第2章 年〜年

住友商事:10年超の長期案件を避ける方針と経常利益率業界1位

植村光雄の決裁4基準から経常利益率首位へ

1973年〜後発の商権の薄さと自己資本を限度にした案件選別

住友商事が案件を選ぶ最後の物差しは、失敗しても損失が自己資本で吸収できるかどうかで、これほど厳しい基準の根は同社の生い立ちにあった。商社を禁じてきた財閥から戦後に生まれた同社は、住友系メーカーに実力を疑われ、仕事を得るには自ら頭を下げて回る必要があったと津田久氏は語っている。体力を超えた取引に出ない会社として社外にも知られ、たたいた石橋でも渡らない商社と呼ばれた。グループで浮利を追わずという住友の家訓を日頃口にしていたのは住友商事だけで、無理を重ねて失敗すればやはり商社など不要だったと言われかねないことを、同社は戒めとし続けたという。

  • 日経ビジネス 1981年11月16日号
    • [1]事業失敗時のリスクが自己資本の範囲内であるかどうかを案件可否の最終基準とした
    • [2]津田久の回想/住友系メーカーから無能呼ばわりされ頭を下げて仕事をもらう必要があった
    • [4]住友の家訓「浮利を追わず」をグループ各社のうち日常的に口にするのは住友商事だけ
    • [5]失敗すれば商社設立そのものを否定されるため自らを戒め続けたとの津田久の述懐
  • 国際資源 1976年「資源問題の民間リーダーたち(7) 住友商事会長 津田久氏」
    • [3]無理な一発勝負を避ける堅実経営/「石橋をたたいても渡らない商社」の評

先進国の市場は先発商社がすでに商権を押さえており、後発が割り込む余地はあまりなかった。そこで住友商事が足場を築いたのは、中東や共産圏のようにリスクの高い地域であり、戦時下のイラクへはグループ外のトヨタ自動車の車だけで年6万台を送り出した。円切り上げに先立ち、業界で最初に円建ての商社契約方式を取り入れた船舶の取引は、当時こそ思い切ったものと見られたが、のちに業界上位の売上を稼ぐ輸送機部門の起点となった。住友金属工業のように、戦前は三井物産に輸出を任せていたメーカーが住友商事へ乗り換える例もあり、グループの支えを受けながら自立も進んだ。グループ各社向けの取引が売上高に占める割合は1976年3月期に19%あったが、その後は下がり続け、1981年3月期の16%で三菱商事・三井物産の14%弱とほとんど変わらない水準になった。

  • 日経ビジネス 1981年11月16日号
    • [6]先進国市場では先発商社がすでに強固な商権を確保していた
    • [7]後発の住商が後から入っていけたのは中東や共産圏などリスクの多い市場ばかりだった
    • [8]戦時下のイラクへグループ外のトヨタ車だけで年6万台を輸出
    • [9]円切り上げを前に業界で初めて円建て商社契約方式を導入/船舶部門躍進の契機
    • [11]住友グループ各社との取引比率 1976年3月期19%→1981年3月期16%/三菱商事・三井物産は14%弱
  • Decide 1988年4月号
    • [10]住友金属工業は戦前の輸出を三井物産に任せていたが住商発足後は漸次住商へ切り換え

住友グループの事業は別子銅山の開発から始まったが、その別子銅山が閉山に追い込まれ、グループとして資源開発との縁が切れた。鉱山課長として別子の経営に加わった津田久氏は、形は違っても資源開発に触れていたいという考えから、社長時代に訪米して耳にした海洋開発へ社内の資源を割いた。社長室に世界の実情を調べさせて潜水作業技術と海洋作業台の二つを事業の対象に選び、1968年には十大商社で唯一の独立組織となる海洋開発部を置いた。1973年には丸紅・日商岩井とともに資本金300億円の日本深海鉱産を設立し、深海底のマンガン団塊の採取を米国・カナダ・西独の企業グループとの国際コンソーシアムで事業化する計画を立てる。だが深海底の資源を人類共有の財産とみる開発途上国の主張から国連海洋法会議での調整が続き、開発作業は棚上げとなった。大型の資源案件をめぐっては、三菱商事のブルネイ開発を引く反省と、三井物産の失敗を引く現実肯定とに役員が割れる状態が社内に残った。

  • 国際資源 1976年「資源問題の民間リーダーたち(7) 住友商事会長 津田久氏」
    • [12]住友グループの歴史は別子銅山の開発に始まるが別子銅山の閉鎖でグループとして資源開発と手が切れた
    • [13]津田久は鉱山課長として別子銅山の経営に参加/社長時代に訪米して海洋開発を知り社長室へ調査を命じた
    • [14]潜水作業技術と海洋作業台の2テーマを選定/1968年 海洋開発部を設置・十大商社で唯一の独立組織
    • [15]1973年 日本深海鉱産を設立/資本金300億円・丸紅と日商岩井が参加・マンガン団塊の国際コンソーシアム構想
    • [16]深海底開発は開発途上国の主張により国際機関設立の方向で調整が続き開発作業は棚上げ
  • 日経ビジネス 1981年11月16日号
    • [17]商社主導の大型プロジェクトをめぐり住商の役員は三菱商事のブルネイ開発を引く反省型と三井物産のIJPCの失敗を引く現実肯定型に二分されていた
参考文献[1]-[17]
  • 日経ビジネス 1981年11月16日号
    • [1]事業失敗時のリスクが自己資本の範囲内であるかどうかを案件可否の最終基準とした
    • [2]津田久の回想/住友系メーカーから無能呼ばわりされ頭を下げて仕事をもらう必要があった
    • [4]住友の家訓「浮利を追わず」をグループ各社のうち日常的に口にするのは住友商事だけ
    • [5]失敗すれば商社設立そのものを否定されるため自らを戒め続けたとの津田久の述懐
    • [6]先進国市場では先発商社がすでに強固な商権を確保していた
    • [7]後発の住商が後から入っていけたのは中東や共産圏などリスクの多い市場ばかりだった
    • [8]戦時下のイラクへグループ外のトヨタ車だけで年6万台を輸出
    • [9]円切り上げを前に業界で初めて円建て商社契約方式を導入/船舶部門躍進の契機
    • [11]住友グループ各社との取引比率 1976年3月期19%→1981年3月期16%/三菱商事・三井物産は14%弱
    • [17]商社主導の大型プロジェクトをめぐり住商の役員は三菱商事のブルネイ開発を引く反省型と三井物産のIJPCの失敗を引く現実肯定型に二分されていた
  • 国際資源 1976年「資源問題の民間リーダーたち(7) 住友商事会長 津田久氏」
    • [3]無理な一発勝負を避ける堅実経営/「石橋をたたいても渡らない商社」の評
    • [12]住友グループの歴史は別子銅山の開発に始まるが別子銅山の閉鎖でグループとして資源開発と手が切れた
    • [13]津田久は鉱山課長として別子銅山の経営に参加/社長時代に訪米して海洋開発を知り社長室へ調査を命じた
    • [14]潜水作業技術と海洋作業台の2テーマを選定/1968年 海洋開発部を設置・十大商社で唯一の独立組織
    • [15]1973年 日本深海鉱産を設立/資本金300億円・丸紅と日商岩井が参加・マンガン団塊の国際コンソーシアム構想
    • [16]深海底開発は開発途上国の主張により国際機関設立の方向で調整が続き開発作業は棚上げ
  • Decide 1988年4月号
    • [10]住友金属工業は戦前の輸出を三井物産に任せていたが住商発足後は漸次住商へ切り換え

1975年〜住商エレクトロニクスとシームレスパイプによる収益源の入れ替え

商材の入れ替えは1970年代半ばに始まった。1975年12月には住商エレクトロニクスを東京に設け、情報・電子機器の取扱いに足場を築いた。同じ1975年には、北米でマツダ向けの自動車販売にも着手している。1976年5月には住友金属工業と共同で、サウジアラビア向けのシームレスパイプに投資した。大手鉄鋼メーカーの営業担当者の証言によれば、住友商事は同じ鉄鋼部門の中でも、住友金属工業の看板商品にあたる鋼管を担う部署に、とりわけ優れた人材を集めていたという。1978年7月には英文社名をSUMITOMO CORPORATIONに改めた。国内で流通する鋼材はメーカー側が価格を握る商材だが、油井向けの継目無鋼管と北米の自動車は、価格形成に関与できる数少ない事業だった。

  • 住友商事 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1975年12月 住商エレクトロニクスを東京に設立
    • [22]1978年7月 英文社名をSUMITOMO CORPORATIONへ変更
  • 住友商事社史
    • [19]1975年 北米でマツダ向けの自動車販売を開始
  • 産業と経済 1976年6月号
    • [20]1976年5月 住友金属工業と共同でシームレスパイプへ投資/サウジアラビア向け
  • 日経ビジネス 1981年11月16日号
    • [21]住商は同じ鉄鋼部門でも住金の看板商品である鋼管の担当へ優秀な人材を集中との大手鉄鋼メーカー営業担当の証言

1977年6月、植村光雄氏が社長に就任した。植村氏は1936年に京都帝国大学法学部を卒業して住友合資に入り、1946年に日本建設産業へ移った後、1953年に業務部長となった人物である。終戦直後の主計課では予算制度を作り、審査制度も自らの手で整えた。就任前から、業界上位3社入りを意味するビッグ・スリーが目標に掲げられていたが、植村氏はここにベスト・ワンという目標を加えた。企業を測るうえで最も重視すべきは体力と利益であるという考えによる。決裁の基準は四つ置かれた。調査が十分であるか、筋の通った話であるか、採算がとれるか、そして採算に乗らなくても手がけるべき事業であれば、結果が裏目に出た場合でも体力の範囲で償却しきれるか、である。ここから、完了まで10年を超える案件には取り組まないという原則が導かれた。下から上がってくる案件には否と答える場合のほうが多く、社内で植村氏は融通が利かないと評されていた。

  • 日経ビジネス 1977年8月1日号
    • [23]1977年6月 植村光雄が社長に就任
    • [24]植村光雄 1936年3月 京都帝国大学法学部卒・住友合資入社/1946年 日本建設産業へ/1953年 業務部長/戦後すぐ主計課で予算制度と審査制度を創設
    • [29]案件の決裁ではノーと言う場合が多く社内で「植村はかたい」と評された
  • 日経ビジネス 1981年11月16日号
    • [25]就任前からの目標「ビッグ・スリー」に社長就任後「ベスト・ワン」を追加
    • [26]企業は何よりも体力と利益でみなければならないという植村光雄の考え
    • [27]植村光雄の決裁基準4点/調査の十分さ・スジの通った話か・採算・採算が合わなくとも体力の範囲内で償却できるか
    • [28]10年以上の長期プロジェクトには手を出さないことを原則とした

積極路線への転換は、組織の改造という形でも現れた。1979年6月には商品本部を鉄鋼・機電・非鉄化燃・生活物資の4営業部門に再編した。それまで堅実主義を体現してきた強大な審査部はここで解体され、四つの統括部門それぞれに審査の機能を分散して持たせることになった。社内には営業を担う者が管理も兼ねるべきではないという考え方があったため、この改革は大きな転換だと受け止められた。結果は数字にも表れている。1981年3月期の売上高は9兆6,551億円で、前期の7兆6,006億円から27.0%増え、業界4位の丸紅に急速に迫った。一方、口銭にあたる粗利益率は1.59%と前期より0.24ポイント下がり、過去10年間で最低の水準となったばかりか、上位5社の中でも最も低かった。この間、利幅の薄い三国間貿易が71.4%も増えている。立ち遅れた海外の取引で商いの機会をつかもうとする意欲の表れでもあった。

  • 住友商事 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1979年6月 営業部門制を導入/商品本部を鉄鋼・機電・非鉄化燃・生活物資の4営業部門へ再編
  • 日経ビジネス 1981年11月16日号
    • [31]1979年の機構改革で審査部を分解し4つの統括部門それぞれに審査機能を付与
    • [32]「営業する者、管理すべからず」の思想があり機構改革は社内で一大転換と受け止められた
    • [34]1981年3月期 売上高27.0%増で丸紅を急追/粗利益率1.59%・前期比0.24ポイント低下・過去10年間の最低かつ上位5社中最低
    • [35]マージン率の低い三国間貿易が71.4%増加
  • 会社年鑑(1976年版・1986年版)
    • [33]単体売上高 1980年3月期7兆6,006億円→1981年3月期9兆6,551億円
参考文献[18]-[35]
  • 住友商事 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1975年12月 住商エレクトロニクスを東京に設立
    • [22]1978年7月 英文社名をSUMITOMO CORPORATIONへ変更
    • [30]1979年6月 営業部門制を導入/商品本部を鉄鋼・機電・非鉄化燃・生活物資の4営業部門へ再編
  • 住友商事社史
    • [19]1975年 北米でマツダ向けの自動車販売を開始
  • 産業と経済 1976年6月号
    • [20]1976年5月 住友金属工業と共同でシームレスパイプへ投資/サウジアラビア向け
  • 日経ビジネス 1981年11月16日号
    • [21]住商は同じ鉄鋼部門でも住金の看板商品である鋼管の担当へ優秀な人材を集中との大手鉄鋼メーカー営業担当の証言
    • [25]就任前からの目標「ビッグ・スリー」に社長就任後「ベスト・ワン」を追加
    • [26]企業は何よりも体力と利益でみなければならないという植村光雄の考え
    • [27]植村光雄の決裁基準4点/調査の十分さ・スジの通った話か・採算・採算が合わなくとも体力の範囲内で償却できるか
    • [28]10年以上の長期プロジェクトには手を出さないことを原則とした
    • [31]1979年の機構改革で審査部を分解し4つの統括部門それぞれに審査機能を付与
    • [32]「営業する者、管理すべからず」の思想があり機構改革は社内で一大転換と受け止められた
    • [34]1981年3月期 売上高27.0%増で丸紅を急追/粗利益率1.59%・前期比0.24ポイント低下・過去10年間の最低かつ上位5社中最低
    • [35]マージン率の低い三国間貿易が71.4%増加
  • 日経ビジネス 1977年8月1日号
    • [23]1977年6月 植村光雄が社長に就任
    • [24]植村光雄 1936年3月 京都帝国大学法学部卒・住友合資入社/1946年 日本建設産業へ/1953年 業務部長/戦後すぐ主計課で予算制度と審査制度を創設
    • [29]案件の決裁ではノーと言う場合が多く社内で「植村はかたい」と評された
  • 会社年鑑(1976年版・1986年版)
    • [33]単体売上高 1980年3月期7兆6,006億円→1981年3月期9兆6,551億円

1981年〜経常利益率0.38%の首位と内国比率66.5%の国内基盤

売上の順位では業界4位を追う位置にありながら、利益率では首位に立った。1981年3月期の経常利益は294億円、経常利益率は0.38%で商社の1位を占めている。上位5社の中で、住友商事の有利子負債は売上高に対して最も軽かった。長短の借入金、割引手形、社債を合計すると9,100億円で、売上高比は0.94%と、三菱商事1.39%、丸紅1.48%、三井物産1.89%をいずれも下回った。資産に抱える含み損が他社よりはるかに少なかったのは、焦げつきの出た債権を毎期ためらわず処理してきたからである。1980年6月に続いて1981年9月にも、4,000万株を公募で増資した。ただし投資の規模は小さく、1981年3月末の投資残高は約1,264億円と三井物産の3分の1、1980年度のプラント成約高も2,000億円で三菱商事の3分の1にとどまった。

  • 会社年鑑(1976年版・1986年版)
    • [36]1981年3月期 単体経常利益294.95億円
  • 日経ビジネス 1981年11月16日号
    • [37]1981年3月期 経常利益率0.38%で業界1位
    • [38]1981年3月期 有利子負債9,100億円・売上高比0.94%/三菱商事1.39%・丸紅1.48%・伊藤忠商事1.54%・三井物産1.89%
    • [39]焦げついた不良債権を毎期積極的に償却し資産の含み損が他社より少ない
    • [40]1980年6月と1981年9月に4,000万株の公募/自己資本比率6.5%前後で三菱商事にほぼ並ぶ見込み
    • [41]1981年3月末の投資残高 約1,264億円(三井物産の約3分の1)/1980年度のプラント成約高2,000億円(三菱商事の3分の1)・1件平均10億円台

収益の源は狭かった。収益基盤は鉄鋼と輸送機の部門にあり、残る3分の2の部門はまったく儲からないと伊藤正副社長は認めている。その鉄鋼と輸送機の主力商材も住友金属工業のシームレスパイプと東洋工業を中心とする自動車の輸出であり、原油市場と貿易摩擦の動向に左右される不安定さを抱えていた。部門別の利益構成は1977年3月期の金属39%・機械26%・化学品16%から、1981年3月期には金属37%・機械24%・化学品21%へ移り、売上構成比では同じ期に機械・電機が鉄鋼を抜いた。輸送機では1981年2月に住商オートリースを設立し、自動車リースへ踏み出している。男子社員は4,350人・平均年齢38.6歳で、三菱商事の5,973人・39.0歳、三井物産の6,769人・39.7歳に比べれば規模も経験の蓄積もなお小さかった。

  • 日経ビジネス 1981年11月16日号
    • [42]収益基盤は鉄鋼と輸送機部門/その他3分の2の部門は儲からないとの伊藤正副社長の発言
    • [43]鉄鋼・輸送機の稼ぎ頭は住金のシームレスパイプと東洋工業中心の自動車輸出/原油市場と貿易摩擦に左右される
    • [44]部門別利益構成 1977年3月期 金属39%・機械26%・化学品16%/1981年3月期 金属37%・機械24%・化学品21%
    • [45]1981年3月期の部門別売上構成比で機械・電機が鉄鋼を上回った
    • [47]男子社員数と平均年齢 住友商事4,350人38.6歳・三菱商事5,973人39.0歳・三井物産6,769人39.7歳
  • 住友商事 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1981年2月 住商オートリースを東京に設立/自動車リース事業への参入

順位を押し上げたのは海外ではなく国内の取引だった。1987年3月期の売上高は12兆923億円で前年度比13.8%増となり、円高と一次産品価格の下落で三菱商事と三井物産が減少するなか、業界2位へ進んだ。取引業態別では国内6兆2,222億円と輸入2兆3,591億円を合わせた内国比率が66.5%に達して商社のなかで最も高く、三国間は1兆2,822億円で9商社中6位にとどまる。国内の川下では、提携先の米セーフウェイから打ち切りを通告されたあと生鮮食料品の科学的な管理方式を独自に編み出した全額出資のサミットストアが、店舗数50・売上高約650億円へ育っていた。分身会社の住商リースは1983年11月に大阪証券取引所市場第二部へ上場した。1986年3月期からの米国証券取引法方式では連結売上高13兆604億円で4位となり、実質上の外国間売上高は296億円と9商社中で最も低い。単体2位と連結4位の差が、国内で積んだ順位の内訳を示していた。

  • Decide 1988年4月号
    • [48]1987年3月期 売上高12兆923億円・前年度比13.8%増で業界2位/円高と一次産品価格下落で三菱商事・三井物産は落ち込み
    • [49]1987年3月期 取引業態別 輸出3兆597億円・輸入2兆3,591億円・三国間1兆2,822億円(9商社中6位)・国内6兆2,222億円/内国比率66.5%で商社中最高
    • [50]サミットストアは住商100%出資/1960年代末に提携先セーフウェイが業務提携を打ち切り独自に生鮮食料品の科学的管理方式を確立/店舗数50・売上高約650億円
    • [52]1986年3月期からSEC方式の連結決算を導入/1987年3月期 連結子会社39社・持分法適用201社・連結売上高13兆604億円で4位/実質上の外国間売上高296億円は9商社中最低
  • 住友商事 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1983年11月 住商リースが大阪証券取引所市場第二部に上場
参考文献[36]-[52]
  • 会社年鑑(1976年版・1986年版)
    • [36]1981年3月期 単体経常利益294.95億円
  • 日経ビジネス 1981年11月16日号
    • [37]1981年3月期 経常利益率0.38%で業界1位
    • [38]1981年3月期 有利子負債9,100億円・売上高比0.94%/三菱商事1.39%・丸紅1.48%・伊藤忠商事1.54%・三井物産1.89%
    • [39]焦げついた不良債権を毎期積極的に償却し資産の含み損が他社より少ない
    • [40]1980年6月と1981年9月に4,000万株の公募/自己資本比率6.5%前後で三菱商事にほぼ並ぶ見込み
    • [41]1981年3月末の投資残高 約1,264億円(三井物産の約3分の1)/1980年度のプラント成約高2,000億円(三菱商事の3分の1)・1件平均10億円台
    • [42]収益基盤は鉄鋼と輸送機部門/その他3分の2の部門は儲からないとの伊藤正副社長の発言
    • [43]鉄鋼・輸送機の稼ぎ頭は住金のシームレスパイプと東洋工業中心の自動車輸出/原油市場と貿易摩擦に左右される
    • [44]部門別利益構成 1977年3月期 金属39%・機械26%・化学品16%/1981年3月期 金属37%・機械24%・化学品21%
    • [45]1981年3月期の部門別売上構成比で機械・電機が鉄鋼を上回った
    • [47]男子社員数と平均年齢 住友商事4,350人38.6歳・三菱商事5,973人39.0歳・三井物産6,769人39.7歳
  • 住友商事 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1981年2月 住商オートリースを東京に設立/自動車リース事業への参入
    • [51]1983年11月 住商リースが大阪証券取引所市場第二部に上場
  • Decide 1988年4月号
    • [48]1987年3月期 売上高12兆923億円・前年度比13.8%増で業界2位/円高と一次産品価格下落で三菱商事・三井物産は落ち込み
    • [49]1987年3月期 取引業態別 輸出3兆597億円・輸入2兆3,591億円・三国間1兆2,822億円(9商社中6位)・国内6兆2,222億円/内国比率66.5%で商社中最高
    • [50]サミットストアは住商100%出資/1960年代末に提携先セーフウェイが業務提携を打ち切り独自に生鮮食料品の科学的管理方式を確立/店舗数50・売上高約650億円
    • [52]1986年3月期からSEC方式の連結決算を導入/1987年3月期 連結子会社39社・持分法適用201社・連結売上高13兆604億円で4位/実質上の外国間売上高296億円は9商社中最低

筆者考察

1970年代の住友商事を評した言葉は、石橋をたたいても渡らない商社だった。この慎重さは気質ではなく、後発であることの条件から出ている。先進国の市場では先発商社がすでに商権を固めており、住商が入っていけたのは中東や共産圏のように危険の大きい市場ばかりだった。グループ内での地位も低く、住友系メーカーに頭を下げて仕事をもらう時期が長く続いた。失敗すれば、商社など作ったのが間違いだったと言われる。だから案件の可否は、損失が自己資本の範囲に収まるかどうかで測られた。慎重と冒険は、この会社では対立していない。危険な市場しか残っていなかったからこそ、損失の上限を先に決める必要があった。

植村光雄は審査制度を自ら作った人物であり、その人が社長になった1977年以降、住商はむしろ審査部を解いた。1979年に商品本部を4つの営業部門へ再編し、それぞれに審査の機能を持たせている。可否を判じる権限を営業の側へ移せば案件は増え、利幅は薄くなる。実際に粗利益率は1981年3月期に1.59%まで落ち、上位5社で最低となった。それでも経常利益率は業界の首位に立ち、有利子負債は5社中で最も小さい。利益の源は鉄鋼と輸送機に集まり、残る3分の2の部門は儲かっていなかった。売上の順位を押し上げたのは、三国間の貿易ではなく国内の取引だった。

経常利益(単体) 1973年3月期〜1985年3月期(億円)

90 73.3 179 76.3 189 79.3 442 82.3 455 85.3
  • 単体の経常利益。出所は会社年鑑(1976年版・1986年版)。

1973年〜1987年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1973年03月期 単体 22,757 n/a n/a 90 44 0.2% n/a
1974年03月期 単体 38,505 +69.2% n/a 147 74 0.2% n/a
1975年03月期 単体 51,178 +32.9% n/a 153 72 0.1% n/a
1976年03月期 単体 55,095 +7.7% n/a 179 73 0.1% n/a
1977年03月期 単体 58,254 +5.7% n/a 182 75 0.1% n/a
1978年03月期 単体 58,335 +0.1% 295 175 73 0.1% n/a
1979年03月期 単体 58,491 +0.3% n/a 189 76 0.1% n/a
1980年03月期 単体 76,006 +29.9% n/a 285 100 0.1% n/a
1981年03月期 単体 96,551 +27.0% n/a 294 111 0.1% n/a
1982年03月期 単体 109,643 +13.6% n/a 441 155 0.1% n/a
1983年03月期 単体 113,539 +3.6% n/a 445 171 0.2% n/a
1984年03月期 単体 116,243 +2.4% n/a 423 186 0.2% n/a
1985年03月期 単体 131,647 +13.3% n/a 455 208 0.2% n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

8件
出典・参考
  • 住友商事 有価証券報告書【沿革】
  • 住友商事社史
  • 会社年鑑(1976年版・1986年版)
  • 産業と経済 1976年6月号
  • 日経ビジネス 1977年8月1日号
  • 日経ビジネス 1981年11月16日号
  • Decide 1988年4月号
  • 国際資源 1976年「資源問題の民間リーダーたち(7) 住友商事会長 津田久氏」

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