第1章 年〜年

ヱスビー食品:山崎峯次郎の日賀志屋創業と国産カレー粉の調合

1923年〜輸入品が占めたカレー粉市場と、国産化に賭けた製法の確立

山崎峯次郎氏(ヱスビー食品・創業者)は1903年に埼玉県北葛飾郡金杉村で生まれ、1920年に上京して浅草の清水ソース店で業務用ソースを西洋料理店へ売り込んだ。山崎峯次郎氏は、食生活が西欧風になっていけば、七味唐辛子や山椒といった昔からの香辛料だけでは需要をまかなえなくなると見て、手がける香辛料をカレー粉に絞った。そのころ西洋料理店で使われていたのは英国クロス・アンド・ブラックウェル社(C&B)から輸入したカレー粉で、これに唐辛子やミカンの皮を粉にして足した増量品が「日本製」の名で出回っていた。インドでは米を主食とする人々に好まれ、欧州で商品に仕立てられた香辛料である。亜熱帯性の気候のもとで米を主食とする日本人の好みにも合うはずだと、山崎峯次郎氏は考えたという。原料をすべて輸入に頼る市場であれば、品質で肩を並べる国産品が出たとき、費用の面から置き換わる余地は大きかったと推定される。

  • 政経人 2003年6月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(1) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [1]山崎峯次郎は1903年6月11日に埼玉県北葛飾郡金杉村で生まれ、1920年春に上京して浅草七軒町に間借りし、清水ソース店で業務用ソースを西洋料理店へ売り込む仕事に就いた。
    • [3]当時使われたカレー粉は輸入品のC&B製で、それに唐辛子やミカンの皮の粉を加えたものが「日本製」として売られ、西洋料理店のコックから無視されていた。
  • 東商 1960年「今日のカレー粉工業を築くまで」山崎峯次郎
    • [2]食生活も西欧化すると、昔から使われている七味唐辛子や山椒のようなものでは食生活の変化に即応できなくなると考え、香辛料の製造を思い立ち、目標をカレー粉に定めた。
    • [4]米を食べるインド人に愛好され欧州で商品化されているほどの香辛料なら、亜熱帯性の気候で米を常食とする日本人の嗜好に適しないはずはないと考えた。

しかし製法は公開されておらず、山崎峯次郎氏は輸入品を自らの味覚と嗅覚で分析し、原料を一つずつ粉にして焙煎・混合する試作を何百回と重ねた。原料も簡単に入手できず、インドからの輸入資金の手当ても難しかったうえ、調合比率を誤れば輸入した原料を全量廃棄するほかなかったという。1922年に清水ソース店を辞めて研究に専念し、調合した粉を一定期間熟成させると香りが深まることを発見。焙煎には銅板を二重構造にした密封釜を使って香気の散逸を抑え、茶びつで二十日間ほど熟成させる工程を確立した。1923年にカレーの調合に成功して独立し、浅草で日賀志屋を創業した。

  • 東商 1960年「今日のカレー粉工業を築くまで」山崎峯次郎
    • [5]舶来のカレー粉を買い求めて自分の味覚と嗅覚で分析し、原料を一つ一つ粉にして焙煎・混合する試作を何百回か重ねて、自信の持てるカレー粉をつくった。
    • [6]原料は簡単に入手できず、印度から輸入する資金をつくることも容易ではなかった。僅かな調合比率の間違いから輸入原料を全部駄目にしたこともあった。
  • 政経人 2003年6月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(1) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [7]1922年初夏に清水ソース店を辞めて研究一筋の道に入り、カレー粉の香りは一定期間熟成させる必要があることを発見した。
    • [8]原料を御影石の臼と樫の杵で粉にし、銅板製の八角形の密封釜を二重構造にして回転させながら焙煎し、茶びつに入れて二十日間ほど熟成させることで独自のカレー粉の製造に成功した。
  • ヱスビー食品 有価証券報告書 第113期(2026年3月期)【沿革】
    • [9]初代社長山崎峯次郎(創業者)が1923年カレーの調合に成功し自家営業に着手したときに源を発し、浅草に興した日賀志屋を母体とする。

日賀志屋のカレー粉は、単一の香辛料ではなく30数種を配合した調合品として仕上げられた。製粉から篩別、調合、焙煎、熟成、充填まで工程は分かれるが、どの段取りも香気をどれだけ残すかという一点に向いていた。日本でカレー工業を興した人物の一人として、山崎峯次郎氏の名が挙げられた。焙煎の熱の加え方は、原料の具合を見きわめて調整するしかなかった。原料が天然の産物で、年によって出来が違い、同じ年のうちでも収穫期と端境期とで質が変わったからである。粉にする工程で速く回る機械を避けたのも、こすれて生じる熱で香りが失われないようにするためだった。配合を一覧にして写し取っても同じ香りにはならず、原料の出来を見て火の強さを決める工程自体が、書き写すことのできない資産になったとみられる。

  • 東商 1957年「(工場見学記)ヱスビー食品株式会社板橋工場」
    • [10]種々の改良が加えられ、30数種の香辛料から成るSBカレー粉となった。
    • [11]工場に運ばれた原料は選別・乾燥・搾油されて粉砕機で製粉され、篩別・調合を経て焙煎機で焙煎し、貯蔵タンクで一定期間ねかせて風味が熟するのを待ち、仕上げと篩別ののち充填工場へ運ばれる。
    • [13]原材料が天産物のため各年によって出来がまちまちであり、収穫期と端境期とでも原料の質が異なるため、焙煎機の熱処理には微妙な苦心を要する。
    • [14]粉砕機は臼と杵を機械化したような形で、高速度粉砕機を使用しないのは熱により香辛料の香気が消失するのを防ぐためである。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)エスビー食品
    • [12]当社の前身は、わが国におけるカレー工業の創始者の一人である現山崎社長の個人企業として大正時代に創業し、日賀志屋と号して浅草蔵前にあった。
参考文献[1]-[14]
  • 政経人 2003年6月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(1) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [1]山崎峯次郎は1903年6月11日に埼玉県北葛飾郡金杉村で生まれ、1920年春に上京して浅草七軒町に間借りし、清水ソース店で業務用ソースを西洋料理店へ売り込む仕事に就いた。
    • [3]当時使われたカレー粉は輸入品のC&B製で、それに唐辛子やミカンの皮の粉を加えたものが「日本製」として売られ、西洋料理店のコックから無視されていた。
    • [7]1922年初夏に清水ソース店を辞めて研究一筋の道に入り、カレー粉の香りは一定期間熟成させる必要があることを発見した。
    • [8]原料を御影石の臼と樫の杵で粉にし、銅板製の八角形の密封釜を二重構造にして回転させながら焙煎し、茶びつに入れて二十日間ほど熟成させることで独自のカレー粉の製造に成功した。
  • 東商 1960年「今日のカレー粉工業を築くまで」山崎峯次郎
    • [2]食生活も西欧化すると、昔から使われている七味唐辛子や山椒のようなものでは食生活の変化に即応できなくなると考え、香辛料の製造を思い立ち、目標をカレー粉に定めた。
    • [4]米を食べるインド人に愛好され欧州で商品化されているほどの香辛料なら、亜熱帯性の気候で米を常食とする日本人の嗜好に適しないはずはないと考えた。
    • [5]舶来のカレー粉を買い求めて自分の味覚と嗅覚で分析し、原料を一つ一つ粉にして焙煎・混合する試作を何百回か重ねて、自信の持てるカレー粉をつくった。
    • [6]原料は簡単に入手できず、印度から輸入する資金をつくることも容易ではなかった。僅かな調合比率の間違いから輸入原料を全部駄目にしたこともあった。
  • ヱスビー食品 有価証券報告書 第113期(2026年3月期)【沿革】
    • [9]初代社長山崎峯次郎(創業者)が1923年カレーの調合に成功し自家営業に着手したときに源を発し、浅草に興した日賀志屋を母体とする。
  • 東商 1957年「(工場見学記)ヱスビー食品株式会社板橋工場」
    • [10]種々の改良が加えられ、30数種の香辛料から成るSBカレー粉となった。
    • [11]工場に運ばれた原料は選別・乾燥・搾油されて粉砕機で製粉され、篩別・調合を経て焙煎機で焙煎し、貯蔵タンクで一定期間ねかせて風味が熟するのを待ち、仕上げと篩別ののち充填工場へ運ばれる。
    • [13]原材料が天産物のため各年によって出来がまちまちであり、収穫期と端境期とでも原料の質が異なるため、焙煎機の熱処理には微妙な苦心を要する。
    • [14]粉砕機は臼と杵を機械化したような形で、高速度粉砕機を使用しないのは熱により香辛料の香気が消失するのを防ぐためである。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)エスビー食品
    • [12]当社の前身は、わが国におけるカレー工業の創始者の一人である現山崎社長の個人企業として大正時代に創業し、日賀志屋と号して浅草蔵前にあった。

1930年〜輸入品を優位とみる料理業者の壁と、大問屋を経た家庭用市場への参入

発売当初、山崎峯次郎氏は品質も価格も輸入品に勝ると西洋料理店を一軒ずつ回ったが、輸入品を優位とみる料理業者は取り合わなかった。そこで、近所の子供に輸入品と自社品のカレーライスを食べ比べさせて自社品を選ぶ子供が多いことを確かめ、1ポンド缶をC&B製より5銭安い1円10銭で値付けした。料理業者の評価を得るため、東京会館と精養軒の司厨長、東洋司厨士会の会長に試用を頼み、その推薦文を缶に貼ることで、マーケティングを展開した。この結果、一度採用した店は品質改良を続ける日賀志屋へ継続注文を出し、販路は少しずつ広がったという。専門家の推薦を品質保証として流通させた手法は、銘柄の知名度を持たない新規参入者が信用を調達する手段として機能した。

  • 東商 1960年「今日のカレー粉工業を築くまで」山崎峯次郎
    • [15]西洋料理店を一軒ずつ回り、品質も良く値段も安いカレー粉をつくったから使ってみてくれと頼んだが、舶来品万能時代のことで誰もふりむいてくれなかった。
    • [18]熱情と真剣な態度が料理業者を動かして使ってくれる店が増え、品質を良くする工夫を怠らなかったので、一度使ってくれた店は必ず次の注文を出した。
  • 政経人 2003年6月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(1) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [16]近所の子供たちにC&Bカレー粉と自家製カレー粉のカレーライスを食べ比べさせたところ7割が自家製を選び、国産第一号カレー粉を1ポンド缶1円10銭と、C&B製より5銭安く発売することにした。
  • 政経人 2003年7月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(2) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [17]東京会館と精養軒の司厨長、東洋司厨士会の会長に試用を依頼して推薦文を書いてもらい、それを印刷した紙をカレー粉缶に貼ったことで、西洋料理店や食料品店から注文を取れるようになった。

一日の生産量が100ダースほどに達したころ、山崎峯次郎氏は販路を広げるため問屋へ売り込み、日本橋の鈴木洋酒店が取引に応じた。戦前においてカレーライスは料理店から一般家庭へ普及しつつあり、日賀志屋は家庭用の瓶詰を製造し、大手問屋の販売網に乗って三越や松坂屋にも納入を果たした。1930年には太陽と鳥を図案化したヒドリ印のカレーを発売。翌1931年には、SUNとBIRDの頭文字を取ったS&Bをヒドリ印に併記して新しい商標とした。需要の中心を業務用の料理店から家庭用の小売へと広げ、その流通を大問屋に委ねた判断が、消費者に知られるカレーブランドとしての礎となった。

  • 東商 1960年「今日のカレー粉工業を築くまで」山崎峯次郎
    • [19]一日の生産量が100ダース位になった時、販路を広めるために問屋の門をたたき、日本橋の鈴木洋酒店を訪ねると即座に5ダースほど買ってもらえた。
    • [20]カレーライスは料理店から一般家庭にも普及しており家庭用の瓶詰の製造を始めていた。大問屋の販売網に乗ったのち、三越や松坂屋にも商品が入った。
  • ヱスビー食品 有価証券報告書 第113期(2026年3月期)【沿革】
    • [21]1930年、「ヒドリ印」カレーを発売する。
  • 政経人 2003年7月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(2) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [22]1930年に太陽と鳥を図案化したヒドリ印を商標に定めて家庭用カレー粉を発売し、翌1931年にヒドリ印に「太陽=SUN」と「鳥=BIRD」の頭文字「S&B」を併記して新しい商標とした。

日本で最初に香辛調味料を製造した工場は日賀志屋のもので、当時の同社はまだ個人企業として、浅草蔵前にある一つの工場から製品を出していた。製造を始めたのは、洋食が料理店を出て家庭の食卓に広がりはじめた頃である。技術が高く品質もよかったことから販路は急速に広がり、創業後ほどなくして食品市場で銘柄品として認められた。それまでは輸入品か、唐辛子やミカンの皮で量を増やした品しかなかった市場に、産地ではなく銘柄を選んで買えるカレー粉が現れたことになる。品質を先に揃え、そのうえで洋食が家庭へ広がる時期に乗り合わせたという順番が、後から同じ市場に参入する同業には埋めにくい差になったとみられる。

  • 東商 1957年「(工場見学記)ヱスビー食品株式会社板橋工場」
    • [23]山崎峯次郎は日本における最初の香辛調味料製造工場「日賀志屋」を東京浅草蔵前に設立し、開業した。
    • [27]山崎峯次郎は日本における最初の香辛調味料製造工場「日賀志屋」を東京浅草蔵前に設立し、開業した。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)エスビー食品
    • [24]当社の前身は現山崎社長の個人企業として大正時代に創業し、日賀志屋と号して浅草蔵前にあった。
    • [25]創業当時は洋食の普及期に当たっていた。
    • [26]製造技術がすぐれ品質が良好であったため販路は急速に伸び、創業後いくばくもなくして食品市場に銘柄商品としての地位を獲得した。
参考文献[15]-[27]
  • 東商 1960年「今日のカレー粉工業を築くまで」山崎峯次郎
    • [15]西洋料理店を一軒ずつ回り、品質も良く値段も安いカレー粉をつくったから使ってみてくれと頼んだが、舶来品万能時代のことで誰もふりむいてくれなかった。
    • [18]熱情と真剣な態度が料理業者を動かして使ってくれる店が増え、品質を良くする工夫を怠らなかったので、一度使ってくれた店は必ず次の注文を出した。
    • [19]一日の生産量が100ダース位になった時、販路を広めるために問屋の門をたたき、日本橋の鈴木洋酒店を訪ねると即座に5ダースほど買ってもらえた。
    • [20]カレーライスは料理店から一般家庭にも普及しており家庭用の瓶詰の製造を始めていた。大問屋の販売網に乗ったのち、三越や松坂屋にも商品が入った。
  • 政経人 2003年6月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(1) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [16]近所の子供たちにC&Bカレー粉と自家製カレー粉のカレーライスを食べ比べさせたところ7割が自家製を選び、国産第一号カレー粉を1ポンド缶1円10銭と、C&B製より5銭安く発売することにした。
  • 政経人 2003年7月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(2) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [17]東京会館と精養軒の司厨長、東洋司厨士会の会長に試用を依頼して推薦文を書いてもらい、それを印刷した紙をカレー粉缶に貼ったことで、西洋料理店や食料品店から注文を取れるようになった。
    • [22]1930年に太陽と鳥を図案化したヒドリ印を商標に定めて家庭用カレー粉を発売し、翌1931年にヒドリ印に「太陽=SUN」と「鳥=BIRD」の頭文字「S&B」を併記して新しい商標とした。
  • ヱスビー食品 有価証券報告書 第113期(2026年3月期)【沿革】
    • [21]1930年、「ヒドリ印」カレーを発売する。
  • 東商 1957年「(工場見学記)ヱスビー食品株式会社板橋工場」
    • [23]山崎峯次郎は日本における最初の香辛調味料製造工場「日賀志屋」を東京浅草蔵前に設立し、開業した。
    • [27]山崎峯次郎は日本における最初の香辛調味料製造工場「日賀志屋」を東京浅草蔵前に設立し、開業した。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)エスビー食品
    • [24]当社の前身は現山崎社長の個人企業として大正時代に創業し、日賀志屋と号して浅草蔵前にあった。
    • [25]創業当時は洋食の普及期に当たっていた。
    • [26]製造技術がすぐれ品質が良好であったため販路は急速に伸び、創業後いくばくもなくして食品市場に銘柄商品としての地位を獲得した。

1935年〜C&Bの値下げ攻勢と模造品事件、株式会社日賀志屋への改組

日賀志屋の伸長に対し、輸入品の人気を背景に国内市場をほぼ独占していた英国のクロス・アンド・ブラックウェル社は値下げで対抗した。1ポンド3円50銭を3円、2円50銭と下げる相手に日賀志屋も2円まで追随し、収益は倒産を免れない水準まで落ちた。ところが何者かがC&Bの商標を模造したカレー粉を売り出し、英国の商社の抗議を受けた警視庁が模造品を問屋から押収した。損害を被った問屋と小売店は輸入品と称するカレー粉の取扱いを一時中止し、伸びていた需要は日賀志屋へ集中した。日賀志屋の製品は昭和に入って全国的な商品となった。資本力で劣る国産品は価格競争では持ちこたえられず、競合の流通上の信用が崩れたことで需要の受け皿になったとみられる。

  • 東商 1960年「今日のカレー粉工業を築くまで」山崎峯次郎
    • [28]舶来品万能の波に乗って日本の市場をほとんど独占していた英国のクロスブラックウェル会社が、日賀志屋の発展を見て強力な資本で圧力をかけ、競争は値下げに始まった。
    • [29]1ポンド3円50銭を3円、さらに2円50銭に下げる相手に対し日賀志屋も2円に下げ、収益は見る見る低下して倒産は免れないところまで追いつめられた。
    • [30]何者かがC・Bのマークを模造してカレー粉を売り出し、英国の商社から政府当局へ抗議がなされ、警視庁が模造品を全部問屋から押収した。
    • [31]問屋も小売店も損害を被ったため一時舶来品と称するカレー粉の取扱いを中止せざるを得なくなり、需要は伸びていたので注文が日賀志屋へ殺到した。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)エスビー食品
    • [32]昭和に入って以来、全国的商品となった。

危機を脱した山崎峯次郎氏は、個人企業を会社組織に改めて資本を厚くし、大問屋主義の販売政策を採った。1935年11月に日賀志屋を合名会社に改め、板橋に工場を建てた。昼夜兼行でも需要を充たせなくなると製造を蔵前から板橋へ移し、製粉・焙煎・熟成・包装を一貫作業で行う配置と工程ごとの品質検査によって、生産量を従来の数倍に高めた。1940年4月には資本金15万円の株式組織に改め、板橋に香辛料の総合工場を建設した。1949年7月に本店を日本橋兜町へ移し、同年12月に商号をヱスビー食品へ変更した。

  • 東商 1960年「今日のカレー粉工業を築くまで」山崎峯次郎
    • [33]危機を脱したのち、個人企業を会社組織に改めて資本の充実を図るかたわら、大問屋主義の販売政策をとると同時に品質を改善した。
    • [35]昼夜兼行の生産でも需要を充たせなくなり、工場を蔵前から板橋に移して製粉・焙煎・熟成・包装を一貫作業で行う体制を確立し、各工程ごとに品質検査を行って従来の数倍の生産ができるようになった。
  • 政経人 2003年7月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(2) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [34]1935年11月、個人経営の日賀志屋を合名会社に改組して代表社員に就任し、板橋に小さな工場を建てた。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)エスビー食品
    • [36]昭和15年4月に株式組織(資本金15万円)に改め、新たに板橋にカレー粉・コショー・カラシ等各種香辛料の総合工場を建設した。
  • ヱスビー食品 有価証券報告書 第113期(2026年3月期)【沿革】
    • [37]1949年7月に本店を東京都中央区日本橋兜町に移転し、1949年12月に商号をヱスビー食品株式会社に変更した。

太平洋戦争下では、カレーの原料を輸入するのに商工省の香辛料特別輸入資金の割当許可が必要となり、調達できる量は行政の裁量に委ねられた。1945年3月の空襲で蔵前の工場は焼失し、復員した山崎峯次郎氏は焼失を免れた板橋工場を拠点に事業を再開した。資本金は1946年12月に45万円、1948年6月に200万円、1949年10月には1000万円と積み増された。1940年の株式組織化のときの15万円から9年で66倍にあたるが、この間の物価の上昇を差し引けば、名目の増加がそのまま資本の充実を示したわけではない。1949年には蔵前の工場を閉じ、板橋工場を増設している。二カ所に分けていた設備の片方を空襲で失ったことが、板橋への集約をそのまま既定の路線にしたとみられる。

  • 政経人 2003年7月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(2) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [38]太平洋戦争下ではカレー原料の輸入に商工省の香辛料特別輸入資金の割当許可が必要となった。
    • [39]1945年3月の空襲で蔵前の工場を焼失し、復員した山崎峯次郎は焼失を免れた板橋工場を拠点に事業を再開した。
  • 株式会社年鑑 1960年版 ヱスビー食品
    • [40]資本金は昭和21年12月に45万円、昭和23年6月に200万円、昭和24年10月に1000万円へ増資された。
    • [41]昭和15年4月、個人経営を改組し資本金15万円をもって株式会社日賀志屋を設立した。
  • 東商 1957年「(工場見学記)ヱスビー食品株式会社板橋工場」
    • [42]昭和24年に500万円へ増資するとともに蔵前工場を閉鎖し、板橋工場を増設した。
参考文献[28]-[42]
  • 東商 1960年「今日のカレー粉工業を築くまで」山崎峯次郎
    • [28]舶来品万能の波に乗って日本の市場をほとんど独占していた英国のクロスブラックウェル会社が、日賀志屋の発展を見て強力な資本で圧力をかけ、競争は値下げに始まった。
    • [29]1ポンド3円50銭を3円、さらに2円50銭に下げる相手に対し日賀志屋も2円に下げ、収益は見る見る低下して倒産は免れないところまで追いつめられた。
    • [30]何者かがC・Bのマークを模造してカレー粉を売り出し、英国の商社から政府当局へ抗議がなされ、警視庁が模造品を全部問屋から押収した。
    • [31]問屋も小売店も損害を被ったため一時舶来品と称するカレー粉の取扱いを中止せざるを得なくなり、需要は伸びていたので注文が日賀志屋へ殺到した。
    • [33]危機を脱したのち、個人企業を会社組織に改めて資本の充実を図るかたわら、大問屋主義の販売政策をとると同時に品質を改善した。
    • [35]昼夜兼行の生産でも需要を充たせなくなり、工場を蔵前から板橋に移して製粉・焙煎・熟成・包装を一貫作業で行う体制を確立し、各工程ごとに品質検査を行って従来の数倍の生産ができるようになった。
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)エスビー食品
    • [32]昭和に入って以来、全国的商品となった。
    • [36]昭和15年4月に株式組織(資本金15万円)に改め、新たに板橋にカレー粉・コショー・カラシ等各種香辛料の総合工場を建設した。
  • 政経人 2003年7月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(2) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
    • [34]1935年11月、個人経営の日賀志屋を合名会社に改組して代表社員に就任し、板橋に小さな工場を建てた。
    • [38]太平洋戦争下ではカレー原料の輸入に商工省の香辛料特別輸入資金の割当許可が必要となった。
    • [39]1945年3月の空襲で蔵前の工場を焼失し、復員した山崎峯次郎は焼失を免れた板橋工場を拠点に事業を再開した。
  • ヱスビー食品 有価証券報告書 第113期(2026年3月期)【沿革】
    • [37]1949年7月に本店を東京都中央区日本橋兜町に移転し、1949年12月に商号をヱスビー食品株式会社に変更した。
  • 株式会社年鑑 1960年版 ヱスビー食品
    • [40]資本金は昭和21年12月に45万円、昭和23年6月に200万円、昭和24年10月に1000万円へ増資された。
    • [41]昭和15年4月、個人経営を改組し資本金15万円をもって株式会社日賀志屋を設立した。
  • 東商 1957年「(工場見学記)ヱスビー食品株式会社板橋工場」
    • [42]昭和24年に500万円へ増資するとともに蔵前工場を閉鎖し、板橋工場を増設した。

筆者考察

山崎峯次郎が競った相手は、英国の会社である以上に、舶来品を疑わない習慣だった。品質でも価格でも輸入品に劣らない製品を携えて西洋料理店を一軒ずつ回っても誰も振り向かなかったのは、味を比べる前に産地で答えが出ていたからである。近所の子供にカレーライスを食べ比べさせ、東京会館と精養軒の司厨長の推薦文を缶に貼り、1ポンド缶をC&B製より5銭だけ安く付けた手は、どれも同じことをしている。選ぶ根拠を、輸入品という肩書きから、口に入れた結果へ移す作業だった。30数種を配合し、原料の出来を見て火加減を決める製法は、その結果を毎回同じ水準で出すための仕掛けである。

ところが決着をつけたのは日賀志屋の努力ではなく、相手側の信用が崩れたことだった。C&Bが1ポンド3円50銭を2円50銭まで下げ、日賀志屋が2円で追ったとき、資本の厚みの差は倒産の一歩手前まで効いている。そこへ何者かがC&Bの商標を模造し、警視庁が模造品を問屋から押収した。損をした問屋と小売店が舶来品と称するカレー粉を棚から下げた瞬間、輸入品という肩書きは負債へ変わり、伸びていた需要はそのまま日賀志屋へ流れ込んだ。産地で選ばれる市場は、産地でつまずく市場でもある。蔵前と板橋に分けていた工場の片方を空襲で失い、残った板橋が本拠になった経緯も同じで、この会社の節目は自らの計画より外から来ている。

株式会社日賀志屋の資本金 1940年4月〜1949年10月(万円)

15 40年 45 46年 200 48年 1,000 49年

出典・参考

7件
出典・参考
  • ヱスビー食品 有価証券報告書 第113期(2026年3月期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)エスビー食品
  • 株式会社年鑑 1960年版 ヱスビー食品
  • 政経人 2003年6月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(1) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
  • 政経人 2003年7月号「熱き創業者魂の軌跡 山崎峯次郎(2) 国産カレー粉を創った男」若山三郎
  • 東商 1957年「(工場見学記)ヱスビー食品株式会社板橋工場」
  • 東商 1960年「今日のカレー粉工業を築くまで」山崎峯次郎

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