トヨタ紡織:豊田紡織の創立とトヨタ自動車工業への合併
1918年〜自動織機の試験の場として起こした紡織会社
豊田紡織は1918年1月に創立した。母体は、自動織機を発明した豊田佐吉氏が試験のために建てた織布工場である。1923年11月には刈谷工場を建て、この工場が豊田佐吉氏の発明を確かめる場となった。1931年9月には菊井紡織を合併し、紡織の生産拠点を増やした。戦後の民成紡績も、豊田自動織機の試験工場を兼ねる立場から設備を常に新しく保つ紡績会社と紹介された。織機を造る一族が自ら糸と布を生産し、機械の性能を量産の条件で検証する垂直の仕組みだったとみられる。
- トヨタ紡織 有価証券報告書 第81期(2006年3月期)【沿革】
- [1]豊田紡織株式会社は1918年(大正7年)1月に創立
- [3]1923年(大正12年)11月に刈谷工場を建設
- 東邦経済 26(8) 1956年「最新の設備を誇る民成紡績」
- [2]前身の豊田紡織は、豊田佐吉が実験工場として建設した織布工場を基礎として1918年に創立
- [5]1931年(昭和6年)9月に菊井紡織を合併
- [6]民成紡績は豊田自動織機の実験工場的な使命をもち、設備は常に最新と紹介された
- 新日本経済 19(7) 1955年
- [4]豊田紡織の刈谷工場は豊田自動織機の発明者・豊田佐吉の実験工場として建設された(同誌は建設を大正11年3月と記す)
石田退三氏は旧制の滋賀一中を出たのち、家具屋や呉服屋の奉公を経て、糸の問屋である服部商店に勤めた。のちに豊田家に招かれ、1927年に豊田紡織へ入社した。豊田紡織での担当は綿布の事業である。豊田系列のなかで内部留保を厚く積む規律が根づいていたのは、紡績の事業である。石田退三氏は自動車の事業との差を『紡績の方ではそれを徹底してやりましたが,カジ屋はその点ルーズです』と振り返った。のちにトヨタ自動車工業の再建を担う石田退三氏の財務の規律は、紡織の現場で培われたのだろう。
- 実業の世界 65(11) 1968年
- [7]石田退三は滋賀一中を卒業後、家具屋・呉服屋の小僧を経て服部商店(興和紡の前身)に入った
- [8]石田退三は豊田一族に招かれて豊田家の番頭格となり、豊田紡織・豊田自動織機を経てトヨタ自動車へ移った
- マネジメント 29(6) 1970年 石田退三・森川覚三
- [9]石田退三は1927年(昭和2年)に豊田紡織へ入社した
- [10]石田退三は豊田紡織で綿布を担当していた
- [11]石田退三は、内部留保の重視は紡績の事業で徹底していたと述べた
- [12]石田退三は、自動車の事業は内部留保の点でルーズだったと述べた
参考文献[1]-[12]
- トヨタ紡織 有価証券報告書 第81期(2006年3月期)【沿革】
- [1]豊田紡織株式会社は1918年(大正7年)1月に創立
- [3]1923年(大正12年)11月に刈谷工場を建設
- 東邦経済 26(8) 1956年「最新の設備を誇る民成紡績」
- [2]前身の豊田紡織は、豊田佐吉が実験工場として建設した織布工場を基礎として1918年に創立
- [5]1931年(昭和6年)9月に菊井紡織を合併
- [6]民成紡績は豊田自動織機の実験工場的な使命をもち、設備は常に最新と紹介された
- 新日本経済 19(7) 1955年
- [4]豊田紡織の刈谷工場は豊田自動織機の発明者・豊田佐吉の実験工場として建設された(同誌は建設を大正11年3月と記す)
- 実業の世界 65(11) 1968年
- [7]石田退三は滋賀一中を卒業後、家具屋・呉服屋の小僧を経て服部商店(興和紡の前身)に入った
- [8]石田退三は豊田一族に招かれて豊田家の番頭格となり、豊田紡織・豊田自動織機を経てトヨタ自動車へ移った
- マネジメント 29(6) 1970年 石田退三・森川覚三
- [9]石田退三は1927年(昭和2年)に豊田紡織へ入社した
- [10]石田退三は豊田紡織で綿布を担当していた
- [11]石田退三は、内部留保の重視は紡績の事業で徹底していたと述べた
- [12]石田退三は、自動車の事業は内部留保の点でルーズだったと述べた
1941年〜戦時の統合と自動車への吸収、紡織部としての復元
1941年、紡績業の合同が進むなかで豊田紡織も統合の対象となった。綿布を担っていた石田退三氏は、その過程で豊田自動織機へ常務として移った。トヨタ自動車の創業者にあたる豊田喜一郎氏が自動車の事業を進める一方、豊田自動織機は自動車部品の生産に応じず、その打開を託された人事である。翌1942年2月、豊田紡織は内海紡織・中央紡織・協和紡績・豊田押切紡織の4社と合併し、中央紡績を設立した。新会社の規模は、資本金3,468万円、紡機51万3,756錘、織機7,486台である。紡織の人材が機械の事業へ移り始めた起点を、この統合が画したと推察される。
- マネジメント 29(6) 1970年 石田退三・森川覚三
- [13]1941年ごろ紡績関係の合同が求められ、豊田紡織も合同させられた
- [14]石田退三は1941年(昭和16年)に常務として豊田自動織機へ移った
- [16]豊田喜一郎が自動車を手がけていたが、豊田自動織機は自動車部品を作らず、その立て直しのため石田退三が送られた
- 実業の世界 65(11) 1968年
- [15]豊田喜一郎はトヨタ自動車の産みの親とされる
- トヨタ紡織 有価証券報告書 第81期(2006年3月期)【沿革】
- [17]1942年(昭和17年)2月に内海紡織・中央紡織・協和紡績・豊田押切紡織の4社と合併
- 東邦経済 26(8) 1956年「最新の設備を誇る民成紡績」
- [18]1942年2月の5社合併で設立した中央紡績は資本金3,468万円、紡機51万3,756錘、織機7,486台、撚糸機3万2,528錘を有した
1943年11月、中央紡績はトヨタ自動車工業へ合併。戦時の企業整備による合併で、工場の一部は機械工場へ転用するか売却し、紡織機の大半は産業設備営団に供出した。旧中央紡績の刈谷工場は、トヨタ自動車工業の刈谷南工場として電装部門を受け入れた。新型のスーパーハイドラフト紡機は海外へ移す扱いとなった。紡績の設備を失った刈谷の建屋と人員を、自動車部品の生産へ振り向ける転換だっただろう。
- トヨタ紡織 有価証券報告書 第81期(2006年3月期)【沿革】
- [19]1943年(昭和18年)11月にトヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)に合併(東邦経済1956年は18年9月と記す)
- 東邦経済 26(8) 1956年「最新の設備を誇る民成紡績」
- [20]トヨタ自動車工業との合併は企業整備によるもので、一部工場は機械工場に転用または売却し、紡織機設備の大部分を供出した
- [22]1943年の合併で電装部門は旧中央紡績刈谷工場に移り、トヨタ自動車刈谷南工場となった
- [23]当時新型として注目されたスーパーハイドラフト紡機は海外に移すこととなった
- 新日本経済 19(7) 1955年
- [21]トヨタ自動車工業への合併後、機械設備の大部分は産業設備営団に供出され、一部は海外に移駐された
スーパーハイドラフト紡機は海上輸送の途が断たれ、梱包を解かないまま国内に残った。トヨタ自動車工業はこの紡機を元手に紡織の再開を計画し、1946年1月に紡績業の復元の許可を得た。紡織部を置いて刈谷工場に据え付け、紡機5万5,000錘と織機668台を復元した。1948年9月には電装部門が刈谷北工場へ移り、紡織と電装の工場が分かれた。この紡織部が、1950年5月に分離独立する民成紡績の母体である。供出を免れた紡機が、戦後の再出発を支える設備の起点になったと思われる。
- 東邦経済 26(8) 1956年「最新の設備を誇る民成紡績」
- [24]スーパーハイドラフト紡機は海上輸送が困難なため梱包のまま国内に残っていた
- [25]残った紡機で紡織業を再建する計画を立て、1946年(昭和21年)に政府の認可を得た
- [27]トヨタ自動車工業紡織部として刈谷工場に据え付け、紡機5万5,000錘・織機668台を復元した
- [28]戦後の紡績部門の再開に伴い、電装部門は1948年(昭和23年)9月に刈谷北工場へ移った
- 新日本経済 19(7) 1955年
- [26]1946年(昭和21年)1月に紡績工業復元の許可を得てトヨタ自動車工業の紡織部として発足した
- [30]紡織部は1950年5月に独立して民成紡績となり、いわゆる新紡会社にあたる
- トヨタ紡織 有価証券報告書 第81期(2006年3月期)【沿革】
- [29]1950年(昭和25年)5月にトヨタ自動車工業から分離独立し、民成紡績株式会社を設立
参考文献[13]-[30]
- マネジメント 29(6) 1970年 石田退三・森川覚三
- [13]1941年ごろ紡績関係の合同が求められ、豊田紡織も合同させられた
- [14]石田退三は1941年(昭和16年)に常務として豊田自動織機へ移った
- [16]豊田喜一郎が自動車を手がけていたが、豊田自動織機は自動車部品を作らず、その立て直しのため石田退三が送られた
- 実業の世界 65(11) 1968年
- [15]豊田喜一郎はトヨタ自動車の産みの親とされる
- トヨタ紡織 有価証券報告書 第81期(2006年3月期)【沿革】
- [17]1942年(昭和17年)2月に内海紡織・中央紡織・協和紡績・豊田押切紡織の4社と合併
- [19]1943年(昭和18年)11月にトヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)に合併(東邦経済1956年は18年9月と記す)
- [29]1950年(昭和25年)5月にトヨタ自動車工業から分離独立し、民成紡績株式会社を設立
- 東邦経済 26(8) 1956年「最新の設備を誇る民成紡績」
- [18]1942年2月の5社合併で設立した中央紡績は資本金3,468万円、紡機51万3,756錘、織機7,486台、撚糸機3万2,528錘を有した
- [20]トヨタ自動車工業との合併は企業整備によるもので、一部工場は機械工場に転用または売却し、紡織機設備の大部分を供出した
- [22]1943年の合併で電装部門は旧中央紡績刈谷工場に移り、トヨタ自動車刈谷南工場となった
- [23]当時新型として注目されたスーパーハイドラフト紡機は海外に移すこととなった
- [24]スーパーハイドラフト紡機は海上輸送が困難なため梱包のまま国内に残っていた
- [25]残った紡機で紡織業を再建する計画を立て、1946年(昭和21年)に政府の認可を得た
- [27]トヨタ自動車工業紡織部として刈谷工場に据え付け、紡機5万5,000錘・織機668台を復元した
- [28]戦後の紡績部門の再開に伴い、電装部門は1948年(昭和23年)9月に刈谷北工場へ移った
- 新日本経済 19(7) 1955年
- [21]トヨタ自動車工業への合併後、機械設備の大部分は産業設備営団に供出され、一部は海外に移駐された
- [26]1946年(昭和21年)1月に紡績工業復元の許可を得てトヨタ自動車工業の紡織部として発足した
- [30]紡織部は1950年5月に独立して民成紡績となり、いわゆる新紡会社にあたる
出典・参考
5件
- トヨタ紡織 有価証券報告書 第81期(2006年3月期)【沿革】
- 新日本経済 19(7) 1955年
- 東邦経済 26(8) 1956年「最新の設備を誇る民成紡績」
- 実業の世界 65(11) 1968年
- マネジメント 29(6) 1970年 石田退三・森川覚三