第1章 年〜年

南都銀行:六十八銀行など4行の合併による設立と大和貯蓄銀行の合併

1934年〜大蔵省が勧めた奈良県の4行合同と、依田忠一氏を初代頭取に発足した南都銀行

1928年1月施行の銀行法は最低資本金を定め、奈良県では無資格銀行に当たった十津川銀行が1932年1月に解散を決めた。大蔵省銀行検査官の原邦道氏が来県して合同を勧めた際、県内の意見は一行説・南北二行説・南中北三行説に分かれた。吉野銀行頭取の阪本仙次氏は一行説を唱え、六十八銀行頭取の嶋田平右衛門氏は二行論を示した。1933年7月には、大蔵省が同一地方に銀行が並ぶ場合には各行の内容が堅実でも合併を求める新方針を発表。同年11月には県下の普通銀行である六十八・吉野・八木・御所の4行へ一斉検査が入り、合併の話はこの検査を契機に動き出した。県内の意見が割れたままでも、大蔵省の検査が合同を前へ進めたとみられる。

  • 南都銀行五十年史(1985年) 第2節「南都銀行誕生」
    • [1]1933年7月大蔵省が銀行合同の新方針(同一地方の併存行は堅実でも合併を求める)。当時の県下普通銀行は六十八・吉野・八木・御所の4行。同年11月長谷川安次郎検査官が4行を検査。十津川銀行は銀行法上の無資格銀行となり1932年1月25日解散決議
    • [4]1933年7月大蔵省が銀行合同の新方針(同一地方の併存行は堅実でも合併を求める)。当時の県下普通銀行は六十八・吉野・八木・御所の4行。同年11月長谷川安次郎検査官が4行を検査。十津川銀行は銀行法上の無資格銀行となり1932年1月25日解散決議
    • [6]1933年7月大蔵省が銀行合同の新方針(同一地方の併存行は堅実でも合併を求める)。当時の県下普通銀行は六十八・吉野・八木・御所の4行。同年11月長谷川安次郎検査官が4行を検査。十津川銀行は銀行法上の無資格銀行となり1932年1月25日解散決議
  • 南都銀行小史(1984年) 「一県一行への気運」
    • [2]大蔵省の原邦道検査官が来県し銀行合同を奨励、県内の意見は一行説・南北二行説・南中北三行説に分かれ、阪本仙次(吉野銀行頭取)は一行説、六十八銀行頭取は二行論。1933年11月の4行検査が合併話の契機
    • [3]大蔵省の原邦道検査官が来県し銀行合同を奨励、県内の意見は一行説・南北二行説・南中北三行説に分かれ、阪本仙次(吉野銀行頭取)は一行説、六十八銀行頭取は二行論。1933年11月の4行検査が合併話の契機
    • [5]大蔵省の原邦道検査官が来県し銀行合同を奨励、県内の意見は一行説・南北二行説・南中北三行説に分かれ、阪本仙次(吉野銀行頭取)は一行説、六十八銀行頭取は二行論。1933年11月の4行検査が合併話の契機

1934年2月、4行の重役は京都に集まり、大蔵省検査官の長谷川安次郎氏の仲介による2日間の会談で合意した。2月11日に調印した合併仮契約は、4行がそろって解散し新銀行を設立する新設合併の方式をとった。資本金は1,350万円、本店は奈良市の六十八銀行本店とし、商号と役員の人選は大蔵省銀行局長に一任した。覚書で定めた役員は20名以内で、六十八8名・吉野5名・八木4名・御所3名の割当である。3月24日、銀行局長の大久保偵次氏は商号を南都銀行に選定したと各行に通知し、奈良が京都に対して南都と呼ばれた故事が名の由来となった。存続行を置かない方式は、規模の異なる4行の対等を保つためだったと推察される。

  • 南都銀行小史(1984年) 「合併仮契約」「新銀行名は南都銀行」
    • [7]1934年2月京都で4行重役会談、長谷川安次郎検査官の仲介で2日で合意し2月11日に仮契約・覚書調印。4行解散・新銀行設立、資本金1,350万円、本店は六十八銀行本店、商号と役員人選は銀行局長一任、役員20名以内(8・5・4・3)。3月24日付で大久保偵次銀行局長が南都銀行と選定し通知、奈良が南都と呼ばれたことによる
    • [8]1934年2月京都で4行重役会談、長谷川安次郎検査官の仲介で2日で合意し2月11日に仮契約・覚書調印。4行解散・新銀行設立、資本金1,350万円、本店は六十八銀行本店、商号と役員人選は銀行局長一任、役員20名以内(8・5・4・3)。3月24日付で大久保偵次銀行局長が南都銀行と選定し通知、奈良が南都と呼ばれたことによる
    • [10]1934年2月京都で4行重役会談、長谷川安次郎検査官の仲介で2日で合意し2月11日に仮契約・覚書調印。4行解散・新銀行設立、資本金1,350万円、本店は六十八銀行本店、商号と役員人選は銀行局長一任、役員20名以内(8・5・4・3)。3月24日付で大久保偵次銀行局長が南都銀行と選定し通知、奈良が南都と呼ばれたことによる
    • [11]1934年2月京都で4行重役会談、長谷川安次郎検査官の仲介で2日で合意し2月11日に仮契約・覚書調印。4行解散・新銀行設立、資本金1,350万円、本店は六十八銀行本店、商号と役員人選は銀行局長一任、役員20名以内(8・5・4・3)。3月24日付で大久保偵次銀行局長が南都銀行と選定し通知、奈良が南都と呼ばれたことによる
    • [12]1934年2月京都で4行重役会談、長谷川安次郎検査官の仲介で2日で合意し2月11日に仮契約・覚書調印。4行解散・新銀行設立、資本金1,350万円、本店は六十八銀行本店、商号と役員人選は銀行局長一任、役員20名以内(8・5・4・3)。3月24日付で大久保偵次銀行局長が南都銀行と選定し通知、奈良が南都と呼ばれたことによる
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「合併仮契約締結」「南都銀行と命名」
    • [9]1934年2月11日合併仮契約調印、合併実行期は同年6月1日の創立総会終了時。銀行局長から南都銀行と選定した旨の通知
    • [13]1934年2月11日合併仮契約調印、合併実行期は同年6月1日の創立総会終了時。銀行局長から南都銀行と選定した旨の通知

1934年6月1日、六十八銀行本店で南都銀行の創立総会が開かれ、設立委員を代表して依田忠一氏が設立の経過を報告した。代表取締役5人の互選により、六十八銀行頭取の依田忠一氏が初代頭取に選ばれた。頭取の有力候補とされた吉野銀行頭取の阪本仙次氏は、合併を目前にした5月5日に死去した。常務には4行から1人ずつが就任し、吉野銀行に割り振られたのは常任監査役の席である。新銀行は4行の本支店・出張所計113か店と職員769人をすべて引き継ぎ、職員は新規採用の形で迎えた。役員の席を4行に配分した布陣は、出自の異なる組織を一つにまとめるための配慮だったのだろう。

  • 南都銀行小史(1984年) 「創立総会」「職員と店舗」
    • [14]1934年6月1日六十八銀行本店で創立総会、本店に5部7係、依田忠一が設立委員代表として経過報告、代表取締役互選で頭取に依田忠一。有力候補の阪本仙次は5月5日死亡。常務は各行1人、吉野銀行に常任監査役。113か店・769人を引継ぎ(職員は新規採用の形)
    • [16]1934年6月1日六十八銀行本店で創立総会、本店に5部7係、依田忠一が設立委員代表として経過報告、代表取締役互選で頭取に依田忠一。有力候補の阪本仙次は5月5日死亡。常務は各行1人、吉野銀行に常任監査役。113か店・769人を引継ぎ(職員は新規採用の形)
    • [17]1934年6月1日六十八銀行本店で創立総会、本店に5部7係、依田忠一が設立委員代表として経過報告、代表取締役互選で頭取に依田忠一。有力候補の阪本仙次は5月5日死亡。常務は各行1人、吉野銀行に常任監査役。113か店・769人を引継ぎ(職員は新規採用の形)
    • [18]1934年6月1日六十八銀行本店で創立総会、本店に5部7係、依田忠一が設立委員代表として経過報告、代表取締役互選で頭取に依田忠一。有力候補の阪本仙次は5月5日死亡。常務は各行1人、吉野銀行に常任監査役。113か店・769人を引継ぎ(職員は新規採用の形)
    • [19]1934年6月1日六十八銀行本店で創立総会、本店に5部7係、依田忠一が設立委員代表として経過報告、代表取締役互選で頭取に依田忠一。有力候補の阪本仙次は5月5日死亡。常務は各行1人、吉野銀行に常任監査役。113か店・769人を引継ぎ(職員は新規採用の形)
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「合併仮契約締結」
    • [15]合併実行期は1934年6月1日の新銀行創立総会終了の時(仮契約第10条)、六十八銀行頭取は依田忠一
参考文献[1]-[19]
  • 南都銀行五十年史(1985年) 第2節「南都銀行誕生」
    • [1]1933年7月大蔵省が銀行合同の新方針(同一地方の併存行は堅実でも合併を求める)。当時の県下普通銀行は六十八・吉野・八木・御所の4行。同年11月長谷川安次郎検査官が4行を検査。十津川銀行は銀行法上の無資格銀行となり1932年1月25日解散決議
    • [4]1933年7月大蔵省が銀行合同の新方針(同一地方の併存行は堅実でも合併を求める)。当時の県下普通銀行は六十八・吉野・八木・御所の4行。同年11月長谷川安次郎検査官が4行を検査。十津川銀行は銀行法上の無資格銀行となり1932年1月25日解散決議
    • [6]1933年7月大蔵省が銀行合同の新方針(同一地方の併存行は堅実でも合併を求める)。当時の県下普通銀行は六十八・吉野・八木・御所の4行。同年11月長谷川安次郎検査官が4行を検査。十津川銀行は銀行法上の無資格銀行となり1932年1月25日解散決議
  • 南都銀行小史(1984年) 「一県一行への気運」
    • [2]大蔵省の原邦道検査官が来県し銀行合同を奨励、県内の意見は一行説・南北二行説・南中北三行説に分かれ、阪本仙次(吉野銀行頭取)は一行説、六十八銀行頭取は二行論。1933年11月の4行検査が合併話の契機
    • [3]大蔵省の原邦道検査官が来県し銀行合同を奨励、県内の意見は一行説・南北二行説・南中北三行説に分かれ、阪本仙次(吉野銀行頭取)は一行説、六十八銀行頭取は二行論。1933年11月の4行検査が合併話の契機
    • [5]大蔵省の原邦道検査官が来県し銀行合同を奨励、県内の意見は一行説・南北二行説・南中北三行説に分かれ、阪本仙次(吉野銀行頭取)は一行説、六十八銀行頭取は二行論。1933年11月の4行検査が合併話の契機
  • 南都銀行小史(1984年) 「合併仮契約」「新銀行名は南都銀行」
    • [7]1934年2月京都で4行重役会談、長谷川安次郎検査官の仲介で2日で合意し2月11日に仮契約・覚書調印。4行解散・新銀行設立、資本金1,350万円、本店は六十八銀行本店、商号と役員人選は銀行局長一任、役員20名以内(8・5・4・3)。3月24日付で大久保偵次銀行局長が南都銀行と選定し通知、奈良が南都と呼ばれたことによる
    • [8]1934年2月京都で4行重役会談、長谷川安次郎検査官の仲介で2日で合意し2月11日に仮契約・覚書調印。4行解散・新銀行設立、資本金1,350万円、本店は六十八銀行本店、商号と役員人選は銀行局長一任、役員20名以内(8・5・4・3)。3月24日付で大久保偵次銀行局長が南都銀行と選定し通知、奈良が南都と呼ばれたことによる
    • [10]1934年2月京都で4行重役会談、長谷川安次郎検査官の仲介で2日で合意し2月11日に仮契約・覚書調印。4行解散・新銀行設立、資本金1,350万円、本店は六十八銀行本店、商号と役員人選は銀行局長一任、役員20名以内(8・5・4・3)。3月24日付で大久保偵次銀行局長が南都銀行と選定し通知、奈良が南都と呼ばれたことによる
    • [11]1934年2月京都で4行重役会談、長谷川安次郎検査官の仲介で2日で合意し2月11日に仮契約・覚書調印。4行解散・新銀行設立、資本金1,350万円、本店は六十八銀行本店、商号と役員人選は銀行局長一任、役員20名以内(8・5・4・3)。3月24日付で大久保偵次銀行局長が南都銀行と選定し通知、奈良が南都と呼ばれたことによる
    • [12]1934年2月京都で4行重役会談、長谷川安次郎検査官の仲介で2日で合意し2月11日に仮契約・覚書調印。4行解散・新銀行設立、資本金1,350万円、本店は六十八銀行本店、商号と役員人選は銀行局長一任、役員20名以内(8・5・4・3)。3月24日付で大久保偵次銀行局長が南都銀行と選定し通知、奈良が南都と呼ばれたことによる
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「合併仮契約締結」「南都銀行と命名」
    • [9]1934年2月11日合併仮契約調印、合併実行期は同年6月1日の創立総会終了時。銀行局長から南都銀行と選定した旨の通知
    • [13]1934年2月11日合併仮契約調印、合併実行期は同年6月1日の創立総会終了時。銀行局長から南都銀行と選定した旨の通知
  • 南都銀行小史(1984年) 「創立総会」「職員と店舗」
    • [14]1934年6月1日六十八銀行本店で創立総会、本店に5部7係、依田忠一が設立委員代表として経過報告、代表取締役互選で頭取に依田忠一。有力候補の阪本仙次は5月5日死亡。常務は各行1人、吉野銀行に常任監査役。113か店・769人を引継ぎ(職員は新規採用の形)
    • [16]1934年6月1日六十八銀行本店で創立総会、本店に5部7係、依田忠一が設立委員代表として経過報告、代表取締役互選で頭取に依田忠一。有力候補の阪本仙次は5月5日死亡。常務は各行1人、吉野銀行に常任監査役。113か店・769人を引継ぎ(職員は新規採用の形)
    • [17]1934年6月1日六十八銀行本店で創立総会、本店に5部7係、依田忠一が設立委員代表として経過報告、代表取締役互選で頭取に依田忠一。有力候補の阪本仙次は5月5日死亡。常務は各行1人、吉野銀行に常任監査役。113か店・769人を引継ぎ(職員は新規採用の形)
    • [18]1934年6月1日六十八銀行本店で創立総会、本店に5部7係、依田忠一が設立委員代表として経過報告、代表取締役互選で頭取に依田忠一。有力候補の阪本仙次は5月5日死亡。常務は各行1人、吉野銀行に常任監査役。113か店・769人を引継ぎ(職員は新規採用の形)
    • [19]1934年6月1日六十八銀行本店で創立総会、本店に5部7係、依田忠一が設立委員代表として経過報告、代表取締役互選で頭取に依田忠一。有力候補の阪本仙次は5月5日死亡。常務は各行1人、吉野銀行に常任監査役。113か店・769人を引継ぎ(職員は新規採用の形)
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「合併仮契約締結」
    • [15]合併実行期は1934年6月1日の新銀行創立総会終了の時(仮契約第10条)、六十八銀行頭取は依田忠一

1935年〜産業貯蓄銀行の整理から生まれた大和貯蓄銀行と、兼営法で本体に戻した貯蓄業務

1935年6月3日、大蔵大臣は資産内容が悪く経常収支の赤字が続く産業貯蓄銀行に業務停止を命じた。奈良県知事は南都銀行頭取の依田忠一氏に整理の引き受けを要請し、南都銀行は1口30円以下の小口預金の支払いを引き受けた。県下に貯蓄銀行が事実上なくなったため、大蔵省は南都銀行の後援で新しい貯蓄銀行を立て、整理事務も担わせる案をまとめた。8月に出した内意伺いの商号「南都貯蓄銀行」に大蔵省が変更を求めた理由は、産業銀行の破綻を想起させることにある。12月21日には南都銀行本店で、依田忠一氏が頭取を兼ねる資本金100万円の大和貯蓄銀行の創立総会を開催。大和貯蓄銀行は1936年1月18日に奈良市の本店と6支店で開業した。

  • 南都銀行小史(1984年) 「大和貯蓄銀行の設立」
    • [20]1935年6月3日大蔵大臣が産業貯蓄銀行に業務停止命令(資産内容不良・経常赤字)。知事が依田忠一頭取に整理引受けを要請し、30円以下の預金を南都銀行が支払い。大蔵事務官が南都銀行後援の新貯蓄銀行案。8月10日内意伺いの「南都貯蓄銀行」は大蔵省が変更を指示。12月21日創立総会、資本金100万円、頭取依田忠一。1936年1月18日開業(6支店)
    • [22]1935年6月3日大蔵大臣が産業貯蓄銀行に業務停止命令(資産内容不良・経常赤字)。知事が依田忠一頭取に整理引受けを要請し、30円以下の預金を南都銀行が支払い。大蔵事務官が南都銀行後援の新貯蓄銀行案。8月10日内意伺いの「南都貯蓄銀行」は大蔵省が変更を指示。12月21日創立総会、資本金100万円、頭取依田忠一。1936年1月18日開業(6支店)
    • [24]1935年6月3日大蔵大臣が産業貯蓄銀行に業務停止命令(資産内容不良・経常赤字)。知事が依田忠一頭取に整理引受けを要請し、30円以下の預金を南都銀行が支払い。大蔵事務官が南都銀行後援の新貯蓄銀行案。8月10日内意伺いの「南都貯蓄銀行」は大蔵省が変更を指示。12月21日創立総会、資本金100万円、頭取依田忠一。1936年1月18日開業(6支店)
    • [26]1935年6月3日大蔵大臣が産業貯蓄銀行に業務停止命令(資産内容不良・経常赤字)。知事が依田忠一頭取に整理引受けを要請し、30円以下の預金を南都銀行が支払い。大蔵事務官が南都銀行後援の新貯蓄銀行案。8月10日内意伺いの「南都貯蓄銀行」は大蔵省が変更を指示。12月21日創立総会、資本金100万円、頭取依田忠一。1936年1月18日開業(6支店)
    • [27]1935年6月3日大蔵大臣が産業貯蓄銀行に業務停止命令(資産内容不良・経常赤字)。知事が依田忠一頭取に整理引受けを要請し、30円以下の預金を南都銀行が支払い。大蔵事務官が南都銀行後援の新貯蓄銀行案。8月10日内意伺いの「南都貯蓄銀行」は大蔵省が変更を指示。12月21日創立総会、資本金100万円、頭取依田忠一。1936年1月18日開業(6支店)
    • [29]1935年6月3日大蔵大臣が産業貯蓄銀行に業務停止命令(資産内容不良・経常赤字)。知事が依田忠一頭取に整理引受けを要請し、30円以下の預金を南都銀行が支払い。大蔵事務官が南都銀行後援の新貯蓄銀行案。8月10日内意伺いの「南都貯蓄銀行」は大蔵省が変更を指示。12月21日創立総会、資本金100万円、頭取依田忠一。1936年1月18日開業(6支店)
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「大和貯蓄銀行設立」
    • [21]産業貯蓄銀行に業務停止命令、小口預金の払戻しを南都銀行・大蔵省・県の三者で協議。県内に貯蓄銀行がなくなり新銀行設立、12月21日南都銀行本店で創立総会
    • [23]産業貯蓄銀行に業務停止命令、小口預金の払戻しを南都銀行・大蔵省・県の三者で協議。県内に貯蓄銀行がなくなり新銀行設立、12月21日南都銀行本店で創立総会
    • [25]産業貯蓄銀行に業務停止命令、小口預金の払戻しを南都銀行・大蔵省・県の三者で協議。県内に貯蓄銀行がなくなり新銀行設立、12月21日南都銀行本店で創立総会
    • [28]産業貯蓄銀行に業務停止命令、小口預金の払戻しを南都銀行・大蔵省・県の三者で協議。県内に貯蓄銀行がなくなり新銀行設立、12月21日南都銀行本店で創立総会

1943年3月、普通銀行に貯蓄銀行業務の兼営を認める法律が公布され、5月20日に施行された。政府の狙いは、普通銀行の店舗網で大衆の預金を吸収し、国民貯蓄の増強につなげることにあり、南都銀行は同年8月に貯蓄銀行業務を始めた。全国で普通銀行への合同が進んだのは、資金運用に規制のある単独の貯蓄銀行が兼営の普通銀行より不利になったためである。南都銀行と大和貯蓄銀行は11月10日に合併契約に調印し、1944年2月10日に合併を実行した。大和貯蓄銀行の本店と生駒・下市の両支店は近くの南都銀行の本支店に、郡山・丹波市・桜井・高田の4支店は南都銀行の支店に引き継がれた。

  • 南都銀行小史(1984年) 「大和貯蓄銀行を合併」
    • [30]1943年3月兼営法公布・5月20日施行、普通銀行の店舗網で大衆預金を吸収し国民貯蓄増強をはかる政府のねらい。貯蓄銀行は資金運用規制で不利となり合同が進む。1943年11月10日合併契約調印、1944年2月10日合併実行、4支店を継承(本店と生駒・下市支店は最寄りの本支店に継承)、企画部・貯蓄部新設
    • [31]1943年3月兼営法公布・5月20日施行、普通銀行の店舗網で大衆預金を吸収し国民貯蓄増強をはかる政府のねらい。貯蓄銀行は資金運用規制で不利となり合同が進む。1943年11月10日合併契約調印、1944年2月10日合併実行、4支店を継承(本店と生駒・下市支店は最寄りの本支店に継承)、企画部・貯蓄部新設
    • [33]1943年3月兼営法公布・5月20日施行、普通銀行の店舗網で大衆預金を吸収し国民貯蓄増強をはかる政府のねらい。貯蓄銀行は資金運用規制で不利となり合同が進む。1943年11月10日合併契約調印、1944年2月10日合併実行、4支店を継承(本店と生駒・下市支店は最寄りの本支店に継承)、企画部・貯蓄部新設
    • [34]1943年3月兼営法公布・5月20日施行、普通銀行の店舗網で大衆預金を吸収し国民貯蓄増強をはかる政府のねらい。貯蓄銀行は資金運用規制で不利となり合同が進む。1943年11月10日合併契約調印、1944年2月10日合併実行、4支店を継承(本店と生駒・下市支店は最寄りの本支店に継承)、企画部・貯蓄部新設
    • [36]1943年3月兼営法公布・5月20日施行、普通銀行の店舗網で大衆預金を吸収し国民貯蓄増強をはかる政府のねらい。貯蓄銀行は資金運用規制で不利となり合同が進む。1943年11月10日合併契約調印、1944年2月10日合併実行、4支店を継承(本店と生駒・下市支店は最寄りの本支店に継承)、企画部・貯蓄部新設
  • 南都銀行 有価証券報告書「沿革」
    • [32]1943年8月貯蓄銀行業務開始、1944年2月大和貯蓄銀行を合併
    • [35]1943年8月貯蓄銀行業務開始、1944年2月大和貯蓄銀行を合併
参考文献[20]-[36]
  • 南都銀行小史(1984年) 「大和貯蓄銀行の設立」
    • [20]1935年6月3日大蔵大臣が産業貯蓄銀行に業務停止命令(資産内容不良・経常赤字)。知事が依田忠一頭取に整理引受けを要請し、30円以下の預金を南都銀行が支払い。大蔵事務官が南都銀行後援の新貯蓄銀行案。8月10日内意伺いの「南都貯蓄銀行」は大蔵省が変更を指示。12月21日創立総会、資本金100万円、頭取依田忠一。1936年1月18日開業(6支店)
    • [22]1935年6月3日大蔵大臣が産業貯蓄銀行に業務停止命令(資産内容不良・経常赤字)。知事が依田忠一頭取に整理引受けを要請し、30円以下の預金を南都銀行が支払い。大蔵事務官が南都銀行後援の新貯蓄銀行案。8月10日内意伺いの「南都貯蓄銀行」は大蔵省が変更を指示。12月21日創立総会、資本金100万円、頭取依田忠一。1936年1月18日開業(6支店)
    • [24]1935年6月3日大蔵大臣が産業貯蓄銀行に業務停止命令(資産内容不良・経常赤字)。知事が依田忠一頭取に整理引受けを要請し、30円以下の預金を南都銀行が支払い。大蔵事務官が南都銀行後援の新貯蓄銀行案。8月10日内意伺いの「南都貯蓄銀行」は大蔵省が変更を指示。12月21日創立総会、資本金100万円、頭取依田忠一。1936年1月18日開業(6支店)
    • [26]1935年6月3日大蔵大臣が産業貯蓄銀行に業務停止命令(資産内容不良・経常赤字)。知事が依田忠一頭取に整理引受けを要請し、30円以下の預金を南都銀行が支払い。大蔵事務官が南都銀行後援の新貯蓄銀行案。8月10日内意伺いの「南都貯蓄銀行」は大蔵省が変更を指示。12月21日創立総会、資本金100万円、頭取依田忠一。1936年1月18日開業(6支店)
    • [27]1935年6月3日大蔵大臣が産業貯蓄銀行に業務停止命令(資産内容不良・経常赤字)。知事が依田忠一頭取に整理引受けを要請し、30円以下の預金を南都銀行が支払い。大蔵事務官が南都銀行後援の新貯蓄銀行案。8月10日内意伺いの「南都貯蓄銀行」は大蔵省が変更を指示。12月21日創立総会、資本金100万円、頭取依田忠一。1936年1月18日開業(6支店)
    • [29]1935年6月3日大蔵大臣が産業貯蓄銀行に業務停止命令(資産内容不良・経常赤字)。知事が依田忠一頭取に整理引受けを要請し、30円以下の預金を南都銀行が支払い。大蔵事務官が南都銀行後援の新貯蓄銀行案。8月10日内意伺いの「南都貯蓄銀行」は大蔵省が変更を指示。12月21日創立総会、資本金100万円、頭取依田忠一。1936年1月18日開業(6支店)
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「大和貯蓄銀行設立」
    • [21]産業貯蓄銀行に業務停止命令、小口預金の払戻しを南都銀行・大蔵省・県の三者で協議。県内に貯蓄銀行がなくなり新銀行設立、12月21日南都銀行本店で創立総会
    • [23]産業貯蓄銀行に業務停止命令、小口預金の払戻しを南都銀行・大蔵省・県の三者で協議。県内に貯蓄銀行がなくなり新銀行設立、12月21日南都銀行本店で創立総会
    • [25]産業貯蓄銀行に業務停止命令、小口預金の払戻しを南都銀行・大蔵省・県の三者で協議。県内に貯蓄銀行がなくなり新銀行設立、12月21日南都銀行本店で創立総会
    • [28]産業貯蓄銀行に業務停止命令、小口預金の払戻しを南都銀行・大蔵省・県の三者で協議。県内に貯蓄銀行がなくなり新銀行設立、12月21日南都銀行本店で創立総会
  • 南都銀行小史(1984年) 「大和貯蓄銀行を合併」
    • [30]1943年3月兼営法公布・5月20日施行、普通銀行の店舗網で大衆預金を吸収し国民貯蓄増強をはかる政府のねらい。貯蓄銀行は資金運用規制で不利となり合同が進む。1943年11月10日合併契約調印、1944年2月10日合併実行、4支店を継承(本店と生駒・下市支店は最寄りの本支店に継承)、企画部・貯蓄部新設
    • [31]1943年3月兼営法公布・5月20日施行、普通銀行の店舗網で大衆預金を吸収し国民貯蓄増強をはかる政府のねらい。貯蓄銀行は資金運用規制で不利となり合同が進む。1943年11月10日合併契約調印、1944年2月10日合併実行、4支店を継承(本店と生駒・下市支店は最寄りの本支店に継承)、企画部・貯蓄部新設
    • [33]1943年3月兼営法公布・5月20日施行、普通銀行の店舗網で大衆預金を吸収し国民貯蓄増強をはかる政府のねらい。貯蓄銀行は資金運用規制で不利となり合同が進む。1943年11月10日合併契約調印、1944年2月10日合併実行、4支店を継承(本店と生駒・下市支店は最寄りの本支店に継承)、企画部・貯蓄部新設
    • [34]1943年3月兼営法公布・5月20日施行、普通銀行の店舗網で大衆預金を吸収し国民貯蓄増強をはかる政府のねらい。貯蓄銀行は資金運用規制で不利となり合同が進む。1943年11月10日合併契約調印、1944年2月10日合併実行、4支店を継承(本店と生駒・下市支店は最寄りの本支店に継承)、企画部・貯蓄部新設
    • [36]1943年3月兼営法公布・5月20日施行、普通銀行の店舗網で大衆預金を吸収し国民貯蓄増強をはかる政府のねらい。貯蓄銀行は資金運用規制で不利となり合同が進む。1943年11月10日合併契約調印、1944年2月10日合併実行、4支店を継承(本店と生駒・下市支店は最寄りの本支店に継承)、企画部・貯蓄部新設
  • 南都銀行 有価証券報告書「沿革」
    • [32]1943年8月貯蓄銀行業務開始、1944年2月大和貯蓄銀行を合併
    • [35]1943年8月貯蓄銀行業務開始、1944年2月大和貯蓄銀行を合併

1945年〜再建整備を終えて達成した預金100億円と、赤坂頼磨氏への頭取交代

1946年夏に政府は戦時補償の打ち切りを決め、南都銀行は8月11日午前0時現在で資産と負債を新旧勘定に分けた。新勘定には現金・国債・地方債の健全な資産と、新円預金・第1封鎖預金の負債を移した。評価替えの結果、確定損は6,191万円となり、資本金の9割に加えて第2封鎖預金の16%を切り捨てた。県内に軍需産業が少なかったため、南都銀行の切捨率は全国平均の約4分の1で済んだ。1948年3月31日付の90%減資で資本金は110万円となり、同月末に最終処理を終えて4月1日に新旧勘定を合併。続く増資で資本金は3,700万円となり、旧勘定の回収益は1953年から預金者と株主へ分配した。

  • 南都銀行小史(1984年) 「再建整備」
    • [37]1946年8月11日午前零時現在で新旧勘定分離、確定損6,191万円で資本金の9割と第2封鎖預金の16%を切捨て、軍需産業が少なく切捨率は全国平均の約4分の1。1948年3月末最終処理完了・4月1日新旧勘定合併、増資で資本金3,700万円、調整勘定の利益を1953年3月から預金者・株主へ分配
    • [39]1946年8月11日午前零時現在で新旧勘定分離、確定損6,191万円で資本金の9割と第2封鎖預金の16%を切捨て、軍需産業が少なく切捨率は全国平均の約4分の1。1948年3月末最終処理完了・4月1日新旧勘定合併、増資で資本金3,700万円、調整勘定の利益を1953年3月から預金者・株主へ分配
    • [40]1946年8月11日午前零時現在で新旧勘定分離、確定損6,191万円で資本金の9割と第2封鎖預金の16%を切捨て、軍需産業が少なく切捨率は全国平均の約4分の1。1948年3月末最終処理完了・4月1日新旧勘定合併、増資で資本金3,700万円、調整勘定の利益を1953年3月から預金者・株主へ分配
    • [41]1946年8月11日午前零時現在で新旧勘定分離、確定損6,191万円で資本金の9割と第2封鎖預金の16%を切捨て、軍需産業が少なく切捨率は全国平均の約4分の1。1948年3月末最終処理完了・4月1日新旧勘定合併、増資で資本金3,700万円、調整勘定の利益を1953年3月から預金者・株主へ分配
    • [42]1946年8月11日午前零時現在で新旧勘定分離、確定損6,191万円で資本金の9割と第2封鎖預金の16%を切捨て、軍需産業が少なく切捨率は全国平均の約4分の1。1948年3月末最終処理完了・4月1日新旧勘定合併、増資で資本金3,700万円、調整勘定の利益を1953年3月から預金者・株主へ分配
    • [44]1946年8月11日午前零時現在で新旧勘定分離、確定損6,191万円で資本金の9割と第2封鎖預金の16%を切捨て、軍需産業が少なく切捨率は全国平均の約4分の1。1948年3月末最終処理完了・4月1日新旧勘定合併、増資で資本金3,700万円、調整勘定の利益を1953年3月から預金者・株主へ分配
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「南都銀行の再建整備」
    • [38]1946年に戦時補償打切り、8月11日の封鎖預金区分。1948年3月31日付で90%減資し資本金110万円、再建整備法に基づく増資で3,700万円
    • [43]1946年に戦時補償打切り、8月11日の封鎖預金区分。1948年3月31日付で90%減資し資本金110万円、再建整備法に基づく増資で3,700万円
    • [45]1946年に戦時補償打切り、8月11日の封鎖預金区分。1948年3月31日付で90%減資し資本金110万円、再建整備法に基づく増資で3,700万円

戦後の預金増強で中心となったのは、1949年6月20日に取り扱いを始めた割増金付きの福禄定期預金である。福禄定期は各地の抽せん会で人気を得て、14年余りの累計募集額は1,012億2,000万円に達した。1952年5月末、南都銀行の総預金残高は100億円を超えた。これを機に常務取締役の赤坂頼磨氏らが発起し、同年8月に定年退職した部次長・支店長級以上の者でつくる南友会が発足した。人の採り方は1949年12月の方針に基づき1950年から随時採用を定時採用へ改め、各店任せだった新入行員の指導を本店での集合研修に移したのは1953年からである。預金の規模が増すにつれ、各店ごとの採用と指導では行員の水準をそろえにくくなったと思われる。

  • 南都銀行小史(1984年) 「新種預金の創設」「定時採用へ」「研修」
    • [46]福禄定期預金を1949年6月20日から取扱い、14年余の累計募集額1,012億2,000万円。1949年12月の新規行員採用方針で1950年から定時採用、新入行員の本店集合研修は1953年から、1951年9月開講の地銀協銀行講座へ毎回2人派遣
    • [47]福禄定期預金を1949年6月20日から取扱い、14年余の累計募集額1,012億2,000万円。1949年12月の新規行員採用方針で1950年から定時採用、新入行員の本店集合研修は1953年から、1951年9月開講の地銀協銀行講座へ毎回2人派遣
    • [50]福禄定期預金を1949年6月20日から取扱い、14年余の累計募集額1,012億2,000万円。1949年12月の新規行員採用方針で1950年から定時採用、新入行員の本店集合研修は1953年から、1951年9月開講の地銀協銀行講座へ毎回2人派遣
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「南友会発足」
    • [48]1952年5月末の総預金残高が100億円を突破。これを機に常務取締役赤坂頼磨・常任監査役馬場善発の発起で、同年8月に定年退職した部次長・支店長級以上の者による南友会を組織
    • [49]1952年5月末の総預金残高が100億円を突破。これを機に常務取締役赤坂頼磨・常任監査役馬場善発の発起で、同年8月に定年退職した部次長・支店長級以上の者による南友会を組織

1956年8月5日、22年にわたり頭取を務めた依田忠一氏が77歳で死去した。8月22日の重役会は、専務取締役の赤坂頼磨氏の頭取昇格を全会一致で決めた。赤坂頼磨氏は1947年10月に取締役兼常務、1953年11月に専務へ就任した事務方の役員だった。後任決定まで半月余りを要したのは、地方銀行の頭取は地方の株主から出すべきだとして赤坂頼磨氏が固辞したためである。就任後、赤坂頼磨氏は『銀行はお得意先の番頭である』という信条を掲げ、従業員一人ひとりが頭取であるとも説いた。株主出身でない事務方の頭取の誕生は、地域開発に合わせて店舗網を整える次の時代の起点になったと考えられる。

  • 南都銀行小史(1984年) 「依田頭取から赤坂頭取へ」
    • [51]1956年8月5日依田忠一死去(77歳)、8月22日の重役会で赤坂頼磨専務の頭取昇格を全会一致で決定。遅れは赤坂の固辞(地方銀行の頭取は地方の株主から)。初代頭取として大和貯蓄銀行頭取も兼任。信条「銀行はお得意先の番頭である」「従業員は一人ひとりが頭取である」
    • [53]1956年8月5日依田忠一死去(77歳)、8月22日の重役会で赤坂頼磨専務の頭取昇格を全会一致で決定。遅れは赤坂の固辞(地方銀行の頭取は地方の株主から)。初代頭取として大和貯蓄銀行頭取も兼任。信条「銀行はお得意先の番頭である」「従業員は一人ひとりが頭取である」
    • [55]1956年8月5日依田忠一死去(77歳)、8月22日の重役会で赤坂頼磨専務の頭取昇格を全会一致で決定。遅れは赤坂の固辞(地方銀行の頭取は地方の株主から)。初代頭取として大和貯蓄銀行頭取も兼任。信条「銀行はお得意先の番頭である」「従業員は一人ひとりが頭取である」
    • [56]1956年8月5日依田忠一死去(77歳)、8月22日の重役会で赤坂頼磨専務の頭取昇格を全会一致で決定。遅れは赤坂の固辞(地方銀行の頭取は地方の株主から)。初代頭取として大和貯蓄銀行頭取も兼任。信条「銀行はお得意先の番頭である」「従業員は一人ひとりが頭取である」
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「依田初代頭取の死去と赤坂頭取の就任」
    • [52]依田忠一1956年8月5日死去。赤坂頼磨は1947年10月25日取締役・常務、1953年11月5日専務
    • [54]依田忠一1956年8月5日死去。赤坂頼磨は1947年10月25日取締役・常務、1953年11月5日専務
参考文献[37]-[56]
  • 南都銀行小史(1984年) 「再建整備」
    • [37]1946年8月11日午前零時現在で新旧勘定分離、確定損6,191万円で資本金の9割と第2封鎖預金の16%を切捨て、軍需産業が少なく切捨率は全国平均の約4分の1。1948年3月末最終処理完了・4月1日新旧勘定合併、増資で資本金3,700万円、調整勘定の利益を1953年3月から預金者・株主へ分配
    • [39]1946年8月11日午前零時現在で新旧勘定分離、確定損6,191万円で資本金の9割と第2封鎖預金の16%を切捨て、軍需産業が少なく切捨率は全国平均の約4分の1。1948年3月末最終処理完了・4月1日新旧勘定合併、増資で資本金3,700万円、調整勘定の利益を1953年3月から預金者・株主へ分配
    • [40]1946年8月11日午前零時現在で新旧勘定分離、確定損6,191万円で資本金の9割と第2封鎖預金の16%を切捨て、軍需産業が少なく切捨率は全国平均の約4分の1。1948年3月末最終処理完了・4月1日新旧勘定合併、増資で資本金3,700万円、調整勘定の利益を1953年3月から預金者・株主へ分配
    • [41]1946年8月11日午前零時現在で新旧勘定分離、確定損6,191万円で資本金の9割と第2封鎖預金の16%を切捨て、軍需産業が少なく切捨率は全国平均の約4分の1。1948年3月末最終処理完了・4月1日新旧勘定合併、増資で資本金3,700万円、調整勘定の利益を1953年3月から預金者・株主へ分配
    • [42]1946年8月11日午前零時現在で新旧勘定分離、確定損6,191万円で資本金の9割と第2封鎖預金の16%を切捨て、軍需産業が少なく切捨率は全国平均の約4分の1。1948年3月末最終処理完了・4月1日新旧勘定合併、増資で資本金3,700万円、調整勘定の利益を1953年3月から預金者・株主へ分配
    • [44]1946年8月11日午前零時現在で新旧勘定分離、確定損6,191万円で資本金の9割と第2封鎖預金の16%を切捨て、軍需産業が少なく切捨率は全国平均の約4分の1。1948年3月末最終処理完了・4月1日新旧勘定合併、増資で資本金3,700万円、調整勘定の利益を1953年3月から預金者・株主へ分配
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「南都銀行の再建整備」
    • [38]1946年に戦時補償打切り、8月11日の封鎖預金区分。1948年3月31日付で90%減資し資本金110万円、再建整備法に基づく増資で3,700万円
    • [43]1946年に戦時補償打切り、8月11日の封鎖預金区分。1948年3月31日付で90%減資し資本金110万円、再建整備法に基づく増資で3,700万円
    • [45]1946年に戦時補償打切り、8月11日の封鎖預金区分。1948年3月31日付で90%減資し資本金110万円、再建整備法に基づく増資で3,700万円
  • 南都銀行小史(1984年) 「新種預金の創設」「定時採用へ」「研修」
    • [46]福禄定期預金を1949年6月20日から取扱い、14年余の累計募集額1,012億2,000万円。1949年12月の新規行員採用方針で1950年から定時採用、新入行員の本店集合研修は1953年から、1951年9月開講の地銀協銀行講座へ毎回2人派遣
    • [47]福禄定期預金を1949年6月20日から取扱い、14年余の累計募集額1,012億2,000万円。1949年12月の新規行員採用方針で1950年から定時採用、新入行員の本店集合研修は1953年から、1951年9月開講の地銀協銀行講座へ毎回2人派遣
    • [50]福禄定期預金を1949年6月20日から取扱い、14年余の累計募集額1,012億2,000万円。1949年12月の新規行員採用方針で1950年から定時採用、新入行員の本店集合研修は1953年から、1951年9月開講の地銀協銀行講座へ毎回2人派遣
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「南友会発足」
    • [48]1952年5月末の総預金残高が100億円を突破。これを機に常務取締役赤坂頼磨・常任監査役馬場善発の発起で、同年8月に定年退職した部次長・支店長級以上の者による南友会を組織
    • [49]1952年5月末の総預金残高が100億円を突破。これを機に常務取締役赤坂頼磨・常任監査役馬場善発の発起で、同年8月に定年退職した部次長・支店長級以上の者による南友会を組織
  • 南都銀行小史(1984年) 「依田頭取から赤坂頭取へ」
    • [51]1956年8月5日依田忠一死去(77歳)、8月22日の重役会で赤坂頼磨専務の頭取昇格を全会一致で決定。遅れは赤坂の固辞(地方銀行の頭取は地方の株主から)。初代頭取として大和貯蓄銀行頭取も兼任。信条「銀行はお得意先の番頭である」「従業員は一人ひとりが頭取である」
    • [53]1956年8月5日依田忠一死去(77歳)、8月22日の重役会で赤坂頼磨専務の頭取昇格を全会一致で決定。遅れは赤坂の固辞(地方銀行の頭取は地方の株主から)。初代頭取として大和貯蓄銀行頭取も兼任。信条「銀行はお得意先の番頭である」「従業員は一人ひとりが頭取である」
    • [55]1956年8月5日依田忠一死去(77歳)、8月22日の重役会で赤坂頼磨専務の頭取昇格を全会一致で決定。遅れは赤坂の固辞(地方銀行の頭取は地方の株主から)。初代頭取として大和貯蓄銀行頭取も兼任。信条「銀行はお得意先の番頭である」「従業員は一人ひとりが頭取である」
    • [56]1956年8月5日依田忠一死去(77歳)、8月22日の重役会で赤坂頼磨専務の頭取昇格を全会一致で決定。遅れは赤坂の固辞(地方銀行の頭取は地方の株主から)。初代頭取として大和貯蓄銀行頭取も兼任。信条「銀行はお得意先の番頭である」「従業員は一人ひとりが頭取である」
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「依田初代頭取の死去と赤坂頭取の就任」
    • [52]依田忠一1956年8月5日死去。赤坂頼磨は1947年10月25日取締役・常務、1953年11月5日専務
    • [54]依田忠一1956年8月5日死去。赤坂頼磨は1947年10月25日取締役・常務、1953年11月5日専務

出典・参考

16件
出典・参考
  • 南都銀行 有価証券報告書「沿革」
  • 南都銀行五十年史(1985年) 第2節「南都銀行誕生」
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「合併仮契約締結」「南都銀行と命名」
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「合併仮契約締結」
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「大和貯蓄銀行設立」
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「南都銀行の再建整備」
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「南友会発足」
  • 南都銀行五十年史(1985年) 「依田初代頭取の死去と赤坂頭取の就任」
  • 南都銀行小史(1984年) 「一県一行への気運」
  • 南都銀行小史(1984年) 「合併仮契約」「新銀行名は南都銀行」
  • 南都銀行小史(1984年) 「創立総会」「職員と店舗」
  • 南都銀行小史(1984年) 「大和貯蓄銀行の設立」
  • 南都銀行小史(1984年) 「大和貯蓄銀行を合併」
  • 南都銀行小史(1984年) 「再建整備」
  • 南都銀行小史(1984年) 「新種預金の創設」「定時採用へ」「研修」
  • 南都銀行小史(1984年) 「依田頭取から赤坂頭取へ」

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