日本鋼管:鶴見製鉄造船の合併と戦後の水江製鉄所の新設
京浜の壊滅から水江製鉄所の集中量産へ
1937年〜鶴見製鉄造船の合併と、京浜が受けた壊滅
1940年10月、日本鋼管は鶴見製鉄造船を吸収合併した。鶴見製鉄造船は、初代浅野総一郎氏が興した造船と船渠に、造船用鋼材の自給を目的とする製鉄所が合体してできた会社である。合併によって資本金は1億4335万円へ増え、製鉄に造船を加えた二本立ての構成が生まれた。鶴見製鉄造船を興した浅野総一郎氏は、創立の際に白石元治郎氏の出馬を後押しした岳父でもあった。鉄をつくる会社が、その鉄を使う船台まで自社に抱えたことになる。合併の2年前には、わが国で唯一のトーマス転炉工場が竣工している。日本鋼管が1938年に国内で初めて採ったこの製鋼法は、鉄くずを使わずに鋼をつくるもので、のちに純酸素転炉を導入する素地となった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
- [1]昭和15年10月に鶴見製鉄造船を合併した。同社は初代浅野総一郎により創設された造船・船渠と、造船用鋼材の自給を目的とした製鉄所とが合体した会社で、この合併により資本金は1億4335万円に増加し、製鉄・造船両部門による総合的多角経営の基盤が築かれた。昭和13年6月にはわが国唯一のトーマス転炉工場が竣工した
- [2]昭和15年10月に鶴見製鉄造船を合併した。同社は初代浅野総一郎により創設された造船・船渠と、造船用鋼材の自給を目的とした製鉄所とが合体した会社で、この合併により資本金は1億4335万円に増加し、製鉄・造船両部門による総合的多角経営の基盤が築かれた。昭和13年6月にはわが国唯一のトーマス転炉工場が竣工した
- [3]昭和15年10月に鶴見製鉄造船を合併した。同社は初代浅野総一郎により創設された造船・船渠と、造船用鋼材の自給を目的とした製鉄所とが合体した会社で、この合併により資本金は1億4335万円に増加し、製鉄・造船両部門による総合的多角経営の基盤が築かれた。昭和13年6月にはわが国唯一のトーマス転炉工場が竣工した
- [5]昭和15年10月に鶴見製鉄造船を合併した。同社は初代浅野総一郎により創設された造船・船渠と、造船用鋼材の自給を目的とした製鉄所とが合体した会社で、この合併により資本金は1億4335万円に増加し、製鉄・造船両部門による総合的多角経営の基盤が築かれた。昭和13年6月にはわが国唯一のトーマス転炉工場が竣工した
- 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第1編 創業時代
- [4]白石元治郎が多年恩顧を受けた岳父の浅野総一郎は、当初は経営の困難を理由に反対したが、白石の決意を聞いて会社創立への援助を約束した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本鋼管」
- [6]昭和13年に日本で初めてトーマス転炉を設けて鉄くずを使わない製鋼法を採用し、これがのちに純酸素転炉製鋼法を導入する素地となった
太平洋戦争に入ると、設備も販路も国家の側へ寄っていった。会社は中山鋼業の薄板工場を買収し、清水造船所を新設した。1943年から1945年にかけては華北と南方へ進出した。川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収で炉材部門も広げ、資本金は2億5700万円まで増えている。戦時の最高生産高は、高炉銑鉄60万5000トンで全国の15%を占めた。平炉・転炉鋼は95万2000トンで17%、圧延鋼材は68万4000トンで15%にあたる。新造船は6万7000総トン、艦艇は1万8000排水トンに達している。販売のほうは、統制機構へ吸い上げられていった。1937年に共同販売組合、翌年に日本鋼材連合会ができて鉄は切符制となり、問屋の機能は止まって、メーカーは増産に拍車をかけるだけでよくなった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
- [7]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- [8]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- [9]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- [10]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- [11]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- [12]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- [13]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- 槇田久生「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)
- [14]日華事変の始まった昭和12年に共同販売組合、13年に日本鋼材連合会ができて鉄は配給規制に基づく切符制が敷かれ、問屋の機能は止まり、メーカーは増産に拍車をかけるだけで売るための苦労はなくなった
- [15]日華事変の始まった昭和12年に共同販売組合、13年に日本鋼材連合会ができて鉄は配給規制に基づく切符制が敷かれ、問屋の機能は止まり、メーカーは増産に拍車をかけるだけで売るための苦労はなくなった
京浜への爆撃は、1942年4月18日の初の関東空襲から始まった。米軍の爆撃機はまず日本鋼管の工場へ爆弾を落としており、京浜地区が南からの進路に当たっていたためである。1945年8月の京浜空襲で工場は壊滅した。その年の末には製銑も製鋼も全部止まり、動いていたのは圧延だけであった。それも能力の4分の1ほどで、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいる。戦後の復興が鉄鋼メーカーのなかで最も遅れた最大の理由は、この空襲の被害であった。終戦時の全国の鉄鋼生産量は年産60万トンを切るところまで落ちており、そのなかでも日本鋼管の打撃はもっともひどかった。片付けをしながら復旧したため、元の形へ戻すまでに数年を要している。
- 槇田久生「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)
- [16]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
- [17]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
- [18]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
- [20]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
- [21]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
- [22]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
- [23]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本鋼管」
- [19]太平洋戦争の末期から敗戦にかけて生産はどん底に落ち込み、昭和20年末には製銑・製鋼も全部中止し、圧延だけを細々と続ける有様だった
参考文献[1]-[23]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
- [1]昭和15年10月に鶴見製鉄造船を合併した。同社は初代浅野総一郎により創設された造船・船渠と、造船用鋼材の自給を目的とした製鉄所とが合体した会社で、この合併により資本金は1億4335万円に増加し、製鉄・造船両部門による総合的多角経営の基盤が築かれた。昭和13年6月にはわが国唯一のトーマス転炉工場が竣工した
- [2]昭和15年10月に鶴見製鉄造船を合併した。同社は初代浅野総一郎により創設された造船・船渠と、造船用鋼材の自給を目的とした製鉄所とが合体した会社で、この合併により資本金は1億4335万円に増加し、製鉄・造船両部門による総合的多角経営の基盤が築かれた。昭和13年6月にはわが国唯一のトーマス転炉工場が竣工した
- [3]昭和15年10月に鶴見製鉄造船を合併した。同社は初代浅野総一郎により創設された造船・船渠と、造船用鋼材の自給を目的とした製鉄所とが合体した会社で、この合併により資本金は1億4335万円に増加し、製鉄・造船両部門による総合的多角経営の基盤が築かれた。昭和13年6月にはわが国唯一のトーマス転炉工場が竣工した
- [5]昭和15年10月に鶴見製鉄造船を合併した。同社は初代浅野総一郎により創設された造船・船渠と、造船用鋼材の自給を目的とした製鉄所とが合体した会社で、この合併により資本金は1億4335万円に増加し、製鉄・造船両部門による総合的多角経営の基盤が築かれた。昭和13年6月にはわが国唯一のトーマス転炉工場が竣工した
- [7]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- [8]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- [9]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- [10]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- [11]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- [12]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- [13]太平洋戦争中は中山鋼業薄板工場の買収、清水造船所の新設のほか、昭和18年から20年にかけて華北・南方へ進出し、川崎窯業の合併と鶴見窯業の買収により炉材部門を拡充して資本金2億5700万円となった。戦時最高生産高は高炉銑鉄60万5000トン(対全国比15%)、平転炉鋼95万2000トン(17%)、普通鋼圧延鋼材68万4000トン(15%)、新造船商船6万7000総トン(8.5%)、艦艇1万8000排水トン(8.9%)であった
- 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第1編 創業時代
- [4]白石元治郎が多年恩顧を受けた岳父の浅野総一郎は、当初は経営の困難を理由に反対したが、白石の決意を聞いて会社創立への援助を約束した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本鋼管」
- [6]昭和13年に日本で初めてトーマス転炉を設けて鉄くずを使わない製鋼法を採用し、これがのちに純酸素転炉製鋼法を導入する素地となった
- [19]太平洋戦争の末期から敗戦にかけて生産はどん底に落ち込み、昭和20年末には製銑・製鋼も全部中止し、圧延だけを細々と続ける有様だった
- 槇田久生「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)
- [14]日華事変の始まった昭和12年に共同販売組合、13年に日本鋼材連合会ができて鉄は配給規制に基づく切符制が敷かれ、問屋の機能は止まり、メーカーは増産に拍車をかけるだけで売るための苦労はなくなった
- [15]日華事変の始まった昭和12年に共同販売組合、13年に日本鋼材連合会ができて鉄は配給規制に基づく切符制が敷かれ、問屋の機能は止まり、メーカーは増産に拍車をかけるだけで売るための苦労はなくなった
- [16]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
- [17]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
- [18]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
- [20]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
- [21]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
- [22]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
- [23]昭和17年4月18日の初の関東大空襲で米軍の爆撃機が最初に日本鋼管の工場に爆弾を落とし、終戦の20年8月には京浜空襲でまたやられた。京浜地区は米軍機の南からの進路になっていた。戦後の復興で日本鋼管が鉄鋼メーカーの中で一番遅れたのは、これらの空襲でダメージを受けたことが最大の理由である。当時は高炉も平炉も全面休止、圧延だけがかろうじて4分の1ぐらい動いており、本来の圧延鋼材のほかにタライやバケツといった生活必需品までつくってしのいでいた
1947年〜集中排除を免れた一本建と、河田重氏が引き受けた戦後
壊れたのは設備だけではなく、経営の側も連続していなかった。終戦時の社長であった浅野良三氏は公職追放を予知して退き、後を継いだ渡辺政人氏も追放にかかった。急遽社長へ就いたのが河田重氏で、1947年のことである。河田氏は1918年7月に川崎工場へ入った技術者である。当時の工場は平炉3、4基と小さな製管工場2つほどで、駅から田の中の一本道を40分歩く場所にあった。占領下で問題だったのは、賠償工場に指定されるかどうかよりも、そもそも製鉄業がやっていけるかどうかであった。戦災による被害と見通しの立たなさから、1947年まで操業できたのは平炉と圧延鋼材の一部にとどまっている。
- 槇田久生「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)
- [24]終戦のときの社長は浅野良三で、公職追放を予知して退き渡辺政人があとを継いだが、その渡辺も公職追放となり、昭和22年に急遽河田重が社長に就任した。戦後まもなく賠償工場の指定という話もあったが、日本鋼管の工場はほぼ完全に破壊されており、それよりもこれから製鉄業がやっていけるかどうかが問題だった
- [25]終戦のときの社長は浅野良三で、公職追放を予知して退き渡辺政人があとを継いだが、その渡辺も公職追放となり、昭和22年に急遽河田重が社長に就任した。戦後まもなく賠償工場の指定という話もあったが、日本鋼管の工場はほぼ完全に破壊されており、それよりもこれから製鉄業がやっていけるかどうかが問題だった
- [26]終戦のときの社長は浅野良三で、公職追放を予知して退き渡辺政人があとを継いだが、その渡辺も公職追放となり、昭和22年に急遽河田重が社長に就任した。戦後まもなく賠償工場の指定という話もあったが、日本鋼管の工場はほぼ完全に破壊されており、それよりもこれから製鉄業がやっていけるかどうかが問題だった
- [29]終戦のときの社長は浅野良三で、公職追放を予知して退き渡辺政人があとを継いだが、その渡辺も公職追放となり、昭和22年に急遽河田重が社長に就任した。戦後まもなく賠償工場の指定という話もあったが、日本鋼管の工場はほぼ完全に破壊されており、それよりもこれから製鉄業がやっていけるかどうかが問題だった
- 河田重「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [27]1918年7月の入社当時の川崎工場は平炉3〜4基と小さな製管工場2つ程度の規模で、駅から工場まで田の中の一本道を40分歩いた
- [28]1918年7月の入社当時の川崎工場は平炉3〜4基と小さな製管工場2つ程度の規模で、駅から工場まで田の中の一本道を40分歩いた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
- [30]戦災による設備被害と将来の見通し難のため、昭和22年まではわずかに平炉、圧延鋼材の一部が操業するにとどまった
1949年4月、日本鋼管は財閥解体と過度経済力集中排除、企業再建整備の各法令の適用を受けた。しかし製鉄部門と造船部門は分割されず、一本建のまま存続することになった。約4倍の増資で資本金は10億円となり、同年7月には再建整備計画の認可を受けて新旧勘定を併合している。1950年3月末の事業場は川崎と鶴見のほか、富山、新潟、岡山、本牧に及んだ。株式は東京と大阪をはじめ9つの市場に上場されている。分割を免れた背景には、工場がほぼ完全に破壊されていたという事情がある。賠償工場の指定についても、日本鋼管が選ばれるとは社内の誰も考えていなかった。壊滅の深さが、結果として会社の形を守ったことになる。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
- [31]財閥解体、経済力集中排除、企業再建整備等の諸法令の適用を受けたが、昭和24年4月に製鉄・造船両部門を分割することなく一本建存続となり、約4倍に及ぶ増資を行って資本金は10億円となった
- [32]財閥解体、経済力集中排除、企業再建整備等の諸法令の適用を受けたが、昭和24年4月に製鉄・造船両部門を分割することなく一本建存続となり、約4倍に及ぶ増資を行って資本金は10億円となった
- 株式会社年鑑 1951年版「日本鋼管」
- [33]昭和24年4月に資本金10億円へ増資(事前増資)、同年7月に再建整備計画の認可を受け新旧勘定を併合した
- [34]昭和24年4月に資本金10億円へ増資(事前増資)、同年7月に再建整備計画の認可を受け新旧勘定を併合した
- [35]昭和24年4月に資本金10億円へ増資(事前増資)、同年7月に再建整備計画の認可を受け新旧勘定を併合した
- 槇田久生「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)
- [36]賠償工場の指定について、日本鋼管の工場は誰も指定されるとは考えていなかった。ほぼ完全に破壊されていたからである
- [37]賠償工場の指定について、日本鋼管の工場は誰も指定されるとは考えていなかった。ほぼ完全に破壊されていたからである
設備の復旧は、高炉の火入れから始まった。傾斜生産方式のもとで1948年4月に川崎製鉄所の第五高炉が稼働し、銑鋼一貫態勢へ復帰する。1949年6月には第四高炉、7月にはトーマス転炉が再開した。もっとも、その高炉へ入れる燃料が手元になかった。残っていたコークス炉へ入れる石炭がなく、京浜の工場から200人ほどを北海道へ送って積み出しを手伝う条件で、別枠の石炭の調達許可を取っている。運んだ石炭は埠頭で占領軍に回せと求められ、副社長が横浜の米軍司令部へ掛け合って取り戻した。朝鮮動乱が、ここに復興の足がかりを与えている。動乱の後は稼働も生産も一段と活発になった。1950年10月に電縫管工場を新設し、1951年1月に鶴見製鉄所の第二高炉、12月には川崎製鉄所の第三高炉へ火を入れている。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
- [38]戦後復興の施策の一環として石炭・鉄鋼に対する傾斜生産方式が採用され、昭和23年4月の川崎製鉄所第五高炉の稼動により再び銑鋼一貫態勢に復帰し、24年6月に川崎製鉄所第四高炉、7月にトーマス転炉の再開により生産は漸次復旧した
- [39]戦後復興の施策の一環として石炭・鉄鋼に対する傾斜生産方式が採用され、昭和23年4月の川崎製鉄所第五高炉の稼動により再び銑鋼一貫態勢に復帰し、24年6月に川崎製鉄所第四高炉、7月にトーマス転炉の再開により生産は漸次復旧した
- [40]戦後復興の施策の一環として石炭・鉄鋼に対する傾斜生産方式が採用され、昭和23年4月の川崎製鉄所第五高炉の稼動により再び銑鋼一貫態勢に復帰し、24年6月に川崎製鉄所第四高炉、7月にトーマス転炉の再開により生産は漸次復旧した
- [45]朝鮮動乱後は設備の稼動、生産の伸張が一段と活発になり、昭和25年10月に電縫管工場を新設、26年1月に鶴見製鉄所第二高炉、12月に川崎製鉄所第三高炉の火入れを行った
- [46]朝鮮動乱後は設備の稼動、生産の伸張が一段と活発になり、昭和25年10月に電縫管工場を新設、26年1月に鶴見製鉄所第二高炉、12月に川崎製鉄所第三高炉の火入れを行った
- 槇田久生「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)
- [41]コークス炉が一基残ったのに入れる石炭がなく、京浜の工場から200人ぐらいを北海道へ派遣して積み出しを手伝う条件で別枠の石炭の調達許可をとった。積み出した石炭は京浜の埠頭で米占領軍から回してくれと言われたが、当時の小松副社長が横浜の米軍司令部に掛け合って取り戻した。こんなときに朝鮮動乱が勃発し、復興する足がかりをつかんだ
- [42]コークス炉が一基残ったのに入れる石炭がなく、京浜の工場から200人ぐらいを北海道へ派遣して積み出しを手伝う条件で別枠の石炭の調達許可をとった。積み出した石炭は京浜の埠頭で米占領軍から回してくれと言われたが、当時の小松副社長が横浜の米軍司令部に掛け合って取り戻した。こんなときに朝鮮動乱が勃発し、復興する足がかりをつかんだ
- [43]コークス炉が一基残ったのに入れる石炭がなく、京浜の工場から200人ぐらいを北海道へ派遣して積み出しを手伝う条件で別枠の石炭の調達許可をとった。積み出した石炭は京浜の埠頭で米占領軍から回してくれと言われたが、当時の小松副社長が横浜の米軍司令部に掛け合って取り戻した。こんなときに朝鮮動乱が勃発し、復興する足がかりをつかんだ
- [44]コークス炉が一基残ったのに入れる石炭がなく、京浜の工場から200人ぐらいを北海道へ派遣して積み出しを手伝う条件で別枠の石炭の調達許可をとった。積み出した石炭は京浜の埠頭で米占領軍から回してくれと言われたが、当時の小松副社長が横浜の米軍司令部に掛け合って取り戻した。こんなときに朝鮮動乱が勃発し、復興する足がかりをつかんだ
参考文献[24]-[46]
- 槇田久生「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)
- [24]終戦のときの社長は浅野良三で、公職追放を予知して退き渡辺政人があとを継いだが、その渡辺も公職追放となり、昭和22年に急遽河田重が社長に就任した。戦後まもなく賠償工場の指定という話もあったが、日本鋼管の工場はほぼ完全に破壊されており、それよりもこれから製鉄業がやっていけるかどうかが問題だった
- [25]終戦のときの社長は浅野良三で、公職追放を予知して退き渡辺政人があとを継いだが、その渡辺も公職追放となり、昭和22年に急遽河田重が社長に就任した。戦後まもなく賠償工場の指定という話もあったが、日本鋼管の工場はほぼ完全に破壊されており、それよりもこれから製鉄業がやっていけるかどうかが問題だった
- [26]終戦のときの社長は浅野良三で、公職追放を予知して退き渡辺政人があとを継いだが、その渡辺も公職追放となり、昭和22年に急遽河田重が社長に就任した。戦後まもなく賠償工場の指定という話もあったが、日本鋼管の工場はほぼ完全に破壊されており、それよりもこれから製鉄業がやっていけるかどうかが問題だった
- [29]終戦のときの社長は浅野良三で、公職追放を予知して退き渡辺政人があとを継いだが、その渡辺も公職追放となり、昭和22年に急遽河田重が社長に就任した。戦後まもなく賠償工場の指定という話もあったが、日本鋼管の工場はほぼ完全に破壊されており、それよりもこれから製鉄業がやっていけるかどうかが問題だった
- [36]賠償工場の指定について、日本鋼管の工場は誰も指定されるとは考えていなかった。ほぼ完全に破壊されていたからである
- [37]賠償工場の指定について、日本鋼管の工場は誰も指定されるとは考えていなかった。ほぼ完全に破壊されていたからである
- [41]コークス炉が一基残ったのに入れる石炭がなく、京浜の工場から200人ぐらいを北海道へ派遣して積み出しを手伝う条件で別枠の石炭の調達許可をとった。積み出した石炭は京浜の埠頭で米占領軍から回してくれと言われたが、当時の小松副社長が横浜の米軍司令部に掛け合って取り戻した。こんなときに朝鮮動乱が勃発し、復興する足がかりをつかんだ
- [42]コークス炉が一基残ったのに入れる石炭がなく、京浜の工場から200人ぐらいを北海道へ派遣して積み出しを手伝う条件で別枠の石炭の調達許可をとった。積み出した石炭は京浜の埠頭で米占領軍から回してくれと言われたが、当時の小松副社長が横浜の米軍司令部に掛け合って取り戻した。こんなときに朝鮮動乱が勃発し、復興する足がかりをつかんだ
- [43]コークス炉が一基残ったのに入れる石炭がなく、京浜の工場から200人ぐらいを北海道へ派遣して積み出しを手伝う条件で別枠の石炭の調達許可をとった。積み出した石炭は京浜の埠頭で米占領軍から回してくれと言われたが、当時の小松副社長が横浜の米軍司令部に掛け合って取り戻した。こんなときに朝鮮動乱が勃発し、復興する足がかりをつかんだ
- [44]コークス炉が一基残ったのに入れる石炭がなく、京浜の工場から200人ぐらいを北海道へ派遣して積み出しを手伝う条件で別枠の石炭の調達許可をとった。積み出した石炭は京浜の埠頭で米占領軍から回してくれと言われたが、当時の小松副社長が横浜の米軍司令部に掛け合って取り戻した。こんなときに朝鮮動乱が勃発し、復興する足がかりをつかんだ
- 河田重「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [27]1918年7月の入社当時の川崎工場は平炉3〜4基と小さな製管工場2つ程度の規模で、駅から工場まで田の中の一本道を40分歩いた
- [28]1918年7月の入社当時の川崎工場は平炉3〜4基と小さな製管工場2つ程度の規模で、駅から工場まで田の中の一本道を40分歩いた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
- [30]戦災による設備被害と将来の見通し難のため、昭和22年まではわずかに平炉、圧延鋼材の一部が操業するにとどまった
- [31]財閥解体、経済力集中排除、企業再建整備等の諸法令の適用を受けたが、昭和24年4月に製鉄・造船両部門を分割することなく一本建存続となり、約4倍に及ぶ増資を行って資本金は10億円となった
- [32]財閥解体、経済力集中排除、企業再建整備等の諸法令の適用を受けたが、昭和24年4月に製鉄・造船両部門を分割することなく一本建存続となり、約4倍に及ぶ増資を行って資本金は10億円となった
- [38]戦後復興の施策の一環として石炭・鉄鋼に対する傾斜生産方式が採用され、昭和23年4月の川崎製鉄所第五高炉の稼動により再び銑鋼一貫態勢に復帰し、24年6月に川崎製鉄所第四高炉、7月にトーマス転炉の再開により生産は漸次復旧した
- [39]戦後復興の施策の一環として石炭・鉄鋼に対する傾斜生産方式が採用され、昭和23年4月の川崎製鉄所第五高炉の稼動により再び銑鋼一貫態勢に復帰し、24年6月に川崎製鉄所第四高炉、7月にトーマス転炉の再開により生産は漸次復旧した
- [40]戦後復興の施策の一環として石炭・鉄鋼に対する傾斜生産方式が採用され、昭和23年4月の川崎製鉄所第五高炉の稼動により再び銑鋼一貫態勢に復帰し、24年6月に川崎製鉄所第四高炉、7月にトーマス転炉の再開により生産は漸次復旧した
- [45]朝鮮動乱後は設備の稼動、生産の伸張が一段と活発になり、昭和25年10月に電縫管工場を新設、26年1月に鶴見製鉄所第二高炉、12月に川崎製鉄所第三高炉の火入れを行った
- [46]朝鮮動乱後は設備の稼動、生産の伸張が一段と活発になり、昭和25年10月に電縫管工場を新設、26年1月に鶴見製鉄所第二高炉、12月に川崎製鉄所第三高炉の火入れを行った
- 株式会社年鑑 1951年版「日本鋼管」
- [33]昭和24年4月に資本金10億円へ増資(事前増資)、同年7月に再建整備計画の認可を受け新旧勘定を併合した
- [34]昭和24年4月に資本金10億円へ増資(事前増資)、同年7月に再建整備計画の認可を受け新旧勘定を併合した
- [35]昭和24年4月に資本金10億円へ増資(事前増資)、同年7月に再建整備計画の認可を受け新旧勘定を併合した
1951年〜289億円の合理化と、薄板を集約した水江製鉄所
1951年度を初年度として、総工事費289億円の第一次設備合理化計画が始まった。目的は、迫っていた国際競争への備えにあった。中身は川崎と鶴見の高炉復旧、川崎への転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造である。1951年末には平炉15基が動き、圧延工場も川崎第四製管と鶴見第五製鈑を除く全工場が稼働して、圧延鋼材の生産は月産6万トン以上に及んだ。計画は1954年度にほぼ完成し、1951年と比べた1956年度の生産実績は銑鉄が78%、鋼塊が62%、鋼材が66%増えた。資金は増資で賄い、資本金は1952年6月に25億円、1953年12月に50億円となっている。1955年3月期の総売上高は242億円で、うち製鉄部門が81.7%、造船部門が18.3%を占めた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
- [47]国際競争に備えるため昭和26年度を初年度として設備合理化計画を実施し、総工事費289億円をもって第一次計画として川崎・鶴見の高炉の復旧、川崎の転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造を行った。資金調達のため昭和27年6月に資本金を25億円、28年12月に50億円へ増額した。30年3月期の総売上高は242億円で、製鉄部門81.7%・造船部門18.3%であった
- [48]国際競争に備えるため昭和26年度を初年度として設備合理化計画を実施し、総工事費289億円をもって第一次計画として川崎・鶴見の高炉の復旧、川崎の転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造を行った。資金調達のため昭和27年6月に資本金を25億円、28年12月に50億円へ増額した。30年3月期の総売上高は242億円で、製鉄部門81.7%・造船部門18.3%であった
- [49]国際競争に備えるため昭和26年度を初年度として設備合理化計画を実施し、総工事費289億円をもって第一次計画として川崎・鶴見の高炉の復旧、川崎の転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造を行った。資金調達のため昭和27年6月に資本金を25億円、28年12月に50億円へ増額した。30年3月期の総売上高は242億円で、製鉄部門81.7%・造船部門18.3%であった
- [50]国際競争に備えるため昭和26年度を初年度として設備合理化計画を実施し、総工事費289億円をもって第一次計画として川崎・鶴見の高炉の復旧、川崎の転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造を行った。資金調達のため昭和27年6月に資本金を25億円、28年12月に50億円へ増額した。30年3月期の総売上高は242億円で、製鉄部門81.7%・造船部門18.3%であった
- [52]国際競争に備えるため昭和26年度を初年度として設備合理化計画を実施し、総工事費289億円をもって第一次計画として川崎・鶴見の高炉の復旧、川崎の転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造を行った。資金調達のため昭和27年6月に資本金を25億円、28年12月に50億円へ増額した。30年3月期の総売上高は242億円で、製鉄部門81.7%・造船部門18.3%であった
- [53]国際競争に備えるため昭和26年度を初年度として設備合理化計画を実施し、総工事費289億円をもって第一次計画として川崎・鶴見の高炉の復旧、川崎の転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造を行った。資金調達のため昭和27年6月に資本金を25億円、28年12月に50億円へ増額した。30年3月期の総売上高は242億円で、製鉄部門81.7%・造船部門18.3%であった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本鋼管」
- [51]昭和26年を初年度とする第一次合理化計画は29年度にほぼ完成し、出発時の26年に比べて31年度の生産実績は銑鉄78%、鋼塊62%、鋼材66%の増加を示した
日本鋼管には、つくった鉄を売る力が乏しかった。製鉄大合同に加わらなかった代償は、販売の側に出ている。日本製鉄は問屋を集めて余った鉄を払い下げる側だったが、日本鋼管はつくったものを頼んで買ってもらう側であった。販売担当が問屋の受付で長時間待たされるのは当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあったという。1954年に営業部長となった槇田久生氏の第一声は、『鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ』であった。岡谷、森岡、岸本といった古い暖簾の問屋は、日本鋼管にとって会社を盛り立ててもらうパトロンのような存在で、力も上であった。労使も荒れ、1955年から1957年にかけて3年続けて大規模なストライキが起きている。従業員は1954年9月末で25,365人を数えた。
- 槇田久生「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)
- [54]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- [55]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- [56]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- [57]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- [58]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- [59]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- [60]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- 株式会社年鑑 1955年版「日本鋼管」
- [61]1954年9月末時点の従業員は25,365人であった
第二次設備合理化計画は1955年度に始まり、1959年度にほぼ完了した。柱は水江製鉄所の新設で、薄鋼板をここへ集めて大量に生産する体制をつくった。水江には公称日産2,000トン・内容積1,709立方メートルの高炉と純酸素転炉、分塊・熱延・冷延の各工場が並んだ。高炉には米国コッパーズ社の技術による高圧操業を採り入れた。コークスに重油を吹き込むことで、トン当たりの燃料はコークス470キログラムと重油40キログラムに収まっている。これで京浜の3製鉄所は品種を分け合うことになった。川崎が鋼管と条鋼、鶴見が厚板とそれを素材とする大径溶接鋼管、水江が薄鋼板である。高炉の定期修理で1基が止まっても残る2基が補う運営を採り、3製鉄所は事実上1つの工場として扱われた。従業員は1958年9月末で30,697人へ増えている。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本鋼管」
- [62]第二次設備合理化計画は昭和30年度に始まり34年度にほぼ完了し、水江製鉄所の新設によって薄板生産を強化し、純酸素転炉の採用、中径管工場の建設などを成し遂げた
- [63]第二次設備合理化計画は昭和30年度に始まり34年度にほぼ完了し、水江製鉄所の新設によって薄板生産を強化し、純酸素転炉の採用、中径管工場の建設などを成し遂げた
- 証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号(中野宏常務取締役・水江製鉄所長)
- [64]水江製鉄所は薄鋼板の生産を目的として建設され、公称生産能力日産2,000トン・内容積1,709立方メートルの高炉、純酸素転炉、分塊・熱延・冷延の各工場を持つ。京浜3製鉄所は川崎が鋼管・条鋼、鶴見が厚板とそれを素材とする大径溶接鋼管、水江があらゆる品種の薄鋼板を分担し、川崎・鶴見・水江の3工場を1つのものと考えて不足を補い合う経済的な運営を行っている
- [65]水江製鉄所は薄鋼板の生産を目的として建設され、公称生産能力日産2,000トン・内容積1,709立方メートルの高炉、純酸素転炉、分塊・熱延・冷延の各工場を持つ。京浜3製鉄所は川崎が鋼管・条鋼、鶴見が厚板とそれを素材とする大径溶接鋼管、水江があらゆる品種の薄鋼板を分担し、川崎・鶴見・水江の3工場を1つのものと考えて不足を補い合う経済的な運営を行っている
- [66]水江製鉄所は薄鋼板の生産を目的として建設され、公称生産能力日産2,000トン・内容積1,709立方メートルの高炉、純酸素転炉、分塊・熱延・冷延の各工場を持つ。京浜3製鉄所は川崎が鋼管・条鋼、鶴見が厚板とそれを素材とする大径溶接鋼管、水江があらゆる品種の薄鋼板を分担し、川崎・鶴見・水江の3工場を1つのものと考えて不足を補い合う経済的な運営を行っている
- [67]水江製鉄所は薄鋼板の生産を目的として建設され、公称生産能力日産2,000トン・内容積1,709立方メートルの高炉、純酸素転炉、分塊・熱延・冷延の各工場を持つ。京浜3製鉄所は川崎が鋼管・条鋼、鶴見が厚板とそれを素材とする大径溶接鋼管、水江があらゆる品種の薄鋼板を分担し、川崎・鶴見・水江の3工場を1つのものと考えて不足を補い合う経済的な運営を行っている
- [68]水江製鉄所は薄鋼板の生産を目的として建設され、公称生産能力日産2,000トン・内容積1,709立方メートルの高炉、純酸素転炉、分塊・熱延・冷延の各工場を持つ。京浜3製鉄所は川崎が鋼管・条鋼、鶴見が厚板とそれを素材とする大径溶接鋼管、水江があらゆる品種の薄鋼板を分担し、川崎・鶴見・水江の3工場を1つのものと考えて不足を補い合う経済的な運営を行っている
- [69]水江製鉄所は薄鋼板の生産を目的として建設され、公称生産能力日産2,000トン・内容積1,709立方メートルの高炉、純酸素転炉、分塊・熱延・冷延の各工場を持つ。京浜3製鉄所は川崎が鋼管・条鋼、鶴見が厚板とそれを素材とする大径溶接鋼管、水江があらゆる品種の薄鋼板を分担し、川崎・鶴見・水江の3工場を1つのものと考えて不足を補い合う経済的な運営を行っている
- 株式会社年鑑 1959年版「日本鋼管」
- [70]1958年9月末時点の従業員は30,697人であった
参考文献[47]-[70]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
- [47]国際競争に備えるため昭和26年度を初年度として設備合理化計画を実施し、総工事費289億円をもって第一次計画として川崎・鶴見の高炉の復旧、川崎の転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造を行った。資金調達のため昭和27年6月に資本金を25億円、28年12月に50億円へ増額した。30年3月期の総売上高は242億円で、製鉄部門81.7%・造船部門18.3%であった
- [48]国際競争に備えるため昭和26年度を初年度として設備合理化計画を実施し、総工事費289億円をもって第一次計画として川崎・鶴見の高炉の復旧、川崎の転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造を行った。資金調達のため昭和27年6月に資本金を25億円、28年12月に50億円へ増額した。30年3月期の総売上高は242億円で、製鉄部門81.7%・造船部門18.3%であった
- [49]国際競争に備えるため昭和26年度を初年度として設備合理化計画を実施し、総工事費289億円をもって第一次計画として川崎・鶴見の高炉の復旧、川崎の転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造を行った。資金調達のため昭和27年6月に資本金を25億円、28年12月に50億円へ増額した。30年3月期の総売上高は242億円で、製鉄部門81.7%・造船部門18.3%であった
- [50]国際競争に備えるため昭和26年度を初年度として設備合理化計画を実施し、総工事費289億円をもって第一次計画として川崎・鶴見の高炉の復旧、川崎の転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造を行った。資金調達のため昭和27年6月に資本金を25億円、28年12月に50億円へ増額した。30年3月期の総売上高は242億円で、製鉄部門81.7%・造船部門18.3%であった
- [52]国際競争に備えるため昭和26年度を初年度として設備合理化計画を実施し、総工事費289億円をもって第一次計画として川崎・鶴見の高炉の復旧、川崎の転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造を行った。資金調達のため昭和27年6月に資本金を25億円、28年12月に50億円へ増額した。30年3月期の総売上高は242億円で、製鉄部門81.7%・造船部門18.3%であった
- [53]国際競争に備えるため昭和26年度を初年度として設備合理化計画を実施し、総工事費289億円をもって第一次計画として川崎・鶴見の高炉の復旧、川崎の転炉酸素製鋼設備・分塊工場・帯鋼工場・鍛接鋼管工場の新設、鶴見厚板工場の改造を行った。資金調達のため昭和27年6月に資本金を25億円、28年12月に50億円へ増額した。30年3月期の総売上高は242億円で、製鉄部門81.7%・造船部門18.3%であった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本鋼管」
- [51]昭和26年を初年度とする第一次合理化計画は29年度にほぼ完成し、出発時の26年に比べて31年度の生産実績は銑鉄78%、鋼塊62%、鋼材66%の増加を示した
- [62]第二次設備合理化計画は昭和30年度に始まり34年度にほぼ完了し、水江製鉄所の新設によって薄板生産を強化し、純酸素転炉の採用、中径管工場の建設などを成し遂げた
- [63]第二次設備合理化計画は昭和30年度に始まり34年度にほぼ完了し、水江製鉄所の新設によって薄板生産を強化し、純酸素転炉の採用、中径管工場の建設などを成し遂げた
- 槇田久生「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)
- [54]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- [55]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- [56]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- [57]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- [58]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- [59]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- [60]日鉄の大合同に参加せず民間会社として独立独歩の道を選んだ日本鋼管は、問屋を呼びつけるどころか、つくったものをお願いして買ってもらわなければならなかった。販売担当は問屋の受付で長時間待たされるのが当たり前で、奥で碁を打つ相手が一番を終えるのを待つこともあった。昭和29年に営業部長となった槇田久生の第一声は「鉄を配給するんじゃない、お得意さんに買っていただくんだ」であった。昭和30年から32年にかけて三年連続して大ストライキが起きている
- 株式会社年鑑 1955年版「日本鋼管」
- [61]1954年9月末時点の従業員は25,365人であった
- 証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号(中野宏常務取締役・水江製鉄所長)
- [64]水江製鉄所は薄鋼板の生産を目的として建設され、公称生産能力日産2,000トン・内容積1,709立方メートルの高炉、純酸素転炉、分塊・熱延・冷延の各工場を持つ。京浜3製鉄所は川崎が鋼管・条鋼、鶴見が厚板とそれを素材とする大径溶接鋼管、水江があらゆる品種の薄鋼板を分担し、川崎・鶴見・水江の3工場を1つのものと考えて不足を補い合う経済的な運営を行っている
- [65]水江製鉄所は薄鋼板の生産を目的として建設され、公称生産能力日産2,000トン・内容積1,709立方メートルの高炉、純酸素転炉、分塊・熱延・冷延の各工場を持つ。京浜3製鉄所は川崎が鋼管・条鋼、鶴見が厚板とそれを素材とする大径溶接鋼管、水江があらゆる品種の薄鋼板を分担し、川崎・鶴見・水江の3工場を1つのものと考えて不足を補い合う経済的な運営を行っている
- [66]水江製鉄所は薄鋼板の生産を目的として建設され、公称生産能力日産2,000トン・内容積1,709立方メートルの高炉、純酸素転炉、分塊・熱延・冷延の各工場を持つ。京浜3製鉄所は川崎が鋼管・条鋼、鶴見が厚板とそれを素材とする大径溶接鋼管、水江があらゆる品種の薄鋼板を分担し、川崎・鶴見・水江の3工場を1つのものと考えて不足を補い合う経済的な運営を行っている
- [67]水江製鉄所は薄鋼板の生産を目的として建設され、公称生産能力日産2,000トン・内容積1,709立方メートルの高炉、純酸素転炉、分塊・熱延・冷延の各工場を持つ。京浜3製鉄所は川崎が鋼管・条鋼、鶴見が厚板とそれを素材とする大径溶接鋼管、水江があらゆる品種の薄鋼板を分担し、川崎・鶴見・水江の3工場を1つのものと考えて不足を補い合う経済的な運営を行っている
- [68]水江製鉄所は薄鋼板の生産を目的として建設され、公称生産能力日産2,000トン・内容積1,709立方メートルの高炉、純酸素転炉、分塊・熱延・冷延の各工場を持つ。京浜3製鉄所は川崎が鋼管・条鋼、鶴見が厚板とそれを素材とする大径溶接鋼管、水江があらゆる品種の薄鋼板を分担し、川崎・鶴見・水江の3工場を1つのものと考えて不足を補い合う経済的な運営を行っている
- [69]水江製鉄所は薄鋼板の生産を目的として建設され、公称生産能力日産2,000トン・内容積1,709立方メートルの高炉、純酸素転炉、分塊・熱延・冷延の各工場を持つ。京浜3製鉄所は川崎が鋼管・条鋼、鶴見が厚板とそれを素材とする大径溶接鋼管、水江があらゆる品種の薄鋼板を分担し、川崎・鶴見・水江の3工場を1つのものと考えて不足を補い合う経済的な運営を行っている
- 株式会社年鑑 1959年版「日本鋼管」
- [70]1958年9月末時点の従業員は30,697人であった
筆者考察
日本鋼管が戦後に守ったのは、工場ではなく会社の形であった。1940年10月に鶴見製鉄造船を合併して製鉄と造船の二本立てになり、1949年4月の過度経済力集中排除法でもこの二部門は分割されずに残っている。分割を免れた背景には、壊滅の深さがある。1945年8月の京浜空襲で製銑も製鋼も止まり、動いていたのは圧延の4分の1だけで、賠償工場に指定されるとは社内の誰も考えていなかった。失うものがないほど壊れていたために、組織の形だけが手つかずで残った。戦時の最高生産高で全国の15%を占めた設備は失われ、残ったのは製鉄と造船という二つの事業の枠だけであった。復興が鉄鋼メーカーのなかで最も遅れた会社は、そのかわり最も広い事業の間口を持って1950年代へ入った。
設備は金で取り戻せたが、販売はそうはいかなかった。総工事費289億円の第一次合理化で銑鉄は78%、鋼塊は62%増え、1955年度からの第二次合理化では水江製鉄所へ薄板を集めて日産2,000トンの高炉と純酸素転炉を据えた。川崎が鋼管と条鋼、鶴見が厚板、水江が薄板という分担も、このとき決まっている。一方で、日本製鉄が問屋を集めて払い下げる側にいたあいだ、日本鋼管は買ってもらうために受付で待つ側であった。1934年に合同を断った判断の代償を、日本鋼管は20年後の販売の現場で払っていたことになる。1955年から3年続いた大ストライキも、その立て直しの途中で起きている。
- 1949年4月の増資は企業再建整備にともなう約4倍の増資。1952年以降は第一次・第二次設備合理化の資金調達によるもの。
- 出所は会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)、株式会社年鑑 1955年版・1959年版。
1937年〜1961年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 878 | n/a | 82 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 861 | ▲1.9% | 86 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 705 | ▲18.1% | n/a | 47 | 6.7% | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 864 | +22.6% | n/a | 47 | 5.4% | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 1,161 | +34.4% | n/a | 55 | 4.7% | n/a |
出所:上場会社総覧(1959年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算
出典・参考
9件
- 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第1編 創業時代
- 株式会社年鑑 1951年版「日本鋼管」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
- 株式会社年鑑 1955年版「日本鋼管」
- 株式会社年鑑 1959年版「日本鋼管」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本鋼管」
- 証券アナリストジャーナル 1963年1巻6号(中野宏常務取締役・水江製鉄所長)
- 河田重「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収)
- 槇田久生「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)