第1章 年〜年

文化シヤッター:日本文化鉄扉の設立と「ミニシャッター」の発売

1955年〜浅草に立てた資本金200万円の日本文化鉄扉と、姫路の兄弟会社

1955年4月、関本亘氏は東京・浅草に本社を置く日本文化鉄扉を資本金200万円で設立し、工場は板橋区志村に置いた。軽量シャッターを先に扱ったのは弟の東海亭氏で、1953年、姫路の金物店主として神戸のシャッターメーカーの播州地方での総発売元となった。巻き上げ式のシャッターは繰り戸と違って戸袋が要らず、店先を広く使える点が商店に売れると東海亭氏は見た。経営する鋸の製造会社が仕入先の倒産で連鎖倒産した兄の関本亘氏に、東海亭氏は施工と販売を勧めた。1954年、兄弟が市場に定めたのは、シャッターがまだ珍しかった東京。注文が増えて神戸のメーカーの生産では足りなくなり、関本亘氏は製造・販売・施工を自社で手がける体制に切り替えた。仕入れ販売から自社生産へ移ったのは、伸びる需要を他社の生産能力に縛られず取り込むためだったとみられる。

  • 文化シヤッター 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1955年4月 東京都台東区浅草に日本文化鉄扉を資本金2百万円で設立、板橋区志村に東京工場を設置
  • ポケット社史 1993年7月『文化シヤッター ひとにやさしい快適空間を育む』
    • [2]1953年 東海亭が姫路の金物店で神戸のメーカーの播州地方総発売元として軽量シャッター販売を開始。戸袋不要の利点に着眼
    • [3]1953年 東海亭が姫路の金物店で神戸のメーカーの播州地方総発売元として軽量シャッター販売を開始。戸袋不要の利点に着眼
    • [4]兄・関本亘の鋸メーカーが仕入先倒産で連鎖倒産し、東海が施工・販売を勧める。1954年に東京へ進出、注文増で神戸のメーカーの生産が追いつかず東京で一貫生産の会社を設立
    • [5]兄・関本亘の鋸メーカーが仕入先倒産で連鎖倒産し、東海が施工・販売を勧める。1954年に東京へ進出、注文増で神戸のメーカーの生産が追いつかず東京で一貫生産の会社を設立
    • [6]兄・関本亘の鋸メーカーが仕入先倒産で連鎖倒産し、東海が施工・販売を勧める。1954年に東京へ進出、注文増で神戸のメーカーの生産が追いつかず東京で一貫生産の会社を設立

1955年7月、東海亭氏は姫路に日本文化シヤッターを設立した。東京の日本文化鉄扉も同年8月に商号を日本文化シヤッターに改め、東西に同じ名の会社が並んだ。東は兄の関本亘氏、西は弟の東海亭氏が率い、両社は関東本社と関西本社と呼び分けられた。同じ1955年ごろから木造の建物が減り、燃えにくい鉄筋コンクリート造が増えて、軽量シャッターの需要が拡大した。大阪・神戸を中心にシャッターメーカーの設立も相次ぎ、競合が増えていた。1960年6月には、東の会社が本社を工場のある板橋区志村へ移転。東西で商号をそろえたのは、別会社のまま一つの名前で全国の顧客に売り込むためだったと推察される。

  • ポケット社史 1993年7月『文化シヤッター ひとにやさしい快適空間を育む』
    • [7]1955年7月 姫路に日本文化シヤッターを設立。東の関本亘・西の東海亭による関東本社・関西本社の兄弟企業。1955年ごろから不燃構造建築が増え軽量シャッター需要が拡大、関西を中心にメーカーが続々誕生
    • [9]1955年7月 姫路に日本文化シヤッターを設立。東の関本亘・西の東海亭による関東本社・関西本社の兄弟企業。1955年ごろから不燃構造建築が増え軽量シャッター需要が拡大、関西を中心にメーカーが続々誕生
    • [10]1955年7月 姫路に日本文化シヤッターを設立。東の関本亘・西の東海亭による関東本社・関西本社の兄弟企業。1955年ごろから不燃構造建築が増え軽量シャッター需要が拡大、関西を中心にメーカーが続々誕生
    • [11]1955年7月 姫路に日本文化シヤッターを設立。東の関本亘・西の東海亭による関東本社・関西本社の兄弟企業。1955年ごろから不燃構造建築が増え軽量シャッター需要が拡大、関西を中心にメーカーが続々誕生
  • 文化シヤッター 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1955年8月 商号を日本文化シヤッターに変更。1960年6月 本社を板橋区志村に移転
    • [12]1955年8月 商号を日本文化シヤッターに変更。1960年6月 本社を板橋区志村に移転
参考文献[1]-[12]
  • 文化シヤッター 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1955年4月 東京都台東区浅草に日本文化鉄扉を資本金2百万円で設立、板橋区志村に東京工場を設置
    • [8]1955年8月 商号を日本文化シヤッターに変更。1960年6月 本社を板橋区志村に移転
    • [12]1955年8月 商号を日本文化シヤッターに変更。1960年6月 本社を板橋区志村に移転
  • ポケット社史 1993年7月『文化シヤッター ひとにやさしい快適空間を育む』
    • [2]1953年 東海亭が姫路の金物店で神戸のメーカーの播州地方総発売元として軽量シャッター販売を開始。戸袋不要の利点に着眼
    • [3]1953年 東海亭が姫路の金物店で神戸のメーカーの播州地方総発売元として軽量シャッター販売を開始。戸袋不要の利点に着眼
    • [4]兄・関本亘の鋸メーカーが仕入先倒産で連鎖倒産し、東海が施工・販売を勧める。1954年に東京へ進出、注文増で神戸のメーカーの生産が追いつかず東京で一貫生産の会社を設立
    • [5]兄・関本亘の鋸メーカーが仕入先倒産で連鎖倒産し、東海が施工・販売を勧める。1954年に東京へ進出、注文増で神戸のメーカーの生産が追いつかず東京で一貫生産の会社を設立
    • [6]兄・関本亘の鋸メーカーが仕入先倒産で連鎖倒産し、東海が施工・販売を勧める。1954年に東京へ進出、注文増で神戸のメーカーの生産が追いつかず東京で一貫生産の会社を設立
    • [7]1955年7月 姫路に日本文化シヤッターを設立。東の関本亘・西の東海亭による関東本社・関西本社の兄弟企業。1955年ごろから不燃構造建築が増え軽量シャッター需要が拡大、関西を中心にメーカーが続々誕生
    • [9]1955年7月 姫路に日本文化シヤッターを設立。東の関本亘・西の東海亭による関東本社・関西本社の兄弟企業。1955年ごろから不燃構造建築が増え軽量シャッター需要が拡大、関西を中心にメーカーが続々誕生
    • [10]1955年7月 姫路に日本文化シヤッターを設立。東の関本亘・西の東海亭による関東本社・関西本社の兄弟企業。1955年ごろから不燃構造建築が増え軽量シャッター需要が拡大、関西を中心にメーカーが続々誕生
    • [11]1955年7月 姫路に日本文化シヤッターを設立。東の関本亘・西の東海亭による関東本社・関西本社の兄弟企業。1955年ごろから不燃構造建築が増え軽量シャッター需要が拡大、関西を中心にメーカーが続々誕生

1958年〜鋼製雨戸「テットー」で入った住宅建材と、業界初の窓シャッター

関本亘氏はシャッターも雨戸も防火と戸締りの商品だと捉え、鋼製雨戸「テットー」を業界で初めて商品化した。発売は社史では1958年7月とされる。有価証券報告書の沿革は発売開始を1959年4月と記す。当時の雨戸は木製か木枠にトタンを張ったものが一般的で、テットーは金属に替えて耐久性を高めた。下地には1958年に導入した自動車の車体と同じパーカーライジング法の防錆処理と、工場で塗装まで仕上げる工程があった。1961年には下戸車をやめ、上から吊るハンガーレール方式に改めて戸袋に一度で収まるようにした。1960年代半ばにプレハブ住宅の量産が始まると、プレハブメーカーからの大口受注が続いた。シャッターで磨いた防錆と塗装の技術を住宅の開口部に転用し、商店から住宅へ顧客層を広げたと思われる。

  • ポケット社史 1993年7月『文化シヤッター ひとにやさしい快適空間を育む』
    • [13]関本亘の号令で1958年7月に業界初の鋼製雨戸テットーを発売。木製・木枠トタン張りを金属製に。1958年にパーカーライジング法の防錆塗装工程を導入。1961年にハンガーレール方式へ。昭和30年代末のプレハブ量産でプレハブメーカーから大口受注
    • [14]関本亘の号令で1958年7月に業界初の鋼製雨戸テットーを発売。木製・木枠トタン張りを金属製に。1958年にパーカーライジング法の防錆塗装工程を導入。1961年にハンガーレール方式へ。昭和30年代末のプレハブ量産でプレハブメーカーから大口受注
    • [16]関本亘の号令で1958年7月に業界初の鋼製雨戸テットーを発売。木製・木枠トタン張りを金属製に。1958年にパーカーライジング法の防錆塗装工程を導入。1961年にハンガーレール方式へ。昭和30年代末のプレハブ量産でプレハブメーカーから大口受注
    • [17]関本亘の号令で1958年7月に業界初の鋼製雨戸テットーを発売。木製・木枠トタン張りを金属製に。1958年にパーカーライジング法の防錆塗装工程を導入。1961年にハンガーレール方式へ。昭和30年代末のプレハブ量産でプレハブメーカーから大口受注
    • [18]関本亘の号令で1958年7月に業界初の鋼製雨戸テットーを発売。木製・木枠トタン張りを金属製に。1958年にパーカーライジング法の防錆塗装工程を導入。1961年にハンガーレール方式へ。昭和30年代末のプレハブ量産でプレハブメーカーから大口受注
    • [19]関本亘の号令で1958年7月に業界初の鋼製雨戸テットーを発売。木製・木枠トタン張りを金属製に。1958年にパーカーライジング法の防錆塗装工程を導入。1961年にハンガーレール方式へ。昭和30年代末のプレハブ量産でプレハブメーカーから大口受注
  • 文化シヤッター 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1959年4月 鋼製雨戸「テットー」の発売開始

1968年4月、日本文化シヤッターは住宅用の「ミニシャッター」を発売した。業界初の窓シャッターで、発売時の名称は「ブラインド雨戸ミニ」である。着想は1965年、技術部長で常務取締役の岩部金吾氏が欧州に滞在した際、室内のハンドルで上下に開け閉めする窓を見て得たものだった。岩部金吾氏は帰国後に役員会へ案を出し、開発チームが立ち上がった。背景には年100万戸を超える新設住宅のうち、プレハブ住宅・建売住宅・マンションに合う新商品を急いだ事情があった。同じ1968年の7月には、小山市に小山工場を新設。雨戸の「テットー」で得たプレハブメーカーとの取引を、窓まわりの次の商品で厚くする狙いだったのだろう。

  • 文化シヤッター 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1968年4月 住宅用シャッター「ミニシャッター」の発売開始。1968年7月 小山市に小山工場を設置
    • [25]1968年4月 住宅用シャッター「ミニシャッター」の発売開始。1968年7月 小山市に小山工場を設置
  • ポケット社史 1993年7月『文化シヤッター ひとにやさしい快適空間を育む』
    • [21]1965年 技術部長(常務取締役)岩部金吾が欧州でハンドル操作の上下開閉窓を見て着想、役員会に提案し開発プロジェクト・チーム発足。1968年に業界初の窓シャッター「ブラインド雨戸ミニ」。年100万戸超の新規住宅でプレハブ・建売・マンション向け新商品が急務
    • [22]1965年 技術部長(常務取締役)岩部金吾が欧州でハンドル操作の上下開閉窓を見て着想、役員会に提案し開発プロジェクト・チーム発足。1968年に業界初の窓シャッター「ブラインド雨戸ミニ」。年100万戸超の新規住宅でプレハブ・建売・マンション向け新商品が急務
    • [23]1965年 技術部長(常務取締役)岩部金吾が欧州でハンドル操作の上下開閉窓を見て着想、役員会に提案し開発プロジェクト・チーム発足。1968年に業界初の窓シャッター「ブラインド雨戸ミニ」。年100万戸超の新規住宅でプレハブ・建売・マンション向け新商品が急務
    • [24]1965年 技術部長(常務取締役)岩部金吾が欧州でハンドル操作の上下開閉窓を見て着想、役員会に提案し開発プロジェクト・チーム発足。1968年に業界初の窓シャッター「ブラインド雨戸ミニ」。年100万戸超の新規住宅でプレハブ・建売・マンション向け新商品が急務

1969年6月5日、東の創業者である関本亘氏が急逝した。そのころ東西のトップは、二つの兄弟会社の合併に向けた協議を急いでいた。1960年代末のシャッター業界では競争が激しくなり、過当競争に近い状態になっていた。経営陣は資本の自由化で競争がさらに厳しくなると見込み、企業体質の強化を急いだ。東の会社は1964年に名古屋、1966年に秋田、1968年に小山と工場を相次いで設けていた。関本亘氏を失った後も合併の準備は続き、1970年3月に東西の対等合併が成り、商号を文化シヤッターに改めた。工場網を広げた東と姫路を地盤とする西を一つにまとめ、規模で競争に備える判断だったと考えられる。

  • ポケット社史 1993年7月『文化シヤッター ひとにやさしい快適空間を育む』
    • [26]1969年6月5日 関本亘が急逝。東西トップ間で合併の話し合いが進行中。昭和40年代半ばに競争激化・過当競争、資本自由化で企業体質強化が必要と判断。急逝後も合併準備は継続
    • [27]1969年6月5日 関本亘が急逝。東西トップ間で合併の話し合いが進行中。昭和40年代半ばに競争激化・過当競争、資本自由化で企業体質強化が必要と判断。急逝後も合併準備は継続
    • [28]1969年6月5日 関本亘が急逝。東西トップ間で合併の話し合いが進行中。昭和40年代半ばに競争激化・過当競争、資本自由化で企業体質強化が必要と判断。急逝後も合併準備は継続
    • [29]1969年6月5日 関本亘が急逝。東西トップ間で合併の話し合いが進行中。昭和40年代半ばに競争激化・過当競争、資本自由化で企業体質強化が必要と判断。急逝後も合併準備は継続
  • 文化シヤッター 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1964年7月名古屋工場、1966年4月秋田工場、1968年7月小山工場を設置。1970年3月 姫路の日本文化シヤッターと対等合併し商号を文化シヤッターに変更
    • [31]1964年7月名古屋工場、1966年4月秋田工場、1968年7月小山工場を設置。1970年3月 姫路の日本文化シヤッターと対等合併し商号を文化シヤッターに変更
参考文献[13]-[31]
  • ポケット社史 1993年7月『文化シヤッター ひとにやさしい快適空間を育む』
    • [13]関本亘の号令で1958年7月に業界初の鋼製雨戸テットーを発売。木製・木枠トタン張りを金属製に。1958年にパーカーライジング法の防錆塗装工程を導入。1961年にハンガーレール方式へ。昭和30年代末のプレハブ量産でプレハブメーカーから大口受注
    • [14]関本亘の号令で1958年7月に業界初の鋼製雨戸テットーを発売。木製・木枠トタン張りを金属製に。1958年にパーカーライジング法の防錆塗装工程を導入。1961年にハンガーレール方式へ。昭和30年代末のプレハブ量産でプレハブメーカーから大口受注
    • [16]関本亘の号令で1958年7月に業界初の鋼製雨戸テットーを発売。木製・木枠トタン張りを金属製に。1958年にパーカーライジング法の防錆塗装工程を導入。1961年にハンガーレール方式へ。昭和30年代末のプレハブ量産でプレハブメーカーから大口受注
    • [17]関本亘の号令で1958年7月に業界初の鋼製雨戸テットーを発売。木製・木枠トタン張りを金属製に。1958年にパーカーライジング法の防錆塗装工程を導入。1961年にハンガーレール方式へ。昭和30年代末のプレハブ量産でプレハブメーカーから大口受注
    • [18]関本亘の号令で1958年7月に業界初の鋼製雨戸テットーを発売。木製・木枠トタン張りを金属製に。1958年にパーカーライジング法の防錆塗装工程を導入。1961年にハンガーレール方式へ。昭和30年代末のプレハブ量産でプレハブメーカーから大口受注
    • [19]関本亘の号令で1958年7月に業界初の鋼製雨戸テットーを発売。木製・木枠トタン張りを金属製に。1958年にパーカーライジング法の防錆塗装工程を導入。1961年にハンガーレール方式へ。昭和30年代末のプレハブ量産でプレハブメーカーから大口受注
    • [21]1965年 技術部長(常務取締役)岩部金吾が欧州でハンドル操作の上下開閉窓を見て着想、役員会に提案し開発プロジェクト・チーム発足。1968年に業界初の窓シャッター「ブラインド雨戸ミニ」。年100万戸超の新規住宅でプレハブ・建売・マンション向け新商品が急務
    • [22]1965年 技術部長(常務取締役)岩部金吾が欧州でハンドル操作の上下開閉窓を見て着想、役員会に提案し開発プロジェクト・チーム発足。1968年に業界初の窓シャッター「ブラインド雨戸ミニ」。年100万戸超の新規住宅でプレハブ・建売・マンション向け新商品が急務
    • [23]1965年 技術部長(常務取締役)岩部金吾が欧州でハンドル操作の上下開閉窓を見て着想、役員会に提案し開発プロジェクト・チーム発足。1968年に業界初の窓シャッター「ブラインド雨戸ミニ」。年100万戸超の新規住宅でプレハブ・建売・マンション向け新商品が急務
    • [24]1965年 技術部長(常務取締役)岩部金吾が欧州でハンドル操作の上下開閉窓を見て着想、役員会に提案し開発プロジェクト・チーム発足。1968年に業界初の窓シャッター「ブラインド雨戸ミニ」。年100万戸超の新規住宅でプレハブ・建売・マンション向け新商品が急務
    • [26]1969年6月5日 関本亘が急逝。東西トップ間で合併の話し合いが進行中。昭和40年代半ばに競争激化・過当競争、資本自由化で企業体質強化が必要と判断。急逝後も合併準備は継続
    • [27]1969年6月5日 関本亘が急逝。東西トップ間で合併の話し合いが進行中。昭和40年代半ばに競争激化・過当競争、資本自由化で企業体質強化が必要と判断。急逝後も合併準備は継続
    • [28]1969年6月5日 関本亘が急逝。東西トップ間で合併の話し合いが進行中。昭和40年代半ばに競争激化・過当競争、資本自由化で企業体質強化が必要と判断。急逝後も合併準備は継続
    • [29]1969年6月5日 関本亘が急逝。東西トップ間で合併の話し合いが進行中。昭和40年代半ばに競争激化・過当競争、資本自由化で企業体質強化が必要と判断。急逝後も合併準備は継続
  • 文化シヤッター 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1959年4月 鋼製雨戸「テットー」の発売開始
    • [20]1968年4月 住宅用シャッター「ミニシャッター」の発売開始。1968年7月 小山市に小山工場を設置
    • [25]1968年4月 住宅用シャッター「ミニシャッター」の発売開始。1968年7月 小山市に小山工場を設置
    • [30]1964年7月名古屋工場、1966年4月秋田工場、1968年7月小山工場を設置。1970年3月 姫路の日本文化シヤッターと対等合併し商号を文化シヤッターに変更
    • [31]1964年7月名古屋工場、1966年4月秋田工場、1968年7月小山工場を設置。1970年3月 姫路の日本文化シヤッターと対等合併し商号を文化シヤッターに変更

出典・参考

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出典・参考
  • 文化シヤッター 有価証券報告書【沿革】
  • ポケット社史 1993年7月『文化シヤッター ひとにやさしい快適空間を育む』

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