第2章 年〜年

ニッスイ:魚肉ソーセージの量産と米国合弁UNISEAの設立

1946年〜建造を止められた会社が南氷洋捕鯨へ寄せた資本

敗戦の翌1946年に6万5千隻・34万2千トンまで落ちた日本の動力漁船は、1950年には12万7千隻・90万9千トンとなり、戦前の水準を超えた。戦時中の操業船減少で資源が温存され、食糧難で魚価が高騰したことが業界の復興を早めた。ところが日本水産が1940年の237隻・14万4千トンという船腹へ戻るのは、おおむね1958年以降のことである。終戦時に残った船は隻数で3割、トン数では14%にすぎず、しかも老朽船ばかりだった。満州・北支・中支・南支・台湾にあった営業所と子会社を一挙に失い、在外資産の損害は当時の簿価で約3千万円にのぼった。1945年12月に制限会社、翌1946年8月に特別経理会社の指定を受け、資産の売却も資金の借り入れも大蔵大臣の許可なしにはできなくなった。この制約が戦後の出遅れの最大の原因となった。

  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [1]日本の動力漁船 1946年6万5千隻・34万2千トン→1950年12万7千隻・90万9千トン
    • [2]戦時中の操業船減少による資源温存と、食糧事情悪化による魚価高騰が業界の復興を早めた
    • [3]日本水産の船舶が1940年の237隻・14万4千トンの水準へ戻るのは1958年以降
    • [4]終戦時の残存船 隻数31%・トン数14%・老朽船中心
    • [5]在外資産の喪失 満州・北支・中支・南支・台湾の営業所と子会社、簿価約3千万円
    • [7]制限会社の指定内容(資産の売却・借入・預金払戻に大蔵大臣の許可が必要)と、それが戦後の出遅れの最大の原因となったこと
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「水產」日本水産の項
    • [6]1945年12月制限会社・1946年8月特別経理会社の指定

1946年5月の第1次漁船建造許可で日本水産が得たのは14隻にとどまり、大洋漁業は許可総数416隻の約3分の1にあたる161隻を得た。差がついたのは経営方針の違いに加え、制限会社の指定によって連合軍最高司令部から船舶建造の制約を受けていたためである。建造で船腹を増やせない以上、残った船を回すほかなかった。トロール船の一部を北海道へ回してカレイやホッケを獲らせ、函館を根拠に定置網とイカ釣りまで営み、ニシンの漁期には積取船、漁期外には運搬業務にあてた。沿岸漁業にまで手を出したのは終戦直後の2〜3年だけだった。引き揚げてきた南日本漁業統制の竜田丸と天竜丸も、1950年ごろまで自社の名義で操業させた。漁業資材の補給は必要量の約半分にとどまった。1949年9月には企業再建整備計画の認可を受け、12月に新旧勘定の併合を終えた。

  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [8]1946年5月 第1次漁船建造許可 日本水産14隻・大洋漁業161隻(許可総数416隻)
    • [9]制限会社の指定により連合軍最高司令部から船舶建造の制約を受けた
    • [10]残存漁船の運用 トロール船の北海道回航によるカレイ・ホッケ漁、函館根拠の定置網・イカ釣り、ニシン積取船と運搬業務
    • [11]沿岸漁業への進出は終戦直後の2〜3年間のみ
    • [12]南日本漁業統制の竜田丸(533トン)・天竜丸(545トン)を1950年ごろまで日本水産名義で操業
    • [13]漁業諸資材の補給は必要量の約半分
  • 株式会社年鑑 1955年版「日本水産」
    • [14]1949年9月 企業再建整備計画の認可・12月に新旧勘定の併合を完了

1946年8月、連合軍最高司令部は国民の食糧問題を解決するため、南氷洋捕鯨を日本水産と大洋漁業に1船団ずつ許可した。日本水産は同年、橋立丸を母船として付属船と捕鯨船あわせて9隻の船団を仕立て、出漁資金1億9千万円を主に日本興業銀行から借り入れた。第2次出漁からは復興金融金庫が融資し、設備資金は見返資金と日本開発銀行、運転資金は市中銀行の協調融資が支えた。1945年度にはトロール漁業と以西底びき網漁業が売上高の66%を占めていたが、1948年度から1950年度にかけては捕鯨業が6割を超え、利益は南氷洋捕鯨に支えられた。1949年3月に資本金を3億5千万円、同年11月に7億円へ積み増し、5月には東京証券取引所へ株式を上場した。船を失った会社が、政府と銀行の資金で1船団を仕立てるところから戦後を始めたのである。

  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [15]1946年8月 連合軍最高司令部が南氷洋捕鯨を日本水産・大洋漁業へ1船団ずつ許可
    • [16]1946年 橋立丸を母船とする付属船・捕鯨船計9隻の船団で出漁
    • [17]第1次出漁資金1億9千万円 主に日本興業銀行から借入
    • [18]第2次以降は復興金融金庫が融資・設備資金は見返資金と開発銀行・運転資金は市中銀行の協調融資
    • [19]1945年度 トロール漁業と以西底びき網漁業が売上高の66%
    • [20]1948〜1950年度 捕鯨業が総売上高の60%超
  • 株式会社年鑑 1955年版「日本水産」
    • [21]1949年3月 資本金3億5千万円へ増資・同年11月 7億円へ増資
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1949年5月 東京証券取引所へ株式を上場
参考文献[1]-[22]
  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [1]日本の動力漁船 1946年6万5千隻・34万2千トン→1950年12万7千隻・90万9千トン
    • [2]戦時中の操業船減少による資源温存と、食糧事情悪化による魚価高騰が業界の復興を早めた
    • [3]日本水産の船舶が1940年の237隻・14万4千トンの水準へ戻るのは1958年以降
    • [4]終戦時の残存船 隻数31%・トン数14%・老朽船中心
    • [5]在外資産の喪失 満州・北支・中支・南支・台湾の営業所と子会社、簿価約3千万円
    • [7]制限会社の指定内容(資産の売却・借入・預金払戻に大蔵大臣の許可が必要)と、それが戦後の出遅れの最大の原因となったこと
    • [8]1946年5月 第1次漁船建造許可 日本水産14隻・大洋漁業161隻(許可総数416隻)
    • [9]制限会社の指定により連合軍最高司令部から船舶建造の制約を受けた
    • [10]残存漁船の運用 トロール船の北海道回航によるカレイ・ホッケ漁、函館根拠の定置網・イカ釣り、ニシン積取船と運搬業務
    • [11]沿岸漁業への進出は終戦直後の2〜3年間のみ
    • [12]南日本漁業統制の竜田丸(533トン)・天竜丸(545トン)を1950年ごろまで日本水産名義で操業
    • [13]漁業諸資材の補給は必要量の約半分
    • [15]1946年8月 連合軍最高司令部が南氷洋捕鯨を日本水産・大洋漁業へ1船団ずつ許可
    • [16]1946年 橋立丸を母船とする付属船・捕鯨船計9隻の船団で出漁
    • [17]第1次出漁資金1億9千万円 主に日本興業銀行から借入
    • [18]第2次以降は復興金融金庫が融資・設備資金は見返資金と開発銀行・運転資金は市中銀行の協調融資
    • [19]1945年度 トロール漁業と以西底びき網漁業が売上高の66%
    • [20]1948〜1950年度 捕鯨業が総売上高の60%超
    • [6]1945年12月制限会社・1946年8月特別経理会社の指定
    • [14]1949年9月 企業再建整備計画の認可・12月に新旧勘定の併合を完了
    • [21]1949年3月 資本金3億5千万円へ増資・同年11月 7億円へ増資
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1949年5月 東京証券取引所へ株式を上場

1952年〜母船式漁業の再開が生んだ独航船の獲得競争と、魚肉ソーセージの販路

1952年5月に日米加漁業条約が正式調印され、日本は西経175度以西の海域で母船式サケ・マス漁業を再開できることになった。同年4月にはマッカーサー・ラインが撤廃されたが、日本水産が経験を積んできたトロール漁場や母船式カニ漁場は、ついに拡張されないままの撤廃だった。漁場の価値が定かでないため、1952年の第1次出漁は試験操業として3船団にとどまり、日本水産は545トンの天竜丸を母船に12隻の独航船を従えて出漁した。独航船とは、北海道や東北のそれぞれ別の事業主が持つ漁船を指す。この年は母船と独航船の共同経営とし、利益を原価計算のうえで配分した。翌1953年の第2次では2,940トンの海幸丸に27隻を付け、母船が独航船から漁獲物を買い取る買魚協定へと方式を改めた。日米加漁業条約が発効したのもこの1953年である。

  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [23]1952年5月 日米加漁業条約の正式調印・西経175度以西で母船式サケ・マス漁業が可能に
    • [24]1952年4月 マッカーサー・ラインの撤廃
    • [25]トロール漁場(黄海・東海)と母船式カニ漁場(北洋)は拡張されないまま撤廃を迎えた
    • [26]1952年 第1次出漁は試験操業3船団・日本水産は天竜丸(545トン)と独航船12隻
    • [27]独航船は北海道・東北などの別個の事業主が経営する漁船
    • [28]第1次出漁は母船と独航船の共同経営・利益を原価計算のうえ配分
    • [29]1953年 第2次出漁 日本水産は海幸丸(2,940トン)と独航船27隻
    • [30]第2次から買魚協定による母船買上方式へ変更
  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第2章 高度成長期の飛躍
    • [31]日米加漁業条約は1953年に発効

1954年の第3次出漁にあたり、水産庁は一定数の独航船を確保しない母船には新たな許可を与えない方針を立てた。このため各社は1隻でも多く集めようと、独航船主へ出漁資金や新船建造資金を貸し付け、出漁権利の斡旋まで行う獲得競争を繰り広げた。日本水産は8,964トンの宮島丸に33隻の独航船を従え、翌1955年には宮島丸と厳嶋丸の2母船へ64隻を配した。船団を大きくするほど許可が得られる仕組みは、1956年2月のブルガーニン・ライン設定で反転する。河野農相を首席代表とする交渉団に鈴木九平社長が顧問として加わり、5月に日ソ漁業条約が結ばれた。規制区域内の漁獲量は1957年の12万トンから1960年の6万7,500トンへ減った。この交渉を境に、北洋漁業の中心はサケ・マスとカニから、カレイやスケソウダラといった底魚の開発へ移っていった。

  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [32]1954年 第3次出漁で水産庁が「一定数の独航船を獲得しなければ新規許可しない」方針を決定
    • [33]各社による独航船獲得競争 出漁資金・新船建造資金の貸与と出漁権利の斡旋
    • [34]1954年 日本水産は宮島丸(8,964トン)に独航船33隻・調査船6隻
    • [35]1955年 第4次出漁 日本水産は宮島丸・厳嶋丸の2母船に64隻
    • [36]1956年2月 ソ連がブルガーニン・ラインを設定し規制措置を布告
    • [37]日ソ漁業交渉 河野農相が首席代表・日本水産の鈴木社長が政府代表団顧問
    • [38]1956年5月 日ソ漁業条約の調印
    • [39]規制区域内の漁獲量 1957年12万トン→1958年11万トン→1959年8万5千トン→1960年6万7,500トン
  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第2章 高度成長期の飛躍
    • [40]1957年の日ソ漁業交渉以降、北洋漁業の中心がサケ・マス漁業とカニ漁業からカレイ・スケソウダラなどの底魚開発へ移行

1952年、戸畑工場が魚肉ソーセージの試作に成功し、同年10月から本格的な生産に入った。原料のマグロの英語名から「ツナ・ソーセージ」と名付けたが、当初は日持ちが悪く、改良を重ねて売れ行きを広げた。売り方も作り替えた。それまでは東京の北洋商会・逸見山陽堂・国分商店、大阪の野田喜商事、名古屋の山田商事という5社の元卸へ販売を任せ、その先の販売店とは接触がなかった。1955年に日水ヒノマル会を結成して7支部に分け、第2次販売店およそ2千店を組織した。販売量は1955年の3,160トンから1959年の1万3,824トンへ4.4倍となり、1959年度には加工事業の売上高71億9,484万円が捕鯨事業の66億4,844万円を上回った。陸上の加工販売が総売上高に占める比率は、終戦直後の8%から1959年に43%へ上がった。

  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [41]1952年 戸畑工場でフィッシュ・ソーセージの試作に成功・同年10月から本格生産
    • [42]「ツナ・ソーセージ」の名称(原料マグロの英語名 tuna)と、日持ちの悪さを技術改良で克服
    • [43]1955年以前の販売体制 東京の北洋商会・逸見山陽堂・国分商店、大阪の野田喜商事、名古屋の山田商事の元卸5社
    • [44]1955年 日水ヒノマル会を結成し7支部・第2次販売店約2千店を組織化
    • [45]フィッシュ・ソーセージ、ハムの販売量 1955年3,160トン→1959年1万3,824トン
    • [47]陸上加工販売額の総売上高比 終戦直後8%→1959年43%
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本水産」
    • [46]1959年度の事業別売上高 加工事業71億9,484万円・捕鯨事業66億4,844万円
参考文献[23]-[47]
  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [23]1952年5月 日米加漁業条約の正式調印・西経175度以西で母船式サケ・マス漁業が可能に
    • [24]1952年4月 マッカーサー・ラインの撤廃
    • [25]トロール漁場(黄海・東海)と母船式カニ漁場(北洋)は拡張されないまま撤廃を迎えた
    • [26]1952年 第1次出漁は試験操業3船団・日本水産は天竜丸(545トン)と独航船12隻
    • [27]独航船は北海道・東北などの別個の事業主が経営する漁船
    • [28]第1次出漁は母船と独航船の共同経営・利益を原価計算のうえ配分
    • [29]1953年 第2次出漁 日本水産は海幸丸(2,940トン)と独航船27隻
    • [30]第2次から買魚協定による母船買上方式へ変更
    • [32]1954年 第3次出漁で水産庁が「一定数の独航船を獲得しなければ新規許可しない」方針を決定
    • [33]各社による独航船獲得競争 出漁資金・新船建造資金の貸与と出漁権利の斡旋
    • [34]1954年 日本水産は宮島丸(8,964トン)に独航船33隻・調査船6隻
    • [35]1955年 第4次出漁 日本水産は宮島丸・厳嶋丸の2母船に64隻
    • [36]1956年2月 ソ連がブルガーニン・ラインを設定し規制措置を布告
    • [37]日ソ漁業交渉 河野農相が首席代表・日本水産の鈴木社長が政府代表団顧問
    • [38]1956年5月 日ソ漁業条約の調印
    • [39]規制区域内の漁獲量 1957年12万トン→1958年11万トン→1959年8万5千トン→1960年6万7,500トン
    • [41]1952年 戸畑工場でフィッシュ・ソーセージの試作に成功・同年10月から本格生産
    • [42]「ツナ・ソーセージ」の名称(原料マグロの英語名 tuna)と、日持ちの悪さを技術改良で克服
    • [43]1955年以前の販売体制 東京の北洋商会・逸見山陽堂・国分商店、大阪の野田喜商事、名古屋の山田商事の元卸5社
    • [44]1955年 日水ヒノマル会を結成し7支部・第2次販売店約2千店を組織化
    • [45]フィッシュ・ソーセージ、ハムの販売量 1955年3,160トン→1959年1万3,824トン
    • [47]陸上加工販売額の総売上高比 終戦直後8%→1959年43%
  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第2章 高度成長期の飛躍
    • [31]日米加漁業条約は1953年に発効
    • [40]1957年の日ソ漁業交渉以降、北洋漁業の中心がサケ・マス漁業とカニ漁業からカレイ・スケソウダラなどの底魚開発へ移行
    • [46]1959年度の事業別売上高 加工事業71億9,484万円・捕鯨事業66億4,844万円

1959年〜334億円の体質改善計画が架けた陸への橋と、捕鯨からの退出

国民の食生活が変わるのに合わせて総合食品会社へ脱皮する、という目標を掲げたのが体質改善5カ年計画である。計画は漁業・食品加工・海運の3つを柱に育てる内容で、立案した専務の中井春雄氏は、苦境の時期こそ大胆に投資すべきだと考えていた。当時の水産業界は、1956年のブルガーニン・ライン制定と“なべ底不況”が重なり、先行きを悲観する見方に覆われていた。原資は、社外へ流れる金を絞ってつくった。1958年度下期から2年間は、配当を1割5分から1割2分に抑えた。再評価積立金の一部も資本へ組み入れ、内部留保を15億円厚くした。役員賞与を2割、役員報酬を1割削り、2年でさらに45億円を償却した。5年間の投資は334億円に達し、内訳は海上180億円、陸上94億円、関係会社への投融資60億円だった。長期借入金と社債は投資額の25%にとどまり、残りは自己資金でまかなった。

  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [48]1959年 国民食生活の変化に応じ総合食品会社として脱皮するための体質改善計画を樹立
  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第2章 高度成長期の飛躍
    • [49]専務 中井春雄が体質改善5カ年計画を発案(漁業・食品加工・海運の3本柱で経営安定を図る)
    • [50]1956年のブルガーニンライン制定と“なべ底不況”による業界の悲観的観測
    • [51]1958年度下期から2年間 配当を1割5分から1割2分へ減配
    • [52]再評価積立金の一部を資本へ組入れ・2年間で内部留保15億円の増加
    • [53]役員賞与2割・役員報酬1割のカット
    • [54]2年間で45億円の償却を実行
    • [55]体質改善5カ年計画の総投資額334億円(海上180億円・陸上94億円・投融資60億円)
    • [56]長期借入金約63億円・社債約22億円で投資額の25%・残りは自己資金

計画は陸上から始まった。初年度の陸上投資16億5,300万円の大半は晴海工場へ向かい、1960年5月に竣工した。晴海の埠頭は大洋漁業・日魯漁業との共同計画だったが、1万トン岸壁の併設を課されて2社が離脱し、日本水産が単独で建設を引き受けた。1962年6月には16億4,271万円で八王子工場が完成し、マヨネーズやチーズ、ラーメンまでを作る総合工場となった。1961年の増強で魚肉ソーセージの日産能力は152万本と倍以上になった。海上への投資は3年目の87億1,500万円で本格化した。1960年竣工の船尾式トロール船天城丸を皮切りに大型船が続き、船舶の総トン数は1958年度末の約14万トンから1964年度末の約30万トンへ倍増した。海運では1962年に第2松島丸とあんです丸を、東京タンカーと川崎製鉄への長期契約で就航させた。

  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第2章 高度成長期の飛躍
    • [57]初年度の陸上投資16億5,300万円の大半を晴海工場へ・1960年5月竣工
    • [58]晴海埠頭 3社共同計画から大洋漁業・日魯漁業が離脱し日本水産が単独で1万トン岸壁を建設
    • [59]1962年6月 八王子工場が完成(16億4,271万円・日産ソーセージとハム50万本、マヨネーズ30トン、チーズ3トン、ラーメン20万食)
    • [61]海上事業への投資 3年目に87億1,500万円へ拡大
    • [62]1960年の船尾式トロール船天城丸の竣工と大型船の投入により、船舶の総トン数が1958年度末約14万総トンから1964年度末約30万総トンへ倍増
    • [63]1962年 第2松島丸(船価21億円・東京タンカーと12年契約)・あんです丸(船価23億円・川崎製鉄と15年契約)
  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [60]1961年 八王子・安城の両工場新設と増強でソーセージ日産152万本・ハム14万本と生産能力が倍以上へ

売上高は計画着手前の289億円から最終年の537億円へ増え、1970年度には956億円に達した。うち漁労部門が568億円で59%を占めた。船の顔ぶれは入れ替わった。保有船舶は130隻から115隻へ減り、捕鯨母船が3隻から1隻になる一方、洋上冷凍すり身のトロール船は1隻から3隻へ増えた。捕鯨は1973年から鯨種別、1975年からは海区別の割当が加わり、枠は前年の半分以下となった。1975年の出漁を最後に南氷洋と北洋の捕鯨を終え、1976年には近海捕鯨も打ち切った。同年2月、6社で設立した日本共同捕鯨に32%を出資し、海上434名を送った。1973年11月に就任した鈴木正長氏のもと、1974年にNIPPON SUISAN (U.S.A.)とUNISEA, INC.を設立した。船に資本を集める経営は、獲る場所が条約で決まるかぎり、船を建てるたびに次の交渉を待つことになる。

  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第2章 高度成長期の飛躍
    • [64]体質改善5カ年計画の成果 売上高が着手前289億円→最終年537億円で8割以上の増
  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第3章 水産業の新たな開発と展開
    • [65]1970年度 総売上高956億円・漁労部門568億円(59%)
    • [66]保有船舶130隻→115隻(捕鯨母船3→1・すり身トロール船1→3)
  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第4章 成長期の終焉
    • [67]1973年の第27次出漁から鯨種別規制・1975年の第29次から海区別規制で枠は前年比2分の1以下
    • [68]1975年の出漁を最後に南氷洋・北洋の捕鯨を終了・1976年に近海捕鯨も打ち切り
    • [69]1976年2月 6社で日本共同捕鯨を設立(資本金30億円・日本水産の出資比率32%・海上従業員434名)
  • 日経ビジネス 1974年4月15日号
    • [70]1973年11月 鈴木正長が社長に就任
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [71]1974年3月 NIPPON SUISAN (U.S.A.)を設立・同年5月 UNISEA, INC.を設立(いずれも合弁)
参考文献[48]-[71]
  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
    • [48]1959年 国民食生活の変化に応じ総合食品会社として脱皮するための体質改善計画を樹立
    • [60]1961年 八王子・安城の両工場新設と増強でソーセージ日産152万本・ハム14万本と生産能力が倍以上へ
  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第2章 高度成長期の飛躍
    • [49]専務 中井春雄が体質改善5カ年計画を発案(漁業・食品加工・海運の3本柱で経営安定を図る)
    • [50]1956年のブルガーニンライン制定と“なべ底不況”による業界の悲観的観測
    • [51]1958年度下期から2年間 配当を1割5分から1割2分へ減配
    • [52]再評価積立金の一部を資本へ組入れ・2年間で内部留保15億円の増加
    • [53]役員賞与2割・役員報酬1割のカット
    • [54]2年間で45億円の償却を実行
    • [55]体質改善5カ年計画の総投資額334億円(海上180億円・陸上94億円・投融資60億円)
    • [56]長期借入金約63億円・社債約22億円で投資額の25%・残りは自己資金
    • [57]初年度の陸上投資16億5,300万円の大半を晴海工場へ・1960年5月竣工
    • [58]晴海埠頭 3社共同計画から大洋漁業・日魯漁業が離脱し日本水産が単独で1万トン岸壁を建設
    • [59]1962年6月 八王子工場が完成(16億4,271万円・日産ソーセージとハム50万本、マヨネーズ30トン、チーズ3トン、ラーメン20万食)
    • [61]海上事業への投資 3年目に87億1,500万円へ拡大
    • [62]1960年の船尾式トロール船天城丸の竣工と大型船の投入により、船舶の総トン数が1958年度末約14万総トンから1964年度末約30万総トンへ倍増
    • [63]1962年 第2松島丸(船価21億円・東京タンカーと12年契約)・あんです丸(船価23億円・川崎製鉄と15年契約)
    • [64]体質改善5カ年計画の成果 売上高が着手前289億円→最終年537億円で8割以上の増
  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第3章 水産業の新たな開発と展開
    • [65]1970年度 総売上高956億円・漁労部門568億円(59%)
    • [66]保有船舶130隻→115隻(捕鯨母船3→1・すり身トロール船1→3)
  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第4章 成長期の終焉
    • [67]1973年の第27次出漁から鯨種別規制・1975年の第29次から海区別規制で枠は前年比2分の1以下
    • [68]1975年の出漁を最後に南氷洋・北洋の捕鯨を終了・1976年に近海捕鯨も打ち切り
    • [69]1976年2月 6社で日本共同捕鯨を設立(資本金30億円・日本水産の出資比率32%・海上従業員434名)
  • 日経ビジネス 1974年4月15日号
    • [70]1973年11月 鈴木正長が社長に就任
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
    • [71]1974年3月 NIPPON SUISAN (U.S.A.)を設立・同年5月 UNISEA, INC.を設立(いずれも合弁)

筆者考察

戦後の日本水産を動かしたのは、どこで獲るかではなく、限られた船をどこへ向けるかという問いだった。終戦時に残ったのは隻数で3割、トン数で14%の老朽船にすぎず、建造は制限会社の指定で止められていた。1946年の第1次建造許可で得た船は14隻、同じ許可で161隻を得た大洋漁業との差が、そのまま出発点の差になった。それでも連合軍最高司令部が認めた南氷洋捕鯨の1船団へ、日本興業銀行から借りた1億9千万円を注ぎ込み、捕鯨が総売上の6割を超える数年をつくった。獲る場所を選べない会社が、選べる一点へ資本を寄せて立ち直る形を、ここで覚えたのである。

この形は、獲る量を決めるのが自社でなくなるほど脆くなる。母船式サケ・マス漁業の許可は独航船を何隻集めたかで決まり、各社は船主へ出漁資金や建造資金を貸して船を囲い込んだ。ところがブルガーニン・ラインに続く日ソ漁業条約が漁獲量の上限を定めると、集めた船団は3年で12万トンから6万7,500トンへ切り縮められる。中井春雄氏が334億円を投じた体質改善5カ年計画が、晴海と八王子の工場へ94億円を割いたのは、獲る量が交渉で決まる事業だけでは会社が立たないと見たからだろう。1976年に捕鯨を日本共同捕鯨へ委ねたとき、船へ集めてきた資本は初めて陸へ渡された。

母船式サケ・マス漁業の規制区域内漁獲量 1957年〜1960年(万トン)

12 1957 11 1958 8.5 1959 6.75 1960
  • 日ソ漁業条約にもとづく規制区域内の漁獲量の総枠で、日本水産1社の数字ではない。
  • 出所は日本水産50年史(日本水産、1961年)。

1946年〜1976年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 90 n/a 12 4 5.0% n/a
1955年03月期 単体 131 +45.6% 18 7 5.6% n/a
1956年03月期 単体 149 +13.7% 19 n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 197 +32.2% 17 n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 224 +13.7% 21 n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 241 +7.6% n/a 7 3.2% n/a
1960年03月期 単体 289 +19.9% n/a 5 1.9% n/a
1961年03月期 単体 332 +14.9% n/a 12 3.6% 晴海工場が竣工(1960/05)
1962年03月期 単体 399 +20.2% n/a 13 3.5% n/a
1963年03月期 単体 443 +11.0% n/a 15 3.5% n/a
1964年03月期 単体 537 +21.2% n/a 13 2.5% n/a
1965年03月期 単体 551 +2.6% n/a 11 2.0% n/a
1966年03月期 単体 596 +8.2% n/a 11 1.8% n/a
1967年03月期 単体 588 ▲1.3% n/a 13 2.2% n/a
1968年03月期 単体 640 +8.8% n/a 13 2.0% n/a
1969年03月期 単体 702 +9.7% n/a 16 2.3% n/a
1970年03月期 単体 821 +17.0% n/a 26 3.2% n/a
1971年03月期 単体 956 +16.4% n/a 34 3.6% n/a
1972年03月期 単体 1,093 +14.3% n/a 37 3.4% n/a
1973年03月期 単体 1,195 +9.3% n/a 27 2.3% n/a
1974年03月期 単体 1,561 +30.6% n/a 40 2.6% n/a
1975年03月期 単体 1,754 +12.4% n/a 15 0.9% n/a
1976年03月期 単体 1,995 +13.7% n/a 15 0.8% n/a

出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1956、1959年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、日本水産の70年

出典・参考

9件
出典・参考
  • ニッスイ 有価証券報告書【沿革】
  • 日本水産50年史(日本水産、1961年)
  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第2章 高度成長期の飛躍
  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第3章 水産業の新たな開発と展開
  • 日本水産百年史(日本水産、2011年)第3部第4章 成長期の終焉
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「水產」日本水産の項
  • 株式会社年鑑 1955年版「日本水産」
  • 株式会社年鑑 1960年版「日本水産」
  • 日経ビジネス 1974年4月15日号

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