シャープ:万博を捨てた半導体投資と液晶への転進
1970年〜万博の出展費を回した天理の総合開発センターと、液晶電卓EL-805
奈良県天理市に中央研究所と半導体第1工場を擁する総合開発センターが建ったのは、総額100億円の投資による。そこでは1969年12月発売の全LSI電卓に載せるLSIを、米ノースアメリカン・ロックウェル社からの技術導入を足場に内製へ移した。この資金を振り向けた早川電機工業は、1970年1月にシャープへ社名を変えたその年の大阪万博に自社館を置かず、社長の早川徳次氏が一度は出展を認めていたのに対し、専務の佐伯旭氏には慎重な見方があったとされる。1970年10月に天理のLSI量産工場が完成し、電卓の演算回路を自給する体制が整った。万博の宣伝効果より、電卓の原価を左右するLSIの自給を先に確保したとみられる。
- 日経ビジネス 1984年12月10日号
- [1]出展に代えて総額100億円で奈良県天理市に中央研究所・半導体第1工場などから成る総合開発センターを建設
- [4]1970年の大阪・千里の日本万国博覧会にシャープはパビリオンを出展せず
- [5]万博出展は早川徳次社長(当時)が承認していたが、佐伯旭専務(当時)がためらった
- 経済展望 1970年2月1日号
- [2]電卓用LSIはノースアメリカン・ロックウェル社から技術導入し、輸入から天理工場での自社生産へ順次切り替え。全LSI電卓マイクロコンペットを1969年12月から国内販売
- 日本企業要覧 1971年版「シャープ」
- [3]1970年1月1日 早川電機工業からシャープへ商号を変更
- [6]1970年10月 奈良県天理市のLSI量産工場が完成し電卓の演算回路の自給体制を整備
天理でLSIを自給しても、1972年初めの電卓は各社がほぼ同じ部品を使い、組み立て費で価格が決まっていた。この構造では中小メーカーが大手より有利で、シャープは資本と技術で差のつく製品を必要とした。計算機工場長の浅田篤氏は表示に液晶を選び、演算素子に低消費電力のCMOSを組み合わせた。約50人が1年半で開発し、1973年に世界初の液晶電卓EL-805として発売した。価格は2万6800円と当時の相場より高かったが、単3電池1本で100時間動き、他社品の7〜8時間を大きく上回った。製造では演算と表示の回路をガラス板の両面にまとめ、配線を印刷と焼き付けに替えて、1台の製造に要した200分の労働時間を10分の1に縮めたという。
- 日経ビジネス 1994年10月10日号
- [7]1972年初め 電卓は各社ほぼ同じ部品を使い組み立てコストで価格が決まる激しい価格競争の最中
- [8]部品共通の価格競争では中小メーカーが有利で、資本力・技術力を生かす製品で価格競争から抜ける必要
- [9]大和郡山の計算機工場長だった浅田篤氏が表示に液晶、演算素子に低消費電力のCMOSを採用
- [10]約50人の部隊が1年半で開発し、世界初の液晶表示電卓EL-805とした
- [12]EL-805は2万6800円(当時の電卓は1万6000〜1万8000円台)、単3電池1本で100時間動作(他社は単3電池3〜4本で7〜8時間)
- 日経ビジネス 1991年8月19日号
- [11]初めて液晶表示を使った電卓EL-805は1973年発売
- 証券投資 239号 1974年2月号「〔企業研究〕シャープ――一貫した技術主導型の経営」
- [13]EL-805に始まる液晶表示電卓は演算部を低消費電力の新LSIにまとめ、表示・駆動を含む計算機能を縦8.7cm×横6.3cmの特殊ガラスの両面に一体化(COS化)。手作業の配線を印刷・焼き付けで自動化し、1台200分の労働時間を10分の1に短縮。1973年に国内初の液晶表示電卓を発売
EL-805の発売後、シャープは電卓の売上金額でカシオ計算機を上回ったが、販売台数ではカシオ計算機が先行した。1974年度の個人用電卓の台数シェアは、カシオ計算機が50%超、シャープが20%強だった。天理の半導体は1970年から1971年の不況で3年続けて赤字となり、業界では『シャープは半導体投資でつぶれる』との噂が流れた。販売ではシャープは1965年に47人で発足した常設の販売部隊「アトム隊」を、1975年までに300人へ増やした。隊員は全国15の販売子会社に配属され、系列店3,800店とともに電子レンジなどの家電を消費者宅へ売り込んだ。台数で安値を追うより、半導体の赤字に耐える間の収益を家電の系列販売で支えたと推察される。
- 日経ビジネス 1975年4月14日号
- [14]売上金額ではシャープがカシオ計算機を上回るが、販売台数ではカシオが大きく上回る
- [15]1974年度 個人用電卓の台数シェアはカシオ計算機が50%超、シャープは20%強
- 日経ビジネス 1984年12月10日号
- [16]天理の半導体は建設直後の1970〜71年の半導体不況で最初の3年は赤字、業界で倒産の噂
- 日経ビジネス 1975年3月17日号
- [17]アトム隊は1965年に隊員47人で発足した常設の販売部隊で、1975年に総勢300人
- [18]隊員は全国15の販売子会社に配置、3,800店の系列店と連れ立って消費者宅を訪問販売(電子レンジなど)
参考文献[1]-[18]
- 日経ビジネス 1984年12月10日号
- [1]出展に代えて総額100億円で奈良県天理市に中央研究所・半導体第1工場などから成る総合開発センターを建設
- [4]1970年の大阪・千里の日本万国博覧会にシャープはパビリオンを出展せず
- [5]万博出展は早川徳次社長(当時)が承認していたが、佐伯旭専務(当時)がためらった
- [16]天理の半導体は建設直後の1970〜71年の半導体不況で最初の3年は赤字、業界で倒産の噂
- 経済展望 1970年2月1日号
- [2]電卓用LSIはノースアメリカン・ロックウェル社から技術導入し、輸入から天理工場での自社生産へ順次切り替え。全LSI電卓マイクロコンペットを1969年12月から国内販売
- 日本企業要覧 1971年版「シャープ」
- [3]1970年1月1日 早川電機工業からシャープへ商号を変更
- [6]1970年10月 奈良県天理市のLSI量産工場が完成し電卓の演算回路の自給体制を整備
- 日経ビジネス 1994年10月10日号
- [7]1972年初め 電卓は各社ほぼ同じ部品を使い組み立てコストで価格が決まる激しい価格競争の最中
- [8]部品共通の価格競争では中小メーカーが有利で、資本力・技術力を生かす製品で価格競争から抜ける必要
- [9]大和郡山の計算機工場長だった浅田篤氏が表示に液晶、演算素子に低消費電力のCMOSを採用
- [10]約50人の部隊が1年半で開発し、世界初の液晶表示電卓EL-805とした
- [12]EL-805は2万6800円(当時の電卓は1万6000〜1万8000円台)、単3電池1本で100時間動作(他社は単3電池3〜4本で7〜8時間)
- 日経ビジネス 1991年8月19日号
- [11]初めて液晶表示を使った電卓EL-805は1973年発売
- 証券投資 239号 1974年2月号「〔企業研究〕シャープ――一貫した技術主導型の経営」
- [13]EL-805に始まる液晶表示電卓は演算部を低消費電力の新LSIにまとめ、表示・駆動を含む計算機能を縦8.7cm×横6.3cmの特殊ガラスの両面に一体化(COS化)。手作業の配線を印刷・焼き付けで自動化し、1台200分の労働時間を10分の1に短縮。1973年に国内初の液晶表示電卓を発売
- 日経ビジネス 1975年4月14日号
- [14]売上金額ではシャープがカシオ計算機を上回るが、販売台数ではカシオが大きく上回る
- [15]1974年度 個人用電卓の台数シェアはカシオ計算機が50%超、シャープは20%強
- 日経ビジネス 1975年3月17日号
- [17]アトム隊は1965年に隊員47人で発足した常設の販売部隊で、1975年に総勢300人
- [18]隊員は全国15の販売子会社に配置、3,800店の系列店と連れ立って消費者宅を訪問販売(電子レンジなど)
1977年〜電訳機・パソコンMZの応用商品と、福山に新設した半導体工場
電卓のために内製したLSI・液晶・太陽電池は、電卓以外の商品を生む土台になった。1979年11月、シャープは電子式翻訳機「電訳機IQ-3000」を3万9800円で発売した。価格は普通の電卓の約10倍だったが品薄が続き、1980年7月から月産3万台を10万台に引き上げる計画を立てた。同じ1979年には半導体第3工場の着工やビデオの自社生産開始を含め、300億円の設備投資を進めた。独自技術を盛り込んだ家電の「ニューライフ商品」も、1980年初めまでに200機種を数えた。電卓技術の延長から、ポケットコンピューター、パソコン、ワープロといったOA機器も生まれた。
- 日経ビジネス 1984年12月10日号
- [19]電卓の主要部分であるLSI・液晶・太陽電池が電卓以外の多くの副産物をもたらした
- [24]電卓技術から電訳機・ポケットコンピューター・パソコン・ワープロなどのOA機器が生まれた
- 日経ビジネス 1980年2月25日号
- [20]1979年11月初旬 電子式翻訳機「電訳機IQ-3000」を発売、標準小売価格3万9800円
- [21]価格は普通の電卓の約10倍、品不足で当初月産3万台を1980年7月から月産10万台とする計画
- 80年代わが社の戦略(1980年)「シャープ」
- [22]1979年 半導体第3工場の着工、ビデオの自社生産開始などで300億円の設備投資
- [23]ニューライフ商品が1980年年頭時点で200機種
応用商品が増えると、産業機器・電子部品の部門は1981年度に売上高の約35%を占めた。1981年度の売上高は5,801億円で、国内の伸びへの寄与が最も大きい部門はLSIや液晶を含む電子部品だった。1983年度の半導体外販は約720億円に達し、全売上高の9%を占めた。1985年時点でCMOS-LSIは月産2,600万個で、65%を外販し、残りを自社の商品に充当した。需要増に応じ、天理の3工場に加えて広島県福山市にLSI第4工場を建て、1985年春の稼働を予定した。一方で、かつての安売り品の印象は薄れつつあったが、ブランドイメージは松下電器産業やソニーに及ばないと評された。
- 証券アナリストジャーナル 20(8) 1982年
- [25]1981年度 製品構成は家電部門約65%、産業機器・電子部品約35%
- [26]1981年度 売上高5,801億円、国内で寄与度が最も高いのはLSI・液晶・光半導体を含む電子部品
- 日経ビジネス 1984年12月10日号
- [27]1983年度 半導体外販約720億円(前年度比35%増)、全売上高の9%
- [29]天理の3工場に加え、福山市のLSI第4工場が1985年春に稼働予定
- [30]かつて強かった「安売り品」のイメージはOA路線で薄れたが、ブランド・イメージは松下電器産業・ソニーなどに比べまだ一歩譲る
- Decide 3(1) 1985年
- [28]CMOS-LSIは月産2,600万個、うち65%を外販
1984年度まで10年連続の増収増益を見込んだシャープは、1986年3月期の売上高1兆円到達を視野に入れた。1985年の経済誌は、1987年3月期に満70歳となる社長の佐伯旭氏に残る仕事を後継者の育成と評した。1986年6月、専務の辻晴雄氏が53歳で社長に就任した。辻晴雄氏は1955年に関西学院大学商学部を卒業して入社し、家電営業本部副本部長や電子機器事業本部長を務めた。電子機器事業本部では、液晶を使った白黒テレビの開発に携わった経験を持っていた。技術で広げた事業を商品と売り場につなぐ役割を、営業出身の辻晴雄氏に託したと思われる。
- 日経ビジネス 1984年12月10日号
- [31]1984年度まで10年連続の増収増益の見通し、1985年度に売上高1兆円の見込み
- Decide 3(1) 1985年
- [32]佐伯旭氏は1987年3月期に満70歳、最後の仕事は後継者の育成と評される
- 日経ビジネス 1990年9月24日号
- [33]辻晴雄氏は1932年12月生まれ、1986年6月から社長
- [34]辻晴雄氏は1955年関西学院大学商学部卒・早川電機工業入社、1977年取締役家電営業本部副本部長、1981年常務電子機器事業本部長、1983年専務
- 日経ビジネス 1991年8月19日号
- [35]辻晴雄氏は電子機器事業本部在籍中に液晶を使った白黒テレビの開発をした
参考文献[19]-[35]
- 日経ビジネス 1984年12月10日号
- [19]電卓の主要部分であるLSI・液晶・太陽電池が電卓以外の多くの副産物をもたらした
- [24]電卓技術から電訳機・ポケットコンピューター・パソコン・ワープロなどのOA機器が生まれた
- [27]1983年度 半導体外販約720億円(前年度比35%増)、全売上高の9%
- [29]天理の3工場に加え、福山市のLSI第4工場が1985年春に稼働予定
- [30]かつて強かった「安売り品」のイメージはOA路線で薄れたが、ブランド・イメージは松下電器産業・ソニーなどに比べまだ一歩譲る
- [31]1984年度まで10年連続の増収増益の見通し、1985年度に売上高1兆円の見込み
- 日経ビジネス 1980年2月25日号
- [20]1979年11月初旬 電子式翻訳機「電訳機IQ-3000」を発売、標準小売価格3万9800円
- [21]価格は普通の電卓の約10倍、品不足で当初月産3万台を1980年7月から月産10万台とする計画
- 80年代わが社の戦略(1980年)「シャープ」
- [22]1979年 半導体第3工場の着工、ビデオの自社生産開始などで300億円の設備投資
- [23]ニューライフ商品が1980年年頭時点で200機種
- 証券アナリストジャーナル 20(8) 1982年
- [25]1981年度 製品構成は家電部門約65%、産業機器・電子部品約35%
- [26]1981年度 売上高5,801億円、国内で寄与度が最も高いのはLSI・液晶・光半導体を含む電子部品
- Decide 3(1) 1985年
- [28]CMOS-LSIは月産2,600万個、うち65%を外販
- [32]佐伯旭氏は1987年3月期に満70歳、最後の仕事は後継者の育成と評される
- 日経ビジネス 1990年9月24日号
- [33]辻晴雄氏は1932年12月生まれ、1986年6月から社長
- [34]辻晴雄氏は1955年関西学院大学商学部卒・早川電機工業入社、1977年取締役家電営業本部副本部長、1981年常務電子機器事業本部長、1983年専務
- 日経ビジネス 1991年8月19日号
- [35]辻晴雄氏は電子機器事業本部在籍中に液晶を使った白黒テレビの開発をした
1987年〜天理と三重に建てた液晶工場と、液晶ビューカム・ザウルスの自社商品
社長に就任した辻晴雄氏は全社の技術開発を洗い直し、次代を担う技術として液晶を選んだ。電子部品事業本部でELやLEDと同じ事業部に置かれていた液晶を、独立した事業部門に分離した。1990年には、情報機器とそれを支える半導体・液晶の比重を今後高める方針を示した。1990年から1992年の3年間に、全社の年間設備投資に近い約1000億円を液晶に投じる計画を立て、8割をTFT方式に充当した。1991年秋に天理の新工場でカラーTFTの生産を始め、1992年1月に月1万枚を見込んだ。1991年度の液晶事業の売上高予測は1150億円で、生産シェア33.5%は業界首位だった。
- 日経ビジネス 1991年8月19日号
- [36]辻晴雄氏は社長就任後に全社の技術開発を洗い直し、次代を担う技術として液晶に着目
- [37]液晶は電子部品事業本部ディスプレー事業部でEL・LEDと一緒だったが、辻社長が分離独立させた
- [39]1990〜92年の3年間に全社の年間設備投資額に近い1000億円を液晶に投資
- [40]1000億円の80%がTFT方式向け。TFTは動画表示・カラー化が可能
- [41]1991年秋から奈良県天理市の新工場でカラーTFTの生産開始、1992年1月に月1万枚の予定
- [42]1991年度の液晶事業の売上高予測1150億円(前年度比70%増)、生産シェア33.5%で業界トップ
- 日経ビジネス 1990年9月24日号
- [38]1990年 辻晴雄氏は情報関連機器とそれを支える半導体・液晶の比重が今後高まるとの見通し
1992年10月、シャープは液晶画面を備えたビデオカメラ「液晶ビューカム」を発売した。出荷は輸出を含め累計75万台に達し、1994年2月にソニーが出した液晶付きビデオカメラもパネルはシャープ製だった。辻晴雄氏は液晶応用商品の収益源がビューカム1本では弱いと見て、携帯情報端末「ザウルス」で情報分野に参入した。辻晴雄氏はまた、液晶の課題を量産技術・価格・応用製品の3つに整理し、セットメーカーとして応用製品に取り組むとした。副社長の浅田篤氏も、液晶の研究では常に用途を先に定めることを重んじた。1993年、辻晴雄氏は中核と見る部品を自社で手掛ける考えを示し、その筆頭にTFT液晶を挙げた。
- 日経ビジネス 1994年4月18日号
- [43]1992年10月 液晶ビューカムを発売
- [44]液晶ビューカムの出荷は輸出を含め累積75万台
- [45]1994年2月発売のソニー「コミックス」の液晶パネルはシャープ製
- 日経ビジネス 1994年6月6日号
- [46]液晶応用商品の収益源がビューカム一本では弱いと考え、情報分野の第2の柱として携帯情報端末ザウルスを出した
- [47]液晶の課題は量産技術・妥当な価格・応用製品の3つで、セットメーカーとして応用製品に取り組む
- 日経ビジネス 1994年10月10日号
- [48]浅田篤氏は液晶ディスプレーの研究開発で常に用途を念頭に置いた
- 日経ビジネス 1993年4月19日号
- [49]1993年 辻晴雄氏はコアとなる部品は自社で手掛けるとし、TFT方式液晶・半導体レーザー・発光ダイオードを挙げた
1997年、辻晴雄氏は素材・部品・組み立て・商品企画の技術を結びつける「創造的な垂直統合」を方針に掲げた。ビューカムの開発では、液晶・半導体・カメラ・実装の専門家で社長直轄のチームを編成した。核となる部品を自前で持たなければ、同じ製品を他社も容易に作れるという考えだった。量産では天理工場が1994年上期までに月産18万枚、三重工場が1995年7月から月産15万枚(10インチ換算)の計画だった。一方で1997年には、液晶を使った商品の着想が尽きつつあり、ソニーなどの追い上げが激しいと評された。シャープは液晶と応用商品の垂直統合という条件を抱えて、1990年代の終わりを迎えたのだろう。
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [50]1997年 辻晴雄氏は素材・部品・組み立て・商品企画の各部門の技術を結びつける「創造的な垂直統合」を掲げる
- [51]ビューカムは液晶・半導体・カメラ・実装技術の専門家を集めた社長直轄のプロジェクトチームで開発
- [52]核となる部品を自前で持たずに外部部品だけで組み立てると他社にも同じものが作れる
- [54]液晶付きビデオカメラなどのアイデア商品はネタ切れ気味で、ソニーなどライバルの追い上げが激しい(1997年)
- 日経ビジネス 1994年4月18日号
- [53]TFT生産は天理工場が1994年上期までに月産18万枚、三重工場が1995年7月から月産15万枚(10インチ換算)
参考文献[36]-[54]
- 日経ビジネス 1991年8月19日号
- [36]辻晴雄氏は社長就任後に全社の技術開発を洗い直し、次代を担う技術として液晶に着目
- [37]液晶は電子部品事業本部ディスプレー事業部でEL・LEDと一緒だったが、辻社長が分離独立させた
- [39]1990〜92年の3年間に全社の年間設備投資額に近い1000億円を液晶に投資
- [40]1000億円の80%がTFT方式向け。TFTは動画表示・カラー化が可能
- [41]1991年秋から奈良県天理市の新工場でカラーTFTの生産開始、1992年1月に月1万枚の予定
- [42]1991年度の液晶事業の売上高予測1150億円(前年度比70%増)、生産シェア33.5%で業界トップ
- 日経ビジネス 1990年9月24日号
- [38]1990年 辻晴雄氏は情報関連機器とそれを支える半導体・液晶の比重が今後高まるとの見通し
- 日経ビジネス 1994年4月18日号
- [43]1992年10月 液晶ビューカムを発売
- [44]液晶ビューカムの出荷は輸出を含め累積75万台
- [45]1994年2月発売のソニー「コミックス」の液晶パネルはシャープ製
- [53]TFT生産は天理工場が1994年上期までに月産18万枚、三重工場が1995年7月から月産15万枚(10インチ換算)
- 日経ビジネス 1994年6月6日号
- [46]液晶応用商品の収益源がビューカム一本では弱いと考え、情報分野の第2の柱として携帯情報端末ザウルスを出した
- [47]液晶の課題は量産技術・妥当な価格・応用製品の3つで、セットメーカーとして応用製品に取り組む
- 日経ビジネス 1994年10月10日号
- [48]浅田篤氏は液晶ディスプレーの研究開発で常に用途を念頭に置いた
- 日経ビジネス 1993年4月19日号
- [49]1993年 辻晴雄氏はコアとなる部品は自社で手掛けるとし、TFT方式液晶・半導体レーザー・発光ダイオードを挙げた
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- [50]1997年 辻晴雄氏は素材・部品・組み立て・商品企画の各部門の技術を結びつける「創造的な垂直統合」を掲げる
- [51]ビューカムは液晶・半導体・カメラ・実装技術の専門家を集めた社長直轄のプロジェクトチームで開発
- [52]核となる部品を自前で持たずに外部部品だけで組み立てると他社にも同じものが作れる
- [54]液晶付きビデオカメラなどのアイデア商品はネタ切れ気味で、ソニーなどライバルの追い上げが激しい(1997年)
1970年〜1997年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1970年03月期 | 単体 | 1,207 | n/a | n/a | n/a | 52 | 4.3% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 1,491 | +23.5% | n/a | 101 | 61 | 4.1% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 1,341 | ▲10.1% | n/a | 40 | 29 | 2.2% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 1,438 | +7.2% | n/a | 38 | 26 | 1.8% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 1,644 | +14.3% | n/a | 50 | 33 | 2.0% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 1,902 | +15.7% | n/a | 44 | 26 | 1.4% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 2,018 | +6.1% | n/a | 37 | 27 | 1.3% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 2,850 | +41.2% | n/a | 106 | 58 | 2.0% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 3,008 | +5.5% | n/a | 131 | 74 | 2.5% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 3,396 | +12.9% | n/a | 165 | 86 | 2.5% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 3,952 | +16.4% | n/a | 236 | 125 | 3.2% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 5,014 | +26.9% | 193 | 292 | 163 | 3.3% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 5,801 | +15.7% | n/a | 389 | 204 | 3.5% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 6,493 | +11.9% | n/a | 455 | 264 | 4.1% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 7,566 | +16.5% | n/a | 522 | 291 | 3.8% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 9,096 | +20.2% | n/a | 634 | 339 | 3.7% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 連結 | 15,549 | n/a | n/a | n/a | 390 | 2.5% | n/a |
| 1993年03月期 | 連結 | 15,083 | ▲3.0% | n/a | n/a | 296 | 2.0% | n/a |
| 1994年03月期 | 連結 | 15,180 | +0.6% | n/a | n/a | 317 | 2.1% | n/a |
| 1995年03月期 | 連結 | 16,176 | +6.6% | n/a | n/a | 445 | 2.8% | n/a |
| 1996年03月期 | 連結 | 16,507 | +2.0% | n/a | n/a | 463 | 2.8% | n/a |
| 1997年03月期 | 連結 | 17,905 | +8.5% | n/a | n/a | 485 | 2.7% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
17件
- 証券投資 239号 1974年2月号「〔企業研究〕シャープ――一貫した技術主導型の経営」
- 日経ビジネス 1975年4月14日号
- 日経ビジネス 1975年3月17日号
- 日経ビジネス 1980年2月25日号
- 証券アナリストジャーナル 20(8) 1982年
- 日経ビジネス 1984年12月10日号
- 日経ビジネス 1990年9月24日号
- 日経ビジネス 1991年8月19日号
- 日経ビジネス 1993年4月19日号
- 日経ビジネス 1994年10月10日号
- 日経ビジネス 1994年4月18日号
- 日経ビジネス 1994年6月6日号
- 日経ビジネス 1997年7月28日号
- 経済展望 1970年2月1日号
- 日本企業要覧 1971年版「シャープ」
- 80年代わが社の戦略(1980年)「シャープ」
- Decide 3(1) 1985年