契約による超過収入8,263千円
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【資本異動】
- [55]昭和34年12月、資本金3億円
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【沿革】
- [56]昭和36年3月より雅叙園観光ホテルの2〜3号館は普通営業を開始
1948年〜1960年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年02月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年02月期 | 単体 | n/a | n/a | 0 | n/a | n/a |
| 1958年02月期 | 単体 | 1 | n/a | 0 | 12.1% | n/a |
| 1959年02月期 | 単体 | 1 | ▲12.7% | 0 | 6.0% | n/a |
| 1960年02月期 | 単体 | 1 | +6.0% | 0 | 3.8% | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版【過去の業績】半期合算(昭31年8月期+昭32年2月期)/昭32年2月期の営業収入はOCR欠落、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版【過去の業績】半期合算
出典・参考
22件
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」【創業】
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」
- 会社銀行八十年史 1955年版「ホテル・観光/雅叙園観光」【変遷】
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【大株主】
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【沿革】
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【主なる事業内容】
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【営業状況】
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【剰余金処分】
- 株式会社年鑑 1956年版「雅叙園観光」【株式分布状況】
- 株式会社年鑑 1958年版「雅叙園観光」【営業状況】
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【重要な提携】
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【上場開始】
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【沿革】【重要な提携】
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【過去の業績】
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【資本異動】
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「雅叙園観光」【沿革】
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「第三国人に売渡される雅叙園」
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第一章〜第二章
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「キャバレーの“防波堤”づくり」
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「留置場入り」
- 松尾国三『けたはずれ人生』1976年 第十三章「叩けばほこりが出るぞ」