日清オイリオグループ:日清豆粕製造の創立から日清サラダ油の発売まで
1907年〜満州の豆粕を内地の肥料へ送った日清豆粕製造と、大連工場の20年借地
日清豆粕製造は1907年2月22日に東京地学協会会館で創立総会を開催し、同年3月7日に東京区裁判所で設立登記を済ませた。資本金は300万円で、払込は4分の1の75万円。創立を企てたのは大倉組を率いた大倉喜八郎氏で、肥料の商いに通じた松下久治郎氏が参謀として計画を支えた。2人は満州の大豆の生産量と、油や粕にした製品の先行きに着目した。初代社長には内地を受け持つ高島小金治氏が就任し、松下久治郎氏は取締役として大連を受け持った。社名に豆粕を掲げたのは、満州特産の豆粕が有機質肥料として日本の農家に求められていたためである。当時の大豆油は食用の用途が乏しく、豆粕に付いて出る併産品の扱いだった。
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ1-50
- [1]1907年2月22日創立総会、3月7日設立登記。資本金300万円(払込75万円)。社名の豆粕は満州特産で肥料需要が高まっていたため、大豆油は併産品
- [2]1907年2月22日創立総会、3月7日設立登記。資本金300万円(払込75万円)。社名の豆粕は満州特産で肥料需要が高まっていたため、大豆油は併産品
- [4]企画者は大倉喜八郎、参謀役は松下久治郎。社長高島小金治(内地担当)、取締役松下久治郎(大連担当)、顧問大倉喜八郎
- [6]企画者は大倉喜八郎、参謀役は松下久治郎。社長高島小金治(内地担当)、取締役松下久治郎(大連担当)、顧問大倉喜八郎
- [7]1907年2月22日創立総会、3月7日設立登記。資本金300万円(払込75万円)。社名の豆粕は満州特産で肥料需要が高まっていたため、大豆油は併産品
- [8]1907年2月22日創立総会、3月7日設立登記。資本金300万円(払込75万円)。社名の豆粕は満州特産で肥料需要が高まっていたため、大豆油は併産品
- 会社銀行八十年史(1955年)「日清製油」
- [3]松下久治郎と大倉喜八郎が満州大豆の生産量と製品の将来性に着目し、明治40年3月に資本金300万円(4分の1払込)で創立
- [5]松下久治郎と大倉喜八郎が満州大豆の生産量と製品の将来性に着目し、明治40年3月に資本金300万円(4分の1払込)で創立
取締役の柴田虎太郎氏は創立総会の後、1907年3月6日に工場用地の払下げを出願するため満州へ向かった。柴田虎太郎氏は同月14日、満州特産物の中心市場だった営口に出張所を設けた。大連の工場用地は陸軍省の指定する条件の下で、同年6月17日に20年間の借地として許可が下りた。用地は元軍用地の1万1263坪で埠頭に隣接し、満鉄の引込線で原料の引取りと製品の積出しができる立地である。工場は1908年8月に試運転を始め、邦人系の製油工場として最初に操業した。その後の増設を経た豆粕の製造能力は1日7000枚(約200トン)、建設の総工費は30余万円。会社は大連で大豆油と豆粕を作りながら、大豆と製品の輸出取引も手がけた。
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ1-50
- [9]1907年3月6日柴田取締役が大連工場敷地払下げ出願と営口出張所開設のため渡満、14日営口出張所開設。6月17日陸軍省指定条件で20カ年借地許可
- [10]1907年3月6日柴田取締役が大連工場敷地払下げ出願と営口出張所開設のため渡満、14日営口出張所開設。6月17日陸軍省指定条件で20カ年借地許可
- [11]1907年3月6日柴田取締役が大連工場敷地払下げ出願と営口出張所開設のため渡満、14日営口出張所開設。6月17日陸軍省指定条件で20カ年借地許可
- [12]大連工場は元軍用地1万1263坪、埠頭隣接・満鉄引込線。1908年8月試運転、邦人系製油工場の先頭。増設後の豆粕製造能力日7000枚(約200トン)、総工費30余万円
- [13]大連工場は元軍用地1万1263坪、埠頭隣接・満鉄引込線。1908年8月試運転、邦人系製油工場の先頭。増設後の豆粕製造能力日7000枚(約200トン)、総工費30余万円
- [14]大連工場は元軍用地1万1263坪、埠頭隣接・満鉄引込線。1908年8月試運転、邦人系製油工場の先頭。増設後の豆粕製造能力日7000枚(約200トン)、総工費30余万円
- 会社銀行八十年史(1955年)「日清製油」
- [15]大連に製造所を設けて大豆油・大豆油粕の製造を始め、大豆と製品の輸出貿易も行った
日清豆粕製造は1914年3月期に9万余円の欠損を計上し、創立以来で最大の赤字となった。国内では米価の下落で農家の肥料の購買力が低下し、豆粕の需要は減少した。満州では大豆の不作で原料が高値を続け、大連の同業者の増加で生産力は需要を上回った。臨時株主総会が開かれた1914年7月28日は、第一次世界大戦の勃発と同じ日にあたる。総会は資本金300万円(払込75万円)を全額払込済みの60万円へ減らすと決めた。減資の差額15万円のうち12万9000円は損失の補填、残る2万1000円は株主への払戻し。同年10月には社長の高島小金治氏が7年務めた職を離れて顧問へ転じ、取締役の松下久治郎氏が2代社長に就任した。
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ1-50
- [16]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- [17]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- [18]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- [19]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- [20]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- [21]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- [22]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- 会社銀行八十年史(1955年)「日清製油」
- [23]日露戦争後の財界不況により大正3年10月資本金を60万円に減額し、社長に松下久治郎が就任
参考文献[1]-[23]
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ1-50
- [1]1907年2月22日創立総会、3月7日設立登記。資本金300万円(払込75万円)。社名の豆粕は満州特産で肥料需要が高まっていたため、大豆油は併産品
- [2]1907年2月22日創立総会、3月7日設立登記。資本金300万円(払込75万円)。社名の豆粕は満州特産で肥料需要が高まっていたため、大豆油は併産品
- [4]企画者は大倉喜八郎、参謀役は松下久治郎。社長高島小金治(内地担当)、取締役松下久治郎(大連担当)、顧問大倉喜八郎
- [6]企画者は大倉喜八郎、参謀役は松下久治郎。社長高島小金治(内地担当)、取締役松下久治郎(大連担当)、顧問大倉喜八郎
- [7]1907年2月22日創立総会、3月7日設立登記。資本金300万円(払込75万円)。社名の豆粕は満州特産で肥料需要が高まっていたため、大豆油は併産品
- [8]1907年2月22日創立総会、3月7日設立登記。資本金300万円(払込75万円)。社名の豆粕は満州特産で肥料需要が高まっていたため、大豆油は併産品
- [9]1907年3月6日柴田取締役が大連工場敷地払下げ出願と営口出張所開設のため渡満、14日営口出張所開設。6月17日陸軍省指定条件で20カ年借地許可
- [10]1907年3月6日柴田取締役が大連工場敷地払下げ出願と営口出張所開設のため渡満、14日営口出張所開設。6月17日陸軍省指定条件で20カ年借地許可
- [11]1907年3月6日柴田取締役が大連工場敷地払下げ出願と営口出張所開設のため渡満、14日営口出張所開設。6月17日陸軍省指定条件で20カ年借地許可
- [12]大連工場は元軍用地1万1263坪、埠頭隣接・満鉄引込線。1908年8月試運転、邦人系製油工場の先頭。増設後の豆粕製造能力日7000枚(約200トン)、総工費30余万円
- [13]大連工場は元軍用地1万1263坪、埠頭隣接・満鉄引込線。1908年8月試運転、邦人系製油工場の先頭。増設後の豆粕製造能力日7000枚(約200トン)、総工費30余万円
- [14]大連工場は元軍用地1万1263坪、埠頭隣接・満鉄引込線。1908年8月試運転、邦人系製油工場の先頭。増設後の豆粕製造能力日7000枚(約200トン)、総工費30余万円
- [16]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- [17]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- [18]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- [19]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- [20]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- [21]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- [22]米価低落で豆粕需要減、満州大豆不作で原料高製品安、大連の過剰生産。1914年3月期に創立以来最大の欠損9万余円。7月28日臨時総会で資本金300万円(75万円払込)を60万円(全額払込)に減資、差額15万円のうち12万9000円を損失填補、2万1000円を払戻し。高島社長は7年で顧問となり松下取締役が2代社長
- 会社銀行八十年史(1955年)「日清製油」
- [3]松下久治郎と大倉喜八郎が満州大豆の生産量と製品の将来性に着目し、明治40年3月に資本金300万円(4分の1払込)で創立
- [5]松下久治郎と大倉喜八郎が満州大豆の生産量と製品の将来性に着目し、明治40年3月に資本金300万円(4分の1払込)で創立
- [15]大連に製造所を設けて大豆油・大豆油粕の製造を始め、大豆と製品の輸出貿易も行った
- [23]日露戦争後の財界不況により大正3年10月資本金を60万円に減額し、社長に松下久治郎が就任
1915年〜大戦の欧州輸出で純益40万円に達した大豆油と、日清製油への改称
1914年7月に第一次世界大戦が始まり、日本の輸出は大きく増え、外貨の受け取りが支払いを大きく上回った。日清豆粕製造の輸出貿易も伸び、その担い手は大連支社の中に生まれた外国部である。大連支社の製品は欧米向けの輸出が主で、英文社名の頭文字とダイヤを組み合わせたマークを使った。大連支社の社員が作った替え歌には『わたしゃ売られて欧州へ』という一節があり、豆油の欧州向けの船積みを歌った。業績は大戦の好況で大きく上向いた。1918年3月期の純益は40万円に達し、資本金60万円に対して7割にあたる。会社は普通配当1割に特別配当2割を上乗せした。4年前の減資で損失を整理していたため、大戦の利益はそのまま配当の原資になったとみられる。
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ1-50
- [24]第一次大戦で輸出が大幅に伸び、当社の輸出も伸張。立役者は大連支社内の外国部。1918年3月期純益40万円、資本金の7割、普通1割に特別2割配当
- [25]第一次大戦で輸出が大幅に伸び、当社の輸出も伸張。立役者は大連支社内の外国部。1918年3月期純益40万円、資本金の7割、普通1割に特別2割配当
- [26]大連支社の製品は欧米向け輸出が主で、英文社名の頭文字とダイヤを組み合わせたマークを使った
- [27]第一次大戦で輸出が大幅に伸び、当社の輸出も伸張。立役者は大連支社内の外国部。1918年3月期純益40万円、資本金の7割、普通1割に特別2割配当
- [29]第一次大戦で輸出が大幅に伸び、当社の輸出も伸張。立役者は大連支社内の外国部。1918年3月期純益40万円、資本金の7割、普通1割に特別2割配当
- [30]第一次大戦で輸出が大幅に伸び、当社の輸出も伸張。立役者は大連支社内の外国部。1918年3月期純益40万円、資本金の7割、普通1割に特別2割配当
- 会社銀行八十年史(1955年)「日清製油」
- [28]欧州大戦による好況で業績は大きく向上した
日清豆粕製造は1918年5月20日の定時株主総会で定款を改め、商号を日清製油に変えた。英文の社名はThe Nisshin Oil Mills, Ltd.と定めた。事業が広がるにつれ、豆粕だけを掲げた旧い商号は事業の実態と合わなくなっていた。生産の目的は大豆油にとどめず、植物性の油と油粕の製造、その応用と加工まで広げた。売買の目的にも雑穀と肥料類の売買と委託売買を加えた。雑穀には大豆のほか小豆、小麦、ごま、ひまわり、落花生が入り、後年に主力となる雑原料の搾油はここに端を発した。改称は横浜の豆粕製造所の合併と増資と同じ1918年の事業拡張の一環で、大戦の好況を受けた措置である。
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ1-50
- [31]1918年5月20日定時総会で商号を日清製油(The Nisshin Oil Mills, Ltd.)に変更。旧商号では名実一致しなくなったため。営業目的を植物性油・油粕の製造と応用加工、雑穀肥料類の売買・委託売買に拡げた。雑穀は小豆・小麦・ごま・ひまわり・落花生など
- [32]1918年5月20日定時総会で商号を日清製油(The Nisshin Oil Mills, Ltd.)に変更。旧商号では名実一致しなくなったため。営業目的を植物性油・油粕の製造と応用加工、雑穀肥料類の売買・委託売買に拡げた。雑穀は小豆・小麦・ごま・ひまわり・落花生など
- [33]1918年5月20日定時総会で商号を日清製油(The Nisshin Oil Mills, Ltd.)に変更。旧商号では名実一致しなくなったため。営業目的を植物性油・油粕の製造と応用加工、雑穀肥料類の売買・委託売買に拡げた。雑穀は小豆・小麦・ごま・ひまわり・落花生など
- [34]1918年5月20日定時総会で商号を日清製油(The Nisshin Oil Mills, Ltd.)に変更。旧商号では名実一致しなくなったため。営業目的を植物性油・油粕の製造と応用加工、雑穀肥料類の売買・委託売買に拡げた。雑穀は小豆・小麦・ごま・ひまわり・落花生など
- [35]1918年5月20日定時総会で商号を日清製油(The Nisshin Oil Mills, Ltd.)に変更。旧商号では名実一致しなくなったため。営業目的を植物性油・油粕の製造と応用加工、雑穀肥料類の売買・委託売買に拡げた。雑穀は小豆・小麦・ごま・ひまわり・落花生など
- [36]1918年5月20日定時総会で商号を日清製油(The Nisshin Oil Mills, Ltd.)に変更。旧商号では名実一致しなくなったため。営業目的を植物性油・油粕の製造と応用加工、雑穀肥料類の売買・委託売買に拡げた。雑穀は小豆・小麦・ごま・ひまわり・落花生など
- 会社銀行八十年史(1955年)「日清製油」
- [37]欧州大戦の好況を受け、7年7月に事業拡張のため豆粕製造所を合併、資本金を300万円に増額し、社名を日清製油に改めた
日清製油は1918年7月25日、資本金を60万円から元の300万円へ戻す増資に踏み切った。新株のうち50万円分を社長の松下久治郎氏個人が引き受け、その資金で松下久治郎氏の個人経営だった松下商店と工場を取得した。取得した横浜の工場は土地4951坪余と建物1928坪を持ち、内地で油と粕を作る拠点になった。合併の理由の1つは、大連だけでは事業を担えなくなり、内地にも営業の拠点が要ったことにある。もう1つは、同種同型の事業を社長の個人商店と会社で並べて営む矛盾を解くことだった。海外市場を開くには、安価で質の良い製品を作る設備の近代化も急がねばならなかった。合併の後も事業の量は満州が内地を上回り、大豆の売買が主、生産が従という構図である。
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ1-50
- [38]1918年7月25日資本金60万円を300万円に増資。50万円分を松下社長個人に引受けさせ、松下商店と工場の買取り資金50万円に充当。土地4951坪99、建物1928坪
- [39]1918年7月25日資本金60万円を300万円に増資。50万円分を松下社長個人に引受けさせ、松下商店と工場の買取り資金50万円に充当。土地4951坪99、建物1928坪
- [40]1918年7月25日資本金60万円を300万円に増資。50万円分を松下社長個人に引受けさせ、松下商店と工場の買取り資金50万円に充当。土地4951坪99、建物1928坪
- [42]合併理由は、大連だけでは機能を果たせず内地に営業拠点が要ったこと、同種同型の企業で主宰者が当社創立者という矛盾の解消。海外市場開拓には廉価な良品を生産する設備の近代化が急務
- [43]合併理由は、大連だけでは機能を果たせず内地に営業拠点が要ったこと、同種同型の企業で主宰者が当社創立者という矛盾の解消。海外市場開拓には廉価な良品を生産する設備の近代化が急務
- [44]合併理由は、大連だけでは機能を果たせず内地に営業拠点が要ったこと、同種同型の企業で主宰者が当社創立者という矛盾の解消。海外市場開拓には廉価な良品を生産する設備の近代化が急務
- 会社銀行八十年史(1955年)「日清製油」
- [41]松下社長の個人経営の豆粕製造所を合併して横浜工場とし、内地でも油と粕の製造販売を始めたが、事業分量は満州が多く売買が主で生産は従
- [45]松下社長の個人経営の豆粕製造所を合併して横浜工場とし、内地でも油と粕の製造販売を始めたが、事業分量は満州が多く売買が主で生産は従
参考文献[24]-[45]
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ1-50
- [24]第一次大戦で輸出が大幅に伸び、当社の輸出も伸張。立役者は大連支社内の外国部。1918年3月期純益40万円、資本金の7割、普通1割に特別2割配当
- [25]第一次大戦で輸出が大幅に伸び、当社の輸出も伸張。立役者は大連支社内の外国部。1918年3月期純益40万円、資本金の7割、普通1割に特別2割配当
- [26]大連支社の製品は欧米向け輸出が主で、英文社名の頭文字とダイヤを組み合わせたマークを使った
- [27]第一次大戦で輸出が大幅に伸び、当社の輸出も伸張。立役者は大連支社内の外国部。1918年3月期純益40万円、資本金の7割、普通1割に特別2割配当
- [29]第一次大戦で輸出が大幅に伸び、当社の輸出も伸張。立役者は大連支社内の外国部。1918年3月期純益40万円、資本金の7割、普通1割に特別2割配当
- [30]第一次大戦で輸出が大幅に伸び、当社の輸出も伸張。立役者は大連支社内の外国部。1918年3月期純益40万円、資本金の7割、普通1割に特別2割配当
- [31]1918年5月20日定時総会で商号を日清製油(The Nisshin Oil Mills, Ltd.)に変更。旧商号では名実一致しなくなったため。営業目的を植物性油・油粕の製造と応用加工、雑穀肥料類の売買・委託売買に拡げた。雑穀は小豆・小麦・ごま・ひまわり・落花生など
- [32]1918年5月20日定時総会で商号を日清製油(The Nisshin Oil Mills, Ltd.)に変更。旧商号では名実一致しなくなったため。営業目的を植物性油・油粕の製造と応用加工、雑穀肥料類の売買・委託売買に拡げた。雑穀は小豆・小麦・ごま・ひまわり・落花生など
- [33]1918年5月20日定時総会で商号を日清製油(The Nisshin Oil Mills, Ltd.)に変更。旧商号では名実一致しなくなったため。営業目的を植物性油・油粕の製造と応用加工、雑穀肥料類の売買・委託売買に拡げた。雑穀は小豆・小麦・ごま・ひまわり・落花生など
- [34]1918年5月20日定時総会で商号を日清製油(The Nisshin Oil Mills, Ltd.)に変更。旧商号では名実一致しなくなったため。営業目的を植物性油・油粕の製造と応用加工、雑穀肥料類の売買・委託売買に拡げた。雑穀は小豆・小麦・ごま・ひまわり・落花生など
- [35]1918年5月20日定時総会で商号を日清製油(The Nisshin Oil Mills, Ltd.)に変更。旧商号では名実一致しなくなったため。営業目的を植物性油・油粕の製造と応用加工、雑穀肥料類の売買・委託売買に拡げた。雑穀は小豆・小麦・ごま・ひまわり・落花生など
- [36]1918年5月20日定時総会で商号を日清製油(The Nisshin Oil Mills, Ltd.)に変更。旧商号では名実一致しなくなったため。営業目的を植物性油・油粕の製造と応用加工、雑穀肥料類の売買・委託売買に拡げた。雑穀は小豆・小麦・ごま・ひまわり・落花生など
- [38]1918年7月25日資本金60万円を300万円に増資。50万円分を松下社長個人に引受けさせ、松下商店と工場の買取り資金50万円に充当。土地4951坪99、建物1928坪
- [39]1918年7月25日資本金60万円を300万円に増資。50万円分を松下社長個人に引受けさせ、松下商店と工場の買取り資金50万円に充当。土地4951坪99、建物1928坪
- [40]1918年7月25日資本金60万円を300万円に増資。50万円分を松下社長個人に引受けさせ、松下商店と工場の買取り資金50万円に充当。土地4951坪99、建物1928坪
- [42]合併理由は、大連だけでは機能を果たせず内地に営業拠点が要ったこと、同種同型の企業で主宰者が当社創立者という矛盾の解消。海外市場開拓には廉価な良品を生産する設備の近代化が急務
- [43]合併理由は、大連だけでは機能を果たせず内地に営業拠点が要ったこと、同種同型の企業で主宰者が当社創立者という矛盾の解消。海外市場開拓には廉価な良品を生産する設備の近代化が急務
- [44]合併理由は、大連だけでは機能を果たせず内地に営業拠点が要ったこと、同種同型の企業で主宰者が当社創立者という矛盾の解消。海外市場開拓には廉価な良品を生産する設備の近代化が急務
- 会社銀行八十年史(1955年)「日清製油」
- [28]欧州大戦による好況で業績は大きく向上した
- [37]欧州大戦の好況を受け、7年7月に事業拡張のため豆粕製造所を合併、資本金を300万円に増額し、社名を日清製油に改めた
- [41]松下社長の個人経営の豆粕製造所を合併して横浜工場とし、内地でも油と粕の製造販売を始めたが、事業分量は満州が多く売買が主で生産は従
- [45]松下社長の個人経営の豆粕製造所を合併して横浜工場とし、内地でも油と粕の製造販売を始めたが、事業分量は満州が多く売買が主で生産は従
1922年〜横浜の精製工場から家庭へ広げた日清サラダ油と、満州の政情に揺れた大連
日清製油は関東大震災の直後の1923年秋、最新式の精製機械をドイツから輸入した。据付けと技術の指導には、ドイツの精製の権威であるメルク博士が数カ月にわたって当たった。横浜工場の精製工場は1924年に本格的に稼働し、建設費は建物7万2000円と機械設備5万5000円の計12万7000円だった。当時、ほかの同業者は精製に手を付けておらず、日清製油は大豆油の食用化で先行した。日清製油は精製した大豆油を「日清サラダ油」「日清フライ油」の名で売り出し、業務用のほか家庭向けにも瓶詰と小缶で売った。横浜工場は1918年の合併以来、満州産の原料から内地で油と粕を作る拠点である。満州の原料を内地で精製して売る流れは、豆粕を主とした創業時の事業を食用油へ近づけたと推察される。
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ51-100
- [46]震災直後の1923年秋、最新式の精製機械をドイツから輸入し、メルク博士が数カ月据付けと技術指導。精製工場は1924年に本格稼動、建設費は建物7万2000円・機械5万5000円の計12万7000円。同業者未着手で大豆油の精製・食用化の先鞭
- [47]震災直後の1923年秋、最新式の精製機械をドイツから輸入し、メルク博士が数カ月据付けと技術指導。精製工場は1924年に本格稼動、建設費は建物7万2000円・機械5万5000円の計12万7000円。同業者未着手で大豆油の精製・食用化の先鞭
- [48]震災直後の1923年秋、最新式の精製機械をドイツから輸入し、メルク博士が数カ月据付けと技術指導。精製工場は1924年に本格稼動、建設費は建物7万2000円・機械5万5000円の計12万7000円。同業者未着手で大豆油の精製・食用化の先鞭
- [49]震災直後の1923年秋、最新式の精製機械をドイツから輸入し、メルク博士が数カ月据付けと技術指導。精製工場は1924年に本格稼動、建設費は建物7万2000円・機械5万5000円の計12万7000円。同業者未着手で大豆油の精製・食用化の先鞭
- [50]精製加工した大豆油を「日清サラダ油」「日清フライ油」の旗印で、業務用と家庭向けの瓶詰・小缶の販路拡張に努めた
- 会社銀行八十年史(1955年)「日清製油」
- [51]横浜工場の設置で内地でも満州産油脂原料による油と粕の製造販売を始めた
社長の松下久治郎氏は1925年6月5日夜に脳出血で倒れ、翌6日夜に亡くなった。松下久治郎氏の在任中、日清製油は1920年9月に資本金を600万円へ増額した。取締役会は後任の社長をすぐには選ばず、専務の古沢丈作氏に社長の業務を暫定で代行させた。1926年8月の役員会は、取締役の門野重九郎氏を後任の社長に選んだ。選任は主に大倉喜八郎氏の推挙によるもので、門野重九郎氏は大倉組の副頭取を務める多忙な財界人である。会社は大連支社を古沢丈作氏らに委ね、本社では3人の取締役が門野重九郎氏を補佐する体制を敷いた。創業期の参謀を失った後、大倉組の首脳を社長に迎えて大倉系との結び付きを保ったとみえる。
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ51-100
- [52]松下久治郎は1925年6月5日夜脳出血で倒れ6日夜逝去。後任を選ばず古沢専務が暫定代行。1926年8月役員会で取締役門野重九郎を社長に選出、大倉喜八郎の推挙。門野は大倉組副頭取で社務に専念しがたく、大連は古沢専務・石川取締役、本社は本多・世良・松下の3取締役が補佐
- [54]松下久治郎は1925年6月5日夜脳出血で倒れ6日夜逝去。後任を選ばず古沢専務が暫定代行。1926年8月役員会で取締役門野重九郎を社長に選出、大倉喜八郎の推挙。門野は大倉組副頭取で社務に専念しがたく、大連は古沢専務・石川取締役、本社は本多・世良・松下の3取締役が補佐
- [55]松下久治郎は1925年6月5日夜脳出血で倒れ6日夜逝去。後任を選ばず古沢専務が暫定代行。1926年8月役員会で取締役門野重九郎を社長に選出、大倉喜八郎の推挙。門野は大倉組副頭取で社務に専念しがたく、大連は古沢専務・石川取締役、本社は本多・世良・松下の3取締役が補佐
- [56]松下久治郎は1925年6月5日夜脳出血で倒れ6日夜逝去。後任を選ばず古沢専務が暫定代行。1926年8月役員会で取締役門野重九郎を社長に選出、大倉喜八郎の推挙。門野は大倉組副頭取で社務に専念しがたく、大連は古沢専務・石川取締役、本社は本多・世良・松下の3取締役が補佐
- [57]松下久治郎は1925年6月5日夜脳出血で倒れ6日夜逝去。後任を選ばず古沢専務が暫定代行。1926年8月役員会で取締役門野重九郎を社長に選出、大倉喜八郎の推挙。門野は大倉組副頭取で社務に専念しがたく、大連は古沢専務・石川取締役、本社は本多・世良・松下の3取締役が補佐
- 会社銀行八十年史(1955年)「日清製油」
- [53]大正9年9月資本金を600万円に増額
日清製油の1928年7月期の業績は収支が釣り合う程度にとどまり、余剰金を生まなかった。不振の最大の原因は満州の政情の混乱で、満州の通貨は1日で1割を超えて騰落するほどだった。会社は三井信託から120万円を借り入れ、大倉組からの借入金80万円を返済し、差し引き40万円を再建の資金に充当した。その後は特産物の売買から製油へ重点を移し、1934年頃から蘇子油を主とする製品輸出が伸びた。日中戦争の後は統制が強まり、1942年10月15日に帝国油糧統制が油脂原料の一元的な統制を始めた。太平洋戦争中は横浜と大連の両工場で軍需用の植物油を生産し、1944年には那須の疎開工場の建設に着手した。
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ51-100
- [58]業界不振の最大原因は満州の政情の混沌、満州通貨の騰落は1日1割超。1928年7月期は収支相補う程度で余剰金なし。三井信託から120万円借入れ、大倉組借入金80万円を肩替りし差引40万円で社業復興
- [59]業界不振の最大原因は満州の政情の混沌、満州通貨の騰落は1日1割超。1928年7月期は収支相補う程度で余剰金なし。三井信託から120万円借入れ、大倉組借入金80万円を肩替りし差引40万円で社業復興
- [60]業界不振の最大原因は満州の政情の混沌、満州通貨の騰落は1日1割超。1928年7月期は収支相補う程度で余剰金なし。三井信託から120万円借入れ、大倉組借入金80万円を肩替りし差引40万円で社業復興
- [61]1934年頃から蘇子油を主とする製品輸出が伸び、製造工業本来の姿に戻った。売買部門の実績は低下傾向
- 会社銀行八十年史(1955年)「日清製油」
- [62]昭和初期の不況で経営を堅実主義に改め製油に重点を移し、昭和10年頃製品輸出が増大。太平洋戦争中は横浜・大連両工場で軍需用植物油を生産、1944年那須疎開工場の建設に着手
- [64]昭和初期の不況で経営を堅実主義に改め製油に重点を移し、昭和10年頃製品輸出が増大。太平洋戦争中は横浜・大連両工場で軍需用植物油を生産、1944年那須疎開工場の建設に着手
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ101-150
- [63]日華事変後に物資統制法規が実施。1942年9月28日帝国油糧統制創立、10月15日業務開始で原料油脂の一元的統制機関が完成。当社の取扱い品はほとんど統制の適用を受けた
参考文献[46]-[64]
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ51-100
- [46]震災直後の1923年秋、最新式の精製機械をドイツから輸入し、メルク博士が数カ月据付けと技術指導。精製工場は1924年に本格稼動、建設費は建物7万2000円・機械5万5000円の計12万7000円。同業者未着手で大豆油の精製・食用化の先鞭
- [47]震災直後の1923年秋、最新式の精製機械をドイツから輸入し、メルク博士が数カ月据付けと技術指導。精製工場は1924年に本格稼動、建設費は建物7万2000円・機械5万5000円の計12万7000円。同業者未着手で大豆油の精製・食用化の先鞭
- [48]震災直後の1923年秋、最新式の精製機械をドイツから輸入し、メルク博士が数カ月据付けと技術指導。精製工場は1924年に本格稼動、建設費は建物7万2000円・機械5万5000円の計12万7000円。同業者未着手で大豆油の精製・食用化の先鞭
- [49]震災直後の1923年秋、最新式の精製機械をドイツから輸入し、メルク博士が数カ月据付けと技術指導。精製工場は1924年に本格稼動、建設費は建物7万2000円・機械5万5000円の計12万7000円。同業者未着手で大豆油の精製・食用化の先鞭
- [50]精製加工した大豆油を「日清サラダ油」「日清フライ油」の旗印で、業務用と家庭向けの瓶詰・小缶の販路拡張に努めた
- [52]松下久治郎は1925年6月5日夜脳出血で倒れ6日夜逝去。後任を選ばず古沢専務が暫定代行。1926年8月役員会で取締役門野重九郎を社長に選出、大倉喜八郎の推挙。門野は大倉組副頭取で社務に専念しがたく、大連は古沢専務・石川取締役、本社は本多・世良・松下の3取締役が補佐
- [54]松下久治郎は1925年6月5日夜脳出血で倒れ6日夜逝去。後任を選ばず古沢専務が暫定代行。1926年8月役員会で取締役門野重九郎を社長に選出、大倉喜八郎の推挙。門野は大倉組副頭取で社務に専念しがたく、大連は古沢専務・石川取締役、本社は本多・世良・松下の3取締役が補佐
- [55]松下久治郎は1925年6月5日夜脳出血で倒れ6日夜逝去。後任を選ばず古沢専務が暫定代行。1926年8月役員会で取締役門野重九郎を社長に選出、大倉喜八郎の推挙。門野は大倉組副頭取で社務に専念しがたく、大連は古沢専務・石川取締役、本社は本多・世良・松下の3取締役が補佐
- [56]松下久治郎は1925年6月5日夜脳出血で倒れ6日夜逝去。後任を選ばず古沢専務が暫定代行。1926年8月役員会で取締役門野重九郎を社長に選出、大倉喜八郎の推挙。門野は大倉組副頭取で社務に専念しがたく、大連は古沢専務・石川取締役、本社は本多・世良・松下の3取締役が補佐
- [57]松下久治郎は1925年6月5日夜脳出血で倒れ6日夜逝去。後任を選ばず古沢専務が暫定代行。1926年8月役員会で取締役門野重九郎を社長に選出、大倉喜八郎の推挙。門野は大倉組副頭取で社務に専念しがたく、大連は古沢専務・石川取締役、本社は本多・世良・松下の3取締役が補佐
- [58]業界不振の最大原因は満州の政情の混沌、満州通貨の騰落は1日1割超。1928年7月期は収支相補う程度で余剰金なし。三井信託から120万円借入れ、大倉組借入金80万円を肩替りし差引40万円で社業復興
- [59]業界不振の最大原因は満州の政情の混沌、満州通貨の騰落は1日1割超。1928年7月期は収支相補う程度で余剰金なし。三井信託から120万円借入れ、大倉組借入金80万円を肩替りし差引40万円で社業復興
- [60]業界不振の最大原因は満州の政情の混沌、満州通貨の騰落は1日1割超。1928年7月期は収支相補う程度で余剰金なし。三井信託から120万円借入れ、大倉組借入金80万円を肩替りし差引40万円で社業復興
- [61]1934年頃から蘇子油を主とする製品輸出が伸び、製造工業本来の姿に戻った。売買部門の実績は低下傾向
- 会社銀行八十年史(1955年)「日清製油」
- [51]横浜工場の設置で内地でも満州産油脂原料による油と粕の製造販売を始めた
- [53]大正9年9月資本金を600万円に増額
- [62]昭和初期の不況で経営を堅実主義に改め製油に重点を移し、昭和10年頃製品輸出が増大。太平洋戦争中は横浜・大連両工場で軍需用植物油を生産、1944年那須疎開工場の建設に着手
- [64]昭和初期の不況で経営を堅実主義に改め製油に重点を移し、昭和10年頃製品輸出が増大。太平洋戦争中は横浜・大連両工場で軍需用植物油を生産、1944年那須疎開工場の建設に着手
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ101-150
- [63]日華事変後に物資統制法規が実施。1942年9月28日帝国油糧統制創立、10月15日業務開始で原料油脂の一元的統制機関が完成。当社の取扱い品はほとんど統制の適用を受けた
出典・参考
4件
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ1-50
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ51-100
- 日清製油『日清製油六十年史』1969年 コマ101-150
- 会社銀行八十年史(1955年)「日清製油」