山一證券:損失補填問題と簿外の含み損隠しによる自主廃業
永田元雄の営業特金1兆円構想から2648億円の簿外債務による自主廃業へ
1988年〜行平次雄の社長就任と、永田元雄が旗を振った営業特金1兆円構想
1988年9月、横田良男氏が会長に退き、行平次雄氏が社長に就任した。行平氏は1955年に入社し、企画室長、法人本部長、専務を歴任した。1986年に山一インターナショナル(ヨーロッパ)会長へ転じ、1987年に副社長で戻った。証券恐慌の後、日本興業銀行出身の日高輝氏を除く植谷久三氏、横田氏、行平氏の3代は、いずれも調査・企画部門の出身だった。営業で実績を上げた者を社長に据える野村證券とは、人事の考え方が逆だった。1985年度から1990年度に山一の預り資産は13兆781億円から31兆3956億円へ増えた。伸びは2.40倍だったが、経常利益と純財産額では大手4社の4位に留まった。預かる資産が増えても順位が動かない構図が、利益を法人取引の量で補う方向へ経営を傾けたと推察される。
- 日経ビジネス 1998年2月23日号
- [1]1988年9月、横田良男社長が会長に退き、行平次雄が社長に就任した
- 日経ビジネス 1988年11月14日号
- [2]行平次雄は1955年に一橋大学法学部を卒業して山一證券に入社し、企画室長、取締役法人本部副本部長、専務取締役法人本部長を経て、1986年に山一インターナショナル(ヨーロッパ)会長、1987年副社長、1988年9月に社長に就いた
- [3]行平次雄は1955年に一橋大学法学部を卒業して山一證券に入社し、企画室長、取締役法人本部副本部長、専務取締役法人本部長を経て、1986年に山一インターナショナル(ヨーロッパ)会長、1987年副社長、1988年9月に社長に就いた
- 日経ビジネス 1990年12月17日号
- [4]証券恐慌以降、興銀出身の日高輝を除けば植谷久三・横田良男・行平次雄の3代にわたり調査・企画畑の出身者が社長に就いており、営業で成功しない限りトップにしない野村とは対照的だった
- [5]証券恐慌以降、興銀出身の日高輝を除けば植谷久三・横田良男・行平次雄の3代にわたり調査・企画畑の出身者が社長に就いており、営業で成功しない限りトップにしない野村とは対照的だった
- [6]山一の預り資産は1985年度の13兆781億円から1990年9月の31兆3956億円へ2.40倍となったが、経常利益・純財産額では大手4社の4位が定着していた
- [7]山一の預り資産は1985年度の13兆781億円から1990年9月の31兆3956億円へ2.40倍となったが、経常利益・純財産額では大手4社の4位が定着していた
順位の打開に山一が使ったのは営業特金だった。営業特金は証券会社が運用を指示する特定金銭信託で、売買を重ねるほど手数料が入り、80年代半ばに企業の財テク手段として急拡大した。横田社長期の1986年9月に株式本部長となった永田元雄氏の旗振りで、山一は営業特金1兆円構想を掲げていた。企業は運用を任せる見返りに利回りの事前保証を求め、主幹事の変更を交渉の材料に使った。日産自動車、大成建設、キヤノンなどの単独主幹事を抱えていた山一にとって、主幹事の喪失は大手4社の地位の喪失に直結した。営業特金の縮小を進言した幹部に、行平氏は野村證券が続けるうちは手を引けないとして『営業特金の拡大が危険なのはわかっているが、野村が続けているうちは手を引けない。大手の座を守るためにもやめられないんだ』という言葉を残している。利回り保証は証券取引法が禁じる約束であり、規模の追求はその約束の積み増しと一体だった。
- 日経ビジネス 1990年12月17日号
- [8]永田元雄は1986年9月に株式本部長に就任し、その旗振りの下で山一は営業特金1兆円構想を打ち出して積極推進した
- [10]永田元雄は1986年9月に株式本部長に就任し、その旗振りの下で山一は営業特金1兆円構想を打ち出して積極推進した
- 日経ビジネス 1998年2月23日号
- [9]営業特金は証券会社が運用を指示する特定金銭信託で、売買を繰り返すほど手数料収入が入り、80年代半ばに企業の財テク手段として急拡大した。企業は主幹事の変更をちらつかせて利回り保証(握り)を求め、山一は主幹事を外されることを大手4社の座を守るためにも避けたかった。行平は営業特金の縮小を進言した幹部に、野村が続けているうちは手を引けないと答えたという
- [11]営業特金は証券会社が運用を指示する特定金銭信託で、売買を繰り返すほど手数料収入が入り、80年代半ばに企業の財テク手段として急拡大した。企業は主幹事の変更をちらつかせて利回り保証(握り)を求め、山一は主幹事を外されることを大手4社の座を守るためにも避けたかった。行平は営業特金の縮小を進言した幹部に、野村が続けているうちは手を引けないと答えたという
- [13]営業特金は証券会社が運用を指示する特定金銭信託で、売買を繰り返すほど手数料収入が入り、80年代半ばに企業の財テク手段として急拡大した。企業は主幹事の変更をちらつかせて利回り保証(握り)を求め、山一は主幹事を外されることを大手4社の座を守るためにも避けたかった。行平は営業特金の縮小を進言した幹部に、野村が続けているうちは手を引けないと答えたという
- [14]営業特金は証券会社が運用を指示する特定金銭信託で、売買を繰り返すほど手数料収入が入り、80年代半ばに企業の財テク手段として急拡大した。企業は主幹事の変更をちらつかせて利回り保証(握り)を求め、山一は主幹事を外されることを大手4社の座を守るためにも避けたかった。行平は営業特金の縮小を進言した幹部に、野村が続けているうちは手を引けないと答えたという
- 日経公社債情報 1990年2月12日号「山一証券研究――リテール強化で4位脱出狙う」
- [12]山一は日産自動車、大成建設、キヤノンなど多数の有力上場企業を単独主幹事会社に抱えていた
営業特金から撤退する機会は1989年12月に訪れた。大蔵省証券局長の角谷正彦氏による通達が営業特金の解消を命じ、翌年3月までに運用の指示者を投資顧問会社へ切り替えるよう求めたのである。山一は1989年4月から法人営業本部の手数料収入の目標を前期比で3割強削減し、同年末までに営業特金を件数で4割、金額で2割程度減らしてはいた。それでも業界の見方では、残高はなお大手のなかで最も多かった。通達前から縮小を進めた野村證券は、補填の要る特金を3月末までにまとめて処理した。山一は運用規模の大きい企業を後回しにし、処理できたのは会社数で半分、金額で3割にとどまった。1990年9月中間期末の保有有価証券の含み益は、野村の3875億円に対し682億円しかなかった。損失を自社でかぶる余力の差が、処理の速さを分けたのだろう。
- 日経ビジネス 1998年2月23日号
- [15]1989年12月、証券局長の角谷正彦が出した通達は営業特金をやめ翌年3月までに運用の指示者を投資顧問会社に切り替えることを求めた。通達前から縮小を進めた野村は補填の必要な特金をすべて補填して3月末までに片づけたが、山一は運用規模の大きい企業を後回しにし、会社数で半分、金額で3割を片づけるのがやっとだった
- [16]1989年12月、証券局長の角谷正彦が出した通達は営業特金をやめ翌年3月までに運用の指示者を投資顧問会社に切り替えることを求めた。通達前から縮小を進めた野村は補填の必要な特金をすべて補填して3月末までに片づけたが、山一は運用規模の大きい企業を後回しにし、会社数で半分、金額で3割を片づけるのがやっとだった
- [19]1989年12月、証券局長の角谷正彦が出した通達は営業特金をやめ翌年3月までに運用の指示者を投資顧問会社に切り替えることを求めた。通達前から縮小を進めた野村は補填の必要な特金をすべて補填して3月末までに片づけたが、山一は運用規模の大きい企業を後回しにし、会社数で半分、金額で3割を片づけるのがやっとだった
- [20]1989年12月、証券局長の角谷正彦が出した通達は営業特金をやめ翌年3月までに運用の指示者を投資顧問会社に切り替えることを求めた。通達前から縮小を進めた野村は補填の必要な特金をすべて補填して3月末までに片づけたが、山一は運用規模の大きい企業を後回しにし、会社数で半分、金額で3割を片づけるのがやっとだった
- 日経公社債情報 1990年2月12日号「山一証券研究――リテール強化で4位脱出狙う」
- [17]山一は1989年4月以降、法人営業本部の手数料収入目標を前期比3割強削減し、同年末までに営業特金を件数で4割、金額で2割程度減らしたが、営業特金の残高が最も多いのは山一と業界で指摘されていた
- [18]山一は1989年4月以降、法人営業本部の手数料収入目標を前期比3割強削減し、同年末までに営業特金を件数で4割、金額で2割程度減らしたが、営業特金の残高が最も多いのは山一と業界で指摘されていた
- 日経ビジネス 1990年12月17日号
- [21]1990年9月中間期末の保有有価証券の含み益は野村3875億円、大和1360億円、日興1456億円に対し、山一は682億円だった
参考文献[1]-[21]
- 日経ビジネス 1998年2月23日号
- [1]1988年9月、横田良男社長が会長に退き、行平次雄が社長に就任した
- [9]営業特金は証券会社が運用を指示する特定金銭信託で、売買を繰り返すほど手数料収入が入り、80年代半ばに企業の財テク手段として急拡大した。企業は主幹事の変更をちらつかせて利回り保証(握り)を求め、山一は主幹事を外されることを大手4社の座を守るためにも避けたかった。行平は営業特金の縮小を進言した幹部に、野村が続けているうちは手を引けないと答えたという
- [11]営業特金は証券会社が運用を指示する特定金銭信託で、売買を繰り返すほど手数料収入が入り、80年代半ばに企業の財テク手段として急拡大した。企業は主幹事の変更をちらつかせて利回り保証(握り)を求め、山一は主幹事を外されることを大手4社の座を守るためにも避けたかった。行平は営業特金の縮小を進言した幹部に、野村が続けているうちは手を引けないと答えたという
- [13]営業特金は証券会社が運用を指示する特定金銭信託で、売買を繰り返すほど手数料収入が入り、80年代半ばに企業の財テク手段として急拡大した。企業は主幹事の変更をちらつかせて利回り保証(握り)を求め、山一は主幹事を外されることを大手4社の座を守るためにも避けたかった。行平は営業特金の縮小を進言した幹部に、野村が続けているうちは手を引けないと答えたという
- [14]営業特金は証券会社が運用を指示する特定金銭信託で、売買を繰り返すほど手数料収入が入り、80年代半ばに企業の財テク手段として急拡大した。企業は主幹事の変更をちらつかせて利回り保証(握り)を求め、山一は主幹事を外されることを大手4社の座を守るためにも避けたかった。行平は営業特金の縮小を進言した幹部に、野村が続けているうちは手を引けないと答えたという
- [15]1989年12月、証券局長の角谷正彦が出した通達は営業特金をやめ翌年3月までに運用の指示者を投資顧問会社に切り替えることを求めた。通達前から縮小を進めた野村は補填の必要な特金をすべて補填して3月末までに片づけたが、山一は運用規模の大きい企業を後回しにし、会社数で半分、金額で3割を片づけるのがやっとだった
- [16]1989年12月、証券局長の角谷正彦が出した通達は営業特金をやめ翌年3月までに運用の指示者を投資顧問会社に切り替えることを求めた。通達前から縮小を進めた野村は補填の必要な特金をすべて補填して3月末までに片づけたが、山一は運用規模の大きい企業を後回しにし、会社数で半分、金額で3割を片づけるのがやっとだった
- [19]1989年12月、証券局長の角谷正彦が出した通達は営業特金をやめ翌年3月までに運用の指示者を投資顧問会社に切り替えることを求めた。通達前から縮小を進めた野村は補填の必要な特金をすべて補填して3月末までに片づけたが、山一は運用規模の大きい企業を後回しにし、会社数で半分、金額で3割を片づけるのがやっとだった
- [20]1989年12月、証券局長の角谷正彦が出した通達は営業特金をやめ翌年3月までに運用の指示者を投資顧問会社に切り替えることを求めた。通達前から縮小を進めた野村は補填の必要な特金をすべて補填して3月末までに片づけたが、山一は運用規模の大きい企業を後回しにし、会社数で半分、金額で3割を片づけるのがやっとだった
- 日経ビジネス 1988年11月14日号
- [2]行平次雄は1955年に一橋大学法学部を卒業して山一證券に入社し、企画室長、取締役法人本部副本部長、専務取締役法人本部長を経て、1986年に山一インターナショナル(ヨーロッパ)会長、1987年副社長、1988年9月に社長に就いた
- [3]行平次雄は1955年に一橋大学法学部を卒業して山一證券に入社し、企画室長、取締役法人本部副本部長、専務取締役法人本部長を経て、1986年に山一インターナショナル(ヨーロッパ)会長、1987年副社長、1988年9月に社長に就いた
- 日経ビジネス 1990年12月17日号
- [4]証券恐慌以降、興銀出身の日高輝を除けば植谷久三・横田良男・行平次雄の3代にわたり調査・企画畑の出身者が社長に就いており、営業で成功しない限りトップにしない野村とは対照的だった
- [5]証券恐慌以降、興銀出身の日高輝を除けば植谷久三・横田良男・行平次雄の3代にわたり調査・企画畑の出身者が社長に就いており、営業で成功しない限りトップにしない野村とは対照的だった
- [6]山一の預り資産は1985年度の13兆781億円から1990年9月の31兆3956億円へ2.40倍となったが、経常利益・純財産額では大手4社の4位が定着していた
- [7]山一の預り資産は1985年度の13兆781億円から1990年9月の31兆3956億円へ2.40倍となったが、経常利益・純財産額では大手4社の4位が定着していた
- [8]永田元雄は1986年9月に株式本部長に就任し、その旗振りの下で山一は営業特金1兆円構想を打ち出して積極推進した
- [10]永田元雄は1986年9月に株式本部長に就任し、その旗振りの下で山一は営業特金1兆円構想を打ち出して積極推進した
- [21]1990年9月中間期末の保有有価証券の含み益は野村3875億円、大和1360億円、日興1456億円に対し、山一は682億円だった
- 日経公社債情報 1990年2月12日号「山一証券研究――リテール強化で4位脱出狙う」
- [12]山一は日産自動車、大成建設、キヤノンなど多数の有力上場企業を単独主幹事会社に抱えていた
- [17]山一は1989年4月以降、法人営業本部の手数料収入目標を前期比3割強削減し、同年末までに営業特金を件数で4割、金額で2割程度減らしたが、営業特金の残高が最も多いのは山一と業界で指摘されていた
- [18]山一は1989年4月以降、法人営業本部の手数料収入目標を前期比3割強削減し、同年末までに営業特金を件数で4割、金額で2割程度減らしたが、営業特金の残高が最も多いのは山一と業界で指摘されていた
1990年〜損失の簿外処理の決定と自己資本の減少
1990年9月中間期の経常利益は304億円と前年同期比74%減り、準大手の国際証券に70億円差まで迫られた。同年5月、損失処理を担ってきた小松正男副社長の委員会が解散した。開示より時間を選んだ経営陣の判断は、損失を計上すれば赤字が膨らむ局面でのものだった。委員会の会議は後任の延命隆副社長のもとで1度きりで終わった。損失補填を禁じる改正証券取引法の施行が1992年1月と決まったのは、1991年夏に大口顧客への補填が発覚したことが引き金である。同年9月中間決算で大手4社のうち赤字は山一のみとなったが、首脳は改正法を根拠に顧客へ損を戻そうとはせず、争っても押し返せない相手の分は帳簿の外で片付けるという枠組みを11月の会議で決めた。この間、1992年6月に行平氏は会長となり、1988年に専務企画室長として小松委員会の一員だった三木淳夫氏が後任の社長に就任した。
- 日経ビジネス 1990年12月17日号
- [22]1990年9月中間決算の経常利益は304億円で前年同期比74%減少し、国際証券に70億円差まで詰め寄られた
- 日経ビジネス 1998年2月23日号
- [23]1990年5月、損失処理を進めていた小松委員会が副社長小松正男の子会社転出で解散し、後任の副社長延命隆は会議を1度開いただけで委員会を解散して密室処理の度合いが深まった。1991年夏に損失補填問題が噴出し、損失補填の禁止を盛り込んだ改正証取法が1992年1月から施行されることになった。同年11月の2度目の首脳会議で、戦っても勝ち目のない取引先の損失を簿外で処理する大枠が決められた
- [24]1990年5月、損失処理を進めていた小松委員会が副社長小松正男の子会社転出で解散し、後任の副社長延命隆は会議を1度開いただけで委員会を解散して密室処理の度合いが深まった。1991年夏に損失補填問題が噴出し、損失補填の禁止を盛り込んだ改正証取法が1992年1月から施行されることになった。同年11月の2度目の首脳会議で、戦っても勝ち目のない取引先の損失を簿外で処理する大枠が決められた
- [25]1990年5月、損失処理を進めていた小松委員会が副社長小松正男の子会社転出で解散し、後任の副社長延命隆は会議を1度開いただけで委員会を解散して密室処理の度合いが深まった。1991年夏に損失補填問題が噴出し、損失補填の禁止を盛り込んだ改正証取法が1992年1月から施行されることになった。同年11月の2度目の首脳会議で、戦っても勝ち目のない取引先の損失を簿外で処理する大枠が決められた
- [27]1990年5月、損失処理を進めていた小松委員会が副社長小松正男の子会社転出で解散し、後任の副社長延命隆は会議を1度開いただけで委員会を解散して密室処理の度合いが深まった。1991年夏に損失補填問題が噴出し、損失補填の禁止を盛り込んだ改正証取法が1992年1月から施行されることになった。同年11月の2度目の首脳会議で、戦っても勝ち目のない取引先の損失を簿外で処理する大枠が決められた
- 日経ビジネス 1992年2月3日号
- [26]1991年9月中間決算では、大手4社のうち山一証券が赤字に陥った
- 日経ビジネス 1998年2月2日号
- [28]1992年6月、行平次雄が会長、三木淳夫が社長に就任した
- 日経ビジネス 1998年2月16日号
- [29]1988年9月に行平が設けた簿外損失処理の非公式な委員会(小松委員会)の中心メンバーに専務企画室長の三木がいた。三木は11代社長(1992〜97年)
簿外の損失とは別に、表の財務も細っていった。自己資本の額はピークの1991年3月期の7693億円から1993年9月末の6527億円へ15%強減った。同じ期間の他の大手3社の減少率は2〜8%にとどまった。純財産額に対する長短借入金の比率は、1990年3月期の26%から1993年3月期には67%に上がった。1993年9月末の自己資本規制比率は302%あったが、月末の比率を保つため毎月下旬に債券の持ち高を落とした。同年8月の債券売買益は1億6800万円で、大和証券は56億8400万円だった。販売管理費は1990年3月期から3年で32%削減し、大手4社で最大の削減率だったが、1995年3月期には506億円の経常赤字を計上した。資本の薄さが自己売買と金融収支の稼ぎを縛り、経費の削減では埋まらなかった。
- 日経公社債情報 1993年11月1日号「山一証券の研究――営業を制約し始めた自己資本の乏しさ」
- [30]山一の自己資本は1993年9月末で6527億円と、ピークの1991年3月期の7693億円から15%強減少し、他の大手3社の減少率2〜8%を上回った。借入金比率は1990年3月期の26%から1993年3月期に67%となった。9月末の自己資本規制比率は302%だったが、月末の比率を保つため毎月下旬にポジションを縮小せざるを得ず、8月の債券売買益は1億6800万円(大和56億8400万円)にとどまった。販売管理費は1990年3月期から1993年3月期までに32%削減し、大手4社で最大の削減率だった
- [31]山一の自己資本は1993年9月末で6527億円と、ピークの1991年3月期の7693億円から15%強減少し、他の大手3社の減少率2〜8%を上回った。借入金比率は1990年3月期の26%から1993年3月期に67%となった。9月末の自己資本規制比率は302%だったが、月末の比率を保つため毎月下旬にポジションを縮小せざるを得ず、8月の債券売買益は1億6800万円(大和56億8400万円)にとどまった。販売管理費は1990年3月期から1993年3月期までに32%削減し、大手4社で最大の削減率だった
- [32]山一の自己資本は1993年9月末で6527億円と、ピークの1991年3月期の7693億円から15%強減少し、他の大手3社の減少率2〜8%を上回った。借入金比率は1990年3月期の26%から1993年3月期に67%となった。9月末の自己資本規制比率は302%だったが、月末の比率を保つため毎月下旬にポジションを縮小せざるを得ず、8月の債券売買益は1億6800万円(大和56億8400万円)にとどまった。販売管理費は1990年3月期から1993年3月期までに32%削減し、大手4社で最大の削減率だった
- [33]山一の自己資本は1993年9月末で6527億円と、ピークの1991年3月期の7693億円から15%強減少し、他の大手3社の減少率2〜8%を上回った。借入金比率は1990年3月期の26%から1993年3月期に67%となった。9月末の自己資本規制比率は302%だったが、月末の比率を保つため毎月下旬にポジションを縮小せざるを得ず、8月の債券売買益は1億6800万円(大和56億8400万円)にとどまった。販売管理費は1990年3月期から1993年3月期までに32%削減し、大手4社で最大の削減率だった
- [34]山一の自己資本は1993年9月末で6527億円と、ピークの1991年3月期の7693億円から15%強減少し、他の大手3社の減少率2〜8%を上回った。借入金比率は1990年3月期の26%から1993年3月期に67%となった。9月末の自己資本規制比率は302%だったが、月末の比率を保つため毎月下旬にポジションを縮小せざるを得ず、8月の債券売買益は1億6800万円(大和56億8400万円)にとどまった。販売管理費は1990年3月期から1993年3月期までに32%削減し、大手4社で最大の削減率だった
- [35]山一の自己資本は1993年9月末で6527億円と、ピークの1991年3月期の7693億円から15%強減少し、他の大手3社の減少率2〜8%を上回った。借入金比率は1990年3月期の26%から1993年3月期に67%となった。9月末の自己資本規制比率は302%だったが、月末の比率を保つため毎月下旬にポジションを縮小せざるを得ず、8月の債券売買益は1億6800万円(大和56億8400万円)にとどまった。販売管理費は1990年3月期から1993年3月期までに32%削減し、大手4社で最大の削減率だった
- 日経ビジネス 1997年12月1日号
- [36]1995年3月期決算で506億円の経常赤字を計上した
法人の山一と呼ばれた引受の地盤も揺らいだ。1993年の新規公開企業の主幹事数は野村證券34社、大和証券20社、日興証券15社に対し山一は12社で、大手4社の最下位だった。幹事数の合計でも、1993年12月末に山一の1280社は日興の1248社に32社差まで詰められた。80年代半ばから1991年まで、支店が発掘した企業でも山一が主幹事になれなければ業績評価はゼロだった。サービス業の新規公開が相次いだ1993年には、山一が主幹事を務めたレジャー・サービス企業は2社にとどまった。個人向けでは投資信託の預かり資産が1989年9月末の6兆4500億円から1993年9月末には5兆1200億円へ減った。1993年には証券取引等監視委員会が初の定期検査で飛ばしと含み損を抱えた有価証券を見つけたが、問題は公表されなかった。
- 日経公社債情報 1993年11月1日号「山一証券の研究――営業を制約し始めた自己資本の乏しさ」
- [37]山一の公開引受業務は80年代半ばから91年まで主幹事絶対主義で、主幹事になる可能性の低い企業を支店が発掘しても業績評価はゼロだった。1993年に変わり種のサービス業が続々と株式公開するなかで、山一主幹事のレジャー・サービス企業は2社にとどまった。投信の預かり資産は1989年9月末の6兆4500億円から1993年9月末に5兆1200億円へ減少した
- [40]山一の公開引受業務は80年代半ばから91年まで主幹事絶対主義で、主幹事になる可能性の低い企業を支店が発掘しても業績評価はゼロだった。1993年に変わり種のサービス業が続々と株式公開するなかで、山一主幹事のレジャー・サービス企業は2社にとどまった。投信の預かり資産は1989年9月末の6兆4500億円から1993年9月末に5兆1200億円へ減少した
- [41]山一の公開引受業務は80年代半ばから91年まで主幹事絶対主義で、主幹事になる可能性の低い企業を支店が発掘しても業績評価はゼロだった。1993年に変わり種のサービス業が続々と株式公開するなかで、山一主幹事のレジャー・サービス企業は2社にとどまった。投信の預かり資産は1989年9月末の6兆4500億円から1993年9月末に5兆1200億円へ減少した
- [42]山一の公開引受業務は80年代半ばから91年まで主幹事絶対主義で、主幹事になる可能性の低い企業を支店が発掘しても業績評価はゼロだった。1993年に変わり種のサービス業が続々と株式公開するなかで、山一主幹事のレジャー・サービス企業は2社にとどまった。投信の預かり資産は1989年9月末の6兆4500億円から1993年9月末に5兆1200億円へ減少した
- 日経ビジネス 1994年6月13日号
- [38]1993年の大手4社の新規公開企業の主幹事数は野村34社、大和20社、日興15社、山一12社で山一は最下位。1993年12月末の幹事数は野村1448社、山一1280社、日興1248社で、その差は32社だった
- [39]1993年の大手4社の新規公開企業の主幹事数は野村34社、大和20社、日興15社、山一12社で山一は最下位。1993年12月末の幹事数は野村1448社、山一1280社、日興1248社で、その差は32社だった
- 日経ビジネス 1997年12月1日号
- [43]1993年、証券取引等監視委員会は山一に初めての定期検査を実施し、半年以上に及んだ検査で飛ばし行為や顧客から引き受けたとみられる含み損を抱えた有価証券を発見したが、問題解決の先送りが黙認された
参考文献[22]-[43]
- 日経ビジネス 1990年12月17日号
- [22]1990年9月中間決算の経常利益は304億円で前年同期比74%減少し、国際証券に70億円差まで詰め寄られた
- 日経ビジネス 1998年2月23日号
- [23]1990年5月、損失処理を進めていた小松委員会が副社長小松正男の子会社転出で解散し、後任の副社長延命隆は会議を1度開いただけで委員会を解散して密室処理の度合いが深まった。1991年夏に損失補填問題が噴出し、損失補填の禁止を盛り込んだ改正証取法が1992年1月から施行されることになった。同年11月の2度目の首脳会議で、戦っても勝ち目のない取引先の損失を簿外で処理する大枠が決められた
- [24]1990年5月、損失処理を進めていた小松委員会が副社長小松正男の子会社転出で解散し、後任の副社長延命隆は会議を1度開いただけで委員会を解散して密室処理の度合いが深まった。1991年夏に損失補填問題が噴出し、損失補填の禁止を盛り込んだ改正証取法が1992年1月から施行されることになった。同年11月の2度目の首脳会議で、戦っても勝ち目のない取引先の損失を簿外で処理する大枠が決められた
- [25]1990年5月、損失処理を進めていた小松委員会が副社長小松正男の子会社転出で解散し、後任の副社長延命隆は会議を1度開いただけで委員会を解散して密室処理の度合いが深まった。1991年夏に損失補填問題が噴出し、損失補填の禁止を盛り込んだ改正証取法が1992年1月から施行されることになった。同年11月の2度目の首脳会議で、戦っても勝ち目のない取引先の損失を簿外で処理する大枠が決められた
- [27]1990年5月、損失処理を進めていた小松委員会が副社長小松正男の子会社転出で解散し、後任の副社長延命隆は会議を1度開いただけで委員会を解散して密室処理の度合いが深まった。1991年夏に損失補填問題が噴出し、損失補填の禁止を盛り込んだ改正証取法が1992年1月から施行されることになった。同年11月の2度目の首脳会議で、戦っても勝ち目のない取引先の損失を簿外で処理する大枠が決められた
- 日経ビジネス 1992年2月3日号
- [26]1991年9月中間決算では、大手4社のうち山一証券が赤字に陥った
- 日経ビジネス 1998年2月2日号
- [28]1992年6月、行平次雄が会長、三木淳夫が社長に就任した
- 日経ビジネス 1998年2月16日号
- [29]1988年9月に行平が設けた簿外損失処理の非公式な委員会(小松委員会)の中心メンバーに専務企画室長の三木がいた。三木は11代社長(1992〜97年)
- 日経公社債情報 1993年11月1日号「山一証券の研究――営業を制約し始めた自己資本の乏しさ」
- [30]山一の自己資本は1993年9月末で6527億円と、ピークの1991年3月期の7693億円から15%強減少し、他の大手3社の減少率2〜8%を上回った。借入金比率は1990年3月期の26%から1993年3月期に67%となった。9月末の自己資本規制比率は302%だったが、月末の比率を保つため毎月下旬にポジションを縮小せざるを得ず、8月の債券売買益は1億6800万円(大和56億8400万円)にとどまった。販売管理費は1990年3月期から1993年3月期までに32%削減し、大手4社で最大の削減率だった
- [31]山一の自己資本は1993年9月末で6527億円と、ピークの1991年3月期の7693億円から15%強減少し、他の大手3社の減少率2〜8%を上回った。借入金比率は1990年3月期の26%から1993年3月期に67%となった。9月末の自己資本規制比率は302%だったが、月末の比率を保つため毎月下旬にポジションを縮小せざるを得ず、8月の債券売買益は1億6800万円(大和56億8400万円)にとどまった。販売管理費は1990年3月期から1993年3月期までに32%削減し、大手4社で最大の削減率だった
- [32]山一の自己資本は1993年9月末で6527億円と、ピークの1991年3月期の7693億円から15%強減少し、他の大手3社の減少率2〜8%を上回った。借入金比率は1990年3月期の26%から1993年3月期に67%となった。9月末の自己資本規制比率は302%だったが、月末の比率を保つため毎月下旬にポジションを縮小せざるを得ず、8月の債券売買益は1億6800万円(大和56億8400万円)にとどまった。販売管理費は1990年3月期から1993年3月期までに32%削減し、大手4社で最大の削減率だった
- [33]山一の自己資本は1993年9月末で6527億円と、ピークの1991年3月期の7693億円から15%強減少し、他の大手3社の減少率2〜8%を上回った。借入金比率は1990年3月期の26%から1993年3月期に67%となった。9月末の自己資本規制比率は302%だったが、月末の比率を保つため毎月下旬にポジションを縮小せざるを得ず、8月の債券売買益は1億6800万円(大和56億8400万円)にとどまった。販売管理費は1990年3月期から1993年3月期までに32%削減し、大手4社で最大の削減率だった
- [34]山一の自己資本は1993年9月末で6527億円と、ピークの1991年3月期の7693億円から15%強減少し、他の大手3社の減少率2〜8%を上回った。借入金比率は1990年3月期の26%から1993年3月期に67%となった。9月末の自己資本規制比率は302%だったが、月末の比率を保つため毎月下旬にポジションを縮小せざるを得ず、8月の債券売買益は1億6800万円(大和56億8400万円)にとどまった。販売管理費は1990年3月期から1993年3月期までに32%削減し、大手4社で最大の削減率だった
- [35]山一の自己資本は1993年9月末で6527億円と、ピークの1991年3月期の7693億円から15%強減少し、他の大手3社の減少率2〜8%を上回った。借入金比率は1990年3月期の26%から1993年3月期に67%となった。9月末の自己資本規制比率は302%だったが、月末の比率を保つため毎月下旬にポジションを縮小せざるを得ず、8月の債券売買益は1億6800万円(大和56億8400万円)にとどまった。販売管理費は1990年3月期から1993年3月期までに32%削減し、大手4社で最大の削減率だった
- [37]山一の公開引受業務は80年代半ばから91年まで主幹事絶対主義で、主幹事になる可能性の低い企業を支店が発掘しても業績評価はゼロだった。1993年に変わり種のサービス業が続々と株式公開するなかで、山一主幹事のレジャー・サービス企業は2社にとどまった。投信の預かり資産は1989年9月末の6兆4500億円から1993年9月末に5兆1200億円へ減少した
- [40]山一の公開引受業務は80年代半ばから91年まで主幹事絶対主義で、主幹事になる可能性の低い企業を支店が発掘しても業績評価はゼロだった。1993年に変わり種のサービス業が続々と株式公開するなかで、山一主幹事のレジャー・サービス企業は2社にとどまった。投信の預かり資産は1989年9月末の6兆4500億円から1993年9月末に5兆1200億円へ減少した
- [41]山一の公開引受業務は80年代半ばから91年まで主幹事絶対主義で、主幹事になる可能性の低い企業を支店が発掘しても業績評価はゼロだった。1993年に変わり種のサービス業が続々と株式公開するなかで、山一主幹事のレジャー・サービス企業は2社にとどまった。投信の預かり資産は1989年9月末の6兆4500億円から1993年9月末に5兆1200億円へ減少した
- [42]山一の公開引受業務は80年代半ばから91年まで主幹事絶対主義で、主幹事になる可能性の低い企業を支店が発掘しても業績評価はゼロだった。1993年に変わり種のサービス業が続々と株式公開するなかで、山一主幹事のレジャー・サービス企業は2社にとどまった。投信の預かり資産は1989年9月末の6兆4500億円から1993年9月末に5兆1200億円へ減少した
- 日経ビジネス 1997年12月1日号
- [36]1995年3月期決算で506億円の経常赤字を計上した
- [43]1993年、証券取引等監視委員会は山一に初めての定期検査を実施し、半年以上に及んだ検査で飛ばし行為や顧客から引き受けたとみられる含み損を抱えた有価証券を発見したが、問題解決の先送りが黙認された
- 日経ビジネス 1994年6月13日号
- [38]1993年の大手4社の新規公開企業の主幹事数は野村34社、大和20社、日興15社、山一12社で山一は最下位。1993年12月末の幹事数は野村1448社、山一1280社、日興1248社で、その差は32社だった
- [39]1993年の大手4社の新規公開企業の主幹事数は野村34社、大和20社、日興15社、山一12社で山一は最下位。1993年12月末の幹事数は野村1448社、山一1280社、日興1248社で、その差は32社だった
1997年〜総会屋事件による経営陣の刷新と2648億円の簿外債務
1997年7月30日、総会屋への利益供与の疑いで東京地検特捜部と証券取引等監視委員会が本社を捜索した。8月11日には行平会長と三木淳夫社長ら11人の取締役が退任した。業績の低迷はそれ以前から深く、1997年3月期の経常利益は準大手の国際証券を下回った。自己資本とは別の指標である純財産額も、ピークの1990年3月期から半分に減っていた。野村證券、大和証券、日興証券の同じ期間の減少率は3割前後だった。後任の野澤正平氏は1964年に法政大学を出て入社し、名古屋や大阪の支店長を務めた営業畑の出身だった。私大出身者として戦後初、営業出身としても初の社長だった。前任まで4代の社長は支店経験の乏しい企画畑の本社育ちであり、トップの経歴はここで初めて入れ替わった。
- 日経ビジネス 1997年12月1日号
- [44]1997年7月30日、東京地検特捜部と証券取引等監視委員会が商法違反と証券取引法違反の疑いで山一本社などを家宅捜索し、8月11日に行平次雄会長、三木淳夫社長ら首脳陣が総退陣した
- 日経ビジネス 1997年9月29日号
- [45]総会屋への利益供与事件で1997年8月11日に行平会長、三木社長ら11人の取締役が退任した。1997年3月期の経常利益は国際証券を下回り、純財産額はピークの90年3月期から5割まで減少した(野村・大和・日興は3割前後)。三木までのトップは4代続けて支店勤務の経験がほとんどない企画畑の本社育ちで、野澤正平社長は私大出身者で戦後初、営業畑出身としても初めてのトップだった
- [46]総会屋への利益供与事件で1997年8月11日に行平会長、三木社長ら11人の取締役が退任した。1997年3月期の経常利益は国際証券を下回り、純財産額はピークの90年3月期から5割まで減少した(野村・大和・日興は3割前後)。三木までのトップは4代続けて支店勤務の経験がほとんどない企画畑の本社育ちで、野澤正平社長は私大出身者で戦後初、営業畑出身としても初めてのトップだった
- [47]総会屋への利益供与事件で1997年8月11日に行平会長、三木社長ら11人の取締役が退任した。1997年3月期の経常利益は国際証券を下回り、純財産額はピークの90年3月期から5割まで減少した(野村・大和・日興は3割前後)。三木までのトップは4代続けて支店勤務の経験がほとんどない企画畑の本社育ちで、野澤正平社長は私大出身者で戦後初、営業畑出身としても初めてのトップだった
- [48]総会屋への利益供与事件で1997年8月11日に行平会長、三木社長ら11人の取締役が退任した。1997年3月期の経常利益は国際証券を下回り、純財産額はピークの90年3月期から5割まで減少した(野村・大和・日興は3割前後)。三木までのトップは4代続けて支店勤務の経験がほとんどない企画畑の本社育ちで、野澤正平社長は私大出身者で戦後初、営業畑出身としても初めてのトップだった
- [50]総会屋への利益供与事件で1997年8月11日に行平会長、三木社長ら11人の取締役が退任した。1997年3月期の経常利益は国際証券を下回り、純財産額はピークの90年3月期から5割まで減少した(野村・大和・日興は3割前後)。三木までのトップは4代続けて支店勤務の経験がほとんどない企画畑の本社育ちで、野澤正平社長は私大出身者で戦後初、営業畑出身としても初めてのトップだった
- [51]総会屋への利益供与事件で1997年8月11日に行平会長、三木社長ら11人の取締役が退任した。1997年3月期の経常利益は国際証券を下回り、純財産額はピークの90年3月期から5割まで減少した(野村・大和・日興は3割前後)。三木までのトップは4代続けて支店勤務の経験がほとんどない企画畑の本社育ちで、野澤正平社長は私大出身者で戦後初、営業畑出身としても初めてのトップだった
- 日経ビジネス 1998年12月21日・28日号
- [49]野澤正平は1938年長野県生まれ、1964年に法政大学経済学部を卒業して山一証券に入社し、主に営業畑を歩んで名古屋支店長や大阪店長を務め、1997年8月に社長に就いた
約2600億円に及ぶ損失の処理には金融機関の支えが欠かせなかった。そこで野澤氏は、主力の富士銀行をまず固めてから他行の協力を仰ぐ筋道を描いた。発端は1997年8月16日、就任してほぼ1週間の時点で、国の内外の含み損が2000億円を上回るとの報告を受けたことだった。行平前会長が利益を積んで少しずつ消していく軟着陸を主張したのに対し、野澤氏は10月の中間決算で再建策と一緒に含み損を明らかにする段取りを組んだ。富士銀行の回答は遅れたうえ支援にも応じず、10月15日に会長との会食を設けていたスイスの総合金融会社との提携も進まなくなった。ムーディーズの長期債格付けは投資適格で最も低いBaa3だった。1997年3月期末の自己資本規制比率は240%で、あと300億円程度の最終損失で200%を割る水準にあった。公表の時機を銀行の回答に預けたことが、残る猶予を失わせたとみられる。
- 日経ビジネス 1998年12月21日・28日号
- [52]野澤は社長就任から約1週間後の1997年8月16日、財務担当者から国内外に2000億円を超える含み損があると報告を受けた。行平前会長は利益を上げて徐々に償却するソフトランディングを主張したが、野澤は10月の中間決算で再建策とともに含み損を公表する青写真を描いた。主力の富士銀行の支援を取り付けてから他行に頼む道筋だったが、富士銀行の返事は遅れ支援も得られず、10月15日に相手側会長と会食を設定していたスイスの総合金融会社との提携も実現しなかった
- [53]野澤は社長就任から約1週間後の1997年8月16日、財務担当者から国内外に2000億円を超える含み損があると報告を受けた。行平前会長は利益を上げて徐々に償却するソフトランディングを主張したが、野澤は10月の中間決算で再建策とともに含み損を公表する青写真を描いた。主力の富士銀行の支援を取り付けてから他行に頼む道筋だったが、富士銀行の返事は遅れ支援も得られず、10月15日に相手側会長と会食を設定していたスイスの総合金融会社との提携も実現しなかった
- [54]野澤は社長就任から約1週間後の1997年8月16日、財務担当者から国内外に2000億円を超える含み損があると報告を受けた。行平前会長は利益を上げて徐々に償却するソフトランディングを主張したが、野澤は10月の中間決算で再建策とともに含み損を公表する青写真を描いた。主力の富士銀行の支援を取り付けてから他行に頼む道筋だったが、富士銀行の返事は遅れ支援も得られず、10月15日に相手側会長と会食を設定していたスイスの総合金融会社との提携も実現しなかった
- [55]野澤は社長就任から約1週間後の1997年8月16日、財務担当者から国内外に2000億円を超える含み損があると報告を受けた。行平前会長は利益を上げて徐々に償却するソフトランディングを主張したが、野澤は10月の中間決算で再建策とともに含み損を公表する青写真を描いた。主力の富士銀行の支援を取り付けてから他行に頼む道筋だったが、富士銀行の返事は遅れ支援も得られず、10月15日に相手側会長と会食を設定していたスイスの総合金融会社との提携も実現しなかった
- 日経ビジネス 1997年9月29日号
- [56]ムーディーズによる山一の長期債格付けは投資適格の最低等級Baa3で、1997年6月の見直しで「ネガティブ」の見通しがついた。1997年3月期末の自己資本規制比率は240%で、あと300億円程度の最終損失で早期警戒水準の200%を下回る状態だった
- [57]ムーディーズによる山一の長期債格付けは投資適格の最低等級Baa3で、1997年6月の見直しで「ネガティブ」の見通しがついた。1997年3月期末の自己資本規制比率は240%で、あと300億円程度の最終損失で早期警戒水準の200%を下回る状態だった
10月23日に発表した1997年9月中間決算は大手4社で唯一の赤字となり、11月3日には三洋証券が会社更生法の適用を申請した。11月17日に北海道拓殖銀行が破綻すると、外国銀行の一部が取引を止め、同日、簿外債務の社内調査の結果が当局へ報告された。21日にムーディーズが格付けを3段階下げて投資不適格とし、週明けの資金繰りのめどが立たなくなった。22日に大蔵省が簿外債務の存在を公表し、24日に山一は自主廃業を決め、簿外債務が2648億円に上ることを明らかにした。負債総額は3兆円に達し、会社更生法を見送った理由として山一が挙げたのは、日銀特融を受けると新たな債務が生じる点だった。当時約7600人いた社員は、1年後には約84%が再就職を果たし、社会人生活を仕切り直したという。
- 日経ビジネス 1997年12月1日号
- [58]1997年10月23日、大手4社で唯一赤字となった9月中間決算を発表した。11月3日に三洋証券が会社更生法を申請し、17日の北海道拓殖銀行の破綻表面化で一部外国銀行が取引を停止した。17日に野澤社長が証券取引等監視委員会に簿外債務に関する社内調査結果を報告し、21日にムーディーズが格付けを3段階引き下げて投資不適格とし、資金繰りのメドが立たなくなった。22日に大蔵省が簿外債務の存在を公表し、24日に自主廃業を決定した。負債総額は3兆円に達し、山一は日銀の特別融資を受けると新たな債務が発生するため更生法を断念したと説明した
- [59]1997年10月23日、大手4社で唯一赤字となった9月中間決算を発表した。11月3日に三洋証券が会社更生法を申請し、17日の北海道拓殖銀行の破綻表面化で一部外国銀行が取引を停止した。17日に野澤社長が証券取引等監視委員会に簿外債務に関する社内調査結果を報告し、21日にムーディーズが格付けを3段階引き下げて投資不適格とし、資金繰りのメドが立たなくなった。22日に大蔵省が簿外債務の存在を公表し、24日に自主廃業を決定した。負債総額は3兆円に達し、山一は日銀の特別融資を受けると新たな債務が発生するため更生法を断念したと説明した
- [60]1997年10月23日、大手4社で唯一赤字となった9月中間決算を発表した。11月3日に三洋証券が会社更生法を申請し、17日の北海道拓殖銀行の破綻表面化で一部外国銀行が取引を停止した。17日に野澤社長が証券取引等監視委員会に簿外債務に関する社内調査結果を報告し、21日にムーディーズが格付けを3段階引き下げて投資不適格とし、資金繰りのメドが立たなくなった。22日に大蔵省が簿外債務の存在を公表し、24日に自主廃業を決定した。負債総額は3兆円に達し、山一は日銀の特別融資を受けると新たな債務が発生するため更生法を断念したと説明した
- [61]1997年10月23日、大手4社で唯一赤字となった9月中間決算を発表した。11月3日に三洋証券が会社更生法を申請し、17日の北海道拓殖銀行の破綻表面化で一部外国銀行が取引を停止した。17日に野澤社長が証券取引等監視委員会に簿外債務に関する社内調査結果を報告し、21日にムーディーズが格付けを3段階引き下げて投資不適格とし、資金繰りのメドが立たなくなった。22日に大蔵省が簿外債務の存在を公表し、24日に自主廃業を決定した。負債総額は3兆円に達し、山一は日銀の特別融資を受けると新たな債務が発生するため更生法を断念したと説明した
- [63]1997年10月23日、大手4社で唯一赤字となった9月中間決算を発表した。11月3日に三洋証券が会社更生法を申請し、17日の北海道拓殖銀行の破綻表面化で一部外国銀行が取引を停止した。17日に野澤社長が証券取引等監視委員会に簿外債務に関する社内調査結果を報告し、21日にムーディーズが格付けを3段階引き下げて投資不適格とし、資金繰りのメドが立たなくなった。22日に大蔵省が簿外債務の存在を公表し、24日に自主廃業を決定した。負債総額は3兆円に達し、山一は日銀の特別融資を受けると新たな債務が発生するため更生法を断念したと説明した
- 日経ビジネス 1998年2月23日号
- [62]1997年11月の自主廃業決定で2648億円の簿外債務が明らかになった
- 日経ビジネス 1998年12月21日・28日号
- [64]自主廃業の発表当時約7600人いた社員のうち、1998年12月時点で約84%が新しい職場で働いている
参考文献[44]-[64]
- 日経ビジネス 1997年12月1日号
- [44]1997年7月30日、東京地検特捜部と証券取引等監視委員会が商法違反と証券取引法違反の疑いで山一本社などを家宅捜索し、8月11日に行平次雄会長、三木淳夫社長ら首脳陣が総退陣した
- [58]1997年10月23日、大手4社で唯一赤字となった9月中間決算を発表した。11月3日に三洋証券が会社更生法を申請し、17日の北海道拓殖銀行の破綻表面化で一部外国銀行が取引を停止した。17日に野澤社長が証券取引等監視委員会に簿外債務に関する社内調査結果を報告し、21日にムーディーズが格付けを3段階引き下げて投資不適格とし、資金繰りのメドが立たなくなった。22日に大蔵省が簿外債務の存在を公表し、24日に自主廃業を決定した。負債総額は3兆円に達し、山一は日銀の特別融資を受けると新たな債務が発生するため更生法を断念したと説明した
- [59]1997年10月23日、大手4社で唯一赤字となった9月中間決算を発表した。11月3日に三洋証券が会社更生法を申請し、17日の北海道拓殖銀行の破綻表面化で一部外国銀行が取引を停止した。17日に野澤社長が証券取引等監視委員会に簿外債務に関する社内調査結果を報告し、21日にムーディーズが格付けを3段階引き下げて投資不適格とし、資金繰りのメドが立たなくなった。22日に大蔵省が簿外債務の存在を公表し、24日に自主廃業を決定した。負債総額は3兆円に達し、山一は日銀の特別融資を受けると新たな債務が発生するため更生法を断念したと説明した
- [60]1997年10月23日、大手4社で唯一赤字となった9月中間決算を発表した。11月3日に三洋証券が会社更生法を申請し、17日の北海道拓殖銀行の破綻表面化で一部外国銀行が取引を停止した。17日に野澤社長が証券取引等監視委員会に簿外債務に関する社内調査結果を報告し、21日にムーディーズが格付けを3段階引き下げて投資不適格とし、資金繰りのメドが立たなくなった。22日に大蔵省が簿外債務の存在を公表し、24日に自主廃業を決定した。負債総額は3兆円に達し、山一は日銀の特別融資を受けると新たな債務が発生するため更生法を断念したと説明した
- [61]1997年10月23日、大手4社で唯一赤字となった9月中間決算を発表した。11月3日に三洋証券が会社更生法を申請し、17日の北海道拓殖銀行の破綻表面化で一部外国銀行が取引を停止した。17日に野澤社長が証券取引等監視委員会に簿外債務に関する社内調査結果を報告し、21日にムーディーズが格付けを3段階引き下げて投資不適格とし、資金繰りのメドが立たなくなった。22日に大蔵省が簿外債務の存在を公表し、24日に自主廃業を決定した。負債総額は3兆円に達し、山一は日銀の特別融資を受けると新たな債務が発生するため更生法を断念したと説明した
- [63]1997年10月23日、大手4社で唯一赤字となった9月中間決算を発表した。11月3日に三洋証券が会社更生法を申請し、17日の北海道拓殖銀行の破綻表面化で一部外国銀行が取引を停止した。17日に野澤社長が証券取引等監視委員会に簿外債務に関する社内調査結果を報告し、21日にムーディーズが格付けを3段階引き下げて投資不適格とし、資金繰りのメドが立たなくなった。22日に大蔵省が簿外債務の存在を公表し、24日に自主廃業を決定した。負債総額は3兆円に達し、山一は日銀の特別融資を受けると新たな債務が発生するため更生法を断念したと説明した
- 日経ビジネス 1997年9月29日号
- [45]総会屋への利益供与事件で1997年8月11日に行平会長、三木社長ら11人の取締役が退任した。1997年3月期の経常利益は国際証券を下回り、純財産額はピークの90年3月期から5割まで減少した(野村・大和・日興は3割前後)。三木までのトップは4代続けて支店勤務の経験がほとんどない企画畑の本社育ちで、野澤正平社長は私大出身者で戦後初、営業畑出身としても初めてのトップだった
- [46]総会屋への利益供与事件で1997年8月11日に行平会長、三木社長ら11人の取締役が退任した。1997年3月期の経常利益は国際証券を下回り、純財産額はピークの90年3月期から5割まで減少した(野村・大和・日興は3割前後)。三木までのトップは4代続けて支店勤務の経験がほとんどない企画畑の本社育ちで、野澤正平社長は私大出身者で戦後初、営業畑出身としても初めてのトップだった
- [47]総会屋への利益供与事件で1997年8月11日に行平会長、三木社長ら11人の取締役が退任した。1997年3月期の経常利益は国際証券を下回り、純財産額はピークの90年3月期から5割まで減少した(野村・大和・日興は3割前後)。三木までのトップは4代続けて支店勤務の経験がほとんどない企画畑の本社育ちで、野澤正平社長は私大出身者で戦後初、営業畑出身としても初めてのトップだった
- [48]総会屋への利益供与事件で1997年8月11日に行平会長、三木社長ら11人の取締役が退任した。1997年3月期の経常利益は国際証券を下回り、純財産額はピークの90年3月期から5割まで減少した(野村・大和・日興は3割前後)。三木までのトップは4代続けて支店勤務の経験がほとんどない企画畑の本社育ちで、野澤正平社長は私大出身者で戦後初、営業畑出身としても初めてのトップだった
- [50]総会屋への利益供与事件で1997年8月11日に行平会長、三木社長ら11人の取締役が退任した。1997年3月期の経常利益は国際証券を下回り、純財産額はピークの90年3月期から5割まで減少した(野村・大和・日興は3割前後)。三木までのトップは4代続けて支店勤務の経験がほとんどない企画畑の本社育ちで、野澤正平社長は私大出身者で戦後初、営業畑出身としても初めてのトップだった
- [51]総会屋への利益供与事件で1997年8月11日に行平会長、三木社長ら11人の取締役が退任した。1997年3月期の経常利益は国際証券を下回り、純財産額はピークの90年3月期から5割まで減少した(野村・大和・日興は3割前後)。三木までのトップは4代続けて支店勤務の経験がほとんどない企画畑の本社育ちで、野澤正平社長は私大出身者で戦後初、営業畑出身としても初めてのトップだった
- [56]ムーディーズによる山一の長期債格付けは投資適格の最低等級Baa3で、1997年6月の見直しで「ネガティブ」の見通しがついた。1997年3月期末の自己資本規制比率は240%で、あと300億円程度の最終損失で早期警戒水準の200%を下回る状態だった
- [57]ムーディーズによる山一の長期債格付けは投資適格の最低等級Baa3で、1997年6月の見直しで「ネガティブ」の見通しがついた。1997年3月期末の自己資本規制比率は240%で、あと300億円程度の最終損失で早期警戒水準の200%を下回る状態だった
- 日経ビジネス 1998年12月21日・28日号
- [49]野澤正平は1938年長野県生まれ、1964年に法政大学経済学部を卒業して山一証券に入社し、主に営業畑を歩んで名古屋支店長や大阪店長を務め、1997年8月に社長に就いた
- [52]野澤は社長就任から約1週間後の1997年8月16日、財務担当者から国内外に2000億円を超える含み損があると報告を受けた。行平前会長は利益を上げて徐々に償却するソフトランディングを主張したが、野澤は10月の中間決算で再建策とともに含み損を公表する青写真を描いた。主力の富士銀行の支援を取り付けてから他行に頼む道筋だったが、富士銀行の返事は遅れ支援も得られず、10月15日に相手側会長と会食を設定していたスイスの総合金融会社との提携も実現しなかった
- [53]野澤は社長就任から約1週間後の1997年8月16日、財務担当者から国内外に2000億円を超える含み損があると報告を受けた。行平前会長は利益を上げて徐々に償却するソフトランディングを主張したが、野澤は10月の中間決算で再建策とともに含み損を公表する青写真を描いた。主力の富士銀行の支援を取り付けてから他行に頼む道筋だったが、富士銀行の返事は遅れ支援も得られず、10月15日に相手側会長と会食を設定していたスイスの総合金融会社との提携も実現しなかった
- [54]野澤は社長就任から約1週間後の1997年8月16日、財務担当者から国内外に2000億円を超える含み損があると報告を受けた。行平前会長は利益を上げて徐々に償却するソフトランディングを主張したが、野澤は10月の中間決算で再建策とともに含み損を公表する青写真を描いた。主力の富士銀行の支援を取り付けてから他行に頼む道筋だったが、富士銀行の返事は遅れ支援も得られず、10月15日に相手側会長と会食を設定していたスイスの総合金融会社との提携も実現しなかった
- [55]野澤は社長就任から約1週間後の1997年8月16日、財務担当者から国内外に2000億円を超える含み損があると報告を受けた。行平前会長は利益を上げて徐々に償却するソフトランディングを主張したが、野澤は10月の中間決算で再建策とともに含み損を公表する青写真を描いた。主力の富士銀行の支援を取り付けてから他行に頼む道筋だったが、富士銀行の返事は遅れ支援も得られず、10月15日に相手側会長と会食を設定していたスイスの総合金融会社との提携も実現しなかった
- [64]自主廃業の発表当時約7600人いた社員のうち、1998年12月時点で約84%が新しい職場で働いている
- 日経ビジネス 1998年2月23日号
- [62]1997年11月の自主廃業決定で2648億円の簿外債務が明らかになった
出典・参考
12件
- 日経ビジネス 1988年11月14日号
- 日経ビジネス 1990年12月17日号
- 日経ビジネス 1992年2月3日号
- 日経ビジネス 1994年6月13日号
- 日経ビジネス 1997年12月1日号
- 日経ビジネス 1997年9月29日号
- 日経ビジネス 1998年2月23日号
- 日経ビジネス 1998年2月2日号
- 日経ビジネス 1998年2月16日号
- 日経ビジネス 1998年12月21日・28日号
- 日経公社債情報 1990年2月12日号「山一証券研究――リテール強化で4位脱出狙う」
- 日経公社債情報 1993年11月1日号「山一証券の研究――営業を制約し始めた自己資本の乏しさ」