第1章 年〜年

はごろもフーズ:後藤罐詰の焼津食品合併とシーチキンの商標登録

1931年〜清水港の輸出缶詰業として出発した創業期

渡米して覚えた技術で港の魚を詰める

当時の清水の缶詰業者は輸出先メーカーのブランドで納める相手先ブランド供給を事業の柱とし、製品は国内の食卓ではなく海外の市場へ送られていた。はごろもフーズの始まりは1931年に初代後藤磯吉氏が静岡県清水市で開いた"後藤缶詰所"で、清水港のマグロと特産のみかんを詰める業者のうちの一つにすぎず、年商も200万円で始まった。港のマグロを消費する道が不況で閉ざされていたため、後藤磯吉氏はひとりで米国へ渡り、缶詰の技術を学んで持ち帰ってから製造に入った。詰める腕はあっても、売り先と品目と値段を決めていたのは発注する側だった。

  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [1]戦前の清水は輸出先メーカーへのOEM(相手先ブランド)供給が中心
    • [2]1931年 初代後藤磯吉が静岡県清水市に「後藤缶詰所」を創業
    • [3]清水港で水揚げされるマグロと特産のみかんを利用した缶詰業者の一つ
    • [4]創業当時の年商 200万円
  • 証券アナリストジャーナル(2000年、後藤康雄 はごろもフーズ社長 )
    • [5]初代後藤磯吉が単身渡米して缶詰技術を移入し生産を開始
白巻きを詰めるという業界の形

清水のパッカーが詰めた缶詰は、問屋や大手メーカーのブランドを巻いて売られる"白巻き"が大半を占め、この形は1990年代に至っても変わらなかった。詰める側は原料の買い付けと製造の歩留まりで利益を出すほかなく、製品が誰の食卓に届くかを知る手立ては持たない。太平洋戦争をはさんだのち、1947年7月に清水屋が設立され、同年8月には商号が後藤物産へ改められた。もっとも、この時点で缶詰の製造と流通は統制会社である静岡県缶詰の手にあり、後藤物産が缶詰を扱うようになるのは、1948年にその統制会社が解散してからである。戦後の再出発は、缶詰の製造からではなく物資を扱う商いから始まった。

  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [6]清水のパッカーは大半が問屋・大手メーカーのブランドで売られる「白巻き」を製造
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1947年7月 清水屋を設立・同年8月 商号を後藤物産へ変更
  • 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
    • [8]2代目後藤磯吉「昭和二三年に統制会社であった県缶詰が解散しまして、これを契機に缶詰を取り扱うようになり、社名を後藤物産缶詰といたしました」
参考文献[1]-[8]
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [1]戦前の清水は輸出先メーカーへのOEM(相手先ブランド)供給が中心
    • [2]1931年 初代後藤磯吉が静岡県清水市に「後藤缶詰所」を創業
    • [3]清水港で水揚げされるマグロと特産のみかんを利用した缶詰業者の一つ
    • [4]創業当時の年商 200万円
    • [6]清水のパッカーは大半が問屋・大手メーカーのブランドで売られる「白巻き」を製造
  • 証券アナリストジャーナル(2000年、後藤康雄 はごろもフーズ社長 )
    • [5]初代後藤磯吉が単身渡米して缶詰技術を移入し生産を開始
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1947年7月 清水屋を設立・同年8月 商号を後藤物産へ変更
  • 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
    • [8]2代目後藤磯吉「昭和二三年に統制会社であった県缶詰が解散しまして、これを契機に缶詰を取り扱うようになり、社名を後藤物産缶詰といたしました」

1945年〜先代の急死による継承と、統制解除が開いた缶詰製造

遺言で託された経営を25歳で継ぐ

2代目後藤磯吉氏は1921年に神戸で生まれ、日本郵船に勤める父の転勤で小学校1年までを米国で過ごし、関西学院大学を卒業した。戦車兵として入隊したのち経理学校を経て主計となり、硫黄島方面への輸送を担う部隊の司令部が置かれた伊豆下田で終戦を迎えている。連合軍の進駐に備えて司令部を清水へ移す命令を受けて当地へ移り、残務整理のさなかに、警防団長を務めていた初代後藤磯吉氏の慰問を受けた。1945年9月のことで、以後は親しく行き来するようになる。日本郵船へ復帰するか戦友と清水で雑貨店を開くかを決めかねていた翌1946年1月19日、初代がオートバイで静岡へ向かう途中に脳溢血で倒れ、駆けつけた本人に後を頼むと言い残して死去した。初代の一人娘と結婚して同年5月に養子となり、二代目として経営を継いだ。

  • 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
    • [9]2代目後藤磯吉は1921年(大正10年)神戸生まれ。父は日本郵船勤務で、満2歳から小学校1年まで米国で育ち、関西学院大学を卒業
    • [10]戦車隊に幹部候補生として配属され、経理学校を経て主計となり、硫黄島方面の輸送を行う部隊の司令部があった伊豆下田で終戦
    • [11]連合軍進駐に備え司令部を清水へ撤退させる命令を受けて移り、残務整理中に警防団長だった初代後藤磯吉の慰問を受けた
    • [12]初代と会ったのは昭和20年9月
    • [13]昭和21年1月19日、初代がオートバイで静岡へ向かう途中に脳溢血で倒れ、「後をたのむ」と言い残して死去
    • [14]初代の一人娘と結婚し、昭和21年5月に養子となって経営を引き継いだ
三井物産から副社長を借りて商いを覚える

経営を継いだ後藤磯吉氏がまず据えたのは、缶詰の製造ではなく商いの体制だった。財閥解体が進むなか、取引関係のあった三井物産から沢田一郎氏を副社長に迎え、社名を後藤物産と改めている。1948年に統制会社の静岡県缶詰が解散したのを機に缶詰の取り扱いを始め、同年5月には商号を後藤物産罐詰へ変更した。1950年10月にはさらに後藤罐詰となり、同じころ三井物産の再編で沢田氏が古巣へ戻ったのを境に、缶詰の製造そのものへ本格的に取り組み始めた。商社から人を借りて売る側の作法を覚え、返す段で製造業へ戻ったことになる。

  • 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
    • [15]財閥解体後、三井物産との取引関係から沢田一郎を副社長に迎え、社名を後藤物産へ変更
    • [18]2代目後藤磯吉「昭和二五年頃です。ちょうどその頃、三井物産が再編成されてきまして、沢田さんも三井物産にお帰りになられましたので、後藤缶詰という社名で、缶詰の製造に本格的に取り組みました」
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1948年5月 商号を後藤物産罐詰へ変更
    • [17]1950年10月 商号を後藤罐詰へ変更
工場と漁業を自社で保有する

製造へ戻るにあたって手当てされたのは、詰める設備と詰める中身の両方だった。1950年3月、静岡県清水市に清水プラントを新設し、1951年2月には焼津食品と焼津水産缶詰を吸収合併して焼津プラントを設けている。1956年10月には後藤漁業も吸収合併した。当時のマグロ缶詰はそのほとんどが輸出向けで、後藤罐詰も同様だった。設備と原料を押さえるほど注文主から引き受けられる量は増えるが、増えた量の行き先を決めるのは相変わらず注文主であり、製品にどのブランドが巻かれるかも変わらなかった。

  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1950年3月 静岡県清水市に清水プラントを新設
    • [20]1951年2月 焼津食品・焼津水産缶詰を吸収合併し焼津プラントを新設
    • [21]1956年10月 後藤漁業を吸収合併
  • 缶詰時報 64(9)(729)(日本缶詰協会, 1956年)
    • [22]2代目後藤磯吉「確かに輸出は良かったし、マグロ缶詰のほとんどが輸出向けでした。私どものところも同様だったわけです」
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [23]清水のパッカーは大半が問屋・大手メーカーのブランドで売られる「白巻き」を製造
詰め屋であることへの疑問

注文が来れば設備を足すというやり方は続いていたものの、輸出缶詰は商社や現地バイヤーの銘柄を付けて店頭に並び、作り手の立場は下請に近いものだった。2代目後藤磯吉氏はこの形に疑問を抱き、言われたとおりに缶へ詰めて納めるだけでは"詰め屋"にすぎず、メーカーと称するなら消費者の口に入るまでを引き受け、自前の銘柄も持つべきだと考えた。メーカーであるには自らの銘柄を育てる必要があるという問いの出どころはここにあり、同じ工場・同じ品質で詰めた品でも、どの銘柄を付けて売るかによって、次の製品を決める権限の置き場所が変わる。

  • 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
    • [24]2代目後藤磯吉「当社も輸出缶詰を多く製造していましたが、商社か現地のバイヤーのブランドで売られるわけで、簡単にいってしまえば下請企業のような形になるわけです」
    • [26]2代目後藤磯吉「メーカーとして自らのブランドを育てていくのが本筋ではないかと疑問に思ったわけです」
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [25]2代目後藤磯吉「発注のままに、ただ詰めて納品するだけでは、文字通りただの“詰め屋(パッカー)”だ。メーカーならば、消費者が本当に食べてくれるところまで責任を持たねばならない。自社ブランドを持つべきだ」
参考文献[9]-[26]
  • 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
    • [9]2代目後藤磯吉は1921年(大正10年)神戸生まれ。父は日本郵船勤務で、満2歳から小学校1年まで米国で育ち、関西学院大学を卒業
    • [10]戦車隊に幹部候補生として配属され、経理学校を経て主計となり、硫黄島方面の輸送を行う部隊の司令部があった伊豆下田で終戦
    • [11]連合軍進駐に備え司令部を清水へ撤退させる命令を受けて移り、残務整理中に警防団長だった初代後藤磯吉の慰問を受けた
    • [12]初代と会ったのは昭和20年9月
    • [13]昭和21年1月19日、初代がオートバイで静岡へ向かう途中に脳溢血で倒れ、「後をたのむ」と言い残して死去
    • [14]初代の一人娘と結婚し、昭和21年5月に養子となって経営を引き継いだ
    • [15]財閥解体後、三井物産との取引関係から沢田一郎を副社長に迎え、社名を後藤物産へ変更
    • [18]2代目後藤磯吉「昭和二五年頃です。ちょうどその頃、三井物産が再編成されてきまして、沢田さんも三井物産にお帰りになられましたので、後藤缶詰という社名で、缶詰の製造に本格的に取り組みました」
    • [24]2代目後藤磯吉「当社も輸出缶詰を多く製造していましたが、商社か現地のバイヤーのブランドで売られるわけで、簡単にいってしまえば下請企業のような形になるわけです」
    • [26]2代目後藤磯吉「メーカーとして自らのブランドを育てていくのが本筋ではないかと疑問に思ったわけです」
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1948年5月 商号を後藤物産罐詰へ変更
    • [17]1950年10月 商号を後藤罐詰へ変更
    • [19]1950年3月 静岡県清水市に清水プラントを新設
    • [20]1951年2月 焼津食品・焼津水産缶詰を吸収合併し焼津プラントを新設
    • [21]1956年10月 後藤漁業を吸収合併
    • [22]2代目後藤磯吉「確かに輸出は良かったし、マグロ缶詰のほとんどが輸出向けでした。私どものところも同様だったわけです」
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [23]清水のパッカーは大半が問屋・大手メーカーのブランドで売られる「白巻き」を製造
    • [25]2代目後藤磯吉「発注のままに、ただ詰めて納品するだけでは、文字通りただの“詰め屋(パッカー)”だ。メーカーならば、消費者が本当に食べてくれるところまで責任を持たねばならない。自社ブランドを持つべきだ」

1956年〜輸出が好調なさなかの内需への転換

商社の下請けから抜けるという理屈

1956年5月、後藤罐詰は東京営業所を開設し、国内販売へ乗り出した。輸出は商社を通じて海外へ売られるため、直接食べる客の希望が分からず、しかも商社の下請けにあたる立場だった。客の望むものを少しでも安く提供し、作った製品を自社ブランドで販売してそのブランドを育て上げることが、後藤磯吉氏の考えるメーカーの使命だった。輸出では相手が外国であり、当時の後藤罐詰の力では自社ブランドでの販売に手が届かなかった。国内なら静岡や愛知といった身近なところから少しずつ売っていけば形になると見込み、内需転換に踏み切った。注文を受ける相手を替えるのではなく、注文を出す相手そのものを消費者へ替える決断だった。

  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1956年5月 東京営業所を開設(国内販売への転換)
  • 缶詰時報 64(9)(729)(日本缶詰協会, 1956年)
    • [28]2代目後藤磯吉「輸出は商社を通じて海外に販売される関係上、直接食べてくださるお客様の希望がわれわれにはわからない部分が多くなります……それに輸出は商社のいわば下請けです」
    • [29]2代目後藤磯吉「お客様の望まれるものを少しでも安く提供し、造った製品を自社ブランドで販売していき、そのブランドを育て上げていく」というメーカーの使命観
    • [30]2代目後藤磯吉「外国が相手の輸出では当社ほどの力ではとてもできません」
    • [31]2代目後藤磯吉「国内なら静岡とか愛知とかの身近なところからボツボツやっていけばうまくいくのではないかと考えて内需転換に踏み切りました」
油という言葉を避けた命名

果物缶詰は原料の季節性が強く生産期間が冬に限られたため、自社ブランドはツナ缶を中心に開発された。1958年、後藤罐詰は売上の大半を稼いでいた米国向け輸出を絞り、『はごろもシーチキン』で国内市場の開拓に踏み出した。マグロ油漬缶詰という表示だと、業界人には食用油と通じても、一般の買い手は機械油を思い浮かべかねない。そこで参考にしたのが米国の銘柄"チキン・オブ・ザ・シー"で、海でとれる鶏肉を指すこの名を踏まえ、"海のニワトリ"を意味する言葉から製品名を取った。商標"シーチキン"の登録は1958年11月で、鮪油漬缶詰類の製品名としてである。

  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [32]果物缶詰は原料の季節性が強く生産期間が冬に限られるため、ツナ缶を中心に自社ブランドを開発
    • [33]1958年 米国向け輸出を縮小し「はごろもシーチキン」で国内市場の開拓に着手
    • [35]米国のブランド「チキン・オブ・ザ・シー」を参考にした命名
  • 缶詰時報 64(9)(729)(日本缶詰協会, 1958年)
    • [34]「油」から機械油を連想させることを避けた命名の理由
    • [36]「海のニワトリ」の意味を持つシーチキンの命名
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1958年11月 鮪油漬缶詰類の製品名「シーチキン」を商標登録
好調な輸出の利益を販売の伸びない商品へ回す

1950年代後半、マグロ缶詰は大半が輸出向けで、後藤罐詰も同じだった。内需への転換は輸出不振に追われてのことではなく、むしろ輸出で稼いだ利益をシーチキンの商品化へ注ぎ込むものであり、周りからは『何も苦労しなくても』と繰り返し言われた。国内の消費者にツナ缶はほぼ知られておらず、輸出先メーカーの販路や名前を借りることもできないため、静岡・愛知など近場から取扱店を一軒ずつ広げていくしかなかった。売れる品の儲けを売れない品へ注ぐこの判断の代価は、その後10年にわたって払い続けることになる。

  • 缶詰時報 64(9)(729)(日本缶詰協会, 1956年)
    • [38]2代目後藤磯吉「確かに輸出は良かったし、マグロ缶詰のほとんどが輸出向けでした。私どものところも同様だったわけです」
    • [41]2代目後藤磯吉「国内なら静岡とか愛知とかの身近なところからボツボツやっていけばうまくいくのではないかと考えて内需転換に踏み切りました」
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [39]2代目後藤磯吉「輸出が絶好調の中で、その利益をシーチキンの商品化につぎ込む形になった。何も苦労しなくても、と周りからさんざん言われた」
    • [40]ツナ缶は国内ではほとんど認知されていない商品だった
参考文献[27]-[41]
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1956年5月 東京営業所を開設(国内販売への転換)
    • [37]1958年11月 鮪油漬缶詰類の製品名「シーチキン」を商標登録
    • [28]2代目後藤磯吉「輸出は商社を通じて海外に販売される関係上、直接食べてくださるお客様の希望がわれわれにはわからない部分が多くなります……それに輸出は商社のいわば下請けです」
    • [29]2代目後藤磯吉「お客様の望まれるものを少しでも安く提供し、造った製品を自社ブランドで販売していき、そのブランドを育て上げていく」というメーカーの使命観
    • [30]2代目後藤磯吉「外国が相手の輸出では当社ほどの力ではとてもできません」
    • [31]2代目後藤磯吉「国内なら静岡とか愛知とかの身近なところからボツボツやっていけばうまくいくのではないかと考えて内需転換に踏み切りました」
    • [38]2代目後藤磯吉「確かに輸出は良かったし、マグロ缶詰のほとんどが輸出向けでした。私どものところも同様だったわけです」
    • [41]2代目後藤磯吉「国内なら静岡とか愛知とかの身近なところからボツボツやっていけばうまくいくのではないかと考えて内需転換に踏み切りました」
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
    • [32]果物缶詰は原料の季節性が強く生産期間が冬に限られるため、ツナ缶を中心に自社ブランドを開発
    • [33]1958年 米国向け輸出を縮小し「はごろもシーチキン」で国内市場の開拓に着手
    • [35]米国のブランド「チキン・オブ・ザ・シー」を参考にした命名
    • [39]2代目後藤磯吉「輸出が絶好調の中で、その利益をシーチキンの商品化につぎ込む形になった。何も苦労しなくても、と周りからさんざん言われた」
    • [40]ツナ缶は国内ではほとんど認知されていない商品だった
    • [34]「油」から機械油を連想させることを避けた命名の理由
    • [36]「海のニワトリ」の意味を持つシーチキンの命名

1931年〜1958年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年 n/a n/a n/a n/a n/a 静岡県清水市に清水プラントを新設(1950/03)
1951年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 11 n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a

出典・参考

6件
出典・参考
  • はごろもフーズ 有価証券報告書【沿革】
  • 総合食品 1981年2月号「対談なんでも話そう 後藤磯吉・はごろも缶詰社長/秀平武男・本誌社長 今期にも売上高五〇〇億」
  • 日経ビジネス 1993年12月20日・27日号
  • 証券アナリストジャーナル(2000年、後藤康雄 はごろもフーズ社長 )
  • 缶詰時報 64(9)(729)(日本缶詰協会, 1956年)
  • 缶詰時報 64(9)(729)(日本缶詰協会, 1958年)

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