ジンズホールディングス:服飾雑貨のジェイアイエヌの設立
1988年〜前橋の8畳間で始めた服飾雑貨の卸と、円高で単身開いた中国の取引先
創業者の田中仁氏は1988年7月、群馬県前橋市に資本金5百万円で有限会社ジェイアイエヌを設立した。事業の目的には、服飾雑貨と生活雑貨について企画から製造、卸売までを掲げた。前身は田中仁氏が1987年4月に個人で始めた服飾雑貨の製造卸ジンプロダクツで、前橋の家賃5万円、8畳ほどの事務所が出発点だった。田中仁氏は高校卒業後の1981年に前橋信用金庫へ入庫し、窓口や融資、渉外を担当するなかで、手形が決済できず破綻した地元の経営者を見た。1986年には知人の経営者に誘われて女性向け服飾雑貨の製造卸へ移り、営業で上位の売上を挙げ、企画したバッグも想定を上回って売れた。信用金庫で知った経営の厳しさと、転職先で得た売上の実績の両方が、独立と法人化の前提になったのだろう。
- 有価証券報告書【沿革】
- [1]1988年7月、群馬県前橋市に資本金5百万円で有限会社ジェイアイエヌを設立。目的は服飾雑貨・生活雑貨の企画・製造・卸売
- [2]1988年7月、群馬県前橋市に資本金5百万円で有限会社ジェイアイエヌを設立。目的は服飾雑貨・生活雑貨の企画・製造・卸売
- ドリームゲート起業家インタビュー 第104回「株式会社ジェイ 田中仁」(2010年3月)
- [3]田中仁は1981年前橋信用金庫に入庫し出納・融資・渉外を担当、1986年に女性向け服飾雑貨製造卸会社へ転職し営業・企画で成果、1987年4月に個人事業ジンプロダクツを前橋の家賃5万円・8畳の事務所で創業
- [4]田中仁は1981年前橋信用金庫に入庫し出納・融資・渉外を担当、1986年に女性向け服飾雑貨製造卸会社へ転職し営業・企画で成果、1987年4月に個人事業ジンプロダクツを前橋の家賃5万円・8畳の事務所で創業
- [5]田中仁は1981年前橋信用金庫に入庫し出納・融資・渉外を担当、1986年に女性向け服飾雑貨製造卸会社へ転職し営業・企画で成果、1987年4月に個人事業ジンプロダクツを前橋の家賃5万円・8畳の事務所で創業
田中仁氏は独立直後、女性向けのポーチやクッションカバーを企画して地元の工場で作らせ、小田急線と京王線の駅前のファンシーショップへ売り込んだ。それでも売上は伸びず、1988年7月に設立した有限会社も資本金は5百万円にとどまり、運転資金はほどなく不足した。売れない原因は、生活費を稼ぐことを優先した企画にあった。田中仁氏はこの時期について『お客様視点をすっかり忘れてしまっていたんですね』と振り返った。父に融資の連帯保証を断られた田中仁氏は、上限50万円の無担保・無保証の借入カードを銀行勤めの友人に作ってもらって資金をつないだ。その後、エプロンの企画で東北地方の卸問屋から大口の契約を獲得し、資金繰りが安定。家族の保証を得られなかった経験が、自前の信用で事業を回す経営の出発点になったと思われる。
- ドリームゲート起業家インタビュー 第104回「株式会社ジェイ 田中仁」(2010年3月)
- [6]ポーチ・クッションカバーを企画し地元工場で生産、小田急線・京王線駅前のファンシーショップを開拓したが売れず運転資金不足。父は連帯保証を拒否、銀行勤めの友人に無担保・無保証50万円のカードを作ってもらい借入。エプロンが当たり東北の卸問屋から大口契約
- [7]ポーチ・クッションカバーを企画し地元工場で生産、小田急線・京王線駅前のファンシーショップを開拓したが売れず運転資金不足。父は連帯保証を拒否、銀行勤めの友人に無担保・無保証50万円のカードを作ってもらい借入。エプロンが当たり東北の卸問屋から大口契約
- [9]ポーチ・クッションカバーを企画し地元工場で生産、小田急線・京王線駅前のファンシーショップを開拓したが売れず運転資金不足。父は連帯保証を拒否、銀行勤めの友人に無担保・無保証50万円のカードを作ってもらい借入。エプロンが当たり東北の卸問屋から大口契約
- [10]ポーチ・クッションカバーを企画し地元工場で生産、小田急線・京王線駅前のファンシーショップを開拓したが売れず運転資金不足。父は連帯保証を拒否、銀行勤めの友人に無担保・無保証50万円のカードを作ってもらい借入。エプロンが当たり東北の卸問屋から大口契約
- [11]ポーチ・クッションカバーを企画し地元工場で生産、小田急線・京王線駅前のファンシーショップを開拓したが売れず運転資金不足。父は連帯保証を拒否、銀行勤めの友人に無担保・無保証50万円のカードを作ってもらい借入。エプロンが当たり東北の卸問屋から大口契約
- [12]ポーチ・クッションカバーを企画し地元工場で生産、小田急線・京王線駅前のファンシーショップを開拓したが売れず運転資金不足。父は連帯保証を拒否、銀行勤めの友人に無担保・無保証50万円のカードを作ってもらい借入。エプロンが当たり東北の卸問屋から大口契約
- 有価証券報告書【沿革】
- [8]1988年7月、資本金5百万円で有限会社ジェイアイエヌを設立
エプロンに続いて自社で企画した化粧ポーチも売れ始め、卸の売上は持ち直した。ところが1980年代後半の円高で海外への発注が難しくなり、経営は再び行き詰まった。田中仁氏は単身で中国に渡って現地の地場企業と取引条件を交渉し、価格の折り合いをつけて事業を立て直した。会社は設立の時点から、卸売に加えて企画と製造も事業の目的に掲げていた。田中仁氏はこのとき開いた海外の調達経路について、『この当時、海外ルートを開拓したことが、後になって生きてくるんです』と振り返った。自社で企画した商品を海外の取引先に生産させる仕組みは、2001年以降のアイウエア事業の製造直販の原型になったと推察される。
- ドリームゲート起業家インタビュー 第104回「株式会社ジェイ 田中仁」(2010年3月)
- [13]エプロンに続き自社企画の化粧ポーチが売れたが、1980年代後半の円高で海外発注が厳しくなり、単身中国で地場企業と取引折衝。価格交渉が奏功し立ち直る。この海外ルートが後に生きた
- [14]エプロンに続き自社企画の化粧ポーチが売れたが、1980年代後半の円高で海外発注が厳しくなり、単身中国で地場企業と取引折衝。価格交渉が奏功し立ち直る。この海外ルートが後に生きた
- [15]エプロンに続き自社企画の化粧ポーチが売れたが、1980年代後半の円高で海外発注が厳しくなり、単身中国で地場企業と取引折衝。価格交渉が奏功し立ち直る。この海外ルートが後に生きた
- [17]エプロンに続き自社企画の化粧ポーチが売れたが、1980年代後半の円高で海外発注が厳しくなり、単身中国で地場企業と取引折衝。価格交渉が奏功し立ち直る。この海外ルートが後に生きた
- 有価証券報告書【沿革】
- [16]設立時の目的は服飾雑貨・生活雑貨の企画・製造・卸売
参考文献[1]-[17]
- 有価証券報告書【沿革】
- [1]1988年7月、群馬県前橋市に資本金5百万円で有限会社ジェイアイエヌを設立。目的は服飾雑貨・生活雑貨の企画・製造・卸売
- [2]1988年7月、群馬県前橋市に資本金5百万円で有限会社ジェイアイエヌを設立。目的は服飾雑貨・生活雑貨の企画・製造・卸売
- [8]1988年7月、資本金5百万円で有限会社ジェイアイエヌを設立
- [16]設立時の目的は服飾雑貨・生活雑貨の企画・製造・卸売
- ドリームゲート起業家インタビュー 第104回「株式会社ジェイ 田中仁」(2010年3月)
- [3]田中仁は1981年前橋信用金庫に入庫し出納・融資・渉外を担当、1986年に女性向け服飾雑貨製造卸会社へ転職し営業・企画で成果、1987年4月に個人事業ジンプロダクツを前橋の家賃5万円・8畳の事務所で創業
- [4]田中仁は1981年前橋信用金庫に入庫し出納・融資・渉外を担当、1986年に女性向け服飾雑貨製造卸会社へ転職し営業・企画で成果、1987年4月に個人事業ジンプロダクツを前橋の家賃5万円・8畳の事務所で創業
- [5]田中仁は1981年前橋信用金庫に入庫し出納・融資・渉外を担当、1986年に女性向け服飾雑貨製造卸会社へ転職し営業・企画で成果、1987年4月に個人事業ジンプロダクツを前橋の家賃5万円・8畳の事務所で創業
- [6]ポーチ・クッションカバーを企画し地元工場で生産、小田急線・京王線駅前のファンシーショップを開拓したが売れず運転資金不足。父は連帯保証を拒否、銀行勤めの友人に無担保・無保証50万円のカードを作ってもらい借入。エプロンが当たり東北の卸問屋から大口契約
- [7]ポーチ・クッションカバーを企画し地元工場で生産、小田急線・京王線駅前のファンシーショップを開拓したが売れず運転資金不足。父は連帯保証を拒否、銀行勤めの友人に無担保・無保証50万円のカードを作ってもらい借入。エプロンが当たり東北の卸問屋から大口契約
- [9]ポーチ・クッションカバーを企画し地元工場で生産、小田急線・京王線駅前のファンシーショップを開拓したが売れず運転資金不足。父は連帯保証を拒否、銀行勤めの友人に無担保・無保証50万円のカードを作ってもらい借入。エプロンが当たり東北の卸問屋から大口契約
- [10]ポーチ・クッションカバーを企画し地元工場で生産、小田急線・京王線駅前のファンシーショップを開拓したが売れず運転資金不足。父は連帯保証を拒否、銀行勤めの友人に無担保・無保証50万円のカードを作ってもらい借入。エプロンが当たり東北の卸問屋から大口契約
- [11]ポーチ・クッションカバーを企画し地元工場で生産、小田急線・京王線駅前のファンシーショップを開拓したが売れず運転資金不足。父は連帯保証を拒否、銀行勤めの友人に無担保・無保証50万円のカードを作ってもらい借入。エプロンが当たり東北の卸問屋から大口契約
- [12]ポーチ・クッションカバーを企画し地元工場で生産、小田急線・京王線駅前のファンシーショップを開拓したが売れず運転資金不足。父は連帯保証を拒否、銀行勤めの友人に無担保・無保証50万円のカードを作ってもらい借入。エプロンが当たり東北の卸問屋から大口契約
- [13]エプロンに続き自社企画の化粧ポーチが売れたが、1980年代後半の円高で海外発注が厳しくなり、単身中国で地場企業と取引折衝。価格交渉が奏功し立ち直る。この海外ルートが後に生きた
- [14]エプロンに続き自社企画の化粧ポーチが売れたが、1980年代後半の円高で海外発注が厳しくなり、単身中国で地場企業と取引折衝。価格交渉が奏功し立ち直る。この海外ルートが後に生きた
- [15]エプロンに続き自社企画の化粧ポーチが売れたが、1980年代後半の円高で海外発注が厳しくなり、単身中国で地場企業と取引折衝。価格交渉が奏功し立ち直る。この海外ルートが後に生きた
- [17]エプロンに続き自社企画の化粧ポーチが売れたが、1980年代後半の円高で海外発注が厳しくなり、単身中国で地場企業と取引折衝。価格交渉が奏功し立ち直る。この海外ルートが後に生きた
1991年〜資本金1000万円の株式会社への改組と、韓国で見た3000円のメガネ
1991年7月、ジェイアイエヌは有限会社から株式会社へ改組。同時に増資し、資本金を1988年の設立時の5百万円から10百万円へ倍増させた。創業後の数年でエプロンと自社企画の化粧ポーチが売れ、円高の打撃も中国の地場企業との価格交渉で乗り越えた。株式会社ジェイアイエヌは、2001年4月にアイウエア事業へ進出するまで、服飾雑貨と生活雑貨の企画・製造・卸売を事業の中心に置いた。売上の回復と海外の取引先の確保を受けて、取引先からの信用を高めるために株式会社へ移ったとみられる。
- 有価証券報告書【沿革】
- [18]1991年7月、有限会社から株式会社ジェイアイエヌへ組織変更し資本金を10百万円に増資。2001年4月にアイウエア事業へ進出
- [19]1991年7月、有限会社から株式会社ジェイアイエヌへ組織変更し資本金を10百万円に増資。2001年4月にアイウエア事業へ進出
- [21]1991年7月、有限会社から株式会社ジェイアイエヌへ組織変更し資本金を10百万円に増資。2001年4月にアイウエア事業へ進出
- ドリームゲート起業家インタビュー 第104回「株式会社ジェイ 田中仁」(2010年3月)
- [20]エプロン・自社企画の化粧ポーチが売れ、円高の苦境を中国の地場企業との価格交渉で乗り切った
2000年、田中仁氏は服飾雑貨の市場を見るため韓国を訪れ、日本円で3000円ほどのおしゃれなメガネが売られているのを目にした。同行した友人は日本なら3万円以上する品だとして2本を買い求めた。帰国した田中仁氏はすぐにメガネ市場の調査に着手し、眼鏡をかけた社員に購入先を尋ね、既存のメガネ店にも足を運んだ。見栄えの劣る売場、全年齢向けの品揃え、3万〜4万円の価格、1週間後の受け取りの4つの不満を解消すれば参入の余地があると、田中仁氏は判断した。この判断が、2001年4月に福岡市の天神ビブレへ「ジンズ天神店」を出したアイウエア事業の起点となった。中国で開いた生産経路が手元にあったことも、韓国で見た価格差を事業の機会と捉える下地になったと考えられる。
- ドリームゲート起業家インタビュー 第104回「株式会社ジェイ 田中仁」(2010年3月)
- [22]2000年、服飾雑貨の市場視察で訪れた韓国で日本円3000円のメガネを見た。同行の友人は日本なら3万円以上として2本購入。帰国後すぐメガネ市場を調査し、店・品揃え・価格(3万〜4万円)・納期(1週間)の不満を解消すれば参入できると判断
- [23]2000年、服飾雑貨の市場視察で訪れた韓国で日本円3000円のメガネを見た。同行の友人は日本なら3万円以上として2本購入。帰国後すぐメガネ市場を調査し、店・品揃え・価格(3万〜4万円)・納期(1週間)の不満を解消すれば参入できると判断
- [24]2000年、服飾雑貨の市場視察で訪れた韓国で日本円3000円のメガネを見た。同行の友人は日本なら3万円以上として2本購入。帰国後すぐメガネ市場を調査し、店・品揃え・価格(3万〜4万円)・納期(1週間)の不満を解消すれば参入できると判断
- [25]2000年、服飾雑貨の市場視察で訪れた韓国で日本円3000円のメガネを見た。同行の友人は日本なら3万円以上として2本購入。帰国後すぐメガネ市場を調査し、店・品揃え・価格(3万〜4万円)・納期(1週間)の不満を解消すれば参入できると判断
- 有価証券報告書【沿革】
- [26]2001年4月、福岡市の天神ビブレ店内に「ジンズ天神店」を出店しアイウエア事業へ進出
参考文献[18]-[26]
- 有価証券報告書【沿革】
- [18]1991年7月、有限会社から株式会社ジェイアイエヌへ組織変更し資本金を10百万円に増資。2001年4月にアイウエア事業へ進出
- [19]1991年7月、有限会社から株式会社ジェイアイエヌへ組織変更し資本金を10百万円に増資。2001年4月にアイウエア事業へ進出
- [21]1991年7月、有限会社から株式会社ジェイアイエヌへ組織変更し資本金を10百万円に増資。2001年4月にアイウエア事業へ進出
- [26]2001年4月、福岡市の天神ビブレ店内に「ジンズ天神店」を出店しアイウエア事業へ進出
- ドリームゲート起業家インタビュー 第104回「株式会社ジェイ 田中仁」(2010年3月)
- [20]エプロン・自社企画の化粧ポーチが売れ、円高の苦境を中国の地場企業との価格交渉で乗り切った
- [22]2000年、服飾雑貨の市場視察で訪れた韓国で日本円3000円のメガネを見た。同行の友人は日本なら3万円以上として2本購入。帰国後すぐメガネ市場を調査し、店・品揃え・価格(3万〜4万円)・納期(1週間)の不満を解消すれば参入できると判断
- [23]2000年、服飾雑貨の市場視察で訪れた韓国で日本円3000円のメガネを見た。同行の友人は日本なら3万円以上として2本購入。帰国後すぐメガネ市場を調査し、店・品揃え・価格(3万〜4万円)・納期(1週間)の不満を解消すれば参入できると判断
- [24]2000年、服飾雑貨の市場視察で訪れた韓国で日本円3000円のメガネを見た。同行の友人は日本なら3万円以上として2本購入。帰国後すぐメガネ市場を調査し、店・品揃え・価格(3万〜4万円)・納期(1週間)の不満を解消すれば参入できると判断
- [25]2000年、服飾雑貨の市場視察で訪れた韓国で日本円3000円のメガネを見た。同行の友人は日本なら3万円以上として2本購入。帰国後すぐメガネ市場を調査し、店・品揃え・価格(3万〜4万円)・納期(1週間)の不満を解消すれば参入できると判断
出典・参考
2件
- 有価証券報告書【沿革】
- ドリームゲート起業家インタビュー 第104回「株式会社ジェイ 田中仁」(2010年3月)