東急建設:東京建設工業の設立と1954年の東急不動産合併
1946年〜東急の戦災復旧の受け皿として立った東京建設工業と、直営化と国鉄の指名で固めた足場
東京建設工業は1946年3月12日、資本金200万円で設立された。発意したのは東京急行電鉄会長の五島慶太氏で、東急は終戦の年の5月末の空襲で本社や渋谷の東横百貨店、清和会館を焼失していた。五島慶太氏は戦後の復興の要を建設業と見て、東急系の企業群に自前の建設会社を加えることを決めた。1945年9月の構想の中身は、東急関係の全工事の請負と、将来の機械力による効率の高い施工、国家事業への進出。初代社長には鉄道院出身の土木技術者である黒田武定氏が選ばれ、発足時の社員は30〜40名にとどまった。焼けた施設の復旧工事をグループ内で差配することが、設立の第一の狙いだったとみられる。
- 東急建設『東急建設の二十五年』1985年
- [1]1946年3月12日設立。1945年5月末の空襲で東急本社・東横百貨店・清和会館が全焼。五島慶太は東急関係工事の全部請負と将来の能率的施工・国家事業進出を構想(1945年9月、黒田日記)
- [2]1946年3月12日設立。1945年5月末の空襲で東急本社・東横百貨店・清和会館が全焼。五島慶太は東急関係工事の全部請負と将来の能率的施工・国家事業進出を構想(1945年9月、黒田日記)
- [4]1946年3月12日設立。1945年5月末の空襲で東急本社・東横百貨店・清和会館が全焼。五島慶太は東急関係工事の全部請負と将来の能率的施工・国家事業進出を構想(1945年9月、黒田日記)
- 証券アナリストジャーナル 7(6) 1969年(谷島文雄)
- [3]五島慶太は建設業の将来性に着目し、東急事業団の中に建設会社を置くと決意、1946年に資本金200万円で東京建設工業を設立
- 東急建設『東急建設1969飛躍の十年』1969年
- [5]資本金200万円で設立。初代社長は元鉄道省出身の黒田武定。社員は総勢3、40名
1946年7月、五島慶太氏は黒田武定氏に、社長を鈴木幸七氏へ交代させる話を切り出した。この時点で東京建設工業はすでに資金不足に陥り、黒田武定氏は五島慶太氏に50万円の借入れを申し込んでいた。インフレで資材費と人件費が上昇したうえ、統制下で資材の入手にも苦しみ、200万円の資本金は早々に底をついた。東京急行電鉄専務を同年6月に退任していた鈴木幸七氏は10月に社長に就任し、1947年3月には工務部門の部下だった鈴木寅吉氏を専務に招いた。鈴木寅吉氏の入社時に会社に残っていた現金は7万円で、社員の月給総額15万円を除草剤の販売益で賄った時期もあった。社史は交代の本質を、業績不振より情勢の激変に合わせた方針転換と位置づけている。
- 東急建設『東急建設の二十五年』1985年
- [6]1946年7月、五島慶太が黒田武定に鈴木幸七との社長交代を提示。新会社は資金ショートで黒田は50万円の借入れを申込む。資材費・人件費の上昇で資本金200万円が底をつき、物資は統制下。鈴木幸七は1946年6月に東急専務を退き10月に社長就任、1947年3月に鈴木寅吉が専務入社(現金7万円)。社史は交代を客観情勢の激変への方針転換と解釈
- [7]1946年7月、五島慶太が黒田武定に鈴木幸七との社長交代を提示。新会社は資金ショートで黒田は50万円の借入れを申込む。資材費・人件費の上昇で資本金200万円が底をつき、物資は統制下。鈴木幸七は1946年6月に東急専務を退き10月に社長就任、1947年3月に鈴木寅吉が専務入社(現金7万円)。社史は交代を客観情勢の激変への方針転換と解釈
- [8]1946年7月、五島慶太が黒田武定に鈴木幸七との社長交代を提示。新会社は資金ショートで黒田は50万円の借入れを申込む。資材費・人件費の上昇で資本金200万円が底をつき、物資は統制下。鈴木幸七は1946年6月に東急専務を退き10月に社長就任、1947年3月に鈴木寅吉が専務入社(現金7万円)。社史は交代を客観情勢の激変への方針転換と解釈
- [9]1946年7月、五島慶太が黒田武定に鈴木幸七との社長交代を提示。新会社は資金ショートで黒田は50万円の借入れを申込む。資材費・人件費の上昇で資本金200万円が底をつき、物資は統制下。鈴木幸七は1946年6月に東急専務を退き10月に社長就任、1947年3月に鈴木寅吉が専務入社(現金7万円)。社史は交代を客観情勢の激変への方針転換と解釈
- [11]1946年7月、五島慶太が黒田武定に鈴木幸七との社長交代を提示。新会社は資金ショートで黒田は50万円の借入れを申込む。資材費・人件費の上昇で資本金200万円が底をつき、物資は統制下。鈴木幸七は1946年6月に東急専務を退き10月に社長就任、1947年3月に鈴木寅吉が専務入社(現金7万円)。社史は交代を客観情勢の激変への方針転換と解釈
- 東急建設『東急建設1969飛躍の十年』1969年
- [10]翌年に東京急行から鈴木寅吉を専務に迎えた。当時の社員の月給総額は15万円で、除草剤を仕入れて販売し給料をしのいだ
1947年8月に五島慶太氏が公職追放の指定を受け、1948年6月には大東急が4社に分割された。東京建設工業は東急の大きな支援を期待できなくなり、西松組も出向社員を1名残して引き揚げた。1948年12月からは専務の鈴木寅吉氏が実務を担い、施工を下請任せから直営に移して原価を厳しく管理した。受注先は国鉄に広がり、1948年には東京鉄道局が指名する12社の1社となった。東急からは東横線渋谷駅改良工事を受注して1950年8月に第1期工事を完成させ、同年10月には旗の台駅の新設工事も受注。1949年5月の建設業法の公布を受け、同年9月に資本金を500万円へ増やして建設大臣の登録を得た。
- 東急建設『東急建設の二十五年』1985年
- [12]1947年8月に五島慶太が公職追放指定、1948年6月に大東急が4社に分割。1948年12月に鈴木幸七が東急社長となり鈴木寅吉専務が実質責任者、トンネル的経営から直営方式・原価引下げへ。朝鮮戦争の特需後、鈴木寅吉時代に完成工事高が伸びた。西松組は西岡政人1人を残して出向社員を引き揚げた
- [13]1947年8月に五島慶太が公職追放指定、1948年6月に大東急が4社に分割。1948年12月に鈴木幸七が東急社長となり鈴木寅吉専務が実質責任者、トンネル的経営から直営方式・原価引下げへ。朝鮮戦争の特需後、鈴木寅吉時代に完成工事高が伸びた。西松組は西岡政人1人を残して出向社員を引き揚げた
- [14]1947年8月に五島慶太が公職追放指定、1948年6月に大東急が4社に分割。1948年12月に鈴木幸七が東急社長となり鈴木寅吉専務が実質責任者、トンネル的経営から直営方式・原価引下げへ。朝鮮戦争の特需後、鈴木寅吉時代に完成工事高が伸びた。西松組は西岡政人1人を残して出向社員を引き揚げた
- [16]東急発注の最初の大規模工事は東横線渋谷駅改良工事で、1950年8月に第1期工事が竣工。1950年10月に旗の台立体交差駅新設工事を受注
- [17]1949年5月の建設業法公布を受け、1949年9月に300万円を払い込み資本金500万円とし建設大臣登録(ハ第157号)を申請
- 東急建設『東急建設1969飛躍の十年』1969年
- [15]鈴木寅吉を専務に迎えて重役陣を補強し、1948年には東京鉄道局の指名業者12社に入った
参考文献[1]-[17]
- 東急建設『東急建設の二十五年』1985年
- [1]1946年3月12日設立。1945年5月末の空襲で東急本社・東横百貨店・清和会館が全焼。五島慶太は東急関係工事の全部請負と将来の能率的施工・国家事業進出を構想(1945年9月、黒田日記)
- [2]1946年3月12日設立。1945年5月末の空襲で東急本社・東横百貨店・清和会館が全焼。五島慶太は東急関係工事の全部請負と将来の能率的施工・国家事業進出を構想(1945年9月、黒田日記)
- [4]1946年3月12日設立。1945年5月末の空襲で東急本社・東横百貨店・清和会館が全焼。五島慶太は東急関係工事の全部請負と将来の能率的施工・国家事業進出を構想(1945年9月、黒田日記)
- [6]1946年7月、五島慶太が黒田武定に鈴木幸七との社長交代を提示。新会社は資金ショートで黒田は50万円の借入れを申込む。資材費・人件費の上昇で資本金200万円が底をつき、物資は統制下。鈴木幸七は1946年6月に東急専務を退き10月に社長就任、1947年3月に鈴木寅吉が専務入社(現金7万円)。社史は交代を客観情勢の激変への方針転換と解釈
- [7]1946年7月、五島慶太が黒田武定に鈴木幸七との社長交代を提示。新会社は資金ショートで黒田は50万円の借入れを申込む。資材費・人件費の上昇で資本金200万円が底をつき、物資は統制下。鈴木幸七は1946年6月に東急専務を退き10月に社長就任、1947年3月に鈴木寅吉が専務入社(現金7万円)。社史は交代を客観情勢の激変への方針転換と解釈
- [8]1946年7月、五島慶太が黒田武定に鈴木幸七との社長交代を提示。新会社は資金ショートで黒田は50万円の借入れを申込む。資材費・人件費の上昇で資本金200万円が底をつき、物資は統制下。鈴木幸七は1946年6月に東急専務を退き10月に社長就任、1947年3月に鈴木寅吉が専務入社(現金7万円)。社史は交代を客観情勢の激変への方針転換と解釈
- [9]1946年7月、五島慶太が黒田武定に鈴木幸七との社長交代を提示。新会社は資金ショートで黒田は50万円の借入れを申込む。資材費・人件費の上昇で資本金200万円が底をつき、物資は統制下。鈴木幸七は1946年6月に東急専務を退き10月に社長就任、1947年3月に鈴木寅吉が専務入社(現金7万円)。社史は交代を客観情勢の激変への方針転換と解釈
- [11]1946年7月、五島慶太が黒田武定に鈴木幸七との社長交代を提示。新会社は資金ショートで黒田は50万円の借入れを申込む。資材費・人件費の上昇で資本金200万円が底をつき、物資は統制下。鈴木幸七は1946年6月に東急専務を退き10月に社長就任、1947年3月に鈴木寅吉が専務入社(現金7万円)。社史は交代を客観情勢の激変への方針転換と解釈
- [12]1947年8月に五島慶太が公職追放指定、1948年6月に大東急が4社に分割。1948年12月に鈴木幸七が東急社長となり鈴木寅吉専務が実質責任者、トンネル的経営から直営方式・原価引下げへ。朝鮮戦争の特需後、鈴木寅吉時代に完成工事高が伸びた。西松組は西岡政人1人を残して出向社員を引き揚げた
- [13]1947年8月に五島慶太が公職追放指定、1948年6月に大東急が4社に分割。1948年12月に鈴木幸七が東急社長となり鈴木寅吉専務が実質責任者、トンネル的経営から直営方式・原価引下げへ。朝鮮戦争の特需後、鈴木寅吉時代に完成工事高が伸びた。西松組は西岡政人1人を残して出向社員を引き揚げた
- [14]1947年8月に五島慶太が公職追放指定、1948年6月に大東急が4社に分割。1948年12月に鈴木幸七が東急社長となり鈴木寅吉専務が実質責任者、トンネル的経営から直営方式・原価引下げへ。朝鮮戦争の特需後、鈴木寅吉時代に完成工事高が伸びた。西松組は西岡政人1人を残して出向社員を引き揚げた
- [16]東急発注の最初の大規模工事は東横線渋谷駅改良工事で、1950年8月に第1期工事が竣工。1950年10月に旗の台立体交差駅新設工事を受注
- [17]1949年5月の建設業法公布を受け、1949年9月に300万円を払い込み資本金500万円とし建設大臣登録(ハ第157号)を申請
- 証券アナリストジャーナル 7(6) 1969年(谷島文雄)
- [3]五島慶太は建設業の将来性に着目し、東急事業団の中に建設会社を置くと決意、1946年に資本金200万円で東京建設工業を設立
- 東急建設『東急建設1969飛躍の十年』1969年
- [5]資本金200万円で設立。初代社長は元鉄道省出身の黒田武定。社員は総勢3、40名
- [10]翌年に東京急行から鈴木寅吉を専務に迎えた。当時の社員の月給総額は15万円で、除草剤を仕入れて販売し給料をしのいだ
- [15]鈴木寅吉を専務に迎えて重役陣を補強し、1948年には東京鉄道局の指名業者12社に入った
1954年〜社員36名で東急不動産の建設工業部となった東京建設工業と、砧ゴルフ場・桜木町線の工事
東京建設工業は1954年8月1日に解散し、東急不動産が事業を引き継いで建設工業部を置いた。合併は同年4月16日の東急不動産取締役会で決まり、目的はグループ内の経営の一元化と東急不動産の経営基盤の強化である。東急不動産は1953年12月に東京急行電鉄から田園都市業などを譲り受けて資本金3億円で発足した会社で、主業は不動産。鈴木寅吉氏の回想では、五島慶太氏は土地の商売だけでは1割5分の配当が難しいと見て、利益と資産を持つ東京建設工業に合併を求めた。合併時の社員は36名で、鈴木寅吉氏は社員の前途と人材の確保を考えて合併に応じた。社史と別の企業史も、1946年3月設立の東京建設工業を東急建設の母体としている。
- 東急建設『東急建設の二十五年』1985年
- [18]1954年4月16日の東急不動産取締役会で吸収合併を決定(目的は経営の単一化と東急不動産の経営基盤強化)、8月1日に東京建設工業は解散し建設工業部として継承。五島慶太は土地だけでは1割5分配当ができないとして合併を求めた(鈴木寅吉談)。合併時の社員36名
- [19]1954年4月16日の東急不動産取締役会で吸収合併を決定(目的は経営の単一化と東急不動産の経営基盤強化)、8月1日に東京建設工業は解散し建設工業部として継承。五島慶太は土地だけでは1割5分配当ができないとして合併を求めた(鈴木寅吉談)。合併時の社員36名
- [21]1954年4月16日の東急不動産取締役会で吸収合併を決定(目的は経営の単一化と東急不動産の経営基盤強化)、8月1日に東京建設工業は解散し建設工業部として継承。五島慶太は土地だけでは1割5分配当ができないとして合併を求めた(鈴木寅吉談)。合併時の社員36名
- [22]1954年4月16日の東急不動産取締役会で吸収合併を決定(目的は経営の単一化と東急不動産の経営基盤強化)、8月1日に東京建設工業は解散し建設工業部として継承。五島慶太は土地だけでは1割5分配当ができないとして合併を求めた(鈴木寅吉談)。合併時の社員36名
- 証券アナリストジャーナル 7(6) 1969年(谷島文雄)
- [20]1954年に東京急行電鉄の田園都市部が分離して東急不動産が設立された際、東京建設工業は同社の建設工業部に吸収された。東急不動産は不動産業が主、建設業は従
- 『企業の歴史 明治百年』1968年「東急建設」
- [23]1946年3月12日設立の東京建設工業が母胎で、1954年8月に東急不動産の建設工業部として合併
東急の臨時建設部が1955年4月1日に廃止されると、建設工業部は残った工事のうち砧ゴルフ場と東横線高島町−桜木町間の複線化を引き継いだ。臨時建設部は1953年1月に五島慶太氏の追放解除後の多角化を進めるために置かれ、渋谷の開発や城西南地区の開発など13の班を抱えていた。砧ゴルフ場は1955年7月に着工して12月に完成し、桜木町の複線化では大林組・大成建設と工区を分けて施工した。建設工業部の売上高は1954年度が1億4,200万円、1956年度が5億6,900万円である。それでも東急不動産では建設業が従の扱いで、五島慶太氏は1957年頃に建設工業部の再独立を構想した。城西南地区の開発は、のちに多摩田園都市として東急建設が受注し続ける最大の工事となった。
- 東急建設『東急建設の二十五年』1985年
- [24]臨時建設部(1953年1月設置、13班)は1955年4月1日に廃止、残った砧ゴルフ場(1955年7月着工・12月完成)と桜木町線複線化を建設工業部が施工(大林組・大成建設と工区分担)。城西南地区開発は多摩田園都市として東急建設が継続受注する最大の仕事。建設工業部売上は1954年度1億4,200万円→1956年度5億6,900万円
- [25]臨時建設部(1953年1月設置、13班)は1955年4月1日に廃止、残った砧ゴルフ場(1955年7月着工・12月完成)と桜木町線複線化を建設工業部が施工(大林組・大成建設と工区分担)。城西南地区開発は多摩田園都市として東急建設が継続受注する最大の仕事。建設工業部売上は1954年度1億4,200万円→1956年度5億6,900万円
- [26]臨時建設部(1953年1月設置、13班)は1955年4月1日に廃止、残った砧ゴルフ場(1955年7月着工・12月完成)と桜木町線複線化を建設工業部が施工(大林組・大成建設と工区分担)。城西南地区開発は多摩田園都市として東急建設が継続受注する最大の仕事。建設工業部売上は1954年度1億4,200万円→1956年度5億6,900万円
- [27]臨時建設部(1953年1月設置、13班)は1955年4月1日に廃止、残った砧ゴルフ場(1955年7月着工・12月完成)と桜木町線複線化を建設工業部が施工(大林組・大成建設と工区分担)。城西南地区開発は多摩田園都市として東急建設が継続受注する最大の仕事。建設工業部売上は1954年度1億4,200万円→1956年度5億6,900万円
- [29]臨時建設部(1953年1月設置、13班)は1955年4月1日に廃止、残った砧ゴルフ場(1955年7月着工・12月完成)と桜木町線複線化を建設工業部が施工(大林組・大成建設と工区分担)。城西南地区開発は多摩田園都市として東急建設が継続受注する最大の仕事。建設工業部売上は1954年度1億4,200万円→1956年度5億6,900万円
- 証券アナリストジャーナル 7(6) 1969年(谷島文雄)
- [28]東急不動産は不動産業が主、建設業は従で期待どおりの伸びがなく、五島慶太は1957年頃に建設工業部の再独立を考えた
参考文献[18]-[29]
- 東急建設『東急建設の二十五年』1985年
- [18]1954年4月16日の東急不動産取締役会で吸収合併を決定(目的は経営の単一化と東急不動産の経営基盤強化)、8月1日に東京建設工業は解散し建設工業部として継承。五島慶太は土地だけでは1割5分配当ができないとして合併を求めた(鈴木寅吉談)。合併時の社員36名
- [19]1954年4月16日の東急不動産取締役会で吸収合併を決定(目的は経営の単一化と東急不動産の経営基盤強化)、8月1日に東京建設工業は解散し建設工業部として継承。五島慶太は土地だけでは1割5分配当ができないとして合併を求めた(鈴木寅吉談)。合併時の社員36名
- [21]1954年4月16日の東急不動産取締役会で吸収合併を決定(目的は経営の単一化と東急不動産の経営基盤強化)、8月1日に東京建設工業は解散し建設工業部として継承。五島慶太は土地だけでは1割5分配当ができないとして合併を求めた(鈴木寅吉談)。合併時の社員36名
- [22]1954年4月16日の東急不動産取締役会で吸収合併を決定(目的は経営の単一化と東急不動産の経営基盤強化)、8月1日に東京建設工業は解散し建設工業部として継承。五島慶太は土地だけでは1割5分配当ができないとして合併を求めた(鈴木寅吉談)。合併時の社員36名
- [24]臨時建設部(1953年1月設置、13班)は1955年4月1日に廃止、残った砧ゴルフ場(1955年7月着工・12月完成)と桜木町線複線化を建設工業部が施工(大林組・大成建設と工区分担)。城西南地区開発は多摩田園都市として東急建設が継続受注する最大の仕事。建設工業部売上は1954年度1億4,200万円→1956年度5億6,900万円
- [25]臨時建設部(1953年1月設置、13班)は1955年4月1日に廃止、残った砧ゴルフ場(1955年7月着工・12月完成)と桜木町線複線化を建設工業部が施工(大林組・大成建設と工区分担)。城西南地区開発は多摩田園都市として東急建設が継続受注する最大の仕事。建設工業部売上は1954年度1億4,200万円→1956年度5億6,900万円
- [26]臨時建設部(1953年1月設置、13班)は1955年4月1日に廃止、残った砧ゴルフ場(1955年7月着工・12月完成)と桜木町線複線化を建設工業部が施工(大林組・大成建設と工区分担)。城西南地区開発は多摩田園都市として東急建設が継続受注する最大の仕事。建設工業部売上は1954年度1億4,200万円→1956年度5億6,900万円
- [27]臨時建設部(1953年1月設置、13班)は1955年4月1日に廃止、残った砧ゴルフ場(1955年7月着工・12月完成)と桜木町線複線化を建設工業部が施工(大林組・大成建設と工区分担)。城西南地区開発は多摩田園都市として東急建設が継続受注する最大の仕事。建設工業部売上は1954年度1億4,200万円→1956年度5億6,900万円
- [29]臨時建設部(1953年1月設置、13班)は1955年4月1日に廃止、残った砧ゴルフ場(1955年7月着工・12月完成)と桜木町線複線化を建設工業部が施工(大林組・大成建設と工区分担)。城西南地区開発は多摩田園都市として東急建設が継続受注する最大の仕事。建設工業部売上は1954年度1億4,200万円→1956年度5億6,900万円
- 証券アナリストジャーナル 7(6) 1969年(谷島文雄)
- [20]1954年に東京急行電鉄の田園都市部が分離して東急不動産が設立された際、東京建設工業は同社の建設工業部に吸収された。東急不動産は不動産業が主、建設業は従
- [28]東急不動産は不動産業が主、建設業は従で期待どおりの伸びがなく、五島慶太は1957年頃に建設工業部の再独立を考えた
- 『企業の歴史 明治百年』1968年「東急建設」
- [23]1946年3月12日設立の東京建設工業が母胎で、1954年8月に東急不動産の建設工業部として合併
出典・参考
4件
- 『企業の歴史 明治百年』1968年「東急建設」
- 証券アナリストジャーナル 7(6) 1969年(谷島文雄)
- 東急建設『東急建設1969飛躍の十年』1969年
- 東急建設『東急建設の二十五年』1985年