第3章 年〜年

SUBARU:営業赤字からの再建とSUBARU Of America買収

1990年〜営業赤字に落ちた量産志向と、日産から来た川合勇社長が引き継いだSOA買収

1990年3月期に、富士重工業は前期の26億円の営業黒字から一転して296億円の営業赤字を計上した。輸出を含む国内の総生産台数は、1987年3月期の63万1829台から1990年3月期の50万8412台へ減っていた。米国のSIAは、富士重工業分のレガシィが月産5000台と採算ラインの月産1万2500台を下回り、1990年に200億円以上の赤字を計上した。会長に就任した田島敏弘氏に代わり、日産ディーゼル工業社長の川合勇氏が1990年6月に社長へ就任した。同時に日本興業銀行から専務として入った吉田信彦氏は、ここまでの経営悪化を興銀の責任と断じた。内需の拡大期に台数を減らしたことで、量で原価を下げる前提そのものが崩れたとみられる。

  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [1]1990年3月期は前期26億円の営業黒字から296億円の営業赤字に転落
    • [2]輸出を含む国内総生産台数は1987年3月期63万1829台→1990年3月期50万8412台
    • [3]SIAの採算ラインは月産1万2500台、富士重工業分のレガシィは月産5000台
    • [4]SIAは1990年の1年間で200億円以上の赤字
    • [6]川合勇氏の就任と同時に興銀から送り込まれた吉田信彦専務は、経営悪化を興銀の責任と断言
  • 日経ビジネス 1992年11月9日号 編集長インタビュー 川合勇氏
    • [5]川合勇氏は1985年6月日産ディーゼル工業社長、1990年6月富士重工業社長に就任(田島敏弘氏は会長へ)

1990年8月、富士重工業は米国の販売会社スバル・オブ・アメリカ(SOA)を買収した。米国の現地資本だったSOAを100%子会社にする決定は、川合勇氏の社長就任より前に下されていた。川合勇氏は6万台近い米国の販売在庫を半減させるため販促費と広告費を大量に投じ、1991年3月期の経常赤字は636億円に膨らんだ。1992年3月期の連結赤字216億円も、大半をSIAとSOAが占めていた。川合勇氏は販売奨励金の上積みを避け、併売店へのスバル専任販売員の配置と、日産自動車の販売網を使う消費者金融で立て直した。米国の個人消費は1992年11月も弱く、川合勇氏は立て直しに時間がかかると見ていた。販売を直轄にした買収は、米国での値引きと在庫の損失をそのまま連結に取り込む結果にもなった。

  • 株式会社SUBARU 有価証券報告書 第93期(2024年3月期)【沿革】
    • [7]1990年8月 米国の販売会社スバル オブ アメリカ インクを買収
  • 日経ビジネス 1992年11月9日号 編集長インタビュー 川合勇氏
    • [8]米現地資本だったSOAの100%子会社化は川合勇氏の就任前に決まっていた
    • [11]1992年3月期の連結赤字216億円の大半はSIAとSOA
    • [12]SOAはインセンティブ乱発を避け、併売店のスバル専任セールス配置と日産の網を使った消費者金融で立て直す
    • [13]1992年11月時点で米国の個人消費に勢いがなく、SOAの立て直しにはまだ時間がかかる見通し
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [9]約6万台の米国販売在庫を半減させるため販促費・広告費を大量投入
    • [10]1991年3月期に636億円の経常赤字

川合勇氏は赤字の実数を社内に示して危機意識を促し、1991年3月期は中間・期末とも配当を見送った。販売の立て直しに向けて、1年半で延べ830人の社員を販売店へ出向させた。1991年1月からは部品メーカー10社をまとめ、ノウハウを共有しながら原価低減を進めた。そのうち坂本工業は排気系のラインで、半年間に工程数を37%、工程不良を47%減らした。常務の松崎一男氏は量を追わず、軽自動車を含む生産台数を70数万台にとどめて小型の多目的車に絞る方針を示した。第一弾として、レガシィのワゴンと部品の60%を共用する1500cc級の新型車を1992年秋に計画した。川合勇氏は全車種をそろえる開発力も販売力も持たないとの認識を示し、1992年11月にレオーネの後継のインプレッサを発売した。

  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [14]赤字を突き付けて危機意識を促し、1991年3月期は中間・期末とも無配
    • [15]1年半で延べ830人の社員をディーラーへ出向
    • [16]1991年1月から部品メーカー10社をグループ化し原価低減運動
    • [17]坂本工業は排気系ラインをモデルに半年間で工程数37%削減、工程不良47%減
    • [18]松崎一男常務は量の拡大を追わず、レガシィワゴンに代表される小型多目的車に絞る方針
    • [19]1992年秋投入の新型車はレガシィワゴンの部品を60%使う1500ccクラスの多目的車、月販4000〜5000台を狙う
  • 日経ビジネス 1992年11月9日号 編集長インタビュー 川合勇氏
    • [20]川合勇氏はフルラインメーカーになる開発・生産・販売力はなく、そのつもりもないと答えた
    • [21]1992年11月初めにレオーネ後継のインプレッサを発売
参考文献[1]-[21]
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [1]1990年3月期は前期26億円の営業黒字から296億円の営業赤字に転落
    • [2]輸出を含む国内総生産台数は1987年3月期63万1829台→1990年3月期50万8412台
    • [3]SIAの採算ラインは月産1万2500台、富士重工業分のレガシィは月産5000台
    • [4]SIAは1990年の1年間で200億円以上の赤字
    • [6]川合勇氏の就任と同時に興銀から送り込まれた吉田信彦専務は、経営悪化を興銀の責任と断言
    • [9]約6万台の米国販売在庫を半減させるため販促費・広告費を大量投入
    • [10]1991年3月期に636億円の経常赤字
    • [14]赤字を突き付けて危機意識を促し、1991年3月期は中間・期末とも無配
    • [15]1年半で延べ830人の社員をディーラーへ出向
    • [16]1991年1月から部品メーカー10社をグループ化し原価低減運動
    • [17]坂本工業は排気系ラインをモデルに半年間で工程数37%削減、工程不良47%減
    • [18]松崎一男常務は量の拡大を追わず、レガシィワゴンに代表される小型多目的車に絞る方針
    • [19]1992年秋投入の新型車はレガシィワゴンの部品を60%使う1500ccクラスの多目的車、月販4000〜5000台を狙う
  • 日経ビジネス 1992年11月9日号 編集長インタビュー 川合勇氏
    • [5]川合勇氏は1985年6月日産ディーゼル工業社長、1990年6月富士重工業社長に就任(田島敏弘氏は会長へ)
    • [8]米現地資本だったSOAの100%子会社化は川合勇氏の就任前に決まっていた
    • [11]1992年3月期の連結赤字216億円の大半はSIAとSOA
    • [12]SOAはインセンティブ乱発を避け、併売店のスバル専任セールス配置と日産の網を使った消費者金融で立て直す
    • [13]1992年11月時点で米国の個人消費に勢いがなく、SOAの立て直しにはまだ時間がかかる見通し
    • [20]川合勇氏はフルラインメーカーになる開発・生産・販売力はなく、そのつもりもないと答えた
    • [21]1992年11月初めにレオーネ後継のインプレッサを発売
  • 株式会社SUBARU 有価証券報告書 第93期(2024年3月期)【沿革】
    • [7]1990年8月 米国の販売会社スバル オブ アメリカ インクを買収

1992年〜「心をひとつ」を掲げた再建と、大宮から移転した埼玉製作所

1992年11月の時点で、川合勇氏は再建の拠り所を『再建に妙手はありません。結局は、皆が心を一つにできるかどうか。』と説明した。1992年3月期に営業損益は3年ぶりに黒字へ転じたが、主力のレガシィは不況で上期に計画を5000台下回った。川合勇氏は毎朝7時半に出社し、日産ディーゼル工業の再建と同じ手順を踏んだ。1993年3月期からの中期経営計画は3年後に売上高1兆円強、経常利益260億円を掲げ、数字は現場の改善策の積み上げで決めた。日産ディーゼル工業での経験から、川合勇氏は自社の業績より販売会社の立て直しを優先し、半数が赤字だった販売会社の全社黒字化を目指した。販売店へ車を押し込んで在庫を積ませる販売も禁じ、富士重工業の収支はさらに苦しくなった。社長退任の観測に対しては、『今置かれた環境では、ちょっと辞められないんじゃないかと。』として続投の意向を示した。

  • 日経ビジネス 1992年11月9日号 編集長インタビュー 川合勇氏
    • [22]再建の基本は全員が心を一つにできるかどうかと説明
    • [23]1992年3月期に営業損益が3年ぶりに黒字転換
    • [24]レガシィは1993年3月期上期に計画を5000台下回った
    • [25]川合勇氏は毎日7時半に出社、日産ディーゼル再建時と基本は同じ
    • [26]1993年3月期初年度の中期経営計画:3年後に売上高1兆円強・経常利益260億円、現場の改善策の積み上げ
    • [27]日産ディーゼルで痛感した経験から販売会社の立て直しを優先、半数が赤字の販売会社を全社黒字にしたい
    • [29]1993年の会長就任観測に対し、今の環境では辞められないと続投
  • 日経ビジネス 1997年1月27日号
    • [28]販売店に在庫をためる押し込み販売を禁じ、メーカーはさらに苦しくなった

1995年4月、富士重工業は埼玉県北本市に埼玉製作所を新設し、同年10月に大宮製作所の業務を移した。1991年の時点で、社内には名門意識と、新宿本社をはじめ首都圏に持つ資産をあてにする意識が残っていた。川合勇氏は、資産を活用することは認めても、切り売りはしないという方針を通した。専務の吉田信彦氏は、640億円の累積損失を資産の売却ではなく、1000億円を超える特別積立金の取り崩しで一度に消す計画を示した。取り崩し後も自己資本比率は31%強を保てる見込みだった。吉田信彦氏は、累積損失を消した後は積極策に転じる考えも示していた。市街地の大宮から北本へ移ったのは、工場用地を切り売りせずに組み替え、設備を広げる余地を得るためと推察される。

  • 株式会社SUBARU 有価証券報告書 第93期(2024年3月期)【沿革】
    • [30]1995年4月 埼玉製作所(北本市)を新設、同年10月に大宮製作所の業務を移管
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [31]新宿本社など首都圏の資産をあてにする意識が残っていた
    • [32]川合勇氏は資産の活用は認めるが切り売りはしないとの方針を通した
    • [33]吉田信彦専務は640億円の累積損失を1000億円超の特別積立金の取り崩しで一度に消す計画
    • [34]600億円を取り崩しても自己資本比率は31%強
    • [35]吉田信彦専務は累損を一度で消した後は積極策に転じる方がよいと説明
参考文献[22]-[35]
  • 日経ビジネス 1992年11月9日号 編集長インタビュー 川合勇氏
    • [22]再建の基本は全員が心を一つにできるかどうかと説明
    • [23]1992年3月期に営業損益が3年ぶりに黒字転換
    • [24]レガシィは1993年3月期上期に計画を5000台下回った
    • [25]川合勇氏は毎日7時半に出社、日産ディーゼル再建時と基本は同じ
    • [26]1993年3月期初年度の中期経営計画:3年後に売上高1兆円強・経常利益260億円、現場の改善策の積み上げ
    • [27]日産ディーゼルで痛感した経験から販売会社の立て直しを優先、半数が赤字の販売会社を全社黒字にしたい
    • [29]1993年の会長就任観測に対し、今の環境では辞められないと続投
  • 日経ビジネス 1997年1月27日号
    • [28]販売店に在庫をためる押し込み販売を禁じ、メーカーはさらに苦しくなった
  • 株式会社SUBARU 有価証券報告書 第93期(2024年3月期)【沿革】
    • [30]1995年4月 埼玉製作所(北本市)を新設、同年10月に大宮製作所の業務を移管
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [31]新宿本社など首都圏の資産をあてにする意識が残っていた
    • [32]川合勇氏は資産の活用は認めるが切り売りはしないとの方針を通した
    • [33]吉田信彦専務は640億円の累積損失を1000億円超の特別積立金の取り崩しで一度に消す計画
    • [34]600億円を取り崩しても自己資本比率は31%強
    • [35]吉田信彦専務は累損を一度で消した後は積極策に転じる方がよいと説明

1996年〜日産出身の田中毅社長と、ワゴンの牙城を守る「21世紀の魅力ある企業」

1996年4月、富士重工業はトップ人事を発表し、副社長の田中毅氏を社長に、川合勇氏を代表取締役会長に充てた。田中毅氏は1990年6月に日産自動車から常務として移り、購買畑の経験を買われて原価低減を担った。田中毅氏は群馬の主力工場の近くに住み、部品メーカーや開発陣との折衝を6年間続けた。日産自動車で同期だった桐生機械社長の小高弘三氏は、田中毅氏を厳しい要求をしても部品メーカーから陰口の出ない人物と評した。川合勇氏は、6年前の4月に再建を誓ってから6期ぶりの復配を達成しても、再建は完了していないとの認識を示した。田中毅氏は就任にあたり、『何ごとも社内の心を一つにすれば成し遂げられるのではないでしょうか』と語った。再建の合言葉を引き継いだ田中毅氏の起用は、原価低減を軸にした川合勇氏の再建を同じ手順で続けるための人選だった。

  • 財界人 1996年6月号「『21世紀の魅力ある企業でありたい』――富士重工業新社長記者会見」
    • [36]1996年4月、田中毅副社長の社長昇格と川合勇社長の代表権会長就任を発表
    • [40]川合勇氏は6期ぶりの復配を達成したが再建完了とは言えないと発言
    • [41]田中毅氏は社内の心を一つにすれば成し遂げられると初心を表明
  • 日経ビジネス 1996年9月30日号
    • [37]田中毅氏は1990年6月に日産から常務として移り、購買畑の経験を買われ原価低減を担当
    • [38]群馬工場近くにアパートを借り、部品メーカーや開発陣との折衝を6年間続けた
    • [39]日産同期の桐生機械・小高弘三社長は、田中毅氏を厳しい要求をしても部品メーカーから陰口が出ない人物と評価

田中毅氏はレガシィの開発でコスト引き下げを主導し、社長就任時には他社がレガシィのワゴンを追う新車を相次いで投入していた。1991年の時点で、レガシィのワゴンは乗用のボンネットワゴン市場で19.3%を占め、各10%弱のトヨタ自動車と日産自動車の主力車種を上回った。1991年7月にはレガシィが月販1万557台を記録し、そのうちワゴンが6879台だった。多目的車でトップシェアを握れば価格競争に巻き込まれないという計算が、ワゴンへの集中の前提にあった。新社長の課題には、国内販売の強化と中国・貴州省での乗用車生産の計画が挙がっていた。ワゴンの市場で首位を保つことが、量を追わない再建方針の収益源を守る条件だった。

  • 日経ビジネス 1996年9月30日号
    • [42]田中毅氏はレガシィの開発でコスト引き下げを主導
    • [43]ライバル各社がレガシィワゴンの追撃を狙い新車を相次ぎ投入
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [44]レガシィワゴンは乗用ボンネットワゴン市場で19.3%のトップシェア、トヨタ・日産の主力車種は各10%弱
    • [45]トヨタ・日産の主力車種のシェアは各10%弱
    • [46]1991年7月にレガシィが月販1万557台、うちワゴン6879台
    • [47]多目的車でトヨタ・日産に大差のトップシェアを取れば価格競争に巻き込まれないという計算
  • 財界人 1996年6月号「『21世紀の魅力ある企業でありたい』――富士重工業新社長記者会見」
    • [48]新社長の課題は国内販売の強化と中国・貴州省での乗用車生産プロジェクト

1998年3月期の連結売上高は1,303,988百万円、営業利益は75,531百万円で、営業利益は前期から35.2%増えた。所在地別では北米の外部顧客向け売上高が583,332百万円、営業利益が24,460百万円で、売上高は連結の4割強を占めた。1990年3月期の売上高はトヨタ自動車の10分の1以下で、トラック専業2社を除く国内9社で最下位だった。1998年3月期の株主資本比率は18.7%にとどまった。田中毅氏は1999年12月に、世界の自動車業界に再編のうねりが生じ、いずれ巻き込まれるなら自ら動く方が得策だったと振り返った。業績は回復したものの、北米に売上の4割強を依存する規模のまま、単独で再編に向き合えるかが次の課題として残った。

  • 富士重工業 1998年3月期 連結決算短信(1998年5月25日)
    • [49]1998年3月期 連結売上高1,303,988百万円、営業利益75,531百万円(前期比35.2%増)
    • [50]1998年3月期 所在地別 北米の外部顧客向け売上高583,332百万円、営業利益24,460百万円
    • [52]1998年3月期末の株主資本比率18.7%
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [51]1990年3月期の売上高はトヨタの10分の1以下、トラック専業2社を除く9社で最下位
  • 日経ビジネス 1999年12月20日号
    • [53]田中毅氏は世界的な再編のうねりの中、巻き込まれるなら自ら動く方が賢明と判断した
参考文献[36]-[53]
  • 財界人 1996年6月号「『21世紀の魅力ある企業でありたい』――富士重工業新社長記者会見」
    • [36]1996年4月、田中毅副社長の社長昇格と川合勇社長の代表権会長就任を発表
    • [40]川合勇氏は6期ぶりの復配を達成したが再建完了とは言えないと発言
    • [41]田中毅氏は社内の心を一つにすれば成し遂げられると初心を表明
    • [48]新社長の課題は国内販売の強化と中国・貴州省での乗用車生産プロジェクト
  • 日経ビジネス 1996年9月30日号
    • [37]田中毅氏は1990年6月に日産から常務として移り、購買畑の経験を買われ原価低減を担当
    • [38]群馬工場近くにアパートを借り、部品メーカーや開発陣との折衝を6年間続けた
    • [39]日産同期の桐生機械・小高弘三社長は、田中毅氏を厳しい要求をしても部品メーカーから陰口が出ない人物と評価
    • [42]田中毅氏はレガシィの開発でコスト引き下げを主導
    • [43]ライバル各社がレガシィワゴンの追撃を狙い新車を相次ぎ投入
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [44]レガシィワゴンは乗用ボンネットワゴン市場で19.3%のトップシェア、トヨタ・日産の主力車種は各10%弱
    • [45]トヨタ・日産の主力車種のシェアは各10%弱
    • [46]1991年7月にレガシィが月販1万557台、うちワゴン6879台
    • [47]多目的車でトヨタ・日産に大差のトップシェアを取れば価格競争に巻き込まれないという計算
    • [51]1990年3月期の売上高はトヨタの10分の1以下、トラック専業2社を除く9社で最下位
  • 富士重工業 1998年3月期 連結決算短信(1998年5月25日)
    • [49]1998年3月期 連結売上高1,303,988百万円、営業利益75,531百万円(前期比35.2%増)
    • [50]1998年3月期 所在地別 北米の外部顧客向け売上高583,332百万円、営業利益24,460百万円
    • [52]1998年3月期末の株主資本比率18.7%
  • 日経ビジネス 1999年12月20日号
    • [53]田中毅氏は世界的な再編のうねりの中、巻き込まれるなら自ら動く方が賢明と判断した

1990年〜1998年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a 台湾の大慶汽車工業が生産を開始(1989/04)米国のSIAが現地生産を開始(1989/09)
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 連結 10,404 n/a ▲302 ▲216 ▲2.1% 「スバルテクニカルセンター仙台」を開設(1991/05)
1993年03月期 連結 10,478 +0.7% ▲275 ▲273 ▲2.6% 宇都宮第二工場でボーイング777の部位の生産を開始(1992/07)航空宇宙部門の半田工場が稼働を開始(1992/12)
1994年03月期 連結 10,158 ▲3.1% ▲283 ▲255 ▲2.5% n/a
1995年03月期 連結 11,033 +8.6% 62 12 0.1% n/a
1996年03月期 連結 10,773 ▲2.4% 109 194 1.8% n/a
1997年03月期 連結 12,230 +13.5% 419 396 3.2% n/a
1998年03月期 連結 13,040 +6.6% 613 307 2.4% 台湾の大慶汽車工業で「インプレッサ」の生産を開始(1997/11)

出所:会社年鑑

出典・参考

8件
出典・参考
  • 富士重工業 1998年3月期 連結決算短信(1998年5月25日)
  • 株式会社SUBARU 有価証券報告書 第93期(2024年3月期)【沿革】
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
  • 日経ビジネス 1992年11月9日号 編集長インタビュー 川合勇氏
  • 財界人 1996年6月号「『21世紀の魅力ある企業でありたい』――富士重工業新社長記者会見」
  • 日経ビジネス 1996年9月30日号
  • 日経ビジネス 1997年1月27日号
  • 日経ビジネス 1999年12月20日号

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