スターツコーポレーション:千曲不動産の創業と仲介・建設・管理の三輪体制
千曲不動産の在庫ゼロ化からシンクス事業への転換
1969年〜大和銀行を脱サラした村石久二と、減給を承知で集まった同志
村石久二氏は、大和銀行の行員から不動産業の経営者へ転じた人物である。1969年に同行を退職し、東京都江戸川区で千曲不動産を個人創業した。独立するとき村石氏が目標に据えたのは「大手を飛び出したからには、必ず一部上場の大手企業にしたい」というものだった『大手を飛び出したからには、必ず一部上場の大手企業にしたい』。創業からの2年間、妻と2人で小規模な造成地を仕込んでは建売業者に渡す分譲地販売を営みながら、会社は銀行員と同じ感覚で運営し、一人ひとりの手柄より組織としての働きを重んじた。自ら家を建てて売るのではなく、建売業者の仕入れを代わりに担う立場から始めたのは、資本も土地も持たない個人に選べる道が、在庫を長く抱えずに回転させられる領域に限られていたからだと考えられる。
- 証券アナリストジャーナル 1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- [1]村石久二氏は勤めていた大和銀行を脱サラし、1969年に千曲不動産を個人で創業した
- [2]村石久二氏は勤めていた大和銀行を脱サラし、1969年に千曲不動産を個人で創業した
- [5]創業当初から銀行員と同じような感覚でやってきたとし、個人プレーよりもチームプレーを重視したと村石氏が述べている
- 村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)
- [3]独立当初から「大手を飛び出したからには、必ず一部上場の大手企業にしたい」という夢を持っていたと村石氏が述べている
- [4]1969年の創業からの2年間、主に建売業者向けの分譲地の販売、すなわち小さな造成地を手掛け、村石氏は妻と2人で経営していた
業容の広がりに応えて千曲不動産株式会社を東京都江戸川区一之江に設立し、1972年9月に株式会社へ改組した。設立に際して加わった仲間の多くは銀行など国内の一流企業を辞めてきた人たちで、村石氏が引き抜いたわけではなく、給料が減るのを承知で会社勤めを離れ、同志として参加した。1989年の時点でも全員が在籍を続けていた。村石氏によれば、彼らは出世だけが人の値打ちではないと考えて集まっており、業界のほかの会社とは価値観が違った。銀行出身者が相次いで入社するにつれ、事業は建売業者に土地を売る形から、自社で分譲住宅を建てて売る形へ移った。
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [6]1972年9月、業容拡大に対処して千曲不動産株式会社を東京都江戸川区一之江に設立した
- [7]1972年9月、業容拡大に対処して千曲不動産株式会社を東京都江戸川区一之江に設立した
- 証券アナリストジャーナル 1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- [8]株式会社改組時の仲間のほとんどは銀行など日本の一流企業を辞めて給料ダウン覚悟で合流した者で、1989年時点で全員が在籍していた
- [9]株式会社改組時の仲間のほとんどは銀行など日本の一流企業を辞めて給料ダウン覚悟で合流した者で、1989年時点で全員が在籍していた
- [10]株式会社改組時の仲間のほとんどは銀行など日本の一流企業を辞めて給料ダウン覚悟で合流した者で、1989年時点で全員が在籍していた
- 村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)
- [11]銀行出身の仲間が次々と入社するにしたがって、自社で建売(分譲住宅販売)を手掛けるようになった
人の集め方は、そのまま人事の方針として固まった。村石氏は業況がどれだけ良い時でも歩合制の社員や経験者を採用せず、親戚縁者も一切入れなかった。中途採用をできるだけ避けて1980年から新卒採用を続け、1989年には7,000人の応募があった。村石氏は好況の年でも伸びを2〜3割に抑え、『継続は力なり』と他に迷惑をかけないことを信条に挙げた『継続は力なり』。同業の不動産会社には、1年で1.5倍から2倍に売上を増やすところが珍しくなかった。顧客へどこまでも寄っていくには素人ばかりの集団こそ最良だとする感覚が村石氏の経営の底にあり、歩合を出さず成長も抑える仕組みは、売上を追い立てる力を組織の外に置く働きもした。
- 証券アナリストジャーナル 1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- [12]好況期でも歩合制社員・経験者を採用せず、親戚縁者を入れず、中途採用を避けて1980年から新卒採用を続け、1989年は応募が7,000人に達した
- [13]好況期でも歩合制社員・経験者を採用せず、親戚縁者を入れず、中途採用を避けて1980年から新卒採用を続け、1989年は応募が7,000人に達した
- [14]売上高が1.5〜2倍に伸びる会社が多い不動産業界にあって、同社は好況期でも売上高の伸びを2〜3割にとどめ、「継続は力なり」と他に迷惑をかけないことを信条とした
- [15]売上高が1.5〜2倍に伸びる会社が多い不動産業界にあって、同社は好況期でも売上高の伸びを2〜3割にとどめ、「継続は力なり」と他に迷惑をかけないことを信条とした
- [16]売上高が1.5〜2倍に伸びる会社が多い不動産業界にあって、同社は好況期でも売上高の伸びを2〜3割にとどめ、「継続は力なり」と他に迷惑をかけないことを信条とした
参考文献[1]-[16]
- 証券アナリストジャーナル 1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- [1]村石久二氏は勤めていた大和銀行を脱サラし、1969年に千曲不動産を個人で創業した
- [2]村石久二氏は勤めていた大和銀行を脱サラし、1969年に千曲不動産を個人で創業した
- [5]創業当初から銀行員と同じような感覚でやってきたとし、個人プレーよりもチームプレーを重視したと村石氏が述べている
- [8]株式会社改組時の仲間のほとんどは銀行など日本の一流企業を辞めて給料ダウン覚悟で合流した者で、1989年時点で全員が在籍していた
- [9]株式会社改組時の仲間のほとんどは銀行など日本の一流企業を辞めて給料ダウン覚悟で合流した者で、1989年時点で全員が在籍していた
- [10]株式会社改組時の仲間のほとんどは銀行など日本の一流企業を辞めて給料ダウン覚悟で合流した者で、1989年時点で全員が在籍していた
- [12]好況期でも歩合制社員・経験者を採用せず、親戚縁者を入れず、中途採用を避けて1980年から新卒採用を続け、1989年は応募が7,000人に達した
- [13]好況期でも歩合制社員・経験者を採用せず、親戚縁者を入れず、中途採用を避けて1980年から新卒採用を続け、1989年は応募が7,000人に達した
- [14]売上高が1.5〜2倍に伸びる会社が多い不動産業界にあって、同社は好況期でも売上高の伸びを2〜3割にとどめ、「継続は力なり」と他に迷惑をかけないことを信条とした
- [15]売上高が1.5〜2倍に伸びる会社が多い不動産業界にあって、同社は好況期でも売上高の伸びを2〜3割にとどめ、「継続は力なり」と他に迷惑をかけないことを信条とした
- [16]売上高が1.5〜2倍に伸びる会社が多い不動産業界にあって、同社は好況期でも売上高の伸びを2〜3割にとどめ、「継続は力なり」と他に迷惑をかけないことを信条とした
- 村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)
- [3]独立当初から「大手を飛び出したからには、必ず一部上場の大手企業にしたい」という夢を持っていたと村石氏が述べている
- [4]1969年の創業からの2年間、主に建売業者向けの分譲地の販売、すなわち小さな造成地を手掛け、村石氏は妻と2人で経営していた
- [11]銀行出身の仲間が次々と入社するにしたがって、自社で建売(分譲住宅販売)を手掛けるようになった
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [6]1972年9月、業容拡大に対処して千曲不動産株式会社を東京都江戸川区一之江に設立した
- [7]1972年9月、業容拡大に対処して千曲不動産株式会社を東京都江戸川区一之江に設立した
1973年〜オイルショックでの在庫ゼロ化と、東西線沿線を埋めた出店
創業から4年余りで、建売以外に太い稼ぎ口を持たない小さな会社が、その主力を自ら止めることになった。きっかけは1973年末のオイルショックで、自社建売へ移ったばかりの会社をまともに襲った。金融引き締めで金利が上がれば土地は売れなくなると村石氏は読み、手持ちの土地を残らず処分して仕入れの在庫を一掃し、建売をいったん止めた。そのうえで建売とは別の仕事でしのぎつつ、金融の緩和と地価の底入れを待った。止められたのは、歩合を払わず伸びも抑えていたため、売上が減っても人件費の収支が合う仕組みになっていたからであろう。
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [17]千曲建設の設立は1975年8月、千曲管理サービスの設立は1985年4月で、1973年時点では建売と仲介のほかに事業を持たなかった
- 村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)
- [18]1973年末のオイルショックに際し、金融引き締めで金利が上がれば土地が動かなくなると判断して保有地をすべて売却し、仕入在庫をゼロにして建売を一時停止し、地価が下がりきるのを待った
- [19]1973年末のオイルショックに際し、金融引き締めで金利が上がれば土地が動かなくなると判断して保有地をすべて売却し、仕入在庫をゼロにして建売を一時停止し、地価が下がりきるのを待った
- [20]1973年末のオイルショックに際し、金融引き締めで金利が上がれば土地が動かなくなると判断して保有地をすべて売却し、仕入在庫をゼロにして建売を一時停止し、地価が下がりきるのを待った
- [21]1973年末のオイルショックに際し、金融引き締めで金利が上がれば土地が動かなくなると判断して保有地をすべて売却し、仕入在庫をゼロにして建売を一時停止し、地価が下がりきるのを待った
土地の仕入れを再開したのは1975年である。建売を止めていた間、会社は造成地の販売など建売以外の仕事で食いつなぎ、地価が下がりきる時機を待っていた。他社に先駆けて積極的に土地を仕入れて建売を再開し、土地有効活用事業が始まる1980年まで建売住宅の全盛期が続いた。同じ1975年の8月には千曲建設を設立して施工の機能を自社の内に置き、10月には飲食業のセブンを設立した。1977年9月には初の支店として行徳店を開設し、千葉地区へ進出している。仕入を止めて待ち、底で買い直すやり方は、相場が戻らなければ止めた期間がそのまま機会の損失に変わる賭けでもあった。
- 村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)
- [22]1975年に他社に先駆けて積極的に土地を仕入れて建売を再開し、土地有効活用事業が始まる1980年まで建売住宅の全盛期が続いた
- [23]建売を止めていた期間は建売以外の仕事を手掛けながら、金融が緩み地価が下がりきるのを待った
- [24]1975年に他社に先駆けて積極的に土地を仕入れて建売を再開し、土地有効活用事業が始まる1980年まで建売住宅の全盛期が続いた
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [25]1975年8月に千曲建設を設立し、1975年10月に飲食業としてセブンを設立した
- [26]1975年8月に千曲建設を設立し、1975年10月に飲食業としてセブンを設立した
- [27]1977年9月に行徳店を開設して千葉地区へ進出した
店舗を増やした狙いは、売り場を広げることよりも地域の人の流れを掴むことにあった。入居者の斡旋からアパートの管理までを引き受ける事業の性格を踏まえ、村石氏は地域社会をよく知る多店舗展開が要ると判断した。1979年に習志野店と西葛西店を開き、同年12月には本店を江戸川区西葛西へ移した。以後は東西線沿線を埋める形で、1981年に南行徳店、1985年に浦安店、1986年に葛西店を置いた。西葛西と葛西は近く、どちらか一店で足りるという声もあったが、沿線を固めるために各駅ごとに出店した。千葉と埼玉にも1982年から1985年にかけて東船橋・せんげん台・松戸・足立・幕張本郷・みずほ台の各店を開いた。1986年には都営新宿線の開通に合わせ、江戸川区の船堀店を設けている。
- 村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)
- [28]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
- [29]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
- [30]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
- [32]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
- [33]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
- [34]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
- [35]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [31]1979年12月に本店を東京都江戸川区西葛西6丁目へ移転した
参考文献[17]-[35]
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [17]千曲建設の設立は1975年8月、千曲管理サービスの設立は1985年4月で、1973年時点では建売と仲介のほかに事業を持たなかった
- [25]1975年8月に千曲建設を設立し、1975年10月に飲食業としてセブンを設立した
- [26]1975年8月に千曲建設を設立し、1975年10月に飲食業としてセブンを設立した
- [27]1977年9月に行徳店を開設して千葉地区へ進出した
- [31]1979年12月に本店を東京都江戸川区西葛西6丁目へ移転した
- 村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)
- [18]1973年末のオイルショックに際し、金融引き締めで金利が上がれば土地が動かなくなると判断して保有地をすべて売却し、仕入在庫をゼロにして建売を一時停止し、地価が下がりきるのを待った
- [19]1973年末のオイルショックに際し、金融引き締めで金利が上がれば土地が動かなくなると判断して保有地をすべて売却し、仕入在庫をゼロにして建売を一時停止し、地価が下がりきるのを待った
- [20]1973年末のオイルショックに際し、金融引き締めで金利が上がれば土地が動かなくなると判断して保有地をすべて売却し、仕入在庫をゼロにして建売を一時停止し、地価が下がりきるのを待った
- [21]1973年末のオイルショックに際し、金融引き締めで金利が上がれば土地が動かなくなると判断して保有地をすべて売却し、仕入在庫をゼロにして建売を一時停止し、地価が下がりきるのを待った
- [22]1975年に他社に先駆けて積極的に土地を仕入れて建売を再開し、土地有効活用事業が始まる1980年まで建売住宅の全盛期が続いた
- [23]建売を止めていた期間は建売以外の仕事を手掛けながら、金融が緩み地価が下がりきるのを待った
- [24]1975年に他社に先駆けて積極的に土地を仕入れて建売を再開し、土地有効活用事業が始まる1980年まで建売住宅の全盛期が続いた
- [28]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
- [29]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
- [30]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
- [32]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
- [33]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
- [34]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
- [35]入居者斡旋からアパート管理まで担う事業の特徴から地域社会を知る多店舗展開が必要と判断し、1979年に習志野店・西葛西店、1981年に南行徳店、1982年に東船橋店・せんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年に浦安店・みずほ台店、1986年に葛西店・船堀店を開設した。西葛西・葛西間は近距離だが沿線を固めるため各駅に出店し、船堀は都営新宿線の開通期に合わせた
1980年〜土地有効活用事業と、千曲管理サービスによる賃貸管理の専業化
1980年、村石氏は土地有効活用事業を始めた。地主向けには雑誌「つち」を発行した。先祖から受け継いだ土地を守る人たちの思いに寄り添う事業でありたい、という考えによるものである。型としては、自社で土地を仕入れ建てて売るのをやめ、地主にアパートを建ててもらい、入居者の紹介から入居後の管理までを請け負うものだった。当初は賃貸の需要が伸びず厳しい時期が続いたものの、相手ごとに合わせて手をかける営業が評価されるにつれ、実績は積み上がった。1973年に在庫の重みを経験した会社にとって、在庫を抱えない型への移行は自然な流れだったと考えられる。
- 村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)
- [36]1980年に土地有効活用事業を開始し、土地所有者向けの雑誌『つち』を創刊した。当初は賃貸需要が伸びず厳しかったが、地域密着で一人ひとりに合わせた手づくりの営業が認められて実績を上げた
- [37]1980年に土地有効活用事業を開始し、土地所有者向けの雑誌『つち』を創刊した。当初は賃貸需要が伸びず厳しかったが、地域密着で一人ひとりに合わせた手づくりの営業が認められて実績を上げた
- [38]1980年に土地有効活用事業を開始し、土地所有者向けの雑誌『つち』を創刊した。当初は賃貸需要が伸びず厳しかったが、地域密着で一人ひとりに合わせた手づくりの営業が認められて実績を上げた
- [40]1980年に土地有効活用事業を開始し、土地所有者向けの雑誌『つち』を創刊した。当初は賃貸需要が伸びず厳しかったが、地域密着で一人ひとりに合わせた手づくりの営業が認められて実績を上げた
- 証券アナリストジャーナル 1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- [39]賃貸から分譲・中古・一般仲介・注文住宅・リフォーム・海外不動産までを手掛ける総合性を村石氏が自社の特色として挙げた
1985年4月、千曲管理サービスを設立し、アパートとマンションの管理を専門の会社へ移した。自社が建てたアパートは、入居斡旋から家賃の集金、入居者のクレーム処理までを一括で引き受けていた。物件が増えると、営業担当だけでは手が回らなくなった。管理を切り出せば、家賃のコンピューター管理に始まるシステム化と、管理戸数のスケールメリットによるコスト低減ができる。村石氏が引き合いに出したのはエレベーターである。一台700〜800万円の工事は作るだけなら利益がそこで終わり、定期的な保守で手数料が入れば月々の安定収入になる。1986年、管理物件がまだ6,000件ほどの時期にオンライン化へ着手した。
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [41]1985年4月に千曲管理サービスを設立した
- 村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)
- [42]物件増でサービスが行き届かなくなったためアパート・マンションの管理専門部署を作り、家賃のコンピューター管理とスケールメリットによるコスト低減を図った。工事は一度の利益で終わるが管理手数料は月々の安定収入になるとし、1986年に管理物件約6,000件の時期にオンライン導入へ着手した
- [43]物件増でサービスが行き届かなくなったためアパート・マンションの管理専門部署を作り、家賃のコンピューター管理とスケールメリットによるコスト低減を図った。工事は一度の利益で終わるが管理手数料は月々の安定収入になるとし、1986年に管理物件約6,000件の時期にオンライン導入へ着手した
- [44]物件増でサービスが行き届かなくなったためアパート・マンションの管理専門部署を作り、家賃のコンピューター管理とスケールメリットによるコスト低減を図った。工事は一度の利益で終わるが管理手数料は月々の安定収入になるとし、1986年に管理物件約6,000件の時期にオンライン導入へ着手した
- [45]物件増でサービスが行き届かなくなったためアパート・マンションの管理専門部署を作り、家賃のコンピューター管理とスケールメリットによるコスト低減を図った。工事は一度の利益で終わるが管理手数料は月々の安定収入になるとし、1986年に管理物件約6,000件の時期にオンライン導入へ着手した
- [46]物件増でサービスが行き届かなくなったためアパート・マンションの管理専門部署を作り、家賃のコンピューター管理とスケールメリットによるコスト低減を図った。工事は一度の利益で終わるが管理手数料は月々の安定収入になるとし、1986年に管理物件約6,000件の時期にオンライン導入へ着手した
- [47]物件増でサービスが行き届かなくなったためアパート・マンションの管理専門部署を作り、家賃のコンピューター管理とスケールメリットによるコスト低減を図った。工事は一度の利益で終わるが管理手数料は月々の安定収入になるとし、1986年に管理物件約6,000件の時期にオンライン導入へ着手した
1987年7月、千曲不動産はスターツへ商号を変え、千曲建設などの関係会社を吸収合併した。『千曲』は村石氏が生まれ育った長野県の千曲川に由来し、父の顔を知らずに母の手一つで育てられた自身の思いを込めた名であった。創業から15年を経て、会社は『街の不動産屋から中堅不動産企業へ』進もうとしていた『街の不動産屋から中堅不動産企業へ』。個人の郷愁だけを冠に置き続ければ社員が違和感を持つはずだと、村石氏は考えるようになった。呼称としては1984年9月に先んじてスターツへ改めており、法人の商号がこれに続いた。仲介・建設・管理を1社に集めて地主から見た窓口を一本にしたことが、この再編の実質であった。
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [48]1987年7月に千曲不動産株式会社がスターツ株式会社へ商号を変更し、株式会社千曲建設等を吸収合併した
- 村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)
- [49]社名の「千曲」は村石氏の郷里を流れる千曲川にちなみ、父を戦争で失い母に育てられた思いを込めた名で、創業15年を経て「街の不動産屋から中堅不動産企業へ」進む時期に社員皆の思いを冠にしたいと考えるようになった
- [50]社名の「千曲」は村石氏の郷里を流れる千曲川にちなみ、父を戦争で失い母に育てられた思いを込めた名で、創業15年を経て「街の不動産屋から中堅不動産企業へ」進む時期に社員皆の思いを冠にしたいと考えるようになった
- [51]社名の「千曲」は村石氏の郷里を流れる千曲川にちなみ、父を戦争で失い母に育てられた思いを込めた名で、創業15年を経て「街の不動産屋から中堅不動産企業へ」進む時期に社員皆の思いを冠にしたいと考えるようになった
- スターツグループ 公式サイト「沿革」
- [52]1984年9月にグループの呼称を「スターツ」へ変更した
村石氏がシンクス事業と呼んだのは、首都圏の地主と個々に交渉して保有する財産の管理を任せてもらう仕組みである。駐車場、アパート、コンビニエンスストア、商業ビル、マンションの建設を勧め、完成した物件を預かって管理する。1989年の時点で預かり資産は1兆5,000億円から1兆8,000億円にのぼっていた。地主は最低でも20億〜30億円、多い者は400億〜500億円の資産を持っていた。地主から土地を買わないこの型を、村石氏は不動産の流通革命と呼んだ。地主の信頼を得るには、社員が終身離職せず生涯の付き合いができる会社でなければならなかった。1988年10月には仲介店舗の屋号としてピタットハウスが動き出し、1989年5月、株式は日本証券業協会の店頭売買銘柄として登録された。
- 証券アナリストジャーナル 1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- [53]シンクス事業は首都圏の地主と個々に交渉して財産の管理を任せてもらう仕組みで、1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円、地主の資産は最低20億〜30億円、多い者で400億〜500億円だった。地主から土地を買わない型を不動産の流通革命と表現した
- [54]シンクス事業は首都圏の地主と個々に交渉して財産の管理を任せてもらう仕組みで、1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円、地主の資産は最低20億〜30億円、多い者で400億〜500億円だった。地主から土地を買わない型を不動産の流通革命と表現した
- [55]シンクス事業は首都圏の地主と個々に交渉して財産の管理を任せてもらう仕組みで、1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円、地主の資産は最低20億〜30億円、多い者で400億〜500億円だった。地主から土地を買わない型を不動産の流通革命と表現した
- [56]シンクス事業は首都圏の地主と個々に交渉して財産の管理を任せてもらう仕組みで、1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円、地主の資産は最低20億〜30億円、多い者で400億〜500億円だった。地主から土地を買わない型を不動産の流通革命と表現した
- [57]シンクス事業は首都圏の地主と個々に交渉して財産の管理を任せてもらう仕組みで、1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円、地主の資産は最低20億〜30億円、多い者で400億〜500億円だった。地主から土地を買わない型を不動産の流通革命と表現した
- [58]シンクス事業は首都圏の地主と個々に交渉して財産の管理を任せてもらう仕組みで、1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円、地主の資産は最低20億〜30億円、多い者で400億〜500億円だった。地主から土地を買わない型を不動産の流通革命と表現した
- スターツグループ 公式サイト「沿革」
- [59]1988年10月に総合不動産ショップ「ピタットハウス」が始動した
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [60]1989年5月に日本証券業協会の店頭売買銘柄として登録された
参考文献[36]-[60]
- 村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)
- [36]1980年に土地有効活用事業を開始し、土地所有者向けの雑誌『つち』を創刊した。当初は賃貸需要が伸びず厳しかったが、地域密着で一人ひとりに合わせた手づくりの営業が認められて実績を上げた
- [37]1980年に土地有効活用事業を開始し、土地所有者向けの雑誌『つち』を創刊した。当初は賃貸需要が伸びず厳しかったが、地域密着で一人ひとりに合わせた手づくりの営業が認められて実績を上げた
- [38]1980年に土地有効活用事業を開始し、土地所有者向けの雑誌『つち』を創刊した。当初は賃貸需要が伸びず厳しかったが、地域密着で一人ひとりに合わせた手づくりの営業が認められて実績を上げた
- [40]1980年に土地有効活用事業を開始し、土地所有者向けの雑誌『つち』を創刊した。当初は賃貸需要が伸びず厳しかったが、地域密着で一人ひとりに合わせた手づくりの営業が認められて実績を上げた
- [42]物件増でサービスが行き届かなくなったためアパート・マンションの管理専門部署を作り、家賃のコンピューター管理とスケールメリットによるコスト低減を図った。工事は一度の利益で終わるが管理手数料は月々の安定収入になるとし、1986年に管理物件約6,000件の時期にオンライン導入へ着手した
- [43]物件増でサービスが行き届かなくなったためアパート・マンションの管理専門部署を作り、家賃のコンピューター管理とスケールメリットによるコスト低減を図った。工事は一度の利益で終わるが管理手数料は月々の安定収入になるとし、1986年に管理物件約6,000件の時期にオンライン導入へ着手した
- [44]物件増でサービスが行き届かなくなったためアパート・マンションの管理専門部署を作り、家賃のコンピューター管理とスケールメリットによるコスト低減を図った。工事は一度の利益で終わるが管理手数料は月々の安定収入になるとし、1986年に管理物件約6,000件の時期にオンライン導入へ着手した
- [45]物件増でサービスが行き届かなくなったためアパート・マンションの管理専門部署を作り、家賃のコンピューター管理とスケールメリットによるコスト低減を図った。工事は一度の利益で終わるが管理手数料は月々の安定収入になるとし、1986年に管理物件約6,000件の時期にオンライン導入へ着手した
- [46]物件増でサービスが行き届かなくなったためアパート・マンションの管理専門部署を作り、家賃のコンピューター管理とスケールメリットによるコスト低減を図った。工事は一度の利益で終わるが管理手数料は月々の安定収入になるとし、1986年に管理物件約6,000件の時期にオンライン導入へ着手した
- [47]物件増でサービスが行き届かなくなったためアパート・マンションの管理専門部署を作り、家賃のコンピューター管理とスケールメリットによるコスト低減を図った。工事は一度の利益で終わるが管理手数料は月々の安定収入になるとし、1986年に管理物件約6,000件の時期にオンライン導入へ着手した
- [49]社名の「千曲」は村石氏の郷里を流れる千曲川にちなみ、父を戦争で失い母に育てられた思いを込めた名で、創業15年を経て「街の不動産屋から中堅不動産企業へ」進む時期に社員皆の思いを冠にしたいと考えるようになった
- [50]社名の「千曲」は村石氏の郷里を流れる千曲川にちなみ、父を戦争で失い母に育てられた思いを込めた名で、創業15年を経て「街の不動産屋から中堅不動産企業へ」進む時期に社員皆の思いを冠にしたいと考えるようになった
- [51]社名の「千曲」は村石氏の郷里を流れる千曲川にちなみ、父を戦争で失い母に育てられた思いを込めた名で、創業15年を経て「街の不動産屋から中堅不動産企業へ」進む時期に社員皆の思いを冠にしたいと考えるようになった
- 証券アナリストジャーナル 1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- [39]賃貸から分譲・中古・一般仲介・注文住宅・リフォーム・海外不動産までを手掛ける総合性を村石氏が自社の特色として挙げた
- [53]シンクス事業は首都圏の地主と個々に交渉して財産の管理を任せてもらう仕組みで、1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円、地主の資産は最低20億〜30億円、多い者で400億〜500億円だった。地主から土地を買わない型を不動産の流通革命と表現した
- [54]シンクス事業は首都圏の地主と個々に交渉して財産の管理を任せてもらう仕組みで、1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円、地主の資産は最低20億〜30億円、多い者で400億〜500億円だった。地主から土地を買わない型を不動産の流通革命と表現した
- [55]シンクス事業は首都圏の地主と個々に交渉して財産の管理を任せてもらう仕組みで、1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円、地主の資産は最低20億〜30億円、多い者で400億〜500億円だった。地主から土地を買わない型を不動産の流通革命と表現した
- [56]シンクス事業は首都圏の地主と個々に交渉して財産の管理を任せてもらう仕組みで、1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円、地主の資産は最低20億〜30億円、多い者で400億〜500億円だった。地主から土地を買わない型を不動産の流通革命と表現した
- [57]シンクス事業は首都圏の地主と個々に交渉して財産の管理を任せてもらう仕組みで、1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円、地主の資産は最低20億〜30億円、多い者で400億〜500億円だった。地主から土地を買わない型を不動産の流通革命と表現した
- [58]シンクス事業は首都圏の地主と個々に交渉して財産の管理を任せてもらう仕組みで、1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円、地主の資産は最低20億〜30億円、多い者で400億〜500億円だった。地主から土地を買わない型を不動産の流通革命と表現した
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [41]1985年4月に千曲管理サービスを設立した
- [48]1987年7月に千曲不動産株式会社がスターツ株式会社へ商号を変更し、株式会社千曲建設等を吸収合併した
- [60]1989年5月に日本証券業協会の店頭売買銘柄として登録された
- [52]1984年9月にグループの呼称を「スターツ」へ変更した
- [59]1988年10月に総合不動産ショップ「ピタットハウス」が始動した
筆者考察
不動産業でこの会社が珍しかったのは、伸びを自分から抑えたことである。村石久二氏は好況でも売上の伸びを2〜3割にとどめ、歩合制の社員も経験者も採らなかった。業界には1年で売上が1.5倍から2倍になる会社が並んでいたから、これは競争から一歩下がる選択にも見える。だが1973年末に保有地を全部売り払い、建売そのものを止められたのは、売上が落ちても人件費が跳ね返らない構造を平時から持っていたからだろう。伸びの上限を先に決めるとは、下振れの深さを先に決めることでもある。素人ばかりを新卒で採り、経験者を入れない人事も同じ設計の一部だろう。石油危機に際して効いたのは相場観よりも、平時の設計であった。伸びの速さではなく、止まれる強さを買った会社である。
1980年に始めた土地有効活用事業は、収益の出どころを在庫から関係へ移した。自ら土地を取得して建てて売る限り、利益は相場の当たり外れに従う。地主に建ててもらい、入居者を入れ、その後の管理まで引き受ければ、手数料は毎月入る。1985年に管理を千曲管理サービスへ切り出し、1986年には管理物件が6,000件ほどの段階でオンライン化に着手した。1989年、村石氏は預かり資産が1兆5,000億円から1兆8,000億円にのぼると語っている。自社の帳簿に土地を載せないまま、首都圏の地主の資産をそこまで抱えたことになる。不動産を持たずに不動産で稼ぐ会社が、ここで形になった。
- 行徳・習志野・西葛西・南行徳・東船橋・せんげん台・松戸・足立・幕張本郷・浦安・みずほ台・葛西・船堀の各店を開設年順に累計した値。
- 出所は村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)の記述。
出典・参考
4件
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- 村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)
- 証券アナリストジャーナル 1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- スターツグループ 公式サイト「沿革」