第3章 年〜年

日立製作所:DRAM量産による情報・エレクトロニクスへの傾斜と創業以来初の赤字

1969年〜ソフトウェア工場の新設と、島根原子力発電所一号機

重電で首位に立った日立が次に足場を築いたのは、情報とエネルギーの二つだった。1969年2月にソフトウェア工場を新設し、1973年2月にはシステム開発研究所を設けている。計算機の受託開発を工場の名で呼んだところに、この分野を製造業として扱う姿勢が表れていた。同じ時期、1969年12月には日立建設機械製造を分離独立させている。1970年5月の高崎工場、1971年4月に日立電子から譲り受けた旭工場、1974年6月の土浦工場と、生産拠点も加えている。1973年に設けたシステム開発研究所は、計算機の応用技術を担う拠点であった。1985年4月には基礎研究所を新設し、応用から離れた研究にも枠を置いた。情報部門へ経営資源を傾斜配分する方針は、以後20年にわたって続くことになる。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1969年2月 ソフトウェア工場新設、1969年12月 日立建設機械製造㈱分離独立、1970年5月 高崎工場新設、1971年4月 日立電子㈱より旭工場を譲受、1973年2月 システム開発研究所新設、1974年6月 土浦工場新設、1985年4月 基礎研究所新設
    • [2]1969年2月 ソフトウェア工場新設、1969年12月 日立建設機械製造㈱分離独立、1970年5月 高崎工場新設、1971年4月 日立電子㈱より旭工場を譲受、1973年2月 システム開発研究所新設、1974年6月 土浦工場新設、1985年4月 基礎研究所新設
    • [3]1969年2月 ソフトウェア工場新設、1969年12月 日立建設機械製造㈱分離独立、1970年5月 高崎工場新設、1971年4月 日立電子㈱より旭工場を譲受、1973年2月 システム開発研究所新設、1974年6月 土浦工場新設、1985年4月 基礎研究所新設
    • [4]1969年2月 ソフトウェア工場新設、1969年12月 日立建設機械製造㈱分離独立、1970年5月 高崎工場新設、1971年4月 日立電子㈱より旭工場を譲受、1973年2月 システム開発研究所新設、1974年6月 土浦工場新設、1985年4月 基礎研究所新設
    • [5]1969年2月 ソフトウェア工場新設、1969年12月 日立建設機械製造㈱分離独立、1970年5月 高崎工場新設、1971年4月 日立電子㈱より旭工場を譲受、1973年2月 システム開発研究所新設、1974年6月 土浦工場新設、1985年4月 基礎研究所新設
    • [6]1969年2月 ソフトウェア工場新設、1969年12月 日立建設機械製造㈱分離独立、1970年5月 高崎工場新設、1971年4月 日立電子㈱より旭工場を譲受、1973年2月 システム開発研究所新設、1974年6月 土浦工場新設、1985年4月 基礎研究所新設
  • 日経ビジネス(1991年12月9日号)
    • [7]日立はこの数年間、一貫して情報・エレクトロニクス部門(コンピューター・半導体)へ経営資源を傾斜配分してきた

もう一方のエネルギーでは原子力が立ち上がった。1974年3月、日立が初めて手掛けた島根原子力発電所1号機が完成する。建設を原子力開発部長として指揮したのは、後に社長となる金井務氏であった。金井務氏は中央研究所で熱力学と流体力学の基礎研究に10年を費やしたのち、原子力技術部門の課長として日立工場へ移った技術者である。1981年に日立工場長、1985年に常務、1989年に副社長を経て社長へ就任した。重電・家電・情報を並べて持つ総合電機の形は、どの部門かが沈んでも別の部門が補える点に利があった。日本経済すべてが右上がりだった時期には、この形が安定した発展をもたらしている。1982年6月にはHitachi Europeを設け、欧州にも販売と技術の足場を広げている。

  • 日経ビジネス(1991年7月8日号)
    • [8]日立として初めて手掛けた1974年3月完成の島根原子力発電所1号機の建設で、金井務氏が原子力開発部長として様々な経歴の作業員を指揮した。金井氏は中央研究所で10年勤務して熱力学・流体力学など原子力の基礎研究に没頭したのち、原子力技術部門の課長として日立工場へ異動。1981年6月 日立工場長、1985年6月 常務取締役、1987年6月 専務、1989年6月 副社長、1991年6月から社長
    • [9]日立として初めて手掛けた1974年3月完成の島根原子力発電所1号機の建設で、金井務氏が原子力開発部長として様々な経歴の作業員を指揮した。金井氏は中央研究所で10年勤務して熱力学・流体力学など原子力の基礎研究に没頭したのち、原子力技術部門の課長として日立工場へ異動。1981年6月 日立工場長、1985年6月 常務取締役、1987年6月 専務、1989年6月 副社長、1991年6月から社長
    • [10]日立として初めて手掛けた1974年3月完成の島根原子力発電所1号機の建設で、金井務氏が原子力開発部長として様々な経歴の作業員を指揮した。金井氏は中央研究所で10年勤務して熱力学・流体力学など原子力の基礎研究に没頭したのち、原子力技術部門の課長として日立工場へ異動。1981年6月 日立工場長、1985年6月 常務取締役、1987年6月 専務、1989年6月 副社長、1991年6月から社長
    • [11]日立として初めて手掛けた1974年3月完成の島根原子力発電所1号機の建設で、金井務氏が原子力開発部長として様々な経歴の作業員を指揮した。金井氏は中央研究所で10年勤務して熱力学・流体力学など原子力の基礎研究に没頭したのち、原子力技術部門の課長として日立工場へ異動。1981年6月 日立工場長、1985年6月 常務取締役、1987年6月 専務、1989年6月 副社長、1991年6月から社長
    • [12]日立として初めて手掛けた1974年3月完成の島根原子力発電所1号機の建設で、金井務氏が原子力開発部長として様々な経歴の作業員を指揮した。金井氏は中央研究所で10年勤務して熱力学・流体力学など原子力の基礎研究に没頭したのち、原子力技術部門の課長として日立工場へ異動。1981年6月 日立工場長、1985年6月 常務取締役、1987年6月 専務、1989年6月 副社長、1991年6月から社長
  • 日経ビジネス(1998年11月2日号)
    • [13]金井務氏の説明。あっちの部門は悪いけれどもこっちの部門が良くて全体に安定して発展するというのは、日本経済すべてが右上がりの時代だったから可能だった
    • [14]金井務氏の説明。あっちの部門は悪いけれどもこっちの部門が良くて全体に安定して発展するというのは、日本経済すべてが右上がりの時代だったから可能だった
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [15]1982年6月 Hitachi Europe Ltd.設立
参考文献[1]-[15]
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1969年2月 ソフトウェア工場新設、1969年12月 日立建設機械製造㈱分離独立、1970年5月 高崎工場新設、1971年4月 日立電子㈱より旭工場を譲受、1973年2月 システム開発研究所新設、1974年6月 土浦工場新設、1985年4月 基礎研究所新設
    • [2]1969年2月 ソフトウェア工場新設、1969年12月 日立建設機械製造㈱分離独立、1970年5月 高崎工場新設、1971年4月 日立電子㈱より旭工場を譲受、1973年2月 システム開発研究所新設、1974年6月 土浦工場新設、1985年4月 基礎研究所新設
    • [3]1969年2月 ソフトウェア工場新設、1969年12月 日立建設機械製造㈱分離独立、1970年5月 高崎工場新設、1971年4月 日立電子㈱より旭工場を譲受、1973年2月 システム開発研究所新設、1974年6月 土浦工場新設、1985年4月 基礎研究所新設
    • [4]1969年2月 ソフトウェア工場新設、1969年12月 日立建設機械製造㈱分離独立、1970年5月 高崎工場新設、1971年4月 日立電子㈱より旭工場を譲受、1973年2月 システム開発研究所新設、1974年6月 土浦工場新設、1985年4月 基礎研究所新設
    • [5]1969年2月 ソフトウェア工場新設、1969年12月 日立建設機械製造㈱分離独立、1970年5月 高崎工場新設、1971年4月 日立電子㈱より旭工場を譲受、1973年2月 システム開発研究所新設、1974年6月 土浦工場新設、1985年4月 基礎研究所新設
    • [6]1969年2月 ソフトウェア工場新設、1969年12月 日立建設機械製造㈱分離独立、1970年5月 高崎工場新設、1971年4月 日立電子㈱より旭工場を譲受、1973年2月 システム開発研究所新設、1974年6月 土浦工場新設、1985年4月 基礎研究所新設
    • [15]1982年6月 Hitachi Europe Ltd.設立
  • 日経ビジネス(1991年12月9日号)
    • [7]日立はこの数年間、一貫して情報・エレクトロニクス部門(コンピューター・半導体)へ経営資源を傾斜配分してきた
  • 日経ビジネス(1991年7月8日号)
    • [8]日立として初めて手掛けた1974年3月完成の島根原子力発電所1号機の建設で、金井務氏が原子力開発部長として様々な経歴の作業員を指揮した。金井氏は中央研究所で10年勤務して熱力学・流体力学など原子力の基礎研究に没頭したのち、原子力技術部門の課長として日立工場へ異動。1981年6月 日立工場長、1985年6月 常務取締役、1987年6月 専務、1989年6月 副社長、1991年6月から社長
    • [9]日立として初めて手掛けた1974年3月完成の島根原子力発電所1号機の建設で、金井務氏が原子力開発部長として様々な経歴の作業員を指揮した。金井氏は中央研究所で10年勤務して熱力学・流体力学など原子力の基礎研究に没頭したのち、原子力技術部門の課長として日立工場へ異動。1981年6月 日立工場長、1985年6月 常務取締役、1987年6月 専務、1989年6月 副社長、1991年6月から社長
    • [10]日立として初めて手掛けた1974年3月完成の島根原子力発電所1号機の建設で、金井務氏が原子力開発部長として様々な経歴の作業員を指揮した。金井氏は中央研究所で10年勤務して熱力学・流体力学など原子力の基礎研究に没頭したのち、原子力技術部門の課長として日立工場へ異動。1981年6月 日立工場長、1985年6月 常務取締役、1987年6月 専務、1989年6月 副社長、1991年6月から社長
    • [11]日立として初めて手掛けた1974年3月完成の島根原子力発電所1号機の建設で、金井務氏が原子力開発部長として様々な経歴の作業員を指揮した。金井氏は中央研究所で10年勤務して熱力学・流体力学など原子力の基礎研究に没頭したのち、原子力技術部門の課長として日立工場へ異動。1981年6月 日立工場長、1985年6月 常務取締役、1987年6月 専務、1989年6月 副社長、1991年6月から社長
    • [12]日立として初めて手掛けた1974年3月完成の島根原子力発電所1号機の建設で、金井務氏が原子力開発部長として様々な経歴の作業員を指揮した。金井氏は中央研究所で10年勤務して熱力学・流体力学など原子力の基礎研究に没頭したのち、原子力技術部門の課長として日立工場へ異動。1981年6月 日立工場長、1985年6月 常務取締役、1987年6月 専務、1989年6月 副社長、1991年6月から社長
  • 日経ビジネス(1998年11月2日号)
    • [13]金井務氏の説明。あっちの部門は悪いけれどもこっちの部門が良くて全体に安定して発展するというのは、日本経済すべてが右上がりの時代だったから可能だった
    • [14]金井務氏の説明。あっちの部門は悪いけれどもこっちの部門が良くて全体に安定して発展するというのは、日本経済すべてが右上がりの時代だったから可能だった

1984年〜1メガDRAMでの敗北と、4メガへの集中投資

1980年代の日立は、経営の軸を情報・エレクトロニクスへ移した。同部門の売上構成比は1984年3月期の34.1%から1991年3月期に47.8%へ上がる。1987年3月期からの5期では、設備投資総額約1兆円の6割強と研究開発費総額約1兆7000億円の7割を同部門へ配分した。だが資本が向かった先はソフトウェアではなく、半導体という装置産業である。この時期の日本メーカーは超微細加工と量産技術を差別化要因としてメモリーで世界を制し、半導体はハイテク日本の象徴とされていた。日立は1980年代末から米テキサス州アービング市に前工程の拠点を置いた。1989年2月にはアジアの統括拠点も設け、生産と販売の両面で海外へ出ている。

  • 日経ビジネス(1991年12月9日号)
    • [16]日立はこの数年間、一貫して情報・エレクトロニクス部門(コンピューター・半導体)へ経営資源を傾斜配分。売上高に占める同部門の比率は84年3月期34.1%から91年3月期47.8%へ上昇し、87年3月期から91年3月期の5期間で設備投資総額約1兆円の6割強、研究開発費総額約1兆7000億円の7割を同部門へ配分した
    • [17]日立はこの数年間、一貫して情報・エレクトロニクス部門(コンピューター・半導体)へ経営資源を傾斜配分。売上高に占める同部門の比率は84年3月期34.1%から91年3月期47.8%へ上昇し、87年3月期から91年3月期の5期間で設備投資総額約1兆円の6割強、研究開発費総額約1兆7000億円の7割を同部門へ配分した
    • [18]日立はこの数年間、一貫して情報・エレクトロニクス部門(コンピューター・半導体)へ経営資源を傾斜配分。売上高に占める同部門の比率は84年3月期34.1%から91年3月期47.8%へ上昇し、87年3月期から91年3月期の5期間で設備投資総額約1兆円の6割強、研究開発費総額約1兆7000億円の7割を同部門へ配分した
    • [19]日立はこの数年間、一貫して情報・エレクトロニクス部門(コンピューター・半導体)へ経営資源を傾斜配分。売上高に占める同部門の比率は84年3月期34.1%から91年3月期47.8%へ上昇し、87年3月期から91年3月期の5期間で設備投資総額約1兆円の6割強、研究開発費総額約1兆7000億円の7割を同部門へ配分した
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 電機・電子「半導体-日米半導体協定の衝撃」
    • [20]半導体メモリーの量産技術はハイテク日本の象徴でもあり米メーカーに大きく水をあけていた。海外での直接投資も積極的に拡大し、1980年代末から1985年にかけて日立製作所は米テキサス州アービング市へ前処理部門を進出させた
    • [21]半導体メモリーの量産技術はハイテク日本の象徴でもあり米メーカーに大きく水をあけていた。海外での直接投資も積極的に拡大し、1980年代末から1985年にかけて日立製作所は米テキサス州アービング市へ前処理部門を進出させた
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1989年2月 Hitachi Asia Pte. Ltd.(現Hitachi Asia Ltd.)設立

傾斜を決めたのは1メガDRAMで競争劣位に立ったことだった。日本市場で外国系半導体の購入を増やすこと、そして政府が価格を見張ってダンピング輸出を防ぐことが、1986年7月に結ばれた日米半導体協定の中身だった。伸び盛りのハイテク産業の貿易が政府の管理下に入ったのは、これが初めてである。公正市場価格が導入されると、値を下げて量産効果を得る手は使えなくなった。1987年から1989年まで、1メガDRAMは約2000円の値を保った。量産の備えを他社より早く済ませていた東芝はこの高値で潤い、日本電気を追う位置まで伸びた。1989年3月期には、営業利益で日立が東芝に抜かれた。日立にとって、4メガで首位を取り返すことは何をおいても果たすべき目標になった。

  • 日経ビジネス(1991年12月9日号)
    • [23]1メガに的を絞った東芝が89年3月期の営業利益で日立を抜き、「4メガでは絶対に首位を奪還する」ことが理屈抜きの目標となって投資戦略を狂わせた
    • [28]1メガに的を絞った東芝が89年3月期の営業利益で日立を抜き、「4メガでは絶対に首位を奪還する」ことが理屈抜きの目標となって投資戦略を狂わせた
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 電機・電子「半導体-日米半導体協定の衝撃」
    • [24]1986年7月 日米半導体協定締結に合意。成長期のハイテク産業の貿易を政府の管理下に置いたのは初めて。公正市場価格(FMV)の導入により価格を引き下げて需要を刺激し量産効果に期待する戦略がとれなくなり、1メガビットDRAMの価格は1987年から1989年にかけて約2000円で推移。いち早く1MDRAMの量産体制を整えた東芝がこの価格高どまりの恩恵を享受し日本電気に迫るメーカーに成長
    • [25]1986年7月 日米半導体協定締結に合意。成長期のハイテク産業の貿易を政府の管理下に置いたのは初めて。公正市場価格(FMV)の導入により価格を引き下げて需要を刺激し量産効果に期待する戦略がとれなくなり、1メガビットDRAMの価格は1987年から1989年にかけて約2000円で推移。いち早く1MDRAMの量産体制を整えた東芝がこの価格高どまりの恩恵を享受し日本電気に迫るメーカーに成長
    • [26]1986年7月 日米半導体協定締結に合意。成長期のハイテク産業の貿易を政府の管理下に置いたのは初めて。公正市場価格(FMV)の導入により価格を引き下げて需要を刺激し量産効果に期待する戦略がとれなくなり、1メガビットDRAMの価格は1987年から1989年にかけて約2000円で推移。いち早く1MDRAMの量産体制を整えた東芝がこの価格高どまりの恩恵を享受し日本電気に迫るメーカーに成長
    • [27]1986年7月 日米半導体協定締結に合意。成長期のハイテク産業の貿易を政府の管理下に置いたのは初めて。公正市場価格(FMV)の導入により価格を引き下げて需要を刺激し量産効果に期待する戦略がとれなくなり、1メガビットDRAMの価格は1987年から1989年にかけて約2000円で推移。いち早く1MDRAMの量産体制を整えた東芝がこの価格高どまりの恩恵を享受し日本電気に迫るメーカーに成長

株価が高い局面をとらえて3回にわたり発行した転換社債4900億円が資金の出どころで、利払いの軽いこの調達があったからこそ、コストに厳しい日立も4メガの量産へ2000億円前後という設備投資を振り向けられた。誤算の源は技術ではなく需要にあった。世代が一つ進むごとに設備の所要額が1.5倍から2倍へ膨らむ半導体で、基本技術の用途を広げる余地は尽きかけており、シリコンサイクル自体が崩れつつあった。売上高営業利益率は1985年3月期の7.67%から1991年3月期に4.51%へ低下する。半導体部門の投資収益率も、10年平均で1ケタ台の半ばにとどまる。仮に6%としても、大口定期預金の利回りを下回る水準であった。協定が価格の下落を鈍化させたことで、需給は逼迫型へ変わっていた。

  • 日経ビジネス(1991年12月9日号)
    • [29]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [30]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [31]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [32]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [33]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [34]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [35]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [36]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 電機・電子「半導体-日米半導体協定の衝撃」
    • [37]半導体協定の主な中身は、日本市場での外国系半導体の購入拡大の勧奨と、日本企業のダンピング輸出防止のため政府が価格を監視すること。1987年4月に米政府は日本が協定を忠実に履行していないとしてパソコン・電動工具・カラーテレビに対する関税を100%引き上げる措置を発動した
参考文献[16]-[37]
  • 日経ビジネス(1991年12月9日号)
    • [16]日立はこの数年間、一貫して情報・エレクトロニクス部門(コンピューター・半導体)へ経営資源を傾斜配分。売上高に占める同部門の比率は84年3月期34.1%から91年3月期47.8%へ上昇し、87年3月期から91年3月期の5期間で設備投資総額約1兆円の6割強、研究開発費総額約1兆7000億円の7割を同部門へ配分した
    • [17]日立はこの数年間、一貫して情報・エレクトロニクス部門(コンピューター・半導体)へ経営資源を傾斜配分。売上高に占める同部門の比率は84年3月期34.1%から91年3月期47.8%へ上昇し、87年3月期から91年3月期の5期間で設備投資総額約1兆円の6割強、研究開発費総額約1兆7000億円の7割を同部門へ配分した
    • [18]日立はこの数年間、一貫して情報・エレクトロニクス部門(コンピューター・半導体)へ経営資源を傾斜配分。売上高に占める同部門の比率は84年3月期34.1%から91年3月期47.8%へ上昇し、87年3月期から91年3月期の5期間で設備投資総額約1兆円の6割強、研究開発費総額約1兆7000億円の7割を同部門へ配分した
    • [19]日立はこの数年間、一貫して情報・エレクトロニクス部門(コンピューター・半導体)へ経営資源を傾斜配分。売上高に占める同部門の比率は84年3月期34.1%から91年3月期47.8%へ上昇し、87年3月期から91年3月期の5期間で設備投資総額約1兆円の6割強、研究開発費総額約1兆7000億円の7割を同部門へ配分した
    • [23]1メガに的を絞った東芝が89年3月期の営業利益で日立を抜き、「4メガでは絶対に首位を奪還する」ことが理屈抜きの目標となって投資戦略を狂わせた
    • [28]1メガに的を絞った東芝が89年3月期の営業利益で日立を抜き、「4メガでは絶対に首位を奪還する」ことが理屈抜きの目標となって投資戦略を狂わせた
    • [29]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [30]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [31]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [32]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [33]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [34]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [35]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
    • [36]4メガビットDRAMの量産化につぎ込んだ設備投資総額は2000億円前後。87年1月以降3回の転換社債で総額4900億円を調達し、このカネがなければ原価管理の厳しい日立であれだけの巨額投資はできなかった。半導体は世代交代ごとに必要な設備投資額が1.5倍から2倍に跳ね上がる一方、基本技術の用途開発が限界に近づき3世代が共存してシリコンサイクルが崩れている。売上高営業利益率は85年3月期7.67%から91年3月期4.51%へ低下し、半導体部門の投資収益率はこの10年間平均で1ケタ台の半ば
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 電機・電子「半導体-日米半導体協定の衝撃」
    • [20]半導体メモリーの量産技術はハイテク日本の象徴でもあり米メーカーに大きく水をあけていた。海外での直接投資も積極的に拡大し、1980年代末から1985年にかけて日立製作所は米テキサス州アービング市へ前処理部門を進出させた
    • [21]半導体メモリーの量産技術はハイテク日本の象徴でもあり米メーカーに大きく水をあけていた。海外での直接投資も積極的に拡大し、1980年代末から1985年にかけて日立製作所は米テキサス州アービング市へ前処理部門を進出させた
    • [24]1986年7月 日米半導体協定締結に合意。成長期のハイテク産業の貿易を政府の管理下に置いたのは初めて。公正市場価格(FMV)の導入により価格を引き下げて需要を刺激し量産効果に期待する戦略がとれなくなり、1メガビットDRAMの価格は1987年から1989年にかけて約2000円で推移。いち早く1MDRAMの量産体制を整えた東芝がこの価格高どまりの恩恵を享受し日本電気に迫るメーカーに成長
    • [25]1986年7月 日米半導体協定締結に合意。成長期のハイテク産業の貿易を政府の管理下に置いたのは初めて。公正市場価格(FMV)の導入により価格を引き下げて需要を刺激し量産効果に期待する戦略がとれなくなり、1メガビットDRAMの価格は1987年から1989年にかけて約2000円で推移。いち早く1MDRAMの量産体制を整えた東芝がこの価格高どまりの恩恵を享受し日本電気に迫るメーカーに成長
    • [26]1986年7月 日米半導体協定締結に合意。成長期のハイテク産業の貿易を政府の管理下に置いたのは初めて。公正市場価格(FMV)の導入により価格を引き下げて需要を刺激し量産効果に期待する戦略がとれなくなり、1メガビットDRAMの価格は1987年から1989年にかけて約2000円で推移。いち早く1MDRAMの量産体制を整えた東芝がこの価格高どまりの恩恵を享受し日本電気に迫るメーカーに成長
    • [27]1986年7月 日米半導体協定締結に合意。成長期のハイテク産業の貿易を政府の管理下に置いたのは初めて。公正市場価格(FMV)の導入により価格を引き下げて需要を刺激し量産効果に期待する戦略がとれなくなり、1メガビットDRAMの価格は1987年から1989年にかけて約2000円で推移。いち早く1MDRAMの量産体制を整えた東芝がこの価格高どまりの恩恵を享受し日本電気に迫るメーカーに成長
    • [37]半導体協定の主な中身は、日本市場での外国系半導体の購入拡大の勧奨と、日本企業のダンピング輸出防止のため政府が価格を監視すること。1987年4月に米政府は日本が協定を忠実に履行していないとしてパソコン・電動工具・カラーテレビに対する関税を100%引き上げる措置を発動した
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1989年2月 Hitachi Asia Pte. Ltd.(現Hitachi Asia Ltd.)設立

1992年〜分権化の不徹底と、創業以来初の赤字

1991年6月に社長へ就任した金井務氏が三田勝茂会長から引き継いだのは、情報通信部門の強化と家電の再建だった。従来のマーケティング手法と製品開発では、時代の変化に追いつけなくなっていた。バブル崩壊後の不況は、日本の半導体産業の質的転換を促した。平成不況でコンピューター需要が大きな打撃を受け、民間設備投資も家電の需要も冷え込む。外国から技術を導入した韓国メーカーとOEM生産を基盤とした台湾メーカーが力をつけた。4メガDRAMでは韓国の三星電子が世界最大とみられるまでに育っている。開発費が1000億円近くに達し、巨大メーカーでも単独では負担しきれなくなったためである。

  • 日経ビジネス(1991年7月8日号)
    • [38]1991年6月に金井務氏が社長就任。情報通信部門の強化、家電の再建など三田勝茂会長から引き継いだ課題は多く、これまでの伝統的なマーケティング手法や製品開発では時代の変化についていけないと語った
    • [39]1991年6月に金井務氏が社長就任。情報通信部門の強化、家電の再建など三田勝茂会長から引き継いだ課題は多く、これまでの伝統的なマーケティング手法や製品開発では時代の変化についていけないと語った
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 電機・電子「半導体-日米半導体協定の衝撃」
    • [40]バブル崩壊不況は日本の半導体産業の質的転換を促した。平成不況でコンピューター需要が大打撃を受け民間設備投資も不振、家電などの需要も冷え込んだ。韓国・台湾メーカーが着実に力を付け4MDRAMでは世界最大のメーカーは韓国の三星電子と見られるほどに成長。集積度が進むに伴い開発コストが1000億円近くもかかり巨大メーカーといえども単独では負担が大きすぎるようになり、1992年に日立製作所と米テキサスインスツルメンツが次世代メモリーの共同開発に合意した
    • [41]バブル崩壊不況は日本の半導体産業の質的転換を促した。平成不況でコンピューター需要が大打撃を受け民間設備投資も不振、家電などの需要も冷え込んだ。韓国・台湾メーカーが着実に力を付け4MDRAMでは世界最大のメーカーは韓国の三星電子と見られるほどに成長。集積度が進むに伴い開発コストが1000億円近くもかかり巨大メーカーといえども単独では負担が大きすぎるようになり、1992年に日立製作所と米テキサスインスツルメンツが次世代メモリーの共同開発に合意した
    • [42]バブル崩壊不況は日本の半導体産業の質的転換を促した。平成不況でコンピューター需要が大打撃を受け民間設備投資も不振、家電などの需要も冷え込んだ。韓国・台湾メーカーが着実に力を付け4MDRAMでは世界最大のメーカーは韓国の三星電子と見られるほどに成長。集積度が進むに伴い開発コストが1000億円近くもかかり巨大メーカーといえども単独では負担が大きすぎるようになり、1992年に日立製作所と米テキサスインスツルメンツが次世代メモリーの共同開発に合意した
    • [43]バブル崩壊不況は日本の半導体産業の質的転換を促した。平成不況でコンピューター需要が大打撃を受け民間設備投資も不振、家電などの需要も冷え込んだ。韓国・台湾メーカーが着実に力を付け4MDRAMでは世界最大のメーカーは韓国の三星電子と見られるほどに成長。集積度が進むに伴い開発コストが1000億円近くもかかり巨大メーカーといえども単独では負担が大きすぎるようになり、1992年に日立製作所と米テキサスインスツルメンツが次世代メモリーの共同開発に合意した
    • [44]バブル崩壊不況は日本の半導体産業の質的転換を促した。平成不況でコンピューター需要が大打撃を受け民間設備投資も不振、家電などの需要も冷え込んだ。韓国・台湾メーカーが着実に力を付け4MDRAMでは世界最大のメーカーは韓国の三星電子と見られるほどに成長。集積度が進むに伴い開発コストが1000億円近くもかかり巨大メーカーといえども単独では負担が大きすぎるようになり、1992年に日立製作所と米テキサスインスツルメンツが次世代メモリーの共同開発に合意した

日立が取った手は、事業部と工場の統合だった。1991年2月に佐和工場を自動車機器事業部へ、1992年2月に横浜・東海の両工場をAV機器事業部へ統合する。1993年2月には半導体設計開発センタと武蔵・高崎の両工場を半導体事業部へ、1994年8月には家電事業本部と情報映像メディア事業部を統合した。1995年2月には電力・電機、家電・情報メディア、情報、電子部品の各事業を事業グループへまとめている。それでも1999年3月期、日立は連結2500億円・単独2600億円の最終赤字に転落する見通しを発表した。年間での赤字は創業以来初めてであり、当初1500億円の設備投資計画も実施済みの700億円で原則凍結された。

  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [45]1993年2月 半導体設計開発センタ・武蔵工場・高崎工場を半導体事業部に統合、1994年8月 家電事業本部及び情報映像メディア事業部を統合、1995年2月 電力・電機、家電・情報メディア、情報及び電子部品事業を事業グループへ再編
    • [46]1993年2月 半導体設計開発センタ・武蔵工場・高崎工場を半導体事業部に統合、1994年8月 家電事業本部及び情報映像メディア事業部を統合、1995年2月 電力・電機、家電・情報メディア、情報及び電子部品事業を事業グループへ再編
    • [47]1993年2月 半導体設計開発センタ・武蔵工場・高崎工場を半導体事業部に統合、1994年8月 家電事業本部及び情報映像メディア事業部を統合、1995年2月 電力・電機、家電・情報メディア、情報及び電子部品事業を事業グループへ再編
    • [48]1993年2月 半導体設計開発センタ・武蔵工場・高崎工場を半導体事業部に統合、1994年8月 家電事業本部及び情報映像メディア事業部を統合、1995年2月 電力・電機、家電・情報メディア、情報及び電子部品事業を事業グループへ再編
  • 日経ビジネス(1998年11月2日号)
    • [49]1999年3月期の単独・連結の最終損益はそれぞれ2600億円と2500億円の赤字に転落する見通しとなり、年間での赤字は創業以来初めて。当初1500億円の設備投資計画をこれまで実施した700億円で原則凍結
    • [50]1999年3月期の単独・連結の最終損益はそれぞれ2600億円と2500億円の赤字に転落する見通しとなり、年間での赤字は創業以来初めて。当初1500億円の設備投資計画をこれまで実施した700億円で原則凍結

最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円へ拡大したことで、64メガビットDRAMの価格下落が響いた。DRAM以外に収益源を育てなかったつけが出た形である。家電は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億円台へ悪化した。金井務氏は赤字の理由を、事業の分権化が徹底できなかったことに求めている。1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待された成果を得られず、1998年10月には株価が一時、約35年ぶりに東芝を下回った。日立は1999年4月から事業グループを実質的な独立会社として運営する体制へ移るが、大きな事業撤退には着手していない。納入先への責任と雇用の問題が、撤退を阻む二つの理由である。

  • 日経ビジネス(1998年11月2日号)
    • [51]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた
    • [52]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた
    • [53]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた
    • [54]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた
    • [55]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた
    • [56]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた
    • [58]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [57]1999年4月 事業グループを再編し、それぞれを実質的独立会社として運営する経営体制へ移行
参考文献[38]-[58]
  • 日経ビジネス(1991年7月8日号)
    • [38]1991年6月に金井務氏が社長就任。情報通信部門の強化、家電の再建など三田勝茂会長から引き継いだ課題は多く、これまでの伝統的なマーケティング手法や製品開発では時代の変化についていけないと語った
    • [39]1991年6月に金井務氏が社長就任。情報通信部門の強化、家電の再建など三田勝茂会長から引き継いだ課題は多く、これまでの伝統的なマーケティング手法や製品開発では時代の変化についていけないと語った
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 電機・電子「半導体-日米半導体協定の衝撃」
    • [40]バブル崩壊不況は日本の半導体産業の質的転換を促した。平成不況でコンピューター需要が大打撃を受け民間設備投資も不振、家電などの需要も冷え込んだ。韓国・台湾メーカーが着実に力を付け4MDRAMでは世界最大のメーカーは韓国の三星電子と見られるほどに成長。集積度が進むに伴い開発コストが1000億円近くもかかり巨大メーカーといえども単独では負担が大きすぎるようになり、1992年に日立製作所と米テキサスインスツルメンツが次世代メモリーの共同開発に合意した
    • [41]バブル崩壊不況は日本の半導体産業の質的転換を促した。平成不況でコンピューター需要が大打撃を受け民間設備投資も不振、家電などの需要も冷え込んだ。韓国・台湾メーカーが着実に力を付け4MDRAMでは世界最大のメーカーは韓国の三星電子と見られるほどに成長。集積度が進むに伴い開発コストが1000億円近くもかかり巨大メーカーといえども単独では負担が大きすぎるようになり、1992年に日立製作所と米テキサスインスツルメンツが次世代メモリーの共同開発に合意した
    • [42]バブル崩壊不況は日本の半導体産業の質的転換を促した。平成不況でコンピューター需要が大打撃を受け民間設備投資も不振、家電などの需要も冷え込んだ。韓国・台湾メーカーが着実に力を付け4MDRAMでは世界最大のメーカーは韓国の三星電子と見られるほどに成長。集積度が進むに伴い開発コストが1000億円近くもかかり巨大メーカーといえども単独では負担が大きすぎるようになり、1992年に日立製作所と米テキサスインスツルメンツが次世代メモリーの共同開発に合意した
    • [43]バブル崩壊不況は日本の半導体産業の質的転換を促した。平成不況でコンピューター需要が大打撃を受け民間設備投資も不振、家電などの需要も冷え込んだ。韓国・台湾メーカーが着実に力を付け4MDRAMでは世界最大のメーカーは韓国の三星電子と見られるほどに成長。集積度が進むに伴い開発コストが1000億円近くもかかり巨大メーカーといえども単独では負担が大きすぎるようになり、1992年に日立製作所と米テキサスインスツルメンツが次世代メモリーの共同開発に合意した
    • [44]バブル崩壊不況は日本の半導体産業の質的転換を促した。平成不況でコンピューター需要が大打撃を受け民間設備投資も不振、家電などの需要も冷え込んだ。韓国・台湾メーカーが着実に力を付け4MDRAMでは世界最大のメーカーは韓国の三星電子と見られるほどに成長。集積度が進むに伴い開発コストが1000億円近くもかかり巨大メーカーといえども単独では負担が大きすぎるようになり、1992年に日立製作所と米テキサスインスツルメンツが次世代メモリーの共同開発に合意した
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [45]1993年2月 半導体設計開発センタ・武蔵工場・高崎工場を半導体事業部に統合、1994年8月 家電事業本部及び情報映像メディア事業部を統合、1995年2月 電力・電機、家電・情報メディア、情報及び電子部品事業を事業グループへ再編
    • [46]1993年2月 半導体設計開発センタ・武蔵工場・高崎工場を半導体事業部に統合、1994年8月 家電事業本部及び情報映像メディア事業部を統合、1995年2月 電力・電機、家電・情報メディア、情報及び電子部品事業を事業グループへ再編
    • [47]1993年2月 半導体設計開発センタ・武蔵工場・高崎工場を半導体事業部に統合、1994年8月 家電事業本部及び情報映像メディア事業部を統合、1995年2月 電力・電機、家電・情報メディア、情報及び電子部品事業を事業グループへ再編
    • [48]1993年2月 半導体設計開発センタ・武蔵工場・高崎工場を半導体事業部に統合、1994年8月 家電事業本部及び情報映像メディア事業部を統合、1995年2月 電力・電機、家電・情報メディア、情報及び電子部品事業を事業グループへ再編
    • [57]1999年4月 事業グループを再編し、それぞれを実質的独立会社として運営する経営体制へ移行
  • 日経ビジネス(1998年11月2日号)
    • [49]1999年3月期の単独・連結の最終損益はそれぞれ2600億円と2500億円の赤字に転落する見通しとなり、年間での赤字は創業以来初めて。当初1500億円の設備投資計画をこれまで実施した700億円で原則凍結
    • [50]1999年3月期の単独・連結の最終損益はそれぞれ2600億円と2500億円の赤字に転落する見通しとなり、年間での赤字は創業以来初めて。当初1500億円の設備投資計画をこれまで実施した700億円で原則凍結
    • [51]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた
    • [52]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた
    • [53]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた
    • [54]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた
    • [55]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた
    • [56]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた
    • [58]最大の原因は半導体事業の連結営業赤字が1200億円に拡大することで、64メガビットDRAMの価格下落が大きかったうえDRAM以外に収益の柱を育てなかったツケが出た。家電事業は20億円の営業赤字に低迷し、重電の営業黒字も前年度の925億円から200億〜300億円に落ち込む。金井務氏は分権化が必ずしもうまくいっていなかったことが製品を出すのに時間がかかる1つの理由でもあったと述べ、1995年に導入した社内分社的なグループ制は期待されたような成果を得られなかった。1998年10月20日に株価が一時ほぼ35年ぶりに東芝を下回った。金井務氏は良い部門だけを残して不採算事業から撤退してきたGEを立派だと評しつつ、顧客と雇用の問題があるため今のところ大きな撤退は考えていないと述べた

1969年〜2001年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1969年03月期 単体 5,432 n/a n/a 235 4.3% n/a
1970年03月期 単体 6,750 +24.3% n/a 302 4.5% n/a
1971年03月期 単体 7,887 +16.8% 465 281 3.6% n/a
1972年03月期 単体 7,827 ▲0.8% 361 210 2.7% n/a
1973年03月期 単体 8,610 +10.0% 519 285 3.3% n/a
1974年03月期 単体 10,008 +16.2% 647 329 3.3% n/a
1975年03月期 単体 10,947 +9.4% 330 204 1.9% n/a
1976年03月期 単体 10,896 ▲0.5% 419 194 1.8% n/a
1977年03月期 単体 12,949 +18.8% 640 304 2.3% n/a
1978年03月期 単体 13,886 +7.2% 654 314 2.3% n/a
1979年03月期 単体 15,094 +8.7% 820 375 2.5% n/a
1980年03月期 単体 16,981 +12.5% 1,067 531 3.1% n/a
1981年03月期 単体 19,470 +14.7% 1,177 618 3.2% n/a
1982年03月期 単体 21,409 +10.0% 1,404 668 3.1% n/a
1983年03月期 単体 23,333 +9.0% 1,571 745 3.2% n/a
1984年03月期 単体 26,482 +13.5% 1,872 834 3.1% n/a
1985年03月期 単体 30,258 +14.3% 2,559 1,054 3.5% n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 連結 77,655 n/a n/a 1,276 1.6% n/a
1993年03月期 連結 75,361 ▲3.0% n/a 772 1.0% n/a
1994年03月期 連結 74,002 ▲1.8% n/a 652 0.9% n/a
1995年03月期 連結 75,922 +2.6% n/a 1,139 1.5% n/a
1996年03月期 連結 81,238 +7.0% n/a 1,417 1.7% n/a
1997年03月期 連結 85,231 +4.9% n/a 883 1.0% n/a
1998年03月期 連結 84,168 ▲1.2% n/a 34 0.0% n/a
1999年03月期 連結 79,773 ▲5.2% n/a ▲3,387 ▲4.2% n/a
2000年03月期 連結 80,012 +0.3% n/a 169 0.2% n/a
2001年03月期 連結 84,169 +5.2% n/a 1,043 1.2% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

5件
出典・参考
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
  • 日本産業史(日経文庫)第4巻 電機・電子「半導体-日米半導体協定の衝撃」
  • 日経ビジネス(1991年12月9日号)
  • 日経ビジネス(1991年7月8日号)
  • 日経ビジネス(1998年11月2日号)

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