日本ビクター:VHSのオープン標準化と収益基盤の喪失
VHSファミリーの拡大による1992年の無配転落
1976年〜ライセンスの開放によるVHS陣営の形成
1976年10月、日本ビクターはVHS方式の第1号機HR-3300を25万6,000円で発売した。家庭用VTRでは前年にソニーがベータマックス方式を売り出して先行しており、後発として採ったのが、規格を自社で囲わず他社へライセンスを与えて陣営を広げる道だった。1984年にはベータ陣営にいた東京芝浦電気が転向し、日本ビクターは前日まで敵として争ったことにこだわらず、技術者を東芝の工場へ送って量産を助けた。12年続いた規格の争いは1988年1月、最後までベータを守ったソニーがVHSへ参入すると表明したことで終わる。ライセンスを配るほど味方は増え、標準としての地位は固まっていった。
- 日経ビジネス 1988年12月5日号
- [1]1976年10月にVHS方式の第1号機「HR-3300」を発売、価格は25万6,000円
- [3]VHSが巨大産業となったのは、開発企業である日本ビクターがベータ陣営との競争に勝ち抜くためライセンスを他社に与え、積極的にファミリー作りを進めたため
- [4]1984年に東芝がベータからVHSへ転向した際、日本ビクターは技術者を東芝の工場へ送って量産を手助けした
- [5]1976年以降12年続いたVHS対ベータの規格争いは、1988年1月にソニーがVHS参入を表明したことでVHS陣営の完勝に終わった
- 森谷正規『技術開発の昭和史』(1986年)「家庭用VTR」
- [2]ソニーは1975年にベータマックス方式を売り出してVHSに先行した
VHS陣営づくりの交渉は、松野幸吉社長と当時副社長の徳光博文氏、常務の高野鎮雄氏らが担った。他社への呼びかけでは規格の採用を迫らず、『みなさん一緒にこのVTRシステムの完成に努力しましょう』と共同の完成事業として持ちかけた。企業間の交渉では製品の良し悪しに劣らずトップ同士の信頼が重要であり、それがなければ協力は得られないと、後を継いだ宍道一郎社長は述べた。ライセンスの供与に加えて膨大なOEM供給も行われ、VHSは1988年時点で年間生産4,000万台、累積普及2億1,000万台という産業に育った。
- 日経ビジネス 1981年5月4日号
- [6]VHSのファミリーづくりは松野幸吉会長(当時社長)、当時副社長の徳光博文、常務の高野鎮雄らが担い、宍道一郎自身は渦中になかった
- [7]ファミリーづくりでは他社へ「みなさん一緒にこのVTRシステムの完成に努力しましょう」と呼びかけ、それが受け入れられた
- [8]企業間の交渉では製品の良し悪しに負けず劣らずトップ同士の信頼が重要で、人間としての信頼がなければ協力は得られない、との認識
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [9]VHSが世界規格になった裏には膨大なOEM供給があった
- 日経ビジネス 1988年12月5日号
- [10]1988年時点で家庭用VTRの年間生産台数は4,000万台、累積普及台数は2億1,000万台
1975年3月期の日本ビクターは、売上高1,066億円のうちオーディオが52%、テレビが3割弱で、輸出は24%にすぎない、国内市場頼みの中堅メーカーだった。1976年3月期に売上1,104億円・税引利益10億円だった業績は、1981年3月期には売上3,600億円・利益140億円に達し、オーディオの構成比は5年前の48%から31%へ下がって、発売の時点では市場に存在すらしなかった製品であるVTRの比率が51%に達した。VHSの登場から5年で収益源が入れ替わった理由として、宍道社長は、業績の底でも研究費に手を付けなかったことを挙げた。苦しいときは研究費や宣伝費から削減するのが普通だが、同社は人も資金も注ぎ続け、それが新技術の芽を守ったという見方である。
- 日経ビジネス 1988年12月5日号
- [11]VTR発売前の1975年3月期の売上高は1,066億円で、オーディオが52%、テレビが30%弱、輸出比率は24%。オーディオ主体・内需依存型の中堅メーカーだった
- 日経ビジネス 1981年5月4日号
- [12]1976年3月期の売上高1,104億円・税引利益10億円に対し、1981年3月期は3,600億円・140億円(推定)。5年前に48%あったオーディオは31%に低下し、VTRが51%を占めた
- [13]経営が苦しくなると切りやすい研究費や宣伝費をカットしがちだが幸いそうならず、研究開発に人と資金を付け続けたため新技術開発の根が残った、との認識
参考文献[1]-[13]
- 日経ビジネス 1988年12月5日号
- [1]1976年10月にVHS方式の第1号機「HR-3300」を発売、価格は25万6,000円
- [3]VHSが巨大産業となったのは、開発企業である日本ビクターがベータ陣営との競争に勝ち抜くためライセンスを他社に与え、積極的にファミリー作りを進めたため
- [4]1984年に東芝がベータからVHSへ転向した際、日本ビクターは技術者を東芝の工場へ送って量産を手助けした
- [5]1976年以降12年続いたVHS対ベータの規格争いは、1988年1月にソニーがVHS参入を表明したことでVHS陣営の完勝に終わった
- [10]1988年時点で家庭用VTRの年間生産台数は4,000万台、累積普及台数は2億1,000万台
- [11]VTR発売前の1975年3月期の売上高は1,066億円で、オーディオが52%、テレビが30%弱、輸出比率は24%。オーディオ主体・内需依存型の中堅メーカーだった
- 森谷正規『技術開発の昭和史』(1986年)「家庭用VTR」
- [2]ソニーは1975年にベータマックス方式を売り出してVHSに先行した
- 日経ビジネス 1981年5月4日号
- [6]VHSのファミリーづくりは松野幸吉会長(当時社長)、当時副社長の徳光博文、常務の高野鎮雄らが担い、宍道一郎自身は渦中になかった
- [7]ファミリーづくりでは他社へ「みなさん一緒にこのVTRシステムの完成に努力しましょう」と呼びかけ、それが受け入れられた
- [8]企業間の交渉では製品の良し悪しに負けず劣らずトップ同士の信頼が重要で、人間としての信頼がなければ協力は得られない、との認識
- [12]1976年3月期の売上高1,104億円・税引利益10億円に対し、1981年3月期は3,600億円・140億円(推定)。5年前に48%あったオーディオは31%に低下し、VTRが51%を占めた
- [13]経営が苦しくなると切りやすい研究費や宣伝費をカットしがちだが幸いそうならず、研究開発に人と資金を付け続けたため新技術開発の根が残った、との認識
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [9]VHSが世界規格になった裏には膨大なOEM供給があった
1981年〜輸出比率7割への傾斜と、円高が崩した収益
1981年3月、日本ビクターは藤枝工場を新設した。VTRの需要は世界で一斉に立ち上がり、テープは作っても作っても伸びに追いつかない状態にあった。生産を増やして輸出へ振り向けた結果、1982年3月期の輸出比率は7割を超え、1981年から1982年にかけてのオーディオ不況も難なく乗り切っている。1979年6月に初の生え抜き社長となった宍道一郎氏の下で、1985年3月期の売上高は10年前の6.1倍にあたる6,501億円、経常利益は19倍の428億円に達し、ビデオ部門は売上の68%を占める最大の収益源に育った。
- 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2009年3月期)【沿革】
- [14]1981年3月 藤枝工場を新設
- 日経ビジネス 1981年5月4日号
- [15]ビデオ商品は全世界で一斉に需要が起きる特徴があり、テープ産業は作っても作っても需要の伸びに追いつかない状態にあった
- [17]宍道一郎は1946年8月に日本ビクターへ入社し、1979年6月に社長へ就任、日本ビクター初の生え抜き社長となった
- 日経ビジネス 1988年12月5日号
- [16]欧州でVTRの輸出規制が始まる直前の1982年3月期は輸出比率が7割を超え、1981年から1982年にかけてのオーディオ不況も苦もなく乗り切った
- [18]1985年3月期の売上高は6,501億円(10年前の6.1倍)、経常利益は428億円(19倍)。ビデオ部門の売上比率は68%で最大の収益源
1982年に売り出したコンパクトビデオHR-C3は、バッテリーを含めて2キロと、従来のポータブル型の半分の重量に収まった。据え置き型からポータブルへという流れのなかで各社が100グラム単位の軽量化を競い、買い手はまだ小さくなるとみて購入を控えていた。カセットを小型にしつつテープ幅は2分の1インチのまま残し、専用アダプターで既存のVHSとの互換を保つ。回路にICを大幅に取り入れて部品点数を40%削減し、消費電力を半分に落としてバッテリー重量も半減させた。モーターをシリンダー内に収め、基板の裏にも部品を付けて空間を三層に使い、CADで設計精度を高めている。35ミリ映写機と16ミリ撮影機を作っていた時代のプレス・機械加工のノウハウが社内に残り、心臓部を25年間外注しなかったことが、この精度を可能にした。
- 日経ビジネス 1982年8月9日号(曲尾定二 日本ビクター・ビデオ事業部長)
- [19]HR-C3型はバッテリーを含めて2キロで、従来のポータブル型ビデオの半分の重量、容積で40%近く小型。最大20分間の録画が可能
- [20]ポータブル型は家庭用ビデオ全体の25%を占め、2年間メーカー各社は100グラム単位の軽量化を競った。ユーザーはまだ小さくなるとみて買い控えが高まっていた
- [21]テープ幅は現行VHSの2分の1インチのままカセットのサイズを変え、専用カセットアダプターで既存のVHS方式ビデオとの互換性を確保した
- [22]回路の設計に大幅にICを取り入れ、モーターも新開発して消費電力を半分に、バッテリー重量もほぼ半分に。回路のIC化で部品点数は40%削減
- [23]モーターをシリンダー内に完全に収め、基板の裏にも部品を付けた3層構造とし、設計段階でCADを最大限に利用して設計精度を高めた
- [24]35ミリ映写機・16ミリ撮影機の製造経験でプレス加工・機械加工のノウハウが社内に蓄積されており、25年前からのビデオ生産で心臓部分は内製して外注しなかった
1982年3月期を頂点に、日本ビクターの利益率は反転して下がり続けた。輸出が8割を超えるVTR業界は1985年秋からの円高で軒並み低採算に陥り、そこへ製品の値崩れが重なる。1987年3月期には上場以来初の営業赤字に転落し、50億円強の金融収支の黒字と年100数十億円の技術料収入によって、辛うじて経常赤字を免れた。頂点で10%近くあった売上高経常利益率は2%台まで落ち、売上高は3年続けて減少した。同じ1987年8月には親会社の松下電器産業がハイファイVTRに10万円の値を付けて安値攻勢をかけ、国内市場の値崩れは一段と進む。円高不況を海外生産と成長商品でしのげたのはこの時が最後だったと、のちに坊上卓郎社長は振り返っている。
- 日経ビジネス 1988年12月5日号
- [25]輸出依存・VTR依存の高さが裏目に出て、1982年3月期をピークに利益率は一転して急降下した
- [26]1985年秋からの円高で、輸出が8割を超えるVTR業界は軒並み低採算に陥った
- [27]円高とVTRの値崩れで1987年3月期は上場来初の営業赤字。50億円強の金融収支黒字と年間100数十億円のVTR技術料収入で経常赤字だけは免れた
- [28]ピーク時に10%近くあった売上高経常利益率は2%台へ低下し、1988年3月期までの3年連続で売上高が減少した
- [29]1987年8月に親会社の松下電器がハイファイVTRに10万円の価格を付けて安値攻勢に出た結果、国内VTR市場は一気に値崩れが進んだ
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [30]1985年の円高不況の時は海外生産でしのげ、成長商品がまだあったから助かったが、1992年時点では逃げ場がない、との認識
参考文献[14]-[30]
- 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2009年3月期)【沿革】
- [14]1981年3月 藤枝工場を新設
- 日経ビジネス 1981年5月4日号
- [15]ビデオ商品は全世界で一斉に需要が起きる特徴があり、テープ産業は作っても作っても需要の伸びに追いつかない状態にあった
- [17]宍道一郎は1946年8月に日本ビクターへ入社し、1979年6月に社長へ就任、日本ビクター初の生え抜き社長となった
- 日経ビジネス 1988年12月5日号
- [16]欧州でVTRの輸出規制が始まる直前の1982年3月期は輸出比率が7割を超え、1981年から1982年にかけてのオーディオ不況も苦もなく乗り切った
- [18]1985年3月期の売上高は6,501億円(10年前の6.1倍)、経常利益は428億円(19倍)。ビデオ部門の売上比率は68%で最大の収益源
- [25]輸出依存・VTR依存の高さが裏目に出て、1982年3月期をピークに利益率は一転して急降下した
- [26]1985年秋からの円高で、輸出が8割を超えるVTR業界は軒並み低採算に陥った
- [27]円高とVTRの値崩れで1987年3月期は上場来初の営業赤字。50億円強の金融収支黒字と年間100数十億円のVTR技術料収入で経常赤字だけは免れた
- [28]ピーク時に10%近くあった売上高経常利益率は2%台へ低下し、1988年3月期までの3年連続で売上高が減少した
- [29]1987年8月に親会社の松下電器がハイファイVTRに10万円の価格を付けて安値攻勢に出た結果、国内VTR市場は一気に値崩れが進んだ
- 日経ビジネス 1982年8月9日号(曲尾定二 日本ビクター・ビデオ事業部長)
- [19]HR-C3型はバッテリーを含めて2キロで、従来のポータブル型ビデオの半分の重量、容積で40%近く小型。最大20分間の録画が可能
- [20]ポータブル型は家庭用ビデオ全体の25%を占め、2年間メーカー各社は100グラム単位の軽量化を競った。ユーザーはまだ小さくなるとみて買い控えが高まっていた
- [21]テープ幅は現行VHSの2分の1インチのままカセットのサイズを変え、専用カセットアダプターで既存のVHS方式ビデオとの互換性を確保した
- [22]回路の設計に大幅にICを取り入れ、モーターも新開発して消費電力を半分に、バッテリー重量もほぼ半分に。回路のIC化で部品点数は40%削減
- [23]モーターをシリンダー内に完全に収め、基板の裏にも部品を付けた3層構造とし、設計段階でCADを最大限に利用して設計精度を高めた
- [24]35ミリ映写機・16ミリ撮影機の製造経験でプレス加工・機械加工のノウハウが社内に蓄積されており、25年前からのビデオ生産で心臓部分は内製して外注しなかった
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [30]1985年の円高不況の時は海外生産でしのげ、成長商品がまだあったから助かったが、1992年時点では逃げ場がない、との認識
1987年〜S-VHSによる仕切り直しと、2,400人の削減
1987年1月、日本ビクターは新たなVHS高画質時代の始まりと銘打ってS-VHSを発表した。周波数帯域を大幅に広げ、当時のテレビ放送を上回る水平解像度430本を実現した規格で、VHSに対しては上方への片側互換性しか持たない。互換性を金科玉条としてきた陣営にとって一大決断を要したと、ビデオ研究所長の廣田昭氏は述べている。1988年にはS-VHSを製造する会社が8社に増え、国内のVTRデッキ生産に占める比率は前年の5%から20%程度へ高まる見通しとなり、S-VHSの売上高も前期の約200億円から600億円へ拡大する見込みとなった。同年11月には30億円を投じたショールームを東京・銀座に開き、弱いとされてきた販売の側を補おうとした。
- 日経ビジネス 1988年12月5日号
- [31]1987年1月に「新たなVHS高画質時代のスタート」と銘打ってS-VHSを発表
- [32]S-VHSは周波数帯域を大幅に拡大し、現行テレビ放送を上回る水平解像度430本を実現。VHSに対しては上方への片側互換性しかない
- [33]これまでVHS陣営は互換性を「金科玉条」としてきただけに一大決断を要した、と取締役ビデオ研究所長の廣田昭が説明
- [34]S-VHSデッキの製造は1988年時点で8社。国内のVTRデッキ生産に占めるS-VHSの比率は1987年の5%から1988年は20%程度へ。S-VHSの売上高は前期約200億円から今期600億円に拡大する見通し
- [35]1988年11月10日に東京・港区新橋へショールーム「ニッパーズGINZA」を開設。建物・機材・内装を含め30億円をかけた
三星電子にも1983年にライセンスを出すなど、供与先は韓国企業を含めて世界中に広がった。VHSが世界標準の座を得たその時点から、VTRは利益の出ない産業になっていた。高野鎮雄副社長は、ファミリーが膨らみすぎたと感じながらも、政治問題をはじめ各方面の圧力を受け、技術の供与を断れなかったと認めている。市場が成熟する時期とも重なって作りすぎの構図が固まり、1988年度には130億円の技術料収入が経常利益の6割強を占めた。その半分は韓国勢を含む下位メーカーから入ったものだった。S-VHSでは同じ失敗を繰り返さないため、市場が広がる速さを見極めつつ供与先を少しずつ増やす方針をとる。その特許料収入も1990年3月期の166億円を頂点に、保護期間の満了とともに減り始めた。
- 日経ビジネス 1988年12月5日号
- [36]1983年に三星電子へVHSのライセンスを供与
- [37]ベータを打ち破りVHSが世界標準として確立したまさにその時から、VTR産業は儲からなくなるという皮肉なめぐり合わせになった
- [38]ファミリーが増え過ぎたとも思ったが政治問題などいろいろ圧力もあって技術を与えないわけにはいかなかった、と副社長の高野鎮雄が説明
- [39]1988年度の技術料収入はおよそ130億円で経常利益の6割強を占める見通し。そのうち半分は韓国を含めた下位メーカーからの収入
- [40]S-VHSでは市場拡大のテンポを見ながら徐々にライセンス供与先を広げ、ファミリー拡散による不況の構図を回避する方針
- 日経ビジネス 1991年10月7日号
- [41]VHS関連技術の特許権使用料収入は1990年3月期に166億円でピークを記録し、保護期間が切れるのに伴って漸減しつつある
売上の83%をAV機器が占め、その47%がビデオ、輸出比率は56%という単品頼みの構成だったため、世界的なAV不況はそのまま業績を直撃した。1991年3月期の営業利益は40億円と6年前の7分の1に落ち、売上高営業利益率0.63%は電機業界平均の5.08%に1桁及ばなかった。カメラ一体型VTRでも、1989年に出たソニーの8ミリTR-55に先を越されたまま巻き返せていない。1990年に54歳で社長に就任したのが坊上卓郎氏である。細分化していた事業部は1992年2月に七つの事業本部へ統合され、各本部は社内資本金を割り当てられて独力で稼ぐよう求められた。同じ年の4月には全国の販売子会社を本体に取り込んで流通を短くし、8月には2,400人の削減と無配を決めた。世界標準を取った企業が、その標準ゆえに稼げなくなる——VHSの17年は、規格を開くことの代償を示している。
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [42]1992年3月期は売上高の83%がAV関係でビデオだけで47%、輸出比率は56%。世界的なAV不況の波をまともに受けた
- [45]坊上卓郎は1959年に日本ビクターへ入社、1986年6月に取締役、1990年6月に社長就任。取締役就任から4年、54歳での抜擢
- [46]1992年2月に細分化されていた事業部を七つの事業本部にまとめて事業本部制を導入し、社内の資本金を各事業本部に割り振って黒字・赤字の別なくゼロから出発させた
- [47]1992年4月に販売体制を変更し、全国に散在していた販売子会社を本体へ吸収、規模の大きいところは支店に変えて流通の経路を短くした
- [48]1992年8月に2,400人の人員削減を柱とする合理化策を発表し、無配とした
- 日経ビジネス 1991年10月7日号
- [43]1991年3月期の経常利益は221億円と1985年3月期の約半分、営業利益は7分の1の40億円。売上高営業利益率0.63%は電機業界平均5.08%より1桁低い
- [44]1986年にVHS-C規格の小型機「GR-C7」を開発しながら、1989年に発売されたソニーの8ミリビデオ「TR-55」の独走を許した
参考文献[31]-[48]
- 日経ビジネス 1988年12月5日号
- [31]1987年1月に「新たなVHS高画質時代のスタート」と銘打ってS-VHSを発表
- [32]S-VHSは周波数帯域を大幅に拡大し、現行テレビ放送を上回る水平解像度430本を実現。VHSに対しては上方への片側互換性しかない
- [33]これまでVHS陣営は互換性を「金科玉条」としてきただけに一大決断を要した、と取締役ビデオ研究所長の廣田昭が説明
- [34]S-VHSデッキの製造は1988年時点で8社。国内のVTRデッキ生産に占めるS-VHSの比率は1987年の5%から1988年は20%程度へ。S-VHSの売上高は前期約200億円から今期600億円に拡大する見通し
- [35]1988年11月10日に東京・港区新橋へショールーム「ニッパーズGINZA」を開設。建物・機材・内装を含め30億円をかけた
- [36]1983年に三星電子へVHSのライセンスを供与
- [37]ベータを打ち破りVHSが世界標準として確立したまさにその時から、VTR産業は儲からなくなるという皮肉なめぐり合わせになった
- [38]ファミリーが増え過ぎたとも思ったが政治問題などいろいろ圧力もあって技術を与えないわけにはいかなかった、と副社長の高野鎮雄が説明
- [39]1988年度の技術料収入はおよそ130億円で経常利益の6割強を占める見通し。そのうち半分は韓国を含めた下位メーカーからの収入
- [40]S-VHSでは市場拡大のテンポを見ながら徐々にライセンス供与先を広げ、ファミリー拡散による不況の構図を回避する方針
- 日経ビジネス 1991年10月7日号
- [41]VHS関連技術の特許権使用料収入は1990年3月期に166億円でピークを記録し、保護期間が切れるのに伴って漸減しつつある
- [43]1991年3月期の経常利益は221億円と1985年3月期の約半分、営業利益は7分の1の40億円。売上高営業利益率0.63%は電機業界平均5.08%より1桁低い
- [44]1986年にVHS-C規格の小型機「GR-C7」を開発しながら、1989年に発売されたソニーの8ミリビデオ「TR-55」の独走を許した
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- [42]1992年3月期は売上高の83%がAV関係でビデオだけで47%、輸出比率は56%。世界的なAV不況の波をまともに受けた
- [45]坊上卓郎は1959年に日本ビクターへ入社、1986年6月に取締役、1990年6月に社長就任。取締役就任から4年、54歳での抜擢
- [46]1992年2月に細分化されていた事業部を七つの事業本部にまとめて事業本部制を導入し、社内の資本金を各事業本部に割り振って黒字・赤字の別なくゼロから出発させた
- [47]1992年4月に販売体制を変更し、全国に散在していた販売子会社を本体へ吸収、規模の大きいところは支店に変えて流通の経路を短くした
- [48]1992年8月に2,400人の人員削減を柱とする合理化策を発表し、無配とした
筆者考察
日本ビクターがVHSで獲得したのは市場そのものであり、失ったのはその市場で稼ぐ力だった。1976年に売り出した第1号機の値は25万6,000円。後発の日本ビクターが先行するソニーのベータマックスに対して選んだのは、規格を自社で独占せず他社へライセンスとして開き、味方を増やすことで標準を取る道だった。1984年には敵陣営にいた東京芝浦電気までが転向し、12年後にはソニー自身がVHSへの参入を表明する。売上高は1976年3月期の1,104億円から1985年3月期の6,501億円へ、経常利益は19倍の428億円へ膨らんだ。
しかし、味方を増やす戦い方は、標準を取った瞬間に自分へ跳ね返った。VHSの作り手は韓国企業まで含めて世界中に広がり、市場の成熟と重なって生産過剰の構図ができあがる。1987年3月期、日本ビクターは上場以来初の営業赤字に転じた。それを覆い隠したのは、皮肉にも規格を配った見返りである技術料収入であり、1988年度には130億円と経常利益の6割強を占めた。開発者としての取り分だけが残り、製品を作って売る本業からは利益が消えていた。1992年の2,400人削減と無配は、その構造がもはや隠せなくなった地点である。規格を開いて市場を作る企業は、作った市場の外に自分の居場所を用意しておかなければならない。
- 数値の確かめられる期のみ。出所は日経ビジネス 1981年5月4日号・1988年12月5日号・1991年10月7日号。
1976年〜1992年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1976年03月期 | 単体 | 1,104 | n/a | 24 | 10 | 0.9% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 1,369 | +24.0% | 55 | 21 | 1.6% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 1,639 | +19.7% | 72 | 30 | 1.9% | n/a |
| 1979年03月期 | 連結 | 2,384 | +45.4% | n/a | 48 | 2.0% | n/a |
| 1980年03月期 | 連結 | 3,224 | +35.2% | n/a | 106 | 3.3% | n/a |
| 1981年03月期 | 連結 | 4,322 | +34.1% | n/a | 186 | 4.3% | n/a |
| 1982年03月期 | 連結 | 5,709 | +32.1% | n/a | 259 | 4.5% | n/a |
| 1983年03月期 | 連結 | 5,899 | +3.3% | n/a | 214 | 3.6% | n/a |
| 1984年03月期 | 連結 | 6,532 | +10.7% | n/a | 232 | 3.6% | n/a |
| 1985年03月期 | 連結 | 7,653 | +17.2% | n/a | 233 | 3.0% | n/a |
| 1986年03月期 | 連結 | 7,001 | ▲8.5% | n/a | 108 | 1.5% | n/a |
| 1987年03月期 | 連結 | 7,065 | +0.9% | n/a | 65 | 0.9% | n/a |
| 1988年03月期 | 連結 | 7,174 | +1.5% | n/a | 90 | 1.3% | n/a |
| 1989年03月期 | 連結 | 8,209 | +14.4% | n/a | 150 | 1.8% | n/a |
| 1990年03月期 | 連結 | 8,665 | +5.6% | n/a | 184 | 2.1% | n/a |
| 1991年03月期 | 連結 | 9,262 | +6.9% | n/a | 160 | 1.7% | n/a |
| 1992年03月期 | 連結 | 8,386 | ▲9.5% | n/a | 19 | 0.2% | n/a |
出所:会社年鑑、会社四季報
出典・参考
7件
- 日本ビクター 有価証券報告書 第120期(2009年3月期)【沿革】
- 日経ビジネス 1981年5月4日号
- 日経ビジネス 1982年8月9日号(曲尾定二 日本ビクター・ビデオ事業部長)
- 日経ビジネス 1988年12月5日号
- 日経ビジネス 1991年10月7日号
- 日経ビジネス 1992年9月28日号
- 森谷正規『技術開発の昭和史』(1986年)「家庭用VTR」