ミツウロコグループホールディングス:田島達策氏のカネイチ運送店の開業
1886年〜新町駅前の塩納屋に掲げたカネイチの看板と、間口12間の倉庫
田島達策氏は1886年10月、高崎線新町駅前の塩納屋を取得して運送店を開業した。1883年7月に専修学校法律科を卒業したのちも進路は定まらず、翌1884年に新町の家の養子となった。開業の契機は、養家にいたことのある秋山氏による運送業開店の相談。新町は高崎線の駅として物資の集散が多く、亡父の取引地で土地勘もあった。看板には神田村の本家の屋号にちなむ「カネイチ」を掲げ、『一は万物の始なり、創業は即ち一からだ、陽気の発するところ金石も亦透る、精神一到何事か成らざらんや』と縁起を重ねて名づけた。独立の初陣に、人脈と荷の両方が見込める土地を選んだとみられる。
- ミツウロコ五十年史(1976年)コマ19-23
- [1]1886年10月、新町駅前の塩納屋を買い運送店を開く
- [2]1883年7月専修学校法律科卒業、目標は定まらず。1884年新町の某家の養子となる
- [3]養家先にいた秋山が運送業開店の相談を持ちかけ、田島達策が応じる
- [4]新町は高崎線の一駅で物資の集散が多く、亡父の取引地
- [5]本家の屋号にちなみカネイチの看板を掲げ、語呂と縁起で名づける
カネイチ運送店には開業直後から荷が集まり、下滝の天田家と玉村の井田家という親類筋の後押しも加わった。空き地に急造した納屋は屋根が掛からないうちに荷で埋まり、田島達策氏は地続きの土地を借りて倉庫の建設に着手した。敷地の制約で倉庫は間口12間・奥行き4間となり、「死に倉」に通じる四二倉として周囲の反対を受けた。着工の翌年2月には田島達策氏が無理から急性肺炎を患い、重態に陥った。病を建築のせいだとする声に対し、田島達策氏は『迷信に拘泥する者に、大業は成しがたい』として工事を進めさせた。病の全快後に倉庫は竣工し、仕事はさらに好調となって利潤も増えた。縁起より荷の量という目の前の事実を優先した判断と思われる。
- ミツウロコ五十年史(1976年)コマ19-23
- [6]開業早々から繁忙、下滝の天田・玉村の井田など親類筋の助け
- [7]空き地に急造した納屋が屋根のできぬうちに荷で充満、地続きの土地を借り倉庫建設に着手
- [8]倉庫は間口12間・奥行4間の四二倉(死に倉)で周囲が反対
- [9]翌年2月、風邪から急性肺炎となり重態
- [10]建築のせいだと騒がれたが建築を進めさせた
- [11]病気全快、倉庫竣工、仕事一層好調で利潤増加
新町の店の採算が安定すると、田島達策氏はかねて考えていた東京進出に動いた。直接のきっかけは下谷の上武運送店から届いた助勢の依頼。田島達策氏は新町の店を秋山氏に任せ、上武運送店の社長として東京へ移った。しかし経営とは別の込み入った事情が絡み、約1年で上武運送店の社長を退任した。上武運送店での縁から天田家の世話を受け、安中町の須藤家の二女やす子氏と結婚して浅草清島町に住まいを構えた。1年での撤退は失敗に終わったものの、東京に生活の拠点を据える足場にはなったのだろう。
- ミツウロコ五十年史(1976年)コマ19-23
- [12]順調な発展の中で東京進出を考えていた
- [13]下谷の上武運送店から助勢を請う申し出
- [14]新町の店を秋山に任せ、上武運送店の社長として出京
- [15]経営上の問題とは別の複雑な事情があり、1年ほどで手を引く
- [16]これが機縁となり天田家の世話で安中町須藤氏の二女やす子と結婚、浅草清島町に一戸を構える
参考文献[1]-[16]
- ミツウロコ五十年史(1976年)コマ19-23
- [1]1886年10月、新町駅前の塩納屋を買い運送店を開く
- [2]1883年7月専修学校法律科卒業、目標は定まらず。1884年新町の某家の養子となる
- [3]養家先にいた秋山が運送業開店の相談を持ちかけ、田島達策が応じる
- [4]新町は高崎線の一駅で物資の集散が多く、亡父の取引地
- [5]本家の屋号にちなみカネイチの看板を掲げ、語呂と縁起で名づける
- [6]開業早々から繁忙、下滝の天田・玉村の井田など親類筋の助け
- [7]空き地に急造した納屋が屋根のできぬうちに荷で充満、地続きの土地を借り倉庫建設に着手
- [8]倉庫は間口12間・奥行4間の四二倉(死に倉)で周囲が反対
- [9]翌年2月、風邪から急性肺炎となり重態
- [10]建築のせいだと騒がれたが建築を進めさせた
- [11]病気全快、倉庫竣工、仕事一層好調で利潤増加
- [12]順調な発展の中で東京進出を考えていた
- [13]下谷の上武運送店から助勢を請う申し出
- [14]新町の店を秋山に任せ、上武運送店の社長として出京
- [15]経営上の問題とは別の複雑な事情があり、1年ほどで手を引く
- [16]これが機縁となり天田家の世話で安中町須藤氏の二女やす子と結婚、浅草清島町に一戸を構える
1892年〜資金繰りが悪化した三鱗運送店東京支店の引き受けと、直江津まで延ばした支店網
1892年春、田島達策氏は三鱗運送店東京支店の経営を引き受け、名を三鱗社と改めた。三鱗の名は、鮮度が要る魚類を運ぶために水谷・矢島・梶山の3運送店が高崎駅前に設けた三鱗運送店に由来する。東京支店を開設した三鱗運送店の主任は、資金不足による行き詰まりの打開を田島達策氏に相談した。当初は一部の援助にとどめるつもりだったものの、のちに全部の引き受けを求められて応じた。三鱗の本店は神田区佐久間町一丁目19番地に置かれた。他人の資金難を、東京で自らの店を持つ機会に転じた引き受けと推察される。
- ミツウロコ五十年史(1976年)コマ19-23
- [17]1892年春、引き受けて名を三鱗社と改める
- [18]高崎の三鱗運送店は魚類輸送のため水谷・矢島・梶山の三運送店が別に設けた店。主任が東京に支店を開く
- [19]東京支店の主任から資金不足による経営の行き詰まり打開の相談
- [20]少しの援助のつもりが、のちに全部の引き受けを申し込まれ引き受ける
- 『風俗画報・新東京名所図会』1900年(ミツウロコ五十年史 1976年 所収)
- [21]三鱗本店は神田区佐久間町一丁目十九番地、田島達策の設けた貨物運送業
三鱗は高崎・横川・軽井沢・直江津に支店を設け、ついで長岡・新潟へ線を延ばした。各支店をつないだ早着主義の「三鱗飛行便」は、上州から信州、さらに越後へと荷主と消費者の支持を広げた。1894年には陸軍被服廠の仕事を手がけ、営業報告は黒字が続いた。1895年8月に会社組織へ移り、三鱗合資会社への改称。資本金は5万円で、日本橋区大伝馬町に支店、元四日市町に出張所を置いた。1905年には陸軍糧秣廠から入札指名を受けて落札し、業績をさらに高めた。
- ミツウロコ五十年史(1976年)コマ19-23
- [22]高崎・横川・軽井沢・直江津に支店、ついで長岡・新潟
- [23]早着主義の三鱗飛行便が上州から信州、越後へと荷主・消費者の喝采を博す
- [24]1894年陸軍被服廠の仕事を手がける。営業報告は黒字つづき
- [25]1895年8月会社組織とし三鱗合資会社と改称
- [27]1905年陸軍糧秣廠から入札指名、落札し業績を高める
- 『風俗画報・新東京名所図会』1900年(ミツウロコ五十年史 1976年 所収)
- [26]1895年8月創立、資本金5万円、日本橋区大伝馬町に支店、元四日市町に出張所
参考文献[17]-[27]
- ミツウロコ五十年史(1976年)コマ19-23
- [17]1892年春、引き受けて名を三鱗社と改める
- [18]高崎の三鱗運送店は魚類輸送のため水谷・矢島・梶山の三運送店が別に設けた店。主任が東京に支店を開く
- [19]東京支店の主任から資金不足による経営の行き詰まり打開の相談
- [20]少しの援助のつもりが、のちに全部の引き受けを申し込まれ引き受ける
- [22]高崎・横川・軽井沢・直江津に支店、ついで長岡・新潟
- [23]早着主義の三鱗飛行便が上州から信州、越後へと荷主・消費者の喝采を博す
- [24]1894年陸軍被服廠の仕事を手がける。営業報告は黒字つづき
- [25]1895年8月会社組織とし三鱗合資会社と改称
- [27]1905年陸軍糧秣廠から入札指名、落札し業績を高める
- 『風俗画報・新東京名所図会』1900年(ミツウロコ五十年史 1976年 所収)
- [21]三鱗本店は神田区佐久間町一丁目十九番地、田島達策の設けた貨物運送業
- [26]1895年8月創立、資本金5万円、日本橋区大伝馬町に支店、元四日市町に出張所
出典・参考
2件
- 『風俗画報・新東京名所図会』1900年(ミツウロコ五十年史 1976年 所収)
- ミツウロコ五十年史(1976年)コマ19-23