Sansan黒字経営から赤字先行投資への転換と、法人向け名刺管理サービス初のテレビCM放映

製品を売るか、まず呼び名を作るか——買い手が困り事を自覚していない市場で、寺田親弘社長は何に資金を投じたか

時期 2013年8月
意思決定者(推定) 寺田親弘 社長
論点 市場創出と資本政策
概要
2013年、Sansan(当時の商号は三三株式会社)が自己資金で支出を抑える黒字経営をやめ、第三者割当増資で得た資金を、法人向けソフトウェアとしては異例のテレビCMへ投じた経営判断。同年8月1日にサービス名を「リンクナレッジ」から「Sansan」へ改め、8月4日から関東・関西エリアでCM第1弾「面識アリ」篇の放映を始めた。
背景
創業から6年間に集めた外部資金は5,000万円にとどまり、黒字を出した時期はあっても成長は加速しなかった。企業が名刺をクラウドで共有するという行為には呼び名も予算科目もなく、法人向け有料名刺管理サービスの市場規模は2013年時点で約14億円にすぎなかった。
内容
2013年4月に約5億円を調達し、以後2018年12月までの5年間でおよそ100億円を外部資本から集めて費用に充てた。CMのコンセプトには「名刺管理」という語を据える一方、営業の現場ではその語を避けてCRMやSFAと言い換え、認知を得る言葉と稟議を通す言葉を別に用意している。
含意
市場規模は2013年の約14億円から2024年に約291億円へ拡大し、同社の売上シェアは85.8%に達した。一方で販売費及び一般管理費が売上を上回る赤字は上場前まで続き、2022年にはSansan事業のタグラインから「名刺管理」が外れている。
筆者の見解

呼び名を作る費用は、誰が払うのか

創業から6年で集めた外部資金は5,000万円、次の5年でおよそ100億円。桁が二つ動いた資金の相当部分が、製品ではなく呼び名に向かった。企業が名刺をクラウドで共有するという行為に名前がない以上、営業をいくら重ねても比較検討の土俵に上がらない。寺田親弘社長が選んだのは、需要を取りに行くことではなく、需要の輪郭を先に描くことであった。黒字を出せる会社が黒字をやめる判断は、伸びない理由を製品ではなく市場の側に見立てたときにだけ成り立つとみられる。

ただ、この型を成功譚として一般化するのは難しい。テレビで区分の名を広めながら、商談ではその名を伏せてCRMやSFAと言い換えていた事実は、マス広告だけでは稟議が通らなかったことを示している。販管費が売上を上回る期間も長く、資金の出し手が続かなければ途中で止まっていた。作った言葉も永続しなかった。9年後には自らタグラインから外している。市場を作る費用は、作り終えたあとに会社を縛る資産にもなるとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

黒字だったが、伸びなかった最初の六年

三三株式会社が設立されたのは2007年6月で、同年9月には法人向けの「Link Knowledge」が動き始めていた。ただ、会社の伸びは緩やかであった。創業から6年間に集めた外部資金は5,000万円にとどまり、自己資金を入れて支出を抑える運転を続けている。黒字を出した時期もあったが、成長は加速しなかった。当時はクラウドでソフトウェアを提供するSaaSという形態自体がまれで、資金を集めて赤字を掘りながら伸ばす型は理解を得にくかった[1][2][3]

転換の説明を、寺田親弘社長は私的な挿話から始めている。2010年ごろ、事業は成立していても扱う範囲が狭いことに「しょぼいな」と感じ、登山家の栗城史多氏の講演を聴いて号泣したという。この人は命を懸けている、自分にそれくらいの覚悟はあるのか、と考えたのがきっかけであった。そこで投資して赤字でも顧客を取りに行こうと決めている。2012年2月には個人向けの無料アプリ「Eight」を収益度外視で始めており、方針の変更はこの時点から動き出していた[4][5]

買い手がまだ名前を知らない商品

外から見たときの同社の位置づけは、2013年3月の誌面によく表れている。週刊東洋経済のスマートフォン活用特集は、名刺保存の項でSansanを取り上げ、数多くある名刺管理アプリの中で最もユニークだと紹介した。評価の中心は無料サービス「エイト」と、オペレーターが1件ずつ人力で確認と修正を行う仕組みにある。法人向けの「リンクナレッジ」は事業の柱として一行触れられるにとどまった。個人が使うアプリの一種として棚に置かれていたことになる[6]

棚の位置は、そのまま売り方の難しさに直結した。企業が名刺をクラウドで共有するという行為には、まだ呼び名も予算科目もない。担当者が社内で稟議を書こうにも、何を買うのかを説明する言葉がなかった。市場そのものも小さく、法人向け有料名刺管理サービスの規模は2013年時点で約14億円にすぎない。立ち上げ初期の最大の課題は市場をどう作るかにあり、市場が確立してはじめて競合が増え始める——寺田社長は後年、この時期の課題をそう整理している[7][8]

決断

増資で得た資金を、テレビCMへ投じる

2013年4月、第三者割当増資により約5億円を調達した。創業から6年間に集めた外部資金の10倍にあたる。同年8月1日にはサービス名を「リンクナレッジ」から「Sansan」へ改め、8月4日から関東・関西エリアでテレビCM第1弾「面識アリ」篇の放映を始めている。部長役に松重豊氏、課長役に野間口徹氏、若手社員役に満島真之介氏を起用したドラマ仕立てで、掲げたコンセプトは「営業を強くする名刺管理 Sansan」であった[9][10]

法人向けソフトウェアがマス広告に出る例は、当時ほとんど見られなかった。買い手は企業の担当者であって視聴者ではないため、費用対効果の説明が立ちにくい。それでも同社はこの手段を選び、以後も出稿を続けている。原資は外部資本であった。2014年5月に約14億円、2016年1月に約20億円、2017年7月に約42億円、2018年12月に約30億円と増資を重ね、上場前の5年間でおよそ100億円を集めた。創業者の持株比率が薄まることを引き受けたうえでの継続であった[11][12]

CMで名づけ、商談では名づけない

CMが売ったのは製品よりも分類であった。コンセプトの中心に「名刺管理」という語を据え、それが企業向けに買える商品の区分として存在することを先に知らせている。この語はその後も残った。Sansan事業のタグラインは何度か変わったものの、「名刺管理」というキーワードが入っていない状態は創業以来一度もなかったと、寺田社長自身が2022年に述べている。9年にわたり、会社は同じ言葉を掲げ続けたことになる[13]

一方、営業の現場では逆の使い分けをしていた。担当者はサービスの説明に名刺という語を極力使わず、CRMやSFAと言い換えている。名刺は企業の資産であり人脈は共有できる、という受け取られ方を作るためであった。テレビでは分類の名を広く置き、商談では価値を営業支援の言葉へ寄せる。認知を得る言葉と、稟議を通す言葉を別に用意していた点に、この時期の設計の細かさがうかがえる[14]

結果

市場は立ち上がり、赤字は常態になった

市場は実際に生まれた。法人向け有料名刺管理サービスの規模は、2013年の約14億円から2024年には約291億円へと約21倍に拡大している。同社の売上シェアは2018年を対象とした調査で82.8%と7年連続の首位にあり、2026年1月の公表では85.8%、13年連続の首位となった。契約件数は2025年7月現在で1万1000件を超えている。区分が生まれ、その大半を最初に名を付けた側が取る形になった[15][16]

代償は費用の側に出た。2018年5月期の連結売上高73億2,400万円に対し、販売費及び一般管理費は89億5,003万円で売上を上回り、営業損益は30億6,145万円の赤字となる。売上総利益率が8割を超えるソフトウェア事業でなお赤字が残るのは、獲得と開発へ前倒しで資金を投じたためであった。この構造を抱えたまま2019年6月に東京証券取引所マザーズへ上場し、翌2020年5月期に営業利益7億5,727万円で黒字へ転じている[17][18]

手順の反復と、掲げた言葉を降ろすまで

広告そのものも資産になった。2013年に始めたシリーズは「それさぁ、早く言ってよ〜」の台詞で知られるようになり、2018年6月には第71回広告電通賞のサービス・文化部門で最優秀賞を受けている。2021年2月には、クラウド請求書受領サービス「Bill One」のテレビCMを「名刺の次は、請求書をテーマに」と銘打ち、同じ俳優陣で始めている。名刺で踏んだ手順が、そのまま二つ目の商材へ移された[19][20]

掲げた言葉を降ろす日も来た。2022年、同社はSansan事業のコンセプトを「営業を強くするデータベース」へ刷新する方針を示し、タグラインから「名刺管理」が外れる。創業以来初めてであった。名刺だけではない価値を訴求するきっかけにしたい、というのが寺田社長の説明である。オンラインでの商談が増えれば名刺の使用頻度も下がるという読みもあった。呼び名を作った会社が、その呼び名に自らを縛られる段階まで来ていた[21][22]

出典・参考

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