オカモト:日本ゴム工業の設立とラテックス製スキンの研究着手
1934年〜ゴム引布で立った日本ゴム工業と、姉弟の千円で吾妻橋に開いたスキン工場
日本ゴム工業は1934年1月10日に資本金5万円で設立され、荏原区戸越町に本社を置いた。設立の土台は、先に倒産したゴム引布の草分けである日本工業の事業で、ゴム引布と雨合羽を祖業とした。初期の製品には満州鉄道の客車向けの「アジアレザー」があり、生地3枚の表面にゴムを塗ってラッカーで固めた。1942年2月にはアヅマゴム加工所を吸収合併。1943年以降は軍需の増産に応じ、工場を荏原・足利・日暮里・八王子・宇都宮の5か所へ広げた。足利工場は中島飛行機の近くに置かれ、航空機のカバーや燃料タンクを覆う防弾ゴムを手がけた。戦後は日暮里・八王子・宇都宮の3工場を閉じ、荏原と足利に生産を寄せた。
- 『企業の歴史:明治百年』1968年「岡本理研ゴム工業」
- [1]1934年1月、ゴム引布・引布製品の製造販売を目的に資本金5万円で設立、本社は荏原区戸越町。1943年以降に急拡大し荏原・足利・日暮里・八王子・宇都宮の5工場、戦後は日暮里・八王子・宇都宮を閉鎖
- [5]1934年1月、ゴム引布・引布製品の製造販売を目的に資本金5万円で設立、本社は荏原区戸越町。1943年以降に急拡大し荏原・足利・日暮里・八王子・宇都宮の5工場、戦後は日暮里・八王子・宇都宮を閉鎖
- [7]1934年1月、ゴム引布・引布製品の製造販売を目的に資本金5万円で設立、本社は荏原区戸越町。1943年以降に急拡大し荏原・足利・日暮里・八王子・宇都宮の5工場、戦後は日暮里・八王子・宇都宮を閉鎖
- ポケット社史『オカモト:"身近な暮らしを科学する"青春企業』1991年3月
- [2]日本ゴム工業は倒産したゴム引布の草分け日本工業の後を受けて誕生し、ゴム引布と雨合羽が祖業。満州鉄道の客車用レザー「アジアレザー」を製造
- [3]日本ゴム工業は倒産したゴム引布の草分け日本工業の後を受けて誕生し、ゴム引布と雨合羽が祖業。満州鉄道の客車用レザー「アジアレザー」を製造
- [6]日本ゴム工業は倒産したゴム引布の草分け日本工業の後を受けて誕生し、ゴム引布と雨合羽が祖業。満州鉄道の客車用レザー「アジアレザー」を製造
- 株式会社年鑑 1959年版「日本理研ゴム」
- [4]沿革:1934年1月 資本金5万円で日本ゴム工業設立、1942年2月 アヅマゴム加工所を合併
日本ゴム工業の設立の翌月にあたる1934年2月、のちの合併相手となる岡本巳之助氏が個人経営の岡本ゴム工業所を創業した。岡本巳之助氏は10代後半から下町のスキン工場に勤め、生ゴム製のスキンが熱に弱く腐りやすいことを知っていた。学術雑誌の翻訳記事でラテックスを知ると、1932年から加硫促進剤を研究し、1933年末に腐らないスキンの製法を完成させた。開業資金の半分の千円は姉と弟2人が財産を処分して用意し、残りを先輩が工面した。工場は吾妻橋の木造30坪の貸家で、最初の製法はガラスの型をラテックスに手で漬けて乾かす方式である。人手は岡本家の4兄弟と女子工員4〜5人で、1日の生産は20〜30グロスだった。
- 証券 15(6) 1963年
- [8]1934年2月 岡本巳之助の個人経営で岡本ゴム工業所を設立、ラテックスを原料に衛生サックを製造
- ポケット社史『オカモト:"身近な暮らしを科学する"青春企業』1991年3月
- [9]岡本巳之助は学術雑誌の翻訳記事でラテックスを知り1932年から加硫促進剤を研究、1933年末に完成。姉と弟2人が全財産を売り千円、残りは先輩。1934年2月吾妻橋の木造30坪の貸家で岡本ゴム工業所発足、手漬け。岡本4兄弟と女子工員4-5人、日産20-30グロス
- [10]岡本巳之助は学術雑誌の翻訳記事でラテックスを知り1932年から加硫促進剤を研究、1933年末に完成。姉と弟2人が全財産を売り千円、残りは先輩。1934年2月吾妻橋の木造30坪の貸家で岡本ゴム工業所発足、手漬け。岡本4兄弟と女子工員4-5人、日産20-30グロス
- [11]岡本巳之助は学術雑誌の翻訳記事でラテックスを知り1932年から加硫促進剤を研究、1933年末に完成。姉と弟2人が全財産を売り千円、残りは先輩。1934年2月吾妻橋の木造30坪の貸家で岡本ゴム工業所発足、手漬け。岡本4兄弟と女子工員4-5人、日産20-30グロス
- [12]岡本巳之助は学術雑誌の翻訳記事でラテックスを知り1932年から加硫促進剤を研究、1933年末に完成。姉と弟2人が全財産を売り千円、残りは先輩。1934年2月吾妻橋の木造30坪の貸家で岡本ゴム工業所発足、手漬け。岡本4兄弟と女子工員4-5人、日産20-30グロス
- [13]岡本巳之助は学術雑誌の翻訳記事でラテックスを知り1932年から加硫促進剤を研究、1933年末に完成。姉と弟2人が全財産を売り千円、残りは先輩。1934年2月吾妻橋の木造30坪の貸家で岡本ゴム工業所発足、手漬け。岡本4兄弟と女子工員4-5人、日産20-30グロス
岡本ゴム工業所のラテックス製スキンは想定を上回って売れ、岡本巳之助氏は半年で先輩からの借入金を返済した。翌1935年に江戸川区平井へ100坪の工場を建て、1936年8月には資本金10万円の国際護謨工業へ事業を移管。1941年9月、商工省の指令による企業整備で大阪ゴム製造所と杉山ゴム工業所の2社を買収し、スキン専業となった。創業7年目の1941年に、国際護謨工業は業界最大手に立った。1943年には軍が監督する工場の指定を受け、戦後の1947年8月に商号を岡本ゴム工業へ改めた。法人化は平井工場の建設と同じ時期で、増産に要る資金と取引の信用を固める狙いがあったとみられる。
- ポケット社史『オカモト:"身近な暮らしを科学する"青春企業』1991年3月
- [14]ラテックススキンは予想以上に売れ半年で先輩に返済。翌年江戸川区平井に100坪の工場、1936年8月 資本金10万円で国際護謨工業を設立。創業7年で業界最大手
- [15]ラテックススキンは予想以上に売れ半年で先輩に返済。翌年江戸川区平井に100坪の工場、1936年8月 資本金10万円で国際護謨工業を設立。創業7年で業界最大手
- [17]ラテックススキンは予想以上に売れ半年で先輩に返済。翌年江戸川区平井に100坪の工場、1936年8月 資本金10万円で国際護謨工業を設立。創業7年で業界最大手
- 証券 15(6) 1963年
- [16]1936年8月国際護謨工業を創立し事業継承。1941年9月商工省指令の企業整備で大阪ゴム製造所・杉山ゴム工業所を買収し衛生サック専業、1943年軍の監督工場、1947年8月現商号に変更
- [18]1936年8月国際護謨工業を創立し事業継承。1941年9月商工省指令の企業整備で大阪ゴム製造所・杉山ゴム工業所を買収し衛生サック専業、1943年軍の監督工場、1947年8月現商号に変更
参考文献[1]-[18]
- 『企業の歴史:明治百年』1968年「岡本理研ゴム工業」
- [1]1934年1月、ゴム引布・引布製品の製造販売を目的に資本金5万円で設立、本社は荏原区戸越町。1943年以降に急拡大し荏原・足利・日暮里・八王子・宇都宮の5工場、戦後は日暮里・八王子・宇都宮を閉鎖
- [5]1934年1月、ゴム引布・引布製品の製造販売を目的に資本金5万円で設立、本社は荏原区戸越町。1943年以降に急拡大し荏原・足利・日暮里・八王子・宇都宮の5工場、戦後は日暮里・八王子・宇都宮を閉鎖
- [7]1934年1月、ゴム引布・引布製品の製造販売を目的に資本金5万円で設立、本社は荏原区戸越町。1943年以降に急拡大し荏原・足利・日暮里・八王子・宇都宮の5工場、戦後は日暮里・八王子・宇都宮を閉鎖
- ポケット社史『オカモト:"身近な暮らしを科学する"青春企業』1991年3月
- [2]日本ゴム工業は倒産したゴム引布の草分け日本工業の後を受けて誕生し、ゴム引布と雨合羽が祖業。満州鉄道の客車用レザー「アジアレザー」を製造
- [3]日本ゴム工業は倒産したゴム引布の草分け日本工業の後を受けて誕生し、ゴム引布と雨合羽が祖業。満州鉄道の客車用レザー「アジアレザー」を製造
- [6]日本ゴム工業は倒産したゴム引布の草分け日本工業の後を受けて誕生し、ゴム引布と雨合羽が祖業。満州鉄道の客車用レザー「アジアレザー」を製造
- [9]岡本巳之助は学術雑誌の翻訳記事でラテックスを知り1932年から加硫促進剤を研究、1933年末に完成。姉と弟2人が全財産を売り千円、残りは先輩。1934年2月吾妻橋の木造30坪の貸家で岡本ゴム工業所発足、手漬け。岡本4兄弟と女子工員4-5人、日産20-30グロス
- [10]岡本巳之助は学術雑誌の翻訳記事でラテックスを知り1932年から加硫促進剤を研究、1933年末に完成。姉と弟2人が全財産を売り千円、残りは先輩。1934年2月吾妻橋の木造30坪の貸家で岡本ゴム工業所発足、手漬け。岡本4兄弟と女子工員4-5人、日産20-30グロス
- [11]岡本巳之助は学術雑誌の翻訳記事でラテックスを知り1932年から加硫促進剤を研究、1933年末に完成。姉と弟2人が全財産を売り千円、残りは先輩。1934年2月吾妻橋の木造30坪の貸家で岡本ゴム工業所発足、手漬け。岡本4兄弟と女子工員4-5人、日産20-30グロス
- [12]岡本巳之助は学術雑誌の翻訳記事でラテックスを知り1932年から加硫促進剤を研究、1933年末に完成。姉と弟2人が全財産を売り千円、残りは先輩。1934年2月吾妻橋の木造30坪の貸家で岡本ゴム工業所発足、手漬け。岡本4兄弟と女子工員4-5人、日産20-30グロス
- [13]岡本巳之助は学術雑誌の翻訳記事でラテックスを知り1932年から加硫促進剤を研究、1933年末に完成。姉と弟2人が全財産を売り千円、残りは先輩。1934年2月吾妻橋の木造30坪の貸家で岡本ゴム工業所発足、手漬け。岡本4兄弟と女子工員4-5人、日産20-30グロス
- [14]ラテックススキンは予想以上に売れ半年で先輩に返済。翌年江戸川区平井に100坪の工場、1936年8月 資本金10万円で国際護謨工業を設立。創業7年で業界最大手
- [15]ラテックススキンは予想以上に売れ半年で先輩に返済。翌年江戸川区平井に100坪の工場、1936年8月 資本金10万円で国際護謨工業を設立。創業7年で業界最大手
- [17]ラテックススキンは予想以上に売れ半年で先輩に返済。翌年江戸川区平井に100坪の工場、1936年8月 資本金10万円で国際護謨工業を設立。創業7年で業界最大手
- 株式会社年鑑 1959年版「日本理研ゴム」
- [4]沿革:1934年1月 資本金5万円で日本ゴム工業設立、1942年2月 アヅマゴム加工所を合併
- 証券 15(6) 1963年
- [8]1934年2月 岡本巳之助の個人経営で岡本ゴム工業所を設立、ラテックスを原料に衛生サックを製造
- [16]1936年8月国際護謨工業を創立し事業継承。1941年9月商工省指令の企業整備で大阪ゴム製造所・杉山ゴム工業所を買収し衛生サック専業、1943年軍の監督工場、1947年8月現商号に変更
- [18]1936年8月国際護謨工業を創立し事業継承。1941年9月商工省指令の企業整備で大阪ゴム製造所・杉山ゴム工業所を買収し衛生サック専業、1943年軍の監督工場、1947年8月現商号に変更
1950年〜富士銀行が送り込んだ岡本巳之助氏の再建と、2社を統合した日本理研ゴム
岡本巳之助氏は戦後の混乱期に堅実な経営を見込まれ、小さな問屋を含めて27社の再建を引き受けた。1950年9月に事実上倒産した理研ゴム工業では、岡本ゴム工業の出資で新会社を設け、旧会社の設備を借りて水枕や自転車タイヤの生産を再開させた。1953年には倒産したゼブラ工業の再建にも、同じ設備借用の方式で着手。再建先へは腹心を連れずに1人で入り、報酬を受け取らず交際費も自分で負担した。1958年9月末、日本理研ゴムの社長は岡本巳之助氏で、岡本ゴム工業と岡本巳之助氏個人が大株主に並んだ。再建の実績が金融機関の信頼を呼び、次の案件を託される立場になったと考えられる。
- ポケット社史『オカモト:"身近な暮らしを科学する"青春企業』1991年3月
- [19]戦後、堅実な経営を見込まれ問屋を含め27社を再建。報酬・交際費を受けず。理研ゴム工業は1950年9月事実上倒産、岡本ゴム工業出資の新会社が設備を借りて水枕・自転車タイヤを再開。1953年ゼブラ再建も同方式。腹心を連れず一人で赴き社員に相談して決定
- [20]戦後、堅実な経営を見込まれ問屋を含め27社を再建。報酬・交際費を受けず。理研ゴム工業は1950年9月事実上倒産、岡本ゴム工業出資の新会社が設備を借りて水枕・自転車タイヤを再開。1953年ゼブラ再建も同方式。腹心を連れず一人で赴き社員に相談して決定
- [21]戦後、堅実な経営を見込まれ問屋を含め27社を再建。報酬・交際費を受けず。理研ゴム工業は1950年9月事実上倒産、岡本ゴム工業出資の新会社が設備を借りて水枕・自転車タイヤを再開。1953年ゼブラ再建も同方式。腹心を連れず一人で赴き社員に相談して決定
- [22]戦後、堅実な経営を見込まれ問屋を含め27社を再建。報酬・交際費を受けず。理研ゴム工業は1950年9月事実上倒産、岡本ゴム工業出資の新会社が設備を借りて水枕・自転車タイヤを再開。1953年ゼブラ再建も同方式。腹心を連れず一人で赴き社員に相談して決定
- 株式会社年鑑 1959年版「日本理研ゴム」
- [23]1958年版役員欄 社長 岡本巳之助、大株主に岡本ゴム工業808,900株・岡本巳之助224,000株
日本ゴム工業は1950年、ゴムを圧延するカレンダーを転用して塩化ビニール製品へ参入した。当時の塩ビ製品は、革のベルトが200円の時代にビニールのベルトが1000円で売れるほどの品薄である。朝鮮戦争の特需で業容を広げた一方、休戦でゴム相場が暴落し、高値で仕入れた原料の在庫を抱えた。雨衣や長靴は季節商品で、1954〜1955年頃に試みたナイロンやメリヤスの加工も業績を押し下げた。1956年に岡本巳之助氏が富士銀行の要請で経営に入り、足利工場を履物専業に、荏原工場の主力をビニールフィルムに替えた。1958年4〜9月期の売上高は、ビニールフィルムが324,691千円で、ゴム引布の186,704千円を上回った。
- ポケット社史『オカモト:"身近な暮らしを科学する"青春企業』1991年3月
- [24]1950年に塩化ビニール製品に参入(カレンダーを転用)。朝鮮戦争休戦でゴム暴落・高値在庫、季節商品の比重、1954-55年頃のナイロン・メリヤス多角化が重荷。富士銀行が岡本巳之助を送り込み、足利工場を履物専業、荏原工場をビニールフィルム中心に。当時革ベルト200円に対しビニールベルト1000円
- [25]1950年に塩化ビニール製品に参入(カレンダーを転用)。朝鮮戦争休戦でゴム暴落・高値在庫、季節商品の比重、1954-55年頃のナイロン・メリヤス多角化が重荷。富士銀行が岡本巳之助を送り込み、足利工場を履物専業、荏原工場をビニールフィルム中心に。当時革ベルト200円に対しビニールベルト1000円
- [26]1950年に塩化ビニール製品に参入(カレンダーを転用)。朝鮮戦争休戦でゴム暴落・高値在庫、季節商品の比重、1954-55年頃のナイロン・メリヤス多角化が重荷。富士銀行が岡本巳之助を送り込み、足利工場を履物専業、荏原工場をビニールフィルム中心に。当時革ベルト200円に対しビニールベルト1000円
- [27]1950年に塩化ビニール製品に参入(カレンダーを転用)。朝鮮戦争休戦でゴム暴落・高値在庫、季節商品の比重、1954-55年頃のナイロン・メリヤス多角化が重荷。富士銀行が岡本巳之助を送り込み、足利工場を履物専業、荏原工場をビニールフィルム中心に。当時革ベルト200円に対しビニールベルト1000円
- 『企業の歴史:明治百年』1968年「岡本理研ゴム工業」
- [28]戦後、荏原の本社工場に塩化ビニール部門を新設。1956年に岡本社長の経営下に入り設備の更新・拡張を積極化
- 株式会社年鑑 1959年版「日本理研ゴム」
- [29]1958年4-9月の商品別売上高:ゴム引布186,704千円、ビニールフィルム324,691千円、履物175,757千円
岡本巳之助氏は理研ゴム・ゼブラ自転車・日本ゴム工業の再建を経て、岡本ゴム工業を含む4社の社長を兼ねた。そのうえで経営の合理化には合併が欠かせないと判断し、まず日本ゴム工業と理研ゴムを一つにした。1958年2月に日本ゴム工業が理研ゴムを合併し、商号を日本理研ゴムへ改めた。理研ゴムが掲げた合併の目的は、企業体質の強化である。同年9月末の事業所は品川区平塚の本社工場、北区の王子工場、足利工場で、従業員は836人だった。主な製品は履物、水枕、ゴムバンド、自転車タイヤ、ビニールフィルム、ゴム引布に及んだ。製品の重なりが少ない2社を合わせることで、管理部門を一本化しつつ品目の幅を広げる狙いがあったと推察される。
- ポケット社史『オカモト:"身近な暮らしを科学する"青春企業』1991年3月
- [30]理研ゴム・ゼブラ自転車・日本ゴム工業を再建し岡本ゴム工業を含む4社の社長を兼任、合理化には合併しかないと判断し1958年に理研ゴム工業と日本ゴム工業を合併。理研ゴムは企業体質強化のために合併
- [31]理研ゴム・ゼブラ自転車・日本ゴム工業を再建し岡本ゴム工業を含む4社の社長を兼任、合理化には合併しかないと判断し1958年に理研ゴム工業と日本ゴム工業を合併。理研ゴムは企業体質強化のために合併
- [33]理研ゴム・ゼブラ自転車・日本ゴム工業を再建し岡本ゴム工業を含む4社の社長を兼任、合理化には合併しかないと判断し1958年に理研ゴム工業と日本ゴム工業を合併。理研ゴムは企業体質強化のために合併
- 『企業の歴史:明治百年』1968年「岡本理研ゴム工業」
- [32]1958年2月に同系の理研ゴムを合併し、商号を日本理研ゴムに改めた
- 株式会社年鑑 1959年版「日本理研ゴム」
- [34]1958年2月理研ゴムを合併し日本理研ゴムに改称、資本金1億1千万円。同年8月2億2千万円に増資。事業所は本社工場(品川区平塚)・王子工場・足利工場、従業員836人。主な事業 ゴム引布・ビニールフィルム・自転車タイヤ・水枕・ゴムバンド・履物
- [35]1958年2月理研ゴムを合併し日本理研ゴムに改称、資本金1億1千万円。同年8月2億2千万円に増資。事業所は本社工場(品川区平塚)・王子工場・足利工場、従業員836人。主な事業 ゴム引布・ビニールフィルム・自転車タイヤ・水枕・ゴムバンド・履物
参考文献[19]-[35]
- ポケット社史『オカモト:"身近な暮らしを科学する"青春企業』1991年3月
- [19]戦後、堅実な経営を見込まれ問屋を含め27社を再建。報酬・交際費を受けず。理研ゴム工業は1950年9月事実上倒産、岡本ゴム工業出資の新会社が設備を借りて水枕・自転車タイヤを再開。1953年ゼブラ再建も同方式。腹心を連れず一人で赴き社員に相談して決定
- [20]戦後、堅実な経営を見込まれ問屋を含め27社を再建。報酬・交際費を受けず。理研ゴム工業は1950年9月事実上倒産、岡本ゴム工業出資の新会社が設備を借りて水枕・自転車タイヤを再開。1953年ゼブラ再建も同方式。腹心を連れず一人で赴き社員に相談して決定
- [21]戦後、堅実な経営を見込まれ問屋を含め27社を再建。報酬・交際費を受けず。理研ゴム工業は1950年9月事実上倒産、岡本ゴム工業出資の新会社が設備を借りて水枕・自転車タイヤを再開。1953年ゼブラ再建も同方式。腹心を連れず一人で赴き社員に相談して決定
- [22]戦後、堅実な経営を見込まれ問屋を含め27社を再建。報酬・交際費を受けず。理研ゴム工業は1950年9月事実上倒産、岡本ゴム工業出資の新会社が設備を借りて水枕・自転車タイヤを再開。1953年ゼブラ再建も同方式。腹心を連れず一人で赴き社員に相談して決定
- [24]1950年に塩化ビニール製品に参入(カレンダーを転用)。朝鮮戦争休戦でゴム暴落・高値在庫、季節商品の比重、1954-55年頃のナイロン・メリヤス多角化が重荷。富士銀行が岡本巳之助を送り込み、足利工場を履物専業、荏原工場をビニールフィルム中心に。当時革ベルト200円に対しビニールベルト1000円
- [25]1950年に塩化ビニール製品に参入(カレンダーを転用)。朝鮮戦争休戦でゴム暴落・高値在庫、季節商品の比重、1954-55年頃のナイロン・メリヤス多角化が重荷。富士銀行が岡本巳之助を送り込み、足利工場を履物専業、荏原工場をビニールフィルム中心に。当時革ベルト200円に対しビニールベルト1000円
- [26]1950年に塩化ビニール製品に参入(カレンダーを転用)。朝鮮戦争休戦でゴム暴落・高値在庫、季節商品の比重、1954-55年頃のナイロン・メリヤス多角化が重荷。富士銀行が岡本巳之助を送り込み、足利工場を履物専業、荏原工場をビニールフィルム中心に。当時革ベルト200円に対しビニールベルト1000円
- [27]1950年に塩化ビニール製品に参入(カレンダーを転用)。朝鮮戦争休戦でゴム暴落・高値在庫、季節商品の比重、1954-55年頃のナイロン・メリヤス多角化が重荷。富士銀行が岡本巳之助を送り込み、足利工場を履物専業、荏原工場をビニールフィルム中心に。当時革ベルト200円に対しビニールベルト1000円
- [30]理研ゴム・ゼブラ自転車・日本ゴム工業を再建し岡本ゴム工業を含む4社の社長を兼任、合理化には合併しかないと判断し1958年に理研ゴム工業と日本ゴム工業を合併。理研ゴムは企業体質強化のために合併
- [31]理研ゴム・ゼブラ自転車・日本ゴム工業を再建し岡本ゴム工業を含む4社の社長を兼任、合理化には合併しかないと判断し1958年に理研ゴム工業と日本ゴム工業を合併。理研ゴムは企業体質強化のために合併
- [33]理研ゴム・ゼブラ自転車・日本ゴム工業を再建し岡本ゴム工業を含む4社の社長を兼任、合理化には合併しかないと判断し1958年に理研ゴム工業と日本ゴム工業を合併。理研ゴムは企業体質強化のために合併
- 株式会社年鑑 1959年版「日本理研ゴム」
- [23]1958年版役員欄 社長 岡本巳之助、大株主に岡本ゴム工業808,900株・岡本巳之助224,000株
- [29]1958年4-9月の商品別売上高:ゴム引布186,704千円、ビニールフィルム324,691千円、履物175,757千円
- [34]1958年2月理研ゴムを合併し日本理研ゴムに改称、資本金1億1千万円。同年8月2億2千万円に増資。事業所は本社工場(品川区平塚)・王子工場・足利工場、従業員836人。主な事業 ゴム引布・ビニールフィルム・自転車タイヤ・水枕・ゴムバンド・履物
- [35]1958年2月理研ゴムを合併し日本理研ゴムに改称、資本金1億1千万円。同年8月2億2千万円に増資。事業所は本社工場(品川区平塚)・王子工場・足利工場、従業員836人。主な事業 ゴム引布・ビニールフィルム・自転車タイヤ・水枕・ゴムバンド・履物
- 『企業の歴史:明治百年』1968年「岡本理研ゴム工業」
- [28]戦後、荏原の本社工場に塩化ビニール部門を新設。1956年に岡本社長の経営下に入り設備の更新・拡張を積極化
- [32]1958年2月に同系の理研ゴムを合併し、商号を日本理研ゴムに改めた
1959年〜神奈川・群馬の2工場と、売上の25%を超えた輸出
日本理研ゴムの発足時の構成は、ゴム引布・ビニール・履物・タイヤの4部門である。高度成長期にはゴム引布の輸出が増え、レインコートは製品の8割を米国へ送り、輸出比率は25%を超えた。1961年には荏原工場を神奈川県座間町の旧海軍航空隊の補給基地跡へ移し、神奈川工場を新設した。敷地は3万8000坪で、最新のカレンダー6台を入れた塩化ビニールの製造拠点にあたる。神奈川工場への投資は、合成樹脂産業の伸びを見込んだ判断だった。1963〜1964年には足利工場の「鉄腕アトム」の漫画靴と、「ノンタックフィルム」が売れ筋となった。半期の売上高は、1958年9月期の1,115,369千円から1961年3月期の2,050,591千円へ増えた。
- ポケット社史『オカモト:"身近な暮らしを科学する"青春企業』1991年3月
- [36]日本理研ゴム発足時は4部門。レインコートの8割が米国向け、輸出比率25%超。荏原工場を座間市の旧海軍航空隊補給基地跡に移し3万8000坪の神奈川工場、カレンダー6台。工場新設は合成樹脂産業の発達を見込んだため。1963-64年に足利の鉄腕アトム漫画靴、ノンタックフィルムがヒット
- [37]日本理研ゴム発足時は4部門。レインコートの8割が米国向け、輸出比率25%超。荏原工場を座間市の旧海軍航空隊補給基地跡に移し3万8000坪の神奈川工場、カレンダー6台。工場新設は合成樹脂産業の発達を見込んだため。1963-64年に足利の鉄腕アトム漫画靴、ノンタックフィルムがヒット
- [39]日本理研ゴム発足時は4部門。レインコートの8割が米国向け、輸出比率25%超。荏原工場を座間市の旧海軍航空隊補給基地跡に移し3万8000坪の神奈川工場、カレンダー6台。工場新設は合成樹脂産業の発達を見込んだため。1963-64年に足利の鉄腕アトム漫画靴、ノンタックフィルムがヒット
- [40]日本理研ゴム発足時は4部門。レインコートの8割が米国向け、輸出比率25%超。荏原工場を座間市の旧海軍航空隊補給基地跡に移し3万8000坪の神奈川工場、カレンダー6台。工場新設は合成樹脂産業の発達を見込んだため。1963-64年に足利の鉄腕アトム漫画靴、ノンタックフィルムがヒット
- [41]日本理研ゴム発足時は4部門。レインコートの8割が米国向け、輸出比率25%超。荏原工場を座間市の旧海軍航空隊補給基地跡に移し3万8000坪の神奈川工場、カレンダー6台。工場新設は合成樹脂産業の発達を見込んだため。1963-64年に足利の鉄腕アトム漫画靴、ノンタックフィルムがヒット
- 『企業の歴史:明治百年』1968年「岡本理研ゴム工業」
- [38]1961年に神奈川工場、1964年に群馬工場を新設
- 株式会社年鑑 1959年版「日本理研ゴム」
- [42]1958年9月期(半期)売上高1,115,369千円、従業員836人
- 株式会社年鑑 1962年版「日本理研ゴム」
- [43]1961年3月期(半期)売上高2,050,591千円、従業員1,455人、神奈川工場(高座郡座間町)
日本理研ゴムは1961年に国内の最後発として自動車タイヤへ参入し、リケンタイヤの銘柄で売り出した。当時の国内ゴム産業で生産の7割を占めるのは自動車タイヤである。1964年には群馬工場を新設し、敷地7万坪に新鋭設備を入れ、足利の履物部門も移した。1965年からは藤倉ゴム工業が持っていた自動車タイヤの製造設備を引き継いだ。それでも販売網が整わず新車向けにも入りにくく、品質に自信があっても苦戦が続いた。1968年時点では、自動車用のタイヤとチューブで業界の上位5社に入った。需要の大きい市場に参入しなければゴムの会社として規模を保てないという判断が、最後発での参入を後押ししたのだろう。
- ポケット社史『オカモト:"身近な暮らしを科学する"青春企業』1991年3月
- [44]1961年に自動車タイヤへ進出、ゴム産業の7割が自動車タイヤ。ブランドはリケンタイヤ、国内最後発。群馬工場(7万坪)に新鋭設備、足利の履物部門も移転。1965年から藤倉ゴム工業の自動車タイヤ設備を継承。販売網未整備・新車市場に入りにくく苦戦
- [45]1961年に自動車タイヤへ進出、ゴム産業の7割が自動車タイヤ。ブランドはリケンタイヤ、国内最後発。群馬工場(7万坪)に新鋭設備、足利の履物部門も移転。1965年から藤倉ゴム工業の自動車タイヤ設備を継承。販売網未整備・新車市場に入りにくく苦戦
- [47]1961年に自動車タイヤへ進出、ゴム産業の7割が自動車タイヤ。ブランドはリケンタイヤ、国内最後発。群馬工場(7万坪)に新鋭設備、足利の履物部門も移転。1965年から藤倉ゴム工業の自動車タイヤ設備を継承。販売網未整備・新車市場に入りにくく苦戦
- [48]1961年に自動車タイヤへ進出、ゴム産業の7割が自動車タイヤ。ブランドはリケンタイヤ、国内最後発。群馬工場(7万坪)に新鋭設備、足利の履物部門も移転。1965年から藤倉ゴム工業の自動車タイヤ設備を継承。販売網未整備・新車市場に入りにくく苦戦
- 『企業の歴史:明治百年』1968年「岡本理研ゴム工業」
- [46]1964年に群馬工場を新設。1968年時点で自動車用タイヤ・チューブは業界五指
- [49]1964年に群馬工場を新設。1968年時点で自動車用タイヤ・チューブは業界五指
日本理研ゴムの大株主の首位は岡本ゴム工業で、1958年9月末には発行済み4,400千株のうち808,900株を持った。保有は1960年3月末に1,209,600株へ増えた。社長を岡本巳之助氏が兼ねる岡本ゴム工業は、1963年5月15日に東京証券取引所第2部へ上場し、1株500円で20万株を公募した。上場直前の1963年2月時点で、岡本ゴム工業の大株主は岡本巳之助氏の500,000株を筆頭に岡本家が並んだ。1962年4月期の販売の内訳は、ゴム履物が41.1%、衛生サックが38.9%、ゴム手袋が15.6%である。2社は1968年2月に合併して岡本理研ゴムとなった。上場で株価が付いたことが、2社の合併比率を決める物差しになったと思われる。
- 株式会社年鑑 1959年版「日本理研ゴム」
- [50]1958年9月30日現在の大株主首位 岡本ゴム工業808,900株、発行済み4,400千株
- 株式会社年鑑 1960年版「日本理研ゴム」
- [51]1960年3月31日現在の大株主 岡本ゴム工業1,209,600株
- 証券 15(6) 1963年
- [52]岡本ゴム工業 社長岡本巳之助、1963年5月15日東証第2部上場、公募200千株@500円で資本金110,000千円。1962年4月期の販売構成 ゴム履物41.1%・衛生サック38.9%・ゴム手袋15.6%。1963年2月21日現在の大株主 岡本巳之助500,000株ほか岡本家
- [53]岡本ゴム工業 社長岡本巳之助、1963年5月15日東証第2部上場、公募200千株@500円で資本金110,000千円。1962年4月期の販売構成 ゴム履物41.1%・衛生サック38.9%・ゴム手袋15.6%。1963年2月21日現在の大株主 岡本巳之助500,000株ほか岡本家
- [54]岡本ゴム工業 社長岡本巳之助、1963年5月15日東証第2部上場、公募200千株@500円で資本金110,000千円。1962年4月期の販売構成 ゴム履物41.1%・衛生サック38.9%・ゴム手袋15.6%。1963年2月21日現在の大株主 岡本巳之助500,000株ほか岡本家
- 『企業の歴史:明治百年』1968年「岡本理研ゴム工業」
- [55]1968年2月、日本理研ゴムと岡本ゴム工業が合併し岡本理研ゴムに社名変更
参考文献[36]-[55]
- ポケット社史『オカモト:"身近な暮らしを科学する"青春企業』1991年3月
- [36]日本理研ゴム発足時は4部門。レインコートの8割が米国向け、輸出比率25%超。荏原工場を座間市の旧海軍航空隊補給基地跡に移し3万8000坪の神奈川工場、カレンダー6台。工場新設は合成樹脂産業の発達を見込んだため。1963-64年に足利の鉄腕アトム漫画靴、ノンタックフィルムがヒット
- [37]日本理研ゴム発足時は4部門。レインコートの8割が米国向け、輸出比率25%超。荏原工場を座間市の旧海軍航空隊補給基地跡に移し3万8000坪の神奈川工場、カレンダー6台。工場新設は合成樹脂産業の発達を見込んだため。1963-64年に足利の鉄腕アトム漫画靴、ノンタックフィルムがヒット
- [39]日本理研ゴム発足時は4部門。レインコートの8割が米国向け、輸出比率25%超。荏原工場を座間市の旧海軍航空隊補給基地跡に移し3万8000坪の神奈川工場、カレンダー6台。工場新設は合成樹脂産業の発達を見込んだため。1963-64年に足利の鉄腕アトム漫画靴、ノンタックフィルムがヒット
- [40]日本理研ゴム発足時は4部門。レインコートの8割が米国向け、輸出比率25%超。荏原工場を座間市の旧海軍航空隊補給基地跡に移し3万8000坪の神奈川工場、カレンダー6台。工場新設は合成樹脂産業の発達を見込んだため。1963-64年に足利の鉄腕アトム漫画靴、ノンタックフィルムがヒット
- [41]日本理研ゴム発足時は4部門。レインコートの8割が米国向け、輸出比率25%超。荏原工場を座間市の旧海軍航空隊補給基地跡に移し3万8000坪の神奈川工場、カレンダー6台。工場新設は合成樹脂産業の発達を見込んだため。1963-64年に足利の鉄腕アトム漫画靴、ノンタックフィルムがヒット
- [44]1961年に自動車タイヤへ進出、ゴム産業の7割が自動車タイヤ。ブランドはリケンタイヤ、国内最後発。群馬工場(7万坪)に新鋭設備、足利の履物部門も移転。1965年から藤倉ゴム工業の自動車タイヤ設備を継承。販売網未整備・新車市場に入りにくく苦戦
- [45]1961年に自動車タイヤへ進出、ゴム産業の7割が自動車タイヤ。ブランドはリケンタイヤ、国内最後発。群馬工場(7万坪)に新鋭設備、足利の履物部門も移転。1965年から藤倉ゴム工業の自動車タイヤ設備を継承。販売網未整備・新車市場に入りにくく苦戦
- [47]1961年に自動車タイヤへ進出、ゴム産業の7割が自動車タイヤ。ブランドはリケンタイヤ、国内最後発。群馬工場(7万坪)に新鋭設備、足利の履物部門も移転。1965年から藤倉ゴム工業の自動車タイヤ設備を継承。販売網未整備・新車市場に入りにくく苦戦
- [48]1961年に自動車タイヤへ進出、ゴム産業の7割が自動車タイヤ。ブランドはリケンタイヤ、国内最後発。群馬工場(7万坪)に新鋭設備、足利の履物部門も移転。1965年から藤倉ゴム工業の自動車タイヤ設備を継承。販売網未整備・新車市場に入りにくく苦戦
- 『企業の歴史:明治百年』1968年「岡本理研ゴム工業」
- [38]1961年に神奈川工場、1964年に群馬工場を新設
- [46]1964年に群馬工場を新設。1968年時点で自動車用タイヤ・チューブは業界五指
- [49]1964年に群馬工場を新設。1968年時点で自動車用タイヤ・チューブは業界五指
- [55]1968年2月、日本理研ゴムと岡本ゴム工業が合併し岡本理研ゴムに社名変更
- 株式会社年鑑 1959年版「日本理研ゴム」
- [42]1958年9月期(半期)売上高1,115,369千円、従業員836人
- [50]1958年9月30日現在の大株主首位 岡本ゴム工業808,900株、発行済み4,400千株
- 株式会社年鑑 1962年版「日本理研ゴム」
- [43]1961年3月期(半期)売上高2,050,591千円、従業員1,455人、神奈川工場(高座郡座間町)
- 株式会社年鑑 1960年版「日本理研ゴム」
- [51]1960年3月31日現在の大株主 岡本ゴム工業1,209,600株
- 証券 15(6) 1963年
- [52]岡本ゴム工業 社長岡本巳之助、1963年5月15日東証第2部上場、公募200千株@500円で資本金110,000千円。1962年4月期の販売構成 ゴム履物41.1%・衛生サック38.9%・ゴム手袋15.6%。1963年2月21日現在の大株主 岡本巳之助500,000株ほか岡本家
- [53]岡本ゴム工業 社長岡本巳之助、1963年5月15日東証第2部上場、公募200千株@500円で資本金110,000千円。1962年4月期の販売構成 ゴム履物41.1%・衛生サック38.9%・ゴム手袋15.6%。1963年2月21日現在の大株主 岡本巳之助500,000株ほか岡本家
- [54]岡本ゴム工業 社長岡本巳之助、1963年5月15日東証第2部上場、公募200千株@500円で資本金110,000千円。1962年4月期の販売構成 ゴム履物41.1%・衛生サック38.9%・ゴム手袋15.6%。1963年2月21日現在の大株主 岡本巳之助500,000株ほか岡本家
出典・参考
6件
- 株式会社年鑑 1959年版「日本理研ゴム」
- 株式会社年鑑 1960年版「日本理研ゴム」
- 株式会社年鑑 1962年版「日本理研ゴム」
- 『企業の歴史:明治百年』1968年「岡本理研ゴム工業」
- ポケット社史『オカモト:"身近な暮らしを科学する"青春企業』1991年3月
- 証券 15(6) 1963年