第1章 年〜年

日本精工:日本精工の設立と日本初の軸受量産

1916年〜山武商会の山口武彦氏が国産に賭けた軸受と、資本金35万円の株式会社

創業者の山口武彦氏は1906年12月、欧米の機械や測定器具を輸入する山武商会を東京・京橋に設立した。設立の動機は、1895年に製釘技術を学ぶため欧米へ渡った際に日本との技術水準の差を知った経験である。横須賀と呉の海軍工廠は1913年ごろから軸受の重要性に着目していた。1914年2月には軸受の生産を主とする日本精工合資会社を設け、荏原郡大崎町に工場を置いた。同年7月に第一次世界大戦が始まるとドイツからの機械の入荷が途絶えた。合資会社での軸受の試作が実を結んだため、山口武彦氏は1916年11月8日に資本金35万円の日本精工株式会社を創立した。新会社が合資会社から譲り受けた資産と営業の対価は20万円である。輸入の途絶で商社としての足元が揺らいだことが、製造への転換を後押ししたとみられる。

  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「序章 創立以前」
    • [1]山武商会は1906年12月1日に京橋で設立、山口は1895年の欧米留学で技術差を知る、日本精工合資会社は1914年2月20日設立・工場は荏原郡大崎町、大戦でドイツからの輸入機械が途絶
    • [2]山武商会は1906年12月1日に京橋で設立、山口は1895年の欧米留学で技術差を知る、日本精工合資会社は1914年2月20日設立・工場は荏原郡大崎町、大戦でドイツからの輸入機械が途絶
    • [4]山武商会は1906年12月1日に京橋で設立、山口は1895年の欧米留学で技術差を知る、日本精工合資会社は1914年2月20日設立・工場は荏原郡大崎町、大戦でドイツからの輸入機械が途絶
    • [5]山武商会は1906年12月1日に京橋で設立、山口は1895年の欧米留学で技術差を知る、日本精工合資会社は1914年2月20日設立・工場は荏原郡大崎町、大戦でドイツからの輸入機械が途絶
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第1章 創立期」
    • [3]海軍は1913年ごろから横須賀・呉工廠で軸受に着目、大戦の好況で試作の成果を国産化へ、1916年11月8日創立総会・資本金35万円、合資会社の資産と営業を20万円で譲受
    • [6]海軍は1913年ごろから横須賀・呉工廠で軸受に着目、大戦の好況で試作の成果を国産化へ、1916年11月8日創立総会・資本金35万円、合資会社の資産と営業を20万円で譲受
    • [8]海軍は1913年ごろから横須賀・呉工廠で軸受に着目、大戦の好況で試作の成果を国産化へ、1916年11月8日創立総会・資本金35万円、合資会社の資産と営業を20万円で譲受
  • 株式会社年鑑 1952年版「日本精工」沿革
    • [7]1916年11月に資本金35万円で設立

日本精工は創立の直後から海軍を主な納入先とした。大正初年の民間ではスウェーデンのSKF製軸受がわずかに輸入されていただけで、軸受を使う工場はまだ少なかった。1917年には海軍造兵廠と購買契約を結び、同年10月15日を納期とする軸受を納めた。同じ年の3月に山武商会と結んだ販売委任契約は、売上代金の5%を手数料として支払う内容である。山武商会の特約先は横須賀・呉・舞鶴・佐世保の各海軍工廠で、その納入比率は平均して40%前後である。注文の大半は外国製艦船の補修用で、SKFのカタログにない特殊形の軸受。1919年4月に海軍の購買名簿へ登録され、同年9月には資本金を70万円に増やした。民需が育つ前に軸受の価値を知る海軍へ売り先を絞ったことが、創業期の経営を支えたと推察される。

  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第1章 第3節 販売路線と業況」
    • [9]1917年に海軍造兵廠と購買契約(納期1917年10月15日)、1917年3月山武商会と販売委任契約・手数料5%、特約先は4海軍工廠で納入比率平均40%程度、補修用の特殊形軸受が大部分、1919年4月海軍購買名簿に登録
    • [11]1917年に海軍造兵廠と購買契約(納期1917年10月15日)、1917年3月山武商会と販売委任契約・手数料5%、特約先は4海軍工廠で納入比率平均40%程度、補修用の特殊形軸受が大部分、1919年4月海軍購買名簿に登録
    • [12]1917年に海軍造兵廠と購買契約(納期1917年10月15日)、1917年3月山武商会と販売委任契約・手数料5%、特約先は4海軍工廠で納入比率平均40%程度、補修用の特殊形軸受が大部分、1919年4月海軍購買名簿に登録
    • [13]1917年に海軍造兵廠と購買契約(納期1917年10月15日)、1917年3月山武商会と販売委任契約・手数料5%、特約先は4海軍工廠で納入比率平均40%程度、補修用の特殊形軸受が大部分、1919年4月海軍購買名簿に登録
    • [14]1917年に海軍造兵廠と購買契約(納期1917年10月15日)、1917年3月山武商会と販売委任契約・手数料5%、特約先は4海軍工廠で納入比率平均40%程度、補修用の特殊形軸受が大部分、1919年4月海軍購買名簿に登録
    • [15]1917年に海軍造兵廠と購買契約(納期1917年10月15日)、1917年3月山武商会と販売委任契約・手数料5%、特約先は4海軍工廠で納入比率平均40%程度、補修用の特殊形軸受が大部分、1919年4月海軍購買名簿に登録
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第1章 第1節 株式会社へ改組の意義」
    • [10]大正初年はSKF製軸受がわずかに輸入されるのみで民間には普及していなかった
  • 株式会社年鑑 1952年版「日本精工」沿革
    • [16]1919年9月に資本金70万円へ増資

第一次世界大戦後の不況で、日本精工は第12期(1921年下期)から第14期(1923年上期)まで3期続けて欠損を計上し、無配に転じた。損失を埋めようと猟銃や自転車の変速器まで受注したものの、どれも一時的で製作費を回収できなかった。1922年8月に経費の節約を説く内訓を出し、軸受を唯一の使命と定めて製品を整理した結果、1925年に軸受専業の体制が整った。昭和恐慌期には総売掛債権21万円のうち14万円が販売を委ねた山武商会向けで固定し、資金繰りが悪化した。1931年5月の山口武彦氏の社長辞任は、この売掛債権の責任を負ってのものである。支配人の多胡秀蔵氏と工務責任者の安松俊雄氏の懇請を受け、取締役の高橋是賢氏が二代社長に就任した。高橋是清氏の子息として資金面の信用を持つ高橋是賢氏の起用は、資金事情の打開を目的としていた。

  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第2章 第1節 不況対策と製品の整理」
    • [17]第12期から第14期まで3期欠損・無配、猟銃・自転車変速器・靴下止め金具などの受注は損失、1922年8月7日に内訓、軸受専業体制は1925年に整う
    • [18]第12期から第14期まで3期欠損・無配、猟銃・自転車変速器・靴下止め金具などの受注は損失、1922年8月7日に内訓、軸受専業体制は1925年に整う
    • [19]第12期から第14期まで3期欠損・無配、猟銃・自転車変速器・靴下止め金具などの受注は損失、1922年8月7日に内訓、軸受専業体制は1925年に整う
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第2章 経営首脳部の交替」
    • [20]総売掛債権21万円のうち山武商会分14万円が固定、山口は責を負い1931年5月辞任、多胡・安松が高橋是賢に就任を懇請、就任の目的は資金事情打開
    • [21]総売掛債権21万円のうち山武商会分14万円が固定、山口は責を負い1931年5月辞任、多胡・安松が高橋是賢に就任を懇請、就任の目的は資金事情打開
    • [22]総売掛債権21万円のうち山武商会分14万円が固定、山口は責を負い1931年5月辞任、多胡・安松が高橋是賢に就任を懇請、就任の目的は資金事情打開
    • [23]総売掛債権21万円のうち山武商会分14万円が固定、山口は責を負い1931年5月辞任、多胡・安松が高橋是賢に就任を懇請、就任の目的は資金事情打開
参考文献[1]-[23]
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「序章 創立以前」
    • [1]山武商会は1906年12月1日に京橋で設立、山口は1895年の欧米留学で技術差を知る、日本精工合資会社は1914年2月20日設立・工場は荏原郡大崎町、大戦でドイツからの輸入機械が途絶
    • [2]山武商会は1906年12月1日に京橋で設立、山口は1895年の欧米留学で技術差を知る、日本精工合資会社は1914年2月20日設立・工場は荏原郡大崎町、大戦でドイツからの輸入機械が途絶
    • [4]山武商会は1906年12月1日に京橋で設立、山口は1895年の欧米留学で技術差を知る、日本精工合資会社は1914年2月20日設立・工場は荏原郡大崎町、大戦でドイツからの輸入機械が途絶
    • [5]山武商会は1906年12月1日に京橋で設立、山口は1895年の欧米留学で技術差を知る、日本精工合資会社は1914年2月20日設立・工場は荏原郡大崎町、大戦でドイツからの輸入機械が途絶
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第1章 創立期」
    • [3]海軍は1913年ごろから横須賀・呉工廠で軸受に着目、大戦の好況で試作の成果を国産化へ、1916年11月8日創立総会・資本金35万円、合資会社の資産と営業を20万円で譲受
    • [6]海軍は1913年ごろから横須賀・呉工廠で軸受に着目、大戦の好況で試作の成果を国産化へ、1916年11月8日創立総会・資本金35万円、合資会社の資産と営業を20万円で譲受
    • [8]海軍は1913年ごろから横須賀・呉工廠で軸受に着目、大戦の好況で試作の成果を国産化へ、1916年11月8日創立総会・資本金35万円、合資会社の資産と営業を20万円で譲受
  • 株式会社年鑑 1952年版「日本精工」沿革
    • [7]1916年11月に資本金35万円で設立
    • [16]1919年9月に資本金70万円へ増資
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第1章 第3節 販売路線と業況」
    • [9]1917年に海軍造兵廠と購買契約(納期1917年10月15日)、1917年3月山武商会と販売委任契約・手数料5%、特約先は4海軍工廠で納入比率平均40%程度、補修用の特殊形軸受が大部分、1919年4月海軍購買名簿に登録
    • [11]1917年に海軍造兵廠と購買契約(納期1917年10月15日)、1917年3月山武商会と販売委任契約・手数料5%、特約先は4海軍工廠で納入比率平均40%程度、補修用の特殊形軸受が大部分、1919年4月海軍購買名簿に登録
    • [12]1917年に海軍造兵廠と購買契約(納期1917年10月15日)、1917年3月山武商会と販売委任契約・手数料5%、特約先は4海軍工廠で納入比率平均40%程度、補修用の特殊形軸受が大部分、1919年4月海軍購買名簿に登録
    • [13]1917年に海軍造兵廠と購買契約(納期1917年10月15日)、1917年3月山武商会と販売委任契約・手数料5%、特約先は4海軍工廠で納入比率平均40%程度、補修用の特殊形軸受が大部分、1919年4月海軍購買名簿に登録
    • [14]1917年に海軍造兵廠と購買契約(納期1917年10月15日)、1917年3月山武商会と販売委任契約・手数料5%、特約先は4海軍工廠で納入比率平均40%程度、補修用の特殊形軸受が大部分、1919年4月海軍購買名簿に登録
    • [15]1917年に海軍造兵廠と購買契約(納期1917年10月15日)、1917年3月山武商会と販売委任契約・手数料5%、特約先は4海軍工廠で納入比率平均40%程度、補修用の特殊形軸受が大部分、1919年4月海軍購買名簿に登録
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第1章 第1節 株式会社へ改組の意義」
    • [10]大正初年はSKF製軸受がわずかに輸入されるのみで民間には普及していなかった
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第2章 第1節 不況対策と製品の整理」
    • [17]第12期から第14期まで3期欠損・無配、猟銃・自転車変速器・靴下止め金具などの受注は損失、1922年8月7日に内訓、軸受専業体制は1925年に整う
    • [18]第12期から第14期まで3期欠損・無配、猟銃・自転車変速器・靴下止め金具などの受注は損失、1922年8月7日に内訓、軸受専業体制は1925年に整う
    • [19]第12期から第14期まで3期欠損・無配、猟銃・自転車変速器・靴下止め金具などの受注は損失、1922年8月7日に内訓、軸受専業体制は1925年に整う
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第2章 経営首脳部の交替」
    • [20]総売掛債権21万円のうち山武商会分14万円が固定、山口は責を負い1931年5月辞任、多胡・安松が高橋是賢に就任を懇請、就任の目的は資金事情打開
    • [21]総売掛債権21万円のうち山武商会分14万円が固定、山口は責を負い1931年5月辞任、多胡・安松が高橋是賢に就任を懇請、就任の目的は資金事情打開
    • [22]総売掛債権21万円のうち山武商会分14万円が固定、山口は責を負い1931年5月辞任、多胡・安松が高橋是賢に就任を懇請、就任の目的は資金事情打開
    • [23]総売掛債権21万円のうち山武商会分14万円が固定、山口は責を負い1931年5月辞任、多胡・安松が高橋是賢に就任を懇請、就任の目的は資金事情打開

1932年〜支配人の多胡秀蔵氏による立て直しと、多摩川・藤沢に展開した軸受工場

社長の高橋是賢氏は資金問題の解決にあたり、業務の運営は支配人の多胡秀蔵氏に一任した。多胡秀蔵氏が再建の課題に掲げたのは、設備の近代化、販路の拡大、単価請負制に代わる賃金体系、女子労働者の採用の4点である。1933年には技師長の安松俊雄氏を欧米7カ国へ派遣し、米国の工作機械メーカーから新鋭機を買い付けさせた。販売では山武商会との契約解除を受けて横須賀・呉・佐世保・舞鶴の商店に販売を任せ、東北・信越にも販売網を拡大した。海軍の保護で育ち民需への関心が薄かったことから、関西の民需を開拓する拠点として開いたのが兵庫県の神崎の工場である。1931年9月の満州事変の翌年から受注が急増し、既存の設備では注文をさばけなくなった。海軍向けの注文生産から量産と民需へ向きを変えたのは、多胡秀蔵氏の構想によると思われる。

  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第3章 第1節 当社と満州事変」
    • [24]高橋社長は資金問題、業務は多胡支配人に一任、4課題(設備近代化・販路拡大・賃金体系改訂・女子労務者使用)、1933年安松技師長を欧米派遣、軍港4商店に販売委任・東北信越へ拡大、関西民需のため神崎工場、1932年から受注急増
    • [26]高橋社長は資金問題、業務は多胡支配人に一任、4課題(設備近代化・販路拡大・賃金体系改訂・女子労務者使用)、1933年安松技師長を欧米派遣、軍港4商店に販売委任・東北信越へ拡大、関西民需のため神崎工場、1932年から受注急増
    • [27]高橋社長は資金問題、業務は多胡支配人に一任、4課題(設備近代化・販路拡大・賃金体系改訂・女子労務者使用)、1933年安松技師長を欧米派遣、軍港4商店に販売委任・東北信越へ拡大、関西民需のため神崎工場、1932年から受注急増
    • [28]高橋社長は資金問題、業務は多胡支配人に一任、4課題(設備近代化・販路拡大・賃金体系改訂・女子労務者使用)、1933年安松技師長を欧米派遣、軍港4商店に販売委任・東北信越へ拡大、関西民需のため神崎工場、1932年から受注急増
    • [29]高橋社長は資金問題、業務は多胡支配人に一任、4課題(設備近代化・販路拡大・賃金体系改訂・女子労務者使用)、1933年安松技師長を欧米派遣、軍港4商店に販売委任・東北信越へ拡大、関西民需のため神崎工場、1932年から受注急増
    • [30]高橋社長は資金問題、業務は多胡支配人に一任、4課題(設備近代化・販路拡大・賃金体系改訂・女子労務者使用)、1933年安松技師長を欧米派遣、軍港4商店に販売委任・東北信越へ拡大、関西民需のため神崎工場、1932年から受注急増
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第2章 経営首脳部の交替」
    • [25]高橋社長の下で業務運営は支配人多胡秀蔵、製造は安松俊雄が担った

1932年まで、日本精工が自前でつくる鋼球は会社の所要量の半分にも満たなかった。1932年に鋼球の工業化を決め、商工省は1933年9月に4カ年度にわたる工業研究奨励金の交付を指令。1934年2月には蒲田区下河原に鋼球工場が竣工し、4月には検査に合格する製品を出した。1935年当時の国内の軸受需要は年額約千数百万円で大半を輸入に依存し、日本精工の生産は年額約150万円にとどまった。生産を300万円以上へ倍増させるため、1934年11月設立の第二日本精工を翌年3月に合併し、資本金は500万円となった。1935年6月、鋼球工場の隣地に多摩川工場が完成し、標準形の小形軸受の少品種多量生産を始めた。工場長の寺沢仲之助氏は学卒の技術者に外国製機械を据え付けさせ、新卒の工員を一から訓練した。

  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第3章 第2節・第3節」
    • [31]鋼球は1932年まで所要量の半分未満、1932年工業化決定・1933年9月商工省奨励金、1934年2月鋼球工場竣工、1935年の軸受総需要約千数百万円で大半輸入・自社生産約150万円、第二日本精工(1934年11月・資本金350万円)を1935年3月合併、1935年6月多摩川工場開業
    • [32]鋼球は1932年まで所要量の半分未満、1932年工業化決定・1933年9月商工省奨励金、1934年2月鋼球工場竣工、1935年の軸受総需要約千数百万円で大半輸入・自社生産約150万円、第二日本精工(1934年11月・資本金350万円)を1935年3月合併、1935年6月多摩川工場開業
    • [33]鋼球は1932年まで所要量の半分未満、1932年工業化決定・1933年9月商工省奨励金、1934年2月鋼球工場竣工、1935年の軸受総需要約千数百万円で大半輸入・自社生産約150万円、第二日本精工(1934年11月・資本金350万円)を1935年3月合併、1935年6月多摩川工場開業
    • [34]鋼球は1932年まで所要量の半分未満、1932年工業化決定・1933年9月商工省奨励金、1934年2月鋼球工場竣工、1935年の軸受総需要約千数百万円で大半輸入・自社生産約150万円、第二日本精工(1934年11月・資本金350万円)を1935年3月合併、1935年6月多摩川工場開業
    • [35]鋼球は1932年まで所要量の半分未満、1932年工業化決定・1933年9月商工省奨励金、1934年2月鋼球工場竣工、1935年の軸受総需要約千数百万円で大半輸入・自社生産約150万円、第二日本精工(1934年11月・資本金350万円)を1935年3月合併、1935年6月多摩川工場開業
    • [37]鋼球は1932年まで所要量の半分未満、1932年工業化決定・1933年9月商工省奨励金、1934年2月鋼球工場竣工、1935年の軸受総需要約千数百万円で大半輸入・自社生産約150万円、第二日本精工(1934年11月・資本金350万円)を1935年3月合併、1935年6月多摩川工場開業
  • 株式会社年鑑 1952年版「日本精工」沿革
    • [36]1935年3月に資本金500万円へ増資
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「多摩川工場と寺沢仲之助」
    • [38]寺沢仲之助が多摩川工場長、学卒技術者に外国製機械を据付・運転させ、新採用の高等小学校卒業生を訓練

日中戦争が始まった1937年の半ばには、日本精工の受注額は月50万円前後。同年には為替管理法に基づく許可制が敷かれ、機械類の輸入は次第に難しくなった。国産自動車の製造や航空機製作所の新設で需要の拡大が見込まれたため、月産60万円を目標とする約370万円の拡張計画を立てた。資金は同年8月に設立した資本金700万円の帝国精工を11月1日に合併して調達し、合併後の資本金は1,200万円である。多摩川で隣り合う鋼球と軸受の両工場はともに手狭になり、鋼球工場を移すことになった。移転先として同じ11月、神奈川県藤沢町鵠沼に約5,700坪の新工場を建設した。藤沢工場は1938年5月13日に開場式を挙げ、同年4月には従業員が145名に増えた。輸入のホフマン製鋼球が減るなか、鋼球の自給は急務だった。

  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第4章 第2節・第3節 当社の生産力拡充」
    • [39]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [40]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [41]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [42]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [44]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [45]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [47]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [48]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
  • 株式会社年鑑 1952年版「日本精工」沿革
    • [43]1937年11月に資本金1,200万円へ増資
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本精工」
    • [46]藤沢工場は神奈川県藤沢市鵠沼1375の軸受製造工場
参考文献[24]-[48]
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第3章 第1節 当社と満州事変」
    • [24]高橋社長は資金問題、業務は多胡支配人に一任、4課題(設備近代化・販路拡大・賃金体系改訂・女子労務者使用)、1933年安松技師長を欧米派遣、軍港4商店に販売委任・東北信越へ拡大、関西民需のため神崎工場、1932年から受注急増
    • [26]高橋社長は資金問題、業務は多胡支配人に一任、4課題(設備近代化・販路拡大・賃金体系改訂・女子労務者使用)、1933年安松技師長を欧米派遣、軍港4商店に販売委任・東北信越へ拡大、関西民需のため神崎工場、1932年から受注急増
    • [27]高橋社長は資金問題、業務は多胡支配人に一任、4課題(設備近代化・販路拡大・賃金体系改訂・女子労務者使用)、1933年安松技師長を欧米派遣、軍港4商店に販売委任・東北信越へ拡大、関西民需のため神崎工場、1932年から受注急増
    • [28]高橋社長は資金問題、業務は多胡支配人に一任、4課題(設備近代化・販路拡大・賃金体系改訂・女子労務者使用)、1933年安松技師長を欧米派遣、軍港4商店に販売委任・東北信越へ拡大、関西民需のため神崎工場、1932年から受注急増
    • [29]高橋社長は資金問題、業務は多胡支配人に一任、4課題(設備近代化・販路拡大・賃金体系改訂・女子労務者使用)、1933年安松技師長を欧米派遣、軍港4商店に販売委任・東北信越へ拡大、関西民需のため神崎工場、1932年から受注急増
    • [30]高橋社長は資金問題、業務は多胡支配人に一任、4課題(設備近代化・販路拡大・賃金体系改訂・女子労務者使用)、1933年安松技師長を欧米派遣、軍港4商店に販売委任・東北信越へ拡大、関西民需のため神崎工場、1932年から受注急増
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第2章 経営首脳部の交替」
    • [25]高橋社長の下で業務運営は支配人多胡秀蔵、製造は安松俊雄が担った
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第3章 第2節・第3節」
    • [31]鋼球は1932年まで所要量の半分未満、1932年工業化決定・1933年9月商工省奨励金、1934年2月鋼球工場竣工、1935年の軸受総需要約千数百万円で大半輸入・自社生産約150万円、第二日本精工(1934年11月・資本金350万円)を1935年3月合併、1935年6月多摩川工場開業
    • [32]鋼球は1932年まで所要量の半分未満、1932年工業化決定・1933年9月商工省奨励金、1934年2月鋼球工場竣工、1935年の軸受総需要約千数百万円で大半輸入・自社生産約150万円、第二日本精工(1934年11月・資本金350万円)を1935年3月合併、1935年6月多摩川工場開業
    • [33]鋼球は1932年まで所要量の半分未満、1932年工業化決定・1933年9月商工省奨励金、1934年2月鋼球工場竣工、1935年の軸受総需要約千数百万円で大半輸入・自社生産約150万円、第二日本精工(1934年11月・資本金350万円)を1935年3月合併、1935年6月多摩川工場開業
    • [34]鋼球は1932年まで所要量の半分未満、1932年工業化決定・1933年9月商工省奨励金、1934年2月鋼球工場竣工、1935年の軸受総需要約千数百万円で大半輸入・自社生産約150万円、第二日本精工(1934年11月・資本金350万円)を1935年3月合併、1935年6月多摩川工場開業
    • [35]鋼球は1932年まで所要量の半分未満、1932年工業化決定・1933年9月商工省奨励金、1934年2月鋼球工場竣工、1935年の軸受総需要約千数百万円で大半輸入・自社生産約150万円、第二日本精工(1934年11月・資本金350万円)を1935年3月合併、1935年6月多摩川工場開業
    • [37]鋼球は1932年まで所要量の半分未満、1932年工業化決定・1933年9月商工省奨励金、1934年2月鋼球工場竣工、1935年の軸受総需要約千数百万円で大半輸入・自社生産約150万円、第二日本精工(1934年11月・資本金350万円)を1935年3月合併、1935年6月多摩川工場開業
  • 株式会社年鑑 1952年版「日本精工」沿革
    • [36]1935年3月に資本金500万円へ増資
    • [43]1937年11月に資本金1,200万円へ増資
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「多摩川工場と寺沢仲之助」
    • [38]寺沢仲之助が多摩川工場長、学卒技術者に外国製機械を据付・運転させ、新採用の高等小学校卒業生を訓練
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第4章 第2節・第3節 当社の生産力拡充」
    • [39]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [40]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [41]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [42]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [44]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [45]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [47]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
    • [48]1937年半ば受注額月50万円前後、1937年為替管理法の許可制で機械輸入困難、月産60万円・約370万円の拡張計画、帝国精工(1937年8月・700万円)を11月1日合併し資本金1,200万円、1937年11月藤沢町鵠沼に鋼球工場移転のため新工場(約5,700坪)、1938年5月13日開場式・4月従業員145名、ホフマン製鋼球の輸入減
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本精工」
    • [46]藤沢工場は神奈川県藤沢市鵠沼1375の軸受製造工場

1941年〜疎開で崩れた航空機用軸受の量産と、今里広記氏が率いた戦後の再建

1941年12月の開戦後、軸受会社は規模の拡大につれて航空機部品会社としての性格を強めた。日本精工は軸受鋼を自社でまかなうため、川崎市京町に電気炉を備えた製鋼の川崎工場を建て、1944年に山陽製鋼との共同経営に移した。1942年12月18日には本社を創業地の東大崎から芝区田町へ移し、大崎の社屋を工場の拡充に充てた。1944年1月25日、軍需会社法の施行を受けて高橋是賢氏は社長を辞して会長に就任し、専務の安松俊雄氏が社長に選任された。1944年2月の資本金は4,000万円である。同年6月以降、多摩川工場の航空機体用軸受の設備を福井県武生町へ移すなど工場の疎開を進めた。総益金は1944年に1931年の約413倍に達した後、軍需の消耗が生産を上回って急減した。

  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第5章 第3節 戦時下の当社」
    • [49]戦時に軸受会社は航空機部品会社的性格に、川崎市京町に製鋼の川崎工場・1944年山陽製鋼と共同経営、1942年12月18日本社を田町へ移転、1944年1月25日高橋是賢は会長・安松俊雄が社長、1944年6月福井山仙工場開設(多摩川の航空機体用軸受設備)、1944年の総益金は1931年の約413倍、以後崩壊
    • [50]戦時に軸受会社は航空機部品会社的性格に、川崎市京町に製鋼の川崎工場・1944年山陽製鋼と共同経営、1942年12月18日本社を田町へ移転、1944年1月25日高橋是賢は会長・安松俊雄が社長、1944年6月福井山仙工場開設(多摩川の航空機体用軸受設備)、1944年の総益金は1931年の約413倍、以後崩壊
    • [51]戦時に軸受会社は航空機部品会社的性格に、川崎市京町に製鋼の川崎工場・1944年山陽製鋼と共同経営、1942年12月18日本社を田町へ移転、1944年1月25日高橋是賢は会長・安松俊雄が社長、1944年6月福井山仙工場開設(多摩川の航空機体用軸受設備)、1944年の総益金は1931年の約413倍、以後崩壊
    • [52]戦時に軸受会社は航空機部品会社的性格に、川崎市京町に製鋼の川崎工場・1944年山陽製鋼と共同経営、1942年12月18日本社を田町へ移転、1944年1月25日高橋是賢は会長・安松俊雄が社長、1944年6月福井山仙工場開設(多摩川の航空機体用軸受設備)、1944年の総益金は1931年の約413倍、以後崩壊
    • [54]戦時に軸受会社は航空機部品会社的性格に、川崎市京町に製鋼の川崎工場・1944年山陽製鋼と共同経営、1942年12月18日本社を田町へ移転、1944年1月25日高橋是賢は会長・安松俊雄が社長、1944年6月福井山仙工場開設(多摩川の航空機体用軸受設備)、1944年の総益金は1931年の約413倍、以後崩壊
    • [55]戦時に軸受会社は航空機部品会社的性格に、川崎市京町に製鋼の川崎工場・1944年山陽製鋼と共同経営、1942年12月18日本社を田町へ移転、1944年1月25日高橋是賢は会長・安松俊雄が社長、1944年6月福井山仙工場開設(多摩川の航空機体用軸受設備)、1944年の総益金は1931年の約413倍、以後崩壊
  • 株式会社年鑑 1952年版「日本精工」沿革
    • [53]1944年2月に資本金4,000万円へ増資

1946年8月、日本精工は会社経理応急措置法の特別経理会社に指定され、事業の継続に要る資産を新勘定、それ以外を旧勘定に分けた。戦時補償特別措置法で補償が打ち切られ、軍の要請で膨らんだ負債の処理が迫っていた。1947年8月11日には第2次追放令により、社長の安松俊雄氏と常務の千家活麿氏・寺沢仲之助氏が退任した。その後の約1年は社長が空席で、社業を担ったのは専務の堀口忠氏と常務の斎藤弘二氏・磯江道夫氏の3人の合議である。1948年7月15日、元監査役の望月乙彦氏を会長に、日本金属産業社長の今里広記氏を社長に迎えた。技術者出身の経営陣が去ったあと、債務の整理と資金の調達を担える社外の経営者が求められたのだろう。

  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第6章 第5節 当社の戦後10年(公職追放・企業の再建)」
    • [56]1946年8月特別経理会社に指定・新旧勘定分離、戦時補償打切り、1947年8月11日安松・千家・寺沢が第2次追放令で退任、堀口・斎藤・磯江の合議で社長空席約1年、1948年7月15日会長望月乙彦・社長今里広記
    • [57]1946年8月特別経理会社に指定・新旧勘定分離、戦時補償打切り、1947年8月11日安松・千家・寺沢が第2次追放令で退任、堀口・斎藤・磯江の合議で社長空席約1年、1948年7月15日会長望月乙彦・社長今里広記
    • [58]1946年8月特別経理会社に指定・新旧勘定分離、戦時補償打切り、1947年8月11日安松・千家・寺沢が第2次追放令で退任、堀口・斎藤・磯江の合議で社長空席約1年、1948年7月15日会長望月乙彦・社長今里広記
    • [59]1946年8月特別経理会社に指定・新旧勘定分離、戦時補償打切り、1947年8月11日安松・千家・寺沢が第2次追放令で退任、堀口・斎藤・磯江の合議で社長空席約1年、1948年7月15日会長望月乙彦・社長今里広記
    • [60]1946年8月特別経理会社に指定・新旧勘定分離、戦時補償打切り、1947年8月11日安松・千家・寺沢が第2次追放令で退任、堀口・斎藤・磯江の合議で社長空席約1年、1948年7月15日会長望月乙彦・社長今里広記
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本精工」
    • [61]1950年版の役員欄で会長は望月乙彦

今里広記氏の就任後、日本精工が再建の資金の調達に用いたのは株式の増資である。1948年11月、企業再建整備計画に沿って1億3,000万円を増資し、資本金は2億円となった。手取金は主に新旧勘定の借入金の返済に充て、1949年3月に計画の認可を受けて新旧勘定を合併した。ドッジ・ラインのデフレで資金事情が悪化すると、1949年6月に再び2億円を増資し、資本金は4億円となった。同じ1949年には企業整備に伴って人員を整理し賃金を引き下げた。人員整理と賃金の引き下げは中央経営協議会の協議でまとまり、争議には至らなかった。1950年に朝鮮戦争が始まると機械工業の需要が戻った。第66期(1950年下期)の販売高は前期比約70%増の6億1,988万8,000円に達した。

  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第6章 第5節 企業の再建」
    • [62]1948年11月企業再建整備計画で1億3,000万円増資・資本金2億円、借入金返済に充当、1949年3月認可・新旧勘定合併、1949年6月2億円再増資・資本金4億円
    • [63]1948年11月企業再建整備計画で1億3,000万円増資・資本金2億円、借入金返済に充当、1949年3月認可・新旧勘定合併、1949年6月2億円再増資・資本金4億円
    • [65]1948年11月企業再建整備計画で1億3,000万円増資・資本金2億円、借入金返済に充当、1949年3月認可・新旧勘定合併、1949年6月2億円再増資・資本金4億円
    • [66]1948年11月企業再建整備計画で1億3,000万円増資・資本金2億円、借入金返済に充当、1949年3月認可・新旧勘定合併、1949年6月2億円再増資・資本金4億円
  • 株式会社年鑑 1952年版「日本精工」沿革
    • [64]1948年11月資本金2億円、1949年6月資本金4億円
    • [67]1948年11月資本金2億円、1949年6月資本金4億円
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第6章 労働問題」
    • [68]1949年企業整備による人員整理・賃金引下げは争議なく中央経営協議会で協議
    • [69]1949年企業整備による人員整理・賃金引下げは争議なく中央経営協議会で協議
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第6章 設備の近代化・朝鮮動乱」
    • [70]朝鮮動乱で機械工業が蘇生、第66期(1950年下期)販売高6億1,988万8,000円・前期比約70%増
    • [71]朝鮮動乱で機械工業が蘇生、第66期(1950年下期)販売高6億1,988万8,000円・前期比約70%増
参考文献[49]-[71]
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第5章 第3節 戦時下の当社」
    • [49]戦時に軸受会社は航空機部品会社的性格に、川崎市京町に製鋼の川崎工場・1944年山陽製鋼と共同経営、1942年12月18日本社を田町へ移転、1944年1月25日高橋是賢は会長・安松俊雄が社長、1944年6月福井山仙工場開設(多摩川の航空機体用軸受設備)、1944年の総益金は1931年の約413倍、以後崩壊
    • [50]戦時に軸受会社は航空機部品会社的性格に、川崎市京町に製鋼の川崎工場・1944年山陽製鋼と共同経営、1942年12月18日本社を田町へ移転、1944年1月25日高橋是賢は会長・安松俊雄が社長、1944年6月福井山仙工場開設(多摩川の航空機体用軸受設備)、1944年の総益金は1931年の約413倍、以後崩壊
    • [51]戦時に軸受会社は航空機部品会社的性格に、川崎市京町に製鋼の川崎工場・1944年山陽製鋼と共同経営、1942年12月18日本社を田町へ移転、1944年1月25日高橋是賢は会長・安松俊雄が社長、1944年6月福井山仙工場開設(多摩川の航空機体用軸受設備)、1944年の総益金は1931年の約413倍、以後崩壊
    • [52]戦時に軸受会社は航空機部品会社的性格に、川崎市京町に製鋼の川崎工場・1944年山陽製鋼と共同経営、1942年12月18日本社を田町へ移転、1944年1月25日高橋是賢は会長・安松俊雄が社長、1944年6月福井山仙工場開設(多摩川の航空機体用軸受設備)、1944年の総益金は1931年の約413倍、以後崩壊
    • [54]戦時に軸受会社は航空機部品会社的性格に、川崎市京町に製鋼の川崎工場・1944年山陽製鋼と共同経営、1942年12月18日本社を田町へ移転、1944年1月25日高橋是賢は会長・安松俊雄が社長、1944年6月福井山仙工場開設(多摩川の航空機体用軸受設備)、1944年の総益金は1931年の約413倍、以後崩壊
    • [55]戦時に軸受会社は航空機部品会社的性格に、川崎市京町に製鋼の川崎工場・1944年山陽製鋼と共同経営、1942年12月18日本社を田町へ移転、1944年1月25日高橋是賢は会長・安松俊雄が社長、1944年6月福井山仙工場開設(多摩川の航空機体用軸受設備)、1944年の総益金は1931年の約413倍、以後崩壊
  • 株式会社年鑑 1952年版「日本精工」沿革
    • [53]1944年2月に資本金4,000万円へ増資
    • [64]1948年11月資本金2億円、1949年6月資本金4億円
    • [67]1948年11月資本金2億円、1949年6月資本金4億円
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第6章 第5節 当社の戦後10年(公職追放・企業の再建)」
    • [56]1946年8月特別経理会社に指定・新旧勘定分離、戦時補償打切り、1947年8月11日安松・千家・寺沢が第2次追放令で退任、堀口・斎藤・磯江の合議で社長空席約1年、1948年7月15日会長望月乙彦・社長今里広記
    • [57]1946年8月特別経理会社に指定・新旧勘定分離、戦時補償打切り、1947年8月11日安松・千家・寺沢が第2次追放令で退任、堀口・斎藤・磯江の合議で社長空席約1年、1948年7月15日会長望月乙彦・社長今里広記
    • [58]1946年8月特別経理会社に指定・新旧勘定分離、戦時補償打切り、1947年8月11日安松・千家・寺沢が第2次追放令で退任、堀口・斎藤・磯江の合議で社長空席約1年、1948年7月15日会長望月乙彦・社長今里広記
    • [59]1946年8月特別経理会社に指定・新旧勘定分離、戦時補償打切り、1947年8月11日安松・千家・寺沢が第2次追放令で退任、堀口・斎藤・磯江の合議で社長空席約1年、1948年7月15日会長望月乙彦・社長今里広記
    • [60]1946年8月特別経理会社に指定・新旧勘定分離、戦時補償打切り、1947年8月11日安松・千家・寺沢が第2次追放令で退任、堀口・斎藤・磯江の合議で社長空席約1年、1948年7月15日会長望月乙彦・社長今里広記
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本精工」
    • [61]1950年版の役員欄で会長は望月乙彦
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第6章 第5節 企業の再建」
    • [62]1948年11月企業再建整備計画で1億3,000万円増資・資本金2億円、借入金返済に充当、1949年3月認可・新旧勘定合併、1949年6月2億円再増資・資本金4億円
    • [63]1948年11月企業再建整備計画で1億3,000万円増資・資本金2億円、借入金返済に充当、1949年3月認可・新旧勘定合併、1949年6月2億円再増資・資本金4億円
    • [65]1948年11月企業再建整備計画で1億3,000万円増資・資本金2億円、借入金返済に充当、1949年3月認可・新旧勘定合併、1949年6月2億円再増資・資本金4億円
    • [66]1948年11月企業再建整備計画で1億3,000万円増資・資本金2億円、借入金返済に充当、1949年3月認可・新旧勘定合併、1949年6月2億円再増資・資本金4億円
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第6章 労働問題」
    • [68]1949年企業整備による人員整理・賃金引下げは争議なく中央経営協議会で協議
    • [69]1949年企業整備による人員整理・賃金引下げは争議なく中央経営協議会で協議
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第6章 設備の近代化・朝鮮動乱」
    • [70]朝鮮動乱で機械工業が蘇生、第66期(1950年下期)販売高6億1,988万8,000円・前期比約70%増
    • [71]朝鮮動乱で機械工業が蘇生、第66期(1950年下期)販売高6億1,988万8,000円・前期比約70%増

1916年〜1952年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年04月期 単体 23 n/a 5 4 17.4% n/a

出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算

出典・参考

17件
出典・参考
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「序章 創立以前」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第1章 創立期」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第1章 第3節 販売路線と業況」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第1章 第1節 株式会社へ改組の意義」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第2章 第1節 不況対策と製品の整理」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第2章 経営首脳部の交替」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第3章 第1節 当社と満州事変」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第3章 第2節・第3節」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「多摩川工場と寺沢仲之助」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第4章 第2節・第3節 当社の生産力拡充」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第5章 第3節 戦時下の当社」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第6章 第5節 当社の戦後10年(公職追放・企業の再建)」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第6章 第5節 企業の再建」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第6章 労働問題」
  • 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(1967)「第6章 設備の近代化・朝鮮動乱」
  • 株式会社年鑑 1950年版「日本精工」
  • 株式会社年鑑 1952年版「日本精工」沿革

免責事項およびポリシー