第2章 年〜年

ヱスビー食品:固形即席ヱスビーカレーの発売と東証二部上場

1950年〜東京8・大阪6の大問屋を組織化した大特約店制度とSB会

戦後のヱスビー食品は、大阪高麗橋に出張所を開いて関西・四国・九州に地盤を築き、工場をコンベヤシステムで機械化して国内需要の大半を充足した。販売では1949年ころから大特約店制度を進め、三井物産、国分商店、鈴木洋酒店、明治屋を含む東京8、大阪6の大問屋を一次店に据えた。1961年までに全国500数十の特約店と、その下の三次店まで系列化した。小売の側では年間3000万円以上を売る店で全日本SB会を組織し、その下に16地区のブロックSB会と各府県SB会を置いて、本社の方針と販売店の要望を往復させる経路とした。1960年9月までの1年間の売上高は25億円に迫り、占有率は東京で8割、全国で7割を下らなかった。製品力に加えて、大問屋を一次店に据え末端まで系列化した流通が、後発の参入を阻む障壁になったとみられる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)エスビー食品
    • [1]大阪高麗橋に出張所を開設して関西、四国、九州地区に地盤を確立し、一方で工場を機械化してコンベヤシステムにより生産を増強し、国内需要の大半を充足した。
  • 実業の世界 1961年 長谷川正夫
    • [2]昭和24年ころから大特約店制度を押し進め、三井物産、国分商店、鈴木洋酒店、明治屋を含む東京8、大阪6の大問屋を擁し、全国500数十の特約店、さらに三次店と販売系列を強固にした。
    • [3]昭和24年ころから大特約店制度を押し進め、三井物産、国分商店、鈴木洋酒店、明治屋を含む東京8、大阪6の大問屋を擁し、全国500数十の特約店、さらに三次店と販売系列を強固にした。
    • [5]1960年9月までの1年間の売上高は前年比61%増、5年前の2.7倍で、年間売上高は25億円を突破しようとしており、占有率は東京で8割、全国でも7割を下らない。
  • 不況知らずの会社 その社長の実績と哲学「香辛調味料の覇者に 山崎峯次郎(エスビー食品社長)」
    • [4]一年間にSBの食品を3000万円以上売る店で全日本SB会を結成し(全国51店)、その下部に16地区のブロックSB会、さらに各府県SB会を置き、本社の意向が末端まで通り、販売店の意向が本社に通達される仕組みとした。

1957年の時点で、製品は全国のヱスビー会員600社を通じて末端の小売店へ流れていた。ヱスビー会は特約店197店と二次店394店から成る。本社の日本橋兜町のほか大阪・名古屋・札幌に出張所を置き、1959年には福岡にも構えた。系列の網を広げる一方で、宣伝車を各県に1台、宣伝員を各県に2名ずつ常置してカレー食の普及にあたらせた。当時の日本人は70食に1食しかカレーを食べておらず、農山漁村への普及はこれからという段階にあった。売る先の店を増やすことと、その店で買う理由を作ることは別の仕事であり、ヱスビー食品は後者にも自社の人員を張りつけたとみられる。

  • 東商 1957年「(工場見学記)ヱスビー食品株式会社板橋工場」
    • [6]生カレー粉、即席カレー、コショー粉、カラシ粉等の製品は、すべて全国ヱスビー会員600社を通じて末端の小売店へ販売されている。
    • [7]ヱスビー会は当社の販売組織で、特約店197店、二次店394店から成る。
    • [10]宣伝車は各県1台の割合で全国に配置し、宣伝員も各県2名ずつ常置してカレー食の普及に努めている。
    • [11]日本人は現在70食に1食しかカレー食をとっておらず、農山漁村方面への普及はこれからというところである。
  • 株式会社年鑑 1959年版 ヱスビー食品
    • [8]事業所は本社(東京都中央区日本橋兜町)のほか大阪出張所、名古屋出張所、北海道出張所(札幌)、板橋工場である。
  • 株式会社年鑑 1960年版 ヱスビー食品
    • [9]事業所に福岡出張所(福岡市東中州町3番地の1)が加わった。

1974年時点の販売網は、三井物産・明治屋・国分商店など大手6社を販売代理店、地域向けの8店を特約店とし、その下に全国250の登録店を置く構成だった。末端の販売店には300人のセールスマンを常時巡回させて品揃えと陳列を支え、量販店向けには150人のデモンストレーターを配した。山崎峯次郎社長は全国の主要都市に出張所を開き、16地区にエスビー会を結成して販売促進にあたらせた。ただし関東での伸びが目標を上回る一方、四国では目標の7割に届くかどうかという地域差が残り、東のヱスビー、西のハウスという両社の地盤は崩れなかった。関東で築いた系列の厚みは、そのまま地方での弱さと表裏をなしたとみられる。

  • オール大衆 1974年「《奮闘する経営者》意見があって今夜は 山崎峯次郎」
    • [12]三井物産、明治屋、国分商店などの大手6社を販売代理店とし、地域向けとして8店の問屋を特約店とし、その下に全国250店の登録店がある。うち69店で全日本ヱスビー会という横の組織ができている。
    • [13]末端の販売店のために300人のセールスマンを常時巡回させて商品をチェックし品揃えしてディスプレーにも知恵を貸し、量販店などのデモンストレーターとして150人を使っている。
    • [15]東はヱスビー、西はハウスが両横綱で、関東での伸びは目標をかなり上まわる好調であっても、四国あたりでは目標の7割までいくかどうかというアンバランスがある。
  • 政経人 2003年8月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(3) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [14]セールスを重視する山崎峯次郎は、全国の主要都市に出張所を開設し、16地区にエスビー会を結成して販売促進に努めた。
参考文献[1]-[15]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)エスビー食品
    • [1]大阪高麗橋に出張所を開設して関西、四国、九州地区に地盤を確立し、一方で工場を機械化してコンベヤシステムにより生産を増強し、国内需要の大半を充足した。
  • 実業の世界 1961年 長谷川正夫
    • [2]昭和24年ころから大特約店制度を押し進め、三井物産、国分商店、鈴木洋酒店、明治屋を含む東京8、大阪6の大問屋を擁し、全国500数十の特約店、さらに三次店と販売系列を強固にした。
    • [3]昭和24年ころから大特約店制度を押し進め、三井物産、国分商店、鈴木洋酒店、明治屋を含む東京8、大阪6の大問屋を擁し、全国500数十の特約店、さらに三次店と販売系列を強固にした。
    • [5]1960年9月までの1年間の売上高は前年比61%増、5年前の2.7倍で、年間売上高は25億円を突破しようとしており、占有率は東京で8割、全国でも7割を下らない。
  • 不況知らずの会社 その社長の実績と哲学「香辛調味料の覇者に 山崎峯次郎(エスビー食品社長)」
    • [4]一年間にSBの食品を3000万円以上売る店で全日本SB会を結成し(全国51店)、その下部に16地区のブロックSB会、さらに各府県SB会を置き、本社の意向が末端まで通り、販売店の意向が本社に通達される仕組みとした。
  • 東商 1957年「(工場見学記)ヱスビー食品株式会社板橋工場」
    • [6]生カレー粉、即席カレー、コショー粉、カラシ粉等の製品は、すべて全国ヱスビー会員600社を通じて末端の小売店へ販売されている。
    • [7]ヱスビー会は当社の販売組織で、特約店197店、二次店394店から成る。
    • [10]宣伝車は各県1台の割合で全国に配置し、宣伝員も各県2名ずつ常置してカレー食の普及に努めている。
    • [11]日本人は現在70食に1食しかカレー食をとっておらず、農山漁村方面への普及はこれからというところである。
  • 株式会社年鑑 1959年版 ヱスビー食品
    • [8]事業所は本社(東京都中央区日本橋兜町)のほか大阪出張所、名古屋出張所、北海道出張所(札幌)、板橋工場である。
  • 株式会社年鑑 1960年版 ヱスビー食品
    • [9]事業所に福岡出張所(福岡市東中州町3番地の1)が加わった。
  • オール大衆 1974年「《奮闘する経営者》意見があって今夜は 山崎峯次郎」
    • [12]三井物産、明治屋、国分商店などの大手6社を販売代理店とし、地域向けとして8店の問屋を特約店とし、その下に全国250店の登録店がある。うち69店で全日本ヱスビー会という横の組織ができている。
    • [13]末端の販売店のために300人のセールスマンを常時巡回させて商品をチェックし品揃えしてディスプレーにも知恵を貸し、量販店などのデモンストレーターとして150人を使っている。
    • [15]東はヱスビー、西はハウスが両横綱で、関東での伸びは目標をかなり上まわる好調であっても、四国あたりでは目標の7割までいくかどうかというアンバランスがある。
  • 政経人 2003年8月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(3) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [14]セールスを重視する山崎峯次郎は、全国の主要都市に出張所を開設し、16地区にエスビー会を結成して販売促進に努めた。

1950年〜固形即席カレーとガーリック・カー、売上高の1割を超えた宣伝費

1950年、ヱスビー食品は家庭用の赤缶カレー粉を発売し、民間放送が始まるといち早く連続物語番組を提供して銘柄の知名度を高めた。1952年ごろから他社の即席カレーが市場に出たが、酸気を含む古い小麦粉を使う製品が多く、山崎峯次郎社長は良質な小麦粉が手に入るのを待って1954年に固形即席カレーを発売した。同じ1954年にはキッチンカーによる移動料理教室を始め、調理法を家庭へ直接教えた。売上高に占める即席品は、カレー粉とコショウ粉に次ぐ位置まで伸び、この4、5年の伸びから順位が入れ替わる見込みとなった。後発で即席品へ参入しながら、品質の条件が整うまで発売を待ち、使い方の教育と組にして市場へ出した判断だったとみられる。

  • 政経人 2003年7月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(2) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [16]1950年、家庭用の「赤缶カレー粉」を発売し、民間放送が開始されると逸早く「姿三四郎」などの連続物語番組を提供して「エスビーカレー」の知名度を高めた。
    • [17]昭和27年頃から即席カレーが次々と市場に登場したが酸気を含む古い小麦粉を使っており、山崎峯次郎は良質な小麦粉を入手できるのを待って1954年に「固形即席カレー」を発売し、キッチンカーによる移動料理教室を開いた。
    • [18]昭和27年頃から即席カレーが次々と市場に登場したが酸気を含む古い小麦粉を使っており、山崎峯次郎は良質な小麦粉を入手できるのを待って1954年に「固形即席カレー」を発売し、キッチンカーによる移動料理教室を開いた。
  • 不況知らずの会社 その社長の実績と哲学「香辛調味料の覇者に 山崎峯次郎(エスビー食品社長)」
    • [19]売上高の順位はカレー粉、コショウ粉、即席品、カラシ粉、ガーリックで、この4、5年インスタント品の伸び方が非常によいため順位は近いうちに変わる。

1955年から1956年にかけて、ヱスビー食品は板橋工場の自動化を進めた。充填と缶の巻締めはほぼ機械に置き換わり、ドイツのキアリマンから取り寄せた4台の自動充填機はカレー粉末を1分間に40缶へ詰めた。即席カレーの工場ではラベル貼機と包装機も自動化した。カレー粉の生産量は1955年度下期の450トンから1956年度下期には800トンへ増え、1951年6月からの半年の180トンに比べれば4倍を超えた。1958年度上期には生産能力1100トンに対して実績1008トンとほぼ限度まで使い、1959年度下期には能力2065トン・実績1652トンへ規模を上げた。即席カレーの発売と宣伝で需要を起こす前に、それを受け止める生産体制を先に広げていたことになる。

  • 東商 1957年「(工場見学記)ヱスビー食品株式会社板橋工場」
    • [20]工場の自動化は昭和30年から31年にかけて実施された。
    • [21]充填、缶の巻締め等の工程はほとんど自動化されており、ドイツのキアリマンから取り寄せた4台の自動充填機はカレー粉末を1分間に40個の缶へ充填できる。
    • [22]即席カレー工場では、ラベル貼機も包装機もすべて自動化されている。
    • [23]カレー粉の生産量は30年度下期(30年10月〜31年3月)の生産実績450トンに対し、31年度下期(31年10月〜32年3月)は800トンと2倍近くに増え、5年前(26年6〜11月)の180トンに比べれば4倍強に達した。
  • 株式会社年鑑 1959年版 ヱスビー食品
    • [24]生産状況(自33.4-至33.9)はカレー粉の生産能力1,100屯に対し生産実績1,008屯であった。
  • 株式会社年鑑 1960年版 ヱスビー食品
    • [25]生産状況(自34.10-至35.3)はカレー粉の生産能力2,065屯に対し生産実績1,652屯であった。

1960年にガーリックパウダーを発売すると、ヱスビー食品はルノー100台を黄色く塗って社名を入れ、2年半乗り続ければ車を譲る条件で運転者を募り、3万1354人の応募を集めた。この企画に投じた費用は約7000万円で、ヱスビー食品の年間宣伝費3億円は資本金9000万円の3倍以上、売上高の1割以上にあたった。企画したのは宣伝・渉外を担当する山崎春栄常務(山崎峯次郎社長の夫人)で、長男の山崎至朗氏が副社長、次男の山崎達光氏が取締役販売促進部長を務める親族経営だった。ガーリックは脱臭で臭いを抑え、国内外で売れ行きを伸ばした。宣伝費を売上高の1割超に積む配分は、未知の香辛料を使い方ごと浸透させる需要創造の費用だったとみられる。

  • 実業の世界 1961年 長谷川正夫
    • [26]ガーリック・カーとして宣伝のための社名を入れた黄色いルノーを2年半乗れば車が自分のものになる条件で募集し、100台の予定に対し3万1354人の申込みがあった。9月には大阪でも100台分を募集した。
    • [27]ガーリック・カーにかけた費用は約7000万円。ヱスビー食品は年間3億円の宣伝費をかけており、これは資本金(9000万円)の3倍以上、売上高の1割以上にあたる。
    • [28]走るPRは宣伝・渉外担当で秘書室長でもある山崎社長の夫人春栄常務の企画で、ヱスビー食品は完全な親族会社であり、長男の至朗氏が副社長、次男の達光氏が取締役販売促進部長を務めている。
  • 不況知らずの会社 その社長の実績と哲学「香辛調味料の覇者に 山崎峯次郎(エスビー食品社長)」
    • [29]ニンニクの成分をこわさずに脱臭することに成功したのでニオイはせず、ガーリックの売れ行きは国内でも海外でも好調である。
参考文献[16]-[29]
  • 政経人 2003年7月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(2) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [16]1950年、家庭用の「赤缶カレー粉」を発売し、民間放送が開始されると逸早く「姿三四郎」などの連続物語番組を提供して「エスビーカレー」の知名度を高めた。
    • [17]昭和27年頃から即席カレーが次々と市場に登場したが酸気を含む古い小麦粉を使っており、山崎峯次郎は良質な小麦粉を入手できるのを待って1954年に「固形即席カレー」を発売し、キッチンカーによる移動料理教室を開いた。
    • [18]昭和27年頃から即席カレーが次々と市場に登場したが酸気を含む古い小麦粉を使っており、山崎峯次郎は良質な小麦粉を入手できるのを待って1954年に「固形即席カレー」を発売し、キッチンカーによる移動料理教室を開いた。
  • 不況知らずの会社 その社長の実績と哲学「香辛調味料の覇者に 山崎峯次郎(エスビー食品社長)」
    • [19]売上高の順位はカレー粉、コショウ粉、即席品、カラシ粉、ガーリックで、この4、5年インスタント品の伸び方が非常によいため順位は近いうちに変わる。
    • [29]ニンニクの成分をこわさずに脱臭することに成功したのでニオイはせず、ガーリックの売れ行きは国内でも海外でも好調である。
  • 東商 1957年「(工場見学記)ヱスビー食品株式会社板橋工場」
    • [20]工場の自動化は昭和30年から31年にかけて実施された。
    • [21]充填、缶の巻締め等の工程はほとんど自動化されており、ドイツのキアリマンから取り寄せた4台の自動充填機はカレー粉末を1分間に40個の缶へ充填できる。
    • [22]即席カレー工場では、ラベル貼機も包装機もすべて自動化されている。
    • [23]カレー粉の生産量は30年度下期(30年10月〜31年3月)の生産実績450トンに対し、31年度下期(31年10月〜32年3月)は800トンと2倍近くに増え、5年前(26年6〜11月)の180トンに比べれば4倍強に達した。
  • 株式会社年鑑 1959年版 ヱスビー食品
    • [24]生産状況(自33.4-至33.9)はカレー粉の生産能力1,100屯に対し生産実績1,008屯であった。
  • 株式会社年鑑 1960年版 ヱスビー食品
    • [25]生産状況(自34.10-至35.3)はカレー粉の生産能力2,065屯に対し生産実績1,652屯であった。
  • 実業の世界 1961年 長谷川正夫
    • [26]ガーリック・カーとして宣伝のための社名を入れた黄色いルノーを2年半乗れば車が自分のものになる条件で募集し、100台の予定に対し3万1354人の申込みがあった。9月には大阪でも100台分を募集した。
    • [27]ガーリック・カーにかけた費用は約7000万円。ヱスビー食品は年間3億円の宣伝費をかけており、これは資本金(9000万円)の3倍以上、売上高の1割以上にあたる。
    • [28]走るPRは宣伝・渉外担当で秘書室長でもある山崎社長の夫人春栄常務の企画で、ヱスビー食品は完全な親族会社であり、長男の至朗氏が副社長、次男の達光氏が取締役販売促進部長を務めている。

1958年〜ニンニクの契約栽培と上田工場のチューブ製品、自己資本比率12.9%の成長

1958年、山崎峯次郎社長は長男の山崎至朗氏を米国へ派遣し、留学中の次男山崎達光氏とともに香辛料の需要を調べさせた。米国の輸入香辛料は第1位がコショウ、第2位がガーリックだった。原料のニンニクは、農家が畑の畔で作るものを集めても量が揃わないため、新潟県の開拓地の裏作として栽培を委託した。5年を経て年産50万貫を超え、ヱスビー食品は加工工場を建て、作付けを東北各県へ広げる計画を立てた。1960年3月にはヱスビーガーリック工業を設立した。原料を市場から買うのではなく産地の作付けから押さえた原料調達の意思決定は、新しい香辛料の供給量を自ら決める垂直統合の戦略であった。

  • 政経人 2003年8月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(3) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [30]1958年夏、長男で社員の至朗をアメリカへ派遣し、ミシガン大学に留学中の次男・達光とともにスパイスの需要状況を調査させた。アメリカが輸入するスパイスの第一位はコショウ、第二位はガーリックだった。
    • [31]1958年夏、長男で社員の至朗をアメリカへ派遣し、ミシガン大学に留学中の次男・達光とともにスパイスの需要状況を調査させた。アメリカが輸入するスパイスの第一位はコショウ、第二位はガーリックだった。
  • 不況知らずの会社 その社長の実績と哲学「香辛調味料の覇者に 山崎峯次郎(エスビー食品社長)」
    • [32]農家で畑の畔につくっているニンニクを集めても幾らにもならないため、品質・気候などの点から新潟県の裏作課のきも入りで開拓地の裏作につくってもらうことにした。
    • [33]契約栽培は5年になり年産50万貫を突破し、工場を建設した。農家の反収は3万円ぐらいになり、今後は作付けを東北各県に広げたい。輸出はアメリカ、イギリス、イタリアなどに年間200トンから250トン。
  • ヱスビー食品 有価証券報告書 第113期(2026年3月期)【沿革】
    • [34]1960年3月、ヱスビーガーリック工業株式会社を設立する。

1960年3月期までの3年間で、半期の売上高は5億円余から12億円弱へ2倍を超えて伸びた。従業員は1955年の239人から1958年に332人、1959年には421人となった。資本金も1955年4月に4500万円、1959年9月に9000万円と積み増している。それでも自己資本は事業の規模に対して薄く、社長一族の持株比率の高さが増資資金の手当てを難しくしていた。同じ時期、本社の第二工場が完成し、大阪・八尾には本社工場を上回る規模の工場を建てる計画が進んでいた。設備は売上に合わせて広げられる一方、自己資本はその速度に追いつかず、差は借入で埋めるほかなかったとみられる。

  • 野田経済 1960年
    • [35]売上高は3年前の3月期にはわずかに5億円余にすぎなかったが、1960年3月期には12億円弱へと2倍強の増加をみせた。
    • [38]資本金9000万円はいよいよもって過少資本が目立つことになり、社長一族の所有株がかなり高いウエイトであるために、増資資金の手当の関係から増資テンポはそう早いものとは思われない。
    • [39]本社第二工場のオートメ工場が完成し、続いて大阪は八尾に本社工場のスケールを上まわる大型工場の建設にとりかかる計画である。
  • 株式会社年鑑 1956年版・1959年版・1960年版 ヱスビー食品
    • [36]従業員数は239人(1956年版)、332人(1959年版)、421人(1960年版)と推移した。
  • 株式会社年鑑 1960年版 ヱスビー食品
    • [37]資本金は昭和30年4月に4500万円(2:1)、昭和34年9月に9000万円(1:1、50円無償)へ増資された。

1966年のゴールデンカレー発売ののち、ハウス食品に後れを取っていた即席カレーでヱスビー食品は市場の2割以上を占めるに至り、香辛料類では8割のシェアを持った。1973年に竣工した長野県の上田工場には15億円を投じ、ゴールデンカレー、ディナーカレー、からし・わさびのチューブ入り練り製品、類似品の無いおろし生にんにくを生産した。上田工場は1973年5月に新築竣工した。一方で資本金は2億8000万円にとどまって自己資本比率は12.9%と低く、二部上場の資格を保つには3億円以上への増資が必要となり、倍額増資で得た資金を借入金の返済に充てた。急成長を借入金で賄った財務は、次の時代に多角化を進めるうえで重い制約として残ったとみられる。

  • オール大衆 1974年「《奮闘する経営者》意見があって今夜は 山崎峯次郎」
    • [40]ヱスビー食品はカレー粉コショーなど香辛料類で市場の80%のシェアを占め、ゴールデンカレーを発売して以来、ハウス食品におくれをとっていた即席カレー部門で市場の2割以上を占めるに至っている。
    • [41]15億円を投じて建設した長野県の上田工場が稼動をはじめ、ゴールデンカレー、新製品ディナーカレー、チューブ入りのねり製品(からし、わさび)、類似品のないチューブ入り「おろし生にんにく」(180円)などを生産している。
    • [43]資本金は2億8000万円で、期限までに3億円以上にしないと二部上場資格がなくなる。自己資本比率は12.9%と低く、倍額増資を行い手取り資金は借入金の返済に充てる。
  • ヱスビー食品 有価証券報告書 第113期(2026年3月期)【沿革】
    • [42]1973年5月、上田工場を新築竣工する。
参考文献[30]-[43]
  • 政経人 2003年8月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(3) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [30]1958年夏、長男で社員の至朗をアメリカへ派遣し、ミシガン大学に留学中の次男・達光とともにスパイスの需要状況を調査させた。アメリカが輸入するスパイスの第一位はコショウ、第二位はガーリックだった。
    • [31]1958年夏、長男で社員の至朗をアメリカへ派遣し、ミシガン大学に留学中の次男・達光とともにスパイスの需要状況を調査させた。アメリカが輸入するスパイスの第一位はコショウ、第二位はガーリックだった。
  • 不況知らずの会社 その社長の実績と哲学「香辛調味料の覇者に 山崎峯次郎(エスビー食品社長)」
    • [32]農家で畑の畔につくっているニンニクを集めても幾らにもならないため、品質・気候などの点から新潟県の裏作課のきも入りで開拓地の裏作につくってもらうことにした。
    • [33]契約栽培は5年になり年産50万貫を突破し、工場を建設した。農家の反収は3万円ぐらいになり、今後は作付けを東北各県に広げたい。輸出はアメリカ、イギリス、イタリアなどに年間200トンから250トン。
  • ヱスビー食品 有価証券報告書 第113期(2026年3月期)【沿革】
    • [34]1960年3月、ヱスビーガーリック工業株式会社を設立する。
    • [42]1973年5月、上田工場を新築竣工する。
  • 野田経済 1960年
    • [35]売上高は3年前の3月期にはわずかに5億円余にすぎなかったが、1960年3月期には12億円弱へと2倍強の増加をみせた。
    • [38]資本金9000万円はいよいよもって過少資本が目立つことになり、社長一族の所有株がかなり高いウエイトであるために、増資資金の手当の関係から増資テンポはそう早いものとは思われない。
    • [39]本社第二工場のオートメ工場が完成し、続いて大阪は八尾に本社工場のスケールを上まわる大型工場の建設にとりかかる計画である。
  • 株式会社年鑑 1956年版・1959年版・1960年版 ヱスビー食品
    • [36]従業員数は239人(1956年版)、332人(1959年版)、421人(1960年版)と推移した。
  • 株式会社年鑑 1960年版 ヱスビー食品
    • [37]資本金は昭和30年4月に4500万円(2:1)、昭和34年9月に9000万円(1:1、50円無償)へ増資された。
  • オール大衆 1974年「《奮闘する経営者》意見があって今夜は 山崎峯次郎」
    • [40]ヱスビー食品はカレー粉コショーなど香辛料類で市場の80%のシェアを占め、ゴールデンカレーを発売して以来、ハウス食品におくれをとっていた即席カレー部門で市場の2割以上を占めるに至っている。
    • [41]15億円を投じて建設した長野県の上田工場が稼動をはじめ、ゴールデンカレー、新製品ディナーカレー、チューブ入りのねり製品(からし、わさび)、類似品のないチューブ入り「おろし生にんにく」(180円)などを生産している。
    • [43]資本金は2億8000万円で、期限までに3億円以上にしないと二部上場資格がなくなる。自己資本比率は12.9%と低く、倍額増資を行い手取り資金は借入金の返済に充てる。

筆者考察

ヱスビー食品が1960年に握っていた全国7割の占有率は、カレー粉が良かったからというより、売る順番を先に組んでいたからである。1949年ころから大特約店制度を進め、三井物産・国分商店・鈴木洋酒店・明治屋を含む東京8・大阪6の大問屋を一次店に据え、その下に500数十の特約店と三次店を並べた。1957年のヱスビー会は特約店197店と二次店394店、会員600社。ここまで組んだうえで、宣伝車を各県1台、宣伝員を各県2名ずつ置いている。当時の日本人は70食に1食しかカレーを食べていない。棚を押さえても、食べる回数が増えなければ数は出ない。

だから費用は需要のほうへ向かった。ガーリックパウダーの発売に合わせて黄色いルノー100台を走らせ、3万1354人の応募を集めた企画に約7000万円。年間の宣伝費3億円は、資本金9000万円の3倍を超えている。受け止める生産体制は先に広げてあり、カレー粉の半期生産は1951年の180トンから1959年には1652トンへ伸びた。足りなかったのは自己資本だけである。社長一族の持株が厚く増資の速度が上がらないまま設備と宣伝を積み増した結果、1974年の自己資本比率は12.9%まで落ち、香辛料市場の8割を握った会社が二部上場の資格を保つために増資を迫られた。

カレー粉の半期生産量 1951年6月〜1960年3月(各半期の生産実績)(トン)

180 51年 450 55年 800 56年 1,008 58年 1,652 59年

出典・参考

12件
出典・参考
  • ヱスビー食品 有価証券報告書 第113期(2026年3月期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)エスビー食品
  • 株式会社年鑑 1956年版・1959年版・1960年版 ヱスビー食品
  • 株式会社年鑑 1959年版 ヱスビー食品
  • 株式会社年鑑 1960年版 ヱスビー食品
  • 政経人 2003年8月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(3) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
  • 政経人 2003年7月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(2) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
  • 東商 1957年「(工場見学記)ヱスビー食品株式会社板橋工場」
  • 野田経済 1960年
  • 実業の世界 1961年 長谷川正夫
  • オール大衆 1974年「《奮闘する経営者》意見があって今夜は 山崎峯次郎」
  • 不況知らずの会社 その社長の実績と哲学「香辛調味料の覇者に 山崎峯次郎(エスビー食品社長)」

免責事項およびポリシー