第1章 年〜年

パソナグループ:人材派遣を主業務とするテンポラリーセンター前身の創業

千里の主婦層から登録スタッフ5万人への拡大

1976年〜職業安定法の枠外で組んだ業務委託と資本金380万円の出発

南部靖之氏は大学1年の秋、千里山に学習塾の大阪スタディ学院を開き、1年後には生徒が200人近くに増えていた。月謝を集めて回るうちに、千里ニュータウンに暮らす生徒の母親たちが簿記や英会話の力を備えながら、1日4〜5時間、月に2週間ほどなら働きたいと考えていることを知った。就職活動では卒業の1年前から会社を訪ね歩き、その数はおよそ140社に及んだ。ある会社は、今は忙しいが君を採れば生涯の面倒を見なければならない、忙しさは一時のことだと言われた南部氏は、ならば繁忙期にだけ働く人であれば雇ってもらえるのかと問い返した。第1次石油ショック後の不況が国内を覆っていた1976年2月、関西大学工学部4年生の南部氏は、大阪市北区にテンポラリーセンターの前身であるマンパワーセンターを立ち上げた。企業の求人難と主婦の就労希望は、突き合わせれば商品になった。

  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
    • [1]南部氏は大学1年の秋に千里山で大阪スタディ学院を開き、1年後に生徒数は200人近くになった
    • [3]学習塾で月謝を集める仕事を通じて主婦たちの就労希望を感じ取った
    • [6]テンポラリーセンターの設立は第1次石油ショック後の不況が日本を覆っていた時期にあたる
  • 近代企業リサーチ 1995年5月10日号「創業者の軌跡7 世界の人材派遣企業『パソナ』を創設」
    • [2]学習塾に通う生徒の母親たちは簿記や英会話の能力を持ちながら、1日4〜5時間・月2週間なら働きたいと望んでいた
    • [4]南部氏は卒業の1年前から就職活動を始め、数えて140社ほどを訪問した
    • [5]忙しいのは今だけだという企業の言葉に、忙しい時だけ働く人なら使ってくれるかと応じた会話から人材派遣業が発足した
  • パソナグループ 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1976年2月に大阪市北区でテンポラリーセンターの前身となる組織が設立された
  • 月刊アドバタイジング 1996年6月号「冒険なきところに、我が人生なし」
    • [8]1976年に大阪でマンパワーセンターとして発足し、1979年にテンポラリーセンターへ社名変更した

大阪・南森町の中古貸しビルに8坪を借り、家賃は半年後からの出世払いでよいという条件で拠点を構えた。資金380万円のうち半額は化学会社の役員だった父・南部栄三郎氏が出したが、残りは親類に頼んでも派遣で人を受け入れる企業など成り立たないと断られ、南部氏がアルバイトで貯めた預金と友人の援助で埋めた。24歳の創業者では取引先や銀行の信用を得にくいと判断し、同じ2月には南部氏でなく父が社長を務めることになった。交渉と労務は父に任せ、自身は営業部長として大阪の企業を回った。事務所の保証金を2年分割にしてもらうほどの資金繰りのなか、最初の顧客は百貨店へのタイピスト派遣で、第一号はお歳暮商戦の阪急百貨店に事務処理の4人を送る仕事だった。

  • 近代企業リサーチ 1995年5月10日号「創業者の軌跡7 世界の人材派遣企業『パソナ』を創設」
    • [9]資本金の残りはアルバイトで貯めた預金と友人の援助で賄い、南森町の8坪の部屋は家賃を半年後からの出世払いとしてもらった
    • [10]会社設立の資金380万円のうち半分は化学会社役員だった父が出した
    • [12]資本金の残りはアルバイトで貯めた預金と友人の援助で賄い、南森町の8坪の部屋は家賃を半年後からの出世払いとしてもらった
    • [13]父を社長に据えたのは創業時の南部氏が若く企業や銀行に対する信用が足りなかったためである
    • [14]父を社長に据えたのは創業時の南部氏が若く企業や銀行に対する信用が足りなかったためである
    • [15]相手との交渉や労務は父に任せ、自身は営業部長として歩き回り、最初の人材派遣はお歳暮シーズンの阪急百貨店だった
    • [17]相手との交渉や労務は父に任せ、自身は営業部長として歩き回り、最初の人材派遣はお歳暮シーズンの阪急百貨店だった
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
    • [11]親類からは人間の派遣を受け入れる会社がどこにあるかとまともに取り合ってもらえなかった
  • 経営コンサルタント 1983年10月号(経営政策研究所)
    • [16]事務所の保証金を2年分割にしてもらい、百貨店へのタイピスト派遣が最初の顧客となった
  • フリーワーカー 21世紀のベンチャー型人材(南部靖之、実業之日本社、1984年)
    • [18]第一号の人材派遣は阪急百貨店で事務処理の仕事に4人を派遣した

労働者派遣法が成立するまで、この事業に派遣という法的な枠はなかった。職業安定法が労働力の供給事業を原則として禁じていたため、テンポラリーセンターは企業からの業務委託という形で契約を結んでいる。発注先へ出向く際も、部屋から鉛筆に至るまで賃貸契約を交わす請負の形式を労働省から求められた。スタッフの社会保険や雇用保険を申し立ててもパートタイム扱いしか認められない。創業直後はどこの会社を訪ねても相手にされず、系列を持たない新興企業には信用がなかった。テンポラリーセンターが担ったのは、企業の要求と女性スペシャリストの要求を一致させる仲人の役回りである。能力・資格・経験を判定した人材データをプールし、企業の要望に合う人を選んで送り出す形を組み立てた。法の外側で商いを続けるには、送り出す人の質を自ら保証するほかなかった。

  • 経営コンサルタント 1983年10月号(経営政策研究所)
    • [19]派遣法成立前の契約形態は企業からの業務委託だった
    • [20]派遣法成立前の契約形態は企業からの業務委託だった
    • [24]女性の能力・資格・経験を判定して人材データをプールし、企業の要望に合う女性を業務委託の形で派遣した
    • [25]女性の能力・資格・経験を判定して人材データをプールし、企業の要望に合う女性を業務委託の形で派遣した
  • バンガード 1986年「ニュービジネスの旗手(4)〝人をコーディネート〟総合産業を生み出すベンチャー」
    • [21]労働省は請負形式を求め、発注先の部屋から鉛筆まで賃貸契約を結ばせた
    • [22]法制化前はスタッフの社会保険・雇用保険が認められずパートタイム扱いだった
  • 近代企業リサーチ 1995年5月10日号「創業者の軌跡7 世界の人材派遣企業『パソナ』を創設」
    • [23]創業直後はどこの会社を訪問しても相手にされず、ベンチャー企業ゆえに信用がなかった
参考文献[1]-[25]
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
    • [1]南部氏は大学1年の秋に千里山で大阪スタディ学院を開き、1年後に生徒数は200人近くになった
    • [3]学習塾で月謝を集める仕事を通じて主婦たちの就労希望を感じ取った
    • [6]テンポラリーセンターの設立は第1次石油ショック後の不況が日本を覆っていた時期にあたる
    • [11]親類からは人間の派遣を受け入れる会社がどこにあるかとまともに取り合ってもらえなかった
  • 近代企業リサーチ 1995年5月10日号「創業者の軌跡7 世界の人材派遣企業『パソナ』を創設」
    • [2]学習塾に通う生徒の母親たちは簿記や英会話の能力を持ちながら、1日4〜5時間・月2週間なら働きたいと望んでいた
    • [4]南部氏は卒業の1年前から就職活動を始め、数えて140社ほどを訪問した
    • [5]忙しいのは今だけだという企業の言葉に、忙しい時だけ働く人なら使ってくれるかと応じた会話から人材派遣業が発足した
    • [9]資本金の残りはアルバイトで貯めた預金と友人の援助で賄い、南森町の8坪の部屋は家賃を半年後からの出世払いとしてもらった
    • [10]会社設立の資金380万円のうち半分は化学会社役員だった父が出した
    • [12]資本金の残りはアルバイトで貯めた預金と友人の援助で賄い、南森町の8坪の部屋は家賃を半年後からの出世払いとしてもらった
    • [13]父を社長に据えたのは創業時の南部氏が若く企業や銀行に対する信用が足りなかったためである
    • [14]父を社長に据えたのは創業時の南部氏が若く企業や銀行に対する信用が足りなかったためである
    • [15]相手との交渉や労務は父に任せ、自身は営業部長として歩き回り、最初の人材派遣はお歳暮シーズンの阪急百貨店だった
    • [17]相手との交渉や労務は父に任せ、自身は営業部長として歩き回り、最初の人材派遣はお歳暮シーズンの阪急百貨店だった
    • [23]創業直後はどこの会社を訪問しても相手にされず、ベンチャー企業ゆえに信用がなかった
  • パソナグループ 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1976年2月に大阪市北区でテンポラリーセンターの前身となる組織が設立された
  • 月刊アドバタイジング 1996年6月号「冒険なきところに、我が人生なし」
    • [8]1976年に大阪でマンパワーセンターとして発足し、1979年にテンポラリーセンターへ社名変更した
  • 経営コンサルタント 1983年10月号(経営政策研究所)
    • [16]事務所の保証金を2年分割にしてもらい、百貨店へのタイピスト派遣が最初の顧客となった
    • [19]派遣法成立前の契約形態は企業からの業務委託だった
    • [20]派遣法成立前の契約形態は企業からの業務委託だった
    • [24]女性の能力・資格・経験を判定して人材データをプールし、企業の要望に合う女性を業務委託の形で派遣した
    • [25]女性の能力・資格・経験を判定して人材データをプールし、企業の要望に合う女性を業務委託の形で派遣した
  • フリーワーカー 21世紀のベンチャー型人材(南部靖之、実業之日本社、1984年)
    • [18]第一号の人材派遣は阪急百貨店で事務処理の仕事に4人を派遣した
  • バンガード 1986年「ニュービジネスの旗手(4)〝人をコーディネート〟総合産業を生み出すベンチャー」
    • [21]労働省は請負形式を求め、発注先の部屋から鉛筆まで賃貸契約を結ばせた
    • [22]法制化前はスタッフの社会保険・雇用保険が認められずパートタイム扱いだった

1978年〜東京進出と教育投資で構築した登録スタッフの供給力

創業から2年後、南部氏は東京進出を決めた。まだ大阪も固まっていないうえ東京のことを何も知らないと周囲は猛反対したが、日本の総人口の1割が住み、世界を相手にする大企業が集中する市場は人材派遣にとって魅力的だった。事務所を八丁堀に求めた理由は、テレビで見た銭形平次が八丁堀に住んでいた、それだけである。12坪の事務所を契約し、軽トラックに中古の机と事務用具を積んで上京したとき、南部氏は24歳だった。地理がわからず訪問先を探すのに手間取り、相談する相手もいない。やがて内幸町の日本プレスセンタービルへ移り、この住所が長く本社となる。石油ショックを抜けた景気の回復とともに、人材派遣への引き合いは増えていった。

  • 近代企業リサーチ 1995年5月10日号「創業者の軌跡7 世界の人材派遣企業『パソナ』を創設」
    • [26]創業2年後に東京進出を決めたが、まず大阪を固めるべきで東京を知らないとして周囲から猛反対された
    • [27]創業2年後に東京進出を決めたが、まず大阪を固めるべきで東京を知らないとして周囲から猛反対された
    • [28]日本の総人口の1割が住み世界的な大企業が集中する東京は人材派遣にとって魅力的な市場だった
    • [29]八丁堀に事務所を探したのはテレビで見た銭形親分が八丁堀に住んでいたからだった
    • [30]八丁堀に12坪の事務所を契約し、軽トラックに中古の机や事務用具を積んで24歳で上京した
    • [31]東京では地理がわからず訪問する会社を探すのに苦労し、相談する相手もいなかった
    • [32]その後、内幸町のプレスセンタービルへ事務所を移した
    • [34]オイルショックから脱した日本が高度経済成長期に入り、人材派遣業は引っ張りだこになった
  • 月刊貿易と産業 1989年10月号「台頭するヤングパワー 国際的なビジネス展開をめざす 人材派遣業 テンポラリーセンター 南部靖之専務」
    • [33]1989年時点の本社所在地は千代田区内幸町の日本プレスセンタービルだった

1979年、商号はマンパワーセンターからテンポラリーセンターへ改まった。教育はテンポラリーカレッジが担い、派遣前に1週間の事前研修を課したうえで、成績のふるわない登録者には次の仕事を回さない運用を取った。職能開発の中身は、アナウンサーが指導する話し方教室、各種の機器を備えたトレーニングルーム、財務のセミナーである。ワープロ教育講座は受講料を取り、その受講者から優秀な人材を選ぶ難関として設計された。就職を希望する大卒女子には、アビリティーガイダンスプラザの名で実戦教育を施している。もうけの出ないボランティアだが、大卒女子の能力を疎外するのは社会的にもマイナスだ——南部氏は教育への支出をそう説明した。

  • 月刊アドバタイジング 1996年6月号「冒険なきところに、我が人生なし」
    • [35]1976年に大阪でマンパワーセンターとして発足し、1979年にテンポラリーセンターへ社名変更した
  • バンガード 1986年「ニュービジネスの旗手(4)〝人をコーディネート〟総合産業を生み出すベンチャー」
    • [36]テンポラリーカレッジで派遣前に1週間の事前教育を行い、うまくやらないと次の仕事を与えない運用をした
  • 経営コンサルタント 1983年10月号(経営政策研究所)
    • [37]職能開発教育としてアナウンサー指導の話し方教室、各種機器を備えたトレーニングルーム、財務セミナーを設け、ワープロ教育講座は受講料を取って優秀な受講者を選抜した
    • [38]職能開発教育としてアナウンサー指導の話し方教室、各種機器を備えたトレーニングルーム、財務セミナーを設け、ワープロ教育講座は受講料を取って優秀な受講者を選抜した
    • [39]就職希望の大卒女子にアビリティーガイダンスプラザの名で実戦教育を行い、もうけの出ないボランティアだが大卒女子の能力を疎外するのは社会的にマイナスだと説明した
    • [40]就職希望の大卒女子にアビリティーガイダンスプラザの名で実戦教育を行い、もうけの出ないボランティアだが大卒女子の能力を疎外するのは社会的にマイナスだと説明した

企業の間で基本的な文書の打ち込みを外に任せたいという声が強まり、ワープロ導入の流行に合わせる形で1982年9月にワードプロセッサー部門が設けられた。事務所を広げる代わりに、在宅で請け負う仕組みを組んだのである。登録者の家にはワープロのほか、原稿を受けるファクシミリと、打ち上げた文書を電話回線に乗せて送るカプラーが置かれた。機器は無償で貸し出され、料金は1枚600円が基本で、研修料2万8000円を払えば経験のない人も登録でき、毎月100枚の仕事が約束された。南部氏はこれを、幼い子供がいて外で働けない主婦のための、内職の域を超えた本式の在宅勤務の先駆けと見ていた。1983年には約1万6000人の女性が登録し、そのうち5400人から5500人が常に企業へ派遣されていた。未婚者も含めた登録スタッフは、1986年に約3万人を数えた。機械と研修を用意することで、働きたいという思いを実際の仕事に結びつけた数年であった。

  • 経営コンサルタント 1983年10月号(経営政策研究所)
    • [41]1982年9月にワードプロセッサー部門を開設し、基本文書の入力を外注したいという企業の要望に応えて在宅システムを考え出した。器材は無料貸与、1枚の基本料金600円、研修料2万8000円、仕事は毎月100枚を保証した
    • [42]1982年9月にワードプロセッサー部門を開設し、基本文書の入力を外注したいという企業の要望に応えて在宅システムを考え出した。器材は無料貸与、1枚の基本料金600円、研修料2万8000円、仕事は毎月100枚を保証した
    • [43]自宅にワープロと原稿を受け取るファクシミリ、文書を電話線で送るカプラーを取り付ける本格的な在宅勤務のはしりで、子供が小さく外に出られない主婦に向いた仕事だった
    • [44]1982年9月にワードプロセッサー部門を開設し、基本文書の入力を外注したいという企業の要望に応えて在宅システムを考え出した。器材は無料貸与、1枚の基本料金600円、研修料2万8000円、仕事は毎月100枚を保証した
    • [45]自宅にワープロと原稿を受け取るファクシミリ、文書を電話線で送るカプラーを取り付ける本格的な在宅勤務のはしりで、子供が小さく外に出られない主婦に向いた仕事だった
    • [46]1982年9月にワードプロセッサー部門を開設し、基本文書の入力を外注したいという企業の要望に応えて在宅システムを考え出した。器材は無料貸与、1枚の基本料金600円、研修料2万8000円、仕事は毎月100枚を保証した
  • バンガード 1986年「ニュービジネスの旗手(4)〝人をコーディネート〟総合産業を生み出すベンチャー」
    • [47]1986年時点で登録スタッフは未婚を含めて約3万人だった
参考文献[26]-[47]
  • 近代企業リサーチ 1995年5月10日号「創業者の軌跡7 世界の人材派遣企業『パソナ』を創設」
    • [26]創業2年後に東京進出を決めたが、まず大阪を固めるべきで東京を知らないとして周囲から猛反対された
    • [27]創業2年後に東京進出を決めたが、まず大阪を固めるべきで東京を知らないとして周囲から猛反対された
    • [28]日本の総人口の1割が住み世界的な大企業が集中する東京は人材派遣にとって魅力的な市場だった
    • [29]八丁堀に事務所を探したのはテレビで見た銭形親分が八丁堀に住んでいたからだった
    • [30]八丁堀に12坪の事務所を契約し、軽トラックに中古の机や事務用具を積んで24歳で上京した
    • [31]東京では地理がわからず訪問する会社を探すのに苦労し、相談する相手もいなかった
    • [32]その後、内幸町のプレスセンタービルへ事務所を移した
    • [34]オイルショックから脱した日本が高度経済成長期に入り、人材派遣業は引っ張りだこになった
  • 月刊貿易と産業 1989年10月号「台頭するヤングパワー 国際的なビジネス展開をめざす 人材派遣業 テンポラリーセンター 南部靖之専務」
    • [33]1989年時点の本社所在地は千代田区内幸町の日本プレスセンタービルだった
  • 月刊アドバタイジング 1996年6月号「冒険なきところに、我が人生なし」
    • [35]1976年に大阪でマンパワーセンターとして発足し、1979年にテンポラリーセンターへ社名変更した
  • バンガード 1986年「ニュービジネスの旗手(4)〝人をコーディネート〟総合産業を生み出すベンチャー」
    • [36]テンポラリーカレッジで派遣前に1週間の事前教育を行い、うまくやらないと次の仕事を与えない運用をした
    • [47]1986年時点で登録スタッフは未婚を含めて約3万人だった
  • 経営コンサルタント 1983年10月号(経営政策研究所)
    • [37]職能開発教育としてアナウンサー指導の話し方教室、各種機器を備えたトレーニングルーム、財務セミナーを設け、ワープロ教育講座は受講料を取って優秀な受講者を選抜した
    • [38]職能開発教育としてアナウンサー指導の話し方教室、各種機器を備えたトレーニングルーム、財務セミナーを設け、ワープロ教育講座は受講料を取って優秀な受講者を選抜した
    • [39]就職希望の大卒女子にアビリティーガイダンスプラザの名で実戦教育を行い、もうけの出ないボランティアだが大卒女子の能力を疎外するのは社会的にマイナスだと説明した
    • [40]就職希望の大卒女子にアビリティーガイダンスプラザの名で実戦教育を行い、もうけの出ないボランティアだが大卒女子の能力を疎外するのは社会的にマイナスだと説明した
    • [41]1982年9月にワードプロセッサー部門を開設し、基本文書の入力を外注したいという企業の要望に応えて在宅システムを考え出した。器材は無料貸与、1枚の基本料金600円、研修料2万8000円、仕事は毎月100枚を保証した
    • [42]1982年9月にワードプロセッサー部門を開設し、基本文書の入力を外注したいという企業の要望に応えて在宅システムを考え出した。器材は無料貸与、1枚の基本料金600円、研修料2万8000円、仕事は毎月100枚を保証した
    • [43]自宅にワープロと原稿を受け取るファクシミリ、文書を電話線で送るカプラーを取り付ける本格的な在宅勤務のはしりで、子供が小さく外に出られない主婦に向いた仕事だった
    • [44]1982年9月にワードプロセッサー部門を開設し、基本文書の入力を外注したいという企業の要望に応えて在宅システムを考え出した。器材は無料貸与、1枚の基本料金600円、研修料2万8000円、仕事は毎月100枚を保証した
    • [45]自宅にワープロと原稿を受け取るファクシミリ、文書を電話線で送るカプラーを取り付ける本格的な在宅勤務のはしりで、子供が小さく外に出られない主婦に向いた仕事だった
    • [46]1982年9月にワードプロセッサー部門を開設し、基本文書の入力を外注したいという企業の要望に応えて在宅システムを考え出した。器材は無料貸与、1枚の基本料金600円、研修料2万8000円、仕事は毎月100枚を保証した

1985年〜労働者派遣法の施行がもたらした事業の正当化と四極体制

1985年7月に労働者派遣法が成立し、1986年7月に施行された。労働力の供給事業を禁じる職業安定法の下で業務委託の形を取ってきた事業に、ようやくはっきりと線が引かれたことを、南部氏は節目として歓迎した。法制化以前はスタッフの社会保険や雇用保険が認められずパートタイム扱いにとどまっていたが、施行はこの処遇にも根拠を与えた。規模はここから広がり、1986年には人材派遣単体の年商が180億円、子会社21社を含めた連結で約300億円に達している。一方で法は派遣できる業務を16種類に限り、OA機器操作で送り出した人材が別の仕事に就けば違反となる線を引いた。認知と制約は同じ法律から同時に来た。

  • バンガード 1986年「ニュービジネスの旗手(4)〝人をコーディネート〟総合産業を生み出すベンチャー」
    • [48]1986年7月の派遣法施行を南部氏ははっきり線がひかれたとして歓迎した
    • [49]1986年7月の派遣法施行を南部氏ははっきり線がひかれたとして歓迎した
    • [50]法制化前はスタッフの社会保険・雇用保険が認められずパートタイム扱いだった
    • [51]法制化前はスタッフの社会保険・雇用保険が認められずパートタイム扱いだった
    • [52]1986年時点で派遣単体の年商180億円、子会社21社を含む連結約300億円だった
  • 実業往来 1994年4月号
    • [53]労働者派遣法は派遣業種を16種類に限定し、OA機器操作で派遣された人材が他の仕事をすると厳密には違反となった

1983年、西ドイツの日系企業へ秘書を派遣したのが海外展開の始まりだった。日本女性の勤勉さを高く評価する企業があるとして、南部氏は国際人のマナーを身につけさせたうえで同年10月ごろから12人を送り出す計画を進めていた。派遣先は香港、シンガポール、スイスへ広がり、1989年までに現地法人を設立した国は16カ国に達する。1988年10月1日、南部氏自身が妻と2人の子を連れて米コネチカット州グリニッジへ移り住んだ。日本が国際化したといっても現地の人と同じ生活をしなければ文化の隔たりは埋まらない、というのが理由である。テンポラリーセンターは東京・ニューヨーク・シンガポール・デュッセルドルフを結ぶ四極体制を掲げ、香港ではジャパンタイムズと合弁で日本語新聞を発行した。

  • バンガード 1986年「ニュービジネスの旗手(4)〝人をコーディネート〟総合産業を生み出すベンチャー」
    • [54]西ドイツの日系企業への秘書派遣が香港・シンガポール・スイスへの海外展開につながった
    • [56]西ドイツの日系企業への秘書派遣が香港・シンガポール・スイスへの海外展開につながった
  • 経営コンサルタント 1983年10月号(経営政策研究所)
    • [55]1983年、日本女性の勤勉さを評価する西独企業へ、国際人のマナーを身につけさせたうえで10月ごろから12名の秘書を送り出す計画を進めていた
  • 月刊貿易と産業 1989年10月号「台頭するヤングパワー 国際的なビジネス展開をめざす 人材派遣業 テンポラリーセンター 南部靖之専務」
    • [57]1988年10月1日に南部氏が家族とともにコネチカット州グリニッジへ移住し、現地法人を設立した国は16カ国、東京・ニューヨーク・シンガポール・デュッセルドルフの四極体制を掲げ、香港ではジャパンタイムズと合弁で日本語新聞を発行した
    • [58]1988年10月1日に南部氏が家族とともにコネチカット州グリニッジへ移住し、現地法人を設立した国は16カ国、東京・ニューヨーク・シンガポール・デュッセルドルフの四極体制を掲げ、香港ではジャパンタイムズと合弁で日本語新聞を発行した
    • [59]1988年10月1日に南部氏が家族とともにコネチカット州グリニッジへ移住し、現地法人を設立した国は16カ国、東京・ニューヨーク・シンガポール・デュッセルドルフの四極体制を掲げ、香港ではジャパンタイムズと合弁で日本語新聞を発行した
    • [60]1988年10月1日に南部氏が家族とともにコネチカット州グリニッジへ移住し、現地法人を設立した国は16カ国、東京・ニューヨーク・シンガポール・デュッセルドルフの四極体制を掲げ、香港ではジャパンタイムズと合弁で日本語新聞を発行した

登録スタッフの9割を女性が占め、新しく作った子会社でも社長に女性を充てる例が多かった。南部氏の見立てでは、サービス業は一つの業態で一つのサービスを売る労働集約型の産業にとどまっていた。製造業が新しい製品を生み出して成長してきたのと同じく、サービス業にも新たな業態の開発が要るとして、南部氏はこれを創職と名づけた。彫刻を貸し出すテンポラリー・アートナウ、シンガポール産の蘭を輸入するオーティック・ジャパン、絹製品を企画して売るケイ・シルクは、この考えを形にしたものである。1989年の時点でテンポラリーセンターは1万数千社と取引し、登録スタッフは約5万人、人材派遣事業の年商は340億円に達し、グループ全体では売上高560億円、関連会社は30社超を数えた。定年後の中高年へ経理・貿易・通訳の職を用意する試みは1983年から始めていたが、この時点では採算に届いていなかった。派遣で集めた人と取引先を次の事業の元手に回す構えは、ここで形になった。

  • 月刊貿易と産業 1989年10月号「台頭するヤングパワー 国際的なビジネス展開をめざす 人材派遣業 テンポラリーセンター 南部靖之専務」
    • [61]1989年時点でクライアント1万数千社、スタッフ約5万人、年商340億円、関連会社30社以上で、登録スタッフの9割が女性、新設子会社の社長もほとんどが女性だった。南部氏はサービス業も新しい業態を開発すべきだとして創職を掲げた
    • [62]1989年時点でクライアント1万数千社、スタッフ約5万人、年商340億円、関連会社30社以上で、登録スタッフの9割が女性、新設子会社の社長もほとんどが女性だった。南部氏はサービス業も新しい業態を開発すべきだとして創職を掲げた
    • [63]1989年時点でクライアント1万数千社、スタッフ約5万人、年商340億円、関連会社30社以上で、登録スタッフの9割が女性、新設子会社の社長もほとんどが女性だった。南部氏はサービス業も新しい業態を開発すべきだとして創職を掲げた
    • [64]1989年時点でクライアント1万数千社、スタッフ約5万人、年商340億円、関連会社30社以上で、登録スタッフの9割が女性、新設子会社の社長もほとんどが女性だった。南部氏はサービス業も新しい業態を開発すべきだとして創職を掲げた
    • [65]1989年の会社概要では資本金2億円、グループ売上高560億円、従業員1000人だった
  • 経営コンサルタント 1983年10月号(経営政策研究所)
    • [66]中高年能力開発研究機構で経理・貿易・通訳業務などの要員を派遣していたが、まだ採算が合うところまでいっていなかった
参考文献[48]-[66]
  • バンガード 1986年「ニュービジネスの旗手(4)〝人をコーディネート〟総合産業を生み出すベンチャー」
    • [48]1986年7月の派遣法施行を南部氏ははっきり線がひかれたとして歓迎した
    • [49]1986年7月の派遣法施行を南部氏ははっきり線がひかれたとして歓迎した
    • [50]法制化前はスタッフの社会保険・雇用保険が認められずパートタイム扱いだった
    • [51]法制化前はスタッフの社会保険・雇用保険が認められずパートタイム扱いだった
    • [52]1986年時点で派遣単体の年商180億円、子会社21社を含む連結約300億円だった
    • [54]西ドイツの日系企業への秘書派遣が香港・シンガポール・スイスへの海外展開につながった
    • [56]西ドイツの日系企業への秘書派遣が香港・シンガポール・スイスへの海外展開につながった
  • 実業往来 1994年4月号
    • [53]労働者派遣法は派遣業種を16種類に限定し、OA機器操作で派遣された人材が他の仕事をすると厳密には違反となった
  • 経営コンサルタント 1983年10月号(経営政策研究所)
    • [55]1983年、日本女性の勤勉さを評価する西独企業へ、国際人のマナーを身につけさせたうえで10月ごろから12名の秘書を送り出す計画を進めていた
    • [66]中高年能力開発研究機構で経理・貿易・通訳業務などの要員を派遣していたが、まだ採算が合うところまでいっていなかった
  • 月刊貿易と産業 1989年10月号「台頭するヤングパワー 国際的なビジネス展開をめざす 人材派遣業 テンポラリーセンター 南部靖之専務」
    • [57]1988年10月1日に南部氏が家族とともにコネチカット州グリニッジへ移住し、現地法人を設立した国は16カ国、東京・ニューヨーク・シンガポール・デュッセルドルフの四極体制を掲げ、香港ではジャパンタイムズと合弁で日本語新聞を発行した
    • [58]1988年10月1日に南部氏が家族とともにコネチカット州グリニッジへ移住し、現地法人を設立した国は16カ国、東京・ニューヨーク・シンガポール・デュッセルドルフの四極体制を掲げ、香港ではジャパンタイムズと合弁で日本語新聞を発行した
    • [59]1988年10月1日に南部氏が家族とともにコネチカット州グリニッジへ移住し、現地法人を設立した国は16カ国、東京・ニューヨーク・シンガポール・デュッセルドルフの四極体制を掲げ、香港ではジャパンタイムズと合弁で日本語新聞を発行した
    • [60]1988年10月1日に南部氏が家族とともにコネチカット州グリニッジへ移住し、現地法人を設立した国は16カ国、東京・ニューヨーク・シンガポール・デュッセルドルフの四極体制を掲げ、香港ではジャパンタイムズと合弁で日本語新聞を発行した
    • [61]1989年時点でクライアント1万数千社、スタッフ約5万人、年商340億円、関連会社30社以上で、登録スタッフの9割が女性、新設子会社の社長もほとんどが女性だった。南部氏はサービス業も新しい業態を開発すべきだとして創職を掲げた
    • [62]1989年時点でクライアント1万数千社、スタッフ約5万人、年商340億円、関連会社30社以上で、登録スタッフの9割が女性、新設子会社の社長もほとんどが女性だった。南部氏はサービス業も新しい業態を開発すべきだとして創職を掲げた
    • [63]1989年時点でクライアント1万数千社、スタッフ約5万人、年商340億円、関連会社30社以上で、登録スタッフの9割が女性、新設子会社の社長もほとんどが女性だった。南部氏はサービス業も新しい業態を開発すべきだとして創職を掲げた
    • [64]1989年時点でクライアント1万数千社、スタッフ約5万人、年商340億円、関連会社30社以上で、登録スタッフの9割が女性、新設子会社の社長もほとんどが女性だった。南部氏はサービス業も新しい業態を開発すべきだとして創職を掲げた
    • [65]1989年の会社概要では資本金2億円、グループ売上高560億円、従業員1000人だった

1976年〜1989年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1976年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1977年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1978年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1979年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1980年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1981年05月期 単体 31 n/a n/a n/a n/a
1982年05月期 単体 43 +40.2% n/a n/a n/a
1983年05月期 単体 60 +38.1% n/a n/a n/a
1984年05月期 単体 81 +34.6% n/a n/a n/a
1985年05月期 単体 120 +48.1% n/a n/a n/a
1986年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1987年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1988年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1989年05月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a

出所:日経ビジネス1985/10/28、申告所得5.8千万円、申告所得6.7千万円、申告所得8.2千万円、申告所得12.1千万円、申告所得15.96千万円

出典・参考

9件
出典・参考
  • パソナグループ 有価証券報告書【沿革】
  • 経営コンサルタント 1983年10月号(経営政策研究所)
  • 月刊貿易と産業 1989年10月号「台頭するヤングパワー 国際的なビジネス展開をめざす 人材派遣業 テンポラリーセンター 南部靖之専務」
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号
  • 実業往来 1994年4月号
  • 月刊アドバタイジング 1996年6月号「冒険なきところに、我が人生なし」
  • フリーワーカー 21世紀のベンチャー型人材(南部靖之、実業之日本社、1984年)
  • バンガード 1986年「ニュービジネスの旗手(4)〝人をコーディネート〟総合産業を生み出すベンチャー」
  • 近代企業リサーチ 1995年5月10日号「創業者の軌跡7 世界の人材派遣企業『パソナ』を創設」

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