第1章 年〜年

兼松:神戸での豪州貿易の創業とシドニー支店の現地法人化

1889年〜神戸栄町で開業した日濠貿易の個人商店と、翌年シドニーに開設した支店

1889年8月15日、兼松房治郎氏は神戸市栄町5丁目に「日濠貿易兼松房治郎商店」を開業した。1887年頃の日本の貿易は総額1億円に迫りつつも、その9割近くを外国の商館が扱っていた。兼松房治郎氏は1887年11月から翌年6月まで豪州を視察し、世界最大の羊毛産出国との直接取引を構想した。商館経由の貿易に満足せず、日本人自身の直接貿易をめざした点に創業の起点がある。知人の多くは出資を見送り、兼松房治郎氏は大阪中之島の住宅や株券を売却して約1万円を用意した。資金計画は約3万円で、自己資金7,000円のほかは広瀬宰平氏らによる後援の約束にとどまり、年末までの払込は1万5,000円。店員は北村寅之助氏ほか1名で出発した。

  • 兼松回顧六十年(1950)「創業(明治二十二年)の頃」
    • [1]1889年8月15日に神戸市栄町5丁目5番地で日濠貿易兼松房治郎商店が開業。予定資本金約3万円のうち自己資金7,000円、残り2万数千円は知己の後援の予約で、年末に総資金1万5,000円
    • [6]1889年8月15日に神戸市栄町5丁目5番地で日濠貿易兼松房治郎商店が開業。予定資本金約3万円のうち自己資金7,000円、残り2万数千円は知己の後援の予約で、年末に総資金1万5,000円
    • [7]1889年8月15日に神戸市栄町5丁目5番地で日濠貿易兼松房治郎商店が開業。予定資本金約3万円のうち自己資金7,000円、残り2万数千円は知己の後援の予約で、年末に総資金1万5,000円
  • 兼松回顧六十年(1950)「兼松房治郎氏のおもかげ」
    • [2]1887年頃の日本の貿易は総額1億円に迫るが約9割を外国商館が扱う。兼松房治郎は1887年11月に渡豪し1888年6月帰国。友人の勧誘に失敗し中之島の住宅・株券などを売って約1万円を得、広瀬宰平・西邑虎四郎らから2万数千円を限度とする後援の協約
    • [3]1887年頃の日本の貿易は総額1億円に迫るが約9割を外国商館が扱う。兼松房治郎は1887年11月に渡豪し1888年6月帰国。友人の勧誘に失敗し中之島の住宅・株券などを売って約1万円を得、広瀬宰平・西邑虎四郎らから2万数千円を限度とする後援の協約
    • [5]1887年頃の日本の貿易は総額1億円に迫るが約9割を外国商館が扱う。兼松房治郎は1887年11月に渡豪し1888年6月帰国。友人の勧誘に失敗し中之島の住宅・株券などを売って約1万円を得、広瀬宰平・西邑虎四郎らから2万数千円を限度とする後援の協約
  • 会社銀行八十年史(1955)「兼松」
    • [4]兼松房治郎は商館貿易にあきたらず直接貿易を志して1889年8月に神戸で開店

1890年4月10日、兼松房治郎氏はシドニーのクラレンス街99番地に事務所を借り、支店を開設した。開業時に定めた営業目的は、兵庫とシドニーの双方に店を置き、両国の産品を互いに直接売買することである。兼松房治郎氏は同年1月14日に北村寅之助氏を伴って神戸を出帆し、2月17日にシドニーへ着いた。支店は4月に牛脂29樽と牛皮321枚を日本へ送り、5月22日には大阪毛糸紡績の注文で洗上羊毛187俵を競売場で買い付けて積み出した。1891年には支店がオコンネル街8番地へ移った。日本からは陶器・漆器・竹器の雑貨を豪州へ送り、日豪間の直輸出入が始まった。産地の競売場で自ら買い付ける拠点を持たなければ、商館を経ない取引は成り立たなかったのだろう。

  • 兼松回顧六十年(1950)「創業(明治二十二年)の頃」
    • [8]1890年1月14日に北村寅之助を伴い神戸を出帆、2月17日シドニー着、4月10日クラレンス街99番地に支店開設。4月に牛脂29樽・牛皮321枚、5月22日に大阪毛糸紡績の注文で洗上羊毛187俵を積出
    • [10]1890年1月14日に北村寅之助を伴い神戸を出帆、2月17日シドニー着、4月10日クラレンス街99番地に支店開設。4月に牛脂29樽・牛皮321枚、5月22日に大阪毛糸紡績の注文で洗上羊毛187俵を積出
    • [11]1890年1月14日に北村寅之助を伴い神戸を出帆、2月17日シドニー着、4月10日クラレンス街99番地に支店開設。4月に牛脂29樽・牛皮321枚、5月22日に大阪毛糸紡績の注文で洗上羊毛187俵を積出
    • [12]1890年1月14日に北村寅之助を伴い神戸を出帆、2月17日シドニー着、4月10日クラレンス街99番地に支店開設。4月に牛脂29樽・牛皮321枚、5月22日に大阪毛糸紡績の注文で洗上羊毛187俵を積出
  • 兼松回顧六十年(1950)「兼松房治郎氏のおもかげ」
    • [9]開業時の事業目的は兵庫とシドニーに店を置き、日豪双方の産品を直輸売買し委託売買も扱うこと
  • 会社銀行八十年史(1955)「兼松」
    • [13]1890年に羊毛・牛皮など豪州産品の直輸入と日本商品の直輸出を開始。日本からは陶器・漆器・竹器などの雑貨を送った(兼松回顧六十年とも一致)
参考文献[1]-[13]
  • 兼松回顧六十年(1950)「創業(明治二十二年)の頃」
    • [1]1889年8月15日に神戸市栄町5丁目5番地で日濠貿易兼松房治郎商店が開業。予定資本金約3万円のうち自己資金7,000円、残り2万数千円は知己の後援の予約で、年末に総資金1万5,000円
    • [6]1889年8月15日に神戸市栄町5丁目5番地で日濠貿易兼松房治郎商店が開業。予定資本金約3万円のうち自己資金7,000円、残り2万数千円は知己の後援の予約で、年末に総資金1万5,000円
    • [7]1889年8月15日に神戸市栄町5丁目5番地で日濠貿易兼松房治郎商店が開業。予定資本金約3万円のうち自己資金7,000円、残り2万数千円は知己の後援の予約で、年末に総資金1万5,000円
    • [8]1890年1月14日に北村寅之助を伴い神戸を出帆、2月17日シドニー着、4月10日クラレンス街99番地に支店開設。4月に牛脂29樽・牛皮321枚、5月22日に大阪毛糸紡績の注文で洗上羊毛187俵を積出
    • [10]1890年1月14日に北村寅之助を伴い神戸を出帆、2月17日シドニー着、4月10日クラレンス街99番地に支店開設。4月に牛脂29樽・牛皮321枚、5月22日に大阪毛糸紡績の注文で洗上羊毛187俵を積出
    • [11]1890年1月14日に北村寅之助を伴い神戸を出帆、2月17日シドニー着、4月10日クラレンス街99番地に支店開設。4月に牛脂29樽・牛皮321枚、5月22日に大阪毛糸紡績の注文で洗上羊毛187俵を積出
    • [12]1890年1月14日に北村寅之助を伴い神戸を出帆、2月17日シドニー着、4月10日クラレンス街99番地に支店開設。4月に牛脂29樽・牛皮321枚、5月22日に大阪毛糸紡績の注文で洗上羊毛187俵を積出
  • 兼松回顧六十年(1950)「兼松房治郎氏のおもかげ」
    • [2]1887年頃の日本の貿易は総額1億円に迫るが約9割を外国商館が扱う。兼松房治郎は1887年11月に渡豪し1888年6月帰国。友人の勧誘に失敗し中之島の住宅・株券などを売って約1万円を得、広瀬宰平・西邑虎四郎らから2万数千円を限度とする後援の協約
    • [3]1887年頃の日本の貿易は総額1億円に迫るが約9割を外国商館が扱う。兼松房治郎は1887年11月に渡豪し1888年6月帰国。友人の勧誘に失敗し中之島の住宅・株券などを売って約1万円を得、広瀬宰平・西邑虎四郎らから2万数千円を限度とする後援の協約
    • [5]1887年頃の日本の貿易は総額1億円に迫るが約9割を外国商館が扱う。兼松房治郎は1887年11月に渡豪し1888年6月帰国。友人の勧誘に失敗し中之島の住宅・株券などを売って約1万円を得、広瀬宰平・西邑虎四郎らから2万数千円を限度とする後援の協約
    • [9]開業時の事業目的は兵庫とシドニーに店を置き、日豪双方の産品を直輸売買し委託売買も扱うこと
  • 会社銀行八十年史(1955)「兼松」
    • [4]兼松房治郎は商館貿易にあきたらず直接貿易を志して1889年8月に神戸で開店
    • [13]1890年に羊毛・牛皮など豪州産品の直輸入と日本商品の直輸出を開始。日本からは陶器・漆器・竹器などの雑貨を送った(兼松回顧六十年とも一致)

1891年〜日清・日露戦後に主力事業となった羊毛輸入と、神戸に建てた日濠館

兼松房治郎商店の羊毛の取扱いは、初輸入の1890〜91羊毛年度の200俵から、1899年から翌年にかけて年2,000俵まで拡大した。国内では東京製絨や日本毛織の設立が続き、日本の豪州羊毛輸入は1895〜96羊毛年度に4,454俵へ増えた。兼松房治郎氏は1896年3月に毛織業者を糾合して羊毛輸入税の免除を議会に請願し、1897年4月から免除が実現した。同年10月には金本位制が施行され、対英為替の安定が貿易を後押しすると見込まれた。一方で1901年の恐慌を機に蚕糸部を廃止し、上海と牛荘に置いた店舗も長続きしなかった。羊毛以外の事業が根づかなかったことで、豪州羊毛の輸入への集中が進んだと思われる。

  • 兼松回顧六十年(1950)「二十周年(明治四十二年)前後」
    • [14]兼松の初輸入の1890-91羊毛年度は200俵、1899〜1900年の第一のピークで年買付高2,000俵
  • 兼松回顧六十年(1950)「十周年(明治三十二年)前後」
    • [15]毛織業の勃興で日本の豪州羊毛輸入は1895-96羊毛年度に4,454俵。兼松房治郎は1896年3月に羊毛輸入税免除を請願し1897年4月1日から免除。1897年10月金本位制実施。蚕糸部は1901年の恐慌を機に廃止
    • [16]毛織業の勃興で日本の豪州羊毛輸入は1895-96羊毛年度に4,454俵。兼松房治郎は1896年3月に羊毛輸入税免除を請願し1897年4月1日から免除。1897年10月金本位制実施。蚕糸部は1901年の恐慌を機に廃止
    • [17]毛織業の勃興で日本の豪州羊毛輸入は1895-96羊毛年度に4,454俵。兼松房治郎は1896年3月に羊毛輸入税免除を請願し1897年4月1日から免除。1897年10月金本位制実施。蚕糸部は1901年の恐慌を機に廃止
    • [18]毛織業の勃興で日本の豪州羊毛輸入は1895-96羊毛年度に4,454俵。兼松房治郎は1896年3月に羊毛輸入税免除を請願し1897年4月1日から免除。1897年10月金本位制実施。蚕糸部は1901年の恐慌を機に廃止
  • 会社銀行八十年史(1955)「兼松」
    • [19]明治年間はほとんど豪州貿易に終始し、上海・牛荘に店舗を設けたが永続しなかった

1907年、兼松房治郎商店の羊毛取扱高は7,000俵を超え、シドニー競売場での順位は20位以内に入った。当時、豪州で羊毛を直接買い付ける日本商は兼松房治郎商店だけで、官需の注文の多くは外国商館を通っていた。この時期の日本は1907年から翌年にかけて激しい恐慌に見舞われた。他方で日露戦争の軍需と生活水準の向上を受け、国内の毛織業は生産を拡大した。1909〜10羊毛年度の輸入高は10,881俵で、日本の羊毛輸入の58.0%にあたる。1911〜12年度には16,314俵・63.9%。高島屋飯田は1905年、三井と大倉は1907年にシドニーでの買付を始め、現地の競争は激しくなった。兼松房治郎氏は1905年までに8回渡豪し、新商品の調査を自ら進めた。

  • 兼松回顧六十年(1950)「二十周年(明治四十二年)前後」
    • [20]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
    • [21]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
    • [22]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
    • [23]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
    • [24]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
    • [25]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
    • [26]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
  • 兼松回顧六十年(1950)「兼松房治郎氏のおもかげ」
    • [27]兼松房治郎は初渡豪以来1905年までに前後8回渡豪し、近状研究・新商品調査を進めた

1911年8月、兼松房治郎商店は神戸・海岸通3丁目の旧店舗跡に新店舗「日濠館」を竣工させ、9月19日に落成式を挙げた。建物は煉瓦造3階建て・地階石造で、延べ床面積は498坪である。商店は1894年4月に海岸通3丁目の土地建物を取得し、5月に栄町3丁目の借家から移転した。1900年に新築を決めて仮店舗へ移ったものの、翌1901年の恐慌で計画は中止となった。その後8年間は急造の仮建築で営業を続け、1909年に取り壊して着工した。兼松房治郎氏は、近代的な事務所で執務し、外観でも外国商館と肩を並べる店舗を長く望んでいた。商権を日本人の手に移すという創業時の目標を、建物の形でも示したとみられる。

  • 兼松回顧六十年(1950)「二十周年(明治四十二年)前後」
    • [28]日濠館は海岸通3丁目の旧店舗跡に1911年8月竣工、9月19日落成式。煉瓦造3階建・地階石造・延498坪。1900年に新築を発意したが1901年の恐慌で流産。近代的執務と外人商館との拮抗が店長の久しい念願
    • [29]日濠館は海岸通3丁目の旧店舗跡に1911年8月竣工、9月19日落成式。煉瓦造3階建・地階石造・延498坪。1900年に新築を発意したが1901年の恐慌で流産。近代的執務と外人商館との拮抗が店長の久しい念願
    • [31]日濠館は海岸通3丁目の旧店舗跡に1911年8月竣工、9月19日落成式。煉瓦造3階建・地階石造・延498坪。1900年に新築を発意したが1901年の恐慌で流産。近代的執務と外人商館との拮抗が店長の久しい念願
    • [33]日濠館は海岸通3丁目の旧店舗跡に1911年8月竣工、9月19日落成式。煉瓦造3階建・地階石造・延498坪。1900年に新築を発意したが1901年の恐慌で流産。近代的執務と外人商館との拮抗が店長の久しい念願
  • 兼松回顧六十年(1950)「十周年(明治三十二年)前後」
    • [30]1894年4月に海岸通3丁目2番地の土地建物を取得し5月に栄町3丁目の借家から移転。1901年の恐慌後に急造した仮建築で8年間営業し、1909年に取り壊して日濠館の建築に着手
    • [32]1894年4月に海岸通3丁目2番地の土地建物を取得し5月に栄町3丁目の借家から移転。1901年の恐慌後に急造した仮建築で8年間営業し、1909年に取り壊して日濠館の建築に着手
参考文献[14]-[33]
  • 兼松回顧六十年(1950)「二十周年(明治四十二年)前後」
    • [14]兼松の初輸入の1890-91羊毛年度は200俵、1899〜1900年の第一のピークで年買付高2,000俵
    • [20]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
    • [21]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
    • [22]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
    • [23]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
    • [24]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
    • [25]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
    • [26]日露戦争前後は兼松が唯一の日本人買付人で、官需の注文は外商経由が多かった。1907年に兼松の羊毛取扱高は7,000俵超、競売場の順位は20位以内。1907-08年に恐慌。日露戦争の軍需と民需増で毛織業が拡大。1909-10年度10,881俵(日本全輸入の58.0%)、1910-11年度10,603俵(65.5%)、1911-12年度16,314俵(63.9%)。高島屋飯田1905年、三井・大倉1907年に現地買付開始
    • [28]日濠館は海岸通3丁目の旧店舗跡に1911年8月竣工、9月19日落成式。煉瓦造3階建・地階石造・延498坪。1900年に新築を発意したが1901年の恐慌で流産。近代的執務と外人商館との拮抗が店長の久しい念願
    • [29]日濠館は海岸通3丁目の旧店舗跡に1911年8月竣工、9月19日落成式。煉瓦造3階建・地階石造・延498坪。1900年に新築を発意したが1901年の恐慌で流産。近代的執務と外人商館との拮抗が店長の久しい念願
    • [31]日濠館は海岸通3丁目の旧店舗跡に1911年8月竣工、9月19日落成式。煉瓦造3階建・地階石造・延498坪。1900年に新築を発意したが1901年の恐慌で流産。近代的執務と外人商館との拮抗が店長の久しい念願
    • [33]日濠館は海岸通3丁目の旧店舗跡に1911年8月竣工、9月19日落成式。煉瓦造3階建・地階石造・延498坪。1900年に新築を発意したが1901年の恐慌で流産。近代的執務と外人商館との拮抗が店長の久しい念願
  • 兼松回顧六十年(1950)「十周年(明治三十二年)前後」
    • [15]毛織業の勃興で日本の豪州羊毛輸入は1895-96羊毛年度に4,454俵。兼松房治郎は1896年3月に羊毛輸入税免除を請願し1897年4月1日から免除。1897年10月金本位制実施。蚕糸部は1901年の恐慌を機に廃止
    • [16]毛織業の勃興で日本の豪州羊毛輸入は1895-96羊毛年度に4,454俵。兼松房治郎は1896年3月に羊毛輸入税免除を請願し1897年4月1日から免除。1897年10月金本位制実施。蚕糸部は1901年の恐慌を機に廃止
    • [17]毛織業の勃興で日本の豪州羊毛輸入は1895-96羊毛年度に4,454俵。兼松房治郎は1896年3月に羊毛輸入税免除を請願し1897年4月1日から免除。1897年10月金本位制実施。蚕糸部は1901年の恐慌を機に廃止
    • [18]毛織業の勃興で日本の豪州羊毛輸入は1895-96羊毛年度に4,454俵。兼松房治郎は1896年3月に羊毛輸入税免除を請願し1897年4月1日から免除。1897年10月金本位制実施。蚕糸部は1901年の恐慌を機に廃止
    • [30]1894年4月に海岸通3丁目2番地の土地建物を取得し5月に栄町3丁目の借家から移転。1901年の恐慌後に急造した仮建築で8年間営業し、1909年に取り壊して日濠館の建築に着手
    • [32]1894年4月に海岸通3丁目2番地の土地建物を取得し5月に栄町3丁目の借家から移転。1901年の恐慌後に急造した仮建築で8年間営業し、1909年に取り壊して日濠館の建築に着手
  • 会社銀行八十年史(1955)「兼松」
    • [19]明治年間はほとんど豪州貿易に終始し、上海・牛荘に店舗を設けたが永続しなかった
  • 兼松回顧六十年(1950)「兼松房治郎氏のおもかげ」
    • [27]兼松房治郎は初渡豪以来1905年までに前後8回渡豪し、近状研究・新商品調査を進めた

1913年〜店主の死で改めた資本金30万円の合資会社と、シドニー支店の現地法人化

1913年5月16日、兼松商店は匿名組合を改め、資本金30万円の合資会社兼松商店として発足した。同年2月6日、店主の兼松房治郎氏が69歳で死去。商店は前年8月、店主と店員の出資による匿名組合に組織を移していた。兼松房治郎氏は遺言で、『後繼者は出資者多數の意旨によりこれを決定せよ』と後事を託した。シドニー支配人の北村寅之助氏も3月18日に神戸へ戻り、継承の方法を話し合った。兼松房治郎氏は生前から店の業務と家計を分け、死後の継承に備えて遺言書を書き換え続けていた。出資者は養子の兼松馨氏を初代社長に推し、総出資社員21名で合資会社が出発した。資本金は1916年6月に60万円へ増えた。従業員が持分を持つ制度は、その後の会社にも引き継がれる。

  • 兼松回顧六十年(1950)「店長逝く(大正二年)」
    • [34]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [35]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [36]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [37]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [38]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [39]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [40]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [41]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
  • 会社銀行八十年史(1955)「兼松」
    • [42]兼松房治郎は後継者を出資者多数の主旨で決めよと遺言し従務員持分制度を創始、その精神はのちまで堅持された

1918年3月18日、兼松商店は株式会社兼松商店の創立総会を開催し、4月1日から合資会社の営業を継承した。資本金は全額払込の200万円である。1913年の継承時にも株式会社化の案は出たものの、資本金が小さすぎるとして先送りした経緯がある。社長の兼松馨氏は1915年に持分の半分を会社へ譲り、1918年に残りを譲渡して事業から退いた。新会社の総株数40,000株のうち9,970株は従業員株主の会である兼松奨励会が持ち、残りの大半を北村寅之助氏ら店員21名が保有した。奨励会は勤続3年に達した従業員に株式を贈与し、退職時の買い戻しも担った。従業員だけが株主となる仕組みで、兼松家から切り離した経営を制度に固めたものと推察される。

  • 兼松回顧六十年(1950)「三十周年(大正八年)前後」
    • [43]1918年3月18日に株式会社兼松商店の創立総会、4月1日から合資会社の営業を継承。資本金200万円全額払込。総株数40,000株のうち9,970株を兼松奨励会、北村寅之助ら店員21名が29,030株、未亡人1,000株。奨励会は勤続満3年の従務員に株式を贈与し退職時に買戻す。株式会社化は1913年にも案があったが資本金が小額で延期
    • [44]1918年3月18日に株式会社兼松商店の創立総会、4月1日から合資会社の営業を継承。資本金200万円全額払込。総株数40,000株のうち9,970株を兼松奨励会、北村寅之助ら店員21名が29,030株、未亡人1,000株。奨励会は勤続満3年の従務員に株式を贈与し退職時に買戻す。株式会社化は1913年にも案があったが資本金が小額で延期
    • [45]1918年3月18日に株式会社兼松商店の創立総会、4月1日から合資会社の営業を継承。資本金200万円全額払込。総株数40,000株のうち9,970株を兼松奨励会、北村寅之助ら店員21名が29,030株、未亡人1,000株。奨励会は勤続満3年の従務員に株式を贈与し退職時に買戻す。株式会社化は1913年にも案があったが資本金が小額で延期
    • [47]1918年3月18日に株式会社兼松商店の創立総会、4月1日から合資会社の営業を継承。資本金200万円全額払込。総株数40,000株のうち9,970株を兼松奨励会、北村寅之助ら店員21名が29,030株、未亡人1,000株。奨励会は勤続満3年の従務員に株式を贈与し退職時に買戻す。株式会社化は1913年にも案があったが資本金が小額で延期
    • [48]1918年3月18日に株式会社兼松商店の創立総会、4月1日から合資会社の営業を継承。資本金200万円全額払込。総株数40,000株のうち9,970株を兼松奨励会、北村寅之助ら店員21名が29,030株、未亡人1,000株。奨励会は勤続満3年の従務員に株式を贈与し退職時に買戻す。株式会社化は1913年にも案があったが資本金が小額で延期
  • 兼松回顧六十年(1950)「店長逝く(大正二年)」
    • [46]兼松馨は1915年に持分の半分を会社に譲渡し、1918年の株式会社改組時に残額を譲って事業から退いた

1922年4月1日、兼松商店はシドニー支店を現地法人F. Kanematsu (Australia) Ltd.に改めた。支店を豪州の法令に基づく独立法人とする案は、1918年に取締役の前田卯之助氏が渡豪して検討したものの、国際情勢などから実現しなかった。1922年初めに前田卯之助氏が再び渡豪し、法律家W.P. McElhone氏の助言でニューサウスウェールズ州法による設立手続きを進めた。新会社は資本金10万ポンドの半額払込で発足し、北村寅之助氏が専務に就任した。国内の兼松商店も同年5月、資本金を500万円へ引き上げた。7月10日に開設した大阪の詰所は、輸出品の買付と輸入品の販売をつなぐ連絡拠点である。現地法人の未払込金は利益の積立で充当し、1928年に全額の払込を終えた。

  • 兼松回顧六十年(1950)「三十周年(大正八年)前後」
    • [49]シドニー支店を豪州法規による独立法人とする案は1918年に前田取締役が渡豪したが実現せず。1922年新春に再渡豪しMcElhone(W.P. McElhone)の指導でニューサウスウェールズ州法により手続き、4月1日にF. Kanematsu (Australia) Ltd.発足。資本金10万ポンド半額払込、北村寅之助が専務。未払込金は1928年に全額払込済。1922年7月10日に大阪詰所を設置
    • [50]シドニー支店を豪州法規による独立法人とする案は1918年に前田取締役が渡豪したが実現せず。1922年新春に再渡豪しMcElhone(W.P. McElhone)の指導でニューサウスウェールズ州法により手続き、4月1日にF. Kanematsu (Australia) Ltd.発足。資本金10万ポンド半額払込、北村寅之助が専務。未払込金は1928年に全額払込済。1922年7月10日に大阪詰所を設置
    • [51]シドニー支店を豪州法規による独立法人とする案は1918年に前田取締役が渡豪したが実現せず。1922年新春に再渡豪しMcElhone(W.P. McElhone)の指導でニューサウスウェールズ州法により手続き、4月1日にF. Kanematsu (Australia) Ltd.発足。資本金10万ポンド半額払込、北村寅之助が専務。未払込金は1928年に全額払込済。1922年7月10日に大阪詰所を設置
    • [52]シドニー支店を豪州法規による独立法人とする案は1918年に前田取締役が渡豪したが実現せず。1922年新春に再渡豪しMcElhone(W.P. McElhone)の指導でニューサウスウェールズ州法により手続き、4月1日にF. Kanematsu (Australia) Ltd.発足。資本金10万ポンド半額払込、北村寅之助が専務。未払込金は1928年に全額払込済。1922年7月10日に大阪詰所を設置
    • [54]シドニー支店を豪州法規による独立法人とする案は1918年に前田取締役が渡豪したが実現せず。1922年新春に再渡豪しMcElhone(W.P. McElhone)の指導でニューサウスウェールズ州法により手続き、4月1日にF. Kanematsu (Australia) Ltd.発足。資本金10万ポンド半額払込、北村寅之助が専務。未払込金は1928年に全額払込済。1922年7月10日に大阪詰所を設置
    • [55]シドニー支店を豪州法規による独立法人とする案は1918年に前田取締役が渡豪したが実現せず。1922年新春に再渡豪しMcElhone(W.P. McElhone)の指導でニューサウスウェールズ州法により手続き、4月1日にF. Kanematsu (Australia) Ltd.発足。資本金10万ポンド半額払込、北村寅之助が専務。未払込金は1928年に全額払込済。1922年7月10日に大阪詰所を設置
  • 会社銀行八十年史(1955)「兼松」
    • [53]1921年6月に300万円、1922年5月に500万円(払込350万円)へ増資し、大阪に詰所を開設
参考文献[34]-[55]
  • 兼松回顧六十年(1950)「店長逝く(大正二年)」
    • [34]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [35]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [36]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [37]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [38]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [39]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [40]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [41]兼松房治郎は生前から店業と一家を区分し遺言書を更新し続けた。合資会社は1916年6月に60万円へ増資。兼松房治郎は1913年2月6日に69歳で死去。1912年8月に店主と店員の出資で匿名組合を結成済み。北村寅之助が3月18日に神戸着。5月16日に資本金30万円の合資会社兼松商店が発足し、養子の兼松馨を初代社長に推戴、総出資社員21名
    • [46]兼松馨は1915年に持分の半分を会社に譲渡し、1918年の株式会社改組時に残額を譲って事業から退いた
  • 会社銀行八十年史(1955)「兼松」
    • [42]兼松房治郎は後継者を出資者多数の主旨で決めよと遺言し従務員持分制度を創始、その精神はのちまで堅持された
    • [53]1921年6月に300万円、1922年5月に500万円(払込350万円)へ増資し、大阪に詰所を開設
  • 兼松回顧六十年(1950)「三十周年(大正八年)前後」
    • [43]1918年3月18日に株式会社兼松商店の創立総会、4月1日から合資会社の営業を継承。資本金200万円全額払込。総株数40,000株のうち9,970株を兼松奨励会、北村寅之助ら店員21名が29,030株、未亡人1,000株。奨励会は勤続満3年の従務員に株式を贈与し退職時に買戻す。株式会社化は1913年にも案があったが資本金が小額で延期
    • [44]1918年3月18日に株式会社兼松商店の創立総会、4月1日から合資会社の営業を継承。資本金200万円全額払込。総株数40,000株のうち9,970株を兼松奨励会、北村寅之助ら店員21名が29,030株、未亡人1,000株。奨励会は勤続満3年の従務員に株式を贈与し退職時に買戻す。株式会社化は1913年にも案があったが資本金が小額で延期
    • [45]1918年3月18日に株式会社兼松商店の創立総会、4月1日から合資会社の営業を継承。資本金200万円全額払込。総株数40,000株のうち9,970株を兼松奨励会、北村寅之助ら店員21名が29,030株、未亡人1,000株。奨励会は勤続満3年の従務員に株式を贈与し退職時に買戻す。株式会社化は1913年にも案があったが資本金が小額で延期
    • [47]1918年3月18日に株式会社兼松商店の創立総会、4月1日から合資会社の営業を継承。資本金200万円全額払込。総株数40,000株のうち9,970株を兼松奨励会、北村寅之助ら店員21名が29,030株、未亡人1,000株。奨励会は勤続満3年の従務員に株式を贈与し退職時に買戻す。株式会社化は1913年にも案があったが資本金が小額で延期
    • [48]1918年3月18日に株式会社兼松商店の創立総会、4月1日から合資会社の営業を継承。資本金200万円全額払込。総株数40,000株のうち9,970株を兼松奨励会、北村寅之助ら店員21名が29,030株、未亡人1,000株。奨励会は勤続満3年の従務員に株式を贈与し退職時に買戻す。株式会社化は1913年にも案があったが資本金が小額で延期
    • [49]シドニー支店を豪州法規による独立法人とする案は1918年に前田取締役が渡豪したが実現せず。1922年新春に再渡豪しMcElhone(W.P. McElhone)の指導でニューサウスウェールズ州法により手続き、4月1日にF. Kanematsu (Australia) Ltd.発足。資本金10万ポンド半額払込、北村寅之助が専務。未払込金は1928年に全額払込済。1922年7月10日に大阪詰所を設置
    • [50]シドニー支店を豪州法規による独立法人とする案は1918年に前田取締役が渡豪したが実現せず。1922年新春に再渡豪しMcElhone(W.P. McElhone)の指導でニューサウスウェールズ州法により手続き、4月1日にF. Kanematsu (Australia) Ltd.発足。資本金10万ポンド半額払込、北村寅之助が専務。未払込金は1928年に全額払込済。1922年7月10日に大阪詰所を設置
    • [51]シドニー支店を豪州法規による独立法人とする案は1918年に前田取締役が渡豪したが実現せず。1922年新春に再渡豪しMcElhone(W.P. McElhone)の指導でニューサウスウェールズ州法により手続き、4月1日にF. Kanematsu (Australia) Ltd.発足。資本金10万ポンド半額払込、北村寅之助が専務。未払込金は1928年に全額払込済。1922年7月10日に大阪詰所を設置
    • [52]シドニー支店を豪州法規による独立法人とする案は1918年に前田取締役が渡豪したが実現せず。1922年新春に再渡豪しMcElhone(W.P. McElhone)の指導でニューサウスウェールズ州法により手続き、4月1日にF. Kanematsu (Australia) Ltd.発足。資本金10万ポンド半額払込、北村寅之助が専務。未払込金は1928年に全額払込済。1922年7月10日に大阪詰所を設置
    • [54]シドニー支店を豪州法規による独立法人とする案は1918年に前田取締役が渡豪したが実現せず。1922年新春に再渡豪しMcElhone(W.P. McElhone)の指導でニューサウスウェールズ州法により手続き、4月1日にF. Kanematsu (Australia) Ltd.発足。資本金10万ポンド半額払込、北村寅之助が専務。未払込金は1928年に全額払込済。1922年7月10日に大阪詰所を設置
    • [55]シドニー支店を豪州法規による独立法人とする案は1918年に前田取締役が渡豪したが実現せず。1922年新春に再渡豪しMcElhone(W.P. McElhone)の指導でニューサウスウェールズ州法により手続き、4月1日にF. Kanematsu (Australia) Ltd.発足。資本金10万ポンド半額払込、北村寅之助が専務。未払込金は1928年に全額払込済。1922年7月10日に大阪詰所を設置

出典・参考

7件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955)「兼松」
  • 兼松回顧六十年(1950)「創業(明治二十二年)の頃」
  • 兼松回顧六十年(1950)「兼松房治郎氏のおもかげ」
  • 兼松回顧六十年(1950)「二十周年(明治四十二年)前後」
  • 兼松回顧六十年(1950)「十周年(明治三十二年)前後」
  • 兼松回顧六十年(1950)「店長逝く(大正二年)」
  • 兼松回顧六十年(1950)「三十周年(大正八年)前後」

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