三菱総合研究所:三菱総合研究所の設立と本社の大手町移転
1970年〜有楽町に資本金5億円で発足した三菱総合研究所と、社会工学研究所との提携
三菱グループは1970年5月、東京都千代田区有楽町に資本金5億円で三菱総合研究所を設立した。事業の目的には、調査・分析、委託調査とコンサルティング、情報処理サービスを据えた。当時は産業構造の高度化で分野の境目を扱う研究の需要が増し、官民ともにシステム分析の専門機関を求める声が強まった。グループはこれを有望な未来産業の「情報産業」と位置づけ、三菱創業100年の節目に新会社を世に出す判断を下した。9月の創業にあたり、初代社長の中島正樹氏は『Better Information - Brighter Future』を基本精神に掲げた。シンクタンクの設立が相次いだ年に、グループの節目と情報化への期待を重ねた設立だったとみられる。
- 三菱総合研究所 有価証券報告書【沿革】
- [1]1970年5月、有楽町に資本金5億円で設立。目的は調査・分析、委託調査・コンサルティング、情報処理サービス
- [2]1970年5月、有楽町に資本金5億円で設立。目的は調査・分析、委託調査・コンサルティング、情報処理サービス
- 三菱総合研究所『三菱総合研究所50年史』序章「創業からの略史」(2022年)
- [3]設立趣意書:境界領域研究とシステム分析の専門機関の要望、情報産業を未来産業と位置付け。三菱創業100年。同年9月創業、初代社長中島正樹の基本精神
- [4]設立趣意書:境界領域研究とシステム分析の専門機関の要望、情報産業を未来産業と位置付け。三菱創業100年。同年9月創業、初代社長中島正樹の基本精神
- [5]設立趣意書:境界領域研究とシステム分析の専門機関の要望、情報産業を未来産業と位置付け。三菱創業100年。同年9月創業、初代社長中島正樹の基本精神
三菱総合研究所は設立から5か月後の1970年10月、技術経済情報センター(現・エム・アール・アイビジネス)を設立し、情報処理サービスと印刷の業務を始めた。三菱グループは新会社の設立にあたり、核になりうる組織として技術経済情報センターを含む3つを持っていた。残る2つは三菱経済研究所と、三菱原子力工業の総合計算センターである。ただし3組織を一体にするだけでは目的に足りず、独立・学際・未来志向の3理念で統一する方針をとった。創業期の収益は、コンピュータとソフトウェア開発の事業が支えた。計算と印刷を別会社に置き、本体の研究員を調査研究に向ける狙いがあったと推察される。
- 三菱総合研究所 有価証券報告書【沿革】
- [6]1970年10月、技術経済情報センター(現エム・アール・アイビジネス)を設立し情報処理サービス・印刷業務を開始
- 三菱総合研究所『三菱総合研究所50年史』序章「創業からの略史」(2022年)
- [7]設立時の核は三菱経済研究所・三菱原子力工業総合計算センター・技術経済情報センターの3組織。3理念で統一。当初はコンピュータ・ソフトウェア開発事業が収益を支えた
- [8]設立時の核は三菱経済研究所・三菱原子力工業総合計算センター・技術経済情報センターの3組織。3理念で統一。当初はコンピュータ・ソフトウェア開発事業が収益を支えた
- [9]設立時の核は三菱経済研究所・三菱原子力工業総合計算センター・技術経済情報センターの3組織。3理念で統一。当初はコンピュータ・ソフトウェア開発事業が収益を支えた
- [10]設立時の核は三菱経済研究所・三菱原子力工業総合計算センター・技術経済情報センターの3組織。3理念で統一。当初はコンピュータ・ソフトウェア開発事業が収益を支えた
1970年10月、社長の中島正樹氏が率いる三菱総合研究所は、黒川紀章氏が所長を務める社会工学研究所と、個別のプロジェクトを通じて提携を深めることで原則合意。社会工学研究所は社会開発と地域開発に特化し、三菱総合研究所はコンピュータのソフトウェア開発に強みがあった。双方は、それぞれの得意分野の案件で業務を交換し協力する考え方で一致した。同じ時期には、有力シンクタンクの首脳から、乱立する同業をまとめるシンクタンク協会の構想も持ち上がった。翌1971年には日本シンクタンク協議会が発足した。新設が続く業界で、得意の違う機関と案件ごとに提携することが、受注の幅を広げる手立てだったと思われる。
- 日経ビジネス 1970年10月5日号
- [11]社会工学研究所(黒川紀章所長)と三菱総合研究所が具体的プロジェクトを通じた提携で原則合意。社工研は社会開発・地域開発、三菱総研はソフトウェア開発に強い。シンクタンク協会構想
- [13]社会工学研究所(黒川紀章所長)と三菱総合研究所が具体的プロジェクトを通じた提携で原則合意。社工研は社会開発・地域開発、三菱総研はソフトウェア開発に強い。シンクタンク協会構想
- [14]社会工学研究所(黒川紀章所長)と三菱総合研究所が具体的プロジェクトを通じた提携で原則合意。社工研は社会開発・地域開発、三菱総研はソフトウェア開発に強い。シンクタンク協会構想
- [15]社会工学研究所(黒川紀章所長)と三菱総合研究所が具体的プロジェクトを通じた提携で原則合意。社工研は社会開発・地域開発、三菱総研はソフトウェア開発に強い。シンクタンク協会構想
- 三菱総合研究所『三菱総合研究所50年史』序章「創業からの略史」(2022年)
- [12]初代社長は中島正樹。1971年に日本シンクタンク協議会が発足
- [16]初代社長は中島正樹。1971年に日本シンクタンク協議会が発足
参考文献[1]-[16]
- 三菱総合研究所 有価証券報告書【沿革】
- [1]1970年5月、有楽町に資本金5億円で設立。目的は調査・分析、委託調査・コンサルティング、情報処理サービス
- [2]1970年5月、有楽町に資本金5億円で設立。目的は調査・分析、委託調査・コンサルティング、情報処理サービス
- [6]1970年10月、技術経済情報センター(現エム・アール・アイビジネス)を設立し情報処理サービス・印刷業務を開始
- 三菱総合研究所『三菱総合研究所50年史』序章「創業からの略史」(2022年)
- [3]設立趣意書:境界領域研究とシステム分析の専門機関の要望、情報産業を未来産業と位置付け。三菱創業100年。同年9月創業、初代社長中島正樹の基本精神
- [4]設立趣意書:境界領域研究とシステム分析の専門機関の要望、情報産業を未来産業と位置付け。三菱創業100年。同年9月創業、初代社長中島正樹の基本精神
- [5]設立趣意書:境界領域研究とシステム分析の専門機関の要望、情報産業を未来産業と位置付け。三菱創業100年。同年9月創業、初代社長中島正樹の基本精神
- [7]設立時の核は三菱経済研究所・三菱原子力工業総合計算センター・技術経済情報センターの3組織。3理念で統一。当初はコンピュータ・ソフトウェア開発事業が収益を支えた
- [8]設立時の核は三菱経済研究所・三菱原子力工業総合計算センター・技術経済情報センターの3組織。3理念で統一。当初はコンピュータ・ソフトウェア開発事業が収益を支えた
- [9]設立時の核は三菱経済研究所・三菱原子力工業総合計算センター・技術経済情報センターの3組織。3理念で統一。当初はコンピュータ・ソフトウェア開発事業が収益を支えた
- [10]設立時の核は三菱経済研究所・三菱原子力工業総合計算センター・技術経済情報センターの3組織。3理念で統一。当初はコンピュータ・ソフトウェア開発事業が収益を支えた
- [12]初代社長は中島正樹。1971年に日本シンクタンク協議会が発足
- [16]初代社長は中島正樹。1971年に日本シンクタンク協議会が発足
- 日経ビジネス 1970年10月5日号
- [11]社会工学研究所(黒川紀章所長)と三菱総合研究所が具体的プロジェクトを通じた提携で原則合意。社工研は社会開発・地域開発、三菱総研はソフトウェア開発に強い。シンクタンク協会構想
- [13]社会工学研究所(黒川紀章所長)と三菱総合研究所が具体的プロジェクトを通じた提携で原則合意。社工研は社会開発・地域開発、三菱総研はソフトウェア開発に強い。シンクタンク協会構想
- [14]社会工学研究所(黒川紀章所長)と三菱総合研究所が具体的プロジェクトを通じた提携で原則合意。社工研は社会開発・地域開発、三菱総研はソフトウェア開発に強い。シンクタンク協会構想
- [15]社会工学研究所(黒川紀章所長)と三菱総合研究所が具体的プロジェクトを通じた提携で原則合意。社工研は社会開発・地域開発、三菱総研はソフトウェア開発に強い。シンクタンク協会構想
1973年〜牧野昇氏が説いた産業の知識集約化と、大手町への本社移転
1970年5月の三菱総合研究所の設立には、三菱製鋼の取締役で磁材事業部長だった牧野昇氏が加わった。牧野昇氏は特殊磁石のMTマグネットを発明し、戦後の技術輸出の第1号を生んだ。1978年1月の時点では専務取締役として、郵政審議会や宇宙開発委員会など30近い政府委員会の委員を兼ねた。同月の技術対談では、情報化が情報産業の伸長にとどまらず、産業全体の知識集約化をもたらすという見方を示した。研究開発部門は第7期(1976年4月〜1977年3月)に単年度黒字へ転じ、調査研究の分野も収益の上で自立。政府の委員を多く兼ねる研究者が誌面に出ることが、受託調査の会社の名を広めたのだろう。
- 日経ビジネス 1984年3月26日号 編集長インタビュー 牧野昇氏
- [17]三菱製鋼取締役・磁材事業部長を経て1970年5月に三菱総研の設立に参加。MTマグネットを発明(戦後の技術輸出第1号)
- [18]三菱製鋼取締役・磁材事業部長を経て1970年5月に三菱総研の設立に参加。MTマグネットを発明(戦後の技術輸出第1号)
- 日経ビジネス 1978年1月16日号 技術対談
- [19]1978年1月時点で専務取締役、郵政審議会・宇宙開発委員会など30近い政府委員会委員を兼務。情報化社会は産業全体の情報化・知識集約化をもたらすと説く
- [20]1978年1月時点で専務取締役、郵政審議会・宇宙開発委員会など30近い政府委員会委員を兼務。情報化社会は産業全体の情報化・知識集約化をもたらすと説く
- 三菱総合研究所『三菱総合研究所50年史』序章「創業からの略史」(2022年)
- [21]研究開発部門も第7期(1976年4月〜1977年3月)から単年度黒字となり調査研究分野が自立
1973年秋の第1次石油危機で、創業間もない三菱総合研究所の赤字は見込みを超えて膨らんだ。コストの削減と売上の拡大を進め、第6期(1975年4月〜1976年3月)に発足後初の単年度黒字を計上した。1979年5月には、本社を有楽町から東京都千代田区大手町へ移転。累積損失は、当初の見込みより早い第12期(1981年4月〜1982年3月)で解消した。移転の理由を記した資料は手元に無く、黒字に転じた後の拠点固めだったとみられる。
- 三菱総合研究所『三菱総合研究所50年史』序章「創業からの略史」(2022年)
- [22]1973年秋の第1次石油危機で赤字拡大、第6期(1975/4-1976/3)に初の単年度黒字、累積損失は予想より早く第12期(1981/4-1982/3)で解消
- [23]1973年秋の第1次石油危機で赤字拡大、第6期(1975/4-1976/3)に初の単年度黒字、累積損失は予想より早く第12期(1981/4-1982/3)で解消
- [25]1973年秋の第1次石油危機で赤字拡大、第6期(1975/4-1976/3)に初の単年度黒字、累積損失は予想より早く第12期(1981/4-1982/3)で解消
- 三菱総合研究所 有価証券報告書【沿革】
- [24]1979年5月、本社を東京都千代田区大手町に移転
参考文献[17]-[25]
- 日経ビジネス 1984年3月26日号 編集長インタビュー 牧野昇氏
- [17]三菱製鋼取締役・磁材事業部長を経て1970年5月に三菱総研の設立に参加。MTマグネットを発明(戦後の技術輸出第1号)
- [18]三菱製鋼取締役・磁材事業部長を経て1970年5月に三菱総研の設立に参加。MTマグネットを発明(戦後の技術輸出第1号)
- 日経ビジネス 1978年1月16日号 技術対談
- [19]1978年1月時点で専務取締役、郵政審議会・宇宙開発委員会など30近い政府委員会委員を兼務。情報化社会は産業全体の情報化・知識集約化をもたらすと説く
- [20]1978年1月時点で専務取締役、郵政審議会・宇宙開発委員会など30近い政府委員会委員を兼務。情報化社会は産業全体の情報化・知識集約化をもたらすと説く
- 三菱総合研究所『三菱総合研究所50年史』序章「創業からの略史」(2022年)
- [21]研究開発部門も第7期(1976年4月〜1977年3月)から単年度黒字となり調査研究分野が自立
- [22]1973年秋の第1次石油危機で赤字拡大、第6期(1975/4-1976/3)に初の単年度黒字、累積損失は予想より早く第12期(1981/4-1982/3)で解消
- [23]1973年秋の第1次石油危機で赤字拡大、第6期(1975/4-1976/3)に初の単年度黒字、累積損失は予想より早く第12期(1981/4-1982/3)で解消
- [25]1973年秋の第1次石油危機で赤字拡大、第6期(1975/4-1976/3)に初の単年度黒字、累積損失は予想より早く第12期(1981/4-1982/3)で解消
- 三菱総合研究所 有価証券報告書【沿革】
- [24]1979年5月、本社を東京都千代田区大手町に移転
出典・参考
5件
- 三菱総合研究所 有価証券報告書【沿革】
- 三菱総合研究所『三菱総合研究所50年史』序章「創業からの略史」(2022年)
- 日経ビジネス 1970年10月5日号
- 日経ビジネス 1978年1月16日号 技術対談
- 日経ビジネス 1984年3月26日号 編集長インタビュー 牧野昇氏