ノーリツ:能率風呂工業の設立とノーリツへの商号変更
1951年〜発明者から特許を譲り受けた能率風呂工業と、自前の改良に向けた研究所
能率風呂工業は1951年3月に資本金53万円で設立され、本店を神戸市生田区(現中央区)に置いた。太田敏郎氏は設立時に取締役となり、発明者から譲り受けた風呂釜の特許権を看板にして設立資金を調達した。太田敏郎氏はそれ以前、明石の発明者と2人で風呂釜の施工販売を始めていた。この事業は発明者の金銭管理の甘さに淡路島の旅館との取引の失敗が重なり、1年で倒産した。扱う製品は1品だけで、鋳鉄の皿を底板にしてタイルで浴槽を築く五右衛門風呂の改良型で、燃料を選ばず湯がさめにくい点を特長とする。倒産の原因を釜の性能ではなく販売方法と資金管理に見たからこそ、太田敏郎氏は同じ釜で再起したと考えられる。
- ノーリツ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1951年3月 資本金530千円で能率風呂工業を設立、本店は神戸市生田区
- 技術と経済 (356) 1996年10月「ノーリツの創業と企業理念--私のお風呂人生」(太田敏郎)
- [2]発明者の会社は金銭感覚の乏しさと淡路島の旅館の件で1年で倒産。太田敏郎は風呂釜の良さを確信し特許権を譲り受けて資金を集め会社を設立、設立時は取締役
- [3]発明者の会社は金銭感覚の乏しさと淡路島の旅館の件で1年で倒産。太田敏郎は風呂釜の良さを確信し特許権を譲り受けて資金を集め会社を設立、設立時は取締役
- [4]発明者の会社は金銭感覚の乏しさと淡路島の旅館の件で1年で倒産。太田敏郎は風呂釜の良さを確信し特許権を譲り受けて資金を集め会社を設立、設立時は取締役
- 発明 83(2) 1986年2月「わが社の技術開発 豊かさ・温かさ・やさしさのひろがりをもとめて」(ノーリツ)
- [5]能率風呂は鋳鉄製の皿を底板にタイルの浴槽を築く方式で、燃料を問わず湯の温度が上下一様でさめにくい
能率風呂工業は家庭ごとに1台ずつ注文を取る方式を改め、各地の建材店を代理店に起用して釜を卸した。発足時の従業員は太田敏郎氏を含む5名で、太田敏郎氏が西日本、もう1人が東日本の営業を受け持った。原価2,000円ほどの鋳物釜の、代理店への卸値は1台7,500円。左官屋にとっては工事費込みで2万5,000円の仕事にあたる。現場では見本の風呂を工務店のトラックに載せ、旗を掲げて実演販売した。代金の受け取りは為替手形とし、注文取りと集金で全国を2度回る手間を省いた。1955年には東京・神田に出張所を開設した。施工業者に厚い利幅を残す価格で、相手のほうから進んで販売する動機を作ったのだろう。
- 技術と経済 (356) 1996年10月「ノーリツの創業と企業理念--私のお風呂人生」(太田敏郎)
- [6]前の会社の反省から1本ずつ家庭の注文を取らず全国の建材店を代理店にした。従業員5名で太田敏郎が西日本、相棒が東日本を担当。原価約2000円の釜を代理店に7500円で卸し、代理店は2万5000円で販売。為替手形を採用
- [7]前の会社の反省から1本ずつ家庭の注文を取らず全国の建材店を代理店にした。従業員5名で太田敏郎が西日本、相棒が東日本を担当。原価約2000円の釜を代理店に7500円で卸し、代理店は2万5000円で販売。為替手形を採用
- [8]前の会社の反省から1本ずつ家庭の注文を取らず全国の建材店を代理店にした。従業員5名で太田敏郎が西日本、相棒が東日本を担当。原価約2000円の釜を代理店に7500円で卸し、代理店は2万5000円で販売。為替手形を採用
- [11]前の会社の反省から1本ずつ家庭の注文を取らず全国の建材店を代理店にした。従業員5名で太田敏郎が西日本、相棒が東日本を担当。原価約2000円の釜を代理店に7500円で卸し、代理店は2万5000円で販売。為替手形を採用
- 日経ビジネス 1988年1月4日号
- [9]工務店の車の荷台に見本の風呂を据えのぼりを立てて販売。左官屋は工事費込みで2万5000円の仕事になった
- [10]工務店の車の荷台に見本の風呂を据えのぼりを立てて販売。左官屋は工事費込みで2万5000円の仕事になった
- 発明 83(2) 1986年2月「わが社の技術開発 豊かさ・温かさ・やさしさのひろがりをもとめて」(ノーリツ)
- [12]昭和30年 東京の神田に出張所を開設
能率風呂工業は設立5年後の1956年4月、神戸市須磨区に技術研究所を開設した。拠点は国鉄鷹取駅に近い兵庫県工業奨励館の一室を借りたもので、技術者は当初1名、全社員は25名だった。営業部門しか持たない会社が研究所を設けたのは、発明者の特許に依存できるのは最初の製品までで、次は自社で開発すると決めたためである。研究は能率風呂の改良から始め、室内で薪や石炭を燃やせないため屋外に小屋を建てて実験した。1986年の同社の記事は、東京大学工学部で航空発動機を研究した東京大学名誉教授の富塚清氏を初代所長に挙げている。1958年には須磨区の住宅地に土地を得て、自前の研究所を新築して移った。
- ノーリツ 有価証券報告書【沿革】
- [13]1956年4月 技術研究所を神戸市須磨区に開設
- 発明 83(2) 1986年2月「わが社の技術開発 豊かさ・温かさ・やさしさのひろがりをもとめて」(ノーリツ)
- [14]営業部門だけの会社が、これからは自分のことは自分でと研究所を作った。県の工業奨励館の一室を借り技術者1名(全社員25名)で能率風呂の改良から開始。初代所長は東大名誉教授富塚清。昭和33年に須磨区に新築移転
- [15]営業部門だけの会社が、これからは自分のことは自分でと研究所を作った。県の工業奨励館の一室を借り技術者1名(全社員25名)で能率風呂の改良から開始。初代所長は東大名誉教授富塚清。昭和33年に須磨区に新築移転
- [16]営業部門だけの会社が、これからは自分のことは自分でと研究所を作った。県の工業奨励館の一室を借り技術者1名(全社員25名)で能率風呂の改良から開始。初代所長は東大名誉教授富塚清。昭和33年に須磨区に新築移転
- [17]営業部門だけの会社が、これからは自分のことは自分でと研究所を作った。県の工業奨励館の一室を借り技術者1名(全社員25名)で能率風呂の改良から開始。初代所長は東大名誉教授富塚清。昭和33年に須磨区に新築移転
- [18]営業部門だけの会社が、これからは自分のことは自分でと研究所を作った。県の工業奨励館の一室を借り技術者1名(全社員25名)で能率風呂の改良から開始。初代所長は東大名誉教授富塚清。昭和33年に須磨区に新築移転
参考文献[1]-[18]
- ノーリツ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1951年3月 資本金530千円で能率風呂工業を設立、本店は神戸市生田区
- [13]1956年4月 技術研究所を神戸市須磨区に開設
- 技術と経済 (356) 1996年10月「ノーリツの創業と企業理念--私のお風呂人生」(太田敏郎)
- [2]発明者の会社は金銭感覚の乏しさと淡路島の旅館の件で1年で倒産。太田敏郎は風呂釜の良さを確信し特許権を譲り受けて資金を集め会社を設立、設立時は取締役
- [3]発明者の会社は金銭感覚の乏しさと淡路島の旅館の件で1年で倒産。太田敏郎は風呂釜の良さを確信し特許権を譲り受けて資金を集め会社を設立、設立時は取締役
- [4]発明者の会社は金銭感覚の乏しさと淡路島の旅館の件で1年で倒産。太田敏郎は風呂釜の良さを確信し特許権を譲り受けて資金を集め会社を設立、設立時は取締役
- [6]前の会社の反省から1本ずつ家庭の注文を取らず全国の建材店を代理店にした。従業員5名で太田敏郎が西日本、相棒が東日本を担当。原価約2000円の釜を代理店に7500円で卸し、代理店は2万5000円で販売。為替手形を採用
- [7]前の会社の反省から1本ずつ家庭の注文を取らず全国の建材店を代理店にした。従業員5名で太田敏郎が西日本、相棒が東日本を担当。原価約2000円の釜を代理店に7500円で卸し、代理店は2万5000円で販売。為替手形を採用
- [8]前の会社の反省から1本ずつ家庭の注文を取らず全国の建材店を代理店にした。従業員5名で太田敏郎が西日本、相棒が東日本を担当。原価約2000円の釜を代理店に7500円で卸し、代理店は2万5000円で販売。為替手形を採用
- [11]前の会社の反省から1本ずつ家庭の注文を取らず全国の建材店を代理店にした。従業員5名で太田敏郎が西日本、相棒が東日本を担当。原価約2000円の釜を代理店に7500円で卸し、代理店は2万5000円で販売。為替手形を採用
- 発明 83(2) 1986年2月「わが社の技術開発 豊かさ・温かさ・やさしさのひろがりをもとめて」(ノーリツ)
- [5]能率風呂は鋳鉄製の皿を底板にタイルの浴槽を築く方式で、燃料を問わず湯の温度が上下一様でさめにくい
- [12]昭和30年 東京の神田に出張所を開設
- [14]営業部門だけの会社が、これからは自分のことは自分でと研究所を作った。県の工業奨励館の一室を借り技術者1名(全社員25名)で能率風呂の改良から開始。初代所長は東大名誉教授富塚清。昭和33年に須磨区に新築移転
- [15]営業部門だけの会社が、これからは自分のことは自分でと研究所を作った。県の工業奨励館の一室を借り技術者1名(全社員25名)で能率風呂の改良から開始。初代所長は東大名誉教授富塚清。昭和33年に須磨区に新築移転
- [16]営業部門だけの会社が、これからは自分のことは自分でと研究所を作った。県の工業奨励館の一室を借り技術者1名(全社員25名)で能率風呂の改良から開始。初代所長は東大名誉教授富塚清。昭和33年に須磨区に新築移転
- [17]営業部門だけの会社が、これからは自分のことは自分でと研究所を作った。県の工業奨励館の一室を借り技術者1名(全社員25名)で能率風呂の改良から開始。初代所長は東大名誉教授富塚清。昭和33年に須磨区に新築移転
- [18]営業部門だけの会社が、これからは自分のことは自分でと研究所を作った。県の工業奨励館の一室を借り技術者1名(全社員25名)で能率風呂の改良から開始。初代所長は東大名誉教授富塚清。昭和33年に須磨区に新築移転
- 日経ビジネス 1988年1月4日号
- [9]工務店の車の荷台に見本の風呂を据えのぼりを立てて販売。左官屋は工事費込みで2万5000円の仕事になった
- [10]工務店の車の荷台に見本の風呂を据えのぼりを立てて販売。左官屋は工事費込みで2万5000円の仕事になった
1960年〜B29のラジエーターに倣った業界初のアルミ製ガス風呂釜と、明石工場の一貫生産
能率風呂工業は1961年、業界初の総アルミ製ガス風呂釜GS型を発売した。当時は家庭の燃料が薪・石炭からガスへ移り、ガス会社は銅板製の釜をほぼ無償で提供してガス風呂への切り替えを促していた。太田敏郎氏はガス釜へ転じなければ会社が潰れると判断したものの、研究員は3名ほどで独力の開発は難しかった。そこで能率風呂の愛用者だった富塚清氏に助言を求め、米軍のB29爆撃機に積まれたエンジン用ラジエーターに倣う案を得た。背景には、手加工の銅板釜に対抗するには構造から異なる製品が必要だという判断がある。アルミの一体鋳物は当時の国内技術では作れず、鋳物業者と共同で低圧鋳造法を開発して量産にこぎつけた。
- 発明 83(2) 1986年2月「わが社の技術開発 豊かさ・温かさ・やさしさのひろがりをもとめて」(ノーリツ)
- [19]昭和36年 総アルミ製のガス風呂釜GS型を開発・発売
- 技術と経済 (356) 1996年10月「ノーリツの創業と企業理念--私のお風呂人生」(太田敏郎)
- [20]燃料が薪・石炭からガスへ替わり、ガス会社はガス風呂を無償提供。研究員3名程度で、ガス釜に替わらなければ潰れると判断。銅板製に対抗するには変わった品物が必要。鋳物屋と共同で低圧鋳造法を考案
- [21]燃料が薪・石炭からガスへ替わり、ガス会社はガス風呂を無償提供。研究員3名程度で、ガス釜に替わらなければ潰れると判断。銅板製に対抗するには変わった品物が必要。鋳物屋と共同で低圧鋳造法を考案
- [23]燃料が薪・石炭からガスへ替わり、ガス会社はガス風呂を無償提供。研究員3名程度で、ガス釜に替わらなければ潰れると判断。銅板製に対抗するには変わった品物が必要。鋳物屋と共同で低圧鋳造法を考案
- [24]燃料が薪・石炭からガスへ替わり、ガス会社はガス風呂を無償提供。研究員3名程度で、ガス釜に替わらなければ潰れると判断。銅板製に対抗するには変わった品物が必要。鋳物屋と共同で低圧鋳造法を考案
- 証券アナリストジャーナル 22(10) 1984年(太田敏郎)
- [22]能率風呂の愛用者の東大名誉教授富塚清からB29のラジエーターの構造を取り入れる助言を受け、アルミ製ガス風呂釜を開発
完成したアルミ製の釜は、最初はガス会社の認可を得られなかった。ガスの燃焼で生じる水は酸性を帯び、アルミのヒーターには必ず穴が開くという理由である。戦時中に梅干しでアルミの弁当箱に穴が開いた経験が広く共有され、アルミの強度を疑う見方も根強かった。富塚清氏は純アルミの耐食性が銅を上回るとみて、1年をかけて耐久試験のデータを積み上げた。能率風呂工業はこの実証データを示してガス会社と官庁を説得し、アルミの耐食性を認めさせた。九州のガス会社の認可を皮切りに各地のガス会社も認定し、ガス釜の材質は銅からアルミへ置き換わった。この経験を受けて、太田敏郎氏は他社より先に新製品を出すため研究陣を強化した。
- 技術と経済 (356) 1996年10月「ノーリツの創業と企業理念--私のお風呂人生」(太田敏郎)
- [25]ガス会社はガスの生成水が酸性でアルミは穴が開くと認可せず。富塚清は純アルミは銅より耐蝕性があるとして1年がかりで耐久テスト。九州のガス会社が最初に認可し全国のガス会社も認定。以後研究陣を強化
- [26]ガス会社はガスの生成水が酸性でアルミは穴が開くと認可せず。富塚清は純アルミは銅より耐蝕性があるとして1年がかりで耐久テスト。九州のガス会社が最初に認可し全国のガス会社も認定。以後研究陣を強化
- [28]ガス会社はガスの生成水が酸性でアルミは穴が開くと認可せず。富塚清は純アルミは銅より耐蝕性があるとして1年がかりで耐久テスト。九州のガス会社が最初に認可し全国のガス会社も認定。以後研究陣を強化
- [30]ガス会社はガスの生成水が酸性でアルミは穴が開くと認可せず。富塚清は純アルミは銅より耐蝕性があるとして1年がかりで耐久テスト。九州のガス会社が最初に認可し全国のガス会社も認定。以後研究陣を強化
- [31]ガス会社はガスの生成水が酸性でアルミは穴が開くと認可せず。富塚清は純アルミは銅より耐蝕性があるとして1年がかりで耐久テスト。九州のガス会社が最初に認可し全国のガス会社も認定。以後研究陣を強化
- 証券アナリストジャーナル 22(10) 1984年(太田敏郎)
- [27]アルミの弁当箱が梅干で穴があいたことからアルミは弱いという先入感。実験・実証のデータでガス会社や官庁を説得し耐蝕性を認めさせた
- [29]アルミの弁当箱が梅干で穴があいたことからアルミは弱いという先入感。実験・実証のデータでガス会社や官庁を説得し耐蝕性を認めさせた
能率風呂工業は1962年12月、兵庫県明石市に明石工場を新設した。この工場の建設で、ガス風呂釜の製造から販売までを一貫して手がける体制が整った。GS型は金型鋳物3個を並列に配し、プレス加工の外装で包む設計。工場で仕上げた部品を現場の手直しなしで組み立てる量産方式は、風呂釜ではこれが最初の例にあたる。生産は当初、明石市西部のかつて醤油工場だった倉庫を借りた組立作業場で始めた。1961年には温水ボイラに参入し、関連会社の大成工業を設立した。1963年には石油給湯器の製造・販売を始めた。量産に向く構造の製品を得て、能率風呂工業は販売会社から製造会社へ転じたと推測される。
- ノーリツ 有価証券報告書【沿革】
- [32]1962年12月 明石工場を兵庫県明石市に新設
- 証券 37(9) 1985年(新規上場会社紹介)
- [33]昭和37年に明石工場を建設し一貫生産体制を整え本格的な製造・販売を開始。昭和38年に石油給湯器の製造・販売を開始
- [38]昭和37年に明石工場を建設し一貫生産体制を整え本格的な製造・販売を開始。昭和38年に石油給湯器の製造・販売を開始
- 発明 83(2) 1986年2月「わが社の技術開発 豊かさ・温かさ・やさしさのひろがりをもとめて」(ノーリツ)
- [34]GS型は金型鋳物3個を並列に組みプレスの外装で包む設計で、手直しなしで組み立てる大量生産の原則が風呂釜に初めて導入された。工場は明石市西部の元醤油工場の空き倉庫から始めた。昭和36年温水ボイラに進出し関連会社大成工業を設立
- [35]GS型は金型鋳物3個を並列に組みプレスの外装で包む設計で、手直しなしで組み立てる大量生産の原則が風呂釜に初めて導入された。工場は明石市西部の元醤油工場の空き倉庫から始めた。昭和36年温水ボイラに進出し関連会社大成工業を設立
- [36]GS型は金型鋳物3個を並列に組みプレスの外装で包む設計で、手直しなしで組み立てる大量生産の原則が風呂釜に初めて導入された。工場は明石市西部の元醤油工場の空き倉庫から始めた。昭和36年温水ボイラに進出し関連会社大成工業を設立
- [37]GS型は金型鋳物3個を並列に組みプレスの外装で包む設計で、手直しなしで組み立てる大量生産の原則が風呂釜に初めて導入された。工場は明石市西部の元醤油工場の空き倉庫から始めた。昭和36年温水ボイラに進出し関連会社大成工業を設立
参考文献[19]-[38]
- 発明 83(2) 1986年2月「わが社の技術開発 豊かさ・温かさ・やさしさのひろがりをもとめて」(ノーリツ)
- [19]昭和36年 総アルミ製のガス風呂釜GS型を開発・発売
- [34]GS型は金型鋳物3個を並列に組みプレスの外装で包む設計で、手直しなしで組み立てる大量生産の原則が風呂釜に初めて導入された。工場は明石市西部の元醤油工場の空き倉庫から始めた。昭和36年温水ボイラに進出し関連会社大成工業を設立
- [35]GS型は金型鋳物3個を並列に組みプレスの外装で包む設計で、手直しなしで組み立てる大量生産の原則が風呂釜に初めて導入された。工場は明石市西部の元醤油工場の空き倉庫から始めた。昭和36年温水ボイラに進出し関連会社大成工業を設立
- [36]GS型は金型鋳物3個を並列に組みプレスの外装で包む設計で、手直しなしで組み立てる大量生産の原則が風呂釜に初めて導入された。工場は明石市西部の元醤油工場の空き倉庫から始めた。昭和36年温水ボイラに進出し関連会社大成工業を設立
- [37]GS型は金型鋳物3個を並列に組みプレスの外装で包む設計で、手直しなしで組み立てる大量生産の原則が風呂釜に初めて導入された。工場は明石市西部の元醤油工場の空き倉庫から始めた。昭和36年温水ボイラに進出し関連会社大成工業を設立
- 技術と経済 (356) 1996年10月「ノーリツの創業と企業理念--私のお風呂人生」(太田敏郎)
- [20]燃料が薪・石炭からガスへ替わり、ガス会社はガス風呂を無償提供。研究員3名程度で、ガス釜に替わらなければ潰れると判断。銅板製に対抗するには変わった品物が必要。鋳物屋と共同で低圧鋳造法を考案
- [21]燃料が薪・石炭からガスへ替わり、ガス会社はガス風呂を無償提供。研究員3名程度で、ガス釜に替わらなければ潰れると判断。銅板製に対抗するには変わった品物が必要。鋳物屋と共同で低圧鋳造法を考案
- [23]燃料が薪・石炭からガスへ替わり、ガス会社はガス風呂を無償提供。研究員3名程度で、ガス釜に替わらなければ潰れると判断。銅板製に対抗するには変わった品物が必要。鋳物屋と共同で低圧鋳造法を考案
- [24]燃料が薪・石炭からガスへ替わり、ガス会社はガス風呂を無償提供。研究員3名程度で、ガス釜に替わらなければ潰れると判断。銅板製に対抗するには変わった品物が必要。鋳物屋と共同で低圧鋳造法を考案
- [25]ガス会社はガスの生成水が酸性でアルミは穴が開くと認可せず。富塚清は純アルミは銅より耐蝕性があるとして1年がかりで耐久テスト。九州のガス会社が最初に認可し全国のガス会社も認定。以後研究陣を強化
- [26]ガス会社はガスの生成水が酸性でアルミは穴が開くと認可せず。富塚清は純アルミは銅より耐蝕性があるとして1年がかりで耐久テスト。九州のガス会社が最初に認可し全国のガス会社も認定。以後研究陣を強化
- [28]ガス会社はガスの生成水が酸性でアルミは穴が開くと認可せず。富塚清は純アルミは銅より耐蝕性があるとして1年がかりで耐久テスト。九州のガス会社が最初に認可し全国のガス会社も認定。以後研究陣を強化
- [30]ガス会社はガスの生成水が酸性でアルミは穴が開くと認可せず。富塚清は純アルミは銅より耐蝕性があるとして1年がかりで耐久テスト。九州のガス会社が最初に認可し全国のガス会社も認定。以後研究陣を強化
- [31]ガス会社はガスの生成水が酸性でアルミは穴が開くと認可せず。富塚清は純アルミは銅より耐蝕性があるとして1年がかりで耐久テスト。九州のガス会社が最初に認可し全国のガス会社も認定。以後研究陣を強化
- 証券アナリストジャーナル 22(10) 1984年(太田敏郎)
- [22]能率風呂の愛用者の東大名誉教授富塚清からB29のラジエーターの構造を取り入れる助言を受け、アルミ製ガス風呂釜を開発
- [27]アルミの弁当箱が梅干で穴があいたことからアルミは弱いという先入感。実験・実証のデータでガス会社や官庁を説得し耐蝕性を認めさせた
- [29]アルミの弁当箱が梅干で穴があいたことからアルミは弱いという先入感。実験・実証のデータでガス会社や官庁を説得し耐蝕性を認めさせた
- ノーリツ 有価証券報告書【沿革】
- [32]1962年12月 明石工場を兵庫県明石市に新設
- 証券 37(9) 1985年(新規上場会社紹介)
- [33]昭和37年に明石工場を建設し一貫生産体制を整え本格的な製造・販売を開始。昭和38年に石油給湯器の製造・販売を開始
- [38]昭和37年に明石工場を建設し一貫生産体制を整え本格的な製造・販売を開始。昭和38年に石油給湯器の製造・販売を開始
1965年〜大手電機の参入に専業で構えた能率風呂工業、「ノーリツ」への商号変更と近畿・東京のサービス会社2社
1965年前後から、ガス釜の採算の良さに着目した大手電機メーカーを含む企業がガス風呂釜に新たに参入した。風呂釜は工場で量産できる工業製品となり、一流の工業会社の参入を招いた。取締役の太田敏郎氏は、自社がつぶされかねないという危機感を抱いた。能率風呂工業は専業メーカーでなければ作れない製品で対抗すると決め、技術研究所を強化した。1965年、全自動温水ボイラのノーリツオートOMF型を開発。1966年に太田敏郎氏は常務取締役に就任した。開発の成果は、空だきを防ぐ装置の付いた釜や、浴室内から点火と消火を確かめられる装置として現れた。量産品の価格競争では資本力の差がそのまま競争劣位になるため、機能を競争の焦点に据えたと思われる。
- 証券アナリストジャーナル 22(10) 1984年(太田敏郎)
- [39]昭和40年前後からガス釜はもうかると大手電機メーカーなどが新規参入し、つぶされるという危機感。専業メーカーでないとやれない製品の開発で対応し技術研究所を強化、ガス・カット付き製品や室内点消火・確認装置を開発
- [41]昭和40年前後からガス釜はもうかると大手電機メーカーなどが新規参入し、つぶされるという危機感。専業メーカーでないとやれない製品の開発で対応し技術研究所を強化、ガス・カット付き製品や室内点消火・確認装置を開発
- [42]昭和40年前後からガス釜はもうかると大手電機メーカーなどが新規参入し、つぶされるという危機感。専業メーカーでないとやれない製品の開発で対応し技術研究所を強化、ガス・カット付き製品や室内点消火・確認装置を開発
- [45]昭和40年前後からガス釜はもうかると大手電機メーカーなどが新規参入し、つぶされるという危機感。専業メーカーでないとやれない製品の開発で対応し技術研究所を強化、ガス・カット付き製品や室内点消火・確認装置を開発
- 発明 83(2) 1986年2月「わが社の技術開発 豊かさ・温かさ・やさしさのひろがりをもとめて」(ノーリツ)
- [40]ふろがまが近代工業生産の対象とわかると一流の工業会社が参入。昭和40年全自動温水ボイラ ノーリツオートOMF型を開発
- [43]ふろがまが近代工業生産の対象とわかると一流の工業会社が参入。昭和40年全自動温水ボイラ ノーリツオートOMF型を開発
- 技術と経済 (356) 1996年10月「ノーリツの創業と企業理念--私のお風呂人生」(太田敏郎)
- [44]太田敏郎 1966年常務取締役
能率風呂工業は1968年3月、社名を株式会社ノーリツへ改めた。同じ年、ガス風呂釜GS-2Aに空だき安全装置のガスカットを搭載し、新聞広告ではガスを止めて空だきを防ぐ機能を訴えた。太田敏郎氏は同年、専務取締役に就任した。創業から数年で、ノーリツの名は代理店網を通じて全国に知られていた。1969年には全国の主要都市に営業所を設け、販売網を整えた。1970年には浴室内から点火と消火ができるマジコンを開発した。1972年にはマンション向けに給排気管を備えたバランス風呂釜の製造・販売を始めた。商号の変更は、代理店の店頭で通っていた製品名に社名をそろえ、営業所網の全国展開に備えたものと推察される。
- ノーリツ 有価証券報告書【沿革】
- [46]1968年3月 商号を㈱ノーリツに変更
- 発明 83(2) 1986年2月「わが社の技術開発 豊かさ・温かさ・やさしさのひろがりをもとめて」(ノーリツ)
- [47]昭和43年 社名を株式会社ノーリツに変更、GS-2Aに空焚き安全装置ガスカットを装備、新聞広告で空焚防止をPR。昭和45年 浴室内から点火消火できるマジコンを開発
- [51]昭和43年 社名を株式会社ノーリツに変更、GS-2Aに空焚き安全装置ガスカットを装備、新聞広告で空焚防止をPR。昭和45年 浴室内から点火消火できるマジコンを開発
- 技術と経済 (356) 1996年10月「ノーリツの創業と企業理念--私のお風呂人生」(太田敏郎)
- [48]太田敏郎 1968年ノーリツ専務取締役。創業後数年で日本中でノーリツの名前が通り、代理店はノーリツ風呂を販売
- [49]太田敏郎 1968年ノーリツ専務取締役。創業後数年で日本中でノーリツの名前が通り、代理店はノーリツ風呂を販売
- 証券 37(9) 1985年(新規上場会社紹介)
- [50]昭和44年 全国主要都市に営業所を設置し販売網を整備。昭和47年にバランス風呂釜(マンション向け等の給排気管付風呂釜)の製造・販売を開始
- [52]昭和44年 全国主要都市に営業所を設置し販売網を整備。昭和47年にバランス風呂釜(マンション向け等の給排気管付風呂釜)の製造・販売を開始
ノーリツは1983年4月、大阪府吹田市に近畿ノーリツサービス、東京都杉並区に東京ノーリツサービスを設立した。2社を設けた目的は、販売後の修理と点検を担う体制の強化にある。その背景には1970年代後半以降に進めた製品の電子化があり、1978年には自動で火を消す仕組みを備えたガス風呂釜を発売した。1981年には電子制御で出湯を安定させる給湯器を出し、コントローラーを内製する玉津工場も新たに設けた。1982年には遠隔で追いだきできるガス給湯器を加えた。この間の1980年、太田敏郎氏は取締役副社長を経て代表取締役社長に就任した。電子部品を積んだ製品は修理に専門の技能を要し、代理店の保守だけでは応じきれなくなったとみられる。
- ノーリツ 有価証券報告書【沿革】
- [53]1983年4月 アフターサービス体制強化のため近畿ノーリツサービス(吹田市)と東京ノーリツサービス(杉並区)を設立
- [54]1983年4月 アフターサービス体制強化のため近畿ノーリツサービス(吹田市)と東京ノーリツサービス(杉並区)を設立
- 証券 37(9) 1985年(新規上場会社紹介)
- [55]昭和50年代に製品のエレクトロニクス化。昭和53年自動消火システム付ガス風呂釜、昭和56年電子制御の給湯器、昭和56年コントローラーを自社生産する玉津工場、昭和57年遠隔追焚機能付ガス給湯器。昭和58年サービス会社設立
- [56]昭和50年代に製品のエレクトロニクス化。昭和53年自動消火システム付ガス風呂釜、昭和56年電子制御の給湯器、昭和56年コントローラーを自社生産する玉津工場、昭和57年遠隔追焚機能付ガス給湯器。昭和58年サービス会社設立
- [57]昭和50年代に製品のエレクトロニクス化。昭和53年自動消火システム付ガス風呂釜、昭和56年電子制御の給湯器、昭和56年コントローラーを自社生産する玉津工場、昭和57年遠隔追焚機能付ガス給湯器。昭和58年サービス会社設立
- 技術と経済 (356) 1996年10月「ノーリツの創業と企業理念--私のお風呂人生」(太田敏郎)
- [58]太田敏郎 1980年取締役副社長、同年代表取締役社長
参考文献[39]-[58]
- 証券アナリストジャーナル 22(10) 1984年(太田敏郎)
- [39]昭和40年前後からガス釜はもうかると大手電機メーカーなどが新規参入し、つぶされるという危機感。専業メーカーでないとやれない製品の開発で対応し技術研究所を強化、ガス・カット付き製品や室内点消火・確認装置を開発
- [41]昭和40年前後からガス釜はもうかると大手電機メーカーなどが新規参入し、つぶされるという危機感。専業メーカーでないとやれない製品の開発で対応し技術研究所を強化、ガス・カット付き製品や室内点消火・確認装置を開発
- [42]昭和40年前後からガス釜はもうかると大手電機メーカーなどが新規参入し、つぶされるという危機感。専業メーカーでないとやれない製品の開発で対応し技術研究所を強化、ガス・カット付き製品や室内点消火・確認装置を開発
- [45]昭和40年前後からガス釜はもうかると大手電機メーカーなどが新規参入し、つぶされるという危機感。専業メーカーでないとやれない製品の開発で対応し技術研究所を強化、ガス・カット付き製品や室内点消火・確認装置を開発
- 発明 83(2) 1986年2月「わが社の技術開発 豊かさ・温かさ・やさしさのひろがりをもとめて」(ノーリツ)
- [40]ふろがまが近代工業生産の対象とわかると一流の工業会社が参入。昭和40年全自動温水ボイラ ノーリツオートOMF型を開発
- [43]ふろがまが近代工業生産の対象とわかると一流の工業会社が参入。昭和40年全自動温水ボイラ ノーリツオートOMF型を開発
- [47]昭和43年 社名を株式会社ノーリツに変更、GS-2Aに空焚き安全装置ガスカットを装備、新聞広告で空焚防止をPR。昭和45年 浴室内から点火消火できるマジコンを開発
- [51]昭和43年 社名を株式会社ノーリツに変更、GS-2Aに空焚き安全装置ガスカットを装備、新聞広告で空焚防止をPR。昭和45年 浴室内から点火消火できるマジコンを開発
- 技術と経済 (356) 1996年10月「ノーリツの創業と企業理念--私のお風呂人生」(太田敏郎)
- [44]太田敏郎 1966年常務取締役
- [48]太田敏郎 1968年ノーリツ専務取締役。創業後数年で日本中でノーリツの名前が通り、代理店はノーリツ風呂を販売
- [49]太田敏郎 1968年ノーリツ専務取締役。創業後数年で日本中でノーリツの名前が通り、代理店はノーリツ風呂を販売
- [58]太田敏郎 1980年取締役副社長、同年代表取締役社長
- ノーリツ 有価証券報告書【沿革】
- [46]1968年3月 商号を㈱ノーリツに変更
- [53]1983年4月 アフターサービス体制強化のため近畿ノーリツサービス(吹田市)と東京ノーリツサービス(杉並区)を設立
- [54]1983年4月 アフターサービス体制強化のため近畿ノーリツサービス(吹田市)と東京ノーリツサービス(杉並区)を設立
- 証券 37(9) 1985年(新規上場会社紹介)
- [50]昭和44年 全国主要都市に営業所を設置し販売網を整備。昭和47年にバランス風呂釜(マンション向け等の給排気管付風呂釜)の製造・販売を開始
- [52]昭和44年 全国主要都市に営業所を設置し販売網を整備。昭和47年にバランス風呂釜(マンション向け等の給排気管付風呂釜)の製造・販売を開始
- [55]昭和50年代に製品のエレクトロニクス化。昭和53年自動消火システム付ガス風呂釜、昭和56年電子制御の給湯器、昭和56年コントローラーを自社生産する玉津工場、昭和57年遠隔追焚機能付ガス給湯器。昭和58年サービス会社設立
- [56]昭和50年代に製品のエレクトロニクス化。昭和53年自動消火システム付ガス風呂釜、昭和56年電子制御の給湯器、昭和56年コントローラーを自社生産する玉津工場、昭和57年遠隔追焚機能付ガス給湯器。昭和58年サービス会社設立
- [57]昭和50年代に製品のエレクトロニクス化。昭和53年自動消火システム付ガス風呂釜、昭和56年電子制御の給湯器、昭和56年コントローラーを自社生産する玉津工場、昭和57年遠隔追焚機能付ガス給湯器。昭和58年サービス会社設立
出典・参考
6件
- ノーリツ 有価証券報告書【沿革】
- 証券アナリストジャーナル 22(10) 1984年(太田敏郎)
- 日経ビジネス 1988年1月4日号
- 証券 37(9) 1985年(新規上場会社紹介)
- 発明 83(2) 1986年2月「わが社の技術開発 豊かさ・温かさ・やさしさのひろがりをもとめて」(ノーリツ)
- 技術と経済 (356) 1996年10月「ノーリツの創業と企業理念--私のお風呂人生」(太田敏郎)