中村屋:パン製造販売店中村屋の創業とクリームパンの創案
1901年〜居抜き700円の買収と、資金1,000円で始めた本郷の中村屋
相馬愛蔵氏は1890年に東京専門学校を卒業し、郷里の長野県東穂高村で蚕種の製造に従事した。1894年には実地の研究をまとめた「蚕種製造論」を出版し、増補5版まで版を重ねた。1901年9月に妻の相馬黒光氏とともに上京し、夫婦で独立の商売を始めると決めていた。喫茶店は先行する淀見軒があって見送り、パンは3食のうち2食をパンにする生活を3か月続けて将来性を確かめた。同年12月に新聞へパン店譲受の広告を出し、東京帝国大学前の中村屋を職人や製造道具を含む居抜きの700円で譲り受けた。屋号は中村屋をそのまま継ぎ、本郷の東大正門前で相馬愛蔵氏の個人経営として創業した。新規の出店ではなく、顧客と職人と設備を一括で取得する参入だった。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [1]相馬愛蔵は1890年に東京専門学校邦語行政科を卒業し、長兄の相続人として東穂高村で蚕種製造業に従事した。
- [2]1894年、各地の養蚕家を訪ねて研究した成果を「蚕種製造論」として出版し、好評で増補5版、5,000部以上売れた。
- [3]1901年9月、相馬愛蔵・黒光夫妻は長兄の諒解を得て上京し、2人で独立の仕事をすることに決めていた。
- [4]西洋のコーヒー店を考えたがすでに淀見軒が開店しており、パンに着目して3食のうち2食をパン食にし、3か月試食して将来性を見極めた。
- [5]1901年12月、萬朝報にパン店譲受の広告を出し、東京帝大前の中村屋を商品・かまど・製造道具・職人など一切居抜きの700円で譲り受けた。
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [6]新聞に「パン屋の店買いたし」と広告を出して本郷森川町の中村屋を買い取り、屋号もそれを継続した。
- 中村屋 有価証券報告書 第85期(2006年3月期)【沿革】
- [7]1901年12月、本郷東大正門前に相馬愛蔵個人経営の各種パン製造販売店中村屋を創業した。
開業資金は1,000円で、同郷の望月幸一氏から借りた700円に、子どもの教育費として蓄えた300円を合わせた。300円は原料を現金で仕入れる資金に充て、夏の3か月は相馬愛蔵氏が穂高へ戻って養蚕を続けた。店では夫婦2人が製造に加わり、相馬愛蔵氏は箱車を引いてパンを配達した。最初の3年間は親子3人の生活費を月50円と定め、店の売上ではなく養蚕の収益から支出した。現金で払うため、原料問屋は急に大量の原料が要るときにも優先して安く良質な品を回した。手形を切らない現金払いは、1962年時点でも続いていた。店の収益を家計に回さず、仕入れ単価の引き下げに充てる資金構造だった。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [8]700円は同郷の友人望月幸一から借り、子供の将来の教育費として貯金していた300円と合わせ、資金1,000円で発足した。
- [9]教育貯金の300円は現金仕入れの資金に当て、養蚕の時期の夏3か月間は相馬愛蔵が穂高に帰郷して養蚕を行った。
- [10]夫婦2人とも粉まみれで働き、相馬愛蔵は箱車を引いてパン配達もした。
- [11]5ケ条の盟の第5条で、最初の3年間は親子3人の生活費を月50円と定め、郷里の養蚕の収益から支出するとした。
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [12]原料は現金買いと店則に定めたため、急に原料が多く要る場合でも原料屋が優先的に安く良い品を回すようになった。
- 標準化(1962年)「中村屋における宣伝よりも品質――相馬雄二氏に聞く」
- [13]仕入れの現金払いは1962年時点でも続き、金融難のときでも手形を切らずに現金で払っていた。
前店主の中村屋は繁盛していたため、相馬愛蔵氏と相馬黒光氏は前店主や残った店員、近所の住民、顧客に失敗の原因を聞いた。前店主は米相場に手を出して負債を抱え、支払いが滞ったため仕入れ値をつり上げられ、原料の品質も落とされていた。夫妻はこれを戒めとし、投機の禁止、原料の現金仕入れ、主人と店員の食事を同じにすることなどを5か条の盟に定めた。主人と店員が同じ食事をとる規律は、店主と店員の食事を厳然と分けた当時の商家では異例だった。大口の得意先である東京帝国大学や大手印刷会社の注文にも、慣習だったリベートは出さなかった。当初3年と見込んだ独立自営の基礎は、1年で固まった。創業の規律は、前店主を破綻させた要因を一つずつ裏返して定めたものだった。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [14]相馬夫妻は先代主人の中村萬一、残った店員、近所の人、客に失敗の原因を詳しく聞いた。
- [15]先代主人は米相場に手を出して負債が増え、店を手放す要因になった。
- [17]先代の失敗を戒めに、衣服を新調しないこと、主人と店員の食事を同じにすること、米相場や株に手を出さないこと、原料の現金仕入れ、生活費を別途収入に仰ぐことの5ケ条の盟を定めた。
- [18]主人と店員の同一の食事は当時としては革命的なやり方で、一般の商家では店主と店員の食事は厳然と区別されていた。
- [20]相馬愛蔵の3年計画は1年で達成し、独立自営の基礎ができた。
- 標準化(1962年)「中村屋における宣伝よりも品質――相馬雄二氏に聞く」
- [16]前の店は相場に手を出し、仕入れを現金で払わず業者を待たせたため、仕入れ値をつり上げられ原料の品質も落とされて経営不振に陥った。
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [19]東大や大きな印刷会社などから多量の注文を受けた際、リベートを出す習慣があったが相馬愛蔵は出さなかった。
参考文献[1]-[20]
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [1]相馬愛蔵は1890年に東京専門学校邦語行政科を卒業し、長兄の相続人として東穂高村で蚕種製造業に従事した。
- [2]1894年、各地の養蚕家を訪ねて研究した成果を「蚕種製造論」として出版し、好評で増補5版、5,000部以上売れた。
- [3]1901年9月、相馬愛蔵・黒光夫妻は長兄の諒解を得て上京し、2人で独立の仕事をすることに決めていた。
- [4]西洋のコーヒー店を考えたがすでに淀見軒が開店しており、パンに着目して3食のうち2食をパン食にし、3か月試食して将来性を見極めた。
- [5]1901年12月、萬朝報にパン店譲受の広告を出し、東京帝大前の中村屋を商品・かまど・製造道具・職人など一切居抜きの700円で譲り受けた。
- [8]700円は同郷の友人望月幸一から借り、子供の将来の教育費として貯金していた300円と合わせ、資金1,000円で発足した。
- [9]教育貯金の300円は現金仕入れの資金に当て、養蚕の時期の夏3か月間は相馬愛蔵が穂高に帰郷して養蚕を行った。
- [10]夫婦2人とも粉まみれで働き、相馬愛蔵は箱車を引いてパン配達もした。
- [11]5ケ条の盟の第5条で、最初の3年間は親子3人の生活費を月50円と定め、郷里の養蚕の収益から支出するとした。
- [14]相馬夫妻は先代主人の中村萬一、残った店員、近所の人、客に失敗の原因を詳しく聞いた。
- [15]先代主人は米相場に手を出して負債が増え、店を手放す要因になった。
- [17]先代の失敗を戒めに、衣服を新調しないこと、主人と店員の食事を同じにすること、米相場や株に手を出さないこと、原料の現金仕入れ、生活費を別途収入に仰ぐことの5ケ条の盟を定めた。
- [18]主人と店員の同一の食事は当時としては革命的なやり方で、一般の商家では店主と店員の食事は厳然と区別されていた。
- [20]相馬愛蔵の3年計画は1年で達成し、独立自営の基礎ができた。
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [6]新聞に「パン屋の店買いたし」と広告を出して本郷森川町の中村屋を買い取り、屋号もそれを継続した。
- [12]原料は現金買いと店則に定めたため、急に原料が多く要る場合でも原料屋が優先的に安く良い品を回すようになった。
- [19]東大や大きな印刷会社などから多量の注文を受けた際、リベートを出す習慣があったが相馬愛蔵は出さなかった。
- 中村屋 有価証券報告書 第85期(2006年3月期)【沿革】
- [7]1901年12月、本郷東大正門前に相馬愛蔵個人経営の各種パン製造販売店中村屋を創業した。
- 標準化(1962年)「中村屋における宣伝よりも品質――相馬雄二氏に聞く」
- [13]仕入れの現金払いは1962年時点でも続き、金融難のときでも手形を切らずに現金で払っていた。
- [16]前の店は相場に手を出し、仕入れを現金で払わず業者を待たせたため、仕入れ値をつり上げられ原料の品質も落とされて経営不振に陥った。
1904年〜自ら考案した菓子と、行商で確かめてから移転した新宿の本店
1904年、相馬愛蔵氏は研究の末にクリームパンとクリームワッフルの考案に成功した。この二品はまたたく間に東京市の全域へ広まった。クリームパンは、フランス菓子のワッフルに詰めるクリームをパンへ入れるという着想から生まれたものだった。和菓子の葉桜餅も、東京帝国大学の卒業式に頼まれた赤飯が取り消され、その処理に窮した末に、赤飯へ餡を入れて桜の葉でくるんで売り出したもので、1964年時点では一般に普及していた。中村屋が店に並べたのは、問屋から仕入れられる品ではなく、自店で考えた品だった。仕入れの現金払いで原料を安く確保する一方、売る側では他店が持たない品を置き、価格以外の理由で客を引いた。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [21]1904年、研究熱心さからクリームパン、クリームワッフルの発明に成功した。
- [22]クリームパンとクリームワッフルは、またたく間に東京市全域に普及しはじめた。
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [23]ワッフルというフランス・ケーキのクリームをパンに入れることを考え、クリームパンのはしりとなった。
- [24]東大の卒業式に頼まれた赤飯がキャンセルになり、その処理に困って赤飯の中にアンを入れ、桜の葉にくるんで「葉桜餅」として売り出したところ当たった。
- [25]葉桜餅は1964年時点で一般に普及している。
本郷森川町の客は東京帝国大学の学生が主で、店の売上はそれほど伸びず、従業員の給与だけが上がっていた。相馬愛蔵氏は店の行き先を決める前に、1年ほど新宿方面を行商して歩いている。発端は1907年で、よく売れると評判になった店に税務署の査定が入り、ありのままを申告した結果、納税額が重くなった。そこで支店を出すか、見込みのある土地へ移るかの判断を迫られ、日本橋と新宿から話が舞い込んだ。行商ではパンを手押し車に積んで売り、森川町の店の売上を超える日もあると確かめた。新宿でやっていけると見極めがついてから、移転に踏み切った。1907年12月に新宿へ進出し、1909年8月には現在の本店所在地に移ってそこを本店とし、その翌月から日本菓子の製造に乗り出した。開業前に3か月パン食を続けて需要を確かめたやり方を、店の場所選びにも同じく用いたわけである。
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [26]本郷森川町では客が主として東大の学生で店の売上げはそれほど伸びず、従業員の給料が上がっていくばかりだった。
- [28]たまたま日本橋と新宿に話があり、新宿のほうが将来性がありそうだとして1年ばかり行商に行くと、森川町の店の売上げを上回ることもあった。
- [30]1907年12月、本郷の家を売って新宿の現在地に居をかまえ、新宿での第一歩を踏み出した。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [27]1907年、よく売れるという評判が立って税務署の査定を受け、正直に報告して税金の支払いが困難になり、支店開設か有望の地への移転かを選ぶことになった。
- 標準化(1962年)「中村屋における宣伝よりも品質――相馬雄二氏に聞く」
- [29]新宿に移るに当たり、事前に半年ほど新宿地区へ手押し車でパンを持って行って売り、これなら新宿は大丈夫という確信をつけてから移った。
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- [31]1909年8月、新宿(現本店所在地)に移転し、本店とした。
- [32]1909年9月、日本菓子の製造を開始した。
明治期の東京には御用商人あがりの店が多く、官庁や大口の得意先には丁寧に応じる一方、一般の客への応対は悪かった。相馬愛蔵氏はこの態度を排し、1銭2銭の買物をする客も同じように大事にすると決めた。東京帝国大学や大手の印刷会社から多量の注文を受けた際、リベートを出す慣習があったが応じず、そのため意地悪もされた。リベートを取られれば、その分だけ品を悪くするほかないからである。不当な安売りも法外な掛け売りもしないという方針は変えなかった。客の得る利益と自店の受ける利益が5分5分で釣り合ってはじめて正しい商売だという理屈を立て、会社のマークのはかりもここから出た。
- 標準化(1962年)「中村屋における宣伝よりも品質――相馬雄二氏に聞く」
- [33]明治時代にはいわゆる御用商人あがりの店が多く、お上には懇切ていねいにサービスするが一般の客に対してはサービスが悪く、売ってやる式の商売が多かった。
- [34]これからの商売はそうではいけないとして、1銭2銭の買物をする客でも大事にするという考え方をとり、絶対に御用商人にはならないという態度をとった。
- [36]御用商人は大きな会社に納めるときリベートを取られ、その分だけ物を悪くすることになっていた。
- [38]商売は客の得る利益と自分たちが受ける利益が5分5分でなければならず、それが常に均衡してはじめて正しい商売だという理論を立てた。
- [39]会社のマークになっているはかりは、利益の均衡という理論から出たものである。
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [35]東大や大きな印刷会社などの得意先から多量に注文を受けたときはリベートを出す習慣だったが、相馬愛蔵は出さず、意地悪もされたが動かされなかった。
- [37]相馬愛蔵は、自分の働きに対する正しい利益は当然受けるべきであり、その代わり不当な安売りや法外なかけ売りは絶対にしないと述べた。
参考文献[21]-[39]
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [21]1904年、研究熱心さからクリームパン、クリームワッフルの発明に成功した。
- [22]クリームパンとクリームワッフルは、またたく間に東京市全域に普及しはじめた。
- [27]1907年、よく売れるという評判が立って税務署の査定を受け、正直に報告して税金の支払いが困難になり、支店開設か有望の地への移転かを選ぶことになった。
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [23]ワッフルというフランス・ケーキのクリームをパンに入れることを考え、クリームパンのはしりとなった。
- [24]東大の卒業式に頼まれた赤飯がキャンセルになり、その処理に困って赤飯の中にアンを入れ、桜の葉にくるんで「葉桜餅」として売り出したところ当たった。
- [25]葉桜餅は1964年時点で一般に普及している。
- [26]本郷森川町では客が主として東大の学生で店の売上げはそれほど伸びず、従業員の給料が上がっていくばかりだった。
- [28]たまたま日本橋と新宿に話があり、新宿のほうが将来性がありそうだとして1年ばかり行商に行くと、森川町の店の売上げを上回ることもあった。
- [30]1907年12月、本郷の家を売って新宿の現在地に居をかまえ、新宿での第一歩を踏み出した。
- [35]東大や大きな印刷会社などの得意先から多量に注文を受けたときはリベートを出す習慣だったが、相馬愛蔵は出さず、意地悪もされたが動かされなかった。
- [37]相馬愛蔵は、自分の働きに対する正しい利益は当然受けるべきであり、その代わり不当な安売りや法外なかけ売りは絶対にしないと述べた。
- 標準化(1962年)「中村屋における宣伝よりも品質――相馬雄二氏に聞く」
- [29]新宿に移るに当たり、事前に半年ほど新宿地区へ手押し車でパンを持って行って売り、これなら新宿は大丈夫という確信をつけてから移った。
- [33]明治時代にはいわゆる御用商人あがりの店が多く、お上には懇切ていねいにサービスするが一般の客に対してはサービスが悪く、売ってやる式の商売が多かった。
- [34]これからの商売はそうではいけないとして、1銭2銭の買物をする客でも大事にするという考え方をとり、絶対に御用商人にはならないという態度をとった。
- [36]御用商人は大きな会社に納めるときリベートを取られ、その分だけ物を悪くすることになっていた。
- [38]商売は客の得る利益と自分たちが受ける利益が5分5分でなければならず、それが常に均衡してはじめて正しい商売だという理論を立てた。
- [39]会社のマークになっているはかりは、利益の均衡という理論から出たものである。
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- [31]1909年8月、新宿(現本店所在地)に移転し、本店とした。
- [32]1909年9月、日本菓子の製造を開始した。
1909年〜画廊に集まった画学生と亡命者の保護、1923年の株式会社への改組
相馬愛蔵氏は、商いの規模は小さくとも、国や文化のために幾らかでも役立つことを心に掛けたいと考えていた。移転後の新宿の店には画廊があり、明治の終わりごろから絵を学ぶ若者が出入りした。相馬愛蔵氏と相馬黒光氏は、日本へ入ってきたばかりの外国の美術を盛り立てたいとの思いから彼らの面倒を見た。敷地の中にアトリエを設けたのは彫刻家の荻原碌山氏の帰国がきっかけの一つで、そこは高村光太郎氏、中村彝氏、中原悌二郎氏、柳敬助氏らの制作の場となった。後に名の知れた彼らの作品は店先や喫茶の壁を飾り、それを目当てに多くの客が足を運んだ。宣伝を狙ったわけではないこうした取り組みが、結果として売上を押し上げることになった。
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [40]相馬愛蔵は、自分たちの商売は小さいけれども国家なり文化なりに少しでも貢献していくような心掛けを持ちたいという考えを商売の信条としていた。
- [41]明治の末年、店にあった画廊に画学生が集まってきた。
- [42]当時日本に入り始めた外国の美術を振興しようということで、集まった画学生の世話をした。
- [44]その後有名になった画学生たちの絵や彫刻を店頭や喫茶店に飾ったところ、たくさんの客がそれを見に来た。
- [45]画学生の世話は宣伝のためにしたわけではなく文化に貢献したいという意図だったが、偶然、販売促進にプラスした。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [43]中村屋が新宿に移り、荻原碌山が帰国したこともあって黒光は構内にアトリエを作って芸術のサロンとし、高村光太郎、中村彝、中原悌二郎、柳敬助らが芸術活動を展開する場を提供した。
インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボース氏の身柄を相馬愛蔵氏に託したのは頭山満氏で、中村屋の主人なら何があってもかくまうと見込んでの依頼だった。ボース氏は1915年に亡命して保護を求めていた。英国大使館は、外務省がボース氏を守る側へ回ってからも追及の手を緩めなかった。中村屋の手配でボース氏は隠れ家を転々とし、移った先は30余か所を数えた。長女の相馬俊子氏は地下に潜行中のボース氏に嫁ぎ、ボース氏はのちに日本へ帰化した。1919年には朝鮮独立運動の志士林圭氏が中村屋のアトリエの客となり、盲目の詩人エロシェンコ氏も援助と保護を受けた。相馬黒光氏がロシア文学に傾倒していた縁だった。
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [46]頭山満は「中村屋のおやじならあくまでかくまってくれるだろう」として相馬愛蔵に依頼し、中村屋がボースをかくまうことになった。
- [52]相馬黒光がロシア文学に凝っていたため、日本に脱出してきたロシアの詩人エロシェンコと縁ができた。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [47]1915年、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースが亡命し保護を求めてきた。
- [48]外務省がボース保護に転じた後も英国大使館の追及はやまず、中村屋の手配でボースは隠れ家を転々とし、転居先は30余カ所に及んだ。
- [49]長女の相馬俊子は中村彝の結婚の申込みを拒否し、地下潜行中のボースに嫁いだ。
- [50]ボースは日本に帰化した。
- [51]1919年、朝鮮独立運動の志士林圭が中村屋アトリエの客となり、盲詩人エロシェンコを援助し保護した。
1923年4月、中村屋は資本金15万円で株式会社組織に改め、商号を株式会社中村屋とした。同年9月の関東大震災に際しては原価での販売を実行し、朝鮮人を保護した。同じ年、私邸の土蔵を改造して「先駆座」を開設し、これを開放した。創業から20年余りを経て、店は個人の商売から会社の形へ移った。ところが1926年、三越が新宿へ出店すると、東京都内で有力な小売商だった中村屋の売上は減少し、地元の商店も相当の影響を受けた。従来の単品専業のままでは競争できる見込みがなかった。
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- [53]1923年4月、株式会社組織に改組し、商号を株式会社中村屋とした(資本金15万円)。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [54]1923年の関東大震災で、中村屋は原価販売を実行した。
- [55]関東大震災に際し、中村屋は朝鮮人を保護した。
- [56]1923年、私邸の土蔵を改造して「先駆座」を作り、開設して開放した。
- [57]近代小売業としてパワーのある三越百貨店が新宿に開店したのは1926年で、東京都内で有力な小売商の中村屋の売上げが減少し、地元商店も相当の影響を受けた。
- [58]有効な対抗策を生み出す必要があり、従来の単品専業だけでは競争に勝てそうになかった。
参考文献[40]-[58]
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- [40]相馬愛蔵は、自分たちの商売は小さいけれども国家なり文化なりに少しでも貢献していくような心掛けを持ちたいという考えを商売の信条としていた。
- [41]明治の末年、店にあった画廊に画学生が集まってきた。
- [42]当時日本に入り始めた外国の美術を振興しようということで、集まった画学生の世話をした。
- [44]その後有名になった画学生たちの絵や彫刻を店頭や喫茶店に飾ったところ、たくさんの客がそれを見に来た。
- [45]画学生の世話は宣伝のためにしたわけではなく文化に貢献したいという意図だったが、偶然、販売促進にプラスした。
- [46]頭山満は「中村屋のおやじならあくまでかくまってくれるだろう」として相馬愛蔵に依頼し、中村屋がボースをかくまうことになった。
- [52]相馬黒光がロシア文学に凝っていたため、日本に脱出してきたロシアの詩人エロシェンコと縁ができた。
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)
- [43]中村屋が新宿に移り、荻原碌山が帰国したこともあって黒光は構内にアトリエを作って芸術のサロンとし、高村光太郎、中村彝、中原悌二郎、柳敬助らが芸術活動を展開する場を提供した。
- [47]1915年、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースが亡命し保護を求めてきた。
- [48]外務省がボース保護に転じた後も英国大使館の追及はやまず、中村屋の手配でボースは隠れ家を転々とし、転居先は30余カ所に及んだ。
- [49]長女の相馬俊子は中村彝の結婚の申込みを拒否し、地下潜行中のボースに嫁いだ。
- [50]ボースは日本に帰化した。
- [51]1919年、朝鮮独立運動の志士林圭が中村屋アトリエの客となり、盲詩人エロシェンコを援助し保護した。
- [54]1923年の関東大震災で、中村屋は原価販売を実行した。
- [55]関東大震災に際し、中村屋は朝鮮人を保護した。
- [56]1923年、私邸の土蔵を改造して「先駆座」を作り、開設して開放した。
- [57]近代小売業としてパワーのある三越百貨店が新宿に開店したのは1926年で、東京都内で有力な小売商の中村屋の売上げが減少し、地元商店も相当の影響を受けた。
- [58]有効な対抗策を生み出す必要があり、従来の単品専業だけでは競争に勝てそうになかった。
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- [53]1923年4月、株式会社組織に改組し、商号を株式会社中村屋とした(資本金15万円)。
出典・参考
5件
- 中村屋 有価証券報告書 第85期(2006年3月期)【沿革】
- 中村屋 有価証券報告書 第105期(2026年3月期)【沿革】
- 標準化(1962年)「中村屋における宣伝よりも品質――相馬雄二氏に聞く」
- 東商(1964年)相馬雄二「わが社の経営革新――中村屋の場合」
- 奈良一生「日本の経営者研究――相馬愛蔵・黒光の創業理念と戦略展開」松平記念経済・文化研究所紀要(1995年)