第1章 年〜年

ALSOK:綜合警備保障の設立と綜合ガードシステムの発売

1965年〜吉田茂の秘書官を務めた村井順の転身と創業

村井順氏は1909年5月に東京で生まれ、在学中に高等文官試験に合格したうえで、1935年に東京帝国大学法学部を卒業して内務省に入った。戦後は日本の警備警察制度をつくり、吉田茂首相の秘書官を務めたことで一内務官僚の枠を越え、初代の内閣調査室長となった。官僚としての最後の役職は九州警察管区局長である。吉田首相は村井氏を斎藤昇長官と入れ替えて国家警察本部長官に据えようとしたが、当時は閣僚でない国家公安委員長が長官人事を握っており、占領下で民政局の支持を得た斎藤長官が法律を楯に抵抗したため、この人事は実現しなかった。

  • 経済時代 1977年(渋谷武)
    • [1]村井順は明治42年(1909年)5月生まれで、東京の生まれ
    • [2]村井順は昭和10年(1935年)に東大法学部を卒業して内務省に入った。在学中に当時の高等文官試験に優秀な成績で合格していた
    • [4]吉田ワンマン首相の秘書官をつとめることにより一内務官僚・警察官僚のワクを越え、初代の内閣調査室長となった
    • [5]官僚としての最後のポストは九州警察管区局長であった
    • [6]吉田首相は村井順を斎藤昇(国家警察本部長官)ととりかえて長官にしたかったが、閣僚でない国家公安委員長が長官人事を握っており、占領下で民政局の支持をバックにねばった斎藤長官が法律を楯に抵抗したため、村井長官は実現しなかった
  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [3]村井順は戦後におけるわが国警備警察制度の創始者である

1964年の東京オリンピックで、村井順氏は大会組織委員会の事務次長を務め、安川第五郎会長を補佐した。警備の期間は1か月に限られ、村井氏は学生を動員し、消防の人員にも応援を求めて会場の警備を組んだ。大会を成功させた翌年、村井氏は綜合警備保障を設立して社長に就任した。オリンピックの中心にいた安川第五郎氏らが積極的に協力し、安川氏が自ら会長を引き受けた。ガードマンという仕事が社会的な地位を得る前で、事業として成り立つかどうかは定まっていなかった。村井順社長は東京オリンピックの警備で日本の青年が持つ素質を確かめており、優秀な青年を集めれば世界で最も優秀な警備会社になれると考えた。

  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [7]村井順はさきのオリンピック東京大会で事務次長として安川第五郎会長の女房役として活躍した
    • [8]東京オリンピックの警備について、村井順は「オリンピックはとにかく一ヵ月ですからね、勝負はその間我慢してくれといってね随分学生サンなんか動員していろいろしました。消防の人達にも来てもらったりしてね」と述べた
    • [12]村井順は「私ども警備会社もこうした日本の優秀な青年をもって警備会社をつくるんだから世界の最も優秀な警備会社になるはずだと、これは決してオーバーじゃない。東京オリンピックではっきり自信をもった」と述べた
  • 経済時代 1977年(渋谷武)
    • [9]東京オリンピックを成功させた村井順は、翌年綜合警備保障会社を設立し、その社長となった
    • [10]設立にあたりオリンピックの中心となった故安川第五郎氏らは積極的に協力し、自ら会長を引き受けた
    • [11]設立当時はまだガードマンという仕事がいまのような社会的地位を得る前のことで、海のものとも山のものともわからぬときであった

同業では日本警備保障(現セコム)が先行していた。1962年10月に常駐警備と巡回警備で営業を始め、1964年の東京オリンピックの警備で評価を上げた同社に、綜合警備保障は3年遅れて設立されている。設立は1965年7月で、所在地は東京都千代田区内幸町二丁目20番、資本金25百万円、主な事業目的は警備請負業だった。創業者の村井順氏を動かしたのは、日本には国産だけで成り立つ警備会社がなければならないという思いである。自らが手がけてきた警察警備と内閣の情報機関での調査を企業の仕事として移せないか、という発想が村井順社長の事業の出発点にあった。発足後の2年間は無事故だった。

  • 政経人 2009年5月号「実録「好敵手」物語(第41回)セコム VS ALSOK 高い伸びが期待される警備サービス業」
    • [13]日本警備保障(現セコム)が営業を開始したのは1962年10月で、巡回警備・常駐警備のスタートだった。1964年の東京オリンピックの警備を担当して一気に評価を高めた。このセコムに後れること3年、1965年7月に綜合警備保障が設立された
    • [15]創業者の村井順氏が「純国産の警備会社が日本には欠かせない」との一念で綜合警備保障を興した
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1965年7月、東京都千代田区内幸町二丁目20番に資本金25百万円をもって、警備請負業を主たる事業目的として綜合警備保障株式会社を設立
  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [16]村井順は「私自身、警察警備をやったり内閣の情報機関の調査の仕事をやったりしていましたから、これを企業に移せばどうだろうということで進めてきた」と述べた
    • [17]綜合警備保障は創業以来、無事故を誇る警備会社として順調に発展した
参考文献[1]-[17]
    • [1]村井順は明治42年(1909年)5月生まれで、東京の生まれ
    • [2]村井順は昭和10年(1935年)に東大法学部を卒業して内務省に入った。在学中に当時の高等文官試験に優秀な成績で合格していた
    • [4]吉田ワンマン首相の秘書官をつとめることにより一内務官僚・警察官僚のワクを越え、初代の内閣調査室長となった
    • [5]官僚としての最後のポストは九州警察管区局長であった
    • [6]吉田首相は村井順を斎藤昇(国家警察本部長官)ととりかえて長官にしたかったが、閣僚でない国家公安委員長が長官人事を握っており、占領下で民政局の支持をバックにねばった斎藤長官が法律を楯に抵抗したため、村井長官は実現しなかった
    • [9]東京オリンピックを成功させた村井順は、翌年綜合警備保障会社を設立し、その社長となった
    • [10]設立にあたりオリンピックの中心となった故安川第五郎氏らは積極的に協力し、自ら会長を引き受けた
    • [11]設立当時はまだガードマンという仕事がいまのような社会的地位を得る前のことで、海のものとも山のものともわからぬときであった
  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [3]村井順は戦後におけるわが国警備警察制度の創始者である
    • [7]村井順はさきのオリンピック東京大会で事務次長として安川第五郎会長の女房役として活躍した
    • [8]東京オリンピックの警備について、村井順は「オリンピックはとにかく一ヵ月ですからね、勝負はその間我慢してくれといってね随分学生サンなんか動員していろいろしました。消防の人達にも来てもらったりしてね」と述べた
    • [12]村井順は「私ども警備会社もこうした日本の優秀な青年をもって警備会社をつくるんだから世界の最も優秀な警備会社になるはずだと、これは決してオーバーじゃない。東京オリンピックではっきり自信をもった」と述べた
    • [16]村井順は「私自身、警察警備をやったり内閣の情報機関の調査の仕事をやったりしていましたから、これを企業に移せばどうだろうということで進めてきた」と述べた
    • [17]綜合警備保障は創業以来、無事故を誇る警備会社として順調に発展した
    • [13]日本警備保障(現セコム)が営業を開始したのは1962年10月で、巡回警備・常駐警備のスタートだった。1964年の東京オリンピックの警備を担当して一気に評価を高めた。このセコムに後れること3年、1965年7月に綜合警備保障が設立された
    • [15]創業者の村井順氏が「純国産の警備会社が日本には欠かせない」との一念で綜合警備保障を興した
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1965年7月、東京都千代田区内幸町二丁目20番に資本金25百万円をもって、警備請負業を主たる事業目的として綜合警備保障株式会社を設立

1966年〜機械警備「綜合ガードシステム」の発売と欧米視察

設立の翌1966年8月、綜合警備保障は東京都千代田区にビル管理を行う綜合管財(現ALSOKファシリティーズ)を設立した。1967年、村井順社長は日本万国博覧会協会から正式に依頼を受け、開催中のモントリオール万博の警備を視察するため、約1か月かけて欧米を回った。訪ねた先は、ハワイの警備会社、117年の歴史を持つ世界最大のピンカートン、カナダ・ピンカートン、モントリオール万博の会場、ヨーロッパ最大規模のイギリスのセキュリコ、パリの警備会社である。創業2年の綜合警備保障は世界的には無名だったが、どの会社も最高幹部が面会に応じ、今後は協力し提携しようという話にまで進んだ。

  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1966年8月、東京都千代田区にビル管理を行う綜合管財株式会社(現ALSOKファシリティーズ株式会社)を設立
  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [19]1967年の欧米視察は日本万国博覧会協会から正式に依頼された、開催中のモントリオール万博の警備状況の視察・調査が第一の目的で、期間は約1か月だった
    • [20]視察先はハワイの警備会社、117年の歴史をもった世界最大の警備会社ピンカートン、カナダのモントリオール万博とカナダ・ピンカートン、ヨーロッパ最大の規模といわれるイギリスのセキュリコ、パリの警備会社である
    • [21]創業2年で世界的には無名だったが、どこの会社も最高幹部が心良く会い、今後お互い大いに協力し提携して行こうという話にまでなった

欧米の警備会社は警報器を数多く採用し、無線を活用し、危険で重要な場所には隠しカメラを置いて調整室のテレビで受信していた。村井順社長は創立2周年を機に機械化へ重点を置くと定めており、視察はその方向を裏づけた。警報器は世界に何百何千という種類があり、誤報を出さない確実さと価格と使いやすさで選ぶため、村井順社長は世界中の資料を集めて研究し、日本の一流の電気器具メーカーと組んで独自の警報器を作るとした。契約先に迷惑をかけない社会の信用第一主義を採り、格好よりも間違いのなさを優先してきた方針は、機械化に進んでも変えなかった。1967年9月、綜合警備保障は法人向け機械警備"綜合ガードシステム"を開発し、発売した。

  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [22]欧米の警備会社は相当機械化しており、警報器を相当採用し、無線を大いに活用し、非常に危険で重要な場所には隠しカメラを設置して調整室の受信テレビで見る仕掛けになっていた
    • [23]警報器の採用と無線の活用は、綜合警備保障が創立2周年を記念して今後重点を置こうと思っていた点であり、視察は非常に勉強になったと村井順は述べた
    • [24]警報器は世界中に何百、何千種類以上もあり、誤報のない確実さ、できるだけ安いこと、使う便利さを基準に世界中の資料を集めて研究し、日本の一流の電気器具メーカーと相談して自社独特の警報器を作るつもりだと村井順は述べた
    • [25]村井順は仕事は信用だとして契約先に迷惑をかけない社会の信用第一主義をとり、少し泥臭くても馬鹿正直にやって来たとし、この方針は今後も変らないと述べた
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [26]1967年9月、法人向け機械警備「綜合ガードシステム」を開発、発売

村井順社長は、警備会社の生命は優秀な警備員を持つこと以外にないとして、良い青年を集めて徹底した教育をし、本部からの遠隔指揮ではなく幹部が第一線に出て指導する方法を採った。教育には、ピンカートンのように学校と教育施設を持つやり方と、採用した者に経験の豊かな警備士を一人ずつ付けて現場で半月から1か月指導するやり方があり、綜合警備保障は両方を用いた。警備士の採用は20歳から35歳までで切っていたが、欧米には50歳まで採用する会社があり、何億という現金を扱う金融機関の職場では人生経験の豊かな警備員のほうが契約先も安心すると考え、年齢の上限を広げることを研究課題とした。警備員の待遇は、各国の賃金水準に照らして低くないとした。

  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [27]村井順は警備会社の生命は優秀な警備員をもつこと以外にないとし、良い青年を集めて徹底した教育をし、本部でリモートコントロールするのではなく第一線に幹部が乗り出して指導することが最も重要だと述べた
    • [28]警備士の教育には、ピンカートンのように学校なり教育施設を持つやり方と、採用した者に経験の豊かな指導能力のある者を一人ずつ付けて現場で半月なり1か月なり指導する方法の二つがあり、綜合警備保障は両方を考えていた
    • [29]綜合警備保障の警備士の採用年齢は20〜35歳で切っていたが、欧米には50歳位まで採用する会社があり、何億という金を使う金融関係の職場では人生経験豊かな警備員のほうが安心だとして、年齢制限を伸ばすことを研究課題とした
    • [30]警備員の待遇について村井順は、その国々の労働賃金のベースに合わせれば綜合警備保障の遇し方は決して低くないと述べた
参考文献[18]-[30]
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1966年8月、東京都千代田区にビル管理を行う綜合管財株式会社(現ALSOKファシリティーズ株式会社)を設立
    • [26]1967年9月、法人向け機械警備「綜合ガードシステム」を開発、発売
  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [19]1967年の欧米視察は日本万国博覧会協会から正式に依頼された、開催中のモントリオール万博の警備状況の視察・調査が第一の目的で、期間は約1か月だった
    • [20]視察先はハワイの警備会社、117年の歴史をもった世界最大の警備会社ピンカートン、カナダのモントリオール万博とカナダ・ピンカートン、ヨーロッパ最大の規模といわれるイギリスのセキュリコ、パリの警備会社である
    • [21]創業2年で世界的には無名だったが、どこの会社も最高幹部が心良く会い、今後お互い大いに協力し提携して行こうという話にまでなった
    • [22]欧米の警備会社は相当機械化しており、警報器を相当採用し、無線を大いに活用し、非常に危険で重要な場所には隠しカメラを設置して調整室の受信テレビで見る仕掛けになっていた
    • [23]警報器の採用と無線の活用は、綜合警備保障が創立2周年を記念して今後重点を置こうと思っていた点であり、視察は非常に勉強になったと村井順は述べた
    • [24]警報器は世界中に何百、何千種類以上もあり、誤報のない確実さ、できるだけ安いこと、使う便利さを基準に世界中の資料を集めて研究し、日本の一流の電気器具メーカーと相談して自社独特の警報器を作るつもりだと村井順は述べた
    • [25]村井順は仕事は信用だとして契約先に迷惑をかけない社会の信用第一主義をとり、少し泥臭くても馬鹿正直にやって来たとし、この方針は今後も変らないと述べた
    • [27]村井順は警備会社の生命は優秀な警備員をもつこと以外にないとし、良い青年を集めて徹底した教育をし、本部でリモートコントロールするのではなく第一線に幹部が乗り出して指導することが最も重要だと述べた
    • [28]警備士の教育には、ピンカートンのように学校なり教育施設を持つやり方と、採用した者に経験の豊かな指導能力のある者を一人ずつ付けて現場で半月なり1か月なり指導する方法の二つがあり、綜合警備保障は両方を考えていた
    • [29]綜合警備保障の警備士の採用年齢は20〜35歳で切っていたが、欧米には50歳位まで採用する会社があり、何億という金を使う金融関係の職場では人生経験豊かな警備員のほうが安心だとして、年齢制限を伸ばすことを研究課題とした
    • [30]警備員の待遇について村井順は、その国々の労働賃金のベースに合わせれば綜合警備保障の遇し方は決して低くないと述べた

1967年〜日本万国博覧会の常駐警備と地方会社の相次ぐ設立

1967年の時点で、村井順社長は日本万国博覧会の警備を難事業とみていた。半年の会期に2,000人から3,000人を集めなければならず、当時の労働事情で優秀な人材が半年間空いていることは考えにくく、会期には梅雨と酷熱が重なる。1か月で終わった東京オリンピックと違い、警察が半年も会場だけの警固につくことはできず、自衛隊も特別の場合を除いては動かないとみた。モントリオール万博では協会が1,600人ほどで全体の警備にあたり、各パビリオンは警備会社が8人から10人ずつ契約して受け持っていた。1970年3月、綜合警備保障は日本万国博覧会の常駐警備を実施した。

  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [31]日本の万国博の警備について村井順は「結論からいいますと、これは大変な難事業です」と述べた
    • [32]半年という期間に2,000人も3,000人も集めねばならず、当時の日本の労働事情では優秀な人間が半年間遊んでいることは考えられない。会期中は梅雨があり、明ければ酷熱の中で制服の警備員が活動することになると村井順は述べた
    • [33]1か月の東京オリンピックと異なり、半年も警察がそこだけの警固につくことはできず、自衛隊も特別の場合を除いては原則としてやらないと村井順は述べた
    • [34]モントリオール万博では全体の警備を協会が行い警備員は1,600名ほどで、各パビリオンには警備会社がそれぞれ契約して8人とか10人とかずつ出勤していた
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1970年3月、日本万国博覧会の常駐警備を実施

警備は警備員を契約先の現地に置く仕事であり、綜合警備保障は地方に警備請負業の会社を相次いで設立した。1968年12月に栃木県宇都宮市へ北関東綜合警備保障を、1969年6月に広島県広島市へ広島綜合警備保障を設けた。1972年6月には東京都港区に常駐警備を行う東京綜合警備保障(現ALSOK東京)を、1975年5月には札幌市中央区に北海道綜合警備保障(現ALSOK北海道)を設立した。1970年代の警備では、1970年の大阪万国博に続いて1972年の札幌オリンピック、1979年の東京サミットを受け持ち、高い評価を得た。

  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [36]綜合警備保障は1968年から1975年にかけて各地に警備請負業を主たる事業目的とする会社を設立した
    • [37]1968年12月、栃木県宇都宮市に警備請負業を主たる事業目的として北関東綜合警備保障株式会社を設立
    • [38]1969年6月、広島県広島市に警備請負業を主たる事業目的として広島綜合警備保障株式会社を設立
    • [39]1972年6月、東京都港区に常駐警備を行う東京綜合警備保障株式会社(現ALSOK東京株式会社)を設立
    • [40]1975年5月、札幌市中央区に警備請負業を主たる事業目的として北海道綜合警備保障株式会社(現ALSOK北海道株式会社)を設立
  • 政経人 2009年5月号「実録「好敵手」物語(第41回)セコム VS ALSOK 高い伸びが期待される警備サービス業」
    • [41]1970年代の警備では1970年の大阪万国博、1972年の札幌オリンピック、1979年の東京サミット、1980年のヨハネ・パウロ2世の来日時などを完璧にこなし、高い評価を得た

警備員を置く仕事に、機械で制御する商品が重なった。1975年1月、綜合警備保障は無人化店舗のCD(現金自動支払機)コーナーを自動制御する"アマンドシステム"を開発し、発売した。警備員を常駐させずに現金の機械を制御する商品である。同じ年の9月には、常駐警備に設備の制御と監視ができる設備を併用した"オルムシステム"を開発し、発売した。1978年2月、設立から置いていた東京都千代田区内幸町の本社を、東京都港区元赤坂一丁目6番6号へ移した。1979年10月には消防用設備の定期点検業務を開始し、警備の請負に法定の点検が加わった。

  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [42]綜合警備保障は1975年に機械警備・設備制御を伴う商品を相次いで発売した
    • [43]1975年1月、無人化店舗のCD(現金自動支払機)コーナーを自動制御する「アマンドシステム」を開発、発売
    • [44]「アマンドシステム」は無人化店舗のCD(現金自動支払機)コーナーを自動制御するもの
    • [45]1975年9月、常駐警備に設備制御・監視ができる設備を併用した「オルムシステム」を開発、発売
    • [46]1965年7月に東京都千代田区内幸町二丁目20番で設立し、1978年2月に東京都港区元赤坂一丁目6番6号へ本社を移転
    • [47]1979年10月、消防用設備の定期点検業務を開始
参考文献[31]-[47]
  • 新日本経済 1967年(岩波健)
    • [31]日本の万国博の警備について村井順は「結論からいいますと、これは大変な難事業です」と述べた
    • [32]半年という期間に2,000人も3,000人も集めねばならず、当時の日本の労働事情では優秀な人間が半年間遊んでいることは考えられない。会期中は梅雨があり、明ければ酷熱の中で制服の警備員が活動することになると村井順は述べた
    • [33]1か月の東京オリンピックと異なり、半年も警察がそこだけの警固につくことはできず、自衛隊も特別の場合を除いては原則としてやらないと村井順は述べた
    • [34]モントリオール万博では全体の警備を協会が行い警備員は1,600名ほどで、各パビリオンには警備会社がそれぞれ契約して8人とか10人とかずつ出勤していた
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
    • [35]1970年3月、日本万国博覧会の常駐警備を実施
    • [36]綜合警備保障は1968年から1975年にかけて各地に警備請負業を主たる事業目的とする会社を設立した
    • [37]1968年12月、栃木県宇都宮市に警備請負業を主たる事業目的として北関東綜合警備保障株式会社を設立
    • [38]1969年6月、広島県広島市に警備請負業を主たる事業目的として広島綜合警備保障株式会社を設立
    • [39]1972年6月、東京都港区に常駐警備を行う東京綜合警備保障株式会社(現ALSOK東京株式会社)を設立
    • [40]1975年5月、札幌市中央区に警備請負業を主たる事業目的として北海道綜合警備保障株式会社(現ALSOK北海道株式会社)を設立
    • [42]綜合警備保障は1975年に機械警備・設備制御を伴う商品を相次いで発売した
    • [43]1975年1月、無人化店舗のCD(現金自動支払機)コーナーを自動制御する「アマンドシステム」を開発、発売
    • [44]「アマンドシステム」は無人化店舗のCD(現金自動支払機)コーナーを自動制御するもの
    • [45]1975年9月、常駐警備に設備制御・監視ができる設備を併用した「オルムシステム」を開発、発売
    • [46]1965年7月に東京都千代田区内幸町二丁目20番で設立し、1978年2月に東京都港区元赤坂一丁目6番6号へ本社を移転
    • [47]1979年10月、消防用設備の定期点検業務を開始
    • [41]1970年代の警備では1970年の大阪万国博、1972年の札幌オリンピック、1979年の東京サミット、1980年のヨハネ・パウロ2世の来日時などを完璧にこなし、高い評価を得た

筆者考察

綜合警備保障の創業は、警察の外へ人を出す事業ではなく、警察の中にあった段取りを民間へ持ち出す事業だった。村井順氏は戦後の警備警察制度をつくり、吉田茂首相の秘書官を経て初代の内閣調査室長を務めた人物である。1964年の東京オリンピックで事務次長として組んだ警備は、1か月という期限付きのもので、学生の動員と消防の応援で足りた。だが企業や建物の警備は毎日続き、途切れれば契約が切れる。1965年の創業は、一度きりの大会で確かめた段取りを、続く契約へ置き換える試みだった。ガードマンという仕事に社会的な地位がまだ無かった時期に、安川第五郎氏が自ら会長を引き受けたのは、事業の中身ではなく、その段取りを組んだ人物への信用が先にあったからである。

機械警備への傾斜は、人手が足りなくなってから始まったのではない。1967年の欧米視察で村井順社長が見たのは、警報器と無線と隠しカメラによって人の数を減らす仕組みだったが、機械化へ重点を置く方針は創立2周年の時点で既に決めていた。それでも、警備員を減らすための機械ではなかった。日本万国博覧会は半年の会期に2,000人から3,000人を必要とし、当時の労働事情で優秀な人材がその期間ずっと空いている見込みは薄い。機械は、集められる人数の上限を動かすための道具だった。1975年のアマンドシステムが無人化店舗の現金自動支払機を制御する商品になったのも、人を置けない場所こそが機械の市場だったからである。

出典・参考

4件
出典・参考
  • ALSOK 有価証券報告書【沿革】
  • 政経人 2009年5月号「実録「好敵手」物語(第41回)セコム VS ALSOK 高い伸びが期待される警備サービス業」
  • 新日本経済 1967年(岩波健)
  • 経済時代 1977年(渋谷武)

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