東芝テック:間宮堂の金庫製造と国産金銭登録機の製造開始
1919年〜大仁の間宮式金庫と、関東大震災で行き詰まった月賦販売から生まれた国産の金銭登録機
1919年、伊豆の田中村で金庫を製造していた合資会社間宮堂は、株式会社間宮堂に組織を改めた。前身の合資会社は1916年6月、同村出身の実業家である間宮勝三郎氏と中島省一氏らの発起で生まれ、間宮式金庫を主な製品としていた。株式会社への改組にあわせた、後に大仁工場となる敷地での社屋の建設。間宮勝三郎氏の長男である間宮精一氏の1933年の談によれば、金庫業は一時、払込資本金100万円の規模に達していた。間宮堂が社屋を構えた大仁の地は、1950年に東京電気器具が設立された際にも本店の所在地となった。金庫の受注が拡大する中で、法人の形と生産の拠点を同時に固める判断だったと推察される。
- 東京電気株式会社二十年史(1970年)「会社創立前史」
- [1]1916年6月、間宮勝三郎・中島省一らの発起で合資会社間宮堂が田中村に創設され間宮式金庫を製造。1919年に株式会社間宮堂となり現大仁工場の位置に社屋を建設
- [2]1916年6月、間宮勝三郎・中島省一らの発起で合資会社間宮堂が田中村に創設され間宮式金庫を製造。1919年に株式会社間宮堂となり現大仁工場の位置に社屋を建設
- [3]1916年6月、間宮勝三郎・中島省一らの発起で合資会社間宮堂が田中村に創設され間宮式金庫を製造。1919年に株式会社間宮堂となり現大仁工場の位置に社屋を建設
- 発明 30(8) 1933年「發明サロン間宮精一君に聽く」
- [4]間宮精一の談:父の金庫製造業は一時、払込資本金100万円まで達した
- 東芝テック 有価証券報告書「沿革」
- [5]1950年2月、東京電気器具の本店は静岡県田方郡大仁町大仁570番地
関東大震災が、間宮家の金庫業を行き詰まらせた。間宮堂は家庭金庫や本金庫を月賦で販売しており、1923年9月の震災で代金の回収がまったく途絶えた。回収をめぐって訴訟にまで発展し、金庫業は事業として立ち行かなくなった。間宮精一氏は創業者の間宮勝三郎氏の長男で、1914年に加減算器を自ら発明した人物でもある。間宮精一氏は24、25歳まで家業の販売を手伝ったが、自らも周囲も販売には向かないと見ていた。間宮精一氏は写真機の特殊な機構も考案し、その才能に注目した金庫会社の社長からレジスターの研究を命じられた。間宮精一氏自身も、金庫は銀行を除けば時代遅れの製品で、将来はレジスターがその役目を引き継ぐと考えていた。
- 発明 30(8) 1933年「發明サロン間宮精一君に聽く」
- [6]月賦販売した家庭金庫・本金庫の代金が関東大震災で回収不能となり訴訟ともつれ金庫業は破綻。写真機構の発明を見た金庫会社の社長が間宮精一にレジスター研究を命じた。金庫は銀行以外では時代遅れでレジスターが代わると見た。間宮精一は24、25歳まで販売を手伝ったが販売に向かないと自認
- [7]月賦販売した家庭金庫・本金庫の代金が関東大震災で回収不能となり訴訟ともつれ金庫業は破綻。写真機構の発明を見た金庫会社の社長が間宮精一にレジスター研究を命じた。金庫は銀行以外では時代遅れでレジスターが代わると見た。間宮精一は24、25歳まで販売を手伝ったが販売に向かないと自認
- [8]月賦販売した家庭金庫・本金庫の代金が関東大震災で回収不能となり訴訟ともつれ金庫業は破綻。写真機構の発明を見た金庫会社の社長が間宮精一にレジスター研究を命じた。金庫は銀行以外では時代遅れでレジスターが代わると見た。間宮精一は24、25歳まで販売を手伝ったが販売に向かないと自認
- [10]月賦販売した家庭金庫・本金庫の代金が関東大震災で回収不能となり訴訟ともつれ金庫業は破綻。写真機構の発明を見た金庫会社の社長が間宮精一にレジスター研究を命じた。金庫は銀行以外では時代遅れでレジスターが代わると見た。間宮精一は24、25歳まで販売を手伝ったが販売に向かないと自認
- [11]月賦販売した家庭金庫・本金庫の代金が関東大震災で回収不能となり訴訟ともつれ金庫業は破綻。写真機構の発明を見た金庫会社の社長が間宮精一にレジスター研究を命じた。金庫は銀行以外では時代遅れでレジスターが代わると見た。間宮精一は24、25歳まで販売を手伝ったが販売に向かないと自認
- [12]月賦販売した家庭金庫・本金庫の代金が関東大震災で回収不能となり訴訟ともつれ金庫業は破綻。写真機構の発明を見た金庫会社の社長が間宮精一にレジスター研究を命じた。金庫は銀行以外では時代遅れでレジスターが代わると見た。間宮精一は24、25歳まで販売を手伝ったが販売に向かないと自認
- 東京電気株式会社二十年史(1970年)「会社創立前史」
- [9]間宮精一は間宮勝三郎の長男。1914年に「間宮式加減算器」を発明
1926年、間宮精一氏は金銭登録機を発明し、間宮堂は金庫に加えてその製造を始めた。この金銭登録機は東京電気の社史で国内初と位置づけられ、機構の母体は間宮精一氏が1914年に考案した間宮式加減算器である。当時の国内では米国製のナショナルが都市の商店や百貨店に普及しており、国産品は見当たらなかった。間宮精一氏は研究に着手して約3か月で最初の1台を組み上げたが、資金が乏しく鋼材の代わりに三味線の糸で機構を作った。間宮精一氏は重役から早く資金を引き出し、国産レジスターの先陣を切ろうと製作を急いだ。試作機を見た重役の多くは出資を渋り、資金を出したのは2、3人の理解者にとどまった。輸入品しか無い市場に国産の代替品を投じることが、金庫業に代わる事業機会になったとみられる。
- 東京電気株式会社二十年史(1970年)「会社創立前史」
- [13]1926年、間宮精一が我国で初めて金銭登録機を発明し間宮堂で製造を開始。1914年発明の間宮式加減算器が母体
- [14]1926年、間宮精一が我国で初めて金銭登録機を発明し間宮堂で製造を開始。1914年発明の間宮式加減算器が母体
- 発明 30(8) 1933年「發明サロン間宮精一君に聽く」
- [15]当時は米国製ナショナルが商店・デパートで使われ国産品は無かった。1月に研究を始め4月に1台完成。鋼材を買えず三味線糸を使用。重役の多くは出資を避け2、3人が出資。国産品レジスターの一番乗りを狙い急いで製作
- [16]当時は米国製ナショナルが商店・デパートで使われ国産品は無かった。1月に研究を始め4月に1台完成。鋼材を買えず三味線糸を使用。重役の多くは出資を避け2、3人が出資。国産品レジスターの一番乗りを狙い急いで製作
- [17]当時は米国製ナショナルが商店・デパートで使われ国産品は無かった。1月に研究を始め4月に1台完成。鋼材を買えず三味線糸を使用。重役の多くは出資を避け2、3人が出資。国産品レジスターの一番乗りを狙い急いで製作
- [18]当時は米国製ナショナルが商店・デパートで使われ国産品は無かった。1月に研究を始め4月に1台完成。鋼材を買えず三味線糸を使用。重役の多くは出資を避け2、3人が出資。国産品レジスターの一番乗りを狙い急いで製作
参考文献[1]-[18]
- 東京電気株式会社二十年史(1970年)「会社創立前史」
- [1]1916年6月、間宮勝三郎・中島省一らの発起で合資会社間宮堂が田中村に創設され間宮式金庫を製造。1919年に株式会社間宮堂となり現大仁工場の位置に社屋を建設
- [2]1916年6月、間宮勝三郎・中島省一らの発起で合資会社間宮堂が田中村に創設され間宮式金庫を製造。1919年に株式会社間宮堂となり現大仁工場の位置に社屋を建設
- [3]1916年6月、間宮勝三郎・中島省一らの発起で合資会社間宮堂が田中村に創設され間宮式金庫を製造。1919年に株式会社間宮堂となり現大仁工場の位置に社屋を建設
- [9]間宮精一は間宮勝三郎の長男。1914年に「間宮式加減算器」を発明
- [13]1926年、間宮精一が我国で初めて金銭登録機を発明し間宮堂で製造を開始。1914年発明の間宮式加減算器が母体
- [14]1926年、間宮精一が我国で初めて金銭登録機を発明し間宮堂で製造を開始。1914年発明の間宮式加減算器が母体
- 発明 30(8) 1933年「發明サロン間宮精一君に聽く」
- [4]間宮精一の談:父の金庫製造業は一時、払込資本金100万円まで達した
- [6]月賦販売した家庭金庫・本金庫の代金が関東大震災で回収不能となり訴訟ともつれ金庫業は破綻。写真機構の発明を見た金庫会社の社長が間宮精一にレジスター研究を命じた。金庫は銀行以外では時代遅れでレジスターが代わると見た。間宮精一は24、25歳まで販売を手伝ったが販売に向かないと自認
- [7]月賦販売した家庭金庫・本金庫の代金が関東大震災で回収不能となり訴訟ともつれ金庫業は破綻。写真機構の発明を見た金庫会社の社長が間宮精一にレジスター研究を命じた。金庫は銀行以外では時代遅れでレジスターが代わると見た。間宮精一は24、25歳まで販売を手伝ったが販売に向かないと自認
- [8]月賦販売した家庭金庫・本金庫の代金が関東大震災で回収不能となり訴訟ともつれ金庫業は破綻。写真機構の発明を見た金庫会社の社長が間宮精一にレジスター研究を命じた。金庫は銀行以外では時代遅れでレジスターが代わると見た。間宮精一は24、25歳まで販売を手伝ったが販売に向かないと自認
- [10]月賦販売した家庭金庫・本金庫の代金が関東大震災で回収不能となり訴訟ともつれ金庫業は破綻。写真機構の発明を見た金庫会社の社長が間宮精一にレジスター研究を命じた。金庫は銀行以外では時代遅れでレジスターが代わると見た。間宮精一は24、25歳まで販売を手伝ったが販売に向かないと自認
- [11]月賦販売した家庭金庫・本金庫の代金が関東大震災で回収不能となり訴訟ともつれ金庫業は破綻。写真機構の発明を見た金庫会社の社長が間宮精一にレジスター研究を命じた。金庫は銀行以外では時代遅れでレジスターが代わると見た。間宮精一は24、25歳まで販売を手伝ったが販売に向かないと自認
- [12]月賦販売した家庭金庫・本金庫の代金が関東大震災で回収不能となり訴訟ともつれ金庫業は破綻。写真機構の発明を見た金庫会社の社長が間宮精一にレジスター研究を命じた。金庫は銀行以外では時代遅れでレジスターが代わると見た。間宮精一は24、25歳まで販売を手伝ったが販売に向かないと自認
- [15]当時は米国製ナショナルが商店・デパートで使われ国産品は無かった。1月に研究を始め4月に1台完成。鋼材を買えず三味線糸を使用。重役の多くは出資を避け2、3人が出資。国産品レジスターの一番乗りを狙い急いで製作
- [16]当時は米国製ナショナルが商店・デパートで使われ国産品は無かった。1月に研究を始め4月に1台完成。鋼材を買えず三味線糸を使用。重役の多くは出資を避け2、3人が出資。国産品レジスターの一番乗りを狙い急いで製作
- [17]当時は米国製ナショナルが商店・デパートで使われ国産品は無かった。1月に研究を始め4月に1台完成。鋼材を買えず三味線糸を使用。重役の多くは出資を避け2、3人が出資。国産品レジスターの一番乗りを狙い急いで製作
- [18]当時は米国製ナショナルが商店・デパートで使われ国産品は無かった。1月に研究を始め4月に1台完成。鋼材を買えず三味線糸を使用。重役の多くは出資を避け2、3人が出資。国産品レジスターの一番乗りを狙い急いで製作
- 東芝テック 有価証券報告書「沿革」
- [5]1950年2月、東京電気器具の本店は静岡県田方郡大仁町大仁570番地
1928年〜間宮堂を買収した藤山愛一郎氏が資本金200万円で設立した日本金銭登録機と、米ナショナル金銭登録機の80%出資
1928年12月、藤山愛一郎氏は間宮堂を買収し、資本金200万円の日本金銭登録機を設立して社長に就任した。間宮家には震災時の借入金3万円が残っており、量産には新たな出資者が欠かせない状況。国産振興博覧会に改良機を出品した際には、米国帰りの服部孝平氏が製造販売の提携を申し入れたが、服部孝平氏にも資金は無かった。1933年時点で大日本製糖の常務であった藤山愛一郎氏は、若年ながら発明に理解を示して資本を拠出した。日本金銭登録機の製品は、当時の国産品として商工省から優良国産品に選定された。一方、間宮精一氏の談は創立を1929年12月とし、間宮堂の名義を改めて継承した会社と説明しており、社史の時期と1年ずれる。
- 東京電気株式会社二十年史(1970年)「会社創立前史」
- [19]1928年12月、藤山愛一郎が間宮堂を買収し社長となり資本金200万円で日本金銭登録機株式会社を設立。商工省の優良国産品に選定
- [23]1928年12月、藤山愛一郎が間宮堂を買収し社長となり資本金200万円で日本金銭登録機株式会社を設立。商工省の優良国産品に選定
- 発明 30(8) 1933年「發明サロン間宮精一君に聽く」
- [20]震災時の借金3万円が残り金主が必要。博覧会出品後に米国帰りの服部孝平が提携を申し入れ。藤山愛一郎(大日本製糖常務)が資本を出した。談は創立を昭和4年12月とし、株式会社間宮堂を継承して名義を変えた会社と説明(社史・沿革の1928年12月と食い違う)
- [21]震災時の借金3万円が残り金主が必要。博覧会出品後に米国帰りの服部孝平が提携を申し入れ。藤山愛一郎(大日本製糖常務)が資本を出した。談は創立を昭和4年12月とし、株式会社間宮堂を継承して名義を変えた会社と説明(社史・沿革の1928年12月と食い違う)
- [22]震災時の借金3万円が残り金主が必要。博覧会出品後に米国帰りの服部孝平が提携を申し入れ。藤山愛一郎(大日本製糖常務)が資本を出した。談は創立を昭和4年12月とし、株式会社間宮堂を継承して名義を変えた会社と説明(社史・沿革の1928年12月と食い違う)
- [24]震災時の借金3万円が残り金主が必要。博覧会出品後に米国帰りの服部孝平が提携を申し入れ。藤山愛一郎(大日本製糖常務)が資本を出した。談は創立を昭和4年12月とし、株式会社間宮堂を継承して名義を変えた会社と説明(社史・沿革の1928年12月と食い違う)
1935年8月、米国ナショナル金銭登録機は日本金銭登録機の資本金200万円のうち80%、金額にして160万円分を取得した。日本金銭登録機は、当時の国内では数少ない外資導入の会社にあたる。米国ナショナル金銭登録機は大仁を東洋における事務機事業の拠点と位置づけ、デイトン本社から経理と技術の担当者を派遣した。日本金銭登録機の側からも、技術者がデイトン本社へ出張し、製造技術を学んだ。これに先立つ1932年2月、間宮精一氏は会社の命で約半年かけて欧米のレジスター製造業を視察していた。間宮精一氏は帰国後、ナショナル製を精密さと堅牢さで世界一と評価した。同時に示したのが、国産品では日本金銭登録機の製品が唯一だという認識である。
- 東京電気株式会社二十年史(1970年)「会社創立前史」
- [25]1935年8月、米国ナショナル金銭登録機が資本金200万円の80%・160万円の株式を取得。デイトン本社から経理員・技術員を派遣、当方からも技術者を派遣。大仁を東洋の拠点と企図
- [26]1935年8月、米国ナショナル金銭登録機が資本金200万円の80%・160万円の株式を取得。デイトン本社から経理員・技術員を派遣、当方からも技術者を派遣。大仁を東洋の拠点と企図
- [27]1935年8月、米国ナショナル金銭登録機が資本金200万円の80%・160万円の株式を取得。デイトン本社から経理員・技術員を派遣、当方からも技術者を派遣。大仁を東洋の拠点と企図
- [28]1935年8月、米国ナショナル金銭登録機が資本金200万円の80%・160万円の株式を取得。デイトン本社から経理員・技術員を派遣、当方からも技術者を派遣。大仁を東洋の拠点と企図
- 発明 30(8) 1933年「發明サロン間宮精一君に聽く」
- [29]1931年の翌年2月から約半年、会社の命で欧米のレジスター製造業を視察。ナショナルレジスターを精密・堅牢で世界第一と評価。国産品では自社製が唯一品と認識
- [30]1931年の翌年2月から約半年、会社の命で欧米のレジスター製造業を視察。ナショナルレジスターを精密・堅牢で世界第一と評価。国産品では自社製が唯一品と認識
- [31]1931年の翌年2月から約半年、会社の命で欧米のレジスター製造業を視察。ナショナルレジスターを精密・堅牢で世界第一と評価。国産品では自社製が唯一品と認識
1937年7月に日華事変が起きた後、日本金銭登録機は金銭登録機の製造を中止した。経済統制が進み、平和産業とされた銅製品の民需向け製造が禁止されたためである。1933年時点で大仁の工場は月160〜170台の金銭登録機を生産し、東京の分工場も月30台ほどを作っていた。米国資本との提携から2年足らずで、導入した製造技術を生かす場が失われた。NCR 系の販売会社の販売網はすでに朝鮮、満州、台湾、中国に及んでいた。その販売会社も、1937年ごろから戦時体制のもとで事業への制約が強まった。外資が80%を占める会社にとって、統制の強まりは製品と市場の両方を狭める結果になったと思われる。
- 東京電気株式会社二十年史(1970年)「会社創立前史」
- [32]1937年7月の日華事変後、経済統制で平和産業の銅製品の民需製造が禁止され、金銭登録機の製造を中止
- [33]1937年7月の日華事変後、経済統制で平和産業の銅製品の民需製造が禁止され、金銭登録機の製造を中止
- [35]1937年7月の日華事変後、経済統制で平和産業の銅製品の民需製造が禁止され、金銭登録機の製造を中止
- 発明 30(8) 1933年「發明サロン間宮精一君に聽く」
- [34]1933年時点の生産は大仁で月160〜170台、三田四国町の東京分工場で月30台程度
- 企業の歴史(明治百年)1968年「日本ナショナル金銭登録機」
- [36]NCR系の販売網は朝鮮・満州・台湾・中国に及んだ。1937年ごろから戦時体制で拘束が強まった
- [37]NCR系の販売網は朝鮮・満州・台湾・中国に及んだ。1937年ごろから戦時体制で拘束が強まった
参考文献[19]-[37]
- 東京電気株式会社二十年史(1970年)「会社創立前史」
- [19]1928年12月、藤山愛一郎が間宮堂を買収し社長となり資本金200万円で日本金銭登録機株式会社を設立。商工省の優良国産品に選定
- [23]1928年12月、藤山愛一郎が間宮堂を買収し社長となり資本金200万円で日本金銭登録機株式会社を設立。商工省の優良国産品に選定
- [25]1935年8月、米国ナショナル金銭登録機が資本金200万円の80%・160万円の株式を取得。デイトン本社から経理員・技術員を派遣、当方からも技術者を派遣。大仁を東洋の拠点と企図
- [26]1935年8月、米国ナショナル金銭登録機が資本金200万円の80%・160万円の株式を取得。デイトン本社から経理員・技術員を派遣、当方からも技術者を派遣。大仁を東洋の拠点と企図
- [27]1935年8月、米国ナショナル金銭登録機が資本金200万円の80%・160万円の株式を取得。デイトン本社から経理員・技術員を派遣、当方からも技術者を派遣。大仁を東洋の拠点と企図
- [28]1935年8月、米国ナショナル金銭登録機が資本金200万円の80%・160万円の株式を取得。デイトン本社から経理員・技術員を派遣、当方からも技術者を派遣。大仁を東洋の拠点と企図
- [32]1937年7月の日華事変後、経済統制で平和産業の銅製品の民需製造が禁止され、金銭登録機の製造を中止
- [33]1937年7月の日華事変後、経済統制で平和産業の銅製品の民需製造が禁止され、金銭登録機の製造を中止
- [35]1937年7月の日華事変後、経済統制で平和産業の銅製品の民需製造が禁止され、金銭登録機の製造を中止
- 発明 30(8) 1933年「發明サロン間宮精一君に聽く」
- [20]震災時の借金3万円が残り金主が必要。博覧会出品後に米国帰りの服部孝平が提携を申し入れ。藤山愛一郎(大日本製糖常務)が資本を出した。談は創立を昭和4年12月とし、株式会社間宮堂を継承して名義を変えた会社と説明(社史・沿革の1928年12月と食い違う)
- [21]震災時の借金3万円が残り金主が必要。博覧会出品後に米国帰りの服部孝平が提携を申し入れ。藤山愛一郎(大日本製糖常務)が資本を出した。談は創立を昭和4年12月とし、株式会社間宮堂を継承して名義を変えた会社と説明(社史・沿革の1928年12月と食い違う)
- [22]震災時の借金3万円が残り金主が必要。博覧会出品後に米国帰りの服部孝平が提携を申し入れ。藤山愛一郎(大日本製糖常務)が資本を出した。談は創立を昭和4年12月とし、株式会社間宮堂を継承して名義を変えた会社と説明(社史・沿革の1928年12月と食い違う)
- [24]震災時の借金3万円が残り金主が必要。博覧会出品後に米国帰りの服部孝平が提携を申し入れ。藤山愛一郎(大日本製糖常務)が資本を出した。談は創立を昭和4年12月とし、株式会社間宮堂を継承して名義を変えた会社と説明(社史・沿革の1928年12月と食い違う)
- [29]1931年の翌年2月から約半年、会社の命で欧米のレジスター製造業を視察。ナショナルレジスターを精密・堅牢で世界第一と評価。国産品では自社製が唯一品と認識
- [30]1931年の翌年2月から約半年、会社の命で欧米のレジスター製造業を視察。ナショナルレジスターを精密・堅牢で世界第一と評価。国産品では自社製が唯一品と認識
- [31]1931年の翌年2月から約半年、会社の命で欧米のレジスター製造業を視察。ナショナルレジスターを精密・堅牢で世界第一と評価。国産品では自社製が唯一品と認識
- [34]1933年時点の生産は大仁で月160〜170台、三田四国町の東京分工場で月30台程度
- 企業の歴史(明治百年)1968年「日本ナショナル金銭登録機」
- [36]NCR系の販売網は朝鮮・満州・台湾・中国に及んだ。1937年ごろから戦時体制で拘束が強まった
- [37]NCR系の販売網は朝鮮・満州・台湾・中国に及んだ。1937年ごろから戦時体制で拘束が強まった
1940年〜東京芝浦電気の大仁工場となった金銭登録機工場と、ドッジライン下の余剰人員整理
1940年1月、東京芝浦電気は大仁の日本金銭登録機を買収し、日本金銭登録機の工場は東芝大仁工場の名で再出発した。社史は、戦火の拡大を買収の背景に挙げている。工場は航空基地用の照明器具、自動車の灯器部品、乾電池を使う灯器を作り、管球製造機械の部品や光学器具も手がけた。発足当初の生産高はわずかだったが、東芝本社から設備と技術を受け入れ、生産高と販売高は次第に増えた。社史は、東芝の系列に入った1940年1月を事実上の創立の時点と位置づけている。NCR 系の販売会社は1941年12月の開戦後、1943年7月に企業を縮小し、敵産管理の下に置かれた。米国資本が8割を持つ工場を国内の電機会社が傘下に収めたことで、大仁は戦時下でも操業を続けられたと考えられる。
- 東京電気株式会社二十年史(1970年)「会社創立前史」
- [38]1940年1月、戦火の拡大に伴い東芝が買収し東芝大仁工場として発足。乾電池用灯器・自動車用灯器部品・航空基地用照明器具・管球製造機械部品・光学器具を製造。本社から設備・技術を導入。社史はこの時を事実上の創立とする
- [39]1940年1月、戦火の拡大に伴い東芝が買収し東芝大仁工場として発足。乾電池用灯器・自動車用灯器部品・航空基地用照明器具・管球製造機械部品・光学器具を製造。本社から設備・技術を導入。社史はこの時を事実上の創立とする
- [40]1940年1月、戦火の拡大に伴い東芝が買収し東芝大仁工場として発足。乾電池用灯器・自動車用灯器部品・航空基地用照明器具・管球製造機械部品・光学器具を製造。本社から設備・技術を導入。社史はこの時を事実上の創立とする
- [41]1940年1月、戦火の拡大に伴い東芝が買収し東芝大仁工場として発足。乾電池用灯器・自動車用灯器部品・航空基地用照明器具・管球製造機械部品・光学器具を製造。本社から設備・技術を導入。社史はこの時を事実上の創立とする
- [42]1940年1月、戦火の拡大に伴い東芝が買収し東芝大仁工場として発足。乾電池用灯器・自動車用灯器部品・航空基地用照明器具・管球製造機械部品・光学器具を製造。本社から設備・技術を導入。社史はこの時を事実上の創立とする
- 企業の歴史(明治百年)1968年「日本ナショナル金銭登録機」
- [43]1941年12月の開戦後、1943年7月に日本ナショナル金銭登録機は企業を縮小し敵産管理で打撃を受けた
1944年1月、東芝大仁工場は軍需会社法に基づく軍の指定工場となり、護国第十工場と呼ばれた。背景にあるのは、1941年12月の太平洋戦争の開戦以降に続く国内の戦時体制の強化である。指定後の工場は、航空機用の照明器具とその電気部品、光学器具の部品を製作した。同じ時期、NCR 系の販売会社は敵産として管理され、事業に深刻な打撃を被った。金銭登録機から離れ、軍需の電気器具と光学部品を担う工場への転換。1945年8月の終戦時、大仁工場は戦災による被害を受けなかった。外資の手を離れて国内電機会社の傘下に入っていたことが、大仁の工場を戦時の生産体制に組み込む前提になったのだろう。
- 東京電気株式会社二十年史(1970年)「会社創立前史」
- [44]1941年12月の開戦で戦時体制が強化され、1944年1月に軍需会社法による軍指定工場「護国第十工場」となり航空機用照明器具・電気部品・光学器具部品を製作。1945年8月の終戦時、戦災被害皆無
- [45]1941年12月の開戦で戦時体制が強化され、1944年1月に軍需会社法による軍指定工場「護国第十工場」となり航空機用照明器具・電気部品・光学器具部品を製作。1945年8月の終戦時、戦災被害皆無
- [46]1941年12月の開戦で戦時体制が強化され、1944年1月に軍需会社法による軍指定工場「護国第十工場」となり航空機用照明器具・電気部品・光学器具部品を製作。1945年8月の終戦時、戦災被害皆無
- [48]1941年12月の開戦で戦時体制が強化され、1944年1月に軍需会社法による軍指定工場「護国第十工場」となり航空機用照明器具・電気部品・光学器具部品を製作。1945年8月の終戦時、戦災被害皆無
- [49]1941年12月の開戦で戦時体制が強化され、1944年1月に軍需会社法による軍指定工場「護国第十工場」となり航空機用照明器具・電気部品・光学器具部品を製作。1945年8月の終戦時、戦災被害皆無
- 企業の歴史(明治百年)1968年「日本ナショナル金銭登録機」
- [47]日本ナショナル金銭登録機は敵産管理で決定的な打撃を受けた
1949年8月、東芝大仁工場は組織機構を改め、余剰人員を整理した。ドッジラインの実施で工場経営に合理化が求められたためである。大仁工場は1946年1月に民需転換の許可を得て、乾電池用灯器具、電気時計、和文タイプライタ、集魚灯を含む11品目の生産に移っていた。1947年には全国の農村に普及した蛍光誘蛾灯をすべて大仁工場で生産し、業績を持ち直した。並行して東芝にも過度経済力集中排除の措置が及び、1949年12月31日付で認可された整備計画で大仁工場の分離が決まった。1950年2月、大仁工場は東京芝浦電気から分離独立し、資本金3,500万円の東京電気器具となった。東京電気器具は東芝の第二会社として、従業員348名で発足した。
- 東京電気株式会社二十年史(1970年)「会社創立前史」
- [50]1946年1月民需転換許可(乾電池用灯器具・電気時計・和文タイプライタ等)。1947年に全国農村の蛍光誘蛾灯を全量生産。1949年8月ドッジラインで組織改革と余剰人員整理。1949年12月31日認可の東芝決定整備計画書で分離。1950年2月21日、資本金3,500万円・現物出資による東芝の第二会社として東京電気器具を設立、従業員348名
- [51]1946年1月民需転換許可(乾電池用灯器具・電気時計・和文タイプライタ等)。1947年に全国農村の蛍光誘蛾灯を全量生産。1949年8月ドッジラインで組織改革と余剰人員整理。1949年12月31日認可の東芝決定整備計画書で分離。1950年2月21日、資本金3,500万円・現物出資による東芝の第二会社として東京電気器具を設立、従業員348名
- [52]1946年1月民需転換許可(乾電池用灯器具・電気時計・和文タイプライタ等)。1947年に全国農村の蛍光誘蛾灯を全量生産。1949年8月ドッジラインで組織改革と余剰人員整理。1949年12月31日認可の東芝決定整備計画書で分離。1950年2月21日、資本金3,500万円・現物出資による東芝の第二会社として東京電気器具を設立、従業員348名
- [53]1946年1月民需転換許可(乾電池用灯器具・電気時計・和文タイプライタ等)。1947年に全国農村の蛍光誘蛾灯を全量生産。1949年8月ドッジラインで組織改革と余剰人員整理。1949年12月31日認可の東芝決定整備計画書で分離。1950年2月21日、資本金3,500万円・現物出資による東芝の第二会社として東京電気器具を設立、従業員348名
- [54]1946年1月民需転換許可(乾電池用灯器具・電気時計・和文タイプライタ等)。1947年に全国農村の蛍光誘蛾灯を全量生産。1949年8月ドッジラインで組織改革と余剰人員整理。1949年12月31日認可の東芝決定整備計画書で分離。1950年2月21日、資本金3,500万円・現物出資による東芝の第二会社として東京電気器具を設立、従業員348名
- [56]1946年1月民需転換許可(乾電池用灯器具・電気時計・和文タイプライタ等)。1947年に全国農村の蛍光誘蛾灯を全量生産。1949年8月ドッジラインで組織改革と余剰人員整理。1949年12月31日認可の東芝決定整備計画書で分離。1950年2月21日、資本金3,500万円・現物出資による東芝の第二会社として東京電気器具を設立、従業員348名
- 東芝テック 有価証券報告書「沿革」
- [55]1950年2月、企業再建整備法により東京芝浦電気から分離独立し東京電気器具(資本金3,500万円)
参考文献[38]-[56]
- 東京電気株式会社二十年史(1970年)「会社創立前史」
- [38]1940年1月、戦火の拡大に伴い東芝が買収し東芝大仁工場として発足。乾電池用灯器・自動車用灯器部品・航空基地用照明器具・管球製造機械部品・光学器具を製造。本社から設備・技術を導入。社史はこの時を事実上の創立とする
- [39]1940年1月、戦火の拡大に伴い東芝が買収し東芝大仁工場として発足。乾電池用灯器・自動車用灯器部品・航空基地用照明器具・管球製造機械部品・光学器具を製造。本社から設備・技術を導入。社史はこの時を事実上の創立とする
- [40]1940年1月、戦火の拡大に伴い東芝が買収し東芝大仁工場として発足。乾電池用灯器・自動車用灯器部品・航空基地用照明器具・管球製造機械部品・光学器具を製造。本社から設備・技術を導入。社史はこの時を事実上の創立とする
- [41]1940年1月、戦火の拡大に伴い東芝が買収し東芝大仁工場として発足。乾電池用灯器・自動車用灯器部品・航空基地用照明器具・管球製造機械部品・光学器具を製造。本社から設備・技術を導入。社史はこの時を事実上の創立とする
- [42]1940年1月、戦火の拡大に伴い東芝が買収し東芝大仁工場として発足。乾電池用灯器・自動車用灯器部品・航空基地用照明器具・管球製造機械部品・光学器具を製造。本社から設備・技術を導入。社史はこの時を事実上の創立とする
- [44]1941年12月の開戦で戦時体制が強化され、1944年1月に軍需会社法による軍指定工場「護国第十工場」となり航空機用照明器具・電気部品・光学器具部品を製作。1945年8月の終戦時、戦災被害皆無
- [45]1941年12月の開戦で戦時体制が強化され、1944年1月に軍需会社法による軍指定工場「護国第十工場」となり航空機用照明器具・電気部品・光学器具部品を製作。1945年8月の終戦時、戦災被害皆無
- [46]1941年12月の開戦で戦時体制が強化され、1944年1月に軍需会社法による軍指定工場「護国第十工場」となり航空機用照明器具・電気部品・光学器具部品を製作。1945年8月の終戦時、戦災被害皆無
- [48]1941年12月の開戦で戦時体制が強化され、1944年1月に軍需会社法による軍指定工場「護国第十工場」となり航空機用照明器具・電気部品・光学器具部品を製作。1945年8月の終戦時、戦災被害皆無
- [49]1941年12月の開戦で戦時体制が強化され、1944年1月に軍需会社法による軍指定工場「護国第十工場」となり航空機用照明器具・電気部品・光学器具部品を製作。1945年8月の終戦時、戦災被害皆無
- [50]1946年1月民需転換許可(乾電池用灯器具・電気時計・和文タイプライタ等)。1947年に全国農村の蛍光誘蛾灯を全量生産。1949年8月ドッジラインで組織改革と余剰人員整理。1949年12月31日認可の東芝決定整備計画書で分離。1950年2月21日、資本金3,500万円・現物出資による東芝の第二会社として東京電気器具を設立、従業員348名
- [51]1946年1月民需転換許可(乾電池用灯器具・電気時計・和文タイプライタ等)。1947年に全国農村の蛍光誘蛾灯を全量生産。1949年8月ドッジラインで組織改革と余剰人員整理。1949年12月31日認可の東芝決定整備計画書で分離。1950年2月21日、資本金3,500万円・現物出資による東芝の第二会社として東京電気器具を設立、従業員348名
- [52]1946年1月民需転換許可(乾電池用灯器具・電気時計・和文タイプライタ等)。1947年に全国農村の蛍光誘蛾灯を全量生産。1949年8月ドッジラインで組織改革と余剰人員整理。1949年12月31日認可の東芝決定整備計画書で分離。1950年2月21日、資本金3,500万円・現物出資による東芝の第二会社として東京電気器具を設立、従業員348名
- [53]1946年1月民需転換許可(乾電池用灯器具・電気時計・和文タイプライタ等)。1947年に全国農村の蛍光誘蛾灯を全量生産。1949年8月ドッジラインで組織改革と余剰人員整理。1949年12月31日認可の東芝決定整備計画書で分離。1950年2月21日、資本金3,500万円・現物出資による東芝の第二会社として東京電気器具を設立、従業員348名
- [54]1946年1月民需転換許可(乾電池用灯器具・電気時計・和文タイプライタ等)。1947年に全国農村の蛍光誘蛾灯を全量生産。1949年8月ドッジラインで組織改革と余剰人員整理。1949年12月31日認可の東芝決定整備計画書で分離。1950年2月21日、資本金3,500万円・現物出資による東芝の第二会社として東京電気器具を設立、従業員348名
- [56]1946年1月民需転換許可(乾電池用灯器具・電気時計・和文タイプライタ等)。1947年に全国農村の蛍光誘蛾灯を全量生産。1949年8月ドッジラインで組織改革と余剰人員整理。1949年12月31日認可の東芝決定整備計画書で分離。1950年2月21日、資本金3,500万円・現物出資による東芝の第二会社として東京電気器具を設立、従業員348名
- 企業の歴史(明治百年)1968年「日本ナショナル金銭登録機」
- [43]1941年12月の開戦後、1943年7月に日本ナショナル金銭登録機は企業を縮小し敵産管理で打撃を受けた
- [47]日本ナショナル金銭登録機は敵産管理で決定的な打撃を受けた
- 東芝テック 有価証券報告書「沿革」
- [55]1950年2月、企業再建整備法により東京芝浦電気から分離独立し東京電気器具(資本金3,500万円)
出典・参考
4件
- 東芝テック 有価証券報告書「沿革」
- 東京電気株式会社二十年史(1970年)「会社創立前史」
- 企業の歴史(明治百年)1968年「日本ナショナル金銭登録機」
- 発明 30(8) 1933年「發明サロン間宮精一君に聽く」