ヨネックス:米山製作所の創業とシャトルコック・テニスラケットの製造
1957年〜越路町の木工所が始めたバドミントンラケットの下請けと、新潟県三島郡に立てた米山製作所
米山稔氏は1957年春、バドミントンラケットの最大手だったサンバタから製造技術の指導を受け、ラケットの下請け製造に入った。米山稔氏が1946年に新潟県越路町で継いだ家業の木工所は、漁網用の木製の浮きと酒樽用の木栓を作る工場である。1953年に浮きの受注が途絶え、米山稔氏は函館の得意先で漁網の素材がナイロンへ替わったことを初めて知った。米山稔氏は木工の技術を生かせる業種を求めて全国を回り、軽量で高い付加価値を見込めるバドミントンラケットに行き着いた。背景にあるのは、冬の運搬手段がソリに限られ、大型の製品を出荷できない当時の雪国の事情である。サンバタは当初、ブームの退潮を理由に新たな下請けを断り、米山稔氏が再三訪ねてようやく技術指導を引き受けた。
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊)1993年「親会社倒産、工場全焼乗り越えトップの座」
- [1]1957年春、サンバタから製造技術を教わりバドミントンラケットの下請けを開始。1953年に漁網のナイロン化で木製ウキの注文が途絶。ソリ輸送のため小型・高付加価値品を選び、当初サンバタは下請けを断った
- [3]1957年春、サンバタから製造技術を教わりバドミントンラケットの下請けを開始。1953年に漁網のナイロン化で木製ウキの注文が途絶。ソリ輸送のため小型・高付加価値品を選び、当初サンバタは下請けを断った
- [5]1957年春、サンバタから製造技術を教わりバドミントンラケットの下請けを開始。1953年に漁網のナイロン化で木製ウキの注文が途絶。ソリ輸送のため小型・高付加価値品を選び、当初サンバタは下請けを断った
- [6]1957年春、サンバタから製造技術を教わりバドミントンラケットの下請けを開始。1953年に漁網のナイロン化で木製ウキの注文が途絶。ソリ輸送のため小型・高付加価値品を選び、当初サンバタは下請けを断った
- 日経ビジネス 1982年3月22日号
- [2]1946年(昭和21年)から新潟県越路町で漁網用の浮き・酒だる用の栓を製造する木工業を営んだ
- 日経ビジネス 1990年8月13日号
- [4]雪国でそり輸送のため大きな物は作れず、付加価値が高く軽いバドミントンラケットに決めた
米山稔氏は1958年6月、新潟県三島郡に株式会社米山製作所を設立した。米山製作所の設立の目的は、バドミントンラケットの製造と販売。前年春に技術指導を受けてから半年ほどで、米山稔氏の工場は発注元のサンバタを驚かせる品質のラケットを作り上げた。サンバタは翌1958年に米山稔氏へ大量の注文を出した。設立後の米山製作所は下請けとしてラケットを製造し、製品はサンバタのブランドで問屋へ流れた。米山稔氏は米山製作所の設立と同時に社長に就任した。木工所の時代にも、米山稔氏は1950年ごろには社員を10人ほど抱える規模まで事業を育てた。サンバタからの大量注文をさばくには人手と設備を増やす必要があり、個人経営の木工所を株式会社に改めたものと推察される。
- 証券 46(4) 1994年
- [7]1958年(昭和33年)6月、米山稔が新潟県三島郡に(株)米山製作所を設立。設立当初は下請けとしてバドミントンラケットを製造・販売
- [11]1958年(昭和33年)6月、米山稔が新潟県三島郡に(株)米山製作所を設立。設立当初は下請けとしてバドミントンラケットを製造・販売
- ヨネックス 有価証券報告書【沿革】
- [8]1958年6月、バドミントンラケットの製造及び販売を目的として株式会社米山製作所を設立
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊)1993年「親会社倒産、工場全焼乗り越えトップの座」
- [9]技術指導から半年後にサンバタが驚く製品を作り、翌年に大量注文を受けた。1958年に米山製作所を設立し社長に就任。1950年頃には社員約10人
- [10]技術指導から半年後にサンバタが驚く製品を作り、翌年に大量注文を受けた。1958年に米山製作所を設立し社長に就任。1950年頃には社員約10人
- [12]技術指導から半年後にサンバタが驚く製品を作り、翌年に大量注文を受けた。1958年に米山製作所を設立し社長に就任。1950年頃には社員約10人
- [13]技術指導から半年後にサンバタが驚く製品を作り、翌年に大量注文を受けた。1958年に米山製作所を設立し社長に就任。1950年頃には社員約10人
1961年9月、米山製作所が製品のほぼ全量を納めていたサンバタが倒産した。米山製作所のサンバタ向け債権は820万円に上り、売上高の3カ月分にあたる。米山稔氏は知らせを受けて長岡駅から上野行きの夜行列車に乗り、東京のサンバタ本社へ向かった。親会社の倒産が知れれば信用不安が広がるとみて、米山稔氏は車中で乗り合わせた知人に動揺を隠し通した。東京から戻った後は資金の手当て、材料の確保、サンバタ以外の取引先の開拓に追われた。米山製作所はこのとき連鎖倒産の瀬戸際に立たされた。売上のほぼ全量を発注元1社に依存した下請けは、相手の破綻がそのまま自社の存続問題に直結する構造を抱えていたと思われる。
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊)1993年「親会社倒産、工場全焼乗り越えトップの座」
- [14]1961年9月、製品のほとんどを納入していたサンバタが倒産。米山は夜行で上京し、金策・材料手当て・新規取引先の確保に奔走
- [16]1961年9月、製品のほとんどを納入していたサンバタが倒産。米山は夜行で上京し、金策・材料手当て・新規取引先の確保に奔走
- [17]1961年9月、製品のほとんどを納入していたサンバタが倒産。米山は夜行で上京し、金策・材料手当て・新規取引先の確保に奔走
- [18]1961年9月、製品のほとんどを納入していたサンバタが倒産。米山は夜行で上京し、金策・材料手当て・新規取引先の確保に奔走
- 証券アナリストジャーナル 32(4) 1994年3月
- [15]1961年9月の親会社倒産で売上3カ月分に相当する820万円が不良債権化し、連鎖倒産の危機を招いた
- 日経ビジネス 1982年3月22日号
- [19]親会社の倒産で米山製作所は連鎖倒産の危機に見舞われた(記事は時期を昭和35年秋と記す)
参考文献[1]-[19]
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊)1993年「親会社倒産、工場全焼乗り越えトップの座」
- [1]1957年春、サンバタから製造技術を教わりバドミントンラケットの下請けを開始。1953年に漁網のナイロン化で木製ウキの注文が途絶。ソリ輸送のため小型・高付加価値品を選び、当初サンバタは下請けを断った
- [3]1957年春、サンバタから製造技術を教わりバドミントンラケットの下請けを開始。1953年に漁網のナイロン化で木製ウキの注文が途絶。ソリ輸送のため小型・高付加価値品を選び、当初サンバタは下請けを断った
- [5]1957年春、サンバタから製造技術を教わりバドミントンラケットの下請けを開始。1953年に漁網のナイロン化で木製ウキの注文が途絶。ソリ輸送のため小型・高付加価値品を選び、当初サンバタは下請けを断った
- [6]1957年春、サンバタから製造技術を教わりバドミントンラケットの下請けを開始。1953年に漁網のナイロン化で木製ウキの注文が途絶。ソリ輸送のため小型・高付加価値品を選び、当初サンバタは下請けを断った
- [9]技術指導から半年後にサンバタが驚く製品を作り、翌年に大量注文を受けた。1958年に米山製作所を設立し社長に就任。1950年頃には社員約10人
- [10]技術指導から半年後にサンバタが驚く製品を作り、翌年に大量注文を受けた。1958年に米山製作所を設立し社長に就任。1950年頃には社員約10人
- [12]技術指導から半年後にサンバタが驚く製品を作り、翌年に大量注文を受けた。1958年に米山製作所を設立し社長に就任。1950年頃には社員約10人
- [13]技術指導から半年後にサンバタが驚く製品を作り、翌年に大量注文を受けた。1958年に米山製作所を設立し社長に就任。1950年頃には社員約10人
- [14]1961年9月、製品のほとんどを納入していたサンバタが倒産。米山は夜行で上京し、金策・材料手当て・新規取引先の確保に奔走
- [16]1961年9月、製品のほとんどを納入していたサンバタが倒産。米山は夜行で上京し、金策・材料手当て・新規取引先の確保に奔走
- [17]1961年9月、製品のほとんどを納入していたサンバタが倒産。米山は夜行で上京し、金策・材料手当て・新規取引先の確保に奔走
- [18]1961年9月、製品のほとんどを納入していたサンバタが倒産。米山は夜行で上京し、金策・材料手当て・新規取引先の確保に奔走
- 日経ビジネス 1982年3月22日号
- [2]1946年(昭和21年)から新潟県越路町で漁網用の浮き・酒だる用の栓を製造する木工業を営んだ
- [19]親会社の倒産で米山製作所は連鎖倒産の危機に見舞われた(記事は時期を昭和35年秋と記す)
- 日経ビジネス 1990年8月13日号
- [4]雪国でそり輸送のため大きな物は作れず、付加価値が高く軽いバドミントンラケットに決めた
- 証券 46(4) 1994年
- [7]1958年(昭和33年)6月、米山稔が新潟県三島郡に(株)米山製作所を設立。設立当初は下請けとしてバドミントンラケットを製造・販売
- [11]1958年(昭和33年)6月、米山稔が新潟県三島郡に(株)米山製作所を設立。設立当初は下請けとしてバドミントンラケットを製造・販売
- ヨネックス 有価証券報告書【沿革】
- [8]1958年6月、バドミントンラケットの製造及び販売を目的として株式会社米山製作所を設立
- 証券アナリストジャーナル 32(4) 1994年3月
- [15]1961年9月の親会社倒産で売上3カ月分に相当する820万円が不良債権化し、連鎖倒産の危機を招いた
1961年〜発注元の倒産から始めた自社ブランドと、全焼した主力工場の一週間での再建
米山製作所は1961年11月、東京営業所を東京都台東区に新設し、自社ブランドでの販売を始めた。米山稔氏はサンバタの倒産で他社に依存する経営のもろさを知り、自社ブランドで自ら売る方針を固めた。問屋からはヨネヤマの名では売れないという返答が続き、米山稔氏は3年でラケットの国内首位に立つと宣言した。一晩で作った3カ年計画は、北海道・東北、北陸・関西、関東の順に地域ごとの首位を取る内容である。米山稔氏はこの計画書を携えて全国を回り、問屋8社と取引契約を結んだ。債権者からはサンバタのブランドを引き取る誘いもあったものの、米山稔氏は断ってヨネヤマのブランドを選んだ。
- ヨネックス 有価証券報告書【沿革】
- [20]1961年11月、東京都台東区に東京営業所を設置し販売部門を充実、自社ブランドによる販売を開始
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊)1993年「親会社倒産、工場全焼乗り越えトップの座」
- [21]倒産で他企業依存の危うさを知り自社ブランドでの自社販売を決意。3年で日本一と宣言し地域別の3カ年計画を作り、問屋8社と契約
- [22]倒産で他企業依存の危うさを知り自社ブランドでの自社販売を決意。3年で日本一と宣言し地域別の3カ年計画を作り、問屋8社と契約
- [23]倒産で他企業依存の危うさを知り自社ブランドでの自社販売を決意。3年で日本一と宣言し地域別の3カ年計画を作り、問屋8社と契約
- [24]倒産で他企業依存の危うさを知り自社ブランドでの自社販売を決意。3年で日本一と宣言し地域別の3カ年計画を作り、問屋8社と契約
- 日経ビジネス 1982年3月22日号
- [25]1961年(昭和36年)、親会社のブランドを買わないかという債権者の誘いを断り、自社ブランド「ヨネヤマ」の生産を開始
1963年5月、米山製作所は火災に見舞われ、2つある工場のうち主力工場が焼失。米山稔氏は『ピンチとチャンスは裏腹なもの』と考え直して再建に着手し、大工を急がせて工場を1週間で建て直した。米山稔氏は火災の当夜のうちに機械を発注し、新しい工場には最新の製造設備を入れた。競合他社はヨネヤマの製品がしばらく入荷しないと問屋に触れ回り、取引の切り崩しを図った。取引先の多くは復旧に半年かかるとみたものの、米山製作所は1週間後にラケットの生産を再開し、供給を途切れさせなかった。工場を失っても出荷を止めなかったため、問屋の信用は短期間で大きく高まった。新工場は納期の短縮と原価の低減をもたらし、新規の取引先の開拓にもつながった。
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊)1993年「親会社倒産、工場全焼乗り越えトップの座」
- [26]1963年5月、二つの工場のうち主力工場が全焼。1週間で工場を建て最新設備を導入。ライバルが問屋の切り崩しを図ったが、新工場は納期短縮・コストダウンに効果
- [27]1963年5月、二つの工場のうち主力工場が全焼。1週間で工場を建て最新設備を導入。ライバルが問屋の切り崩しを図ったが、新工場は納期短縮・コストダウンに効果
- [29]1963年5月、二つの工場のうち主力工場が全焼。1週間で工場を建て最新設備を導入。ライバルが問屋の切り崩しを図ったが、新工場は納期短縮・コストダウンに効果
- [32]1963年5月、二つの工場のうち主力工場が全焼。1週間で工場を建て最新設備を導入。ライバルが問屋の切り崩しを図ったが、新工場は納期短縮・コストダウンに効果
- 日経ビジネス 1982年3月22日号
- [28]1963年(昭和38年)に新潟の本社工場が全焼し、その夜のうちに機械を発注して再建を急いだ
- 証券アナリストジャーナル 32(4) 1994年3月
- [30]火災後すぐに機械を発注し1週間後にはラケットを生産。半年は駄目と見られた中で商品を切らさず信用を得た
- [31]火災後すぐに機械を発注し1週間後にはラケットを生産。半年は駄目と見られた中で商品を切らさず信用を得た
米山製作所は1963年4月に貿易部門を切り離し、貿易商社の株式会社ヨネヤマスポーツを設立して輸出業務を強化した。自前の貿易会社を通じたバドミントンラケットの輸出先は、英国・北欧・インドネシアである。国内では契約した問屋を窓口に売り込みを重ね、1964年に国内首位のメーカーとなった。米山稔氏が問屋に宣言した3年で日本一という目標の実現は、サンバタの倒産から3年後にあたる。米山製作所は製品の主力を早い段階でレジャー用から競技用へ移し、品質の高いラケットで業容を拡大した。国内の販路と輸出の窓口を同時に整えたのは、下請け時代に売り先を1社に依存した反省から販売先の分散を図ったためとみられる。
- ヨネックス 有価証券報告書【沿革】
- [33]1963年4月、貿易部門を分離独立させ貿易商社として株式会社ヨネヤマスポーツを設立し、輸出業務を強化
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊)1993年「親会社倒産、工場全焼乗り越えトップの座」
- [34]自前の貿易会社を設立しバドミントンラケットを輸出(英国・北欧・インドネシアなど)。宣言から3年後の1964年に国内首位のメーカーとなった
- [35]自前の貿易会社を設立しバドミントンラケットを輸出(英国・北欧・インドネシアなど)。宣言から3年後の1964年に国内首位のメーカーとなった
- [36]自前の貿易会社を設立しバドミントンラケットを輸出(英国・北欧・インドネシアなど)。宣言から3年後の1964年に国内首位のメーカーとなった
- 証券 46(4) 1994年
- [37]製品を従来のレジャー用から競技用中心へ早目に転換し、高品質の製品供給で業容を拡大
参考文献[20]-[37]
- ヨネックス 有価証券報告書【沿革】
- [20]1961年11月、東京都台東区に東京営業所を設置し販売部門を充実、自社ブランドによる販売を開始
- [33]1963年4月、貿易部門を分離独立させ貿易商社として株式会社ヨネヤマスポーツを設立し、輸出業務を強化
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊)1993年「親会社倒産、工場全焼乗り越えトップの座」
- [21]倒産で他企業依存の危うさを知り自社ブランドでの自社販売を決意。3年で日本一と宣言し地域別の3カ年計画を作り、問屋8社と契約
- [22]倒産で他企業依存の危うさを知り自社ブランドでの自社販売を決意。3年で日本一と宣言し地域別の3カ年計画を作り、問屋8社と契約
- [23]倒産で他企業依存の危うさを知り自社ブランドでの自社販売を決意。3年で日本一と宣言し地域別の3カ年計画を作り、問屋8社と契約
- [24]倒産で他企業依存の危うさを知り自社ブランドでの自社販売を決意。3年で日本一と宣言し地域別の3カ年計画を作り、問屋8社と契約
- [26]1963年5月、二つの工場のうち主力工場が全焼。1週間で工場を建て最新設備を導入。ライバルが問屋の切り崩しを図ったが、新工場は納期短縮・コストダウンに効果
- [27]1963年5月、二つの工場のうち主力工場が全焼。1週間で工場を建て最新設備を導入。ライバルが問屋の切り崩しを図ったが、新工場は納期短縮・コストダウンに効果
- [29]1963年5月、二つの工場のうち主力工場が全焼。1週間で工場を建て最新設備を導入。ライバルが問屋の切り崩しを図ったが、新工場は納期短縮・コストダウンに効果
- [32]1963年5月、二つの工場のうち主力工場が全焼。1週間で工場を建て最新設備を導入。ライバルが問屋の切り崩しを図ったが、新工場は納期短縮・コストダウンに効果
- [34]自前の貿易会社を設立しバドミントンラケットを輸出(英国・北欧・インドネシアなど)。宣言から3年後の1964年に国内首位のメーカーとなった
- [35]自前の貿易会社を設立しバドミントンラケットを輸出(英国・北欧・インドネシアなど)。宣言から3年後の1964年に国内首位のメーカーとなった
- [36]自前の貿易会社を設立しバドミントンラケットを輸出(英国・北欧・インドネシアなど)。宣言から3年後の1964年に国内首位のメーカーとなった
- 日経ビジネス 1982年3月22日号
- [25]1961年(昭和36年)、親会社のブランドを買わないかという債権者の誘いを断り、自社ブランド「ヨネヤマ」の生産を開始
- [28]1963年(昭和38年)に新潟の本社工場が全焼し、その夜のうちに機械を発注して再建を急いだ
- 証券アナリストジャーナル 32(4) 1994年3月
- [30]火災後すぐに機械を発注し1週間後にはラケットを生産。半年は駄目と見られた中で商品を切らさず信用を得た
- [31]火災後すぐに機械を発注し1週間後にはラケットを生産。半年は駄目と見られた中で商品を切らさず信用を得た
- 証券 46(4) 1994年
- [37]製品を従来のレジャー用から競技用中心へ早目に転換し、高品質の製品供給で業容を拡大
1965年〜ミノルスポーツで始めた水鳥球と、1969年に始めたテニスラケット
米山稔氏は1965年6月にシャトルコックを製造・販売する有限会社ミノルスポーツを設立した。ミノルスポーツの設立は、昭和40年代に製品の品ぞろえを広げていく最初の一手となった。1968年9月には埼玉県南埼玉郡八潮町に旧ミノルスポーツの工場を建設し、シャトルコックの生産能力を増強した。この工場は、後のヨネックスの東京工場にあたる。シャトルコックはラケット、ストリングとともに、1994年時点でも創業期から自社生産を続ける主力品目である。1994年時点で、シャトルコックの材料は輸入でまかなっていた。ラケットに加えて消耗品の球まで自社で製造すれば、競技者に用具を一式で納められると見込んだのだろう。
- ヨネックス 有価証券報告書【沿革】
- [38]1965年6月、有限会社ミノルスポーツを設立しシャトルコックの製造・販売を開始。1968年9月、埼玉県八潮町に工場を建設しシャトルコックの製造能力を増強
- [40]1965年6月、有限会社ミノルスポーツを設立しシャトルコックの製造・販売を開始。1968年9月、埼玉県八潮町に工場を建設しシャトルコックの製造能力を増強
- 証券 46(4) 1994年
- [39]昭和40年代に製品ラインナップ拡充として1965年に(有)ミノルスポーツ(現東京工場)を設立し、シャトルコックの製造・販売を開始
- [41]昭和40年代に製品ラインナップ拡充として1965年に(有)ミノルスポーツ(現東京工場)を設立し、シャトルコックの製造・販売を開始
- 証券アナリストジャーナル 32(4) 1994年3月
- [42]1994年時点でシャトルコックはラケット・ストリングと並びスタート時から自社生産。材料は輸入
- [43]1994年時点でシャトルコックはラケット・ストリングと並びスタート時から自社生産。材料は輸入
米山製作所は1967年2月に商号を株式会社ヨネヤマラケットに改めた。1969年1月には新潟県三島郡越路町の本社第一工場の増設と、テニスラケットの生産への着手。米山稔氏はバドミントンラケットの輸出を通じ、海外の需要が英国・北欧・インドネシアに偏り、やがて伸びが止まると判断した。米山稔氏はバドミントンラケットの製造技術を転用できる競技を探し、テニスに行き着いた。テニスは世界中で普及した競技で、ラケットの素材が木から新素材へ移る時期にあり、後発にも参入の余地があった。ヨネヤマラケットは日本人の舶来品志向を踏まえ、海外でブランドの評価を高めてから国内で攻勢をかける方針をとった。米山稔氏は後に、この方針を『外堀戦略』と呼んだ。
- 証券アナリストジャーナル 32(4) 1994年3月
- [44]1967年2月、(株)米山製作所を(株)ヨネヤマラケットに商号変更
- ヨネックス 有価証券報告書【沿革】
- [45]1969年1月、本社(現新潟工場)第一工場を増設し、テニスラケットの製造を開始。1961年12月に同第一工場を新潟県三島郡越路町に建設
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊)1993年「親会社倒産、工場全焼乗り越えトップの座」
- [46]輸出で海外市場が英国・北欧・インドネシアなどに限られ頭打ちになると判断。テニスは世界で普及し木から新素材への転換期で参入の機会があった
- [47]輸出で海外市場が英国・北欧・インドネシアなどに限られ頭打ちになると判断。テニスは世界で普及し木から新素材への転換期で参入の機会があった
- [48]輸出で海外市場が英国・北欧・インドネシアなどに限られ頭打ちになると判断。テニスは世界で普及し木から新素材への転換期で参入の機会があった
- 日経ビジネス 1982年3月22日号
- [49]1969年(昭和44年)にテニスラケットへ進出。海外でブランドイメージを高めてから国内市場に攻勢をかける「外堀戦略」をとった
- [50]1969年(昭和44年)にテニスラケットへ進出。海外でブランドイメージを高めてから国内市場に攻勢をかける「外堀戦略」をとった
米山稔氏は1966年、台湾製品の攻勢が強まったことを受け、英国のバドミントン用品メーカーとの業務提携を求めて渡英した。提携は相手に断られたものの、米山稔氏はロンドンの小売店に並ぶ金属製ラケットを見て、木製では競争劣位に置かれると考えた。帰国後は大学の研究室を回ってアルミニウム製ラケットの開発を進め、継ぎ目の部品にT型ジョイントを考案した。ヨネヤマのラケットはバドミントンラケットで世界初のアルミ採用となり、海外のトップ選手の評判を得て1969年に世界の首位に立った。ヨネヤマラケットは1971年7月、東京営業所の所在地を文京区へ移し、東京本店に昇格させた。販売の拠点を東京に厚くしたことが、1974年のヨネックス商標の出願に向けた足場になったと考えられる。
- 日経ビジネス 1982年3月22日号
- [51]1966年(昭和41年)、台湾製品の攻勢を受け英国メーカーとの提携を求め渡英。不調に終わり、金属製ラケットを見てアルミ製ラケットとT型ジョイントを開発。1969年に世界のトップメーカーに
- [53]1966年(昭和41年)、台湾製品の攻勢を受け英国メーカーとの提携を求め渡英。不調に終わり、金属製ラケットを見てアルミ製ラケットとT型ジョイントを開発。1969年に世界のトップメーカーに
- 日経ビジネス 1990年8月13日号
- [52]英国メーカーに合弁・提携を打診して一蹴され、ロンドンの店で金属製ラケットを見てアルミ製T型ジョイントのラケットを考案、大ヒットした
- 証券アナリストジャーナル 32(4) 1994年3月
- [54]バドミントンラケットに世界で最初にアルミを採用
- ヨネックス 有価証券報告書【沿革】
- [55]1971年7月、東京営業所を東京都文京区に移転し東京本店に昇格。1974年1月、ヨネックススポーツに商号変更しヨネックス商標を出願
参考文献[38]-[55]
- ヨネックス 有価証券報告書【沿革】
- [38]1965年6月、有限会社ミノルスポーツを設立しシャトルコックの製造・販売を開始。1968年9月、埼玉県八潮町に工場を建設しシャトルコックの製造能力を増強
- [40]1965年6月、有限会社ミノルスポーツを設立しシャトルコックの製造・販売を開始。1968年9月、埼玉県八潮町に工場を建設しシャトルコックの製造能力を増強
- [45]1969年1月、本社(現新潟工場)第一工場を増設し、テニスラケットの製造を開始。1961年12月に同第一工場を新潟県三島郡越路町に建設
- [55]1971年7月、東京営業所を東京都文京区に移転し東京本店に昇格。1974年1月、ヨネックススポーツに商号変更しヨネックス商標を出願
- 証券 46(4) 1994年
- [39]昭和40年代に製品ラインナップ拡充として1965年に(有)ミノルスポーツ(現東京工場)を設立し、シャトルコックの製造・販売を開始
- [41]昭和40年代に製品ラインナップ拡充として1965年に(有)ミノルスポーツ(現東京工場)を設立し、シャトルコックの製造・販売を開始
- 証券アナリストジャーナル 32(4) 1994年3月
- [42]1994年時点でシャトルコックはラケット・ストリングと並びスタート時から自社生産。材料は輸入
- [43]1994年時点でシャトルコックはラケット・ストリングと並びスタート時から自社生産。材料は輸入
- [44]1967年2月、(株)米山製作所を(株)ヨネヤマラケットに商号変更
- [54]バドミントンラケットに世界で最初にアルミを採用
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊)1993年「親会社倒産、工場全焼乗り越えトップの座」
- [46]輸出で海外市場が英国・北欧・インドネシアなどに限られ頭打ちになると判断。テニスは世界で普及し木から新素材への転換期で参入の機会があった
- [47]輸出で海外市場が英国・北欧・インドネシアなどに限られ頭打ちになると判断。テニスは世界で普及し木から新素材への転換期で参入の機会があった
- [48]輸出で海外市場が英国・北欧・インドネシアなどに限られ頭打ちになると判断。テニスは世界で普及し木から新素材への転換期で参入の機会があった
- 日経ビジネス 1982年3月22日号
- [49]1969年(昭和44年)にテニスラケットへ進出。海外でブランドイメージを高めてから国内市場に攻勢をかける「外堀戦略」をとった
- [50]1969年(昭和44年)にテニスラケットへ進出。海外でブランドイメージを高めてから国内市場に攻勢をかける「外堀戦略」をとった
- [51]1966年(昭和41年)、台湾製品の攻勢を受け英国メーカーとの提携を求め渡英。不調に終わり、金属製ラケットを見てアルミ製ラケットとT型ジョイントを開発。1969年に世界のトップメーカーに
- [53]1966年(昭和41年)、台湾製品の攻勢を受け英国メーカーとの提携を求め渡英。不調に終わり、金属製ラケットを見てアルミ製ラケットとT型ジョイントを開発。1969年に世界のトップメーカーに
- 日経ビジネス 1990年8月13日号
- [52]英国メーカーに合弁・提携を打診して一蹴され、ロンドンの店で金属製ラケットを見てアルミ製T型ジョイントのラケットを考案、大ヒットした
出典・参考
6件
- ヨネックス 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1982年3月22日号
- 日経ビジネス 1990年8月13日号
- 証券アナリストジャーナル 32(4) 1994年3月
- 創業者精神(日経ベンチャー別冊)1993年「親会社倒産、工場全焼乗り越えトップの座」
- 証券 46(4) 1994年