第1章 年〜年

名古屋銀行:共和殖産の設立と名古屋相互銀行への商号変更

1949年〜岡崎市康生町で開いた共和殖産と、名古屋殖産無尽として得た無尽業免許

終戦後のインフレ期に中小企業は極端な資金難に陥り、日掛の殖産金融会社が各地で再び生まれた。41歳の加藤廣治氏は発起人となり、1949年2月23日の創立総会を経て、翌24日に資本金20万円で共和殖産株式会社を開業させた。本店を構えた岡崎市康生町は、大連法制学院を出て関東州庁などで働いてきた加藤廣治氏にとって、地縁も顔なじみも乏しい土地だった。金融業は信用が第一と考えた加藤廣治氏は、花山小学校時代の恩師で母方の遠縁にあたる簗瀬民松郎氏に社長就任を頼んだ。簗瀬民松郎氏は教育界に27年、地方政界に20年余り携わった人物で、初めは固辞したものの説得に応じて初代社長を引き受けた。掛金を集めて預かる商売で、無名の創業者が地元の名士の信用を看板に借りる必要があったと推察される。

  • 名古屋相互銀行二十年史(1970)
    • [1]終戦後のインフレ期に中小企業が資金難に苦しみ日掛殖産金融会社が各地で設立された。当時41歳の加藤廣治が恩師簗瀬民松郎を初代社長に推し、1949年2月23日創立総会、24日に資本金20万円で岡崎市康生町689番地の1で創業。簗瀬は教育界27年・地方政界20有余年
    • [2]終戦後のインフレ期に中小企業が資金難に苦しみ日掛殖産金融会社が各地で設立された。当時41歳の加藤廣治が恩師簗瀬民松郎を初代社長に推し、1949年2月23日創立総会、24日に資本金20万円で岡崎市康生町689番地の1で創業。簗瀬は教育界27年・地方政界20有余年
    • [3]終戦後のインフレ期に中小企業が資金難に苦しみ日掛殖産金融会社が各地で設立された。当時41歳の加藤廣治が恩師簗瀬民松郎を初代社長に推し、1949年2月23日創立総会、24日に資本金20万円で岡崎市康生町689番地の1で創業。簗瀬は教育界27年・地方政界20有余年
    • [6]終戦後のインフレ期に中小企業が資金難に苦しみ日掛殖産金融会社が各地で設立された。当時41歳の加藤廣治が恩師簗瀬民松郎を初代社長に推し、1949年2月23日創立総会、24日に資本金20万円で岡崎市康生町689番地の1で創業。簗瀬は教育界27年・地方政界20有余年
  • 飛躍はここに 名古屋相互銀行のあゆみ(1986)
    • [4]加藤廣治は大連法制学院・関東州庁勤務の経歴で岡崎に知名度・土地勘が乏しく、信用を重んじて花山小学校の恩師で母つねのいとこにあたる簗瀬民松郎に社長就任を依頼。簗瀬は当初固辞したが承諾
    • [5]加藤廣治は大連法制学院・関東州庁勤務の経歴で岡崎に知名度・土地勘が乏しく、信用を重んじて花山小学校の恩師で母つねのいとこにあたる簗瀬民松郎に社長就任を依頼。簗瀬は当初固辞したが承諾
    • [7]加藤廣治は大連法制学院・関東州庁勤務の経歴で岡崎に知名度・土地勘が乏しく、信用を重んじて花山小学校の恩師で母つねのいとこにあたる簗瀬民松郎に社長就任を依頼。簗瀬は当初固辞したが承諾

共和殖産は開業から3カ月半後の1949年6月8日、本店を名古屋市中区南大津通4丁目へ移転させた。岡崎での開業は暫定の措置であり、加藤廣治氏は創業前から東海地方最大の都市である名古屋を事業の舞台に考えた。殖産会社は新規の掛金契約を増やして運用資金を賄う仕組みで、需要の厚い大都市での契約拡張が欠かせなかった。1日30円から50円の日掛で2カ月後に借入ができる方式は小商工業者に歓迎され、契約は6月8日に3,500口へ増加。7月初めまでに愛知県下で2支店・11営業所を開設し、契約の約半数を名古屋市内が占めた。同年9月には12支店・24営業所となり、営業区域は東京都・埼玉県・神奈川県にまで及んだ。

  • 名古屋相互銀行二十年史(1970)
    • [8]岡崎創業は暫定措置で当初から本社を名古屋に置く方針。日掛1日30〜50円・2カ月後に借入可。契約4月30日1,500口・6月8日3,500口。新規契約拡張で運用資金を賄う。1949年6月8日本店を名古屋市中区南大津通4丁目35番地へ移転。7月初めまでに2支店11営業所、契約の約半数が名古屋市内
    • [10]岡崎創業は暫定措置で当初から本社を名古屋に置く方針。日掛1日30〜50円・2カ月後に借入可。契約4月30日1,500口・6月8日3,500口。新規契約拡張で運用資金を賄う。1949年6月8日本店を名古屋市中区南大津通4丁目35番地へ移転。7月初めまでに2支店11営業所、契約の約半数が名古屋市内
    • [11]岡崎創業は暫定措置で当初から本社を名古屋に置く方針。日掛1日30〜50円・2カ月後に借入可。契約4月30日1,500口・6月8日3,500口。新規契約拡張で運用資金を賄う。1949年6月8日本店を名古屋市中区南大津通4丁目35番地へ移転。7月初めまでに2支店11営業所、契約の約半数が名古屋市内
    • [12]岡崎創業は暫定措置で当初から本社を名古屋に置く方針。日掛1日30〜50円・2カ月後に借入可。契約4月30日1,500口・6月8日3,500口。新規契約拡張で運用資金を賄う。1949年6月8日本店を名古屋市中区南大津通4丁目35番地へ移転。7月初めまでに2支店11営業所、契約の約半数が名古屋市内
  • 飛躍はここに 名古屋相互銀行のあゆみ(1986)
    • [9]加藤廣治は事業の舞台として東海地方最大の都市名古屋を考えていたが、まず岡崎康生町に拠点を置いた
  • 名古屋相互銀行三十年史(1980)
    • [13]1949年6月に本社を名古屋市に移転してから9月までに12支店24営業所を設け、営業区域は愛知・岐阜・三重・静岡から東京都・埼玉県・神奈川県に及んだ

1949年5月31日の無尽業法の一部改正で、共和殖産が営む日掛の殖産金融は無尽とみなされ、大蔵大臣の免許が要る事業となった。東海財務局は7月21日付で免許の基準を示し、基準に合わない業者には新規契約を止めて整理に入らせる方針で臨んだ。7月16日に名古屋殖産株式会社へ改称した会社は、8月20日に免許の内伺いを申請し、12月5日に営業内免許を得た。翌12月6日に名古屋殖産無尽株式会社へ商号を変更し、1950年3月20日には大蔵大臣の正式免許を受けた。会社は共和殖産の設立日ではなく、商号を変えた1949年12月6日を創立記念日に定めた。1,000社を超えたとされる殖産会社のうち無尽会社の免許を得たのは16社にとどまり、早い申請が存続を分けたとうかがえる。

  • 飛躍はここに 名古屋相互銀行のあゆみ(1986)
    • [14]1949年5月31日公布の貸金業等取締法の付則で無尽業法が改正され日掛殖産金融が無尽とみなされた。共和殖産は7月16日に名古屋殖産株式会社と改称
    • [16]1949年5月31日公布の貸金業等取締法の付則で無尽業法が改正され日掛殖産金融が無尽とみなされた。共和殖産は7月16日に名古屋殖産株式会社と改称
  • 名古屋相互銀行二十年史(1970)
    • [15]1949年7月21日付で東海財務局から無尽業法による免許に関する件が示達。基準に適応できない業者は新規契約中止・整理事務へ。8月20日免許内伺申請、12月5日営業内免許、12月6日名古屋殖産無尽株式会社へ商号変更
    • [17]1949年7月21日付で東海財務局から無尽業法による免許に関する件が示達。基準に適応できない業者は新規契約中止・整理事務へ。8月20日免許内伺申請、12月5日営業内免許、12月6日名古屋殖産無尽株式会社へ商号変更
  • 名古屋相互銀行三十年史(1980)
    • [18]1950年3月20日大蔵大臣から正式免許。商号変更した1949年12月6日を創立記念日とする。1,000社超といわれた殖産会社のうち無尽会社の免許は16社
    • [19]1950年3月20日大蔵大臣から正式免許。商号変更した1949年12月6日を創立記念日とする。1,000社超といわれた殖産会社のうち無尽会社の免許は16社
参考文献[1]-[19]
  • 名古屋相互銀行二十年史(1970)
    • [1]終戦後のインフレ期に中小企業が資金難に苦しみ日掛殖産金融会社が各地で設立された。当時41歳の加藤廣治が恩師簗瀬民松郎を初代社長に推し、1949年2月23日創立総会、24日に資本金20万円で岡崎市康生町689番地の1で創業。簗瀬は教育界27年・地方政界20有余年
    • [2]終戦後のインフレ期に中小企業が資金難に苦しみ日掛殖産金融会社が各地で設立された。当時41歳の加藤廣治が恩師簗瀬民松郎を初代社長に推し、1949年2月23日創立総会、24日に資本金20万円で岡崎市康生町689番地の1で創業。簗瀬は教育界27年・地方政界20有余年
    • [3]終戦後のインフレ期に中小企業が資金難に苦しみ日掛殖産金融会社が各地で設立された。当時41歳の加藤廣治が恩師簗瀬民松郎を初代社長に推し、1949年2月23日創立総会、24日に資本金20万円で岡崎市康生町689番地の1で創業。簗瀬は教育界27年・地方政界20有余年
    • [6]終戦後のインフレ期に中小企業が資金難に苦しみ日掛殖産金融会社が各地で設立された。当時41歳の加藤廣治が恩師簗瀬民松郎を初代社長に推し、1949年2月23日創立総会、24日に資本金20万円で岡崎市康生町689番地の1で創業。簗瀬は教育界27年・地方政界20有余年
    • [8]岡崎創業は暫定措置で当初から本社を名古屋に置く方針。日掛1日30〜50円・2カ月後に借入可。契約4月30日1,500口・6月8日3,500口。新規契約拡張で運用資金を賄う。1949年6月8日本店を名古屋市中区南大津通4丁目35番地へ移転。7月初めまでに2支店11営業所、契約の約半数が名古屋市内
    • [10]岡崎創業は暫定措置で当初から本社を名古屋に置く方針。日掛1日30〜50円・2カ月後に借入可。契約4月30日1,500口・6月8日3,500口。新規契約拡張で運用資金を賄う。1949年6月8日本店を名古屋市中区南大津通4丁目35番地へ移転。7月初めまでに2支店11営業所、契約の約半数が名古屋市内
    • [11]岡崎創業は暫定措置で当初から本社を名古屋に置く方針。日掛1日30〜50円・2カ月後に借入可。契約4月30日1,500口・6月8日3,500口。新規契約拡張で運用資金を賄う。1949年6月8日本店を名古屋市中区南大津通4丁目35番地へ移転。7月初めまでに2支店11営業所、契約の約半数が名古屋市内
    • [12]岡崎創業は暫定措置で当初から本社を名古屋に置く方針。日掛1日30〜50円・2カ月後に借入可。契約4月30日1,500口・6月8日3,500口。新規契約拡張で運用資金を賄う。1949年6月8日本店を名古屋市中区南大津通4丁目35番地へ移転。7月初めまでに2支店11営業所、契約の約半数が名古屋市内
    • [15]1949年7月21日付で東海財務局から無尽業法による免許に関する件が示達。基準に適応できない業者は新規契約中止・整理事務へ。8月20日免許内伺申請、12月5日営業内免許、12月6日名古屋殖産無尽株式会社へ商号変更
    • [17]1949年7月21日付で東海財務局から無尽業法による免許に関する件が示達。基準に適応できない業者は新規契約中止・整理事務へ。8月20日免許内伺申請、12月5日営業内免許、12月6日名古屋殖産無尽株式会社へ商号変更
  • 飛躍はここに 名古屋相互銀行のあゆみ(1986)
    • [4]加藤廣治は大連法制学院・関東州庁勤務の経歴で岡崎に知名度・土地勘が乏しく、信用を重んじて花山小学校の恩師で母つねのいとこにあたる簗瀬民松郎に社長就任を依頼。簗瀬は当初固辞したが承諾
    • [5]加藤廣治は大連法制学院・関東州庁勤務の経歴で岡崎に知名度・土地勘が乏しく、信用を重んじて花山小学校の恩師で母つねのいとこにあたる簗瀬民松郎に社長就任を依頼。簗瀬は当初固辞したが承諾
    • [7]加藤廣治は大連法制学院・関東州庁勤務の経歴で岡崎に知名度・土地勘が乏しく、信用を重んじて花山小学校の恩師で母つねのいとこにあたる簗瀬民松郎に社長就任を依頼。簗瀬は当初固辞したが承諾
    • [9]加藤廣治は事業の舞台として東海地方最大の都市名古屋を考えていたが、まず岡崎康生町に拠点を置いた
    • [14]1949年5月31日公布の貸金業等取締法の付則で無尽業法が改正され日掛殖産金融が無尽とみなされた。共和殖産は7月16日に名古屋殖産株式会社と改称
    • [16]1949年5月31日公布の貸金業等取締法の付則で無尽業法が改正され日掛殖産金融が無尽とみなされた。共和殖産は7月16日に名古屋殖産株式会社と改称
  • 名古屋相互銀行三十年史(1980)
    • [13]1949年6月に本社を名古屋市に移転してから9月までに12支店24営業所を設け、営業区域は愛知・岐阜・三重・静岡から東京都・埼玉県・神奈川県に及んだ
    • [18]1950年3月20日大蔵大臣から正式免許。商号変更した1949年12月6日を創立記念日とする。1,000社超といわれた殖産会社のうち無尽会社の免許は16社
    • [19]1950年3月20日大蔵大臣から正式免許。商号変更した1949年12月6日を創立記念日とする。1,000社超といわれた殖産会社のうち無尽会社の免許は16社

1951年〜23カ店で発足した名古屋相互銀行と、加藤廣治氏の社長就任

名古屋殖産無尽は1951年10月20日に相互銀行の営業免許を受け、10月22日に名古屋相互銀行として営業を始めた。無尽業法の区域制限で営業区域は愛知・岐阜・静岡の3県に限られ、関東地区の営業は相互譲渡により東京殖産株式会社へ移した。1951年施行の相互銀行法は、施行から3年以内に免許を申請し適格と認められた無尽会社に移行の道を開いた。相互銀行には預金と貸付の業務全般が認められ、営業区域も単一の都道府県から同一経済圏へ広がった。全国の無尽会社70社のうち58社が第一次免許で移行し、名古屋相互銀行は愛知14・岐阜5・静岡4の計23カ店で発足に臨んだ。区域と業務の制約を同時に外せる移行であり、県外へ店舗を広げてきた経営には当然の選択だったと思われる。

  • 名古屋相互銀行二十年史(1970)
    • [20]相互銀行法の付則で既存無尽会社は施行後3年以内に申請し適格と認められれば移行。業務は預金・貸出全般、営業区域は同一経済圏へ。1951年10月18日申請、20日免許、22日営業開始。全国無尽会社70社中58社が第一次免許。発足時23カ店(愛知14・岐阜5・静岡4)
    • [22]相互銀行法の付則で既存無尽会社は施行後3年以内に申請し適格と認められれば移行。業務は預金・貸出全般、営業区域は同一経済圏へ。1951年10月18日申請、20日免許、22日営業開始。全国無尽会社70社中58社が第一次免許。発足時23カ店(愛知14・岐阜5・静岡4)
    • [23]相互銀行法の付則で既存無尽会社は施行後3年以内に申請し適格と認められれば移行。業務は預金・貸出全般、営業区域は同一経済圏へ。1951年10月18日申請、20日免許、22日営業開始。全国無尽会社70社中58社が第一次免許。発足時23カ店(愛知14・岐阜5・静岡4)
    • [24]相互銀行法の付則で既存無尽会社は施行後3年以内に申請し適格と認められれば移行。業務は預金・貸出全般、営業区域は同一経済圏へ。1951年10月18日申請、20日免許、22日営業開始。全国無尽会社70社中58社が第一次免許。発足時23カ店(愛知14・岐阜5・静岡4)
  • 名古屋相互銀行三十年史(1980)
    • [21]無尽業法の営業区域制限により愛知・岐阜・静岡の3県に限定して認可。関東地区は東京殖産株式会社名古屋支店の営業と相互譲渡

1952年5月28日の株主総会で、初代社長の簗瀬民松郎氏は任期満了とともに高齢を理由に退任した。後任には専務取締役の加藤廣治氏が取締役会の決議で選ばれ、創業から3年余りで社長が交代。簗瀬民松郎氏は1949年2月に教え子の加藤廣治氏の懇請を受け、高齢のため短い期間を約して社長を引き受けた。在任中の経営は専務の加藤廣治氏に委ね、簗瀬民松郎氏の人柄は役職員の信望を集めた。簗瀬民松郎氏は無尽業の免許を得た1950年3月に社員信条を定め、退任の直前には行内報で行員信条を示した。約束どおりの短い在任で、相互銀行への移行を見届けたところで実務の担い手へ経営を引き継いだとみられる。

  • 名古屋相互銀行二十年史(1970)
    • [25]簗瀬民松郎は1949年2月に教え子の加藤廣治から懇請され高齢で短期間を約して就任。1952年5月28日の株主総会で任期満了・高齢のため勇退し、加藤廣治が取締役会決議で専務から社長に就任
    • [26]簗瀬民松郎は1949年2月に教え子の加藤廣治から懇請され高齢で短期間を約して就任。1952年5月28日の株主総会で任期満了・高齢のため勇退し、加藤廣治が取締役会決議で専務から社長に就任
    • [27]簗瀬民松郎は1949年2月に教え子の加藤廣治から懇請され高齢で短期間を約して就任。1952年5月28日の株主総会で任期満了・高齢のため勇退し、加藤廣治が取締役会決議で専務から社長に就任
  • 名古屋相互銀行三十年史(1980)
    • [28]簗瀬民松郎社長は経営を専務の加藤廣治に委ねていたが、人柄が役職員の信望を集めた
  • 飛躍はここに 名古屋相互銀行のあゆみ(1986)
    • [29]簗瀬は1950年3月の無尽会社免許時に社員信条を示し、退任に先立って行内報「名銀」で行員信条を発表

名古屋相互銀行は1954年2月、本店を名古屋市中区栄町4丁目の丸栄百貨店北館へ移した。相互銀行への移行から3年目で23支店・4出張所、行員約1,000人、資金量60億円の規模となり、中心街から離れた大池町の本店は手狭になった。社長の加藤廣治氏は店構えが銀行の信用を示すと考え、丸栄百貨店が北館の売場を移す計画を知って跡地の利用を望んだ。北館の地階と1・2階を改装する工事は1953年10月28日に始まり、翌年2月20日に完了。1953年秋からの金融引締めと1954年度の緊縮財政で弱小企業の整理倒産が出るなか、名古屋相互銀行は貯蓄運動を重ねた。1956年3月末の資金量は前期末比14%増え、目標の100億円に達した。

  • 名古屋相互銀行二十年史(1970)
    • [30]1953年秋からの金融引締と1954年度の1兆円緊縮財政で弱小企業の整理倒産。本店を中区栄町4丁目1番地丸栄北館へ移転(表37は1954年2月26日時点)し資金量100億円を目標に。1956年3月末資金量は前期末比14%増で100億円に到達
    • [34]1953年秋からの金融引締と1954年度の1兆円緊縮財政で弱小企業の整理倒産。本店を中区栄町4丁目1番地丸栄北館へ移転(表37は1954年2月26日時点)し資金量100億円を目標に。1956年3月末資金量は前期末比14%増で100億円に到達
    • [35]1953年秋からの金融引締と1954年度の1兆円緊縮財政で弱小企業の整理倒産。本店を中区栄町4丁目1番地丸栄北館へ移転(表37は1954年2月26日時点)し資金量100億円を目標に。1956年3月末資金量は前期末比14%増で100億円に到達
  • 名古屋相互銀行三十年史(1980)
    • [31]移行後3年目に支店23・出張所4、行員約1,000人、資金量60億円。大池町本店は中心街から離れ手狭。丸栄百貨店北館を改装し1953年10月28日起工・1954年2月20日完了
    • [33]移行後3年目に支店23・出張所4、行員約1,000人、資金量60億円。大池町本店は中心街から離れ手狭。丸栄百貨店北館を改装し1953年10月28日起工・1954年2月20日完了
  • 飛躍はここに 名古屋相互銀行のあゆみ(1986)
    • [32]加藤廣治は店舗が信用の象徴と考え、丸栄百貨店北館の跡利用を望んだ
参考文献[20]-[35]
  • 名古屋相互銀行二十年史(1970)
    • [20]相互銀行法の付則で既存無尽会社は施行後3年以内に申請し適格と認められれば移行。業務は預金・貸出全般、営業区域は同一経済圏へ。1951年10月18日申請、20日免許、22日営業開始。全国無尽会社70社中58社が第一次免許。発足時23カ店(愛知14・岐阜5・静岡4)
    • [22]相互銀行法の付則で既存無尽会社は施行後3年以内に申請し適格と認められれば移行。業務は預金・貸出全般、営業区域は同一経済圏へ。1951年10月18日申請、20日免許、22日営業開始。全国無尽会社70社中58社が第一次免許。発足時23カ店(愛知14・岐阜5・静岡4)
    • [23]相互銀行法の付則で既存無尽会社は施行後3年以内に申請し適格と認められれば移行。業務は預金・貸出全般、営業区域は同一経済圏へ。1951年10月18日申請、20日免許、22日営業開始。全国無尽会社70社中58社が第一次免許。発足時23カ店(愛知14・岐阜5・静岡4)
    • [24]相互銀行法の付則で既存無尽会社は施行後3年以内に申請し適格と認められれば移行。業務は預金・貸出全般、営業区域は同一経済圏へ。1951年10月18日申請、20日免許、22日営業開始。全国無尽会社70社中58社が第一次免許。発足時23カ店(愛知14・岐阜5・静岡4)
    • [25]簗瀬民松郎は1949年2月に教え子の加藤廣治から懇請され高齢で短期間を約して就任。1952年5月28日の株主総会で任期満了・高齢のため勇退し、加藤廣治が取締役会決議で専務から社長に就任
    • [26]簗瀬民松郎は1949年2月に教え子の加藤廣治から懇請され高齢で短期間を約して就任。1952年5月28日の株主総会で任期満了・高齢のため勇退し、加藤廣治が取締役会決議で専務から社長に就任
    • [27]簗瀬民松郎は1949年2月に教え子の加藤廣治から懇請され高齢で短期間を約して就任。1952年5月28日の株主総会で任期満了・高齢のため勇退し、加藤廣治が取締役会決議で専務から社長に就任
    • [30]1953年秋からの金融引締と1954年度の1兆円緊縮財政で弱小企業の整理倒産。本店を中区栄町4丁目1番地丸栄北館へ移転(表37は1954年2月26日時点)し資金量100億円を目標に。1956年3月末資金量は前期末比14%増で100億円に到達
    • [34]1953年秋からの金融引締と1954年度の1兆円緊縮財政で弱小企業の整理倒産。本店を中区栄町4丁目1番地丸栄北館へ移転(表37は1954年2月26日時点)し資金量100億円を目標に。1956年3月末資金量は前期末比14%増で100億円に到達
    • [35]1953年秋からの金融引締と1954年度の1兆円緊縮財政で弱小企業の整理倒産。本店を中区栄町4丁目1番地丸栄北館へ移転(表37は1954年2月26日時点)し資金量100億円を目標に。1956年3月末資金量は前期末比14%増で100億円に到達
  • 名古屋相互銀行三十年史(1980)
    • [21]無尽業法の営業区域制限により愛知・岐阜・静岡の3県に限定して認可。関東地区は東京殖産株式会社名古屋支店の営業と相互譲渡
    • [28]簗瀬民松郎社長は経営を専務の加藤廣治に委ねていたが、人柄が役職員の信望を集めた
    • [31]移行後3年目に支店23・出張所4、行員約1,000人、資金量60億円。大池町本店は中心街から離れ手狭。丸栄百貨店北館を改装し1953年10月28日起工・1954年2月20日完了
    • [33]移行後3年目に支店23・出張所4、行員約1,000人、資金量60億円。大池町本店は中心街から離れ手狭。丸栄百貨店北館を改装し1953年10月28日起工・1954年2月20日完了
  • 飛躍はここに 名古屋相互銀行のあゆみ(1986)
    • [29]簗瀬は1950年3月の無尽会社免許時に社員信条を示し、退任に先立って行内報「名銀」で行員信条を発表
    • [32]加藤廣治は店舗が信用の象徴と考え、丸栄百貨店北館の跡利用を望んだ

1961年〜名古屋証券取引所への上場と、資金量1,000億円の達成

名古屋相互銀行の株式は1961年10月2日に名古屋証券取引所第2部へ上場した。新本店の完成と資金量600億円の突破を経て、1963年8月1日には第1部へ進んだ。業容の拡大に合わせて相互銀行資本適正比率を保つため、1963年12月12日に授権資本を48億円へ引き上げた。1964年7月19日の第16次増資で資本金は18億円となり、自己資本の外部負債に対する比率は同年9月末に5.0%へ改善した。1968年3月末に比率が4.3%へ下がると、同年7月に9億円を増資して資本金を27億円に引き上げた。預金の伸びに自己資本を追いつかせる作業が、この時期の経営の重い課題だったのだろう。

  • 名古屋相互銀行三十年史(1980)
    • [36]株式は1961年10月2日から名証2部に上場、新本店完成・資金量600億円突破を経て1963年8月1日に名証1部へ。1963年12月12日授権資本48億円、1964年7月19日6億円増資で資本金18億円、自己資本の外部負債比率は1964年9月末5.0%。1968年3月末4.3%となり同年7月9億円増資で27億円
    • [37]株式は1961年10月2日から名証2部に上場、新本店完成・資金量600億円突破を経て1963年8月1日に名証1部へ。1963年12月12日授権資本48億円、1964年7月19日6億円増資で資本金18億円、自己資本の外部負債比率は1964年9月末5.0%。1968年3月末4.3%となり同年7月9億円増資で27億円
    • [39]株式は1961年10月2日から名証2部に上場、新本店完成・資金量600億円突破を経て1963年8月1日に名証1部へ。1963年12月12日授権資本48億円、1964年7月19日6億円増資で資本金18億円、自己資本の外部負債比率は1964年9月末5.0%。1968年3月末4.3%となり同年7月9億円増資で27億円
    • [40]株式は1961年10月2日から名証2部に上場、新本店完成・資金量600億円突破を経て1963年8月1日に名証1部へ。1963年12月12日授権資本48億円、1964年7月19日6億円増資で資本金18億円、自己資本の外部負債比率は1964年9月末5.0%。1968年3月末4.3%となり同年7月9億円増資で27億円
  • 名古屋相互銀行二十年史(1970)
    • [38]相互銀行資本適正比率を維持するため授権資本を48億円に増加し、第16次増資で資本金18億円とした

名古屋相互銀行は1963年3月、名古屋市中区の錦通りに面した地上9階・地下3階の新本店を完成させた。栄町の本店は業容の拡大と人員の増加で手狭になり、機械化による集中管理の計画からも新社屋が必要になった。1960年2月に本店建築委員室を設けて準備を進め、1961年3月18日には社長の加藤廣治氏が建築費約13億円の計画を発表した。9階建てのビルには社内で難色も出たものの、加藤廣治氏の説得で建設へ進んだ。設計の主眼は伸びる東海経済圏に見合う近代建築に置かれ、錦通り沿いの敷地の角はポーチとして市民に開放された。新本店の完成を機に全店のテレタイプ網が整い、1963年3月末の店舗数は大阪支店を含む39店となった。

  • 名古屋相互銀行二十年史(1970)
    • [41]栄町本店が業容拡大で手狭になり人員増と機械化による集中管理計画からも新社屋が必要に。1960年2月本店建築委員室設置、1961年3月18日社長が中区針屋町3の5に地上9階地下3階・建築費約13億円の計画を発表。地鎮祭6月13日、23カ月を経て1963年3月完成。「発展する東海経済圏」に合う近代建築、錦通りに面した一角をポーチとして開放
    • [42]栄町本店が業容拡大で手狭になり人員増と機械化による集中管理計画からも新社屋が必要に。1960年2月本店建築委員室設置、1961年3月18日社長が中区針屋町3の5に地上9階地下3階・建築費約13億円の計画を発表。地鎮祭6月13日、23カ月を経て1963年3月完成。「発展する東海経済圏」に合う近代建築、錦通りに面した一角をポーチとして開放
    • [43]栄町本店が業容拡大で手狭になり人員増と機械化による集中管理計画からも新社屋が必要に。1960年2月本店建築委員室設置、1961年3月18日社長が中区針屋町3の5に地上9階地下3階・建築費約13億円の計画を発表。地鎮祭6月13日、23カ月を経て1963年3月完成。「発展する東海経済圏」に合う近代建築、錦通りに面した一角をポーチとして開放
    • [45]栄町本店が業容拡大で手狭になり人員増と機械化による集中管理計画からも新社屋が必要に。1960年2月本店建築委員室設置、1961年3月18日社長が中区針屋町3の5に地上9階地下3階・建築費約13億円の計画を発表。地鎮祭6月13日、23カ月を経て1963年3月完成。「発展する東海経済圏」に合う近代建築、錦通りに面した一角をポーチとして開放
  • 飛躍はここに 名古屋相互銀行のあゆみ(1986)
    • [44]錦通に面した候補地に地上9階地下3階のビルを建てる案に難色もあったが、廣治の説得で建設を決めた
  • 名古屋相互銀行三十年史(1980)
    • [46]新本店は1963年4月8日に誕生、完成を機に全店テレタイプ網完成。1963年3月末の本支店は39店舗、大阪支店を新設

1964年4月、名古屋相互銀行は資金量1,000億円を1965年末までに達成する目標を定めた。1,000億円は自由競争のなかで優良な中小企業金融機関に必要な最低の条件と位置づけられた。1人当たり資金量を3,000万円から地方銀行並みの5,000万円程度へ高め、長期経営計画と実績のずれを正す狙いも込めた。名銀ターム・ローンや名銀ホーム・ローンで大衆向けの取引を広げ、資金量は1965年12月末に1,003億4,200万円へ増えた。1968年3月末に資金量は1,200億円となり、同年6月1日には金融機関の合併と転換の道を開く金融二法が公布施行された。量の拡大を重ねた名古屋相互銀行にとって、金融二法は信用組合との合併で規模を広げる条件を整えたと考えられる。

  • 名古屋相互銀行二十年史(1970)
    • [47]1964年4月に資金量1,000億円を1965年末に達成する方針。理由は自由競争に備え1,000億円が優秀中小企業金融機関の最低条件、1人当たり資金量3,000万円を地銀並み5,000万円へ、長期経営計画と実績のくるいの是正。名銀ターム・ローン(1964年1月)・ホーム・ローン(1965年4月)。1965年12月末資金量1,003億4,200万円
    • [48]1964年4月に資金量1,000億円を1965年末に達成する方針。理由は自由競争に備え1,000億円が優秀中小企業金融機関の最低条件、1人当たり資金量3,000万円を地銀並み5,000万円へ、長期経営計画と実績のくるいの是正。名銀ターム・ローン(1964年1月)・ホーム・ローン(1965年4月)。1965年12月末資金量1,003億4,200万円
    • [49]1964年4月に資金量1,000億円を1965年末に達成する方針。理由は自由競争に備え1,000億円が優秀中小企業金融機関の最低条件、1人当たり資金量3,000万円を地銀並み5,000万円へ、長期経営計画と実績のくるいの是正。名銀ターム・ローン(1964年1月)・ホーム・ローン(1965年4月)。1965年12月末資金量1,003億4,200万円
    • [50]1964年4月に資金量1,000億円を1965年末に達成する方針。理由は自由競争に備え1,000億円が優秀中小企業金融機関の最低条件、1人当たり資金量3,000万円を地銀並み5,000万円へ、長期経営計画と実績のくるいの是正。名銀ターム・ローン(1964年1月)・ホーム・ローン(1965年4月)。1965年12月末資金量1,003億4,200万円
    • [52]金融二法(相互銀行法等改正法・金融機関の合併及び転換に関する法律)が1968年6月1日に公布施行、異種金融機関の合併・転換の道を開いた
  • 名古屋相互銀行三十年史(1980)
    • [51]資金量は1965年12月末1,000億円、1968年3月末1,200億円
参考文献[36]-[52]
  • 名古屋相互銀行三十年史(1980)
    • [36]株式は1961年10月2日から名証2部に上場、新本店完成・資金量600億円突破を経て1963年8月1日に名証1部へ。1963年12月12日授権資本48億円、1964年7月19日6億円増資で資本金18億円、自己資本の外部負債比率は1964年9月末5.0%。1968年3月末4.3%となり同年7月9億円増資で27億円
    • [37]株式は1961年10月2日から名証2部に上場、新本店完成・資金量600億円突破を経て1963年8月1日に名証1部へ。1963年12月12日授権資本48億円、1964年7月19日6億円増資で資本金18億円、自己資本の外部負債比率は1964年9月末5.0%。1968年3月末4.3%となり同年7月9億円増資で27億円
    • [39]株式は1961年10月2日から名証2部に上場、新本店完成・資金量600億円突破を経て1963年8月1日に名証1部へ。1963年12月12日授権資本48億円、1964年7月19日6億円増資で資本金18億円、自己資本の外部負債比率は1964年9月末5.0%。1968年3月末4.3%となり同年7月9億円増資で27億円
    • [40]株式は1961年10月2日から名証2部に上場、新本店完成・資金量600億円突破を経て1963年8月1日に名証1部へ。1963年12月12日授権資本48億円、1964年7月19日6億円増資で資本金18億円、自己資本の外部負債比率は1964年9月末5.0%。1968年3月末4.3%となり同年7月9億円増資で27億円
    • [46]新本店は1963年4月8日に誕生、完成を機に全店テレタイプ網完成。1963年3月末の本支店は39店舗、大阪支店を新設
    • [51]資金量は1965年12月末1,000億円、1968年3月末1,200億円
  • 名古屋相互銀行二十年史(1970)
    • [38]相互銀行資本適正比率を維持するため授権資本を48億円に増加し、第16次増資で資本金18億円とした
    • [41]栄町本店が業容拡大で手狭になり人員増と機械化による集中管理計画からも新社屋が必要に。1960年2月本店建築委員室設置、1961年3月18日社長が中区針屋町3の5に地上9階地下3階・建築費約13億円の計画を発表。地鎮祭6月13日、23カ月を経て1963年3月完成。「発展する東海経済圏」に合う近代建築、錦通りに面した一角をポーチとして開放
    • [42]栄町本店が業容拡大で手狭になり人員増と機械化による集中管理計画からも新社屋が必要に。1960年2月本店建築委員室設置、1961年3月18日社長が中区針屋町3の5に地上9階地下3階・建築費約13億円の計画を発表。地鎮祭6月13日、23カ月を経て1963年3月完成。「発展する東海経済圏」に合う近代建築、錦通りに面した一角をポーチとして開放
    • [43]栄町本店が業容拡大で手狭になり人員増と機械化による集中管理計画からも新社屋が必要に。1960年2月本店建築委員室設置、1961年3月18日社長が中区針屋町3の5に地上9階地下3階・建築費約13億円の計画を発表。地鎮祭6月13日、23カ月を経て1963年3月完成。「発展する東海経済圏」に合う近代建築、錦通りに面した一角をポーチとして開放
    • [45]栄町本店が業容拡大で手狭になり人員増と機械化による集中管理計画からも新社屋が必要に。1960年2月本店建築委員室設置、1961年3月18日社長が中区針屋町3の5に地上9階地下3階・建築費約13億円の計画を発表。地鎮祭6月13日、23カ月を経て1963年3月完成。「発展する東海経済圏」に合う近代建築、錦通りに面した一角をポーチとして開放
    • [47]1964年4月に資金量1,000億円を1965年末に達成する方針。理由は自由競争に備え1,000億円が優秀中小企業金融機関の最低条件、1人当たり資金量3,000万円を地銀並み5,000万円へ、長期経営計画と実績のくるいの是正。名銀ターム・ローン(1964年1月)・ホーム・ローン(1965年4月)。1965年12月末資金量1,003億4,200万円
    • [48]1964年4月に資金量1,000億円を1965年末に達成する方針。理由は自由競争に備え1,000億円が優秀中小企業金融機関の最低条件、1人当たり資金量3,000万円を地銀並み5,000万円へ、長期経営計画と実績のくるいの是正。名銀ターム・ローン(1964年1月)・ホーム・ローン(1965年4月)。1965年12月末資金量1,003億4,200万円
    • [49]1964年4月に資金量1,000億円を1965年末に達成する方針。理由は自由競争に備え1,000億円が優秀中小企業金融機関の最低条件、1人当たり資金量3,000万円を地銀並み5,000万円へ、長期経営計画と実績のくるいの是正。名銀ターム・ローン(1964年1月)・ホーム・ローン(1965年4月)。1965年12月末資金量1,003億4,200万円
    • [50]1964年4月に資金量1,000億円を1965年末に達成する方針。理由は自由競争に備え1,000億円が優秀中小企業金融機関の最低条件、1人当たり資金量3,000万円を地銀並み5,000万円へ、長期経営計画と実績のくるいの是正。名銀ターム・ローン(1964年1月)・ホーム・ローン(1965年4月)。1965年12月末資金量1,003億4,200万円
    • [52]金融二法(相互銀行法等改正法・金融機関の合併及び転換に関する法律)が1968年6月1日に公布施行、異種金融機関の合併・転換の道を開いた
  • 飛躍はここに 名古屋相互銀行のあゆみ(1986)
    • [44]錦通に面した候補地に地上9階地下3階のビルを建てる案に難色もあったが、廣治の説得で建設を決めた

出典・参考

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出典・参考
  • 名古屋相互銀行二十年史(1970)
  • 名古屋相互銀行三十年史(1980)
  • 飛躍はここに 名古屋相互銀行のあゆみ(1986)

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