ヨドバシカメラ:藤沢昭和氏の写真機材卸での独立と薄利多売の安売り店
1960年〜渋谷の親類のカメラ店から独立した写真機材の卸と、自転車の配達をやめて安く卸す店売り
藤沢昭和氏は1960年、小売店へ写真機材を卸す商いで独立した。独立の前は農業を営む実家を離れ、親類のカメラ店がある東京・渋谷に身を寄せて商売のこつを覚えた。顧客の家へ品物を届ける配達を受け持ちながら、働いて蓄えた資金を独立の元手に充てた。創業の時点から、店頭で客を待つ小売りではなく、小売店を相手にした卸売りが商いの中心だった。のちに『良い品をより安く』を標語とする事業も、出発点は写真機材の卸という小さな商いである。店舗を構えずに始められる卸売りは、自己資金しか持たない若い独立者に見合う業態だったとみられる。
- Card wave 5(8) 1992年7月号「数カ月で120万の会員を獲得したヨドバシカメラのポイントカード」
- [1]1960年(昭和35年)に創業し、もとは写真機材の卸売りを営んでいた
- 実業の世界 76(8) 1978年8月号
- [2]藤沢昭和は農業の実家を出て渋谷の親類のカメラ店で商売を覚え、配達をしながら蓄えた資金で独立した
- [3]藤沢昭和は農業の実家を出て渋谷の親類のカメラ店で商売を覚え、配達をしながら蓄えた資金で独立した
- [4]仕入部長の田村忠純によれば、創業当初から店頭の小売りではなく小売店への卸売りを営んでいた
- コンセンサス 1992年2月号「ユーザ訪問 CSで顧客固定化と顧客サービスの充実を実現 ヨドバシカメラ」
- [5]藤沢昭和は1960年の設立以来「良い品をより安く」をモットーに成長してきたと説明した
創業当初の営業は、仕入部長の田村忠純氏の言葉で『今の社長自らが自転車に乗って、注文を取ったり商品を配達したりしていた』という手作業だった。取引先が少しずつ増えるにつれ、自転車で一軒ずつ回る個別配達の能率は低下した。そこで藤沢昭和氏は個別配達をやめ、取引先に店まで足を運んでもらう方式へ切り換えた。配達の手間が減った分だけ商品を安く卸す営業方針への転換。卸売りから出発した商いは、やがて店頭での小売りにも広がった。配達にかかる費用を卸値の引き下げに置き換えた方針が、のちの安売り店の原型になったのだろう。
- 実業の世界 76(8) 1978年8月号
- [6]取引先の増加で自転車による個別配達の能率が落ち、配達をやめて取引先に来店してもらい、その分安く卸す営業方針に切り換えた
- [7]取引先の増加で自転車による個別配達の能率が落ち、配達をやめて取引先に来店してもらい、その分安く卸す営業方針に切り換えた
- [8]取引先の増加で自転車による個別配達の能率が落ち、配達をやめて取引先に来店してもらい、その分安く卸す営業方針に切り換えた
- [9]取引先の増加で自転車による個別配達の能率が落ち、配達をやめて取引先に来店してもらい、その分安く卸す営業方針に切り換えた
- Card wave 5(8) 1992年7月号「数カ月で120万の会員を獲得したヨドバシカメラのポイントカード」
- [10]写真機材の卸売りから始め、やがて小売りも手がけて発展した
参考文献[1]-[10]
- Card wave 5(8) 1992年7月号「数カ月で120万の会員を獲得したヨドバシカメラのポイントカード」
- [1]1960年(昭和35年)に創業し、もとは写真機材の卸売りを営んでいた
- [10]写真機材の卸売りから始め、やがて小売りも手がけて発展した
- 実業の世界 76(8) 1978年8月号
- [2]藤沢昭和は農業の実家を出て渋谷の親類のカメラ店で商売を覚え、配達をしながら蓄えた資金で独立した
- [3]藤沢昭和は農業の実家を出て渋谷の親類のカメラ店で商売を覚え、配達をしながら蓄えた資金で独立した
- [4]仕入部長の田村忠純によれば、創業当初から店頭の小売りではなく小売店への卸売りを営んでいた
- [6]取引先の増加で自転車による個別配達の能率が落ち、配達をやめて取引先に来店してもらい、その分安く卸す営業方針に切り換えた
- [7]取引先の増加で自転車による個別配達の能率が落ち、配達をやめて取引先に来店してもらい、その分安く卸す営業方針に切り換えた
- [8]取引先の増加で自転車による個別配達の能率が落ち、配達をやめて取引先に来店してもらい、その分安く卸す営業方針に切り換えた
- [9]取引先の増加で自転車による個別配達の能率が落ち、配達をやめて取引先に来店してもらい、その分安く卸す営業方針に切り換えた
- コンセンサス 1992年2月号「ユーザ訪問 CSで顧客固定化と顧客サービスの充実を実現 ヨドバシカメラ」
- [5]藤沢昭和は1960年の設立以来「良い品をより安く」をモットーに成長してきたと説明した
1967年〜小売りへ広げた薄利多売と、石油ショックでゆるんだメーカーの出荷規制
卸から始めた商いが小売りを手がけるようになっても、値付けの軸は利幅を薄くして数を売る薄利多売に置かれた。日本の精密機械の技術は世界一であり、良い品を安く売れば客に喜ばれるという信念が藤沢昭和氏の安売りを支えた。安売り業者を指すバッタ屋と呼ばれても構わないという気概もあった。1992年の時点でも、藤沢昭和氏は1960年の設立以来の標語として『良い品をより安く』を掲げていた。流通革命や流通業の新風という呼び名は、1960年の設立時の藤沢昭和氏にとって予感の域を出なかった。安売りの理屈は流通の理論より先に、創業者の実感から生まれたと推察される。
- Card wave 5(8) 1992年7月号「数カ月で120万の会員を獲得したヨドバシカメラのポイントカード」
- [11]写真機材の卸売りから始め、やがて小売りも手がけるようになった
- 実業の世界 76(8) 1978年8月号
- [12]藤沢昭和は薄利多売で客に喜んでもらうこと、世界一の日本の精密機械を安く売ることを志し、バッタ屋でもよいという気持ちを持っていた。流通革命・新風といった言葉は設立当時の藤沢には予感にすぎなかった
- [13]藤沢昭和は薄利多売で客に喜んでもらうこと、世界一の日本の精密機械を安く売ることを志し、バッタ屋でもよいという気持ちを持っていた。流通革命・新風といった言葉は設立当時の藤沢には予感にすぎなかった
- [14]藤沢昭和は薄利多売で客に喜んでもらうこと、世界一の日本の精密機械を安く売ることを志し、バッタ屋でもよいという気持ちを持っていた。流通革命・新風といった言葉は設立当時の藤沢には予感にすぎなかった
- [16]藤沢昭和は薄利多売で客に喜んでもらうこと、世界一の日本の精密機械を安く売ることを志し、バッタ屋でもよいという気持ちを持っていた。流通革命・新風といった言葉は設立当時の藤沢には予感にすぎなかった
- コンセンサス 1992年2月号「ユーザ訪問 CSで顧客固定化と顧客サービスの充実を実現 ヨドバシカメラ」
- [15]1992年の取材で藤沢昭和は1960年の設立以来「良い品をより安く」をモットーにしてきたと答えた
卸から小売りへ広げた安売りは、専門店や百貨店からの苦情を相次いで招いた。苦情を受けたメーカーや大手問屋は出荷の規制に動いた。仕入れの面では『当初は思うように仕入れが出来ず苦労した』という時期が続き、入荷が深夜までずれ込む日も少なくなかった。局面を変えたのは石油ショック後の業績不振によるメーカー在庫の急増である。在庫を抱えたメーカーと問屋は、品薄を口実に絞ってきた出荷を続けられなくなり、在庫の売り先として藤沢昭和氏の店への依存を深めた。値引きを条件とする出荷にも応じ、規制はゆるんだ。不況で在庫を抱えたメーカーの事情が、安売り店への出荷規制を内側から崩したとみるべきだろう。
- 実業の世界 76(8) 1978年8月号
- [17]専門店・百貨店のクレームでメーカーと大手問屋が出荷規制を始め仕入れに苦労したが、石油ショックの業績不振でメーカー在庫が急増し、値引きを条件に出荷に応じ規制がゆるんだ
- [19]専門店・百貨店のクレームでメーカーと大手問屋が出荷規制を始め仕入れに苦労したが、石油ショックの業績不振でメーカー在庫が急増し、値引きを条件に出荷に応じ規制がゆるんだ
- [20]専門店・百貨店のクレームでメーカーと大手問屋が出荷規制を始め仕入れに苦労したが、石油ショックの業績不振でメーカー在庫が急増し、値引きを条件に出荷に応じ規制がゆるんだ
- [21]専門店・百貨店のクレームでメーカーと大手問屋が出荷規制を始め仕入れに苦労したが、石油ショックの業績不振でメーカー在庫が急増し、値引きを条件に出荷に応じ規制がゆるんだ
- [22]専門店・百貨店のクレームでメーカーと大手問屋が出荷規制を始め仕入れに苦労したが、石油ショックの業績不振でメーカー在庫が急増し、値引きを条件に出荷に応じ規制がゆるんだ
- [23]専門店・百貨店のクレームでメーカーと大手問屋が出荷規制を始め仕入れに苦労したが、石油ショックの業績不振でメーカー在庫が急増し、値引きを条件に出荷に応じ規制がゆるんだ
- Card wave 5(8) 1992年7月号「数カ月で120万の会員を獲得したヨドバシカメラのポイントカード」
- [18]卸売りから始め、やがて小売りも手がけるようになった
1974年8月、創業から歩みをともにした先代社長の藤沢良作氏が世を去った。翌1975年には藤沢昭和氏が本社ビルの建設に着手。1976年6月の決算では117億円を達成した。1978年の時点の社名はヨドバシカメラで、大学卒の新入社員を募る会社案内を刷るまでになった。同じ1978年の売り場3.3㎡当たり年間販売額は51,081千円で、全国の専門店で首位に立った。新宿西口本店を中心とする店舗網は、1992年1月期には14店舗、年商約1,000億円の規模に育った。社名のヨドバシは、新宿西口本店のある西新宿一帯の旧地名、淀橋に通じると思われる。
- 実業の世界 76(8) 1978年8月号
- [24]先代社長藤沢良作が1974年8月に逝去し、翌年藤沢昭和が本社ビルに着手、1976年6月決算で117億円を達成、1978年に大卒新入社員募集のパンフレットを作成した。1978年時点の売り場3.3㎡当たり年間販売額51,081千円で全国専門店1位
- [25]先代社長藤沢良作が1974年8月に逝去し、翌年藤沢昭和が本社ビルに着手、1976年6月決算で117億円を達成、1978年に大卒新入社員募集のパンフレットを作成した。1978年時点の売り場3.3㎡当たり年間販売額51,081千円で全国専門店1位
- [26]先代社長藤沢良作が1974年8月に逝去し、翌年藤沢昭和が本社ビルに着手、1976年6月決算で117億円を達成、1978年に大卒新入社員募集のパンフレットを作成した。1978年時点の売り場3.3㎡当たり年間販売額51,081千円で全国専門店1位
- [27]先代社長藤沢良作が1974年8月に逝去し、翌年藤沢昭和が本社ビルに着手、1976年6月決算で117億円を達成、1978年に大卒新入社員募集のパンフレットを作成した。1978年時点の売り場3.3㎡当たり年間販売額51,081千円で全国専門店1位
- [28]先代社長藤沢良作が1974年8月に逝去し、翌年藤沢昭和が本社ビルに着手、1976年6月決算で117億円を達成、1978年に大卒新入社員募集のパンフレットを作成した。1978年時点の売り場3.3㎡当たり年間販売額51,081千円で全国専門店1位
- コンセンサス 1992年2月号「ユーザ訪問 CSで顧客固定化と顧客サービスの充実を実現 ヨドバシカメラ」
- [29]1992年1月期の売上規模は約1,000億円の予定で、新宿西口本店を中心に14店舗を展開していた
参考文献[11]-[29]
- Card wave 5(8) 1992年7月号「数カ月で120万の会員を獲得したヨドバシカメラのポイントカード」
- [11]写真機材の卸売りから始め、やがて小売りも手がけるようになった
- [18]卸売りから始め、やがて小売りも手がけるようになった
- 実業の世界 76(8) 1978年8月号
- [12]藤沢昭和は薄利多売で客に喜んでもらうこと、世界一の日本の精密機械を安く売ることを志し、バッタ屋でもよいという気持ちを持っていた。流通革命・新風といった言葉は設立当時の藤沢には予感にすぎなかった
- [13]藤沢昭和は薄利多売で客に喜んでもらうこと、世界一の日本の精密機械を安く売ることを志し、バッタ屋でもよいという気持ちを持っていた。流通革命・新風といった言葉は設立当時の藤沢には予感にすぎなかった
- [14]藤沢昭和は薄利多売で客に喜んでもらうこと、世界一の日本の精密機械を安く売ることを志し、バッタ屋でもよいという気持ちを持っていた。流通革命・新風といった言葉は設立当時の藤沢には予感にすぎなかった
- [16]藤沢昭和は薄利多売で客に喜んでもらうこと、世界一の日本の精密機械を安く売ることを志し、バッタ屋でもよいという気持ちを持っていた。流通革命・新風といった言葉は設立当時の藤沢には予感にすぎなかった
- [17]専門店・百貨店のクレームでメーカーと大手問屋が出荷規制を始め仕入れに苦労したが、石油ショックの業績不振でメーカー在庫が急増し、値引きを条件に出荷に応じ規制がゆるんだ
- [19]専門店・百貨店のクレームでメーカーと大手問屋が出荷規制を始め仕入れに苦労したが、石油ショックの業績不振でメーカー在庫が急増し、値引きを条件に出荷に応じ規制がゆるんだ
- [20]専門店・百貨店のクレームでメーカーと大手問屋が出荷規制を始め仕入れに苦労したが、石油ショックの業績不振でメーカー在庫が急増し、値引きを条件に出荷に応じ規制がゆるんだ
- [21]専門店・百貨店のクレームでメーカーと大手問屋が出荷規制を始め仕入れに苦労したが、石油ショックの業績不振でメーカー在庫が急増し、値引きを条件に出荷に応じ規制がゆるんだ
- [22]専門店・百貨店のクレームでメーカーと大手問屋が出荷規制を始め仕入れに苦労したが、石油ショックの業績不振でメーカー在庫が急増し、値引きを条件に出荷に応じ規制がゆるんだ
- [23]専門店・百貨店のクレームでメーカーと大手問屋が出荷規制を始め仕入れに苦労したが、石油ショックの業績不振でメーカー在庫が急増し、値引きを条件に出荷に応じ規制がゆるんだ
- [24]先代社長藤沢良作が1974年8月に逝去し、翌年藤沢昭和が本社ビルに着手、1976年6月決算で117億円を達成、1978年に大卒新入社員募集のパンフレットを作成した。1978年時点の売り場3.3㎡当たり年間販売額51,081千円で全国専門店1位
- [25]先代社長藤沢良作が1974年8月に逝去し、翌年藤沢昭和が本社ビルに着手、1976年6月決算で117億円を達成、1978年に大卒新入社員募集のパンフレットを作成した。1978年時点の売り場3.3㎡当たり年間販売額51,081千円で全国専門店1位
- [26]先代社長藤沢良作が1974年8月に逝去し、翌年藤沢昭和が本社ビルに着手、1976年6月決算で117億円を達成、1978年に大卒新入社員募集のパンフレットを作成した。1978年時点の売り場3.3㎡当たり年間販売額51,081千円で全国専門店1位
- [27]先代社長藤沢良作が1974年8月に逝去し、翌年藤沢昭和が本社ビルに着手、1976年6月決算で117億円を達成、1978年に大卒新入社員募集のパンフレットを作成した。1978年時点の売り場3.3㎡当たり年間販売額51,081千円で全国専門店1位
- [28]先代社長藤沢良作が1974年8月に逝去し、翌年藤沢昭和が本社ビルに着手、1976年6月決算で117億円を達成、1978年に大卒新入社員募集のパンフレットを作成した。1978年時点の売り場3.3㎡当たり年間販売額51,081千円で全国専門店1位
- コンセンサス 1992年2月号「ユーザ訪問 CSで顧客固定化と顧客サービスの充実を実現 ヨドバシカメラ」
- [15]1992年の取材で藤沢昭和は1960年の設立以来「良い品をより安く」をモットーにしてきたと答えた
- [29]1992年1月期の売上規模は約1,000億円の予定で、新宿西口本店を中心に14店舗を展開していた
出典・参考
3件
- 実業の世界 76(8) 1978年8月号
- Card wave 5(8) 1992年7月号「数カ月で120万の会員を獲得したヨドバシカメラのポイントカード」
- コンセンサス 1992年2月号「ユーザ訪問 CSで顧客固定化と顧客サービスの充実を実現 ヨドバシカメラ」