中村屋:喫茶部の開設と「カリーライス」の発売
1926年〜百貨店の進出に対した喫茶部と、1927年に並べた国際商品
中村屋が喫茶部を開いたのは1927年6月で、そのころの新宿には喫茶店と呼べる店が1軒も見当たらなかった。百貨店が出てきたのに対し、相馬愛蔵氏と相馬黒光氏は品ぞろえを広げ、国際色を強める道を選んでいた。店先では、ちょっと休める喫茶の場がほしいという声が客から繰り返し寄せられており、市場の広がりとともに茶を飲む場所の需要が生まれていた。パンと菓子の店は、これで客を座らせて料理を出す商いにまで事業を拡大した。喫茶部の開設と同時に、カリーライスとボルシチが発売された。
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- [1]1927年6月、喫茶部を開設した。
- [6]1927年6月の喫茶部開設と同時に「カリーライス」「ボルシチ」を発売した。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [2]1927年には、喫茶店らしいものは新宿に1軒もなかった。
- [3]百貨店への対抗策として相馬愛蔵・黒光がとった経営戦略は、商品構成の多角化・国際化戦略だった。
- [4]中村屋の店頭の顧客から「小休み程度の喫茶部を設けてほしい」という要望が何回も出されていた。
- [5]市場が成立するにつれて、お茶をのむところが必要になっていた。
ライス・カレーの名で世に出回っていた料理は、当時の日本では材料がだんだん安物になり、節約のための下等な一品に落ちていた。1915年から店にかくまわれていたボース氏は、純印度の味わいを知ってもらおうと、本場のカリー・ライスを献立に入れるよう義父の相馬愛蔵氏へ持ちかけた。店のカリーライスは、この申し入れを起点としている。肉は最上級の鶏肉、バターは最上質のものを使い、十数種の香料を加えた。その香料は、ボース氏が世界の国々を探して集めたものである。米は当初インドから取り寄せたが、見た目は美しくとも味が日本人に向かず、カレーに最適の白目という日本米へ替えた。こうして純印度式カリーライスは喫茶部の開設と同じ日に売り出された。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [7]ボースは、世間でライス・カレーと称して行われているものは日本では次第に安い材料を用いるようになり、経済料理の一種としてひどく下等になっていると述べ、純印度の上品な趣味好尚を味わってもらうために印度のカリー・ライスを紹介したいと申し入れた。
- [8]ボースは、世間でライス・カレーと称して行われているものは日本では次第に安い材料を用いるようになり、経済料理の一種としてひどく下等になっていると述べ、純印度の上品な趣味好尚を味わってもらうために印度のカリー・ライスを紹介したいと申し入れた。
- [9]1915年に亡命し相馬家の保護を受けたラス・ビハリ・ボースは、長女俊子と結婚した後、義父の相馬愛蔵に印度のカリー・ライスをメニューへ加えるよう申し入れた。
- [10]カリー・ライスの肉は最上級の鶏肉を使い、最上質のバターと十数種の香料を加え、香料はボースが世界各国から探してきた。
- [11]米は初め本場の印度から取り寄せたが、見た目は美しくとも味が日本人には向かず、カレーに最適の「白目」という日本米を使った。
- [12]1927年6月、喫茶部がオープンし、同時に独創メニューの印度式カリー・ライスが公開発売された。
発売後も、客の意見を聞いて改良を重ねた。色が白く味のない鶏肉は鶏舎飼いの証拠であり、上等の地どりなら色が赤くもっと締まって味も優るという指摘を客から受けた。相馬愛蔵氏は専門家に聞いて回った末、食用鶏として軍鶏の一種を選び、山梨県に直営の飼育場を設けた。白目米は当時の一等米より約3割高いうえ年々減っていたため、埼玉県の12人の老農を選び、一等米より2割高で引き取ることを約束して300俵の栽培を頼んだ。同じ1927年には月餅、支那饅頭、松の実カステラも発売している。松の実は朝鮮への旅行で見つけたもので、成分の分析と試作に4年をかけた。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [13]カリー・ライスは発売後も顧客の意見を素直に聞き、改良につぐ改良を重ねた。
- [14]客から「色が白くて味のないのが鶏舎飼いの証拠で、上等の地どりなら色が赤くもっと締まっている」と指摘され、相馬愛蔵は専門家に聞いて回り、食用鶏として最高の軍鶏の一種とし、中村屋の直営で山梨県に地どりの飼育場を設けた。
- [15]客から「色が白くて味のないのが鶏舎飼いの証拠で、上等の地どりなら色が赤くもっと締まっている」と指摘され、相馬愛蔵は専門家に聞いて回り、食用鶏として最高の軍鶏の一種とし、中村屋の直営で山梨県に地どりの飼育場を設けた。
- [16]白目米は当時の一等米より約3割高く年々減少していたため、埼玉県の12人の老農をえらび一等米より2割高で引き取ることを約束して白目米300俵の栽培を頼んだ。
- [18]松の実は相馬夫妻の朝鮮旅行で発見したもので、松の実カステラの製品化までに4年間をかけ、活用法の検討に3年、分析や試作品に1年を費やした。
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- [17]1927年、「月餅」「支那饅頭(現中華まん)」「松の実カステラ」など新製品を発売した。
参考文献[1]-[18]
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- [1]1927年6月、喫茶部を開設した。
- [6]1927年6月の喫茶部開設と同時に「カリーライス」「ボルシチ」を発売した。
- [17]1927年、「月餅」「支那饅頭(現中華まん)」「松の実カステラ」など新製品を発売した。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [2]1927年には、喫茶店らしいものは新宿に1軒もなかった。
- [3]百貨店への対抗策として相馬愛蔵・黒光がとった経営戦略は、商品構成の多角化・国際化戦略だった。
- [4]中村屋の店頭の顧客から「小休み程度の喫茶部を設けてほしい」という要望が何回も出されていた。
- [5]市場が成立するにつれて、お茶をのむところが必要になっていた。
- [7]ボースは、世間でライス・カレーと称して行われているものは日本では次第に安い材料を用いるようになり、経済料理の一種としてひどく下等になっていると述べ、純印度の上品な趣味好尚を味わってもらうために印度のカリー・ライスを紹介したいと申し入れた。
- [8]ボースは、世間でライス・カレーと称して行われているものは日本では次第に安い材料を用いるようになり、経済料理の一種としてひどく下等になっていると述べ、純印度の上品な趣味好尚を味わってもらうために印度のカリー・ライスを紹介したいと申し入れた。
- [9]1915年に亡命し相馬家の保護を受けたラス・ビハリ・ボースは、長女俊子と結婚した後、義父の相馬愛蔵に印度のカリー・ライスをメニューへ加えるよう申し入れた。
- [10]カリー・ライスの肉は最上級の鶏肉を使い、最上質のバターと十数種の香料を加え、香料はボースが世界各国から探してきた。
- [11]米は初め本場の印度から取り寄せたが、見た目は美しくとも味が日本人には向かず、カレーに最適の「白目」という日本米を使った。
- [12]1927年6月、喫茶部がオープンし、同時に独創メニューの印度式カリー・ライスが公開発売された。
- [13]カリー・ライスは発売後も顧客の意見を素直に聞き、改良につぐ改良を重ねた。
- [14]客から「色が白くて味のないのが鶏舎飼いの証拠で、上等の地どりなら色が赤くもっと締まっている」と指摘され、相馬愛蔵は専門家に聞いて回り、食用鶏として最高の軍鶏の一種とし、中村屋の直営で山梨県に地どりの飼育場を設けた。
- [15]客から「色が白くて味のないのが鶏舎飼いの証拠で、上等の地どりなら色が赤くもっと締まっている」と指摘され、相馬愛蔵は専門家に聞いて回り、食用鶏として最高の軍鶏の一種とし、中村屋の直営で山梨県に地どりの飼育場を設けた。
- [16]白目米は当時の一等米より約3割高く年々減少していたため、埼玉県の12人の老農をえらび一等米より2割高で引き取ることを約束して白目米300俵の栽培を頼んだ。
- [18]松の実は相馬夫妻の朝鮮旅行で発見したもので、松の実カステラの製品化までに4年間をかけ、活用法の検討に3年、分析や試作品に1年を費やした。
1929年〜高等小学卒の少年を採る人材方針と、正札・良品廉価という商法の言語化
1929年から、中村屋は毎年3月に高等小学校を卒業する少年を約20名、直接その両親の手から引き受ける方針を採った。大学の商科を出た者を採用してほしいと頼まれることも多かったが、相馬愛蔵氏は、長く学校生活を送った者は官吏か大会社の社員を志望し、就職難で方針を変えて商店に来るのだから、最初から商売を志す者とは性質が異なると判断した。年少者は何をするにも興味を持ち、1年から2年で一通り役に立つようになるとみていた。中学以上の学歴の者を絶対に採らないわけではなく、真剣に商業へ打ち込む意思があれば入店させた。職場ごとに作業が異なるため、作業上の教育は各職場のベテランが実際に即して行い、この主義は1962年時点でも続いていた。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [19]1929年から、毎年3月に高等小学を卒業する少年を約20名、直接、両親の手から引受ける方針をとった。
- [20]相馬愛蔵は、長く学校生活をした人は官吏か大会社の社員を志望し、就職難で止むを得ず方針を変えて商店に来るのであって、最初から商売に志すものとは性質が異なると判断した。
- [21]小学校卒業生は年少活発で何をするにも興味があり、比較的容易に仕事の知識を習得して1、2年後には一通り役に立つようになるとした。
- [22]中学校以上の学歴の人を絶対に採用しないということではなく、高等の学問を身につけたうえで真剣に商業に打込むという者は入社してもらうとした。
- 標準化(1962年)「中村屋における宣伝よりも品質――相馬雄二氏に聞く」
- [23]人数が多く各部門ごとに作業が違うため全部まとめての教育はせず、作業上の具体的な教育は各職場のベテランが実際に則して行う主義をとっていた。
入店した少年は、徴兵検査までの約6年を少年級として少年寄宿舎に入り、衣類も医療も会社が負担した。給与は月14円から15円で始まり、その3分の1を本人に渡して、残る3分の2を会社が貯蓄銀行へ預けた。22歳で青年寄宿舎へ移ると月額44円から70円へ上がり、半額を貯金した。28歳からは妻帯が許され、寄宿舎を出て一家を構えると給与は全額本人に渡り、月75円から200円になった。子どものある者に子供手当、70歳以上の老人を抱える者に老人手当を1人4円ずつ出し、1937年2月からは10年勤続者に1,000円、20年勤続者に2,000円の保険を掛けた。同年3月には本店の敷地内に鉄筋コンクリート造地下1階地上5階建の新工場が竣工している。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [24]入店後徴兵検査までの約6年間は少年級とし、少年寄宿舎に入り、衣類や医療など一切を会社が負担した。
- [25]少年級の小遣いは当初月に14〜15円で漸次30円以上まで上昇し、毎月の給与の約3分の1を本人に渡し、他の3分の2を会社が代って貯蓄銀行に預けた。
- [26]22歳になると少年寄宿舎を出て青年寄宿舎に入り、給与は月額44円から徐々に70円に上昇し、毎月の給与の約半額を本人に渡して残る半額は会社が貯金した。
- [27]28歳からは各自妻帯が許可され、寄宿舎を出て一家を構えると給与は全額本人に渡され、家持店員の毎月の給与は75円から200円だった。
- [28]子供のある者に子供手当、70歳以上の老人のある場合は老人手当を、1人につき4円支給した。
- [29]1937年2月から、10年勤続者には1,000円、20年勤続者には2,000円の保険をつけることにした。
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- [30]1937年3月、本店敷地内の新工場が竣工した(鉄筋コンクリート造 地下1階、地上5階建)。
1938年8月、相馬愛蔵氏は麹町区会の講演で自らの商法を「私の商売」として語った。商売はもうけ仕事ではなく、繁昌の基本は得意先の信用を得ることにあった。信用を得る手立ては、値引きをせず正札を守り抜き、良い品を薄い利で売ることだった。現金仕入れを良品廉価の第一の要に置き、能率、配達費、研究、無駄の排除、一人一店主義を並べ、百貨店は良いところを学ぶ師匠に位置づけた。宣伝広告に使う金があれば品質を良くして客へ渡したいという方針は、1962年時点でも変わらなかった。1938年4月には水羊羹の製造方法に関する特許を取得し、1940年6月にカレーパンを発売した。1939年の年間売上高は290万円に達した。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [31]相馬愛蔵は1938年8月、東京・麹町区会での講演で「私の商売」として自己の経営哲学を語った。
- [32]相馬愛蔵は、商売はもうけ仕事ではなく、商売繁昌の基本は得意先の信用を得ることにあり、そのためには値引きをせず正札を守り遂げること、良い品をもうけを薄くして売る良品廉価が大切だと説いた。
- [33]相馬愛蔵は、商売はもうけ仕事ではなく、商売繁昌の基本は得意先の信用を得ることにあり、そのためには値引きをせず正札を守り遂げること、良い品をもうけを薄くして売る良品廉価が大切だと説いた。
- [34]相馬愛蔵は、商売で第1番に大事なのは現金仕入れであり良品廉売の第1の要だとし、能率、配達費、研究、商品の普及性、無駄をはぶくこと、廃物利用、1人1店主義を挙げ、百貨店はお師匠さんと思っていいところは学ぶと述べた。
- 標準化(1962年)「中村屋における宣伝よりも品質――相馬雄二氏に聞く」
- [35]会社のポリシーとして、宣伝広告に使う金があったらそれだけ品質を良くした良い物を客へ渡したいという考えで、1962年時点で宣伝はほとんどしていなかった。
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- [36]1938年4月、水羊羹の製造方法に関する特許を取得した。
- [37]1940年6月、「カレーパン」を発売した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)中村屋
- [38]支店なしの一店主義で山手方面の客層を対象に経営を合理化し、1939年には年間売上高290万円の記録を作った。
参考文献[19]-[38]
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [19]1929年から、毎年3月に高等小学を卒業する少年を約20名、直接、両親の手から引受ける方針をとった。
- [20]相馬愛蔵は、長く学校生活をした人は官吏か大会社の社員を志望し、就職難で止むを得ず方針を変えて商店に来るのであって、最初から商売に志すものとは性質が異なると判断した。
- [21]小学校卒業生は年少活発で何をするにも興味があり、比較的容易に仕事の知識を習得して1、2年後には一通り役に立つようになるとした。
- [22]中学校以上の学歴の人を絶対に採用しないということではなく、高等の学問を身につけたうえで真剣に商業に打込むという者は入社してもらうとした。
- [24]入店後徴兵検査までの約6年間は少年級とし、少年寄宿舎に入り、衣類や医療など一切を会社が負担した。
- [25]少年級の小遣いは当初月に14〜15円で漸次30円以上まで上昇し、毎月の給与の約3分の1を本人に渡し、他の3分の2を会社が代って貯蓄銀行に預けた。
- [26]22歳になると少年寄宿舎を出て青年寄宿舎に入り、給与は月額44円から徐々に70円に上昇し、毎月の給与の約半額を本人に渡して残る半額は会社が貯金した。
- [27]28歳からは各自妻帯が許可され、寄宿舎を出て一家を構えると給与は全額本人に渡され、家持店員の毎月の給与は75円から200円だった。
- [28]子供のある者に子供手当、70歳以上の老人のある場合は老人手当を、1人につき4円支給した。
- [29]1937年2月から、10年勤続者には1,000円、20年勤続者には2,000円の保険をつけることにした。
- [31]相馬愛蔵は1938年8月、東京・麹町区会での講演で「私の商売」として自己の経営哲学を語った。
- [32]相馬愛蔵は、商売はもうけ仕事ではなく、商売繁昌の基本は得意先の信用を得ることにあり、そのためには値引きをせず正札を守り遂げること、良い品をもうけを薄くして売る良品廉価が大切だと説いた。
- [33]相馬愛蔵は、商売はもうけ仕事ではなく、商売繁昌の基本は得意先の信用を得ることにあり、そのためには値引きをせず正札を守り遂げること、良い品をもうけを薄くして売る良品廉価が大切だと説いた。
- [34]相馬愛蔵は、商売で第1番に大事なのは現金仕入れであり良品廉売の第1の要だとし、能率、配達費、研究、商品の普及性、無駄をはぶくこと、廃物利用、1人1店主義を挙げ、百貨店はお師匠さんと思っていいところは学ぶと述べた。
- 標準化(1962年)「中村屋における宣伝よりも品質――相馬雄二氏に聞く」
- [23]人数が多く各部門ごとに作業が違うため全部まとめての教育はせず、作業上の具体的な教育は各職場のベテランが実際に則して行う主義をとっていた。
- [35]会社のポリシーとして、宣伝広告に使う金があったらそれだけ品質を良くした良い物を客へ渡したいという考えで、1962年時点で宣伝はほとんどしていなかった。
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- [30]1937年3月、本店敷地内の新工場が竣工した(鉄筋コンクリート造 地下1階、地上5階建)。
- [36]1938年4月、水羊羹の製造方法に関する特許を取得した。
- [37]1940年6月、「カレーパン」を発売した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)中村屋
- [38]支店なしの一店主義で山手方面の客層を対象に経営を合理化し、1939年には年間売上高290万円の記録を作った。
1941年〜海軍航空糧食への転換と、店舗を失ったのちの再建
日中戦争から太平洋戦争に至る過程で平和産業は存続できなくなり、中村屋の店も閉鎖同然となった。そこで店の施設を海軍の航空糧食工場へ転換した。1944年には子会社の航空食工業を資本金70万円で創立し、海軍航空食の製造に当たった。特許品として甘酒の粉末を作り、主にラバウル方面へ出ていた。戦局の進展に伴って従業員は減少し、売上も激減した。1945年5月、全館が戦災を被り、自然休業となった。三越に対して20年かけて積み上げた品揃えは、原料の統制と戦災で一度に失われた。
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [39]日支事変につづく大東亜戦争で平和産業は存続できなくなり、中村屋の店も閉鎖同様になった。
- [40]中村屋の施設を使って、海軍の航空糧食工場に転換した。
- [42]航空食工業株式会社では特許品として甘酒の粉末を作り、主にラバウル方面へ出ていた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)中村屋
- [41]1944年、子会社の航空食工業(資本金70万円)を創立し、海軍航空食の製造に当たった。
- [43]戦局の進展に伴って従業員は減少し、売上も激減した。
- [44]1945年5月、全館が戦災を被り自然休業となった。
終戦後、航空食工業は存続が不可能になり、1947年、調布にあった工場を多摩川食品工場と改めて細々と食料品の製造に着手した。戦後に初めて作った製品はヌガーチョコレートで、軍の仕事をしていた間に多少残っていた原料を利用したものだった。注文を取って売り歩いたのは、当時学生だった相馬雄二氏である。ところが肝心の新宿本店は尾津組に占領されており、商品を作っても売る場所がなかった。敷地の不法占拠のため復興は遅れた。製造の設備は戦時の転換によって残ったが、売る場所のほうが戻らなかった。
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [45]終戦後、航空食工業株式会社が存続不可能になり、1947年、調布の在にあった工場を多摩川食品工場と改めて細々と食料品の製造に着手した。
- [46]戦後初めてつくった製品はヌガーチョコレートで、軍の仕事をしていたおかげで多少原料が残っていたのを利用して作った。
- [47]相馬雄二は学生時代にヌガーチョコレートの註文をとって売り歩いた。
- [48]新宿本店は尾津組に占領され、店が開けないので商品を作っても売る場所がなかった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)中村屋
- [49]ボスによる敷地の不法占拠のため復興が遅れた。
尾津組はマーケットを作って権利貸しをしたが、税金の不払いで国税庁に差し押さえられ、競売にかけられることになった。高野ビルから三越に至る一画は、競売にかけられる寸前で救われた。当時の中村屋は商売らしい商売をしておらず、銀行から金を借りられないでいたところへ、1億円以上の現金を持つ華僑が買い取るとの噂まで立っていた。協和銀行新宿支店長の野々村氏が日本銀行と大蔵省を説得して歩き、競売の前の日、3時の間際に税務署への納付が間に合った。営業の再開は1948年で、焼けたビルに手を入れ、入口を建物の裏手に設けての出直しだった。売上はその年度に2,400万円、1949年には1億円となり、同年9月の多摩川食品の吸収合併で資本金は110万円に増えた。1951年9月には笹塚工場を新たに建て、表通りの店も開けた。
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [50]尾津組はマーケットを作って権利貸しをしたが、税金不払のため国税庁から差押えられ、競売になることになった。
- [51]1億円以上のキャッシュをもつ華僑が買い取るといううわさが出たが、中村屋は当時商売もろくにしていなかったため銀行から融資を受けることができなかった。
- [52]協和銀行新宿支店長の野々村が日本銀行や大蔵省を説得に歩き、競売の前日、3時ぎりぎりに税務署へ税金を納入して、高野ビルから三越までの一画が競売されずに済んだ。
- [54]1948年度の売上げは2,400万円で、その後徐々に増え、1949年には1億円の売上げになった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)中村屋
- [53]1948年、焼ビルを改修し、裏に入口を設けて営業を再開した。
- [57]1951年には表通りも開店し、笹塚工場を新設してパン、洋菓子、アイスクリームを製造した。
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- [55]1948年9月、多摩川食品株式会社(旧航空食工業株式会社 資本金70万円)を吸収合併し、この合併で資本金は110万円となった。
- [56]1951年9月、東京都渋谷区笹塚一丁目50番9号に笹塚工場を新設した。
参考文献[39]-[57]
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [39]日支事変につづく大東亜戦争で平和産業は存続できなくなり、中村屋の店も閉鎖同様になった。
- [40]中村屋の施設を使って、海軍の航空糧食工場に転換した。
- [42]航空食工業株式会社では特許品として甘酒の粉末を作り、主にラバウル方面へ出ていた。
- [45]終戦後、航空食工業株式会社が存続不可能になり、1947年、調布の在にあった工場を多摩川食品工場と改めて細々と食料品の製造に着手した。
- [46]戦後初めてつくった製品はヌガーチョコレートで、軍の仕事をしていたおかげで多少原料が残っていたのを利用して作った。
- [47]相馬雄二は学生時代にヌガーチョコレートの註文をとって売り歩いた。
- [48]新宿本店は尾津組に占領され、店が開けないので商品を作っても売る場所がなかった。
- [50]尾津組はマーケットを作って権利貸しをしたが、税金不払のため国税庁から差押えられ、競売になることになった。
- [51]1億円以上のキャッシュをもつ華僑が買い取るといううわさが出たが、中村屋は当時商売もろくにしていなかったため銀行から融資を受けることができなかった。
- [52]協和銀行新宿支店長の野々村が日本銀行や大蔵省を説得に歩き、競売の前日、3時ぎりぎりに税務署へ税金を納入して、高野ビルから三越までの一画が競売されずに済んだ。
- [54]1948年度の売上げは2,400万円で、その後徐々に増え、1949年には1億円の売上げになった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)中村屋
- [41]1944年、子会社の航空食工業(資本金70万円)を創立し、海軍航空食の製造に当たった。
- [43]戦局の進展に伴って従業員は減少し、売上も激減した。
- [44]1945年5月、全館が戦災を被り自然休業となった。
- [49]ボスによる敷地の不法占拠のため復興が遅れた。
- [53]1948年、焼ビルを改修し、裏に入口を設けて営業を再開した。
- [57]1951年には表通りも開店し、笹塚工場を新設してパン、洋菓子、アイスクリームを製造した。
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- [55]1948年9月、多摩川食品株式会社(旧航空食工業株式会社 資本金70万円)を吸収合併し、この合併で資本金は110万円となった。
- [56]1951年9月、東京都渋谷区笹塚一丁目50番9号に笹塚工場を新設した。
筆者考察
1926年に三越が新宿へ店を出したとき、中村屋が持ち出したのは値引きでも店舗の数でもなく、他店が仕入れられない商品だった。翌1927年に喫茶部とともに並んだ純印度式カリーライス、ボルシチ、月餅、支那饅頭、松の実カステラは、どれも相馬愛蔵氏と相馬黒光氏が商売とは別の動機で結んだ関係から出ている。1915年にボース氏を匿ったこと、黒光氏がロシア文学に傾倒してエロシェンコ氏を援助したこと、夫妻が朝鮮と中国を旅したこと。損得の勘定では説明のつかないこれらの縁が、百貨店と競う段になって、中村屋だけが持つ在庫になった。
この構図は戦争で裏返った。十数種の香料も最上級の鶏肉も統制の下では揃わず、1945年5月に本館が焼けると、20年かけて積んだ品揃えは一度に消えた。それでも1948年に商売へ戻れたのは、菓子の製法でも喫茶の評判でもなく、高野ビルから三越までの一画を競売から守り抜いたからである。相馬愛蔵氏が創業のときに定めた5か条の盟は、投機を禁じ、原料を現金で仕入れることを約束していた。投機の負債を抱えなかったために、商売がほぼ止まった数年を、土地を手放さずに越えられた。中村屋にとって新宿の一画は、店の置き場である前に、商品をやり直すための元手だった。
- 出所は1939年が会社銀行八十年史(1955年)、1948年度と1949年が東商(1964年)。
1927年〜1952年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年12月期 | 単体 | 2 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年12月期 | 単体 | 4 | +100.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1952年12月期 | 単体 | 5 | +25.0% | n/a | n/a | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
出典・参考
5件
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)中村屋
- 標準化(1962年)「中村屋における宣伝よりも品質――相馬雄二氏に聞く」
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)