ホンダ:三菱自動車工業との合併説の否定と「新しい本田技研工業」
国内販売80万台を狙ったRV投入と、1,600万台計画のもとでの自主自立
1990年〜合議から社長決裁への切り替えと、TQMによる品質とコストの立て直し
1990年6月、本田技術研究所の出身で専務だった川本信彦氏が本田技研工業の社長に就任した。川本氏は1982年の米国進出以降、日米で決定が重なり意思決定が込み入っていく状態を、1980年代半ばから問題とみていた。そこへ円高と通商摩擦が重なったため、社内の仕組みと為替への備えを一括して組み替える必要があると判断した。業績も就任から数年は振るわず、単独の経常利益は1990年3月期の905億円から1994年3月期の227億円へ、4分の1にまで縮んだ。事業が日米にまたがる規模に達した段階で、拡大期に合っていた合議の進め方が、かえって決定を遅らせる要因に変わっていたとみられる。
- 日経ビジネス 1997年3月17日号
- [1]1963年4月本田技術研究所入社、1989年6月専務、1990年6月本田技研工業社長に就任
- [4]単独の経常利益は1990年3月期905億円から1994年3月期227億円へ4分の1に減少
- 日経ビジネス 1995年12月25日号
- [2]1980年代半ばから、1982年の米国進出後に日米で決定が重複し意思決定が複雑化、運営が非効率になったと感じていた
- [3]円高・通商摩擦の外的要因が加わり、社内システムと円高対応を全部込みで変える必要があると判断した
川本氏は、本田の前提だった成長・競争・輸出という枠組みが崩れ、安定・共存・世界化へ置き換わったと捉えていた。そのうえで、役員が大部屋に集まり序列を問わず議論して方針を固める従来の進め方を改め、社長が一人で決断する方式へ移した。歴代の社長には、本田宗一郎氏における藤沢武夫氏のように社長に近い権限を持つ副社長が付いてきたが、川本氏はその役を置かなかった。各人の責任を明確にするため、年俸制と管理職定年制も導入した。暗黙の了解に頼らず、判断は必ず言葉にして共有するよう社内に求めた。F1からの撤退を決めたのも川本氏で、社内の技術者からは反発が出た。1994年ごろには社内の不協和音が最も強まり、川本氏の手法を独裁とみる声が陰で広がったという。
- 日経ビジネス 1997年3月17日号
- [5]成長・競争・輸出というパラダイムが崩れ、安定・共存・世界化に置き換わったという認識
- [6]大部屋の役員室で序列に関係なく話し合う「ワイガヤ」を改め、社長1人が決断を下す方式にした
- [7]歴代社長には社長に匹敵する権限の副社長がいたが、川本氏は女房役をつくらなかった
- [10]F1からの撤退を決めたのは川本氏で、エンジニアから批判が上がった
- [11]1994年に社内の不協和音がピークに達し、陰で独裁と批判された
- 日経ビジネス 1995年12月25日号
- [8]各自が責任を持って決めるため、年俸制や管理職定年制の導入など人事制度を変えた
- [9]あうんの呼吸をやめ、全部言葉にするよう社内に求めた
川本氏が社内の反発を押して取り入れたのが、TQM(総合的品質管理)だった。導入後、鈴鹿製作所と狭山製作所では、組立後の検査で不良が見つかって手直しに回る割合が、多い時の3割近くから1割未満へ下がった。発売前に試作車を生産ラインへ流す回数も、最低3回から2回で済む例が増えた。開発の比重もセダンへ移し、1980年代半ばまで2人乗りと3ドア車に偏っていた品ぞろえを4ドア車へ振り向けた。総販売量はその間に減少したが、4ドア車でシビックとインテグラの大衆車、インスパイアとビガーの上級車という2つの価格帯のシェアを取れた。量販車種を安定して造れる土台が、次にRVへ参入する前提になったとみられる。
- 日経ビジネス 1997年3月17日号
- [12]社内の反対を恐れずTQM(総合的品質管理)を導入し、導入6年後も社内に不満があった
- [13]鈴鹿製作所・狭山製作所で、検査後に手直しする割合が多いときの3割近くから1割未満に減少
- [14]発売前に最低3回ラインへ流していた試作車を2回に減らすことが増えた
- 日経ビジネス 1995年12月25日号
- [15]80年代半ばまではツーシーターと3ドア車中心だったが、その後7、8年は4ドア車に開発の中心を振った
- [16]総販売量は落ちたが、シビック・インテグラとインスパイア・ビガーの2つの価格帯で4ドア車のシェアを取れるようになった
参考文献[1]-[16]
- 日経ビジネス 1997年3月17日号
- [1]1963年4月本田技術研究所入社、1989年6月専務、1990年6月本田技研工業社長に就任
- [4]単独の経常利益は1990年3月期905億円から1994年3月期227億円へ4分の1に減少
- [5]成長・競争・輸出というパラダイムが崩れ、安定・共存・世界化に置き換わったという認識
- [6]大部屋の役員室で序列に関係なく話し合う「ワイガヤ」を改め、社長1人が決断を下す方式にした
- [7]歴代社長には社長に匹敵する権限の副社長がいたが、川本氏は女房役をつくらなかった
- [10]F1からの撤退を決めたのは川本氏で、エンジニアから批判が上がった
- [11]1994年に社内の不協和音がピークに達し、陰で独裁と批判された
- [12]社内の反対を恐れずTQM(総合的品質管理)を導入し、導入6年後も社内に不満があった
- [13]鈴鹿製作所・狭山製作所で、検査後に手直しする割合が多いときの3割近くから1割未満に減少
- [14]発売前に最低3回ラインへ流していた試作車を2回に減らすことが増えた
- 日経ビジネス 1995年12月25日号
- [2]1980年代半ばから、1982年の米国進出後に日米で決定が重複し意思決定が複雑化、運営が非効率になったと感じていた
- [3]円高・通商摩擦の外的要因が加わり、社内システムと円高対応を全部込みで変える必要があると判断した
- [8]各自が責任を持って決めるため、年俸制や管理職定年制の導入など人事制度を変えた
- [9]あうんの呼吸をやめ、全部言葉にするよう社内に求めた
- [15]80年代半ばまではツーシーターと3ドア車中心だったが、その後7、8年は4ドア車に開発の中心を振った
- [16]総販売量は落ちたが、シビック・インテグラとインスパイア・ビガーの2つの価格帯で4ドア車のシェアを取れるようになった
1993年〜国内専用RVの開発と、三菱自動車工業との合併説の否定
1993年ごろ、本田技研工業の国内販売は60万台強にとどまっており、これを1998年までに80万台へ引き上げる方針を固めた。80万台の根拠は、雇用を含む国内の基盤を保つのに年120万台前後の生産が要り、輸出分を除くと国内で80万台を売る必要があるという計算だった。当時の開発投資は65%がシビックやアコードなどの世界共通車、30%が東南アジアと米国向けの乗用車に充てられ、国内専用車は5%にすぎなかった。川本氏はこの配分を改め、新型車を国内専用のモデルとして開発する方針を採った。世界共通車は販売量の大きい米国の好みに設計が寄るため、立て直しの対象である国内市場を基準に据えるという判断だった。
- 日経ビジネス 1997年3月17日号
- [17]国内の雇用を守るため、当時60万強だった国内販売台数を98年までに80万台に引き上げる決意を固めた
- [19]93年当時の開発投資は国内専用モデル5%、世界共通モデル65%、東南アジア・米国向け乗用車30%
- [20]1993年、川本氏が新型車を国内専用モデルとして開発することを決めた
- [21]世界モデルは米国の好みに引っ張られるため、国内の立て直しを優先して日本を見て開発すると判断した
- 日経ビジネス 1999年1月18日号
- [18]国内の基盤を守るには120万台程度の生産規模が必要で、輸出分を差し引くと国内で80万台を売る必要がある
1994年秋のオデッセイを皮切りに、1995年秋にCR-V、1996年にステップワゴンとS-MXが発売された。本田技研工業はそれまで何度もRVの開発を計画しながら、生産原価が見合わずに断念してきた。副社長だった吉野浩行氏は、TQMで品質とコスト、開発速度が改善したことをRV成立の前提に挙げた。開発総責任者の人選も、研究所の出身者から営業・生産・購買の出身者へ広げた。1994年には営業企画室長の有澤徹氏が、ステップワゴンとS-MXの開発総責任者に就任した。1997年3月期の経常利益は1,550億円の見込みとなり、前年の3.3倍に達した。国内販売は1997年に一度80万台を超えたが、その台数には販売会社の自社登録分も含まれていた。
- 日経ビジネス 1997年3月17日号
- [22]94年秋のオデッセイ、95年秋のCR-V、96年のステップワゴン・S-MXと一連のRVがヒット
- [23]過去に何度もRV開発を計画したが、生産コストが見合わず断念していた
- [24]副社長の吉野浩行氏はTQMによる品質・コスト・開発スピードの改善がRV成功の前提だったとした
- [25]研究所出身者が慣例だった開発総責任者に、営業・生産・購買畑の出身者を抜擢していった
- [26]1994年、営業企画室長だった有澤徹氏をステップワゴンとS-MXの開発総責任者に任命
- [27]1997年3月期の経常利益は1550億円の見込みで前年の3.3倍
- 日経ビジネス 1999年1月18日号
- [28]1997年末に国内販売80万台の目標を達成するため、販売会社の自社登録を含めて台数を増やした
1995年1月、新聞が1面で本田技研工業と三菱自動車工業の合併を報じた。発端は、乗用車に偏る本田とRVに強い三菱自工が組めば互いを補えるという、ある銀行筋の机上の試算だったという。川本氏は同年12月のインタビューで合併説を否定し、自社が変わることを先に置くべきだとして『旧来型のパラダイムを2つ合わせて、それが未来的だと言うのはおかしな話です』と述べた。当面の課題として挙げたのは、米欧の先進国での事業の確立、国内販売80万台体制の構築、国内の本田の再編の3点だった。従業員の動機づけを欠いたまま資本の論理だけで企業を動かすことはできないとも主張した。本田技研工業はこの時点で、規模の拡大ではなく商品と社内の仕組みの立て直しで単独の存続を図ったといえる。
- 日経ビジネス 1997年3月17日号
- [29]1995年1月、新聞が1面トップで本田技研工業と三菱自動車工業の合併を報じた
- [30]RVに出遅れた本田とRVを持つ三菱自工が合併すれば補完できるとした銀行筋の机上の計算が発端
- 日経ビジネス 1995年12月25日号
- [31]川本氏は三菱自工との合併説を否定し、今は自らが変わることが大事だとした
- [32]当面の課題は米欧先進国での事業確立、国内販売80万台体制、日本の本田のリストラの3つ
- [33]従業員の動機づけを忘れて資本だけで企業を動かそうとしても動かないとした
参考文献[17]-[33]
- 日経ビジネス 1997年3月17日号
- [17]国内の雇用を守るため、当時60万強だった国内販売台数を98年までに80万台に引き上げる決意を固めた
- [19]93年当時の開発投資は国内専用モデル5%、世界共通モデル65%、東南アジア・米国向け乗用車30%
- [20]1993年、川本氏が新型車を国内専用モデルとして開発することを決めた
- [21]世界モデルは米国の好みに引っ張られるため、国内の立て直しを優先して日本を見て開発すると判断した
- [22]94年秋のオデッセイ、95年秋のCR-V、96年のステップワゴン・S-MXと一連のRVがヒット
- [23]過去に何度もRV開発を計画したが、生産コストが見合わず断念していた
- [24]副社長の吉野浩行氏はTQMによる品質・コスト・開発スピードの改善がRV成功の前提だったとした
- [25]研究所出身者が慣例だった開発総責任者に、営業・生産・購買畑の出身者を抜擢していった
- [26]1994年、営業企画室長だった有澤徹氏をステップワゴンとS-MXの開発総責任者に任命
- [27]1997年3月期の経常利益は1550億円の見込みで前年の3.3倍
- [29]1995年1月、新聞が1面トップで本田技研工業と三菱自動車工業の合併を報じた
- [30]RVに出遅れた本田とRVを持つ三菱自工が合併すれば補完できるとした銀行筋の机上の計算が発端
- 日経ビジネス 1999年1月18日号
- [18]国内の基盤を守るには120万台程度の生産規模が必要で、輸出分を差し引くと国内で80万台を売る必要がある
- [28]1997年末に国内販売80万台の目標を達成するため、販売会社の自社登録を含めて台数を増やした
- 日経ビジネス 1995年12月25日号
- [31]川本氏は三菱自工との合併説を否定し、今は自らが変わることが大事だとした
- [32]当面の課題は米欧先進国での事業確立、国内販売80万台体制、日本の本田のリストラの3つ
- [33]従業員の動機づけを忘れて資本だけで企業を動かそうとしても動かないとした
1998年〜吉野浩行氏の需要地生産と、1,600万台計画のもとでの欧州の立て直し
1998年6月、副社長の吉野浩行氏が社長に就任した。直前の1998年3月期、連結の当期純利益は2,606億円と過去最高に達していた。吉野氏は為替や貿易摩擦の影響を受けにくくするため、需要のある地域で生産する比率を高める方針を掲げた。当時の利益は8割近くを米国市場に依存しており、吉野氏は1998年ごろから欧州へ経営資源を振り向け始めた。英BAeから持ち込まれたローバーの完全買収の話は断り、提携関係の切れた欧州で、現地の需要に合わせた車を自前で開発して投入した。米フォードによる買収構想が伝えられた際も再編への参加を否定し、規模より売れる車を持てるかどうかを存続の条件とみた。
- 日経ビジネス 1999年1月18日号
- [34]1998年6月、副社長の吉野浩行氏が本田技研工業社長に就任
- [36]為替変動や貿易摩擦に左右されないよう、需要のある地域で生産する「自給率」を高める方針
- [37]利益の8割近くを米国市場に依存し、この1年余りは欧州に力を入れ始めた
- [38]英BAeからのローバー完全買収の打診を断り、ローバーとの関係が切れた後に欧州市場向けの車を独自に開発・投入した
- [39]米フォードによる買収構想の報に対し再編の考えを否定し、規模ではなく売れる車を持てるかが問題だとした
- 本田技研工業 アニュアルレポート2001「主要財務データ」
- [35]1998年3月期の連結当期純利益は2,606億2,500万円
2000年4月、本田技研工業は米州本部から南米を切り離し、世界を日本・北米・南米・欧州・アジア大洋州の5地域に分けた地域本部制へ改めた。同時に、国内で四輪車を年80万台売り続けられる体制を改めて目標に据えた。欧州では1999年10月、生産と販売の担当地域を英国・北部・南部の3つに分けた。2001年春には、英国で年産能力10万台の第2工場を動かす計画だった。2000年には、2004年3月期に二輪700万台、四輪300万台、汎用製品600万台、計1,600万台を売る目標を掲げた。初年度にあたる2001年3月期の売上台数は計約1,150万台だった。一方で欧州は四輪の販売不振から英国工場の稼働率が能力の約半分に落ち、地域別の営業利益は2年続けて赤字となった。
- 本田技研工業 アニュアルレポート2000「社長メッセージ」
- [40]2000年4月1日、米州本部から南米を分離し、日本・北米・南米・欧州・アジア大洋州の五つの地域本部制に変更
- [41]日本で四輪車を年間継続的に80万台販売できる体制の確立をめざす
- [42]1999年10月、生産・販売の担当テリトリーとして欧州全域を英国・北部・南部の三地域に分割
- [43]2001年春に英国で年間生産能力10万台の四輪車第二工場が稼働予定
- 本田技研工業 アニュアルレポート2001「株主の皆さまへ」
- [44]2004年3月期の販売目標として二輪車700万台、四輪車300万台、汎用製品600万台、合計1,600万台を前年に掲げた
- [45]2001年3月期の売上台数は二輪車511万台、四輪車258万台、汎用製品388万台、合計約1,150万台
- [46]2001年3月期は四輪車の販売不振で英国四輪工場の稼働率が生産能力の約半分となり、欧州事業のセグメント別営業利益は2年連続で赤字
2002年3月期、本田技研工業の連結売上高は7兆3,624億円、当期純利益は3,627億円となり、ともに過去最高を更新した。国内では2001年6月発売のフィットが、同年11月から3か月連続で登録乗用車の車名別販売台数の首位に立った。米国ではアコードが2001年の車名別乗用車販売で10年ぶりに年間首位を取った。本田技研工業は、業界で合従連衡が相次いだ数年間に再編へ加わらず、自主自立の方針を保ったまま業績を向上させた。欧州では英国工場の稼働率を上げるため、シビック3ドアを日本と北米へ、新型CR-Vを北米へ輸出する計画を立てた。CR-Vの北米向け供給は2002年4月に始まり、欧州の余った生産能力を域外の需要で埋める手当てが動き出した。
- 本田技研工業 アニュアルレポート2002「株主の皆さまへ」
- [47]2002年3月期の連結売上高7兆3,624億円、当期純利益3,627億円で、いずれも過去最高を更新
- [48]2001年6月発売のフィットが2001年11月から3カ月連続で登録乗用車名別販売台数トップ
- [49]米国でアコードが2001年の車名別乗用車販売台数で10年ぶりに年間首位
- [50]自動車業界で合従連衡が数多く見られるなか、自主自立のスタンスを貫いて成長を続けた
- [52]第2工場で能力を増強した英国工場から、2002年4月にCR-Vの北米向け供給を開始
- 本田技研工業 アニュアルレポート2001「株主の皆さまへ」
- [51]英国四輪工場のフル稼働をめざし、シビック3ドアの日本・北米向け輸出と新型CR-Vの北米向け輸出を計画
参考文献[34]-[52]
- 日経ビジネス 1999年1月18日号
- [34]1998年6月、副社長の吉野浩行氏が本田技研工業社長に就任
- [36]為替変動や貿易摩擦に左右されないよう、需要のある地域で生産する「自給率」を高める方針
- [37]利益の8割近くを米国市場に依存し、この1年余りは欧州に力を入れ始めた
- [38]英BAeからのローバー完全買収の打診を断り、ローバーとの関係が切れた後に欧州市場向けの車を独自に開発・投入した
- [39]米フォードによる買収構想の報に対し再編の考えを否定し、規模ではなく売れる車を持てるかが問題だとした
- 本田技研工業 アニュアルレポート2001「主要財務データ」
- [35]1998年3月期の連結当期純利益は2,606億2,500万円
- 本田技研工業 アニュアルレポート2000「社長メッセージ」
- [40]2000年4月1日、米州本部から南米を分離し、日本・北米・南米・欧州・アジア大洋州の五つの地域本部制に変更
- [41]日本で四輪車を年間継続的に80万台販売できる体制の確立をめざす
- [42]1999年10月、生産・販売の担当テリトリーとして欧州全域を英国・北部・南部の三地域に分割
- [43]2001年春に英国で年間生産能力10万台の四輪車第二工場が稼働予定
- 本田技研工業 アニュアルレポート2001「株主の皆さまへ」
- [44]2004年3月期の販売目標として二輪車700万台、四輪車300万台、汎用製品600万台、合計1,600万台を前年に掲げた
- [45]2001年3月期の売上台数は二輪車511万台、四輪車258万台、汎用製品388万台、合計約1,150万台
- [46]2001年3月期は四輪車の販売不振で英国四輪工場の稼働率が生産能力の約半分となり、欧州事業のセグメント別営業利益は2年連続で赤字
- [51]英国四輪工場のフル稼働をめざし、シビック3ドアの日本・北米向け輸出と新型CR-Vの北米向け輸出を計画
- 本田技研工業 アニュアルレポート2002「株主の皆さまへ」
- [47]2002年3月期の連結売上高7兆3,624億円、当期純利益3,627億円で、いずれも過去最高を更新
- [48]2001年6月発売のフィットが2001年11月から3カ月連続で登録乗用車名別販売台数トップ
- [49]米国でアコードが2001年の車名別乗用車販売台数で10年ぶりに年間首位
- [50]自動車業界で合従連衡が数多く見られるなか、自主自立のスタンスを貫いて成長を続けた
- [52]第2工場で能力を増強した英国工場から、2002年4月にCR-Vの北米向け供給を開始
筆者考察
本田技研工業が1990年代に合併の話を退けられたのは、独立の根拠を規模から自社製品の採算へ置き直していたからである。川本信彦氏が社長に就任した時点の本田は、合議で商品を押し出す拡大期の仕組みのまま日米にまたがる規模に達しており、決定は遅れ、利益も細っていた。川本氏は合議を社長の決裁に替え、TQMで手直しと試作の回数を減らし、国内専用のRVを採算の合う原価で造れる状態にした。オデッセイに始まるRVは、この準備の上に出た商品である。1995年に三菱自動車工業との合併説を否定できたのは、この仕組みがすでに回り始めていたからだろう。古い仕組みのまま二社を足しても、変わる前の弱点が二つ重なるだけだった。
吉野浩行氏の代になると、単独で立つ条件は規模ではなく、為替と地域の偏りに耐えられることへ移った。利益の8割近くを米国に依存する構造では、販売の弱い欧州の工場は稼働率の低さがそのまま赤字として顕在化する。ローバーとの資本関係が切れた後の欧州では、自前の車と工場で採算を立てるほかなかった。5つの地域本部と1,600万台の販売目標は、需要のある地域で造り、地域ごとに採算を立たせるための装置だった。2002年3月期の当期純利益3,627億円は、その組み替えの途中で出た最高益である。英国工場の余った能力を域外への輸出で埋める手当ては始まったばかりで、欧州事業の採算は次の体制へ持ち越された。
- 決算期は3月で、棒は各年度の連結当期純利益。1994年3月期の237億円を底に、RV投入後の1997年3月期に2,211億円へ戻った。
- 出所は本田技研工業 アニュアルレポート2001「主要財務データ」(1991年3月期〜2001年3月期、100万円単位を億円に換算)と、アニュアルレポート2002「株主の皆さまへ」(2002年3月期)。
1990年〜2002年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 連結 | 43,918 | n/a | 648 | 1.5% | n/a |
| 1993年03月期 | 連結 | 41,324 | ▲5.9% | 371 | 0.9% | タイにホンダカーズマニュファクチュアリング(タイランド)を設立(1992/07) |
| 1994年03月期 | 連結 | 38,627 | ▲6.5% | 236 | 0.6% | n/a |
| 1995年03月期 | 連結 | 39,661 | +2.7% | 615 | 1.6% | n/a |
| 1996年03月期 | 連結 | 42,522 | +7.2% | 708 | 1.7% | n/a |
| 1997年03月期 | 連結 | 52,933 | +24.5% | 2,211 | 4.2% | n/a |
| 1998年03月期 | 連結 | 59,997 | +13.3% | 2,606 | 4.3% | n/a |
| 1999年03月期 | 連結 | 62,310 | +3.9% | 3,050 | 4.9% | n/a |
| 2000年03月期 | 連結 | 60,988 | ▲2.1% | 2,624 | 4.3% | n/a |
| 2001年03月期 | 連結 | 64,383 | +5.6% | 2,322 | 3.6% | n/a |
| 2002年03月期 | 連結 | 73,624 | +14.4% | 3,627 | 4.9% | n/a |
出所:会社年鑑、有価証券報告書
出典・参考
7件
- 本田技研工業 アニュアルレポート2000「社長メッセージ」
- 本田技研工業 アニュアルレポート2001「主要財務データ」
- 本田技研工業 アニュアルレポート2001「株主の皆さまへ」
- 本田技研工業 アニュアルレポート2002「株主の皆さまへ」
- 日経ビジネス 1995年12月25日号
- 日経ビジネス 1997年3月17日号
- 日経ビジネス 1999年1月18日号