第1章 年〜年

日本鋼管:白石元治郎の日本鋼管設立と製鉄合同への参加拒否

継目無鋼管への特化から扇町高炉の垂直統合へ

1912年〜八幡がつくらなかった継目無鋼管と、インド銑という抜け道

日本鋼管が最初に選んだのは、国内の誰もつくっていない製品であった。鋼管は棒鋼や鋼板にくらべて需要の数量が少なく、製造に特別の設備と高度の技術を要した。そのため民間はもとより、官営八幡製鉄所でさえ生産を計画しなかった。1912年の国内生産高は138トンにとどまり、残りはすべて輸入である。この品目に早く目をつけたのは大倉喜八郎氏であった。明治41年にイギリスのスチュワード・ロイド社と組んで鍛接鋼管の会社を興そうとしたが、原料のスケルプ供給を八幡製鉄所に断られて行き詰まる。調査にあたった八幡製鉄所技師の今泉嘉一郎氏は、スケルプ工場を新設しても年産1万トンでは引き合わないと判断した。そして鋼塊から直接管をつくるマンネスマン式の継目無鋼管へ切り替えるよう勧めた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本鋼管」
    • [1]当時は民間はもとより八幡製鉄所でも鋼管製造は計画されず、製品はすべて輸入に依存していた。日本鋼管はわが国最初の鋼管専門会社として創立された
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第1編 創業時代
    • [2]鋼管の生産が立ちおくれた原因は、需要が棒鋼・形鋼・鋼板に比して数量的に少なかったことと、製造に特別の設備や技術を要したことにあり、民間はもとより八幡製鉄所においてさえ鋼管製造が計画されなかった
    • [3]鋼管の生産が立ちおくれた原因は、需要が棒鋼・形鋼・鋼板に比して数量的に少なかったことと、製造に特別の設備や技術を要したことにあり、民間はもとより八幡製鉄所においてさえ鋼管製造が計画されなかった
    • [4]1912年のわが国の低炭素鋼管生産高は138トンにすぎず、鋼管はまったく輸入に依存していた
    • [5]明治41年、大倉喜八郎がスコットランドのスチュワード・ロイド会社と共同で鋼管製造会社を設立する計画を進め、原料スケルプの供給を八幡製鉄所に交渉したが、製鉄所はスケルプ製造用のロール工場を持たないため引き受けなかった。調査にあたった今泉嘉一郎は、スケルプ工場を新設すれば費用がかさみ年産1万トンばかりでは引き合わないとして、マンネスマン式継目無鋼管によるべきだと勧告した
    • [6]明治41年、大倉喜八郎がスコットランドのスチュワード・ロイド会社と共同で鋼管製造会社を設立する計画を進め、原料スケルプの供給を八幡製鉄所に交渉したが、製鉄所はスケルプ製造用のロール工場を持たないため引き受けなかった。調査にあたった今泉嘉一郎は、スケルプ工場を新設すれば費用がかさみ年産1万トンばかりでは引き合わないとして、マンネスマン式継目無鋼管によるべきだと勧告した
    • [7]明治41年、大倉喜八郎がスコットランドのスチュワード・ロイド会社と共同で鋼管製造会社を設立する計画を進め、原料スケルプの供給を八幡製鉄所に交渉したが、製鉄所はスケルプ製造用のロール工場を持たないため引き受けなかった。調査にあたった今泉嘉一郎は、スケルプ工場を新設すれば費用がかさみ年産1万トンばかりでは引き合わないとして、マンネスマン式継目無鋼管によるべきだと勧告した
    • [8]明治41年、大倉喜八郎がスコットランドのスチュワード・ロイド会社と共同で鋼管製造会社を設立する計画を進め、原料スケルプの供給を八幡製鉄所に交渉したが、製鉄所はスケルプ製造用のロール工場を持たないため引き受けなかった。調査にあたった今泉嘉一郎は、スケルプ工場を新設すれば費用がかさみ年産1万トンばかりでは引き合わないとして、マンネスマン式継目無鋼管によるべきだと勧告した

平炉で鋼を造るには銑鉄が欠かせず、計画を止めたもう一つの壁はその調達にあった。明治43年の内地銑の産出は18万トンにとどまり、大部分を八幡製鉄所が自家消費に回していたため、民間へ回す分は残らなかった。外国銑は値が高くて使えず、今泉嘉一郎氏が満州の本溪湖に高炉を建てて供給を受ける構想も動かなかった。行き詰まりを破ったのは東洋汽船の白石元治郎氏で、明治44年6月に今泉氏のもとを訪れている。航路開拓のためインドへ出張した際にベンゴール製鉄所の銑鉄へ目をつけていた同氏が、岸本商店経由で輸入する道を開いた。インド銑と国内の鉄くずを平炉に入れれば、高炉を持たないまま鋼塊がつくれる。これが日本へのインド銑の最初の輸入となった。資金は政府の補助に頼らず、株主の払込と借入だけで賄っている。

  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第1編 創業時代
    • [9]内地銑は明治43年に生産わずか18万トンで、その大半が八幡製鉄所自身の消費にあてられ民間に払い下げる余裕がなく、本溪湖に高炉を建設して供給を受ける計画も進捗せず、外国銑は高価で使えなかった
    • [10]内地銑は明治43年に生産わずか18万トンで、その大半が八幡製鉄所自身の消費にあてられ民間に払い下げる余裕がなく、本溪湖に高炉を建設して供給を受ける計画も進捗せず、外国銑は高価で使えなかった
    • [11]内地銑は明治43年に生産わずか18万トンで、その大半が八幡製鉄所自身の消費にあてられ民間に払い下げる余裕がなく、本溪湖に高炉を建設して供給を受ける計画も進捗せず、外国銑は高価で使えなかった
    • [12]明治44年6月12日、白石元治郎が大倉組大阪支店に今泉嘉一郎を訪ね、東洋汽船の航路開拓でインドへ出張した際に着目したベンゴール製鉄所の銑鉄を示した。両者の協議により岸本商店の手でインド銑の輸入を開始することになった
    • [13]明治44年6月12日、白石元治郎が大倉組大阪支店に今泉嘉一郎を訪ね、東洋汽船の航路開拓でインドへ出張した際に着目したベンゴール製鉄所の銑鉄を示した。両者の協議により岸本商店の手でインド銑の輸入を開始することになった
    • [14]日本鋼管はインド銑と国内のくずとによる平炉製鋼を行なうこととし、これがわが国へのインド銑鉄の最初の輸入となった
    • [15]日本鋼管はインド銑と国内のくずとによる平炉製鋼を行なうこととし、これがわが国へのインド銑鉄の最初の輸入となった
  • 河田重「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [16]日本鋼管は政府資金や援助を受けず、株主からの払込と借入だけで資金を賄ってきた

白石元治郎氏が出馬を決めたのは、明治45年1月2日であった。岳父の浅野総一郎氏と渋沢栄一氏は、鉄鋼業は結構な仕事だが民間事業としては難しいと再三翻意を促した。白石氏は自分が犠牲者になるつもりだと答えて譲らなかった。同年6月に創立総会を開き、資本金200万円、20トン平炉2基と製管工場1つの規模で発足して、本社を横浜市寿町に置いた。工場用地は発起人の若尾幾造氏が持つ川崎海岸の埋立予定地15万坪を一括13万5000円で交渉し、まず3万坪だけを買っている。こうしてわが国最初の鋼管専門会社が発足した。八幡製鉄所が絶対的な地位を占める産業で、後発の民間資本は規模ではなく品目の選び方に活路を求めたのである。

  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第1編 創業時代
    • [17]浅野総一郎と渋沢栄一は「鉄鋼業は結構な仕事であるが、民間事業としてなかなかむずかしい」と再三翻意を促したが、白石元治郎は自分は犠牲者になるつもりだと答え、明治45年1月2日に出馬を決意した
    • [18]浅野総一郎と渋沢栄一は「鉄鋼業は結構な仕事であるが、民間事業としてなかなかむずかしい」と再三翻意を促したが、白石元治郎は自分は犠牲者になるつもりだと答え、明治45年1月2日に出馬を決意した
    • [19]浅野総一郎と渋沢栄一は「鉄鋼業は結構な仕事であるが、民間事業としてなかなかむずかしい」と再三翻意を促したが、白石元治郎は自分は犠牲者になるつもりだと答え、明治45年1月2日に出馬を決意した
    • [21]工場敷地は発起人の若尾幾造が所有する川崎海岸(字渡田)の埋め立て予定地15万坪で、一括13万5000円で譲渡交渉が成立し、とりあえず3万坪だけを購入した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
    • [20]明治45年6月に創立総会を開き、取締役の互選で白石元治郎を社長に推し、本社を横浜市寿町に置いた。資本金200万円、20トン平炉2基、製管工場1工場の規模で、八幡製鉄所でさえ生産していなかった継目無鋼管の専業として発足した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本鋼管」
    • [22]日本鋼管はわが国最初の鋼管専門会社として創立され、継目無鋼管の製造を専業として発足した
参考文献[1]-[22]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本鋼管」
    • [1]当時は民間はもとより八幡製鉄所でも鋼管製造は計画されず、製品はすべて輸入に依存していた。日本鋼管はわが国最初の鋼管専門会社として創立された
    • [22]日本鋼管はわが国最初の鋼管専門会社として創立され、継目無鋼管の製造を専業として発足した
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第1編 創業時代
    • [2]鋼管の生産が立ちおくれた原因は、需要が棒鋼・形鋼・鋼板に比して数量的に少なかったことと、製造に特別の設備や技術を要したことにあり、民間はもとより八幡製鉄所においてさえ鋼管製造が計画されなかった
    • [3]鋼管の生産が立ちおくれた原因は、需要が棒鋼・形鋼・鋼板に比して数量的に少なかったことと、製造に特別の設備や技術を要したことにあり、民間はもとより八幡製鉄所においてさえ鋼管製造が計画されなかった
    • [4]1912年のわが国の低炭素鋼管生産高は138トンにすぎず、鋼管はまったく輸入に依存していた
    • [5]明治41年、大倉喜八郎がスコットランドのスチュワード・ロイド会社と共同で鋼管製造会社を設立する計画を進め、原料スケルプの供給を八幡製鉄所に交渉したが、製鉄所はスケルプ製造用のロール工場を持たないため引き受けなかった。調査にあたった今泉嘉一郎は、スケルプ工場を新設すれば費用がかさみ年産1万トンばかりでは引き合わないとして、マンネスマン式継目無鋼管によるべきだと勧告した
    • [6]明治41年、大倉喜八郎がスコットランドのスチュワード・ロイド会社と共同で鋼管製造会社を設立する計画を進め、原料スケルプの供給を八幡製鉄所に交渉したが、製鉄所はスケルプ製造用のロール工場を持たないため引き受けなかった。調査にあたった今泉嘉一郎は、スケルプ工場を新設すれば費用がかさみ年産1万トンばかりでは引き合わないとして、マンネスマン式継目無鋼管によるべきだと勧告した
    • [7]明治41年、大倉喜八郎がスコットランドのスチュワード・ロイド会社と共同で鋼管製造会社を設立する計画を進め、原料スケルプの供給を八幡製鉄所に交渉したが、製鉄所はスケルプ製造用のロール工場を持たないため引き受けなかった。調査にあたった今泉嘉一郎は、スケルプ工場を新設すれば費用がかさみ年産1万トンばかりでは引き合わないとして、マンネスマン式継目無鋼管によるべきだと勧告した
    • [8]明治41年、大倉喜八郎がスコットランドのスチュワード・ロイド会社と共同で鋼管製造会社を設立する計画を進め、原料スケルプの供給を八幡製鉄所に交渉したが、製鉄所はスケルプ製造用のロール工場を持たないため引き受けなかった。調査にあたった今泉嘉一郎は、スケルプ工場を新設すれば費用がかさみ年産1万トンばかりでは引き合わないとして、マンネスマン式継目無鋼管によるべきだと勧告した
    • [9]内地銑は明治43年に生産わずか18万トンで、その大半が八幡製鉄所自身の消費にあてられ民間に払い下げる余裕がなく、本溪湖に高炉を建設して供給を受ける計画も進捗せず、外国銑は高価で使えなかった
    • [10]内地銑は明治43年に生産わずか18万トンで、その大半が八幡製鉄所自身の消費にあてられ民間に払い下げる余裕がなく、本溪湖に高炉を建設して供給を受ける計画も進捗せず、外国銑は高価で使えなかった
    • [11]内地銑は明治43年に生産わずか18万トンで、その大半が八幡製鉄所自身の消費にあてられ民間に払い下げる余裕がなく、本溪湖に高炉を建設して供給を受ける計画も進捗せず、外国銑は高価で使えなかった
    • [12]明治44年6月12日、白石元治郎が大倉組大阪支店に今泉嘉一郎を訪ね、東洋汽船の航路開拓でインドへ出張した際に着目したベンゴール製鉄所の銑鉄を示した。両者の協議により岸本商店の手でインド銑の輸入を開始することになった
    • [13]明治44年6月12日、白石元治郎が大倉組大阪支店に今泉嘉一郎を訪ね、東洋汽船の航路開拓でインドへ出張した際に着目したベンゴール製鉄所の銑鉄を示した。両者の協議により岸本商店の手でインド銑の輸入を開始することになった
    • [14]日本鋼管はインド銑と国内のくずとによる平炉製鋼を行なうこととし、これがわが国へのインド銑鉄の最初の輸入となった
    • [15]日本鋼管はインド銑と国内のくずとによる平炉製鋼を行なうこととし、これがわが国へのインド銑鉄の最初の輸入となった
    • [17]浅野総一郎と渋沢栄一は「鉄鋼業は結構な仕事であるが、民間事業としてなかなかむずかしい」と再三翻意を促したが、白石元治郎は自分は犠牲者になるつもりだと答え、明治45年1月2日に出馬を決意した
    • [18]浅野総一郎と渋沢栄一は「鉄鋼業は結構な仕事であるが、民間事業としてなかなかむずかしい」と再三翻意を促したが、白石元治郎は自分は犠牲者になるつもりだと答え、明治45年1月2日に出馬を決意した
    • [19]浅野総一郎と渋沢栄一は「鉄鋼業は結構な仕事であるが、民間事業としてなかなかむずかしい」と再三翻意を促したが、白石元治郎は自分は犠牲者になるつもりだと答え、明治45年1月2日に出馬を決意した
    • [21]工場敷地は発起人の若尾幾造が所有する川崎海岸(字渡田)の埋め立て予定地15万坪で、一括13万5000円で譲渡交渉が成立し、とりあえず3万坪だけを購入した
  • 河田重「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [16]日本鋼管は政府資金や援助を受けず、株主からの払込と借入だけで資金を賄ってきた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
    • [20]明治45年6月に創立総会を開き、取締役の互選で白石元治郎を社長に推し、本社を横浜市寿町に置いた。資本金200万円、20トン平炉2基、製管工場1工場の規模で、八幡製鉄所でさえ生産していなかった継目無鋼管の専業として発足した

1918年〜戦後反動と二度の減資、日本製鉄業の実験室と呼ばれるまで

創業から数年の日本鋼管は、第一次世界大戦の鉄鋼需要に恵まれた。大正6年下期にはアメリカが鉄鋼の輸出を禁じて価格が暴騰し、払込資本金380万円に対して利益金は194万円、年利益率は10割を超えた。株主配当は5割で、これを3期続けている。会社は同時に、償却金と積立金を毎期積んでいる。大正6年上期には機械建物償却金80万円と原料原価低減資金40万円などで合計153万円、下期には275万円を社内に留保している。設備は平炉を9基まで増やし、細管・厚板・薄板・スポンジ鉄の各工場と小型高炉を建て、公称資本金は大正7年4月に1600万円へ増えた。払込資本金も大正3年末の140万円から、大正7年下期には940万円へ6.7倍に膨らんでいる。

  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第1編 創業時代
    • [23]大正6年下期はアメリカの鉄鋼輸出禁止で価格が暴騰し、利益金は194万余円(払込資本金380万円に対する年利益率10割強)に上り、株主配当は5割に引き上げられた。5割配当は大正7年上期・下期にも続いた
    • [24]大正6年下期はアメリカの鉄鋼輸出禁止で価格が暴騰し、利益金は194万余円(払込資本金380万円に対する年利益率10割強)に上り、株主配当は5割に引き上げられた。5割配当は大正7年上期・下期にも続いた
    • [25]大正6年下期はアメリカの鉄鋼輸出禁止で価格が暴騰し、利益金は194万余円(払込資本金380万円に対する年利益率10割強)に上り、株主配当は5割に引き上げられた。5割配当は大正7年上期・下期にも続いた
    • [26]大正6年上期は機械建物償却金80万円・原料原価低減資金40万円・配当準備積立金20万円ほか合計153万円を、下期は償却金および諸積立金として合計275万円を社内に留保した
    • [27]大正6年上期は機械建物償却金80万円・原料原価低減資金40万円・配当準備積立金20万円ほか合計153万円を、下期は償却金および諸積立金として合計275万円を社内に留保した
    • [29]新設と拡張の資金需要により、払い込み資本金は大正3年末の140万円から大正7年下期の940万円へ6.7倍に膨張した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
    • [28]欧州大戦の好況で平炉7基、小形中形条鋼・厚板・薄板・第二製管・スポンジ鉄の各工場、小型高炉等を増設し、資本金は1600万円に急増した

市場が反転したのは大正7年7月である。11月の休戦条約で欧米の鉄鋼輸出が解禁されると、大正8年2月から3月には銑鉄と丸鋼が3分の1、鋼板は4分の1以下に落ちた。日本鋼管は大正8年1月、スポンジ鉄工場と小型高炉の第2・第3基、薄板工場の拡張工事を一時中止した。それでも大正9年下期には作業開始以来はじめて19万円余の赤字を計上する。大戦中に337円をつけた株価は、大正10年に最低8円まで下がった。大正12年9月の関東大震災では煙突の大半が倒れ、17名の従業員が亡くなり、15万坪の敷地から泥水が噴き出して、再起不能とまでうわさされた。全面的な作業休止は2カ月にとどまったが、大戦中に広げた工場のうち平炉と鋼管、条鋼を除く諸設備は操業中止か廃棄となった。

  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第2編 苦難時代
    • [30]大正7年7月の活況を最後に市場は反動に転じ、11月の休戦条約で欧米の鉄鋼輸出解禁が公表された。大正8年2、3月ころには銑鉄は3分の1、丸鋼もほぼ3分の1、鋼板は4分の1以下に暴落した
    • [31]大正7年7月の活況を最後に市場は反動に転じ、11月の休戦条約で欧米の鉄鋼輸出解禁が公表された。大正8年2、3月ころには銑鉄は3分の1、丸鋼もほぼ3分の1、鋼板は4分の1以下に暴落した
    • [32]大正8年1月、金融事情と事業見通しの困難を考慮して、スポンジ鉄工場の4万トン拡張分、小型高炉工場の第2・第3高炉の一部、大阪工場の湿式収銅法の一部、薄板工場の機械据え付けの一部の拡張工事を一時中止した
    • [33]大正9年下期は販売高が前期比25%減、販売代金が35%減となり、作業開始以来はじめて19万余円の赤字を計上した。株価は戦時中の337円に対し、大正10年には最高24円・最低8円まで下がった
    • [34]大正9年下期は販売高が前期比25%減、販売代金が35%減となり、作業開始以来はじめて19万余円の赤字を計上した。株価は戦時中の337円に対し、大正10年には最高24円・最低8円まで下がった
    • [35]大正12年9月1日の関東大震災で全工場が大損害を受け、堅固な鉄骨も損傷し煙突の大半が倒壊、17名の従業員が殉職した。15万坪の敷地は各所で損壊して泥水を噴出し、一時は再起不能とうわさされたが、全面的な作業休止は2カ月にとどまった
    • [36]大正12年9月1日の関東大震災で全工場が大損害を受け、堅固な鉄骨も損傷し煙突の大半が倒壊、17名の従業員が殉職した。15万坪の敷地は各所で損壊して泥水を噴出し、一時は再起不能とうわさされたが、全面的な作業休止は2カ月にとどまった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
    • [37]休戦による反動と恐慌、関東大震災の災害等により、大戦中に拡張した工場のうち平炉・鋼管・条鋼の各工場を除く諸工場は操業中止または廃棄となった

立て直しは資本の側から始まった。大正10年6月、創立当初からの長老である大川平三郎氏が社長に就き、白石元治郎氏は副社長へ退いた。10月には資本金2100万円の半額を減資して固定資産を切り捨て、同時に1割2分の累積優先株1050万円を募集している。この減資と増資を同時に進めるため、委任状は全国から集めた。昭和6年11月には二度目の整理を行い、普通株1050万円を630万円に減らし、優先配当率も8分へ下げた。株主に損を負わせる一方で、設備の手は止めていない。大正11年には平炉の燃料に重油を入れ、昭和2年には国内初の新式鍛接管工場を建てた。大正14年上期から昭和3年上期までに生産量は約50%増え、トン当たり原価は25%下がっている。『日本製鉄業の実験室』と呼ばれたのは、この積み重ねによる。

  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第2編 苦難時代
    • [38]大正10年6月に定款を改正して副社長制を設け、社長に大川平三郎を迎え、白石元治郎は副社長となった。10月には資本金2100万円の半額を減資して1050万円の普通株とし、固定資産の切り捨てを行うとともに1割2分の累積優先株1050万円を募集した
    • [39]大正10年6月に定款を改正して副社長制を設け、社長に大川平三郎を迎え、白石元治郎は副社長となった。10月には資本金2100万円の半額を減資して1050万円の普通株とし、固定資産の切り捨てを行うとともに1割2分の累積優先株1050万円を募集した
    • [41]昭和6年11月、普通株1050万円を630万円に減資して公称資本金を1680万円とし、優先株の累積債務を棒引きして優先配当率を8分へ引き下げ、固定資産・諸勘定・損失金の整理を行った
    • [42]大正11年3月から平炉に重油を試用して他の平炉へ広げ、昭和2年4月に着手した鍛接管工場は国内最初の新式鍛接管工場として11月から操業した。大正14年上期から昭和3年上期までに生産数量は約50%増加し、トン当たり原価は25%減少した。後年、日本鋼管は「日本製鉄業の実験室」と呼ばれるようになった
    • [43]大正11年3月から平炉に重油を試用して他の平炉へ広げ、昭和2年4月に着手した鍛接管工場は国内最初の新式鍛接管工場として11月から操業した。大正14年上期から昭和3年上期までに生産数量は約50%増加し、トン当たり原価は25%減少した。後年、日本鋼管は「日本製鉄業の実験室」と呼ばれるようになった
    • [44]大正11年3月から平炉に重油を試用して他の平炉へ広げ、昭和2年4月に着手した鍛接管工場は国内最初の新式鍛接管工場として11月から操業した。大正14年上期から昭和3年上期までに生産数量は約50%増加し、トン当たり原価は25%減少した。後年、日本鋼管は「日本製鉄業の実験室」と呼ばれるようになった
    • [45]大正11年3月から平炉に重油を試用して他の平炉へ広げ、昭和2年4月に着手した鍛接管工場は国内最初の新式鍛接管工場として11月から操業した。大正14年上期から昭和3年上期までに生産数量は約50%増加し、トン当たり原価は25%減少した。後年、日本鋼管は「日本製鉄業の実験室」と呼ばれるようになった
  • 河田重「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [40]1921年には減資と増資を同時に行い、委任状を全国から集めた
参考文献[23]-[45]
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第1編 創業時代
    • [23]大正6年下期はアメリカの鉄鋼輸出禁止で価格が暴騰し、利益金は194万余円(払込資本金380万円に対する年利益率10割強)に上り、株主配当は5割に引き上げられた。5割配当は大正7年上期・下期にも続いた
    • [24]大正6年下期はアメリカの鉄鋼輸出禁止で価格が暴騰し、利益金は194万余円(払込資本金380万円に対する年利益率10割強)に上り、株主配当は5割に引き上げられた。5割配当は大正7年上期・下期にも続いた
    • [25]大正6年下期はアメリカの鉄鋼輸出禁止で価格が暴騰し、利益金は194万余円(払込資本金380万円に対する年利益率10割強)に上り、株主配当は5割に引き上げられた。5割配当は大正7年上期・下期にも続いた
    • [26]大正6年上期は機械建物償却金80万円・原料原価低減資金40万円・配当準備積立金20万円ほか合計153万円を、下期は償却金および諸積立金として合計275万円を社内に留保した
    • [27]大正6年上期は機械建物償却金80万円・原料原価低減資金40万円・配当準備積立金20万円ほか合計153万円を、下期は償却金および諸積立金として合計275万円を社内に留保した
    • [29]新設と拡張の資金需要により、払い込み資本金は大正3年末の140万円から大正7年下期の940万円へ6.7倍に膨張した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
    • [28]欧州大戦の好況で平炉7基、小形中形条鋼・厚板・薄板・第二製管・スポンジ鉄の各工場、小型高炉等を増設し、資本金は1600万円に急増した
    • [37]休戦による反動と恐慌、関東大震災の災害等により、大戦中に拡張した工場のうち平炉・鋼管・条鋼の各工場を除く諸工場は操業中止または廃棄となった
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第2編 苦難時代
    • [30]大正7年7月の活況を最後に市場は反動に転じ、11月の休戦条約で欧米の鉄鋼輸出解禁が公表された。大正8年2、3月ころには銑鉄は3分の1、丸鋼もほぼ3分の1、鋼板は4分の1以下に暴落した
    • [31]大正7年7月の活況を最後に市場は反動に転じ、11月の休戦条約で欧米の鉄鋼輸出解禁が公表された。大正8年2、3月ころには銑鉄は3分の1、丸鋼もほぼ3分の1、鋼板は4分の1以下に暴落した
    • [32]大正8年1月、金融事情と事業見通しの困難を考慮して、スポンジ鉄工場の4万トン拡張分、小型高炉工場の第2・第3高炉の一部、大阪工場の湿式収銅法の一部、薄板工場の機械据え付けの一部の拡張工事を一時中止した
    • [33]大正9年下期は販売高が前期比25%減、販売代金が35%減となり、作業開始以来はじめて19万余円の赤字を計上した。株価は戦時中の337円に対し、大正10年には最高24円・最低8円まで下がった
    • [34]大正9年下期は販売高が前期比25%減、販売代金が35%減となり、作業開始以来はじめて19万余円の赤字を計上した。株価は戦時中の337円に対し、大正10年には最高24円・最低8円まで下がった
    • [35]大正12年9月1日の関東大震災で全工場が大損害を受け、堅固な鉄骨も損傷し煙突の大半が倒壊、17名の従業員が殉職した。15万坪の敷地は各所で損壊して泥水を噴出し、一時は再起不能とうわさされたが、全面的な作業休止は2カ月にとどまった
    • [36]大正12年9月1日の関東大震災で全工場が大損害を受け、堅固な鉄骨も損傷し煙突の大半が倒壊、17名の従業員が殉職した。15万坪の敷地は各所で損壊して泥水を噴出し、一時は再起不能とうわさされたが、全面的な作業休止は2カ月にとどまった
    • [38]大正10年6月に定款を改正して副社長制を設け、社長に大川平三郎を迎え、白石元治郎は副社長となった。10月には資本金2100万円の半額を減資して1050万円の普通株とし、固定資産の切り捨てを行うとともに1割2分の累積優先株1050万円を募集した
    • [39]大正10年6月に定款を改正して副社長制を設け、社長に大川平三郎を迎え、白石元治郎は副社長となった。10月には資本金2100万円の半額を減資して1050万円の普通株とし、固定資産の切り捨てを行うとともに1割2分の累積優先株1050万円を募集した
    • [41]昭和6年11月、普通株1050万円を630万円に減資して公称資本金を1680万円とし、優先株の累積債務を棒引きして優先配当率を8分へ引き下げ、固定資産・諸勘定・損失金の整理を行った
    • [42]大正11年3月から平炉に重油を試用して他の平炉へ広げ、昭和2年4月に着手した鍛接管工場は国内最初の新式鍛接管工場として11月から操業した。大正14年上期から昭和3年上期までに生産数量は約50%増加し、トン当たり原価は25%減少した。後年、日本鋼管は「日本製鉄業の実験室」と呼ばれるようになった
    • [43]大正11年3月から平炉に重油を試用して他の平炉へ広げ、昭和2年4月に着手した鍛接管工場は国内最初の新式鍛接管工場として11月から操業した。大正14年上期から昭和3年上期までに生産数量は約50%増加し、トン当たり原価は25%減少した。後年、日本鋼管は「日本製鉄業の実験室」と呼ばれるようになった
    • [44]大正11年3月から平炉に重油を試用して他の平炉へ広げ、昭和2年4月に着手した鍛接管工場は国内最初の新式鍛接管工場として11月から操業した。大正14年上期から昭和3年上期までに生産数量は約50%増加し、トン当たり原価は25%減少した。後年、日本鋼管は「日本製鉄業の実験室」と呼ばれるようになった
    • [45]大正11年3月から平炉に重油を試用して他の平炉へ広げ、昭和2年4月に着手した鍛接管工場は国内最初の新式鍛接管工場として11月から操業した。大正14年上期から昭和3年上期までに生産数量は約50%増加し、トン当たり原価は25%減少した。後年、日本鋼管は「日本製鉄業の実験室」と呼ばれるようになった
  • 河田重「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収)
    • [40]1921年には減資と増資を同時に行い、委任状を全国から集めた

1931年〜製鉄大合同への不参加と、創立24年目の扇町高炉

昭和6年9月の満州事変と、同年12月の金輸出再禁止が局面を変えた。鉄鋼業にとっては第二次の発展期の始まりであった。再禁止の当日に為替は対米49ドル台から38ドルへ約23%落ち、円安と軍需の膨張が国内の鉄鋼需要を押し上げた。鋼材の内地需要高は毎年平均43万トンずつ増え、昭和11年には390万トンと昭和6年の2.3倍に達した。輸入は年80万から90万トンが30万から40万トンへ半減している。日本鋼管の株価も、昭和5年に5円台の捨値をつけた後、昭和9年には最高163円をとなえた。昭和5年下期に34万3000円、6年上期に62万5000円の赤字を出した会社が、2年で優先株にも普通株にも1割2分を配れるところまで戻った。

  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第3編 地位確立時代
    • [46]昭和6年12月の金輸出再禁止により、対米為替は再禁止前の49ドル台から当日38ドルへ約23%下落し、政府はインフレ政策へ転じて軍拡景気への移行をもたらした
    • [48]昭和6年12月の金輸出再禁止により、対米為替は再禁止前の49ドル台から当日38ドルへ約23%下落し、政府はインフレ政策へ転じて軍拡景気への移行をもたらした
    • [49]鋼材の内地需要高は毎年平均43万トンの増加を続け、昭和11年には390万トンと昭和6年の2.3倍に達した。輸入は年80万〜90万トンから30万〜40万トンへ半減した
    • [50]鋼材の内地需要高は毎年平均43万トンの増加を続け、昭和11年には390万トンと昭和6年の2.3倍に達した。輸入は年80万〜90万トンから30万〜40万トンへ半減した
    • [51]不況のどん底の昭和5年には一時5円台という捨値を示した株価が、昭和9年には最高163円をとなえた
    • [52]昭和5年下期に34万3000円、6年上期に62万5000円の欠損を計上して優先株も無配となったが、昭和7年上期以降は業績が回復し、優先株・普通株ともに1割2分の配当を行うことができた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
    • [47]満州事変を契機として日本鋼管は第二次発展期を迎えた

昭和9年1月、政府が大多数の株式を持つ日本製鉄株式会社が発足した。設立委員が最初に交渉したのは八幡製鉄所と民間主要13社で、民間製鋼会社の頭目とみられていた日本鋼管の態度は業界の注目を集めた。交渉を受けた白石元治郎副社長は、参加を断っている。発足した日本製鉄は政府出資79%、銑鉄生産で全国の96%を占め、日本鋼管に残ったのは鋼塊12%、鋼材13.6%という位置であった。一国の製鉄業を一社に合併すれば組織が膨大になって統御を欠き、経営者も技術者も競争意識を失う。政府が株式の大多数を持ち役員の任免権を握る形では、健全な企業的発展は望めない。そして政府案の資産評価と6分から7分という将来の配当では、二度の減資と数回の無配当に耐えた株主が過去の損失を埋める機会を失う。『製鉄業は、政府の一企業として競争のない温室育ちの事業ではいかぬ。あくまでも民間企業として競争しながら発展すべきだ』というのが、白石氏の立場であった。

  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第3編 地位確立時代
    • [53]日本製鉄株式会社法は昭和8年4月に制定され、設立委員が最初に交渉したのは八幡製鉄所のほか日本鋼管を含む民間主要13社であった。昭和9年1月に日本製鉄株式会社が誕生したが、民間製鋼会社の頭目とみられた日本鋼管は自主独立の立場を堅持して合同体に参加しなかった
    • [54]日本製鉄株式会社法は昭和8年4月に制定され、設立委員が最初に交渉したのは八幡製鉄所のほか日本鋼管を含む民間主要13社であった。昭和9年1月に日本製鉄株式会社が誕生したが、民間製鋼会社の頭目とみられた日本鋼管は自主独立の立場を堅持して合同体に参加しなかった
    • [55]日本製鉄株式会社法は昭和8年4月に制定され、設立委員が最初に交渉したのは八幡製鉄所のほか日本鋼管を含む民間主要13社であった。昭和9年1月に日本製鉄株式会社が誕生したが、民間製鋼会社の頭目とみられた日本鋼管は自主独立の立場を堅持して合同体に参加しなかった
    • [57]白石元治郎副社長が不参加を決めた理由は、一国の製鉄業を一社に合併すれば組織が膨大となって統御の徹底を欠き経営者も技術者も競争意識を失うこと、合同会社は政府が大多数の株式を所有し役員の任免権を握る形態であること、政府案の資産評価と将来配当6、7分では多年損失を忍んできた株主が過去の損失を埋める機会がないことであった
    • [58]白石元治郎副社長が不参加を決めた理由は、一国の製鉄業を一社に合併すれば組織が膨大となって統御の徹底を欠き経営者も技術者も競争意識を失うこと、合同会社は政府が大多数の株式を所有し役員の任免権を握る形態であること、政府案の資産評価と将来配当6、7分では多年損失を忍んできた株主が過去の損失を埋める機会がないことであった
    • [59]白石元治郎副社長が不参加を決めた理由は、一国の製鉄業を一社に合併すれば組織が膨大となって統御の徹底を欠き経営者も技術者も競争意識を失うこと、合同会社は政府が大多数の株式を所有し役員の任免権を握る形態であること、政府案の資産評価と将来配当6、7分では多年損失を忍んできた株主が過去の損失を埋める機会がないことであった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第1篇 会社企業発達史「戦時経済への移行期の会社」
    • [56]昭和9年の日本製鉄設立時、政府出資は79%、同社の銑鉄生産は全国の96%を占め、日本鋼管は鋼塊12%・鋼材13.6%を持つ民間勢力であった
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号(堀切治雄常務取締役・日本証券アナリスト協会企業分析部会 1975年3月20日講演要旨)
    • [60]製鉄大合同への参加要請に対し、白石社長は民間企業として競争しながら発展すべきだとして加わらなかった

高炉は創立以来の宿願であった。昭和8年5月に日産350トンの高炉1基を製鉄業奨励法にもとづいて申請したが、認可が下りたのは1年5カ月後の昭和9年10月18日である。高炉の建設計画は、方針が国策に添わないとして商工省に握りつぶされていた。官営だけでは需要を満たせなくなった段階で政策が民間育成へ転じ、そこで初めて認可が下りたのである。昭和10年1月28日に川崎市扇町で地鎮祭を行い、着工から1年半で完工した。昭和11年6月11日、白石元治郎副社長の手で火が入る。同年12月には川崎工場と扇町工場を結ぶ一貫橋が完成し、銑鉄を溶融したまま平炉へ送れるようになった。火入れまでに、創立から24年が経っていた。

  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第3編 地位確立時代
    • [61]日本鋼管は輸入インド銑をもとにする単純製鋼圧延会社として発足したため、製鋼原料である銑鉄の自給は創立以来の念願であった
    • [62]昭和8年5月に350トン高炉1基の建設について製鉄業奨励法にもとづく認可申請書を提出したが、認可は昭和9年10月18日付け商工省指令九鉱第372号によりようやく下りた。昭和10年1月28日に川崎市扇町で地鎮祭を行い、着工以来1年半で完工した。昭和11年12月には川崎工場と扇町工場を連絡する一貫橋が完成し、高炉から出た銑鉄を溶融状態のまま川崎工場へ送れるようになった
    • [65]昭和8年5月に350トン高炉1基の建設について製鉄業奨励法にもとづく認可申請書を提出したが、認可は昭和9年10月18日付け商工省指令九鉱第372号によりようやく下りた。昭和10年1月28日に川崎市扇町で地鎮祭を行い、着工以来1年半で完工した。昭和11年12月には川崎工場と扇町工場を連絡する一貫橋が完成し、高炉から出た銑鉄を溶融状態のまま川崎工場へ送れるようになった
    • [67]昭和8年5月に350トン高炉1基の建設について製鉄業奨励法にもとづく認可申請書を提出したが、認可は昭和9年10月18日付け商工省指令九鉱第372号によりようやく下りた。昭和10年1月28日に川崎市扇町で地鎮祭を行い、着工以来1年半で完工した。昭和11年12月には川崎工場と扇町工場を連絡する一貫橋が完成し、高炉から出た銑鉄を溶融状態のまま川崎工場へ送れるようになった
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号(堀切治雄常務取締役・日本証券アナリスト協会企業分析部会 1975年3月20日講演要旨)
    • [63]高炉建設計画は方針が国策に添わないとして商工省に握りつぶされ、官営だけでは需要を満たせなくなった段階で民間育成へ政策が転換して認められた
    • [64]高炉建設計画は方針が国策に添わないとして商工省に握りつぶされ、官営だけでは需要を満たせなくなった段階で民間育成へ政策が転換して認められた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
    • [66]昭和9年10月に扇町製銑工場の建設に着手し、昭和11年6月11日に白石元治郎副社長の手で第一高炉の火入れを行い、ここに初めて銑鋼一貫態勢が確立された。創立は明治45年6月である
    • [68]昭和9年10月に扇町製銑工場の建設に着手し、昭和11年6月11日に白石元治郎副社長の手で第一高炉の火入れを行い、ここに初めて銑鋼一貫態勢が確立された。創立は明治45年6月である
参考文献[46]-[68]
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第3編 地位確立時代
    • [46]昭和6年12月の金輸出再禁止により、対米為替は再禁止前の49ドル台から当日38ドルへ約23%下落し、政府はインフレ政策へ転じて軍拡景気への移行をもたらした
    • [48]昭和6年12月の金輸出再禁止により、対米為替は再禁止前の49ドル台から当日38ドルへ約23%下落し、政府はインフレ政策へ転じて軍拡景気への移行をもたらした
    • [49]鋼材の内地需要高は毎年平均43万トンの増加を続け、昭和11年には390万トンと昭和6年の2.3倍に達した。輸入は年80万〜90万トンから30万〜40万トンへ半減した
    • [50]鋼材の内地需要高は毎年平均43万トンの増加を続け、昭和11年には390万トンと昭和6年の2.3倍に達した。輸入は年80万〜90万トンから30万〜40万トンへ半減した
    • [51]不況のどん底の昭和5年には一時5円台という捨値を示した株価が、昭和9年には最高163円をとなえた
    • [52]昭和5年下期に34万3000円、6年上期に62万5000円の欠損を計上して優先株も無配となったが、昭和7年上期以降は業績が回復し、優先株・普通株ともに1割2分の配当を行うことができた
    • [53]日本製鉄株式会社法は昭和8年4月に制定され、設立委員が最初に交渉したのは八幡製鉄所のほか日本鋼管を含む民間主要13社であった。昭和9年1月に日本製鉄株式会社が誕生したが、民間製鋼会社の頭目とみられた日本鋼管は自主独立の立場を堅持して合同体に参加しなかった
    • [54]日本製鉄株式会社法は昭和8年4月に制定され、設立委員が最初に交渉したのは八幡製鉄所のほか日本鋼管を含む民間主要13社であった。昭和9年1月に日本製鉄株式会社が誕生したが、民間製鋼会社の頭目とみられた日本鋼管は自主独立の立場を堅持して合同体に参加しなかった
    • [55]日本製鉄株式会社法は昭和8年4月に制定され、設立委員が最初に交渉したのは八幡製鉄所のほか日本鋼管を含む民間主要13社であった。昭和9年1月に日本製鉄株式会社が誕生したが、民間製鋼会社の頭目とみられた日本鋼管は自主独立の立場を堅持して合同体に参加しなかった
    • [57]白石元治郎副社長が不参加を決めた理由は、一国の製鉄業を一社に合併すれば組織が膨大となって統御の徹底を欠き経営者も技術者も競争意識を失うこと、合同会社は政府が大多数の株式を所有し役員の任免権を握る形態であること、政府案の資産評価と将来配当6、7分では多年損失を忍んできた株主が過去の損失を埋める機会がないことであった
    • [58]白石元治郎副社長が不参加を決めた理由は、一国の製鉄業を一社に合併すれば組織が膨大となって統御の徹底を欠き経営者も技術者も競争意識を失うこと、合同会社は政府が大多数の株式を所有し役員の任免権を握る形態であること、政府案の資産評価と将来配当6、7分では多年損失を忍んできた株主が過去の損失を埋める機会がないことであった
    • [59]白石元治郎副社長が不参加を決めた理由は、一国の製鉄業を一社に合併すれば組織が膨大となって統御の徹底を欠き経営者も技術者も競争意識を失うこと、合同会社は政府が大多数の株式を所有し役員の任免権を握る形態であること、政府案の資産評価と将来配当6、7分では多年損失を忍んできた株主が過去の損失を埋める機会がないことであった
    • [61]日本鋼管は輸入インド銑をもとにする単純製鋼圧延会社として発足したため、製鋼原料である銑鉄の自給は創立以来の念願であった
    • [62]昭和8年5月に350トン高炉1基の建設について製鉄業奨励法にもとづく認可申請書を提出したが、認可は昭和9年10月18日付け商工省指令九鉱第372号によりようやく下りた。昭和10年1月28日に川崎市扇町で地鎮祭を行い、着工以来1年半で完工した。昭和11年12月には川崎工場と扇町工場を連絡する一貫橋が完成し、高炉から出た銑鉄を溶融状態のまま川崎工場へ送れるようになった
    • [65]昭和8年5月に350トン高炉1基の建設について製鉄業奨励法にもとづく認可申請書を提出したが、認可は昭和9年10月18日付け商工省指令九鉱第372号によりようやく下りた。昭和10年1月28日に川崎市扇町で地鎮祭を行い、着工以来1年半で完工した。昭和11年12月には川崎工場と扇町工場を連絡する一貫橋が完成し、高炉から出た銑鉄を溶融状態のまま川崎工場へ送れるようになった
    • [67]昭和8年5月に350トン高炉1基の建設について製鉄業奨励法にもとづく認可申請書を提出したが、認可は昭和9年10月18日付け商工省指令九鉱第372号によりようやく下りた。昭和10年1月28日に川崎市扇町で地鎮祭を行い、着工以来1年半で完工した。昭和11年12月には川崎工場と扇町工場を連絡する一貫橋が完成し、高炉から出た銑鉄を溶融状態のまま川崎工場へ送れるようになった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
    • [47]満州事変を契機として日本鋼管は第二次発展期を迎えた
    • [66]昭和9年10月に扇町製銑工場の建設に着手し、昭和11年6月11日に白石元治郎副社長の手で第一高炉の火入れを行い、ここに初めて銑鋼一貫態勢が確立された。創立は明治45年6月である
    • [68]昭和9年10月に扇町製銑工場の建設に着手し、昭和11年6月11日に白石元治郎副社長の手で第一高炉の火入れを行い、ここに初めて銑鋼一貫態勢が確立された。創立は明治45年6月である
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第1篇 会社企業発達史「戦時経済への移行期の会社」
    • [56]昭和9年の日本製鉄設立時、政府出資は79%、同社の銑鉄生産は全国の96%を占め、日本鋼管は鋼塊12%・鋼材13.6%を持つ民間勢力であった
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号(堀切治雄常務取締役・日本証券アナリスト協会企業分析部会 1975年3月20日講演要旨)
    • [60]製鉄大合同への参加要請に対し、白石社長は民間企業として競争しながら発展すべきだとして加わらなかった
    • [63]高炉建設計画は方針が国策に添わないとして商工省に握りつぶされ、官営だけでは需要を満たせなくなった段階で民間育成へ政策が転換して認められた
    • [64]高炉建設計画は方針が国策に添わないとして商工省に握りつぶされ、官営だけでは需要を満たせなくなった段階で民間育成へ政策が転換して認められた

筆者考察

白石元治郎氏が選んだのは、市場が小さいことがそのまま参入障壁になる品目であった。継目無鋼管の1912年の国内生産高は138トンで、残りはすべて輸入である。数量が出ないうえに特別の設備と高度の技術を要したから、官営八幡製鉄所でさえ手をつけなかった。官営が絶対的な地位を占める産業で、後発の民間資本が規模を競っても競争優位は得られない。資本金200万円、20トン平炉2基という出発点は小さいが、争う相手のいない一点へ資本を集めた点では筋が通っている。本社は横浜市寿町、工場用地は川崎海岸の埋立予定地15万坪のうち買ったのは3万坪だけである。銑鉄はインドのベンゴール製鉄所から輸入して当座をしのぎ、最も重い設備投資である高炉は24年先へ送った。

この選び方の代償は、資本の側に集まった。第一次世界大戦で払込資本金は140万円から940万円へ膨らみ、配当は5割を3期続けたが、休戦とともに銑鉄も丸鋼も3分の1に落ち、株価は337円から8円まで下がる。1921年と1931年の二度、日本鋼管は減資によって株主に損を負わせた。政府資金を一度も入れず、株主の払込と借入だけで賄ってきた会社にとって、損失の受け皿は株主しかなかったからである。1934年の製鉄大合同を断れた理由もそこにある。白石元治郎氏が拒んだのは合同そのものではなく、二度の減資と数回の無配当に耐えた株主が過去の損失を埋める機会を失う資産評価であった。

公称資本金の推移 創立から扇町高炉の火入れまで(万円)

200 1912 1,600 1918 1,050 1921 2,100 1922 1,680 1931 5,530 1935
  • 1921年10月の第1次減資で2,100万円の半額を切り捨て、翌1922年3月に優先株1,050万円を募集して2,100万円へ戻した。1931年11月の第2次減資で普通株1,050万円を630万円に減らした。
  • 出所は日本鋼管株式会社五十年史(1962年)、会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)。

出典・参考

8件
出典・参考
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第1編 創業時代
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第2編 苦難時代
  • 日本鋼管株式会社五十年史(日本鋼管, 1962年)第1部総合史 第3編 地位確立時代
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第2篇 日本会社史 34_鉄鋼「日本鋼管」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)第1篇 会社企業発達史「戦時経済への移行期の会社」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「日本鋼管」
  • 証券アナリストジャーナル 1975年13巻4号(堀切治雄常務取締役・日本証券アナリスト協会企業分析部会 1975年3月20日講演要旨)
  • 河田重「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人2』日本経済新聞社, 1980 所収)

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