ビックカメラ:現像業から池袋店開店による量販店への転換
高崎DPセンター40店の整理から池袋北口店へ
1961年〜仏壇用写真の複写と大塚駅前の薬局
ビックカメラの創業者である新井隆司氏が最初に売ったのは、カメラでも現像でもなく、仏壇に飾る写真の複写だった。1946年5月に群馬県で生まれた新井氏は、5歳で母を亡くしている。思い出は小さな写真一枚だけで、高校1年のときに引き伸ばしを頼んだ写真屋からは、そんな技術は持っていないと断られた。新井氏は写真の合成技術とエアブラシによる修正を独学で研究し、試行錯誤の末に思い描いた通りの一枚を自分で作った。同じ思いの人が他にもいるはずだと考えて葬儀店を回り、仏壇に飾る写真の作成を請け負うようになる。1枚3,500円で、多いときは一晩に10件の複写を頼まれた。断られた技術を自分で持つところから商売が立ち上がった。
- 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
- [1]新井隆司氏は葬儀店を回り、仏壇に飾る写真の作成を引き受けるようになった。これが商売の第一歩だった
- [2]新井隆司氏は1946年(昭和21年)5月、群馬県生まれ。5歳のときに母を亡くした
- [3]母の思い出はほんの小さな写真一枚だけで、高校1年のときに引き伸ばそうと近くの写真屋を訪ねたが、そんな技術は持っていないと断られた
- [5]同じ思いをしている人が他にもいるに違いないと考え、葬儀店を回って仏壇に飾る写真の作成を引き受けた
- [6]複写は1枚3,500円で、多いときは一晩で10件の注文を受けた
- NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
- [4]母の写真を復元したい一心で、写真の合成技術やエアブラシによる修正を独学で研究し、イメージ通りの写真を自分で作った
高校を出た新井氏は群馬に留まらず、まず薬の商いで東京へ出ている。1965年に群馬県立高崎工業高校を卒業したあと、実家の薬局を手伝った縁で薬の世界に入り、仲介まがいの仕事で500万円の元手を作った。1966年には大塚駅前に薬局を開設している。ところが経営が安定し始めた頃、父が心臓を患って床に伏した。兄が米国に留学中で男手は新井氏一人だったため、薬局を他人へ譲って高崎へ引き揚げた。高崎で選んだのは、売るだけの商いではなく高校時代のアルバイトで身につけた現像の技術を使う仕事だった。高校時代から東京でひと花咲かせたいと考えていた新井氏にとって、この帰郷は東京での最初の挫折だった。
- 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
- [7]新井隆司氏は高校卒業後に一度上京し、実家の薬局を手伝っていた縁から薬の世界に入った
- [9]薬の世界でブローカーまがいの仕事をして500万円の元手を作り、1966年(昭和41年)に大塚駅前へ薬局を開店した
- [10]薬局が軌道に乗ってきた頃、父が心臓を患って床に伏したという知らせが届いた
- [11]兄が米国に留学中で男手は新井氏一人という事情があり、薬局を他人に譲って高崎へ引き揚げた
- [12]もともと技術者志望で売るだけの仕事には不満があり、高崎へ戻ると高校時代のアルバイトで身につけた技術を生かして再びDPE業を始めることを思い立った
- [13]高校時代から東京でひと花咲かせようという気持ちがあり、薬局を手放しての帰郷は東京勝負のつまずきだった
- NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
- [8]新井隆司氏は1965年(昭和40年)に群馬県立高崎工業高校を卒業した
ビックカメラの原点は、1968年3月に群馬県高崎市中大類町へ設けられた株式会社高崎DPセンターである。現像所の用地は借りられたが、建物は新井氏が自らセメントを練って仕上げ、設備も現像機以外はほとんど手製だった。店舗は立地こそ一等地に取ったものの、広さはわずか一坪のミニショップにすぎない。開店初日の売上は700円だった。それでもこの商売は必ず伸びるという確信があり、根拠は値段と速さに置かれていた。当時のサービス判白黒プリントは相場が10円だったが、これを7円に下げ、3時間のスピード仕上げを売り物にした。注文は殺到し、1カ月後には十分に採算の合う商売になった。技術者志望だった新井氏にとって、現像は手を動かして値段を作れる商売でもあった。
- ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
- [14]提出会社の原点は、昭和43年3月に群馬県高崎市中大類町へ設立された株式会社高崎DPセンターである
- 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
- [15]現像所の用地は借りたが、建物は自らセメントを練って完成させ、設備も現像機以外はほとんど手製だった
- [16]店舗は立地こそ一等地にあったが、わずか一坪のミニショップにすぎなかった
- [17]1968年3月に高崎市で高崎DPセンターを始めた初日の売上は700円だった
- [19]当時のサービス判白黒プリントの相場は10円だったが、これを7円にし、3時間のスピード仕上げを売り物にした
- [20]注文が殺到し、1カ月後には十分採算に合う商売になった
- NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
- [18]新井隆司氏は写真に興味がわき、昭和43年に高崎でDPセンターを設立した
参考文献[1]-[20]
- 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
- [1]新井隆司氏は葬儀店を回り、仏壇に飾る写真の作成を引き受けるようになった。これが商売の第一歩だった
- [2]新井隆司氏は1946年(昭和21年)5月、群馬県生まれ。5歳のときに母を亡くした
- [3]母の思い出はほんの小さな写真一枚だけで、高校1年のときに引き伸ばそうと近くの写真屋を訪ねたが、そんな技術は持っていないと断られた
- [5]同じ思いをしている人が他にもいるに違いないと考え、葬儀店を回って仏壇に飾る写真の作成を引き受けた
- [6]複写は1枚3,500円で、多いときは一晩で10件の注文を受けた
- [7]新井隆司氏は高校卒業後に一度上京し、実家の薬局を手伝っていた縁から薬の世界に入った
- [9]薬の世界でブローカーまがいの仕事をして500万円の元手を作り、1966年(昭和41年)に大塚駅前へ薬局を開店した
- [10]薬局が軌道に乗ってきた頃、父が心臓を患って床に伏したという知らせが届いた
- [11]兄が米国に留学中で男手は新井氏一人という事情があり、薬局を他人に譲って高崎へ引き揚げた
- [12]もともと技術者志望で売るだけの仕事には不満があり、高崎へ戻ると高校時代のアルバイトで身につけた技術を生かして再びDPE業を始めることを思い立った
- [13]高校時代から東京でひと花咲かせようという気持ちがあり、薬局を手放しての帰郷は東京勝負のつまずきだった
- [15]現像所の用地は借りたが、建物は自らセメントを練って完成させ、設備も現像機以外はほとんど手製だった
- [16]店舗は立地こそ一等地にあったが、わずか一坪のミニショップにすぎなかった
- [17]1968年3月に高崎市で高崎DPセンターを始めた初日の売上は700円だった
- [19]当時のサービス判白黒プリントの相場は10円だったが、これを7円にし、3時間のスピード仕上げを売り物にした
- [20]注文が殺到し、1カ月後には十分採算に合う商売になった
- NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
- [4]母の写真を復元したい一心で、写真の合成技術やエアブラシによる修正を独学で研究し、イメージ通りの写真を自分で作った
- [8]新井隆司氏は1965年(昭和40年)に群馬県立高崎工業高校を卒業した
- [18]新井隆司氏は写真に興味がわき、昭和43年に高崎でDPセンターを設立した
- ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
- [14]提出会社の原点は、昭和43年3月に群馬県高崎市中大類町へ設立された株式会社高崎DPセンターである
1971年〜40店から6店への整理とカメラ販売への主力移動
安さと速さで客を集めた結果、設立から3年目にはチェーン店が40店に達し、群馬県下で最大級のフィルム現像会社になった。しかし店舗数の多さは、そのまま経営の負担へ変わる。年中無休と午前10時から午後8時までの10時間営業をセールスポイントにしていたため人員効率が悪く、人件費が急膨張した。現金を小口で受ける商いのため会計事務も繁雑になった。この頃の新井氏の仕事は各店の管理のため車で回ることだけに追われ、走行距離は毎日350キロに達していた。事業計画を立てる余裕がなく、このままでは経営の責任が取れなくなると考えるようになった。この現像チェーンはカメラ販売部門を内部に抱えており、のちにそこだけが切り出される。伸びている最中に縮めなければ止まらない構造だった。
- 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
- [21]設立から3年目にはチェーン店が40店に達し、群馬県下では最大級のフィルム現像会社となった
- [22]店舗数の多さが逆に経営の負担になってきた
- [23]年中無休と午前10時から午後8時までの10時間営業をセールスポイントにしていたため人員効率が悪く、人件費が急膨張した
- [24]目銭商売のため会計事務なども繁雑になった
- [25]この頃の仕事は各店の管理のため車で回ることだけに追われ、毎日350キロも走っていた
- [26]事業計画を立てるゆとりが全くなく、このままでは経営の責任が取れなくなると考えるようになった
- ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
- [27]株式会社高崎DPセンターは、その後カメラ販売部門を分離して株式会社ビックカラーを設立した
新井氏は40店を6店へ絞り込んだ。事業は順調に進んでいるのになぜ、といぶかる人もいた。ただしこの整理は撤退ではなく、規模の縮小と同時にDPEより高付加価値のカメラ販売部門へ主力を移す組み替えだった。1972年には販売部門を分離して株式会社ビックカラーを設立し、カメラと関連商品の販売を本体に据えている。店舗の整理が済んだ直後に第一次石油危機が日本を襲った。40店のままなら倒産の危機に見舞われていたかもしれないと、新井氏はのちに書いている。高崎の会社が第一次石油危機を乗り切って経営的に安定したことが、次の東京進出の元手になった。現像は薄利で人手を食い、カメラは単価が高く在庫で戦える商材であり、店数ではなく一店の中身へ資源を寄せる判断だった。
- 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
- [28]思い切って店舗の縮小に踏み切り、40店を6店に絞り込んだ
- [29]当時は事業が順調に進んでいるのになぜ、といぶかる人もいた
- [30]規模縮小と同時に、DPEよりも高付加価値のカメラ販売部門に主力を移した
- [32]店舗の整理が済んだ直後に第一次石油危機が日本を襲った
- [33]40店のままだったら倒産の危機に見舞われていたかもしれないと新井隆司氏は述べている
- [34]高崎の会社が第一次石油危機も乗り切り、経営的に安定していたことから東京の市場調査に乗り出した
- NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
- [31]1972年(昭和47年)、DPセンターの販売部門を独立させて株式会社ビックカラーを設立した
群馬県内ではカメラ販売会社として知られ、第一次石油危機も乗り越えて経営が安定していた高崎の会社は、1978年4月に株式会社ビックカラーから株式会社ビックカメラ(高崎)へと社名を改めた。BIGではなくBICと綴るこの名には、規模の大きさだけでなく奥行きも備えた企業になりたいという思いが込められたとされる。新井氏の説明では、一番の深さ・一番の高さ・一番の広さをまとめて漢字で表すと空になる。残っていたのは、東京へ出たいという気持ちだけだった。現像の略号を外してカメラを社名へ置いたことで、業態の転換は名前の上でも確定した。
- 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
- [35]高崎でDPE業を始めてから10年近くが経ち、カメラ販売会社として群馬県下では名前も通っていた
- [40]その間も新井隆司氏の心の中でくすぶっていたのは、東京で勝負してみたいという気持ちだった
- ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
- [36]株式会社ビックカラーは昭和53年4月に株式会社ビックカメラ(高崎)へ商号を変更した
- NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
- [37]ビックカメラという社名はBIGではなくBICである
- [38]ただ大きいだけではなく、深みのある大きな企業を目指したいという願いを込めて命名した
- [39]深さでいえば一番深く、高さなら一番高いし、広さなら一番広い。これを漢字で表すと空になると新井隆司氏は説明した
参考文献[21]-[40]
- 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
- [21]設立から3年目にはチェーン店が40店に達し、群馬県下では最大級のフィルム現像会社となった
- [22]店舗数の多さが逆に経営の負担になってきた
- [23]年中無休と午前10時から午後8時までの10時間営業をセールスポイントにしていたため人員効率が悪く、人件費が急膨張した
- [24]目銭商売のため会計事務なども繁雑になった
- [25]この頃の仕事は各店の管理のため車で回ることだけに追われ、毎日350キロも走っていた
- [26]事業計画を立てるゆとりが全くなく、このままでは経営の責任が取れなくなると考えるようになった
- [28]思い切って店舗の縮小に踏み切り、40店を6店に絞り込んだ
- [29]当時は事業が順調に進んでいるのになぜ、といぶかる人もいた
- [30]規模縮小と同時に、DPEよりも高付加価値のカメラ販売部門に主力を移した
- [32]店舗の整理が済んだ直後に第一次石油危機が日本を襲った
- [33]40店のままだったら倒産の危機に見舞われていたかもしれないと新井隆司氏は述べている
- [34]高崎の会社が第一次石油危機も乗り切り、経営的に安定していたことから東京の市場調査に乗り出した
- [35]高崎でDPE業を始めてから10年近くが経ち、カメラ販売会社として群馬県下では名前も通っていた
- [40]その間も新井隆司氏の心の中でくすぶっていたのは、東京で勝負してみたいという気持ちだった
- ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
- [27]株式会社高崎DPセンターは、その後カメラ販売部門を分離して株式会社ビックカラーを設立した
- [36]株式会社ビックカラーは昭和53年4月に株式会社ビックカメラ(高崎)へ商号を変更した
- NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
- [31]1972年(昭和47年)、DPセンターの販売部門を独立させて株式会社ビックカラーを設立した
- [37]ビックカメラという社名はBIGではなくBICである
- [38]ただ大きいだけではなく、深みのある大きな企業を目指したいという願いを込めて命名した
- [39]深さでいえば一番深く、高さなら一番高いし、広さなら一番広い。これを漢字で表すと空になると新井隆司氏は説明した
1977年〜池袋北口店の失火と東京での会社設立
東京での事業展開に着手したのは1977年である。新井氏はまず市場調査に着手し、店の立地の条件を、土地代が安く、街には若者が多く、バイタリティーのあるところの3つに置いた。白羽の矢を立てたのが池袋で、当時の駅北口は環境が悪く、若者があまり寄りつく場所ではなかった。それでも新宿や渋谷に比べればイメージは良くない反面、乗降客が多く土地も安く、駅の近くに店を設ければ乗降客を呼べると新井氏は考えていた。1978年5月、東京都豊島区西池袋に東京支店が開かれた。高崎から上京したのは新井氏一人で、物件選びから社員の採用まで自分でこなしている。基礎の固まった高崎の販売会社を崩さないためで、苦労はやりたいと思っている者がかぶればいいという考えだった。
- 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
- [41]東京での事業展開に着手したのは1977年(昭和52年)である
- [42]店の立地では土地代が安く、街には若者が多く、バイタリティーのあるところを探した
- [43]白羽の矢を立てたのが池袋で、当時の駅北口は環境が悪く、若者があまり寄りつく場所ではなかった
- [46]高崎から上京したのは新井隆司氏だけで、物件選びから社員の採用まで全部一人でこなした
- [47]高崎から誰も連れてこなかったのは、基礎の固まっている販売会社がガタガタになるのを恐れたことと、苦労はやりたいと思っている者がかぶればいいという考えからだった
- NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
- [44]当時の池袋は新宿・渋谷に比べるとイメージが良くなかった反面、乗降客の多い駅で土地が安いという利点があり、駅の近くに店舗を設ければ乗降客を呼べると考えた
- ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
- [45]昭和53年5月、東京都豊島区西池袋に東京支店を開設した
1978年5月に開いた東京支店が3年目に入った1980年10月21日の深夜、この店が火事を出した。近くの寮に社員と住んでいた新井氏は店へ駆けつけ、預かっていたフィルムと修理依頼のカメラを運び出している。鎮火したのは朝の5時だった。年中無休を看板にして固定客が付き始めた頃だったため、その日もなんとしても営業すると決めた。水浸しの店内を社員と急いで片付け、10時にはシャッターを上げている。見舞いに来たメーカーの担当者が10時から開店しているのを見て、頑張って客を大事にする店だと認めるようになり、業界内での信用も高まった。仕事に慣れて緩みの出ていた社員に活気が戻ったのもこのときである。店を傾けかねない失火が信用を厚くしたのは、休まないという看板を火事の日にも守ったからである。
- ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
- [48]昭和53年5月、東京都豊島区西池袋に東京支店を開設した
- 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
- [49]東京・池袋の北口に店を構えて3年目の1980年10月21日深夜、店が火事を出した
- [50]近くの寮に社員と一緒に住んでいた新井隆司氏は店に駆けつけ、預かっていたフィルムと修理依頼のカメラを運び出した
- [51]被害は最小限に食い止められ、朝の5時に鎮火した
- [52]年中無休を看板にし固定客も付き始めた頃だっただけに、その日もなんとしても営業しようと決めた
- [53]水浸しになった店内を社員と大急ぎで片付け、10時にはシャッターを上げることができた
- [54]見舞いにきたメーカーの人たちが10時から開店しているのを見て、頑張って客を大事にする店だと認めてくれるようになり、業界内での信用も高まった
- [55]仕事に慣れて気の緩みが出始めていた社員に活気が戻った
失火を謝って周囲のビルを回るうちに、店の裏のビルのオーナーから、良かったらこのビルを使ってみないかと誘いを受けた。業容を拡大したいと考えていた新井氏はこれを受け、二つのビルの壁をぶち抜きで使うことにして、売場面積は一挙に二倍へ広がった。その翌月の1980年11月21日、東京都豊島区西池袋に株式会社ビックカメラが設立される。新会社は株式会社ビックカメラ(高崎)の東京支店を引き継ぎ、自社店舗として事業を開始した。同月に開いた池袋店は、のちに池袋北口店へ店名を変えている。一号店を開いて以来、減収の年は一度もなかった。1981年11月、共同で金融事業を営むために東京カメラ流通協同組合が設立された。池袋東口店の開店は1982年6月である。その後も駅前への出店が重なった。1989年12月には渋谷店、1991年4月には横浜西口店が開いた。
- 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
- [56]失火を謝って周囲のビルを回るうち、店の裏のビルのオーナーから、良かったらこのビルを使ってみないかと誘いを受けた
- [57]二つのビルの壁をぶち抜きで使うことにし、売り場面積が一挙に二倍に広がった
- ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
- [58]昭和55年11月21日、東京都豊島区西池袋に株式会社ビックカメラを設立した
- [59]新会社は株式会社ビックカメラ(高崎)の東京支店を引き継ぎ、自社店舗として事業を開始した
- [60]昭和55年11月、東京都豊島区に池袋店(後に池袋北口店へ店名変更)を開店し、カメラ等の物品販売事業を開始した
- [62]昭和56年11月、共同金融事業を目的に東京カメラ流通協同組合を設立した
- [63]昭和57年6月、東京都豊島区に池袋東口店を開店した
- [64]1989年12月に東京都渋谷区へ渋谷店、1991年4月に神奈川県横浜市西区へ横浜西口店を開店した
- 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
- [61]一号店の出店以来、売上が下がったことはない
参考文献[41]-[64]
- 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
- [41]東京での事業展開に着手したのは1977年(昭和52年)である
- [42]店の立地では土地代が安く、街には若者が多く、バイタリティーのあるところを探した
- [43]白羽の矢を立てたのが池袋で、当時の駅北口は環境が悪く、若者があまり寄りつく場所ではなかった
- [46]高崎から上京したのは新井隆司氏だけで、物件選びから社員の採用まで全部一人でこなした
- [47]高崎から誰も連れてこなかったのは、基礎の固まっている販売会社がガタガタになるのを恐れたことと、苦労はやりたいと思っている者がかぶればいいという考えからだった
- [49]東京・池袋の北口に店を構えて3年目の1980年10月21日深夜、店が火事を出した
- [50]近くの寮に社員と一緒に住んでいた新井隆司氏は店に駆けつけ、預かっていたフィルムと修理依頼のカメラを運び出した
- [51]被害は最小限に食い止められ、朝の5時に鎮火した
- [52]年中無休を看板にし固定客も付き始めた頃だっただけに、その日もなんとしても営業しようと決めた
- [53]水浸しになった店内を社員と大急ぎで片付け、10時にはシャッターを上げることができた
- [54]見舞いにきたメーカーの人たちが10時から開店しているのを見て、頑張って客を大事にする店だと認めてくれるようになり、業界内での信用も高まった
- [55]仕事に慣れて気の緩みが出始めていた社員に活気が戻った
- [56]失火を謝って周囲のビルを回るうち、店の裏のビルのオーナーから、良かったらこのビルを使ってみないかと誘いを受けた
- [57]二つのビルの壁をぶち抜きで使うことにし、売り場面積が一挙に二倍に広がった
- NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
- [44]当時の池袋は新宿・渋谷に比べるとイメージが良くなかった反面、乗降客の多い駅で土地が安いという利点があり、駅の近くに店舗を設ければ乗降客を呼べると考えた
- ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
- [45]昭和53年5月、東京都豊島区西池袋に東京支店を開設した
- [48]昭和53年5月、東京都豊島区西池袋に東京支店を開設した
- [58]昭和55年11月21日、東京都豊島区西池袋に株式会社ビックカメラを設立した
- [59]新会社は株式会社ビックカメラ(高崎)の東京支店を引き継ぎ、自社店舗として事業を開始した
- [60]昭和55年11月、東京都豊島区に池袋店(後に池袋北口店へ店名変更)を開店し、カメラ等の物品販売事業を開始した
- [62]昭和56年11月、共同金融事業を目的に東京カメラ流通協同組合を設立した
- [63]昭和57年6月、東京都豊島区に池袋東口店を開店した
- [64]1989年12月に東京都渋谷区へ渋谷店、1991年4月に神奈川県横浜市西区へ横浜西口店を開店した
- 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」
- [61]一号店の出店以来、売上が下がったことはない
筆者考察
ビックカメラの創業者である新井隆司氏が持っていた元手は、資本ではなく技術だった。5歳で亡くした母の写真を引き伸ばそうとして写真屋に断られ、合成と修正を独学で覚えたことが、仏壇用写真の複写という商売になった。1968年3月に高崎で始めた現像所も、用地こそ借りたが建物は自分でセメントを練って建て、設備は現像機以外ほとんど手製、店は一坪、初日の売上は700円である。元手が薄い代わりに、値段と速さは自分で決められた。相場10円の白黒プリントを7円にし、3時間で仕上げる。安く速くという二つの条件を自前で握ったことが、のちの量販店の値付けの原型になった。この順序は逆にならない。安く売れる仕組みを持たないまま安値だけを出せば、店は保たない。
この会社の分かれ目は、伸びている最中に店を閉じたところにある。設立3年で40店に達した現像チェーンは群馬県下で最大級になったが、年中無休と10時間営業が人件費を膨らませ、新井氏は各店の巡回だけで毎日350キロを走っていた。順調に見える時期に40店を6店へ絞り、空いた資源を単価の高いカメラ販売へ寄せている。整理の直後に第一次石油危機が来たため、40店のままなら倒産していたかもしれないと新井氏はのちに振り返った。1980年10月に池袋北口店が火事を出したときも、動き方は同じだった。水浸しの店を当日10時に開けたことでメーカーの信用が増し、裏のビルの持ち主から誘われて壁を抜き、売場は2倍になっている。ビックカメラが東京で足場を得たのは、伸びている最中に縮め、非常時にも休まなかったからである。
- 有価証券報告書【沿革】に記載された開店だけを数えた累計。
1968年〜1991年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1968年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1974年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1975年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1976年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年10月期 | 単体 | 4 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1979年10月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1980年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1981年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1982年04月期 | 単体 | 64 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1983年04月期 | 単体 | 120 | +85.2% | n/a | n/a | n/a |
| 1984年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1985年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年04月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出典・参考
4件
- ビックカメラ 有価証券報告書【沿革】
- 創業者精神 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー編、1993年)「火事でも営業、信用得る」(新井隆司)
- NTT business 1995年6月号「人が本当に喜ぶことを追求するとより豊かな生活が見えてくる」(新井隆司)
- 近代企業リサーチ 1996年5月25日号「ビックカメラ池袋本店(東京都豊島区、総合DS)」