はごろもフーズ:名古屋・大阪営業所の開設とはごろも罐詰への改称
1959年〜贈答セットから入った内販と、自社ブランドを持たない問屋の選別
国内での販売は、消費者に直接買ってもらうところからは始まらなかった。当初の2代目後藤磯吉氏の読みは、消費者にじかに買ってもらうのは難しくとも、贈答品ならば食べてもらえるというもので、手始めはセット商品だった。取引先や客への手土産にしたマグロ油漬缶詰の評判は良かったが、配れる数には限りがある。売上高は1966年度でも36億円どまりで、国内でほぼ知られていないツナ缶は発売後10年近く低迷を続けた。
- 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
- [1]2代目後藤磯吉「はじめは、なかなか消費者に買ってはいただけないと思い、人から贈られたものなら食べてもらえるだろうということで、セット商品から始めました」
- [2]2代目後藤磯吉「当時、お客さまや取引先の方にお土産として差し上げて、おいしいと好評を得ていました」
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
- [3]1966年度の売上高 36億円
- [4]ツナ缶は国内ではほとんど認知されていない商品で、発売から10年近くは鳴かず飛ばずだった
後藤罐詰は、宣伝を打つより先に、扱いを頼む問屋を決めることから手をつけた。扱いを頼んだのは、自社ブランドを持たない地域の有力問屋である。自社ブランドを持つ問屋や商社に預ければ、そのつもりがなくとも自らのブランドへ力が入り、メーカーの思うようには売られない。育てたいブランドを持つ側にとって、扱い先の選別は宣伝に先立つ条件だった。地域の問屋と組んで売るという形に合わせ、営業所の展開も進み、1961年7月に名古屋営業所、1962年3月に大阪営業所が開設された。
- 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
- [5]2代目後藤磯吉「宣伝をする前にルートづくりをしっかりしようということで、メイカンさんなど、自社ブランドをお持ちでない問屋さんにお願いしました」
- [6]当初は自社ブランドを持たない地域の有力問屋に扱いを依頼した
- [7]2代目後藤磯吉「問屋さん自身、そういうつもりはなくとも、知らず知らずのうちに、その傾向が出てしまうことがあります」
- [8]2代目後藤磯吉「地域の問屋さんと一緒になって売っていこう、ということで営業所を展開していきました」
- はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
- [9]1961年7月 名古屋営業所を開設・1962年3月 大阪営業所を開設
1962年10月、清水市にマカロニ類をつくる工場としてパスタプラントが建てられた。マグロの缶詰設備とも果実の缶詰設備とも関係のない投資であり、原料の仕入れ先も売り先も新たに整えなければならなかった。背景には2代目後藤磯吉氏の見通しがあった。日本人の食事は洋風に移っていき、缶詰も多様なかたちで食べられて需要が増えるとみていたのである。この読みは、同社が国内市場に目を向けた理由の一つとされ、缶詰の枠の外にまで広がっていた。果実缶詰の生産は原料の季節性から冬に限られており、水産と果実の缶詰だけでは工場も人手も年間を通しては埋まらない。
- はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
- [10]1962年10月 マカロニ類製造工場(パスタプラント)を静岡県清水市に新設
- 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
- [11]2代目後藤磯吉「日本の食生活はどんどん洋風化していくとみていましたので、缶詰も、いろいろな形で消費され、伸びていくと考えていました」
- [12]食生活の洋風化の見通しが内需へ力を入れる理由の一つとされた
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
- [13]果物缶詰は原料の季節性が強く生産期間が冬に限られる
参考文献[1]-[13]
- 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
- [1]2代目後藤磯吉「はじめは、なかなか消費者に買ってはいただけないと思い、人から贈られたものなら食べてもらえるだろうということで、セット商品から始めました」
- [2]2代目後藤磯吉「当時、お客さまや取引先の方にお土産として差し上げて、おいしいと好評を得ていました」
- [5]2代目後藤磯吉「宣伝をする前にルートづくりをしっかりしようということで、メイカンさんなど、自社ブランドをお持ちでない問屋さんにお願いしました」
- [6]当初は自社ブランドを持たない地域の有力問屋に扱いを依頼した
- [7]2代目後藤磯吉「問屋さん自身、そういうつもりはなくとも、知らず知らずのうちに、その傾向が出てしまうことがあります」
- [8]2代目後藤磯吉「地域の問屋さんと一緒になって売っていこう、ということで営業所を展開していきました」
- [11]2代目後藤磯吉「日本の食生活はどんどん洋風化していくとみていましたので、缶詰も、いろいろな形で消費され、伸びていくと考えていました」
- [12]食生活の洋風化の見通しが内需へ力を入れる理由の一つとされた
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
- [3]1966年度の売上高 36億円
- [4]ツナ缶は国内ではほとんど認知されていない商品で、発売から10年近くは鳴かず飛ばずだった
- [13]果物缶詰は原料の季節性が強く生産期間が冬に限られる
- はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
- [9]1961年7月 名古屋営業所を開設・1962年3月 大阪営業所を開設
- [10]1962年10月 マカロニ類製造工場(パスタプラント)を静岡県清水市に新設
1967年〜月額1000万円の広告とはごろも会がつくった棚
1967年、後藤罐詰はシーチキンの名を売り込むためにテレビ広告へ踏み切った。条件は月額1000万円、6ヶ月契約である。当時としては思い切った巨費で、清水の舞台から飛び降りる気持ちでの決断であり、利益がさほど出ていない時期だけに、うまくいかなければ命取りになりかねない額だった。発売から10年近く動かなかった商品へ、稼ぎ頭が生んだ余裕ではなく、細った利益のほうを投じる形だった。広告は市場に火をつけ、シーチキンは一転して収益源に変わる。
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
- [14]1967年に打ったテレビCMが契機となり市場に火が付いた
- [17]流通ルートの確立が生き、シーチキンは一転して収益源となった
- はごろもフーズ社史(戦略経営者 11(9)(119)、1967年)
- [15]2代目後藤磯吉「月額1000万円、6ヶ月契約---。当時としては思い切った巨費を投じ」
- [16]2代目後藤磯吉「キヨミズの舞台から...という気持ちでシーチキンの名を売り込む宣伝に出た。そのころ、利益がさほど出ていない時だったから、うまく行かないと命取りになったかもしれない」
広告と同時に進められたのが流通ルートの確立だった。全国の問屋へ呼びかけ、扱い先を"はごろも会"に組織化している。地域の問屋と一緒に売るという方針に沿って営業所も増えた。テレビ広告を打つ直前の1967年3月期に年3万ケース、1ケースは48缶だったシーチキンの販売量は、5年後に100万ケースを突破し、1974年度には250万ケースに達した。売上高も1966年度の36億円から10年後には340億円と10倍近くに伸びている。広告が需要を起こしても、店頭に品が並んでいなければ販売量は動かない。
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
- [18]全国の問屋に呼びかけて「はごろも会」を組織し流通ルートを確立
- [20]テレビCM開始直前の1967年3月期に年3万ケース(1ケースは48缶)だった販売量が、5年後に100万ケースを突破、1974年度には250万ケースに到達
- [21]売上高は1966年度の36億円から10年後に340億円へ
- 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
- [19]2代目後藤磯吉「地域の問屋さんと一緒になって売っていこう、ということで営業所を展開していきました」
シーチキンの育成に専念するため、後藤罐詰は当初持っていた鉄工業や木工業を手放した。冷凍食品や、発売直前まで進んでいたインスタントコーヒーなど、新商品の芽も大胆に切り捨てている。缶を作る工程も箱を作る工程も自社に抱えていた会社が、それらを外へ出して一つの商品へ資源を寄せたことになる。1969年7月、商号ははごろも罐詰へ改められた。商標として登録されたのはシーチキンの語だったが、社名へ引き上げられたのは、その前に冠として置かれていたはごろものほうだった。
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
- [22]シーチキンの育成に専念するため、当初持っていた鉄工業や木工業などの経営資源を手放した
- [23]冷凍食品や発売直前まで進んでいたインスタントコーヒーなど新商品のタネも大胆に切り捨てた
- はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
- [24]1969年7月 商号をはごろも罐詰に変更
- [25]1958年11月 鮪油漬缶詰類の製品名「シーチキン」を商標登録
参考文献[14]-[25]
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
- [14]1967年に打ったテレビCMが契機となり市場に火が付いた
- [17]流通ルートの確立が生き、シーチキンは一転して収益源となった
- [18]全国の問屋に呼びかけて「はごろも会」を組織し流通ルートを確立
- [20]テレビCM開始直前の1967年3月期に年3万ケース(1ケースは48缶)だった販売量が、5年後に100万ケースを突破、1974年度には250万ケースに到達
- [21]売上高は1966年度の36億円から10年後に340億円へ
- [22]シーチキンの育成に専念するため、当初持っていた鉄工業や木工業などの経営資源を手放した
- [23]冷凍食品や発売直前まで進んでいたインスタントコーヒーなど新商品のタネも大胆に切り捨てた
- はごろもフーズ社史(戦略経営者 11(9)(119)、1967年)
- [15]2代目後藤磯吉「月額1000万円、6ヶ月契約---。当時としては思い切った巨費を投じ」
- [16]2代目後藤磯吉「キヨミズの舞台から...という気持ちでシーチキンの名を売り込む宣伝に出た。そのころ、利益がさほど出ていない時だったから、うまく行かないと命取りになったかもしれない」
- 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
- [19]2代目後藤磯吉「地域の問屋さんと一緒になって売っていこう、ということで営業所を展開していきました」
- はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
- [24]1969年7月 商号をはごろも罐詰に変更
- [25]1958年11月 鮪油漬缶詰類の製品名「シーチキン」を商標登録
1975年〜円高が輸出型パッカーを崩した後の缶詰トップ
1973年以後、為替相場は変動相場制へ移行し、円は対ドルで上昇を始めた。1978年には1ドル200円を大きく割り込み、日本製の缶詰は価格競争力を失って、輸出に依存していたパッカーは大きな損害を受けた。1971年のニクソン声明による変動相場制への移行以降、石油危機も重なって輸出量は年々減少し、はごろも罐詰の輸出向けの比率は2〜3%まで下がった。国内へ目を転じた同業からは、『我々が国内市場に目を転じた時には、はごろもがチャネルを押さえてしまった後だった』という声が出ている。輸出の崩れ方は業界に等しく及んだが、受け皿を用意していたかどうかで帰結が分かれた。
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
- [26]1973年以後、為替相場は変動相場制に移行し円が対ドルで上昇を始めた
- [27]1978年には1ドル200円を大きく割り込む円高となり、日本製の缶詰は価格競争力を失いパッカーは大きなダメージを受けた
- [29]静岡の中堅パッカーの証言
- 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
- [28]2代目後藤磯吉「当社の輸出向けのウエイトは二〜三%に下がっています……輸出缶詰は昭和四六年のニクソンショックによる為替の変動相場制への移行以来、オイルショックなど、たて続けに打撃を受け、輸出量が年々減少してきました」
1981年の時点で、はごろも罐詰は27カ所の営業所を持っていた。缶詰メーカーでこれだけの営業所を展開する会社はほかになかった。生産は清水がツナ3号缶、焼津がツナ2号缶、福島が果実缶という分担で、このほか約50社の協力会社が果実缶などを作っていた。福島の生産は1976年11月に設立された東北はごろもが担い、1978年10月には焼津にフィッシュエキス・フィッシュミールの製造工場が設けられている。米国、オーストラリア、南アフリカなど7〜8社の海外協力工場にも技術指導を行い、日本人の口に合う味に作らせて一部を輸入した。国内の原料価格と人件費が上がるなか、現地で作って仕入れる形には為替の変動を受けないという利点があり、円高のもとでは関税を払っても採算が合った。
- 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
- [30]1981年時点で営業所は27カ所
- [31]缶詰メーカーでこれだけの営業所を展開している会社はほかにない(本誌社長 秀平武男の指摘)
- [32]清水がツナ3号缶、焼津がツナ2号缶、福島が果実缶を生産し、ほかに約50社の協力会社が果実缶などを生産
- [35]米国・オーストラリア・南アフリカなど7〜8社の海外協力工場に技術指導を行い、日本人の口に合う味に作らせて一部を輸入
- [36]2代目後藤磯吉「だんだん日本国内の原料の方が高くなっています。それに人件費も安いようですし、なんといっても最大のメリットは為替の問題がないということです」「現在のような円高であれば、メリットの方が大きいですね」
- はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
- [33]1976年11月 東北はごろも(福島県福島市)を設立
- [34]1978年10月 フィッシュエキス・フィッシュミール製造工場を静岡県焼津市に新設
後藤磯吉氏は缶詰業界の弱点を、商品を育てないところに見ていた。日持ちのよさから何でも詰めて次々に新製品を出すものの、どうすれば売れるかを考えて送り出す姿勢が、一般の加工食品に比べて欠けているという見方である。加えて、一社が新製品を出せば模倣品が続く業界の習性を挙げ、自社には一切模倣をするなと指示していた。模倣を重ねれば商品の企画力が衰え、価格の叩き合いから共倒れになるという理由である。シーチキンでさえ発売から消費者に認知されるまで約20年を要しており、流行を追わず定期的に食卓へ乗る商品を時間をかけて育てる手順は、そのまま後続の商品にも当てられた。
- 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
- [37]2代目後藤磯吉「缶詰というのは日持ちがいいものですから、なんでも詰めてしまえばいいということで、次から次へと新製品を送り出しますが、肝心の商品を育てるということをなかなかやらない」
- [38]2代目後藤磯吉「一般の加工食品は……売ること、またどのようにしたら売れるかということを考えて商品を送り出します。缶詰メーカーには、それがいまひとつ欠けているような気がする」
- [39]2代目後藤磯吉「この業界は人マネが多いんです……ですから当社は一切モノマネはするな、といっているんです」
- [40]2代目後藤磯吉「モノマネをしていますと、次第に商品の企画力が衰退していきます……結局、価格のタタキ合いになって共倒れになっては、業界にとって大きなマイナス」
- [41]2代目後藤磯吉「シーチキンですら、発売してから消費者の方々に認知していただくまで約二〇年かかった」
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
- [42]「ファッション的なものを求めずに、定期的に食卓に乗る商品を、時間をかけて育ててきた」(製品開発室長 大橋正明)
シーチキンは売上のうち金額で55%、生産箱数では45%前後を占めていた。原料の手当てから見て今の数量が上限だと、後藤磯吉氏は考えていた。同社は1981年3月期に530億円の売上高を見込み、約350億円の大洋漁業、約300億円の日本水産を抑えて缶詰業界の首位に立っていた。次の柱として、水産缶のシーチキンに加え、果実缶にも一つ、畜肉類にも一つを育てて三本柱にする構想が語られたものの、形になった後継の商品はまだ出ていなかった。1986年、後藤磯吉氏は40年にわたる経営の座を、総合食品メーカーへ変わるには若い世代がふさわしいとして37歳の後藤康雄氏に渡した。一人の在任期間の中に、シーチキンを育てた20年と、次の柱を立てられなかった20年がともに収まっている。
- 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
- [43]2代目後藤磯吉「現在シーチキンのウエイトは金額にして五五%、生産箱数で四五%前後」「原料の調達面で問題が出てくると思います。現在の数量が限界ではないかと感じています」
- [44]1981年3月期は530億円の売上目標を達成見込み。大洋漁業約350億円・日本水産約300億円に対し缶詰のトップ企業
- [45]2代目後藤磯吉「水産缶ではシーチキン、ほかに果実缶で一つ、畜肉類で一つというように、企業としての三本柱がほしい」「そんなに具体化したポストシーチキンの構想はまだありません」
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
- [46]1986年、40年にわたり社を率いた後藤磯吉が「新しい商品を開発し総合食品メーカーに脱皮するには、若い世代の方が適任」として37歳の後藤康雄へ社長を交代
参考文献[26]-[46]
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
- [26]1973年以後、為替相場は変動相場制に移行し円が対ドルで上昇を始めた
- [27]1978年には1ドル200円を大きく割り込む円高となり、日本製の缶詰は価格競争力を失いパッカーは大きなダメージを受けた
- [29]静岡の中堅パッカーの証言
- [42]「ファッション的なものを求めずに、定期的に食卓に乗る商品を、時間をかけて育ててきた」(製品開発室長 大橋正明)
- [46]1986年、40年にわたり社を率いた後藤磯吉が「新しい商品を開発し総合食品メーカーに脱皮するには、若い世代の方が適任」として37歳の後藤康雄へ社長を交代
- 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
- [28]2代目後藤磯吉「当社の輸出向けのウエイトは二〜三%に下がっています……輸出缶詰は昭和四六年のニクソンショックによる為替の変動相場制への移行以来、オイルショックなど、たて続けに打撃を受け、輸出量が年々減少してきました」
- [30]1981年時点で営業所は27カ所
- [31]缶詰メーカーでこれだけの営業所を展開している会社はほかにない(本誌社長 秀平武男の指摘)
- [32]清水がツナ3号缶、焼津がツナ2号缶、福島が果実缶を生産し、ほかに約50社の協力会社が果実缶などを生産
- [35]米国・オーストラリア・南アフリカなど7〜8社の海外協力工場に技術指導を行い、日本人の口に合う味に作らせて一部を輸入
- [36]2代目後藤磯吉「だんだん日本国内の原料の方が高くなっています。それに人件費も安いようですし、なんといっても最大のメリットは為替の問題がないということです」「現在のような円高であれば、メリットの方が大きいですね」
- [37]2代目後藤磯吉「缶詰というのは日持ちがいいものですから、なんでも詰めてしまえばいいということで、次から次へと新製品を送り出しますが、肝心の商品を育てるということをなかなかやらない」
- [38]2代目後藤磯吉「一般の加工食品は……売ること、またどのようにしたら売れるかということを考えて商品を送り出します。缶詰メーカーには、それがいまひとつ欠けているような気がする」
- [39]2代目後藤磯吉「この業界は人マネが多いんです……ですから当社は一切モノマネはするな、といっているんです」
- [40]2代目後藤磯吉「モノマネをしていますと、次第に商品の企画力が衰退していきます……結局、価格のタタキ合いになって共倒れになっては、業界にとって大きなマイナス」
- [41]2代目後藤磯吉「シーチキンですら、発売してから消費者の方々に認知していただくまで約二〇年かかった」
- [43]2代目後藤磯吉「現在シーチキンのウエイトは金額にして五五%、生産箱数で四五%前後」「原料の調達面で問題が出てくると思います。現在の数量が限界ではないかと感じています」
- [44]1981年3月期は530億円の売上目標を達成見込み。大洋漁業約350億円・日本水産約300億円に対し缶詰のトップ企業
- [45]2代目後藤磯吉「水産缶ではシーチキン、ほかに果実缶で一つ、畜肉類で一つというように、企業としての三本柱がほしい」「そんなに具体化したポストシーチキンの構想はまだありません」
- はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
- [33]1976年11月 東北はごろも(福島県福島市)を設立
- [34]1978年10月 フィッシュエキス・フィッシュミール製造工場を静岡県焼津市に新設
筆者考察
1967年に投じた月額1000万円の広告費は、当時のはごろもの利益水準から見れば無謀に近い賭けだった。それでも回収の見込みが立ったのは、その前の10年で積み上げていたものが販売量ではなく、自社ブランドを持たない地域問屋との取引関係だったからである。自社ブランドを持つ問屋に預ければ、扱いは受けても力は入らない。誰に売ってもらうかを先に決め、そのうえで需要を起こすという順序を踏んだために、広告が生んだ指名買いが他社のブランドへ流れずに済んだ。宣伝の前にルートを固めるという言い方は心得の話に聞こえるが、実際には広告費の回収先を先に押さえる手続きだった。
円高が清水の缶詰業を襲ったとき、輸出で稼いでいた同業は国内へ向かい、棚がすでに埋まっていることを知る。1973年以後の変動相場制への移行と1978年の1ドル200円割れは業界全体へ等しく効いた条件で、はごろもだけが免れたわけではない。違いは、輸出が絶好調だった1958年の時点でその利益を国内向け商品へ移し始めていたことにある。好況のさなかに主力を移す判断は、不況になってから同じことを決める判断より20年早く着手できる。缶詰のトップという位置は、為替が動いた後に取ったのではなく、動く前に用意されていた。
- 1ケースは48缶。テレビCM開始直前の1967年3月期から5年後に100万ケースを突破した。
- 出所は日経ビジネス 1993年12月20日・27日号。
1959年〜1986年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1959年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 18 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 19 | +5.6% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 23 | +21.1% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 24 | +4.3% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 36 | n/a | n/a | n/a | 0 | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 51 | +41.7% | n/a | n/a | 0 | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 340 | n/a | 5 | 1.7% | n/a | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 407 | +19.7% | 5 | 1.4% | n/a | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 423 | +3.9% | 8 | 1.9% | n/a | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 483 | +14.2% | 15 | 3.3% | n/a | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 544 | +12.6% | 22 | 4.1% | n/a | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出典・参考
4件
- はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
- はごろもフーズ社史(戦略経営者 11(9)(119)、1967年)
- 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
- 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号