山口武彦
経歴1891〜1931年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1891年主要役職の状況(推定含む目安)1962年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 安田銀行・安田製釘所 | 1895 | 安田銀行に入行(同年8月に製釘技術の調査で欧米へ出張、1897年6月帰国) | ||
| 1897 | 安田製釘所 技師長 | ||||
| 山武商会 | 1906 | 創業 | |||
| 日本精工 | 1914 | 創業 | |||
| 1916 | — | ||||
| 1931 | 退任 | ||||
| 官公庁 | 農商務省 | 1891 | 入省 |
創業ストーリー
創業ストーリー
山口武彦氏は1869年7月に鹿児島県で生まれ、1886年に上京して農商務省水産局長だった義兄の奥清輔氏のもとに身を寄せた。1891年9月に東京工業学校機械科を卒業して農商務省に入省し、特許局の審査官補として機械の審査を受け持った。審査を通じて欧米の機械工業の実情を知る必要を感じていたところ、安田善次郎氏と高橋是清氏が企てた国内初の製釘事業で機械の選定役に推され、1895年に安田銀行に入行して欧米へ渡った。米国クリーブランドで製釘機械を買い付けて技術を調べ、欧州各国の工場を回って1897年6月に帰国した。
- 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(日本精工, 1967年)第1章 1 黎明期「創立者山口武彦」
- [1]山口武彦は明治2年7月鹿児島県に生まれた。明治19年に上京し,当時農商務省水産局長であった義兄奥清輔の下に身を寄せ,24年9月東京工業学校(現,東京工業大学)機械科を卒業と同時に農商務省に入り,特許局審査官補に任官した
- [2]山口武彦は明治2年7月鹿児島県に生まれた。明治19年に上京し,当時農商務省水産局長であった義兄奥清輔の下に身を寄せ,24年9月東京工業学校(現,東京工業大学)機械科を卒業と同時に農商務省に入り,特許局審査官補に任官した
- [3]特許局で機械の審査を担当していた関係で欧米先進諸国の機械工業界の実際を知る必要を痛切に感じていた。安田善次郎・高橋是清らがわが国初めての製釘事業を企画し外国からの機械購入選定者を物色中で,高橋の推挙で明治28年2月安田銀行に入行,同年8月製釘技術研究調査のため欧米へ。クリーブランドで製釘機械を購入し技術を研究,欧州各国の工場を視察し明治30年6月に帰朝
- [4]特許局で機械の審査を担当していた関係で欧米先進諸国の機械工業界の実際を知る必要を痛切に感じていた。安田善次郎・高橋是清らがわが国初めての製釘事業を企画し外国からの機械購入選定者を物色中で,高橋の推挙で明治28年2月安田銀行に入行,同年8月製釘技術研究調査のため欧米へ。クリーブランドで製釘機械を購入し技術を研究,欧州各国の工場を視察し明治30年6月に帰朝
帰国後は安田製釘所の技師長に迎えられたが、工場は数年で事業を続けられなくなり休止した。北海道鉄道の嘱託や函館船渠の支配人を経て、輸入機械の貿易で独立すると決め、1906年12月1日に東京市京橋区で個人商店の山武商会を開いた。屋号は自分の姓名を縮めたものである。外国製機械の輸入を本業としながら、1910年10月にはドイツから輸入した酸素溶接切断機を軸に日本酸素合資会社も設けた。
- 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(日本精工, 1967年)第1章「創立者山口武彦」「山武商会の設立」
- [5]安田製釘所に技師長として迎えられたが,製釘工場は種々の困難にあい数年にして中断,休止。その後北海道鉄道嘱託,函館船渠支配人などを歴任し,輸入機械貿易業として独立を決意し,自分の姓名を簡略化した個人商店山武商会を明治39年12月1日,東京市京橋区五郎兵衛町に設立
- [6]安田製釘所に技師長として迎えられたが,製釘工場は種々の困難にあい数年にして中断,休止。その後北海道鉄道嘱託,函館船渠支配人などを歴任し,輸入機械貿易業として独立を決意し,自分の姓名を簡略化した個人商店山武商会を明治39年12月1日,東京市京橋区五郎兵衛町に設立
- [7]安田製釘所に技師長として迎えられたが,製釘工場は種々の困難にあい数年にして中断,休止。その後北海道鉄道嘱託,函館船渠支配人などを歴任し,輸入機械貿易業として独立を決意し,自分の姓名を簡略化した個人商店山武商会を明治39年12月1日,東京市京橋区五郎兵衛町に設立
- 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(日本精工, 1967年)第1章「山武商会の設立」
- [8]営業種目は外国製機械の輸入貿易が主。ドイツから輸入の酸素溶接切断機を主力にして別に日本酸素合資会社を設立したのは明治43年10月
1914年2月20日、精密機械器具の製造を目的に日本精工合資会社を設立した。資本金5万円のうち2万円を山口武彦氏が出し、残りは高橋是清氏、日本銀行の首藤諒氏と鈴木知雄氏、姻戚の高木貞作氏が出資した。山口武彦氏が無限責任社員として会社を主宰し、4人の出資者は顧問団として運営に加わった。荏原郡大崎町の工場では、山武商会が輸入した米国ナショナル・アクメ社製の4軸自動盤などで、ロシア向け信管や海軍向け水雷ネジを作り、従業員は当初の5、6名から2年後には240名に増加した。
- NSK50年の歩み(日本精工, 1966年)1914・大正3年 日本精工合資会社創立
- [9]当社の前身日本精工合資会社が設立されたのは大正3年2月20日。創立者山口武彦,資本金5万円。合資会社設立の目的は精密機械器具の製造にあった
- [12]工場は東京府下荏原郡大崎町。米国ナショナル・アクメ社製4軸自動盤4台をはじめとする外国製諸機械で,ロシア向け信管や海軍向け水雷ネジ等を製作し,当初5,6名であった従業員も2年後には240名となった。しかしいまだ世人の関心がなかったベアリング製作をひそかに企画し,その研究試作に没頭していた
- 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(日本精工, 1967年)第1章 2 日本精工合資会社の誕生
- [10]出資は山口武彦20千円,高橋是清10千円,首藤諒10千円,鈴木知雄5千円,高木貞作5千円。首藤は日本銀行理事,鈴木は日本銀行出納局長,高木は山口の姻戚。山口武彦は無限責任社員として当社を主宰し,会社の運営は山口を頂点とし4名の顧問団が参画して行なわれた
- [11]出資は山口武彦20千円,高橋是清10千円,首藤諒10千円,鈴木知雄5千円,高木貞作5千円。首藤は日本銀行理事,鈴木は日本銀行出納局長,高木は山口の姻戚。山口武彦は無限責任社員として当社を主宰し,会社の運営は山口を頂点とし4名の顧問団が参画して行なわれた
その一方で、まだ世の関心が薄かった軸受の試作を続けた。試作が実を結ぶと、国産化に踏み切るため株式会社を新たに設け、合資会社の資産と営業権をすべて譲る方式を選んだ。山口武彦氏は発起人総代として株主集めに回り、安田保善社総長の安田善三郎氏が総株数7,000株のうち1,000株を真っ先に引き受け、日本銀行総裁と日本興業銀行総裁が続いた。1916年11月8日の創立総会で資本金35万円の日本精工株式会社が発足し、続く取締役会で山口武彦氏が取締役社長に選ばれた。同年半ばには製品第1号の自動調心形軸受を横須賀海軍工廠に納めており、生産計画は海軍の支援の下で始まった。
- NSK50年の歩み(日本精工, 1966年)1914・大正3年 日本精工合資会社創立
- [13]工場は東京府下荏原郡大崎町。米国ナショナル・アクメ社製4軸自動盤4台をはじめとする外国製諸機械で,ロシア向け信管や海軍向け水雷ネジ等を製作し,当初5,6名であった従業員も2年後には240名となった。しかしいまだ世人の関心がなかったベアリング製作をひそかに企画し,その研究試作に没頭していた
- 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(日本精工, 1967年)第1章 株式会社の設立
- [14]軸受の試作研究の成果が結実したので国産化実現を期すべく決意し,新たに日本精工株式会社を設立し,新会社に日本精工合資会社の資産および営業権いっさいをあげて譲渡する方法を採ることとした
- [15]山口武彦は発起人総代となり株主の縁故募集に当たった。安田保善社総長安田善三郎氏が総株数7,000株のうち引受け名簿の第1番に1,000株を引き受け,日本銀行総裁三島弥太郎氏が300株,日本興業銀行総裁志立鉄次郎氏が200株を引き受けた
- 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(日本精工, 1967年)第1章 株式会社設立と合資会社の業務譲受
- [16]日本精工株式会社の創立総会は大正5年11月8日,帝国鉄道協会で開催。資本金35万円,総株式数7,000株。第1回取締役会の互選で山口武彦が取締役社長に就任
- 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(日本精工, 1967年)/NSK50年の歩み(日本精工, 1966年)1916・大正5年
- [17]幾多の試作段階を経て製品第1号として自動調心形軸受を横須賀海軍工廠に納入したのは大正5年半ばごろ。ベアリング生産計画は海軍の全面的な支援の下に始められた
株式会社になっても、製品の販売は合資会社の時代と同じく大部分を山武商会に委ねた。第一次世界大戦後の不況で第12期から3期続けて欠損を出すと、1922年8月に内訓を出して製品を整理し、1925年ごろに軸受専業へ移った。昭和恐慌期には総売掛債権21万円のうち約7割の14万円が山武商会向けで固まって資金繰りが悪化し、山口武彦氏はこの問題の責任を負って1931年5月に社長を辞した。1962年7月11日に死去した。
- 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(日本精工, 1967年)第1章 製品の販売委任
- [18]販売部門の大部分は合資時代と同様に山武商会に委任するを賢明の策とし,定款第2条に規定する販売の一部を山武商会に委任した
- 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(日本精工, 1967年)第2章 軸受専業移行期
- [19]第12期(大正10・下)から第14期(12・上)までの3期は赤字。大正11年8月7日付けで「勤倹力行ハ社運隆盛ノ源」なる内訓を出し,軸受専業に移行したのは大正14年ごろ
- 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(日本精工, 1967年)第2章 経営首脳部の交替
- [20]昭和5年11月末現在の総売掛債権21万円のうち,姉妹会社的存在であった山武商会に対する売掛債権は約7割の14万円に達し固定,資金事情は急激に詰まった。山口は山武商会に対する売掛債権問題に関して責を負い,昭和6年5月社長の職を辞任した
- 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(日本精工, 1967年)年表
- [21]昭和37年(1962)初代社長山口武彦逝去(7月11日)
参考文献2件
参考文献
- 日本精工五十年史 ベアリングその発達と技術(日本精工, 1967年)第1章 黎明期
- NSK REPORT 2016(英文)
事実根拠:出所(日本精工)