阿波銀行:阿波商業銀行の設立と阿波貯蓄銀行の分離設立
1896年〜久次米銀行の休業と、阿波銀行の株主で興した資本金45万円の阿波商業銀行
徳島で最初の大型の私立銀行は、藍商の久次米家が1879年11月に開業した久次米銀行である。資本金は50万円で、東京・大阪・郡山・洲本に支店を置き、預金の約半分を東京支店で抱えていた。1890年の恐慌では銀相場の騰貴から正貨が流出し、金融の逼迫が徳島にも及んだ。1891年5月29日に預金の引き出しが殺到すると、久次米銀行は翌30日に臨時株主総会を理由として店を閉め、払い戻しを止めた。負債総額は7月に110万円と定まり、9月20日の株主総会は関東部と関西部に分けて整理する案を決議した。全国に広げた支店網が、東西分離という異例の後始末を招いたと推察される。
- 阿波銀行七十年小史(阿波銀行、1967年)
- [1]久次米銀行は1879年11月開業、資本金50万円、東京・大阪・郡山・洲本に支店。預金約107万円のうち約50万円が東京支店
- [2]久次米銀行は1879年11月開業、資本金50万円、東京・大阪・郡山・洲本に支店。預金約107万円のうち約50万円が東京支店
- [3]1890年恐慌で銀相場騰貴・正貨流出・金融逼迫。1891年5月29日預金引出し殺到、5月30日「臨時株主総会ニ付キ休業」
- [4]1890年恐慌で銀相場騰貴・正貨流出・金融逼迫。1891年5月29日預金引出し殺到、5月30日「臨時株主総会ニ付キ休業」
- [5]1891年7月18日負債総額110万円と定まる。9月20日慈船寺の株主総会で関東・関西分離を決議
関西部の後始末を担ったのは、1891年10月に名称を定めた合名会社阿波銀行である。資本金は関西部の株主が持つ株式を合わせて10万7,000円とし、債務の支払いに充てる維持金35万円は大株主14名の別途出資で賄った。1892年2月9日、阿波銀行は久次米銀行本店の店舗を引き継いで徳島市船場町で開店した。頭取には三木与吉郎氏、支配人には美馬儀一郎氏が就任している。営業期限は20年のうち12年を経ていた久次米銀行の残り8年を継ぎ、定款では利益をすべて積立金とし、償却が終わるまで配当しないと定めた。株主への配当より預金者への返済を先にした条件が、県内の信用をつなぎとめたと思われる。
- 阿波銀行七十年小史(阿波銀行、1967年)
- [6]1891年10月10日関西部名称を合名会社阿波銀行と決定。資本金10万7千円、維持金35万円を大株主14名に割当て別途出資
- [7]1891年10月10日関西部名称を合名会社阿波銀行と決定。資本金10万7千円、維持金35万円を大株主14名に割当て別途出資
- [8]1892年2月9日、徳島市船場町182番屋敷で阿波銀行開店。店舗は久次米銀行本店を引継ぎ。役員は頭取三木与吉郎、支配人美馬儀一郎
- [9]1892年2月9日、徳島市船場町182番屋敷で阿波銀行開店。店舗は久次米銀行本店を引継ぎ。役員は頭取三木与吉郎、支配人美馬儀一郎
- [10]営業期限は久次米銀行の20年のうち残り8年。利益は全て積立金、償却完了まで無配と定款で規定
日清戦争後の企業熱で徳島電燈会社・徳島鉄道・阿波紡績の設立が続くなか、阿波銀行は1896年3月の決算で整理を終え、余剰資産を残した。解散して残余財産を分配することもできた阿波銀行の株主は、新しい銀行の設立を選んだ。5月17日、徳島市寺町の慈船寺での創立総会は、株式を一般公募せず阿波銀行の株主に割り当てると決めた。資本金45万円は1株50円の9,000株に分け、払込は11万2,500円から始めた。株式会社阿波商業銀行は6月19日に設立登記を済ませ、21日に開業した。頭取には、久次米銀行の整理で第一の功労者とされた美馬儀一郎氏が選ばれた。
- 阿波銀行七十年小史(阿波銀行、1967年)
- [11]1896年3月決算で阿波銀行は整理の目的を完了し余剰資産を生じた。日清戦後の企業熱で徳島電燈・徳島鉄道・阿波紡績等が設立
- [12]残余財産を分配して解散もできたが、新銀行設立の議が起こり1896年3月阿波商業銀行の内認可を申請
- [13]1896年5月17日慈船寺で創立総会、株式は阿波銀行株主に按配し一般公募せず。資本金45万円・9,000株・1株50円、払込11万2,500円。6月19日設立登記、6月21日開業。頭取に美馬儀一郎
- [14]1896年5月17日慈船寺で創立総会、株式は阿波銀行株主に按配し一般公募せず。資本金45万円・9,000株・1株50円、払込11万2,500円。6月19日設立登記、6月21日開業。頭取に美馬儀一郎
- [15]1896年5月17日慈船寺で創立総会、株式は阿波銀行株主に按配し一般公募せず。資本金45万円・9,000株・1株50円、払込11万2,500円。6月19日設立登記、6月21日開業。頭取に美馬儀一郎
- [17]1896年5月17日慈船寺で創立総会、株式は阿波銀行株主に按配し一般公募せず。資本金45万円・9,000株・1株50円、払込11万2,500円。6月19日設立登記、6月21日開業。頭取に美馬儀一郎
- 阿波銀行 有価証券報告書「沿革」
- [16]1896年6月 株式会社阿波商業銀行設立(設立日 明治29年6月19日、資本金450千円、本店 徳島市)
参考文献[1]-[17]
- 阿波銀行七十年小史(阿波銀行、1967年)
- [1]久次米銀行は1879年11月開業、資本金50万円、東京・大阪・郡山・洲本に支店。預金約107万円のうち約50万円が東京支店
- [2]久次米銀行は1879年11月開業、資本金50万円、東京・大阪・郡山・洲本に支店。預金約107万円のうち約50万円が東京支店
- [3]1890年恐慌で銀相場騰貴・正貨流出・金融逼迫。1891年5月29日預金引出し殺到、5月30日「臨時株主総会ニ付キ休業」
- [4]1890年恐慌で銀相場騰貴・正貨流出・金融逼迫。1891年5月29日預金引出し殺到、5月30日「臨時株主総会ニ付キ休業」
- [5]1891年7月18日負債総額110万円と定まる。9月20日慈船寺の株主総会で関東・関西分離を決議
- [6]1891年10月10日関西部名称を合名会社阿波銀行と決定。資本金10万7千円、維持金35万円を大株主14名に割当て別途出資
- [7]1891年10月10日関西部名称を合名会社阿波銀行と決定。資本金10万7千円、維持金35万円を大株主14名に割当て別途出資
- [8]1892年2月9日、徳島市船場町182番屋敷で阿波銀行開店。店舗は久次米銀行本店を引継ぎ。役員は頭取三木与吉郎、支配人美馬儀一郎
- [9]1892年2月9日、徳島市船場町182番屋敷で阿波銀行開店。店舗は久次米銀行本店を引継ぎ。役員は頭取三木与吉郎、支配人美馬儀一郎
- [10]営業期限は久次米銀行の20年のうち残り8年。利益は全て積立金、償却完了まで無配と定款で規定
- [11]1896年3月決算で阿波銀行は整理の目的を完了し余剰資産を生じた。日清戦後の企業熱で徳島電燈・徳島鉄道・阿波紡績等が設立
- [12]残余財産を分配して解散もできたが、新銀行設立の議が起こり1896年3月阿波商業銀行の内認可を申請
- [13]1896年5月17日慈船寺で創立総会、株式は阿波銀行株主に按配し一般公募せず。資本金45万円・9,000株・1株50円、払込11万2,500円。6月19日設立登記、6月21日開業。頭取に美馬儀一郎
- [14]1896年5月17日慈船寺で創立総会、株式は阿波銀行株主に按配し一般公募せず。資本金45万円・9,000株・1株50円、払込11万2,500円。6月19日設立登記、6月21日開業。頭取に美馬儀一郎
- [15]1896年5月17日慈船寺で創立総会、株式は阿波銀行株主に按配し一般公募せず。資本金45万円・9,000株・1株50円、払込11万2,500円。6月19日設立登記、6月21日開業。頭取に美馬儀一郎
- [17]1896年5月17日慈船寺で創立総会、株式は阿波銀行株主に按配し一般公募せず。資本金45万円・9,000株・1株50円、払込11万2,500円。6月19日設立登記、6月21日開業。頭取に美馬儀一郎
- 阿波銀行 有価証券報告書「沿革」
- [16]1896年6月 株式会社阿波商業銀行設立(設立日 明治29年6月19日、資本金450千円、本店 徳島市)
1896年〜商業銀行の名乗りと、貯蓄部の兼営で預金169万円に届いた出張所網
阿波商業銀行は、1890年公布の銀行条例に準拠する私立の普通銀行として発足した。銀行条例が私立銀行に求めたのは、預金で商業手形を割り引き、短期資金を供給する商業金融機関としての役割。徳島では1878年設立の第八十九国立銀行が先行していたものの、国立銀行は1899年3月以降すべて私立銀行に転じた。普通銀行のなかには、商工銀行・実業銀行・蚕糸銀行のように設立の目的を行名に掲げる例が多かった。阿波商業銀行の名は政府の指導どおり商業金融に徹する意思を示し、行是には「堅実」を据えた。この行名は、1964年10月に阿波銀行へ改称するまで68年間続いた。
- 阿波銀行七十年小史(阿波銀行、1967年)
- [18]阿波商業銀行は銀行条例(1890年公布)に準拠する私立普通銀行。銀行条例の趣旨は私立銀行を商業金融機関として育成
- [19]阿波商業銀行は銀行条例(1890年公布)に準拠する私立普通銀行。銀行条例の趣旨は私立銀行を商業金融機関として育成
- [20]徳島には1878年設立の第八十九国立銀行。国立銀行の消滅で1899年3月以降銀行はすべて私立銀行に
- [21]普通銀行には商工銀行・実業銀行・蚕糸銀行等の名乗りが多いなか、政府の指導方針どおり商業銀行を名乗る。行是は堅実。1964年10月1日阿波銀行と改称するまで68年間
- [22]普通銀行には商工銀行・実業銀行・蚕糸銀行等の名乗りが多いなか、政府の指導方針どおり商業銀行を名乗る。行是は堅実。1964年10月1日阿波銀行と改称するまで68年間
- [23]普通銀行には商工銀行・実業銀行・蚕糸銀行等の名乗りが多いなか、政府の指導方針どおり商業銀行を名乗る。行是は堅実。1964年10月1日阿波銀行と改称するまで68年間
- 阿波銀行 有価証券報告書「沿革」
- [24]1964年10月 行名を株式会社阿波銀行に変更
1898年8月、阿波商業銀行は貯蓄銀行条例に準拠して貯蓄部の兼営を始めた。あわせて5万円を増資し、資本金は普通部45万円・貯蓄部5万円の計50万円となった。小口の貯蓄預金が加わって預金は増え、1900年の第10期決算では預金残高が169万1,000余円に達した。当時の銀行の多くは預金が払込資本金に届かず、全国平均でも預金高がようやく自己資本を上回った時期にあたる。預金の増勢はその後も続き、明治末には資本額の10倍の450万円を数えた。創業時の資本45万円に比べて預金の薄かった銀行にとって、貯蓄部は預金の入口を広げる仕組みだったのだろう。
- 阿波銀行七十年小史(阿波銀行、1967年)
- [25]1898年8月貯蓄銀行条例に準拠し貯蓄部兼営開始、5万円増資で資本金50万円(普通部45万・貯蓄部5万)。1900年第10期預金169万1千余円。明治末に預金450万円(資本額の10倍)
- [26]1898年8月貯蓄銀行条例に準拠し貯蓄部兼営開始、5万円増資で資本金50万円(普通部45万・貯蓄部5万)。1900年第10期預金169万1千余円。明治末に預金450万円(資本額の10倍)
- [27]1898年8月貯蓄銀行条例に準拠し貯蓄部兼営開始、5万円増資で資本金50万円(普通部45万・貯蓄部5万)。1900年第10期預金169万1千余円。明治末に預金450万円(資本額の10倍)
- [28]明治中期の銀行は資本金に依存し、預金高が払込資本金に達しない銀行がほとんどだった
- [29]1898年8月貯蓄銀行条例に準拠し貯蓄部兼営開始、5万円増資で資本金50万円(普通部45万・貯蓄部5万)。1900年第10期預金169万1千余円。明治末に預金450万円(資本額の10倍)
- [30]1898年8月貯蓄銀行条例に準拠し貯蓄部兼営開始、5万円増資で資本金50万円(普通部45万・貯蓄部5万)。1900年第10期預金169万1千余円。明治末に預金450万円(資本額の10倍)
創業時の店舗は、徳島市船場町の本店と大阪支店、三好郡池田町の出張所の3か所だった。預金の増勢を受けて、阿波商業銀行は1899年に県内3か所へ出張所を設けた。2月の撫養(現鳴門)を皮切りに、4月に富岡(現阿南)、9月に脇町と続く開設。1900年の第10期決算では、預金が貸出金残高161万5,000余円を上回り、創業時から続いた貸出超過が解消した。一方で1901年1月には、葉煙草専売法の施行で存在価値の薄れた池田出張所を廃止している。撫養・富岡・脇町の出張所で集めた預金で貸出を賄える体制が、創業5年目に整ったと考えられる。
- 阿波銀行七十年小史(阿波銀行、1967年)
- [31]設立目論見書:本店徳島市船場町、支店大阪市西区北堀江通、出張所三好郡池田町
- [32]1899年2月撫養、4月富岡、9月脇町に出張所開設。1900年第10期で貸出161万5千余円に対し預金169万1千余円、オーバーローン解消。1901年1月葉煙草専売法で池田出張所を廃止
- [33]1899年2月撫養、4月富岡、9月脇町に出張所開設。1900年第10期で貸出161万5千余円に対し預金169万1千余円、オーバーローン解消。1901年1月葉煙草専売法で池田出張所を廃止
- [34]1899年2月撫養、4月富岡、9月脇町に出張所開設。1900年第10期で貸出161万5千余円に対し預金169万1千余円、オーバーローン解消。1901年1月葉煙草専売法で池田出張所を廃止
- [35]1899年2月撫養、4月富岡、9月脇町に出張所開設。1900年第10期で貸出161万5千余円に対し預金169万1千余円、オーバーローン解消。1901年1月葉煙草専売法で池田出張所を廃止
参考文献[18]-[35]
- 阿波銀行七十年小史(阿波銀行、1967年)
- [18]阿波商業銀行は銀行条例(1890年公布)に準拠する私立普通銀行。銀行条例の趣旨は私立銀行を商業金融機関として育成
- [19]阿波商業銀行は銀行条例(1890年公布)に準拠する私立普通銀行。銀行条例の趣旨は私立銀行を商業金融機関として育成
- [20]徳島には1878年設立の第八十九国立銀行。国立銀行の消滅で1899年3月以降銀行はすべて私立銀行に
- [21]普通銀行には商工銀行・実業銀行・蚕糸銀行等の名乗りが多いなか、政府の指導方針どおり商業銀行を名乗る。行是は堅実。1964年10月1日阿波銀行と改称するまで68年間
- [22]普通銀行には商工銀行・実業銀行・蚕糸銀行等の名乗りが多いなか、政府の指導方針どおり商業銀行を名乗る。行是は堅実。1964年10月1日阿波銀行と改称するまで68年間
- [23]普通銀行には商工銀行・実業銀行・蚕糸銀行等の名乗りが多いなか、政府の指導方針どおり商業銀行を名乗る。行是は堅実。1964年10月1日阿波銀行と改称するまで68年間
- [25]1898年8月貯蓄銀行条例に準拠し貯蓄部兼営開始、5万円増資で資本金50万円(普通部45万・貯蓄部5万)。1900年第10期預金169万1千余円。明治末に預金450万円(資本額の10倍)
- [26]1898年8月貯蓄銀行条例に準拠し貯蓄部兼営開始、5万円増資で資本金50万円(普通部45万・貯蓄部5万)。1900年第10期預金169万1千余円。明治末に預金450万円(資本額の10倍)
- [27]1898年8月貯蓄銀行条例に準拠し貯蓄部兼営開始、5万円増資で資本金50万円(普通部45万・貯蓄部5万)。1900年第10期預金169万1千余円。明治末に預金450万円(資本額の10倍)
- [28]明治中期の銀行は資本金に依存し、預金高が払込資本金に達しない銀行がほとんどだった
- [29]1898年8月貯蓄銀行条例に準拠し貯蓄部兼営開始、5万円増資で資本金50万円(普通部45万・貯蓄部5万)。1900年第10期預金169万1千余円。明治末に預金450万円(資本額の10倍)
- [30]1898年8月貯蓄銀行条例に準拠し貯蓄部兼営開始、5万円増資で資本金50万円(普通部45万・貯蓄部5万)。1900年第10期預金169万1千余円。明治末に預金450万円(資本額の10倍)
- [31]設立目論見書:本店徳島市船場町、支店大阪市西区北堀江通、出張所三好郡池田町
- [32]1899年2月撫養、4月富岡、9月脇町に出張所開設。1900年第10期で貸出161万5千余円に対し預金169万1千余円、オーバーローン解消。1901年1月葉煙草専売法で池田出張所を廃止
- [33]1899年2月撫養、4月富岡、9月脇町に出張所開設。1900年第10期で貸出161万5千余円に対し預金169万1千余円、オーバーローン解消。1901年1月葉煙草専売法で池田出張所を廃止
- [34]1899年2月撫養、4月富岡、9月脇町に出張所開設。1900年第10期で貸出161万5千余円に対し預金169万1千余円、オーバーローン解消。1901年1月葉煙草専売法で池田出張所を廃止
- [35]1899年2月撫養、4月富岡、9月脇町に出張所開設。1900年第10期で貸出161万5千余円に対し預金169万1千余円、オーバーローン解消。1901年1月葉煙草専売法で池田出張所を廃止
- 阿波銀行 有価証券報告書「沿革」
- [24]1964年10月 行名を株式会社阿波銀行に変更
1904年〜人造藍に追われた阿波藍と、資本金50万円で分けた阿波貯蓄銀行
阿波藍の産額は、日清戦争後の1895年に35万6,000俵・723万円を記録したのを最後に減少へ転じた。インド藍に続いてドイツの人造藍が輸入され、手間と肥料のかかる天然藍は紺屋の採算に合わなくなった。藍の作付けの減少は1914年に極まり、吉野川沿いの藍畑は桑園に替わって、養蚕製糸業が徳島県の主産業の座を占めた。1914年5月、阿波商業銀行は店の配置を組み替え、麻植郡の鴨島に支店を新たに置いた。麻植郡は県内の製糸業の中心で、1901年に閉じた池田の店も支店の格で再び開けている。撫養・富岡・脇町の3出張所も、このとき揃って支店となった。藍商を地盤とした店の配置を、養蚕と製糸の産地へ合わせ直したとみられる。
- 阿波銀行七十年小史(阿波銀行、1967年)
- [36]1895年阿波藍産額35万6千俵・723万円が最盛。印度藍、ドイツ人造藍に追われ、天然藍は紺屋の採算に合わなくなる
- [37]1895年阿波藍産額35万6千俵・723万円が最盛。印度藍、ドイツ人造藍に追われ、天然藍は紺屋の採算に合わなくなる
- [38]藍作付反別は年々減少し1914年(大正3年)に極度に達する。藍畑が桑園に替わり養蚕製糸業が県の主要産業に
- [39]1914年5月、池田出張所を支店として復活、製糸の中心地麻植郡に鴨島支店新設、撫養・富岡・脇町の3出張所を支店に昇格
- [40]1914年5月、池田出張所を支店として復活、製糸の中心地麻植郡に鴨島支店新設、撫養・富岡・脇町の3出張所を支店に昇格
- [41]1914年5月、池田出張所を支店として復活、製糸の中心地麻植郡に鴨島支店新設、撫養・富岡・脇町の3出張所を支店に昇格
第一次世界大戦の好況で、阿波商業銀行の預金は1914年末の422万円から1919年末の1,302万円へ増えた。資本金も1918年の倍額増資で100万円、1920年には210万円(普通部180万円・貯蓄部30万円)となった。1921年の貯蓄銀行条例の改正により、普通銀行の貯蓄部は分離を迫られた。阿波商業銀行は同年10月の臨時株主総会で、自行の株主を株主とする資本金50万円の株式会社阿波貯蓄銀行を設け、貯蓄部を譲渡すると決議した。阿波貯蓄銀行は12月3日に開業し、取締役は阿波商業銀行の取締役が兼ねた。1928年まで本店の営業室を二分し、同じ店で営業を続けた。
- 阿波銀行七十年小史(阿波銀行、1967年)
- [42]預金1914年末422万円→1919年末1,302万円。1918年倍額増資で資本金100万円、1920年3回目増資で210万円(普通部180万・貯蓄部30万)
- [43]預金1914年末422万円→1919年末1,302万円。1918年倍額増資で資本金100万円、1920年3回目増資で210万円(普通部180万・貯蓄部30万)
- [44]1921年貯蓄銀行条例改正で貯蓄部分離へ。1921年10月臨時株主総会で現株主による資本金50万円の阿波貯蓄銀行設立と貯蓄部譲渡を決議。12月3日開業、取締役は当行取締役が兼任、1928年まで当行営業室を二分し同居営業
- [45]1921年貯蓄銀行条例改正で貯蓄部分離へ。1921年10月臨時株主総会で現株主による資本金50万円の阿波貯蓄銀行設立と貯蓄部譲渡を決議。12月3日開業、取締役は当行取締役が兼任、1928年まで当行営業室を二分し同居営業
- [46]1921年貯蓄銀行条例改正で貯蓄部分離へ。1921年10月臨時株主総会で現株主による資本金50万円の阿波貯蓄銀行設立と貯蓄部譲渡を決議。12月3日開業、取締役は当行取締役が兼任、1928年まで当行営業室を二分し同居営業
- [47]1921年貯蓄銀行条例改正で貯蓄部分離へ。1921年10月臨時株主総会で現株主による資本金50万円の阿波貯蓄銀行設立と貯蓄部譲渡を決議。12月3日開業、取締役は当行取締役が兼任、1928年まで当行営業室を二分し同居営業
1923年の関東大震災で生じた震災手形が尾を引き、1927年に取付けが全国へ広がると、政府は4月22日に3週間のモラトリアムを公布した。徳島では同年2月に徳島銀行が休業し、再起できなかった。阿波商業銀行は大阪支店から7回にわたって現金を送り、預金総額1,600万円に対して1,200万円の現金を積んで取付けに臨んだ。窓口で払い戻しに応じ続けると、取付けは夕方6時ごろに収まった。同年3月末公布の銀行法は最低資本金を定め、普通銀行の6割にあたる809行が資格を失った。休業した徳島銀行は預金の6割を支払う和議を経て、翌1928年5月に営業権を阿波商業銀行へ譲渡した。
- 阿波銀行七十年小史(阿波銀行、1967年)
- [48]1923年9月1日関東大震災、震災手形問題。1927年3月取付け拡大、4月22日モラトリアム(3週間)。1927年3月末銀行法公布(1928年1月1日施行)、最低資本金を規定、809行が資格喪失(普通銀行数の6割)
- [49]徳島銀行は1927年2月から休業し再起できず。預金6割支払いの和議を経て1928年5月阿波商業銀行に営業権を譲渡
- [50]大阪支店から前後7回の現金送金で手配。預金総額1,600万円に対し1,200万円の現金を準備、取付けは6時頃おさまる
- [51]大阪支店から前後7回の現金送金で手配。預金総額1,600万円に対し1,200万円の現金を準備、取付けは6時頃おさまる
- [52]1923年9月1日関東大震災、震災手形問題。1927年3月取付け拡大、4月22日モラトリアム(3週間)。1927年3月末銀行法公布(1928年1月1日施行)、最低資本金を規定、809行が資格喪失(普通銀行数の6割)
- [53]徳島銀行は1927年2月から休業し再起できず。預金6割支払いの和議を経て1928年5月阿波商業銀行に営業権を譲渡
- 阿波銀行 有価証券報告書「沿革」
- [54]1928年5月 株式会社徳島銀行の営業権を譲受け
参考文献[36]-[54]
- 阿波銀行七十年小史(阿波銀行、1967年)
- [36]1895年阿波藍産額35万6千俵・723万円が最盛。印度藍、ドイツ人造藍に追われ、天然藍は紺屋の採算に合わなくなる
- [37]1895年阿波藍産額35万6千俵・723万円が最盛。印度藍、ドイツ人造藍に追われ、天然藍は紺屋の採算に合わなくなる
- [38]藍作付反別は年々減少し1914年(大正3年)に極度に達する。藍畑が桑園に替わり養蚕製糸業が県の主要産業に
- [39]1914年5月、池田出張所を支店として復活、製糸の中心地麻植郡に鴨島支店新設、撫養・富岡・脇町の3出張所を支店に昇格
- [40]1914年5月、池田出張所を支店として復活、製糸の中心地麻植郡に鴨島支店新設、撫養・富岡・脇町の3出張所を支店に昇格
- [41]1914年5月、池田出張所を支店として復活、製糸の中心地麻植郡に鴨島支店新設、撫養・富岡・脇町の3出張所を支店に昇格
- [42]預金1914年末422万円→1919年末1,302万円。1918年倍額増資で資本金100万円、1920年3回目増資で210万円(普通部180万・貯蓄部30万)
- [43]預金1914年末422万円→1919年末1,302万円。1918年倍額増資で資本金100万円、1920年3回目増資で210万円(普通部180万・貯蓄部30万)
- [44]1921年貯蓄銀行条例改正で貯蓄部分離へ。1921年10月臨時株主総会で現株主による資本金50万円の阿波貯蓄銀行設立と貯蓄部譲渡を決議。12月3日開業、取締役は当行取締役が兼任、1928年まで当行営業室を二分し同居営業
- [45]1921年貯蓄銀行条例改正で貯蓄部分離へ。1921年10月臨時株主総会で現株主による資本金50万円の阿波貯蓄銀行設立と貯蓄部譲渡を決議。12月3日開業、取締役は当行取締役が兼任、1928年まで当行営業室を二分し同居営業
- [46]1921年貯蓄銀行条例改正で貯蓄部分離へ。1921年10月臨時株主総会で現株主による資本金50万円の阿波貯蓄銀行設立と貯蓄部譲渡を決議。12月3日開業、取締役は当行取締役が兼任、1928年まで当行営業室を二分し同居営業
- [47]1921年貯蓄銀行条例改正で貯蓄部分離へ。1921年10月臨時株主総会で現株主による資本金50万円の阿波貯蓄銀行設立と貯蓄部譲渡を決議。12月3日開業、取締役は当行取締役が兼任、1928年まで当行営業室を二分し同居営業
- [48]1923年9月1日関東大震災、震災手形問題。1927年3月取付け拡大、4月22日モラトリアム(3週間)。1927年3月末銀行法公布(1928年1月1日施行)、最低資本金を規定、809行が資格喪失(普通銀行数の6割)
- [49]徳島銀行は1927年2月から休業し再起できず。預金6割支払いの和議を経て1928年5月阿波商業銀行に営業権を譲渡
- [50]大阪支店から前後7回の現金送金で手配。預金総額1,600万円に対し1,200万円の現金を準備、取付けは6時頃おさまる
- [51]大阪支店から前後7回の現金送金で手配。預金総額1,600万円に対し1,200万円の現金を準備、取付けは6時頃おさまる
- [52]1923年9月1日関東大震災、震災手形問題。1927年3月取付け拡大、4月22日モラトリアム(3週間)。1927年3月末銀行法公布(1928年1月1日施行)、最低資本金を規定、809行が資格喪失(普通銀行数の6割)
- [53]徳島銀行は1927年2月から休業し再起できず。預金6割支払いの和議を経て1928年5月阿波商業銀行に営業権を譲渡
- 阿波銀行 有価証券報告書「沿革」
- [54]1928年5月 株式会社徳島銀行の営業権を譲受け
出典・参考
2件
- 阿波銀行 有価証券報告書「沿革」
- 阿波銀行七十年小史(阿波銀行、1967年)