兼松房治郎
兼松・元社長
社長就任—
生年月日—
学歴—
出自—
経歴1862〜1913年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1862年主要役職の状況(推定含む目安)1913年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間企業 | |||||
| 民間企業 | 江戸幕府(歩兵) | 1862 | 江戸へ出て武家奉公に入る | ||
| 1864 | 歩兵指図役下役並見習 | ||||
| 1865 | 退任 | ||||
| 三井組銀行部(大阪) | 1873 | 入社 | |||
| 1881 | 退任 | ||||
| 大阪商船 | 1884 | 取締役運輸課主管 | |||
| 1886 | 退任 | ||||
| 大阪毎日新聞 | 1888 | 組合委員・主幹(「大阪日報」を改題して発刊) | |||
| 1889 | 経営を本山彦一氏に譲る | ||||
| 兼松(旧・兼松房治郎商店) | 1889 | 設立 | |||
| 1890 | シドニー支店を開設 | ||||
| 1906 | 匿名組合に改組(店主) | ||||
| 1913 | 死去 | ||||
社長就任までの出自
出自
1845年、大阪江之子島で広間彌兵衛氏の長男に生まれ、18、9歳のころ親戚の兼松家の姓を継いだ。12歳で商家の奉公に出たのち、18歳で江戸に出て幕府の歩兵となったが、武士では志を伸ばせないと見て1865年に大阪へ戻った。横浜で蚕卵紙の輸出取引に参入したものの、1870年の普仏戦争で輸出が途絶えて失敗した。1873年3月に三井組銀行部へ等外五等で入り、3年で役付に抜擢され、1881年11月まで8年8か月勤めた。
社長に選ばれた経緯
抜擢
執筆予定
創業ストーリー
創業ストーリー
在任中の主な施策
兼松房治郎氏:在任中の施策
開業10周年の1899年、兼松房治郎氏は店員に対し、店業と一家を区別し、個人事業を早く合資会社に改めて永く勤めた功労者に持分を与えるとの意思を示した。1901年の恐慌で実現は遅れたが、1906年1月1日付の協定書で資本金を12万円と仮定し、その半分の6万円を店員の持分とする匿名組合に改めた。協定書の時点の実資力は8万円で、店員持分のうち5万7,500円を北村寅之助氏ら10名に分け、残りを将来の分配のために留保した。
参考文献4件
参考文献
- 兼松六十年の歩み(兼松, 1955)「生い立ち」「貿易の萠芽」「風雪十年」
- 兼松六十年の歩み(兼松, 1955)「三井組銀行部に入る」「大阪商船の創立」とその次節
- 兼松六十年の歩み(兼松, 1955)「濠州へ」「兼松商店の誕生」「シドニー支店開設―羊毛の初荷」
- 兼松六十年の歩み(兼松, 1955)「匿名組合に改組」「合資会社組織へ」
事実根拠:出所(兼松)