第1章 年〜年

牧野フライス製作所:牧野常造の牧野商店製作部創業と立フライス盤への特化

1937年〜数え35歳で目黒に開いた牧野商店製作部と、輸入に頼っていた一番立フライス盤

牧野常造氏は1937年5月、東京・目黒で牧野商店製作部を個人で設立し、工作機械の専門メーカーとして事業を始めた。数え年35歳での創業であり、その所在地は1985年時点でも本社のままであった。牧野常造氏が師として慕ったのは、機械商社を創業した野田正一氏である。野田正一氏は国内に機械商社が無かった時代に外国商館へ小僧として入り、修業を経て独立した。牧野常造氏は1984年の対談で、野田正一氏の人の育て方から自分も感化を受けたかもしれないと振り返った。牧野常造氏は師の独立の経路を、輸入機の商いでなく機械そのものの製造でたどろうとしたと推察される。

  • 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 依田竹史(常務取締役)
    • [1]1937年5月、牧野常造(数え年35歳)が東京・目黒区の現本社所在地に牧野商店製作部を設立し工作機械の専門メーカーとして発足
    • [2]1937年5月、牧野常造(数え年35歳)が東京・目黒区の現本社所在地に牧野商店製作部を設立し工作機械の専門メーカーとして発足
  • 近代中小企業 19(6) 1984年 聞き手 由比正
    • [3]牧野常造は野田正一を師と慕う。野田は外国商館に小僧で入り修業後に独立して機械商社を興した。牧野は自然に感化があったかもしれないと述べる
    • [4]牧野常造は野田正一を師と慕う。野田は外国商館に小僧で入り修業後に独立して機械商社を興した。牧野は自然に感化があったかもしれないと述べる
    • [5]牧野常造は野田正一を師と慕う。野田は外国商館に小僧で入り修業後に独立して機械商社を興した。牧野は自然に感化があったかもしれないと述べる

牧野常造氏が最初の機種に選んだのは、立フライス盤のうち番手の最も小さい一番型であった。1937年ごろの国内には一番型のフライス盤を製造するメーカーが無く、需要は輸入品で満たされていた。国産で済ませる工場では、二番型以上の大きな機械での代用。牧野常造氏は1984年の対談で、当時はフライス盤の需要が増えたのに作り手が少なく、日立と横河の製品は当時の基準で大型に属したと振り返った。小型を選んだ理由には、外国勢と競争せずに独自の機械を製造する考えと、『元手のないところは小さい機械から始めざるを得ない』という資金の事情を挙げた。多機種を同時に手掛ける余力が無く、一機種に集中したとも説明した。輸入品しか無い小型の空白に、資金の制約に見合う機種を重ねた選択であったとみられる。

  • 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 依田竹史(常務取締役)
    • [6]最初の機種は一番立フライス盤。1937年ごろ国内に一番型を作る所はなく全量輸入、二番型以上で間に合わせていた
    • [7]最初の機種は一番立フライス盤。1937年ごろ国内に一番型を作る所はなく全量輸入、二番型以上で間に合わせていた
    • [8]最初の機種は一番立フライス盤。1937年ごろ国内に一番型を作る所はなく全量輸入、二番型以上で間に合わせていた
  • 近代中小企業 19(6) 1984年 聞き手 由比正
    • [9]牧野常造は小型から始めた理由として外国と競走しない独自路線・元手の不足・フライス盤メーカーが少なく日立・横河は大型のみ・一機種に絞ったことを挙げる
    • [10]牧野常造は小型から始めた理由として外国と競走しない独自路線・元手の不足・フライス盤メーカーが少なく日立・横河は大型のみ・一機種に絞ったことを挙げる
    • [11]牧野常造は小型から始めた理由として外国と競走しない独自路線・元手の不足・フライス盤メーカーが少なく日立・横河は大型のみ・一機種に絞ったことを挙げる
参考文献[1]-[11]
  • 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 依田竹史(常務取締役)
    • [1]1937年5月、牧野常造(数え年35歳)が東京・目黒区の現本社所在地に牧野商店製作部を設立し工作機械の専門メーカーとして発足
    • [2]1937年5月、牧野常造(数え年35歳)が東京・目黒区の現本社所在地に牧野商店製作部を設立し工作機械の専門メーカーとして発足
    • [6]最初の機種は一番立フライス盤。1937年ごろ国内に一番型を作る所はなく全量輸入、二番型以上で間に合わせていた
    • [7]最初の機種は一番立フライス盤。1937年ごろ国内に一番型を作る所はなく全量輸入、二番型以上で間に合わせていた
    • [8]最初の機種は一番立フライス盤。1937年ごろ国内に一番型を作る所はなく全量輸入、二番型以上で間に合わせていた
  • 近代中小企業 19(6) 1984年 聞き手 由比正
    • [3]牧野常造は野田正一を師と慕う。野田は外国商館に小僧で入り修業後に独立して機械商社を興した。牧野は自然に感化があったかもしれないと述べる
    • [4]牧野常造は野田正一を師と慕う。野田は外国商館に小僧で入り修業後に独立して機械商社を興した。牧野は自然に感化があったかもしれないと述べる
    • [5]牧野常造は野田正一を師と慕う。野田は外国商館に小僧で入り修業後に独立して機械商社を興した。牧野は自然に感化があったかもしれないと述べる
    • [9]牧野常造は小型から始めた理由として外国と競走しない独自路線・元手の不足・フライス盤メーカーが少なく日立・横河は大型のみ・一機種に絞ったことを挙げる
    • [10]牧野常造は小型から始めた理由として外国と競走しない独自路線・元手の不足・フライス盤メーカーが少なく日立・横河は大型のみ・一機種に絞ったことを挙げる
    • [11]牧野常造は小型から始めた理由として外国と競走しない独自路線・元手の不足・フライス盤メーカーが少なく日立・横河は大型のみ・一機種に絞ったことを挙げる

1942年〜牧野竪フライス製作所への改称と、焼け残った工作機械のリビルト

1942年3月、牧野常造氏は商号を牧野竪フライス製作所に改め、清水正利氏が経営に加わった。清水正利氏は1968年時点で専務の職にあった。常務取締役の依田竹史氏は1985年の講演で、社名は最初に製造した立フライス盤にちなむと説明した。英文の社名MAKINO VERTICAL MILLING MACHINE CO.も、立型の専門を示す名である。1964年3月末の大株主は牧野常造氏の1,934,900株が筆頭で、清水正利氏の516,150株が2番目であった。商店の名から機種の名へ社名を替え、共同の経営者を迎えたことで、個人商店から専門メーカーへ体裁を改める狙いがあったとうかがえる。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「牧野フライス製作所」
    • [12]1942年3月に商号を牧野竪フライス製作所と改称し、清水正利(1968年時点で専務)が経営に参加
    • [13]1942年3月に商号を牧野竪フライス製作所と改称し、清水正利(1968年時点で専務)が経営に参加
  • 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 依田竹史(常務取締役)
    • [14]最初に作ったのが立フライス盤で社名もそれにちなむ。英文名はMAKINO VERTICAL MILLING MACHINE CO.
    • [15]最初に作ったのが立フライス盤で社名もそれにちなむ。英文名はMAKINO VERTICAL MILLING MACHINE CO.
  • 証券 16(9) 1964年
    • [16]1964年3月31日現在の大株主は牧野常造1,934,900株、清水正利516,150株。役員は社長牧野常造・専務清水正利

戦時中の牧野竪フライス製作所は、軍需産業向けの新製品の製造を中心に据えた。依田竹史氏は1985年の講演で、戦時は新製品だけを製造していれば需要が足りたと説明した。軍はフライス盤の技術を高く評価し、製作だけでなく修理も担わせた。一番立フライス盤の主軸の端面を図案化した社章は、創業時代から使われてきた。創業から8年間の需要先は軍需に集中し、戦時の修理の経験が戦後の事業の足場になったと考えられる。

  • 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 依田竹史(常務取締役)
    • [17]戦時中は軍需産業向けを中心に新製品だけを作っていればよかった
    • [18]戦時中は軍需産業向けを中心に新製品だけを作っていればよかった
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「牧野フライス製作所」
    • [19]戦時中は軍からも技術を高く評価されフライス盤の製作修理にあたった。社章は一番立フライス盤K5シリーズの主軸端面を図案化し創業時代から使用
    • [20]戦時中は軍からも技術を高く評価されフライス盤の製作修理にあたった。社章は一番立フライス盤K5シリーズの主軸端面を図案化し創業時代から使用

終戦後の工作機械の需要は、戦災で焼け残った機械や不用になった機械の修理・復原に移った。牧野竪フライス製作所は古い機械の修理と復元を事業の中心とし、リビルト・メーカーを名乗った。依田竹史氏は1985年の講演で、修理・復元は単純に見えて難度が高いと説明した。修理・復原は1985年時点でも、会社の事業目的の第2に残っていた。並行して1945年8月の終戦と同時に、超高速一番立フライス盤と倣いフライス盤の設計・製作に着手した。修理で収入を確保しつつ新機種の設計を続けた二本立てが、新品への復帰の準備になったと思われる。

  • 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 依田竹史(常務取締役)
    • [21]戦後は戦災で焼け残った工作機械や不用の工作機械の修理・復原需要が強く、リビルト・メーカーと称した。修理・復原は事業目的の第2
    • [22]戦後は戦災で焼け残った工作機械や不用の工作機械の修理・復原需要が強く、リビルト・メーカーと称した。修理・復原は事業目的の第2
    • [23]戦後は戦災で焼け残った工作機械や不用の工作機械の修理・復原需要が強く、リビルト・メーカーと称した。修理・復原は事業目的の第2
    • [24]戦後は戦災で焼け残った工作機械や不用の工作機械の修理・復原需要が強く、リビルト・メーカーと称した。修理・復原は事業目的の第2
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「牧野フライス製作所」
    • [25]1945年8月の終戦とともに超高速一番立フライス盤と倣いフライス盤の設計・製作に着手
参考文献[12]-[25]
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「牧野フライス製作所」
    • [12]1942年3月に商号を牧野竪フライス製作所と改称し、清水正利(1968年時点で専務)が経営に参加
    • [13]1942年3月に商号を牧野竪フライス製作所と改称し、清水正利(1968年時点で専務)が経営に参加
    • [19]戦時中は軍からも技術を高く評価されフライス盤の製作修理にあたった。社章は一番立フライス盤K5シリーズの主軸端面を図案化し創業時代から使用
    • [20]戦時中は軍からも技術を高く評価されフライス盤の製作修理にあたった。社章は一番立フライス盤K5シリーズの主軸端面を図案化し創業時代から使用
    • [25]1945年8月の終戦とともに超高速一番立フライス盤と倣いフライス盤の設計・製作に着手
  • 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 依田竹史(常務取締役)
    • [14]最初に作ったのが立フライス盤で社名もそれにちなむ。英文名はMAKINO VERTICAL MILLING MACHINE CO.
    • [15]最初に作ったのが立フライス盤で社名もそれにちなむ。英文名はMAKINO VERTICAL MILLING MACHINE CO.
    • [17]戦時中は軍需産業向けを中心に新製品だけを作っていればよかった
    • [18]戦時中は軍需産業向けを中心に新製品だけを作っていればよかった
    • [21]戦後は戦災で焼け残った工作機械や不用の工作機械の修理・復原需要が強く、リビルト・メーカーと称した。修理・復原は事業目的の第2
    • [22]戦後は戦災で焼け残った工作機械や不用の工作機械の修理・復原需要が強く、リビルト・メーカーと称した。修理・復原は事業目的の第2
    • [23]戦後は戦災で焼け残った工作機械や不用の工作機械の修理・復原需要が強く、リビルト・メーカーと称した。修理・復原は事業目的の第2
    • [24]戦後は戦災で焼け残った工作機械や不用の工作機械の修理・復原需要が強く、リビルト・メーカーと称した。修理・復原は事業目的の第2
  • 証券 16(9) 1964年
    • [16]1964年3月31日現在の大株主は牧野常造1,934,900株、清水正利516,150株。役員は社長牧野常造・専務清水正利

1951年〜資本金300万円の株式会社への改組と、超精密万能工具研削盤

1951年5月1日、牧野常造氏は資本金300万円の株式会社として事業を改組した。商号は株式会社牧野竪フライス製作所とし、1961年4月の改称までこの名を用いた。1937年に個人企業の牧野商店として始めた事業の、14年を経ての法人化。1964年時点の役員は社長が牧野常造氏、専務が清水正利氏であり、改組後も2人の経営が続いた。取引金融機関には三菱銀行と三菱信託銀行に並び、日本開発銀行が名を連ねた。創業者と共同経営者で株式を分け持つ法人への改組は、新品の製造へ戻る資金と取引上の信用を整える手段であったのだろう。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「牧野フライス製作所」
    • [26]1951年5月、資本金300万円で株式会社組織に改組(設立1951年5月1日)
  • 証券 16(9) 1964年
    • [27]1937年5月に個人企業の牧野商店を創業、1951年5月に株式会社牧野竪フライス製作所として設立、1961年4月に現商号へ変更。1964年の取引金融機関は三菱銀行・三菱信託銀行・日本開発銀行
    • [28]1937年5月に個人企業の牧野商店を創業、1951年5月に株式会社牧野竪フライス製作所として設立、1961年4月に現商号へ変更。1964年の取引金融機関は三菱銀行・三菱信託銀行・日本開発銀行
    • [29]1937年5月に個人企業の牧野商店を創業、1951年5月に株式会社牧野竪フライス製作所として設立、1961年4月に現商号へ変更。1964年の取引金融機関は三菱銀行・三菱信託銀行・日本開発銀行
    • [30]1937年5月に個人企業の牧野商店を創業、1951年5月に株式会社牧野竪フライス製作所として設立、1961年4月に現商号へ変更。1964年の取引金融機関は三菱銀行・三菱信託銀行・日本開発銀行

立フライス盤に次ぐ機種の製品化は1956年7月で、精密小型万能工具研削盤の試作と企業化に成功した。立フライス盤と同じく、小型で精密な機械という創業以来の路線に沿う機種である。1964年3月期の売上高1,198百万円のうち、万能工具研削盤は17.7%を占めた。同期の構成比は治具中ぐり盤36.6%、立フライス盤23.2%、ならい・形彫盤19.3%。1985年時点で万能工具研削盤を生産する国内メーカーは、ツガミと牧野フライス製作所の2社であった。フライス盤の刃物を研ぐ工具研削盤は需要先がフライス盤の利用者と重なり、既存の顧客に売れる2機種目として選ばれた可能性が高い。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「牧野フライス製作所」
    • [31]1956年7月に精密小型万能工具研削盤の試作ならびに企業化に成功
    • [32]1956年7月に精密小型万能工具研削盤の試作ならびに企業化に成功
  • 証券 16(9) 1964年
    • [33]1964年3月期売上高1,198百万円の構成は治具中ぐり盤36.6%、立フライス盤23.2%、ならい・形彫盤19.3%、三次元自動フライス盤1.1%、万能工具研削盤17.7%
    • [34]1964年3月期売上高1,198百万円の構成は治具中ぐり盤36.6%、立フライス盤23.2%、ならい・形彫盤19.3%、三次元自動フライス盤1.1%、万能工具研削盤17.7%
  • 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 依田竹史(常務取締役)
    • [35]1985年時点で万能工具研削盤を生産するのはツガミと牧野フライス製作所の2社

依田竹史氏が入社した1955年ごろ、会社は古い機械の修理・復元を主とし、新品の製造はわずかであった。依田竹史氏の1985年の講演によれば、当時の修理・復元は精度の高さで評判を得ていた。1955年12月、牧野竪フライス製作所は自動サイクル高速立フライス盤の試作に成功した。1958年2月には、テープで指令を与える数値制御立フライス盤を国内で初めて完成させた。牧野常造氏は1984年の対談で、この数値制御の開発を富士通の稲葉清右衛門氏に持ち掛け、2年で完成させたと振り返った。リビルトで磨いた精度と一番立フライス盤の改良の積み重ねが、数値制御への移行の土台になったと読める。

  • 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 依田竹史(常務取締役)
    • [36]1955年ごろは新品もわずかに作っていたが古い機械の修理・復元が主でリビルト・メーカーと称し、精度の高さで名声を博した
    • [37]1955年ごろは新品もわずかに作っていたが古い機械の修理・復元が主でリビルト・メーカーと称し、精度の高さで名声を博した
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「牧野フライス製作所」
    • [38]1955年12月に自動サイクル高速立フライス盤の試作に成功、1958年2月に国内初のテープコントロールによる数値制御立フライス盤を完成
    • [39]1955年12月に自動サイクル高速立フライス盤の試作に成功、1958年2月に国内初のテープコントロールによる数値制御立フライス盤を完成
  • 近代中小企業 19(6) 1984年 聞き手 由比正
    • [40]牧野常造はNC機を見本市に間に合わせるため富士通川崎工場の稲葉清右衛門に開発を持ち掛け、稲葉は2年でやり遂げた
参考文献[26]-[40]
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「牧野フライス製作所」
    • [26]1951年5月、資本金300万円で株式会社組織に改組(設立1951年5月1日)
    • [31]1956年7月に精密小型万能工具研削盤の試作ならびに企業化に成功
    • [32]1956年7月に精密小型万能工具研削盤の試作ならびに企業化に成功
    • [38]1955年12月に自動サイクル高速立フライス盤の試作に成功、1958年2月に国内初のテープコントロールによる数値制御立フライス盤を完成
    • [39]1955年12月に自動サイクル高速立フライス盤の試作に成功、1958年2月に国内初のテープコントロールによる数値制御立フライス盤を完成
  • 証券 16(9) 1964年
    • [27]1937年5月に個人企業の牧野商店を創業、1951年5月に株式会社牧野竪フライス製作所として設立、1961年4月に現商号へ変更。1964年の取引金融機関は三菱銀行・三菱信託銀行・日本開発銀行
    • [28]1937年5月に個人企業の牧野商店を創業、1951年5月に株式会社牧野竪フライス製作所として設立、1961年4月に現商号へ変更。1964年の取引金融機関は三菱銀行・三菱信託銀行・日本開発銀行
    • [29]1937年5月に個人企業の牧野商店を創業、1951年5月に株式会社牧野竪フライス製作所として設立、1961年4月に現商号へ変更。1964年の取引金融機関は三菱銀行・三菱信託銀行・日本開発銀行
    • [30]1937年5月に個人企業の牧野商店を創業、1951年5月に株式会社牧野竪フライス製作所として設立、1961年4月に現商号へ変更。1964年の取引金融機関は三菱銀行・三菱信託銀行・日本開発銀行
    • [33]1964年3月期売上高1,198百万円の構成は治具中ぐり盤36.6%、立フライス盤23.2%、ならい・形彫盤19.3%、三次元自動フライス盤1.1%、万能工具研削盤17.7%
    • [34]1964年3月期売上高1,198百万円の構成は治具中ぐり盤36.6%、立フライス盤23.2%、ならい・形彫盤19.3%、三次元自動フライス盤1.1%、万能工具研削盤17.7%
  • 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 依田竹史(常務取締役)
    • [35]1985年時点で万能工具研削盤を生産するのはツガミと牧野フライス製作所の2社
    • [36]1955年ごろは新品もわずかに作っていたが古い機械の修理・復元が主でリビルト・メーカーと称し、精度の高さで名声を博した
    • [37]1955年ごろは新品もわずかに作っていたが古い機械の修理・復元が主でリビルト・メーカーと称し、精度の高さで名声を博した
  • 近代中小企業 19(6) 1984年 聞き手 由比正
    • [40]牧野常造はNC機を見本市に間に合わせるため富士通川崎工場の稲葉清右衛門に開発を持ち掛け、稲葉は2年でやり遂げた

出典・参考

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出典・参考
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「牧野フライス製作所」
  • 証券アナリストジャーナル 23(4) 1985年 依田竹史(常務取締役)
  • 証券 16(9) 1964年
  • 近代中小企業 19(6) 1984年 聞き手 由比正

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