第1章 年〜年

朝日工業社:朝日工業社の設立と株式会社への改組

1925年〜東洋紡績の技師が出資金4万円で興した温湿度調整の合資会社と、丸ビルの東京出張所

1925年4月3日、創業者の高須茂氏は大阪市北区の中之島ビルに合資会社朝日工業社を設立した。出資金は4万円で、内訳は無限責任社員の高須茂氏が3万円、有限責任社員の大野広宗氏が1万円。高須茂氏は1914年に東洋紡績へ入社して原動課長を務め、在職11年の間に紡績工程の空気と温湿度の調整装置を研究した。設立にあたっては、東洋紡績時代に考案した精紡室の温湿度調整や梳綿機の除塵装置を事業の土台に据えた。創業直後は東洋紡績の各工場から温湿度調整・噴霧給湿・真空除塵の工事を特命で受注した。三大紡績の1社である東洋紡績での施工実績が、他の紡績会社からの信用を生んだ。勤め先で培った技術を、勤め先を最初の顧客として事業化したのが創業の出発点だったとみられる。

  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」1.合資会社朝日工業社の誕生・2.創業者素描
    • [1]高須茂は1914年東洋紡績入社・原動課長、在職11年で温湿度調整装置を研究。1925年4月3日に出資金4万円(茂3万円・大野広宗1万円)で合資会社朝日工業社を大阪市北区中之島ビルに設立
    • [2]高須茂は1914年東洋紡績入社・原動課長、在職11年で温湿度調整装置を研究。1925年4月3日に出資金4万円(茂3万円・大野広宗1万円)で合資会社朝日工業社を大阪市北区中之島ビルに設立
    • [3]高須茂は1914年東洋紡績入社・原動課長、在職11年で温湿度調整装置を研究。1925年4月3日に出資金4万円(茂3万円・大野広宗1万円)で合資会社朝日工業社を大阪市北区中之島ビルに設立
  • 証券 23(4)(265) 1971年
    • [4]前身は1925年4月3日に出資金40千円で設立。高須茂は東洋紡績技師時代の温湿度調整・除塵装置などの考案を基に会社を設立
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第2編営業編 第1章「草創期」
    • [5]創業期は東洋紡績各工場の温湿度調整・噴霧給湿・梳綿機真空除塵の工事を特命受注し、東洋紡績での実績が他の紡績会社への信用につながった
    • [6]創業期は東洋紡績各工場の温湿度調整・噴霧給湿・梳綿機真空除塵の工事を特命受注し、東洋紡績での実績が他の紡績会社への信用につながった

1927年、創業者の実弟の高須章氏が米国から帰国して入社し、大野広宗氏は持分1万円を高須茂氏と高須章氏に譲渡して退社した。以後、朝日工業社は1940年の株式会社化まで兄弟2人が出資する会社となった。高須章氏は滞米中に米フルトン社の自動温度調整弁と減圧弁の日本総代理店の権利を取得しており、その業務は創業時に朝日工業社の名義へ移された。送風機やポンプは当初、東洋紡績に出入りする岡田鉄工所に製造を委託した。1928年には大阪市西区西九條に工場を借りて自社製造に切り替え、約30名の工員を置いた。業容の拡大で運転資金が増えたため、1928年から1937年に7回の割当増資を重ねた。出資金は創業時の4万円から1940年に30万円へ増え、兄弟は利益配当の全額を増資の引受けに充当した。

  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」1.合資会社朝日工業社の誕生・6.出資金の推移と本社の移転
    • [7]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
    • [8]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
    • [9]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
    • [10]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
    • [11]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
    • [12]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
    • [13]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
  • 証券 23(4)(265) 1971年
    • [14]前身の合資会社朝日工業社は1925年に出資金40千円で設立

1928年初め、創業者の高須茂氏は丸ビルにあった友人の佐藤耕夫氏の特許事務所に机を置き、東京出張所の看板を掲げた。官庁と主要企業の本社が集まる東京を、業種を問わず大きな市場とみていたためである。同年10月には京橋区木挽町に出張所を開設し、内務省・逓信省・文部省の工事入札にも参加。1931年ごろまでは受注に至らず、1932年から1933年にかけて国会議事堂と東京高等商船学校の暖房工事を受注した。1934年7月に東京出張所を支店に昇格させ、官公庁の暖房・衛生工事の受注を広げた。ただし東京と大阪はほぼ独立して運営され、大阪本社が両店を全社の立場で統合する体制は無かった。この東西の分立は、後の本社移転につながる課題として残ったと思われる。

  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」11.東京進出
    • [15]高須茂は東京を大市場とみて1928年初頭に丸ビル内の佐藤耕夫の特許事務所に東京出張所を置く。営業対象は内務省・逓信省・文部省など官公庁。東京と大阪はほぼ独立運営で大阪本社による総合運営は無かった
    • [16]高須茂は東京を大市場とみて1928年初頭に丸ビル内の佐藤耕夫の特許事務所に東京出張所を置く。営業対象は内務省・逓信省・文部省など官公庁。東京と大阪はほぼ独立運営で大阪本社による総合運営は無かった
    • [20]高須茂は東京を大市場とみて1928年初頭に丸ビル内の佐藤耕夫の特許事務所に東京出張所を置く。営業対象は内務省・逓信省・文部省など官公庁。東京と大阪はほぼ独立運営で大阪本社による総合運営は無かった
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第2編営業編 第1章「草創期」2.東京出張所を東京支店に昇格
    • [17]1928年初めに丸ビル内に連絡所、同年10月京橋区木挽町に東京出張所開設。1931年頃まで進展なく、1932-33年頃に国会議事堂・東京高等商船学校の暖房工事を受注し、1934年7月支店に昇格
    • [18]1928年初めに丸ビル内に連絡所、同年10月京橋区木挽町に東京出張所開設。1931年頃まで進展なく、1932-33年頃に国会議事堂・東京高等商船学校の暖房工事を受注し、1934年7月支店に昇格
  • 証券 23(4)(265) 1971年
    • [19]1928年に東京丸ビル内に出張所を設け官公庁の暖房・衛生工事を受注、1934年に東京出張所を支店に昇格
参考文献[1]-[20]
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」1.合資会社朝日工業社の誕生・2.創業者素描
    • [1]高須茂は1914年東洋紡績入社・原動課長、在職11年で温湿度調整装置を研究。1925年4月3日に出資金4万円(茂3万円・大野広宗1万円)で合資会社朝日工業社を大阪市北区中之島ビルに設立
    • [2]高須茂は1914年東洋紡績入社・原動課長、在職11年で温湿度調整装置を研究。1925年4月3日に出資金4万円(茂3万円・大野広宗1万円)で合資会社朝日工業社を大阪市北区中之島ビルに設立
    • [3]高須茂は1914年東洋紡績入社・原動課長、在職11年で温湿度調整装置を研究。1925年4月3日に出資金4万円(茂3万円・大野広宗1万円)で合資会社朝日工業社を大阪市北区中之島ビルに設立
  • 証券 23(4)(265) 1971年
    • [4]前身は1925年4月3日に出資金40千円で設立。高須茂は東洋紡績技師時代の温湿度調整・除塵装置などの考案を基に会社を設立
    • [14]前身の合資会社朝日工業社は1925年に出資金40千円で設立
    • [19]1928年に東京丸ビル内に出張所を設け官公庁の暖房・衛生工事を受注、1934年に東京出張所を支店に昇格
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第2編営業編 第1章「草創期」
    • [5]創業期は東洋紡績各工場の温湿度調整・噴霧給湿・梳綿機真空除塵の工事を特命受注し、東洋紡績での実績が他の紡績会社への信用につながった
    • [6]創業期は東洋紡績各工場の温湿度調整・噴霧給湿・梳綿機真空除塵の工事を特命受注し、東洋紡績での実績が他の紡績会社への信用につながった
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」1.合資会社朝日工業社の誕生・6.出資金の推移と本社の移転
    • [7]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
    • [8]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
    • [9]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
    • [10]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
    • [11]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
    • [12]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
    • [13]1927年高須章が帰国入社、大野広宗は持分を茂1万円中5千円・章5千円に譲渡し退社。フルトン社総代理権は章が滞米中に取得し創業時に社名義へ切替。1928年西九條に工場を借り自社製造。1928-1937年に7回増資し1940年出資金30万円(茂25万円・章5万円)、利益配当を全額増資に充当
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」11.東京進出
    • [15]高須茂は東京を大市場とみて1928年初頭に丸ビル内の佐藤耕夫の特許事務所に東京出張所を置く。営業対象は内務省・逓信省・文部省など官公庁。東京と大阪はほぼ独立運営で大阪本社による総合運営は無かった
    • [16]高須茂は東京を大市場とみて1928年初頭に丸ビル内の佐藤耕夫の特許事務所に東京出張所を置く。営業対象は内務省・逓信省・文部省など官公庁。東京と大阪はほぼ独立運営で大阪本社による総合運営は無かった
    • [20]高須茂は東京を大市場とみて1928年初頭に丸ビル内の佐藤耕夫の特許事務所に東京出張所を置く。営業対象は内務省・逓信省・文部省など官公庁。東京と大阪はほぼ独立運営で大阪本社による総合運営は無かった
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第2編営業編 第1章「草創期」2.東京出張所を東京支店に昇格
    • [17]1928年初めに丸ビル内に連絡所、同年10月京橋区木挽町に東京出張所開設。1931年頃まで進展なく、1932-33年頃に国会議事堂・東京高等商船学校の暖房工事を受注し、1934年7月支店に昇格
    • [18]1928年初めに丸ビル内に連絡所、同年10月京橋区木挽町に東京出張所開設。1931年頃まで進展なく、1932-33年頃に国会議事堂・東京高等商船学校の暖房工事を受注し、1934年7月支店に昇格

1938年〜興亜機械への大和田工場の現物出資と、資本金19万5千円の株式会社朝日工業社

1938年、朝日工業社は本社を大阪市西淀川区大和田町へ移し、隣接地の工場で機器の製造・製缶・組立てを始めた。日中戦争の長期化で軍需化が進むなか、社長の高須茂氏は東京瓦斯電機の栄国嘉七氏と興亜機械株式会社を設立した。興亜機械の目的は、フライス盤を主とする工作機械の製作である。朝日工業社は大和田工場を現物出資し、高須茂氏と栄国嘉七氏はともに専務取締役に就任。工場を切り離した朝日工業社は施工専業となり、主な顧客だった紡績工場の軍需転換を受けて事務所を中之島へ移した。数年のうちに、受注の中心は紡績工場から軍需工場へ移った。高須茂氏は1942年に興亜機械の持株をすべて売却し、朝日工業社の経営に専念した。工場を新会社へ出資したのは、紡績向けの機器需要が減るなかで工場の稼働先を軍需に求めたためと推察される。

  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」10.興亜機械株式会社事件と当社の変貌
    • [21]1938年本社を大和田町へ移し工場を建設。高須茂と栄国嘉七(東京瓦斯電機)が工作機械(主にフライス盤)の興亜機械を設立し、朝日工業社が大和田工場を現物出資、両名が専務取締役。朝日工業社は施工専業となり中之島へ移転。1942年に高須茂は持株を全て手放し朝日工業社に専念
    • [22]1938年本社を大和田町へ移し工場を建設。高須茂と栄国嘉七(東京瓦斯電機)が工作機械(主にフライス盤)の興亜機械を設立し、朝日工業社が大和田工場を現物出資、両名が専務取締役。朝日工業社は施工専業となり中之島へ移転。1942年に高須茂は持株を全て手放し朝日工業社に専念
    • [23]1938年本社を大和田町へ移し工場を建設。高須茂と栄国嘉七(東京瓦斯電機)が工作機械(主にフライス盤)の興亜機械を設立し、朝日工業社が大和田工場を現物出資、両名が専務取締役。朝日工業社は施工専業となり中之島へ移転。1942年に高須茂は持株を全て手放し朝日工業社に専念
    • [24]1938年本社を大和田町へ移し工場を建設。高須茂と栄国嘉七(東京瓦斯電機)が工作機械(主にフライス盤)の興亜機械を設立し、朝日工業社が大和田工場を現物出資、両名が専務取締役。朝日工業社は施工専業となり中之島へ移転。1942年に高須茂は持株を全て手放し朝日工業社に専念
    • [25]1938年本社を大和田町へ移し工場を建設。高須茂と栄国嘉七(東京瓦斯電機)が工作機械(主にフライス盤)の興亜機械を設立し、朝日工業社が大和田工場を現物出資、両名が専務取締役。朝日工業社は施工専業となり中之島へ移転。1942年に高須茂は持株を全て手放し朝日工業社に専念
    • [27]1938年本社を大和田町へ移し工場を建設。高須茂と栄国嘉七(東京瓦斯電機)が工作機械(主にフライス盤)の興亜機械を設立し、朝日工業社が大和田工場を現物出資、両名が専務取締役。朝日工業社は施工専業となり中之島へ移転。1942年に高須茂は持株を全て手放し朝日工業社に専念
  • 証券 23(4)(265) 1971年
    • [26]1934年の支店昇格後数年で、繊維工場からの受注は軍需工場からの受注に転換した

1940年8月8日、朝日工業社は合資会社から株式会社へ改組し、資本金19万5千円の株式会社朝日工業社として発足した。当時の陣容は、大阪本社と東京支店に守口工場を加えた総勢約100名である。改組を迫った理由は2つあり、経理面では自己資本の充実と外部資金の導入、営業面では軍と軍需会社からの受注の確保が求められた。資本金を19万5千円としたのは、臨時資金調整法が新設会社の資本金の上限をこの額に置いていたためである。1943年6月23日には有償の縁故割当てで増資し、資本金は40万円になった。合資会社のままでは兄弟の出資と配当の再投資に資金が限られ、軍需の大口工事を引き受ける信用も得にくかったのだろう。

  • 証券 23(4)(265) 1971年
    • [28]1940年8月8日に合資会社より株式会社に改組、資本金195千円。1943年6月23日有償縁故割当てで資本金400千円
    • [32]1940年8月8日に合資会社より株式会社に改組、資本金195千円。1943年6月23日有償縁故割当てで資本金400千円
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」12.株式会社への移行
    • [29]東西両店と守口工場で総勢約100名。自己資本充実・外部資金導入(経理面)と軍・軍需産業からの受注確保(営業面)のため株式会社へ移行。1940年8月8日資本金19万5千円で発足、19万5千円は臨時資金調整法の新設会社資本金上限。1943年に縁故割当増資で40万円
    • [30]東西両店と守口工場で総勢約100名。自己資本充実・外部資金導入(経理面)と軍・軍需産業からの受注確保(営業面)のため株式会社へ移行。1940年8月8日資本金19万5千円で発足、19万5千円は臨時資金調整法の新設会社資本金上限。1943年に縁故割当増資で40万円
    • [31]東西両店と守口工場で総勢約100名。自己資本充実・外部資金導入(経理面)と軍・軍需産業からの受注確保(営業面)のため株式会社へ移行。1940年8月8日資本金19万5千円で発足、19万5千円は臨時資金調整法の新設会社資本金上限。1943年に縁故割当増資で40万円

戦時体制に入ると、東洋紡績など紡績各社からの工事は大きく減り、施工先は軍需工場に変わった。1941年の開戦後、朝日工業社は営業の主力を陸海軍の工廠と軍需工場に置いた。陸軍小倉工廠と海軍呉工廠から受注の大半を得たほか、和歌山県下津の丸善石油の石油基地建設や丸善石油松山製油所の配管工事を施工した。京都府大久保に航空機の新工場を建てた日本国際航空工業からの受注は、暖房工事を含む設備工事の一切に及ぶ。一方で総勢80名の社員の半数以上が応召し、資材の調達も難しくなった。1945年3月10日の空襲で東京支店が、3月14日の空襲で大阪本社が焼失した。紡績の精緻な温湿度調整から軍需施設の暖房と配管へ、施工の中身そのものが入れ替わった。

  • 証券 23(4)(265) 1971年
    • [33]戦時体制下で東洋紡績をはじめ繊維工場からの受注は激減し、受注先は民間工場から軍需工場へ移った
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第2節「混沌期」
    • [34]開戦後は平和産業が影をひそめ、営業主力を陸海軍工廠・軍需工場へ。小倉工廠・呉工廠、丸善石油下津・松山製油所の配管、日本国際航空工業の京都府大久保新工場の設備工事一切を受注。社員80名の半数以上が応召。1945年3月10日東京支店、3月14日大阪本社が空襲で焼失
    • [35]開戦後は平和産業が影をひそめ、営業主力を陸海軍工廠・軍需工場へ。小倉工廠・呉工廠、丸善石油下津・松山製油所の配管、日本国際航空工業の京都府大久保新工場の設備工事一切を受注。社員80名の半数以上が応召。1945年3月10日東京支店、3月14日大阪本社が空襲で焼失
    • [36]開戦後は平和産業が影をひそめ、営業主力を陸海軍工廠・軍需工場へ。小倉工廠・呉工廠、丸善石油下津・松山製油所の配管、日本国際航空工業の京都府大久保新工場の設備工事一切を受注。社員80名の半数以上が応召。1945年3月10日東京支店、3月14日大阪本社が空襲で焼失
    • [37]開戦後は平和産業が影をひそめ、営業主力を陸海軍工廠・軍需工場へ。小倉工廠・呉工廠、丸善石油下津・松山製油所の配管、日本国際航空工業の京都府大久保新工場の設備工事一切を受注。社員80名の半数以上が応召。1945年3月10日東京支店、3月14日大阪本社が空襲で焼失
    • [38]開戦後は平和産業が影をひそめ、営業主力を陸海軍工廠・軍需工場へ。小倉工廠・呉工廠、丸善石油下津・松山製油所の配管、日本国際航空工業の京都府大久保新工場の設備工事一切を受注。社員80名の半数以上が応召。1945年3月10日東京支店、3月14日大阪本社が空襲で焼失
参考文献[21]-[38]
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」10.興亜機械株式会社事件と当社の変貌
    • [21]1938年本社を大和田町へ移し工場を建設。高須茂と栄国嘉七(東京瓦斯電機)が工作機械(主にフライス盤)の興亜機械を設立し、朝日工業社が大和田工場を現物出資、両名が専務取締役。朝日工業社は施工専業となり中之島へ移転。1942年に高須茂は持株を全て手放し朝日工業社に専念
    • [22]1938年本社を大和田町へ移し工場を建設。高須茂と栄国嘉七(東京瓦斯電機)が工作機械(主にフライス盤)の興亜機械を設立し、朝日工業社が大和田工場を現物出資、両名が専務取締役。朝日工業社は施工専業となり中之島へ移転。1942年に高須茂は持株を全て手放し朝日工業社に専念
    • [23]1938年本社を大和田町へ移し工場を建設。高須茂と栄国嘉七(東京瓦斯電機)が工作機械(主にフライス盤)の興亜機械を設立し、朝日工業社が大和田工場を現物出資、両名が専務取締役。朝日工業社は施工専業となり中之島へ移転。1942年に高須茂は持株を全て手放し朝日工業社に専念
    • [24]1938年本社を大和田町へ移し工場を建設。高須茂と栄国嘉七(東京瓦斯電機)が工作機械(主にフライス盤)の興亜機械を設立し、朝日工業社が大和田工場を現物出資、両名が専務取締役。朝日工業社は施工専業となり中之島へ移転。1942年に高須茂は持株を全て手放し朝日工業社に専念
    • [25]1938年本社を大和田町へ移し工場を建設。高須茂と栄国嘉七(東京瓦斯電機)が工作機械(主にフライス盤)の興亜機械を設立し、朝日工業社が大和田工場を現物出資、両名が専務取締役。朝日工業社は施工専業となり中之島へ移転。1942年に高須茂は持株を全て手放し朝日工業社に専念
    • [27]1938年本社を大和田町へ移し工場を建設。高須茂と栄国嘉七(東京瓦斯電機)が工作機械(主にフライス盤)の興亜機械を設立し、朝日工業社が大和田工場を現物出資、両名が専務取締役。朝日工業社は施工専業となり中之島へ移転。1942年に高須茂は持株を全て手放し朝日工業社に専念
  • 証券 23(4)(265) 1971年
    • [26]1934年の支店昇格後数年で、繊維工場からの受注は軍需工場からの受注に転換した
    • [28]1940年8月8日に合資会社より株式会社に改組、資本金195千円。1943年6月23日有償縁故割当てで資本金400千円
    • [32]1940年8月8日に合資会社より株式会社に改組、資本金195千円。1943年6月23日有償縁故割当てで資本金400千円
    • [33]戦時体制下で東洋紡績をはじめ繊維工場からの受注は激減し、受注先は民間工場から軍需工場へ移った
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」12.株式会社への移行
    • [29]東西両店と守口工場で総勢約100名。自己資本充実・外部資金導入(経理面)と軍・軍需産業からの受注確保(営業面)のため株式会社へ移行。1940年8月8日資本金19万5千円で発足、19万5千円は臨時資金調整法の新設会社資本金上限。1943年に縁故割当増資で40万円
    • [30]東西両店と守口工場で総勢約100名。自己資本充実・外部資金導入(経理面)と軍・軍需産業からの受注確保(営業面)のため株式会社へ移行。1940年8月8日資本金19万5千円で発足、19万5千円は臨時資金調整法の新設会社資本金上限。1943年に縁故割当増資で40万円
    • [31]東西両店と守口工場で総勢約100名。自己資本充実・外部資金導入(経理面)と軍・軍需産業からの受注確保(営業面)のため株式会社へ移行。1940年8月8日資本金19万5千円で発足、19万5千円は臨時資金調整法の新設会社資本金上限。1943年に縁故割当増資で40万円
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第2節「混沌期」
    • [34]開戦後は平和産業が影をひそめ、営業主力を陸海軍工廠・軍需工場へ。小倉工廠・呉工廠、丸善石油下津・松山製油所の配管、日本国際航空工業の京都府大久保新工場の設備工事一切を受注。社員80名の半数以上が応召。1945年3月10日東京支店、3月14日大阪本社が空襲で焼失
    • [35]開戦後は平和産業が影をひそめ、営業主力を陸海軍工廠・軍需工場へ。小倉工廠・呉工廠、丸善石油下津・松山製油所の配管、日本国際航空工業の京都府大久保新工場の設備工事一切を受注。社員80名の半数以上が応召。1945年3月10日東京支店、3月14日大阪本社が空襲で焼失
    • [36]開戦後は平和産業が影をひそめ、営業主力を陸海軍工廠・軍需工場へ。小倉工廠・呉工廠、丸善石油下津・松山製油所の配管、日本国際航空工業の京都府大久保新工場の設備工事一切を受注。社員80名の半数以上が応召。1945年3月10日東京支店、3月14日大阪本社が空襲で焼失
    • [37]開戦後は平和産業が影をひそめ、営業主力を陸海軍工廠・軍需工場へ。小倉工廠・呉工廠、丸善石油下津・松山製油所の配管、日本国際航空工業の京都府大久保新工場の設備工事一切を受注。社員80名の半数以上が応召。1945年3月10日東京支店、3月14日大阪本社が空襲で焼失
    • [38]開戦後は平和産業が影をひそめ、営業主力を陸海軍工廠・軍需工場へ。小倉工廠・呉工廠、丸善石油下津・松山製油所の配管、日本国際航空工業の京都府大久保新工場の設備工事一切を受注。社員80名の半数以上が応召。1945年3月10日東京支店、3月14日大阪本社が空襲で焼失

1946年〜進駐軍工事と朝鮮特需で3.74倍に拡大した売上と、高須洪一郎氏への社長の禅譲

1945年10月半ばからは、終戦処理機関(後の特別調達庁)による進駐軍の接収建物の暖房設備工事の発注が相次いだ。朝日工業社はそれまで施主から直接受注する仕事がほとんどで、建設業者との取引を持たなかったため、当初は進駐軍工事の獲得に苦労した。打開の手立ては三菱商事大阪支店との提携であり、最初の着手先は神戸市内の焼け残った接収ビルの工事である。大阪本社は続いて鳥取・松江地区の工事を受注し、東京支店は神奈川県の武山海兵団跡の暖房工事を請け負った。武山海兵団跡の工事は請負金額が当時の1億円に達し、創業以来最大の工事にあたる。こうした進駐軍の設営工事で、朝日工業社は終戦直後の経営を立て直した。民需が途絶えた時期に、建設業者を経ない取引の経路を商社との提携で補った判断だった。

  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第2編営業編 第2章「再生期」
    • [39]1945年10月半ばより終戦処理機関から進駐軍接収建物の暖房設備の発注。本店は紡績中心で建設業者との取引がなく獲得に苦労、三菱商事大阪支店と組み神戸の接収ビル工事に着手。本店は神戸・鳥取・松江、東京支店は武山海兵団跡の暖房工事
    • [40]1945年10月半ばより終戦処理機関から進駐軍接収建物の暖房設備の発注。本店は紡績中心で建設業者との取引がなく獲得に苦労、三菱商事大阪支店と組み神戸の接収ビル工事に着手。本店は神戸・鳥取・松江、東京支店は武山海兵団跡の暖房工事
    • [41]1945年10月半ばより終戦処理機関から進駐軍接収建物の暖房設備の発注。本店は紡績中心で建設業者との取引がなく獲得に苦労、三菱商事大阪支店と組み神戸の接収ビル工事に着手。本店は神戸・鳥取・松江、東京支店は武山海兵団跡の暖房工事
    • [42]1945年10月半ばより終戦処理機関から進駐軍接収建物の暖房設備の発注。本店は紡績中心で建設業者との取引がなく獲得に苦労、三菱商事大阪支店と組み神戸の接収ビル工事に着手。本店は神戸・鳥取・松江、東京支店は武山海兵団跡の暖房工事
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第2章第1節「黎明前期」
    • [43]三菱商事大阪支店と提携し神戸の接収ビル工事に着手、次いで鳥取・松江。東京支店受注の武山海兵団跡暖房工事は請負金額1億円で創業以来の大工事
  • 証券 23(4)(265) 1971年
    • [44]終戦後は進駐軍接収建物の暖房その他の設営工事を受注して混乱期を乗り切った

1950年6月に朝鮮戦争が始まると、製造業の工場・倉庫の増設が相次ぎ、空気調和・温湿度調整・配管の受注が増加した。紡績各社も1948年ごろから工場の復元と増錘に着手し、1950年と1951年は紡績関係が全工事量の約50%を占めた。この時期の主な受注先は、大阪本社が紡績会社の工事、東京支店が官公庁の復旧・新築工事である。売上高は1951年11月期に268百万円、1952年11月期に444百万円、1954年11月期に845百万円となった。1955年度の売上高は1950年度の3.74倍で、社員数は1950年の81人から1955年に130人へ増えた。特需の終息を受け、1955年11月期の売上高は737百万円と前期比13%減少した。

  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第2章第2節「黎明後期」1)業績の急上昇と増資
    • [45]朝鮮戦争で製造業の工場・倉庫増設が受注増に。売上高1951年11月期268百万円、1952年444百万円、1953年510百万円、1954年845百万円、1955年737百万円(13%減)。1950年度比1955年度3.74倍、社員数1950年81人→1955年130人
    • [48]朝鮮戦争で製造業の工場・倉庫増設が受注増に。売上高1951年11月期268百万円、1952年444百万円、1953年510百万円、1954年845百万円、1955年737百万円(13%減)。1950年度比1955年度3.74倍、社員数1950年81人→1955年130人
    • [49]朝鮮戦争で製造業の工場・倉庫増設が受注増に。売上高1951年11月期268百万円、1952年444百万円、1953年510百万円、1954年845百万円、1955年737百万円(13%減)。1950年度比1955年度3.74倍、社員数1950年81人→1955年130人
    • [50]朝鮮戦争で製造業の工場・倉庫増設が受注増に。売上高1951年11月期268百万円、1952年444百万円、1953年510百万円、1954年845百万円、1955年737百万円(13%減)。1950年度比1955年度3.74倍、社員数1950年81人→1955年130人
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第2編営業編 第2章「再生期」
    • [46]紡績各社は1948年頃から工場の復元・増錘に入り、1950・51年は紡績関係が全工事量の約50%
  • 証券 23(4)(265) 1971年
    • [47]1948年頃紡績設備の復元許可で本社は紡績会社の工事、東京支店は官公庁の復旧・新築工事の受注が増大

1952年3月、病を得た創業者の高須茂氏は社長職を専務の石田憲二氏に譲り、会長に就任した。同時に、朝日機工の社長を兼ねていた嗣子の高須洪一郎氏が取締役副社長に就任し、社長の石田憲二氏を補佐する体制となった。高須茂氏は同年8月4日に70歳で死去し、死に臨んで石田憲二氏に『十年経ったら伜洪一郎を社長にしてほしい』と託したと伝えられる。1962年11月、石田憲二氏は会長に退任し、高須洪一郎氏が三代目の社長に就任した。石田憲二氏の副社長への再就任は1964年10月である。1971年4月の上場時には、高須洪一郎氏が代表取締役社長、石田憲二氏が取締役副社長を務めていた。創業家への経営の返還は、創業者が託した10年を経て実現した。

  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第2章第2節「黎明後期」2)創業者の死と経営者の交替
    • [51]1952年3月高須茂は社長を専務石田憲二に譲り会長に。嗣子高須洪一郎(39歳)が取締役副社長。茂は同年8月4日に70歳で死去、石田憲二に10年後に洪一郎を社長にと託した
    • [52]1952年3月高須茂は社長を専務石田憲二に譲り会長に。嗣子高須洪一郎(39歳)が取締役副社長。茂は同年8月4日に70歳で死去、石田憲二に10年後に洪一郎を社長にと託した
    • [53]1952年3月高須茂は社長を専務石田憲二に譲り会長に。嗣子高須洪一郎(39歳)が取締役副社長。茂は同年8月4日に70歳で死去、石田憲二に10年後に洪一郎を社長にと託した
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第2章第3節「胎動期」4)社長再度の交替と役員の異動
    • [54]1962年11月石田憲二が社長を高須洪一郎に譲り会長へ、1964年10月に改めて副社長に就任
    • [55]1962年11月石田憲二が社長を高須洪一郎に譲り会長へ、1964年10月に改めて副社長に就任
  • 証券 23(4)(265) 1971年
    • [56]1971年4月1日上場時の役員は代表取締役社長高須洪一郎、取締役副社長石田憲二
参考文献[39]-[56]
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第2編営業編 第2章「再生期」
    • [39]1945年10月半ばより終戦処理機関から進駐軍接収建物の暖房設備の発注。本店は紡績中心で建設業者との取引がなく獲得に苦労、三菱商事大阪支店と組み神戸の接収ビル工事に着手。本店は神戸・鳥取・松江、東京支店は武山海兵団跡の暖房工事
    • [40]1945年10月半ばより終戦処理機関から進駐軍接収建物の暖房設備の発注。本店は紡績中心で建設業者との取引がなく獲得に苦労、三菱商事大阪支店と組み神戸の接収ビル工事に着手。本店は神戸・鳥取・松江、東京支店は武山海兵団跡の暖房工事
    • [41]1945年10月半ばより終戦処理機関から進駐軍接収建物の暖房設備の発注。本店は紡績中心で建設業者との取引がなく獲得に苦労、三菱商事大阪支店と組み神戸の接収ビル工事に着手。本店は神戸・鳥取・松江、東京支店は武山海兵団跡の暖房工事
    • [42]1945年10月半ばより終戦処理機関から進駐軍接収建物の暖房設備の発注。本店は紡績中心で建設業者との取引がなく獲得に苦労、三菱商事大阪支店と組み神戸の接収ビル工事に着手。本店は神戸・鳥取・松江、東京支店は武山海兵団跡の暖房工事
    • [46]紡績各社は1948年頃から工場の復元・増錘に入り、1950・51年は紡績関係が全工事量の約50%
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第2章第1節「黎明前期」
    • [43]三菱商事大阪支店と提携し神戸の接収ビル工事に着手、次いで鳥取・松江。東京支店受注の武山海兵団跡暖房工事は請負金額1億円で創業以来の大工事
  • 証券 23(4)(265) 1971年
    • [44]終戦後は進駐軍接収建物の暖房その他の設営工事を受注して混乱期を乗り切った
    • [47]1948年頃紡績設備の復元許可で本社は紡績会社の工事、東京支店は官公庁の復旧・新築工事の受注が増大
    • [56]1971年4月1日上場時の役員は代表取締役社長高須洪一郎、取締役副社長石田憲二
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第2章第2節「黎明後期」1)業績の急上昇と増資
    • [45]朝鮮戦争で製造業の工場・倉庫増設が受注増に。売上高1951年11月期268百万円、1952年444百万円、1953年510百万円、1954年845百万円、1955年737百万円(13%減)。1950年度比1955年度3.74倍、社員数1950年81人→1955年130人
    • [48]朝鮮戦争で製造業の工場・倉庫増設が受注増に。売上高1951年11月期268百万円、1952年444百万円、1953年510百万円、1954年845百万円、1955年737百万円(13%減)。1950年度比1955年度3.74倍、社員数1950年81人→1955年130人
    • [49]朝鮮戦争で製造業の工場・倉庫増設が受注増に。売上高1951年11月期268百万円、1952年444百万円、1953年510百万円、1954年845百万円、1955年737百万円(13%減)。1950年度比1955年度3.74倍、社員数1950年81人→1955年130人
    • [50]朝鮮戦争で製造業の工場・倉庫増設が受注増に。売上高1951年11月期268百万円、1952年444百万円、1953年510百万円、1954年845百万円、1955年737百万円(13%減)。1950年度比1955年度3.74倍、社員数1950年81人→1955年130人
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第2章第2節「黎明後期」2)創業者の死と経営者の交替
    • [51]1952年3月高須茂は社長を専務石田憲二に譲り会長に。嗣子高須洪一郎(39歳)が取締役副社長。茂は同年8月4日に70歳で死去、石田憲二に10年後に洪一郎を社長にと託した
    • [52]1952年3月高須茂は社長を専務石田憲二に譲り会長に。嗣子高須洪一郎(39歳)が取締役副社長。茂は同年8月4日に70歳で死去、石田憲二に10年後に洪一郎を社長にと託した
    • [53]1952年3月高須茂は社長を専務石田憲二に譲り会長に。嗣子高須洪一郎(39歳)が取締役副社長。茂は同年8月4日に70歳で死去、石田憲二に10年後に洪一郎を社長にと託した
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第2章第3節「胎動期」4)社長再度の交替と役員の異動
    • [54]1962年11月石田憲二が社長を高須洪一郎に譲り会長へ、1964年10月に改めて副社長に就任
    • [55]1962年11月石田憲二が社長を高須洪一郎に譲り会長へ、1964年10月に改めて副社長に就任

出典・参考

14件
出典・参考
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」1.合資会社朝日工業社の誕生・2.創業者素描
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第2編営業編 第1章「草創期」
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」1.合資会社朝日工業社の誕生・6.出資金の推移と本社の移転
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」11.東京進出
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第2編営業編 第1章「草創期」2.東京出張所を東京支店に昇格
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」10.興亜機械株式会社事件と当社の変貌
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第1節「揺籃期」12.株式会社への移行
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第1章第2節「混沌期」
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第2編営業編 第2章「再生期」
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第2章第1節「黎明前期」
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第2章第2節「黎明後期」1)業績の急上昇と増資
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第2章第2節「黎明後期」2)創業者の死と経営者の交替
  • 朝日工業社 1992『株式会社朝日工業社社史』第1編経営編 第2章第3節「胎動期」4)社長再度の交替と役員の異動
  • 証券 23(4)(265) 1971年

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