NTN:西園鉄工所のボールベアリング研究と東洋ベアリング製造への改組
1918年〜海難品の利益で購入した研磨機3台と、3人の頭字をとった商標NTN
西園鉄工所は1918年3月、三重県桑名町内堀に50坪に満たない町工場として発足した。工場主の西園二郎氏は当時21歳で、下請加工の合間に、当時は輸入品しか手に入らなかったボールベアリングを自前で作ろうと試作を重ねた。大阪で機械工具商の巴商会を営む丹羽昇氏は、精米機の製作を依頼した縁から、資金と販売を引き受けて研究に加わった。1922年、巴商会は横浜港で沈んだスウェーデン船のベアリングを全量落札し、再生品の販売で見込みを超える利益を得た。当時の輸入ベアリングは1個が金時計1個に並ぶ値段で、丹羽昇氏はその利益で研磨機3台を購入し、西園鉄工所に据え付けた。輸入品の高値そのものが、国産品で採算が合うと丹羽昇氏に確信させる材料になったのだろう。
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」
- [1]1918年3月に西園二郎(21歳)が桑名町内堀で西園鉄工所を開き軸受を試作。1922年に巴商会が沈没船のベアリングを落札・再生販売し、利益で研磨機3台を購入
- [2]1918年3月に西園二郎(21歳)が桑名町内堀で西園鉄工所を開き軸受を試作。1922年に巴商会が沈没船のベアリングを落札・再生販売し、利益で研磨機3台を購入
- [4]1918年3月に西園二郎(21歳)が桑名町内堀で西園鉄工所を開き軸受を試作。1922年に巴商会が沈没船のベアリングを落札・再生販売し、利益で研磨機3台を購入
- [5]1918年3月に西園二郎(21歳)が桑名町内堀で西園鉄工所を開き軸受を試作。1922年に巴商会が沈没船のベアリングを落札・再生販売し、利益で研磨機3台を購入
- 企業の歴史:明治百年 1968「東洋ベアリング製造」
- [3]1918年3月、桑名市内堀で研究試作を始めた西園鉄工所に巴商会(丹羽昇)が資金・販売の両面で参加したのが創業
巴商会は1923年にボールベアリング部を新設し、NTNの商標で国産ベアリングの販売を始めた。NTNは丹羽昇氏、巴商会、西園二郎氏の頭文字を並べた商標で、以後の製品にも同じ印が付けられた。部の新設月は資料で分かれ、会社銀行八十年史は5月とし、西園鉄工所との提携による球軸受の製造開始を同じ時点に置く。初期の製品は品質で外国品に並ばず、売れても安価な代用品として扱われる水準にとどまった。製造は西園鉄工所、資金と販路は巴商会という分担を保ったまま、両者は商標だけを先に一本化した。品質で劣る段階から市場に出した順序は、販路を握る商社主が主導した事業の性格を映しているとみられる。
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」
- [6]1923年3月、巴商会がボールベアリング部を新設しNTN商標で販売開始。NTNは丹羽・巴・西園の頭文字。初期品は外国品に対抗できず代用品扱い
- [7]1923年3月、巴商会がボールベアリング部を新設しNTN商標で販売開始。NTNは丹羽・巴・西園の頭文字。初期品は外国品に対抗できず代用品扱い
- [9]1923年3月、巴商会がボールベアリング部を新設しNTN商標で販売開始。NTNは丹羽・巴・西園の頭文字。初期品は外国品に対抗できず代用品扱い
- 会社銀行八十年史 1955「東洋製造」
- [8]1923年5月、巴商会がボール・ベアリング部を設け、西園鉄工所と提携してNTN商標で球軸受の製造を開始
- [10]1923年5月、巴商会がボール・ベアリング部を設け、西園鉄工所と提携してNTN商標で球軸受の製造を開始
丹羽昇氏と西園二郎氏は1927年3月、巴商会のボールベアリング部門と西園鉄工所の製造部門を分離し、資本金5万円の合資会社エヌチーエヌ製作所を設立した。製造と販売を1社に収めた1927年の設立が、NTNの法人としての起点にあたる。製品は球軸受だけでなく、ころ軸受にも広がった。1927年から1930年ごろにかけては、製作技術の改良と販路の開拓に苦闘が続いた。1929年には国内市場を席巻していたSKFが、NTN製品のリテーナーを特許侵害と申し入れ、エヌチーエヌ製作所は製法の一部を変更した。製販を1社にまとめても、先行する外国メーカーの特許が国産品の設計の幅を狭めていたと思われる。
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」
- [11]1927年3月、両者の部門を分離し資本金5万円の合資会社エヌチーエヌ製作所を設立。1929年にSKFからリテーナーの特許侵害を申し入れられ製法の一部を変更
- [12]1927年3月、両者の部門を分離し資本金5万円の合資会社エヌチーエヌ製作所を設立。1929年にSKFからリテーナーの特許侵害を申し入れられ製法の一部を変更
- [14]1927年3月、両者の部門を分離し資本金5万円の合資会社エヌチーエヌ製作所を設立。1929年にSKFからリテーナーの特許侵害を申し入れられ製法の一部を変更
- [15]1927年3月、両者の部門を分離し資本金5万円の合資会社エヌチーエヌ製作所を設立。1929年にSKFからリテーナーの特許侵害を申し入れられ製法の一部を変更
- 会社銀行八十年史 1955「東洋製造」
- [13]1927年3月に資本金5万円の合資会社NTN製作所となり、球軸受のほかころ軸受も生産
参考文献[1]-[15]
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」
- [1]1918年3月に西園二郎(21歳)が桑名町内堀で西園鉄工所を開き軸受を試作。1922年に巴商会が沈没船のベアリングを落札・再生販売し、利益で研磨機3台を購入
- [2]1918年3月に西園二郎(21歳)が桑名町内堀で西園鉄工所を開き軸受を試作。1922年に巴商会が沈没船のベアリングを落札・再生販売し、利益で研磨機3台を購入
- [4]1918年3月に西園二郎(21歳)が桑名町内堀で西園鉄工所を開き軸受を試作。1922年に巴商会が沈没船のベアリングを落札・再生販売し、利益で研磨機3台を購入
- [5]1918年3月に西園二郎(21歳)が桑名町内堀で西園鉄工所を開き軸受を試作。1922年に巴商会が沈没船のベアリングを落札・再生販売し、利益で研磨機3台を購入
- [6]1923年3月、巴商会がボールベアリング部を新設しNTN商標で販売開始。NTNは丹羽・巴・西園の頭文字。初期品は外国品に対抗できず代用品扱い
- [7]1923年3月、巴商会がボールベアリング部を新設しNTN商標で販売開始。NTNは丹羽・巴・西園の頭文字。初期品は外国品に対抗できず代用品扱い
- [9]1923年3月、巴商会がボールベアリング部を新設しNTN商標で販売開始。NTNは丹羽・巴・西園の頭文字。初期品は外国品に対抗できず代用品扱い
- [11]1927年3月、両者の部門を分離し資本金5万円の合資会社エヌチーエヌ製作所を設立。1929年にSKFからリテーナーの特許侵害を申し入れられ製法の一部を変更
- [12]1927年3月、両者の部門を分離し資本金5万円の合資会社エヌチーエヌ製作所を設立。1929年にSKFからリテーナーの特許侵害を申し入れられ製法の一部を変更
- [14]1927年3月、両者の部門を分離し資本金5万円の合資会社エヌチーエヌ製作所を設立。1929年にSKFからリテーナーの特許侵害を申し入れられ製法の一部を変更
- [15]1927年3月、両者の部門を分離し資本金5万円の合資会社エヌチーエヌ製作所を設立。1929年にSKFからリテーナーの特許侵害を申し入れられ製法の一部を変更
- 企業の歴史:明治百年 1968「東洋ベアリング製造」
- [3]1918年3月、桑名市内堀で研究試作を始めた西園鉄工所に巴商会(丹羽昇)が資金・販売の両面で参加したのが創業
- 会社銀行八十年史 1955「東洋製造」
- [8]1923年5月、巴商会がボール・ベアリング部を設け、西園鉄工所と提携してNTN商標で球軸受の製造を開始
- [10]1923年5月、巴商会がボール・ベアリング部を設け、西園鉄工所と提携してNTN商標で球軸受の製造を開始
- [13]1927年3月に資本金5万円の合資会社NTN製作所となり、球軸受のほかころ軸受も生産
1930年〜解散寸前から開いた東京出張所と、武庫川・桑名に建てた2工場
浜口内閣の緊縮財政を機に不況が深まり、エヌチーエヌ製作所は解散の寸前まで追い込まれた。打開策として1930年1月に東京出張所を開設し、関東の販路を開拓した。当時の国内市場はSKFが大半を握り、日本総代理店の販売高はNTNの10倍を超えていた。社長の丹羽昇氏がSKF製品の販売経験を持つ森富吉氏に入社を求めると、森富吉氏は東京を軸に販売を組み立てるよう進言した。進言に沿って、SKF東京販売所の責任者だった水木善四郎氏が1931年1月に入社し、森富吉氏を含むSKFの販売技術者6人も相次いで加わった。1930年12月には鉄道省指定工場となり、国鉄向けの納入資格も得た。競合の販売網から人材ごと知見を取り込むことが、販売力の格差を縮める最短の手段だったと考えられる。
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」
- [16]緊縮財政下の不況で解散寸前に。1930年1月東京出張所開設。SKF総代理店は10拠点・販売高10倍超。森富吉の進言で1931年1月に水木善四郎が入社、SKFの販売技術者6人を獲得
- [17]緊縮財政下の不況で解散寸前に。1930年1月東京出張所開設。SKF総代理店は10拠点・販売高10倍超。森富吉の進言で1931年1月に水木善四郎が入社、SKFの販売技術者6人を獲得
- [18]緊縮財政下の不況で解散寸前に。1930年1月東京出張所開設。SKF総代理店は10拠点・販売高10倍超。森富吉の進言で1931年1月に水木善四郎が入社、SKFの販売技術者6人を獲得
- [19]緊縮財政下の不況で解散寸前に。1930年1月東京出張所開設。SKF総代理店は10拠点・販売高10倍超。森富吉の進言で1931年1月に水木善四郎が入社、SKFの販売技術者6人を獲得
- [20]緊縮財政下の不況で解散寸前に。1930年1月東京出張所開設。SKF総代理店は10拠点・販売高10倍超。森富吉の進言で1931年1月に水木善四郎が入社、SKFの販売技術者6人を獲得
- 会社銀行八十年史 1955「東洋製造」
- [21]1930年12月に鉄道省指定工場となる
1931年の満州事変を機に軸受の需要は急増し、1932年10月には陸軍省がNTN製品を指定品とした。1934年3月には航空発動機用の超高速ベアリングの開発で成果を上げ、1935年7月には海軍の購買名簿にも登録。同じ1934年3月には、エヌチーエヌ製作所が資本金300万円の株式会社に改まった。陸海軍の増産要請で工場の大拡張が必要になり、増資の前提として社名を広く知らせるよう証券界に助言され、1937年1月に東洋ベアリング製造へ改称した。同年9月には資本金を1000万円に増やし、同時に株式の公開に踏み切った。同年4月、朝日新聞社の神風号が東京–ロンドン間を94時間余りで飛び、その発動機と機体に東洋ベアリング製造の製品が使われた。社名の変更は、無名の部品メーカーを投資家に知らせる広告の役目も負っていたと推察される。
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」
- [22]1932年10月陸軍省指定品、1934年3月航空発動機用超高速軸受の開発に成功、1935年7月海軍購買名簿登録。増資のため証券界と協議し1937年1月改称。同年4月の神風号に製品採用
- [23]1932年10月陸軍省指定品、1934年3月航空発動機用超高速軸受の開発に成功、1935年7月海軍購買名簿登録。増資のため証券界と協議し1937年1月改称。同年4月の神風号に製品採用
- [25]1932年10月陸軍省指定品、1934年3月航空発動機用超高速軸受の開発に成功、1935年7月海軍購買名簿登録。増資のため証券界と協議し1937年1月改称。同年4月の神風号に製品採用
- [27]1932年10月陸軍省指定品、1934年3月航空発動機用超高速軸受の開発に成功、1935年7月海軍購買名簿登録。増資のため証券界と協議し1937年1月改称。同年4月の神風号に製品採用
- 会社銀行八十年史 1955「東洋製造」
- [24]満州事変で需要急増、1934年3月に資本金300万円の株式組織へ変更
- 企業の歴史:明治百年 1968「東洋ベアリング製造」
- [26]1937年1月にエヌチーエヌ製作所が東洋ベアリング製造に改称
創業以来の内堀工場は敷地1万6500平方メートル余、従業員200余名で、月産は100万円内外。車両用ベアリングの量産を迫られた東洋ベアリング製造は、兵庫県の約13万平方メートルの用地に新工場を計画した。新工場は採算が安定するまで別会社とし、拡張のリスクを既存株主に負わせない方針をとった。1938年6月に資本金1500万円の昭和ベアリング製造が発足し、1939年12月に東洋ベアリング製造が同社を合併して資本金は2500万円となった。内堀工場は1938年11月の火災で主要設備を失い、桑名市郊外の約10万平方メートルへの移転が決まった。1939年7月に陸海軍共同管理工場に指定され、同年11月に新しい桑名工場が完成した。別会社という形態は、戦時需要の先行きが読めない中で本体の株主を守る保険だったと推測される。
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」
- [28]内堀工場は敷地1万6500㎡余・200余名・月産100万円内外。車両用量産のため宝塚に新工場、利益が出るまで別会社。1938年11月内堀工場火災で桑名郊外に移転
- [29]内堀工場は敷地1万6500㎡余・200余名・月産100万円内外。車両用量産のため宝塚に新工場、利益が出るまで別会社。1938年11月内堀工場火災で桑名郊外に移転
- [30]内堀工場は敷地1万6500㎡余・200余名・月産100万円内外。車両用量産のため宝塚に新工場、利益が出るまで別会社。1938年11月内堀工場火災で桑名郊外に移転
- [32]内堀工場は敷地1万6500㎡余・200余名・月産100万円内外。車両用量産のため宝塚に新工場、利益が出るまで別会社。1938年11月内堀工場火災で桑名郊外に移転
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」 巻末年表
- [31]1938年6月昭和ベアリング製造設立(資本金1500万円)、1939年12月合併し資本金2500万円
- 会社銀行八十年史 1955「東洋製造」
- [33]1939年7月陸海軍共同管理工場、同年11月桑名工場新設
参考文献[16]-[33]
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」
- [16]緊縮財政下の不況で解散寸前に。1930年1月東京出張所開設。SKF総代理店は10拠点・販売高10倍超。森富吉の進言で1931年1月に水木善四郎が入社、SKFの販売技術者6人を獲得
- [17]緊縮財政下の不況で解散寸前に。1930年1月東京出張所開設。SKF総代理店は10拠点・販売高10倍超。森富吉の進言で1931年1月に水木善四郎が入社、SKFの販売技術者6人を獲得
- [18]緊縮財政下の不況で解散寸前に。1930年1月東京出張所開設。SKF総代理店は10拠点・販売高10倍超。森富吉の進言で1931年1月に水木善四郎が入社、SKFの販売技術者6人を獲得
- [19]緊縮財政下の不況で解散寸前に。1930年1月東京出張所開設。SKF総代理店は10拠点・販売高10倍超。森富吉の進言で1931年1月に水木善四郎が入社、SKFの販売技術者6人を獲得
- [20]緊縮財政下の不況で解散寸前に。1930年1月東京出張所開設。SKF総代理店は10拠点・販売高10倍超。森富吉の進言で1931年1月に水木善四郎が入社、SKFの販売技術者6人を獲得
- [22]1932年10月陸軍省指定品、1934年3月航空発動機用超高速軸受の開発に成功、1935年7月海軍購買名簿登録。増資のため証券界と協議し1937年1月改称。同年4月の神風号に製品採用
- [23]1932年10月陸軍省指定品、1934年3月航空発動機用超高速軸受の開発に成功、1935年7月海軍購買名簿登録。増資のため証券界と協議し1937年1月改称。同年4月の神風号に製品採用
- [25]1932年10月陸軍省指定品、1934年3月航空発動機用超高速軸受の開発に成功、1935年7月海軍購買名簿登録。増資のため証券界と協議し1937年1月改称。同年4月の神風号に製品採用
- [27]1932年10月陸軍省指定品、1934年3月航空発動機用超高速軸受の開発に成功、1935年7月海軍購買名簿登録。増資のため証券界と協議し1937年1月改称。同年4月の神風号に製品採用
- [28]内堀工場は敷地1万6500㎡余・200余名・月産100万円内外。車両用量産のため宝塚に新工場、利益が出るまで別会社。1938年11月内堀工場火災で桑名郊外に移転
- [29]内堀工場は敷地1万6500㎡余・200余名・月産100万円内外。車両用量産のため宝塚に新工場、利益が出るまで別会社。1938年11月内堀工場火災で桑名郊外に移転
- [30]内堀工場は敷地1万6500㎡余・200余名・月産100万円内外。車両用量産のため宝塚に新工場、利益が出るまで別会社。1938年11月内堀工場火災で桑名郊外に移転
- [32]内堀工場は敷地1万6500㎡余・200余名・月産100万円内外。車両用量産のため宝塚に新工場、利益が出るまで別会社。1938年11月内堀工場火災で桑名郊外に移転
- 会社銀行八十年史 1955「東洋製造」
- [21]1930年12月に鉄道省指定工場となる
- [24]満州事変で需要急増、1934年3月に資本金300万円の株式組織へ変更
- [33]1939年7月陸海軍共同管理工場、同年11月桑名工場新設
- 企業の歴史:明治百年 1968「東洋ベアリング製造」
- [26]1937年1月にエヌチーエヌ製作所が東洋ベアリング製造に改称
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」 巻末年表
- [31]1938年6月昭和ベアリング製造設立(資本金1500万円)、1939年12月合併し資本金2500万円
1940年〜生産高1億2660万円で首位に立った軍需と、従業員1万5307人で迎えた敗戦
東洋ベアリング製造は1938年3月、軍部の勧めに応じて資本金200万円の満洲ベアリング製造を設立し、満洲国奉天省に工場を建てた。国内のベアリングメーカーとして初の海外進出で、SKFが満州重工業と進めた合弁会社の計画は、満洲ベアリング製造の存在と軍部の反対で実現しなかった。太平洋戦争の開戦後は軍から工場増設を命じられ、軍の斡旋で岐阜県海津郡の大日本紡績駒野工場を取得した。主要3社の生産高は1944年が頂点で、東洋ベアリング製造の126,602千円はN社の90,965千円、K社の34,942千円を上回った。戦時中の東洋ベアリング製造の生産量は、全国需要の約50%にあたる。高い性能を求められる航空機用で最盛時に7割を供給したことが、増産の中で首位を保った要因だった可能性が高い。
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」
- [34]1938年3月に満洲ベアリング製造設立(初の海外進出)、SKFの満州合弁計画は軍の反対で不成立。開戦後に軍の斡旋で大日本紡績駒野工場を取得。航空機用は最盛時70%供給
- [35]1938年3月に満洲ベアリング製造設立(初の海外進出)、SKFの満州合弁計画は軍の反対で不成立。開戦後に軍の斡旋で大日本紡績駒野工場を取得。航空機用は最盛時70%供給
- [36]1938年3月に満洲ベアリング製造設立(初の海外進出)、SKFの満州合弁計画は軍の反対で不成立。開戦後に軍の斡旋で大日本紡績駒野工場を取得。航空機用は最盛時70%供給
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」 主要三社の生産実績比較
- [37]1944年の生産高は東洋ベア126,602千円、N社90,965千円、K社34,942千円、全国308,142千円
- 会社銀行八十年史 1955「東洋製造」
- [38]戦時中は陸海軍指定工場として全国生産量の約50%を占めた
1945年7月23日夜、主力の桑名工場は爆撃機の大編隊に襲われ、直撃弾31発で建屋の85%が壊滅した。工作機械などの設備は事前に疎開工場へ分散しており、大半が被害を免れた。国内のベアリング工場で爆撃を受けたのは桑名工場だけで、戦後に視察した米国戦略爆撃調査団は、最大の目標として航空写真から攻撃を計画したと明かした。1945年5月時点の従業員は桑名8,082人、武庫川4,988人、駒野1,967人、本社270人の計15,307人で、工員には勤労動員者を含んだ。東洋ベアリング製造は1945年4月に資本金を1億円へ増やしており、終戦時には三和銀行からの借入金が1億4500万円余に達していた。航空機用の7割を担う集中生産が、そのまま連合軍の優先目標としての価値を高めたのだろう。
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」
- [39]1945年7月23日夜に桑名工場が直撃弾31発で建屋85%壊滅、設備は疎開で被害を免れる。爆撃を受けた軸受工場は桑名のみ。終戦時の三和銀行借入金1億4500万円余
- [40]1945年7月23日夜に桑名工場が直撃弾31発で建屋85%壊滅、設備は疎開で被害を免れる。爆撃を受けた軸受工場は桑名のみ。終戦時の三和銀行借入金1億4500万円余
- [41]1945年7月23日夜に桑名工場が直撃弾31発で建屋85%壊滅、設備は疎開で被害を免れる。爆撃を受けた軸受工場は桑名のみ。終戦時の三和銀行借入金1億4500万円余
- [44]1945年7月23日夜に桑名工場が直撃弾31発で建屋85%壊滅、設備は疎開で被害を免れる。爆撃を受けた軸受工場は桑名のみ。終戦時の三和銀行借入金1億4500万円余
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」 工場別従業員数
- [42]1945年5月現在の従業員は駒野1,967・武庫川4,988・桑名8,082・本社270、計15,307人
- 会社銀行八十年史 1955「東洋製造」
- [43]1945年4月に1億円へ増資、同年7月桑名工場が空襲で甚大な打撃
1945年9月、武庫川工場は進駐した米軍に接収され、宿舎への改装で機械の多くが損傷した。東洋ベアリング製造は駒野工場と桑名の鋼球工場に疎開機械を集め、1946年春に操業を再開。同年8月には3工場すべてが賠償指定を受け、12月に操業を止めて全従業員を解雇した。1947年10月、資本金1億円以上の企業への公職追放の適用で、社長の丹羽昇氏、専務の水木善四郎氏、常務の西園二郎氏と森富吉氏が退いた。丹羽昇氏は三和銀行に人選を求め、同行常務だった小野重一氏が社長に、取締役の木下茂氏が会長に就任した。1948年8月に桑名と武庫川の両工場が商工省の重要工場に指定され、9月には駒野工場を内外綿に譲渡して生産を2工場に絞った。主取引銀行の出身者に再建を委ねた人事は、戦時借入金の整理を銀行と進める布石だったようだ。
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」
- [45]1945年9月武庫川工場接収、1946年春操業再開。1947年10月公職追放で丹羽・水木・西園・森が退陣、三和銀行から小野重一を社長、木下茂を会長に。1948年8月重要工場指定、9月駒野工場譲渡
- [46]1945年9月武庫川工場接収、1946年春操業再開。1947年10月公職追放で丹羽・水木・西園・森が退陣、三和銀行から小野重一を社長、木下茂を会長に。1948年8月重要工場指定、9月駒野工場譲渡
- [48]1945年9月武庫川工場接収、1946年春操業再開。1947年10月公職追放で丹羽・水木・西園・森が退陣、三和銀行から小野重一を社長、木下茂を会長に。1948年8月重要工場指定、9月駒野工場譲渡
- [49]1945年9月武庫川工場接収、1946年春操業再開。1947年10月公職追放で丹羽・水木・西園・森が退陣、三和銀行から小野重一を社長、木下茂を会長に。1948年8月重要工場指定、9月駒野工場譲渡
- [50]1945年9月武庫川工場接収、1946年春操業再開。1947年10月公職追放で丹羽・水木・西園・森が退陣、三和銀行から小野重一を社長、木下茂を会長に。1948年8月重要工場指定、9月駒野工場譲渡
- 会社銀行八十年史 1955「東洋製造」
- [47]1946年8月三工場が賠償工場指定、同年12月操業中止・全従業員解雇。丹羽昇の追放後に小野重一が社長就任
参考文献[34]-[50]
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」
- [34]1938年3月に満洲ベアリング製造設立(初の海外進出)、SKFの満州合弁計画は軍の反対で不成立。開戦後に軍の斡旋で大日本紡績駒野工場を取得。航空機用は最盛時70%供給
- [35]1938年3月に満洲ベアリング製造設立(初の海外進出)、SKFの満州合弁計画は軍の反対で不成立。開戦後に軍の斡旋で大日本紡績駒野工場を取得。航空機用は最盛時70%供給
- [36]1938年3月に満洲ベアリング製造設立(初の海外進出)、SKFの満州合弁計画は軍の反対で不成立。開戦後に軍の斡旋で大日本紡績駒野工場を取得。航空機用は最盛時70%供給
- [39]1945年7月23日夜に桑名工場が直撃弾31発で建屋85%壊滅、設備は疎開で被害を免れる。爆撃を受けた軸受工場は桑名のみ。終戦時の三和銀行借入金1億4500万円余
- [40]1945年7月23日夜に桑名工場が直撃弾31発で建屋85%壊滅、設備は疎開で被害を免れる。爆撃を受けた軸受工場は桑名のみ。終戦時の三和銀行借入金1億4500万円余
- [41]1945年7月23日夜に桑名工場が直撃弾31発で建屋85%壊滅、設備は疎開で被害を免れる。爆撃を受けた軸受工場は桑名のみ。終戦時の三和銀行借入金1億4500万円余
- [44]1945年7月23日夜に桑名工場が直撃弾31発で建屋85%壊滅、設備は疎開で被害を免れる。爆撃を受けた軸受工場は桑名のみ。終戦時の三和銀行借入金1億4500万円余
- [45]1945年9月武庫川工場接収、1946年春操業再開。1947年10月公職追放で丹羽・水木・西園・森が退陣、三和銀行から小野重一を社長、木下茂を会長に。1948年8月重要工場指定、9月駒野工場譲渡
- [46]1945年9月武庫川工場接収、1946年春操業再開。1947年10月公職追放で丹羽・水木・西園・森が退陣、三和銀行から小野重一を社長、木下茂を会長に。1948年8月重要工場指定、9月駒野工場譲渡
- [48]1945年9月武庫川工場接収、1946年春操業再開。1947年10月公職追放で丹羽・水木・西園・森が退陣、三和銀行から小野重一を社長、木下茂を会長に。1948年8月重要工場指定、9月駒野工場譲渡
- [49]1945年9月武庫川工場接収、1946年春操業再開。1947年10月公職追放で丹羽・水木・西園・森が退陣、三和銀行から小野重一を社長、木下茂を会長に。1948年8月重要工場指定、9月駒野工場譲渡
- [50]1945年9月武庫川工場接収、1946年春操業再開。1947年10月公職追放で丹羽・水木・西園・森が退陣、三和銀行から小野重一を社長、木下茂を会長に。1948年8月重要工場指定、9月駒野工場譲渡
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」 主要三社の生産実績比較
- [37]1944年の生産高は東洋ベア126,602千円、N社90,965千円、K社34,942千円、全国308,142千円
- 会社銀行八十年史 1955「東洋製造」
- [38]戦時中は陸海軍指定工場として全国生産量の約50%を占めた
- [43]1945年4月に1億円へ増資、同年7月桑名工場が空襲で甚大な打撃
- [47]1946年8月三工場が賠償工場指定、同年12月操業中止・全従業員解雇。丹羽昇の追放後に小野重一が社長就任
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」 工場別従業員数
- [42]1945年5月現在の従業員は駒野1,967・武庫川4,988・桑名8,082・本社270、計15,307人
出典・参考
6件
- 会社銀行八十年史 1955「東洋製造」
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」 巻末年表
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」 主要三社の生産実績比較
- 産業フロンティア物語 1967「ベアリング〈東洋ベアリング〉」 工場別従業員数
- 企業の歴史:明治百年 1968「東洋ベアリング製造」