サンゲツ:表具師の山月堂から壁紙卸専業への転換
1953年〜焼け跡から4人で出直した名古屋の襖表具問屋と、東京の松屋が持ち込んだ壁紙の代理店話
山月堂は1850年(嘉永3年)に名古屋城下で開業した経師屋で、掛軸や襖、屏風を仕立てる家業である。4代目の日比賢一氏は手作りの仕事では商いの規模に限度があると考え、戦前のうちに襖材料の販売へ業容を広げた。その店舗は1945年5月14日の名古屋空襲で商品ごと焼失。日比賢一氏は焼け跡を自力で整理してバラックの倉庫と店舗を建て、1946年2月に卸の営業を再開した。再出発の顔ぶれは日比賢一氏と、旧制中学を卒業したばかりの長男の日比賢昭氏、従業員2人の計4人である。住宅や公共建築の復旧で襖材料の需要が増え、商いの焦点は売り先より仕入れの確保に移った。
- 証券 1997年
- [1]山月堂は嘉永3年(1850年)名古屋城下で創業した経師屋(巻物・襖・屏風を作る)
- 証券アナリストジャーナル 19(1) 1981年(日比賢昭)
- [2]4代目の日比賢一氏が手作りの仕事に限度があるとして第2次大戦前に襖材料の販売を始めた
- ポケット社史 1991年4月『サンゲツ:トータルインテリアで夢空間を創造』
- [3]1945年5月14日の空襲で店舗が商品とともに全焼、1946年2月にバラックの倉庫・店舗で営業再開、日比賢一社長・日比賢昭氏・従業員2人の4人
- [4]1945年5月14日の空襲で店舗が商品とともに全焼、1946年2月にバラックの倉庫・店舗で営業再開、日比賢一社長・日比賢昭氏・従業員2人の4人
- [5]1945年5月14日の空襲で店舗が商品とともに全焼、1946年2月にバラックの倉庫・店舗で営業再開、日比賢一社長・日比賢昭氏・従業員2人の4人
- [6]戦後の住宅・公共建築の復旧で襖材料の需要が拡大し、仕入れの確保が難しかった(日比恭平常務の回想)
山月堂は1953年4月、個人商店を改めて資本金250万円の株式会社となった。きっかけは前年1952年の税務調査で、経理の不備を問われて多額の追徴金を納めた。弟の日比恭平氏の回想では、この経験から帳簿を整え、納めるべき税を納めて商売を続けるために会社組織を選んだ。税務の負担が重かった背景にあるのは、シャウプ勧告を受けた税制改革で所得税と法人税の制度が大きく変わった時期という事情である。法人化の後、山月堂は優良な納税法人として税務署の表彰を受けた。同じ頃には隣の売り家を約700万円で取得し、資本金の2.8倍にあたる借入金の返済を朝鮮戦争の特需で乗り切った。家業の帳場を法人の会計に置き換えたことが、のちの大型投資を借入で賄える信用の土台になったと推察される。
- 証券アナリストジャーナル 19(1) 1981年(日比賢昭)
- [7]1953年(昭和28年)4月、資本金250万円で株式会社に改組
- ポケット社史 1991年4月『サンゲツ:トータルインテリアで夢空間を創造』
- [8]1952年の税務調査で多額の追徴金。経理を整えるため翌1953年に株式会社に改組(日比恭平常務の回想)。シャウプ勧告後の税制改革期
- [9]1952年の税務調査で多額の追徴金。経理を整えるため翌1953年に株式会社に改組(日比恭平常務の回想)。シャウプ勧告後の税制改革期
- [10]1952年の税務調査で多額の追徴金。経理を整えるため翌1953年に株式会社に改組(日比恭平常務の回想)。シャウプ勧告後の税制改革期
- [11]改組後に優良納税法人として表彰。隣の売り家を約700万円で取得し、借入負担を朝鮮戦争特需で乗り切った
- [12]改組後に優良納税法人として表彰。隣の売り家を約700万円で取得し、借入負担を朝鮮戦争特需で乗り切った
1955年、主力の仕入先だった東京・京橋の松屋が、山月堂に壁紙の取り扱いを持ちかけた。松屋は洋風建築が増えれば壁紙の需要も広がると見込み、中京地方で販売を担う代理店を探していた。当時の山月堂は従業員6人の表具問屋で、名古屋では壁紙を張った建物をほとんど見かけなかった。日比賢昭氏の講演によれば、決めかねる山月堂に対し、京橋松屋の社長は引き受けない場合は自ら名古屋に出張所を置いて直販すると告げた。日比賢一氏は日比賢昭氏や日比祐市氏の熱意を受けて承諾した。山月堂は1957年に京橋松屋の中京地区代理店として壁紙の取り扱いを始めた。断れば大切な仕入先が地元で競合に変わるという事情が、未知の商材を引き受ける決め手になったとみられる。
- ポケット社史 1991年4月『サンゲツ:トータルインテリアで夢空間を創造』
- [13]1955年、仕入先の松屋が洋風建築の増加による壁紙需要を見込み、従業員6人の山月堂を中京地方の販売代理店に選んだ。日比賢昭・日比祐市両氏の熱意で日比賢一氏が承諾
- [14]1955年、仕入先の松屋が洋風建築の増加による壁紙需要を見込み、従業員6人の山月堂を中京地方の販売代理店に選んだ。日比賢昭・日比祐市両氏の熱意で日比賢一氏が承諾
- [15]1955年、仕入先の松屋が洋風建築の増加による壁紙需要を見込み、従業員6人の山月堂を中京地方の販売代理店に選んだ。日比賢昭・日比祐市両氏の熱意で日比賢一氏が承諾
- [17]1955年、仕入先の松屋が洋風建築の増加による壁紙需要を見込み、従業員6人の山月堂を中京地方の販売代理店に選んだ。日比賢昭・日比祐市両氏の熱意で日比賢一氏が承諾
- 証券アナリストジャーナル 19(1) 1981年(日比賢昭)
- [16]京橋松屋の社長が「扱わないなら名古屋に出張所をつくって直販する」と強く勧めた(日比賢昭氏の講演)
- 証券 1997年
- [18]1957年(昭和32年)京橋松屋の中京地区販売代理店となり壁紙の取り扱いを開始
参考文献[1]-[18]
- 証券 1997年
- [1]山月堂は嘉永3年(1850年)名古屋城下で創業した経師屋(巻物・襖・屏風を作る)
- [18]1957年(昭和32年)京橋松屋の中京地区販売代理店となり壁紙の取り扱いを開始
- 証券アナリストジャーナル 19(1) 1981年(日比賢昭)
- [2]4代目の日比賢一氏が手作りの仕事に限度があるとして第2次大戦前に襖材料の販売を始めた
- [7]1953年(昭和28年)4月、資本金250万円で株式会社に改組
- [16]京橋松屋の社長が「扱わないなら名古屋に出張所をつくって直販する」と強く勧めた(日比賢昭氏の講演)
- ポケット社史 1991年4月『サンゲツ:トータルインテリアで夢空間を創造』
- [3]1945年5月14日の空襲で店舗が商品とともに全焼、1946年2月にバラックの倉庫・店舗で営業再開、日比賢一社長・日比賢昭氏・従業員2人の4人
- [4]1945年5月14日の空襲で店舗が商品とともに全焼、1946年2月にバラックの倉庫・店舗で営業再開、日比賢一社長・日比賢昭氏・従業員2人の4人
- [5]1945年5月14日の空襲で店舗が商品とともに全焼、1946年2月にバラックの倉庫・店舗で営業再開、日比賢一社長・日比賢昭氏・従業員2人の4人
- [6]戦後の住宅・公共建築の復旧で襖材料の需要が拡大し、仕入れの確保が難しかった(日比恭平常務の回想)
- [8]1952年の税務調査で多額の追徴金。経理を整えるため翌1953年に株式会社に改組(日比恭平常務の回想)。シャウプ勧告後の税制改革期
- [9]1952年の税務調査で多額の追徴金。経理を整えるため翌1953年に株式会社に改組(日比恭平常務の回想)。シャウプ勧告後の税制改革期
- [10]1952年の税務調査で多額の追徴金。経理を整えるため翌1953年に株式会社に改組(日比恭平常務の回想)。シャウプ勧告後の税制改革期
- [11]改組後に優良納税法人として表彰。隣の売り家を約700万円で取得し、借入負担を朝鮮戦争特需で乗り切った
- [12]改組後に優良納税法人として表彰。隣の売り家を約700万円で取得し、借入負担を朝鮮戦争特需で乗り切った
- [13]1955年、仕入先の松屋が洋風建築の増加による壁紙需要を見込み、従業員6人の山月堂を中京地方の販売代理店に選んだ。日比賢昭・日比祐市両氏の熱意で日比賢一氏が承諾
- [14]1955年、仕入先の松屋が洋風建築の増加による壁紙需要を見込み、従業員6人の山月堂を中京地方の販売代理店に選んだ。日比賢昭・日比祐市両氏の熱意で日比賢一氏が承諾
- [15]1955年、仕入先の松屋が洋風建築の増加による壁紙需要を見込み、従業員6人の山月堂を中京地方の販売代理店に選んだ。日比賢昭・日比祐市両氏の熱意で日比賢一氏が承諾
- [17]1955年、仕入先の松屋が洋風建築の増加による壁紙需要を見込み、従業員6人の山月堂を中京地方の販売代理店に選んだ。日比賢昭・日比祐市両氏の熱意で日比賢一氏が承諾
1960年〜壁紙販売部を立てた山月堂と、日比賢昭氏が4億5000万円を投じた本社屋
山月堂は1960年4月1日に壁紙販売部を設け、同じ年に自社で企画した見本帳の第1号を発行した。それまでの壁紙は問屋から仕入れて得意先に納める取次ぎで、取扱量の拡大にもシェアの確保にも限界があった。自社企画の商品はメーカーから全量を一括で仕入れるため、在庫の危険を負えるだけの販売組織が要った。販路は設計事務所に見本を置いて回る営業で開け、1959年には結婚式場の東山会館と東海銀行本店が設計指定で採用した。高度成長で洋風建築の割合が高まり、1960年代には壁紙の需要が急拡大。山月堂は見本帳で建築の発注者側に商品を選ばせる仕組みを、販売部の設置と同時に整えたのだろう。
- ポケット社史 1991年4月『サンゲツ:トータルインテリアで夢空間を創造』
- [19]1960年4月1日壁紙販売部開設、同年自社企画の見本帳第1号。取次ぎ販売の限界、オリジナル商品は全量一括仕入れで在庫リスク。1959年東山会館・東海銀行本店に設計事務所の指定で採用
- [20]1960年4月1日壁紙販売部開設、同年自社企画の見本帳第1号。取次ぎ販売の限界、オリジナル商品は全量一括仕入れで在庫リスク。1959年東山会館・東海銀行本店に設計事務所の指定で採用
- [21]1960年4月1日壁紙販売部開設、同年自社企画の見本帳第1号。取次ぎ販売の限界、オリジナル商品は全量一括仕入れで在庫リスク。1959年東山会館・東海銀行本店に設計事務所の指定で採用
- [22]1960年4月1日壁紙販売部開設、同年自社企画の見本帳第1号。取次ぎ販売の限界、オリジナル商品は全量一括仕入れで在庫リスク。1959年東山会館・東海銀行本店に設計事務所の指定で採用
- 証券 1997年
- [23]1960年(昭和35年)見本帳を使用した営業を開始。高度経済成長で洋風建築が増え壁紙需要が急拡大
1965年10月1日、日比賢昭氏が社長に就任し、創業から数えて5代目の当主となった。父の日比賢一氏の死去も同じ1965年である。日比恭平氏の回想では、日比賢一氏は1960年代前半から心臓を患い、壁紙に取り組む子どもたちへ少しずつ仕事を任せていた。日比賢昭氏によると、壁紙は従来のふすま紙より販売単価が高く、目新しい商材のため利幅も比較的大きかった。同業各社は3〜4年後に一斉に壁紙を扱い始めたものの、早く始めた山月堂は1965年頃に40〜50%の市場占有率を維持した。新社長は30代で、取り扱い開始の段階から壁紙への転換を担ってきた当人である。社長の交代は、壁紙への転換を始めた世代に投資の決定権を移す意味を持ったとうかがえる。
- ポケット社史 1991年4月『サンゲツ:トータルインテリアで夢空間を創造』
- [24]1965年10月1日日比賢昭氏が30代で社長就任。日比賢一氏は昭和30年代後半から心臓を患い仕事を子どもたちに任せた(日比恭平常務の回想)
- [26]1965年10月1日日比賢昭氏が30代で社長就任。日比賢一氏は昭和30年代後半から心臓を患い仕事を子どもたちに任せた(日比恭平常務の回想)
- [29]1965年10月1日日比賢昭氏が30代で社長就任。日比賢一氏は昭和30年代後半から心臓を患い仕事を子どもたちに任せた(日比恭平常務の回想)
- 証券アナリストジャーナル 19(1) 1981年(日比賢昭)
- [25]昭和40年に父が死去し日比賢昭氏が5代目社長に。壁紙はふすま紙より販売金額が高く利益率も高い。同業も3〜4年後に参入、昭和40年ごろ占有率40〜50%
- [27]昭和40年に父が死去し日比賢昭氏が5代目社長に。壁紙はふすま紙より販売金額が高く利益率も高い。同業も3〜4年後に参入、昭和40年ごろ占有率40〜50%
- [28]昭和40年に父が死去し日比賢昭氏が5代目社長に。壁紙はふすま紙より販売金額が高く利益率も高い。同業も3〜4年後に参入、昭和40年ごろ占有率40〜50%
日比賢昭氏は1966年頃から本社ビルを計画し、1968年に着工した。総工費は4億5000万円で、2年の工期を経た1970年6月13日の完成。着工時の年商は約10億円で、日比賢昭氏は後年、年商の半分近い投資を無謀とも言える計画だったと振り返った。日比賢昭氏が経営の心得としたのが『一升のマスに二升の水は入らない』という言葉で、事業を広げる前に人材と設備を整えるという考えを指した。日比賢昭氏は業容を大きくするには人材と設備を先に大きくする必要があると判断し、工事に備えて資金を少しずつ積み立てた。人材と設備への投資を売上の伸びより先に置く順序が、後の全国展開の速さを支えたと考えられる。
- 証券アナリストジャーナル 19(1) 1981年(日比賢昭)
- [30]本社ビルは昭和41年ごろ計画、43年着工、総工費約5億円、当時の年商約10億円。「器を大きくしなければ業績は大きくならない」として決断、資金を蓄積
- [32]本社ビルは昭和41年ごろ計画、43年着工、総工費約5億円、当時の年商約10億円。「器を大きくしなければ業績は大きくならない」として決断、資金を蓄積
- [34]本社ビルは昭和41年ごろ計画、43年着工、総工費約5億円、当時の年商約10億円。「器を大きくしなければ業績は大きくならない」として決断、資金を蓄積
- ポケット社史 1991年4月『サンゲツ:トータルインテリアで夢空間を創造』
- [31]1968年8月着工、総工費4億5000万円、1970年6月13日完成。日比賢昭社長の信条「一升のマスに二升の水は入らない」
- [33]1968年8月着工、総工費4億5000万円、1970年6月13日完成。日比賢昭社長の信条「一升のマスに二升の水は入らない」
参考文献[19]-[34]
- ポケット社史 1991年4月『サンゲツ:トータルインテリアで夢空間を創造』
- [19]1960年4月1日壁紙販売部開設、同年自社企画の見本帳第1号。取次ぎ販売の限界、オリジナル商品は全量一括仕入れで在庫リスク。1959年東山会館・東海銀行本店に設計事務所の指定で採用
- [20]1960年4月1日壁紙販売部開設、同年自社企画の見本帳第1号。取次ぎ販売の限界、オリジナル商品は全量一括仕入れで在庫リスク。1959年東山会館・東海銀行本店に設計事務所の指定で採用
- [21]1960年4月1日壁紙販売部開設、同年自社企画の見本帳第1号。取次ぎ販売の限界、オリジナル商品は全量一括仕入れで在庫リスク。1959年東山会館・東海銀行本店に設計事務所の指定で採用
- [22]1960年4月1日壁紙販売部開設、同年自社企画の見本帳第1号。取次ぎ販売の限界、オリジナル商品は全量一括仕入れで在庫リスク。1959年東山会館・東海銀行本店に設計事務所の指定で採用
- [24]1965年10月1日日比賢昭氏が30代で社長就任。日比賢一氏は昭和30年代後半から心臓を患い仕事を子どもたちに任せた(日比恭平常務の回想)
- [26]1965年10月1日日比賢昭氏が30代で社長就任。日比賢一氏は昭和30年代後半から心臓を患い仕事を子どもたちに任せた(日比恭平常務の回想)
- [29]1965年10月1日日比賢昭氏が30代で社長就任。日比賢一氏は昭和30年代後半から心臓を患い仕事を子どもたちに任せた(日比恭平常務の回想)
- [31]1968年8月着工、総工費4億5000万円、1970年6月13日完成。日比賢昭社長の信条「一升のマスに二升の水は入らない」
- [33]1968年8月着工、総工費4億5000万円、1970年6月13日完成。日比賢昭社長の信条「一升のマスに二升の水は入らない」
- 証券 1997年
- [23]1960年(昭和35年)見本帳を使用した営業を開始。高度経済成長で洋風建築が増え壁紙需要が急拡大
- 証券アナリストジャーナル 19(1) 1981年(日比賢昭)
- [25]昭和40年に父が死去し日比賢昭氏が5代目社長に。壁紙はふすま紙より販売金額が高く利益率も高い。同業も3〜4年後に参入、昭和40年ごろ占有率40〜50%
- [27]昭和40年に父が死去し日比賢昭氏が5代目社長に。壁紙はふすま紙より販売金額が高く利益率も高い。同業も3〜4年後に参入、昭和40年ごろ占有率40〜50%
- [28]昭和40年に父が死去し日比賢昭氏が5代目社長に。壁紙はふすま紙より販売金額が高く利益率も高い。同業も3〜4年後に参入、昭和40年ごろ占有率40〜50%
- [30]本社ビルは昭和41年ごろ計画、43年着工、総工費約5億円、当時の年商約10億円。「器を大きくしなければ業績は大きくならない」として決断、資金を蓄積
- [32]本社ビルは昭和41年ごろ計画、43年着工、総工費約5億円、当時の年商約10億円。「器を大きくしなければ業績は大きくならない」として決断、資金を蓄積
- [34]本社ビルは昭和41年ごろ計画、43年着工、総工費約5億円、当時の年商約10億円。「器を大きくしなければ業績は大きくならない」として決断、資金を蓄積
1970年〜カタカナの社名サンゲツと、売上100億円に届いた大阪・広島・福岡への出店
1970年4月、山月堂は商号を株式会社サンゲツに改めた。改称は本社屋の完成に合わせたもので、100年以上続いた屋号をカタカナの社名に替える判断である。当時はカタカナの社名を名乗る会社がほとんど無かった。日比賢昭氏の講演では、本社ビル完成時の年商は23億円で、業界首位の32億円に次ぐ2位の座を得た。同じ時点の年商を32億円、従業員を75名とする記録もある。完成の祝賀式では東海銀行の頭取が、自行の役員室の天井にサンゲツの壁材が張られていると祝辞で触れた。1972年9月には本社屋が手狭になったため、隣接地150坪を取得して増築した。社名の変更は、表具の来歴よりも内装材の卸としての実態を取引先に示す選択だったと思われる。
- 証券 1997年
- [35]1970年(昭和45年)4月に商号を株式会社山月堂から株式会社サンゲツに変更
- ポケット社史 1991年4月『サンゲツ:トータルインテリアで夢空間を創造』
- [36]本社屋完成に合わせ社名を山月堂からサンゲツに改称、カタカナ社名は当時ほとんど無かった。当時の年商32億円・従業員75名。1972年9月隣地150坪を取得し増築。完成祝賀式で東海銀行頭取が役員室天井のサンゲツ壁材に触れた
- [37]本社屋完成に合わせ社名を山月堂からサンゲツに改称、カタカナ社名は当時ほとんど無かった。当時の年商32億円・従業員75名。1972年9月隣地150坪を取得し増築。完成祝賀式で東海銀行頭取が役員室天井のサンゲツ壁材に触れた
- [39]本社屋完成に合わせ社名を山月堂からサンゲツに改称、カタカナ社名は当時ほとんど無かった。当時の年商32億円・従業員75名。1972年9月隣地150坪を取得し増築。完成祝賀式で東海銀行頭取が役員室天井のサンゲツ壁材に触れた
- [40]本社屋完成に合わせ社名を山月堂からサンゲツに改称、カタカナ社名は当時ほとんど無かった。当時の年商32億円・従業員75名。1972年9月隣地150坪を取得し増築。完成祝賀式で東海銀行頭取が役員室天井のサンゲツ壁材に触れた
- [41]本社屋完成に合わせ社名を山月堂からサンゲツに改称、カタカナ社名は当時ほとんど無かった。当時の年商32億円・従業員75名。1972年9月隣地150坪を取得し増築。完成祝賀式で東海銀行頭取が役員室天井のサンゲツ壁材に触れた
- 証券アナリストジャーナル 19(1) 1981年(日比賢昭)
- [38]本社ビル完成時の年商23億円、業界1位は年商32億円で第2位に(日比賢昭氏の講演)
サンゲツは1972年6月に東京・青山へ営業所を置いてショールームも併設し、首都圏の開拓に着手した。売上高は1973年の第1次石油危機まで年率35%で増え、1975年3月期の前期比7%減が初めての減収にあたる。値上げと売り惜しみが広がるなか、サンゲツは「創造的デザイン」「信頼される品質」「適正な市場価格」の3則を掲げて商品の供給を続けた。日比賢昭氏は品切れを起こさない正確で迅速な納品と3則が、業績の拡大に寄与したと述べている。その後も1975年5月に大阪営業所、1976年6月に広島営業所、同年10月に福岡店と開設が続いた。1975年度の売上高は100億円に達した。
- ポケット社史 1991年4月『サンゲツ:トータルインテリアで夢空間を創造』
- [42]1972年6月東京・青山に営業所とショールーム開設。石油危機下で便乗値上げをせずサンゲツ3則で安定供給。1975年5月大阪営業所、1976年6月広島営業所、同10月福岡店。1975年度売上100億円
- [44]1972年6月東京・青山に営業所とショールーム開設。石油危機下で便乗値上げをせずサンゲツ3則で安定供給。1975年5月大阪営業所、1976年6月広島営業所、同10月福岡店。1975年度売上100億円
- [46]1972年6月東京・青山に営業所とショールーム開設。石油危機下で便乗値上げをせずサンゲツ3則で安定供給。1975年5月大阪営業所、1976年6月広島営業所、同10月福岡店。1975年度売上100億円
- [47]1972年6月東京・青山に営業所とショールーム開設。石油危機下で便乗値上げをせずサンゲツ3則で安定供給。1975年5月大阪営業所、1976年6月広島営業所、同10月福岡店。1975年度売上100億円
- 証券アナリストジャーナル 19(1) 1981年(日比賢昭)
- [43]1973年の第1次石油危機まで売上高年率35%増、1975年3月期は前年比7%減で史上初の減収。正確迅速な納品とサンゲツ3則が業績伸長に寄与
- [45]1973年の第1次石油危機まで売上高年率35%増、1975年3月期は前年比7%減で史上初の減収。正確迅速な納品とサンゲツ3則が業績伸長に寄与
サンゲツは1978年に大阪営業所を店に昇格させ、北陸営業所に続いて1979年に仙台営業所を開設した。資本金は1977年7月の6000万円から、1978年4月に2億4000万円、1979年4月に4億8000万円へと増えた。日比賢昭氏の講演では、サンゲツは1977年頃からオリジナルの床材の販売を本格的に始めた。ショールームの来客から床材やカーテンも扱ってほしいという要望が多く、日比賢昭氏は内装材を一か所で選べることが最良と考えた。1980年3月期の年商は、1970年3月期の約12倍となった。壁紙で築いた見本帳と全国の販路に床材を加える判断が、壁紙・床材・カーテンを揃える総合的な内装の品揃えへ拡大する起点になったと解される。
- ポケット社史 1991年4月『サンゲツ:トータルインテリアで夢空間を創造』
- [48]1978年大阪営業所を店に昇格、北陸営業所、1979年仙台営業所。資本金1977年7月6000万円→1978年4月2億4000万円→1979年4月4億8000万円
- [49]1978年大阪営業所を店に昇格、北陸営業所、1979年仙台営業所。資本金1977年7月6000万円→1978年4月2億4000万円→1979年4月4億8000万円
- 証券アナリストジャーナル 19(1) 1981年(日比賢昭)
- [50]昭和52年ごろからオリジナル床材の販売を本格開始。ショールーム来客から床材・カーテンを求める声。55年3月期の年商は45年3月期の約12倍
- [51]昭和52年ごろからオリジナル床材の販売を本格開始。ショールーム来客から床材・カーテンを求める声。55年3月期の年商は45年3月期の約12倍
- [52]昭和52年ごろからオリジナル床材の販売を本格開始。ショールーム来客から床材・カーテンを求める声。55年3月期の年商は45年3月期の約12倍
参考文献[35]-[52]
- 証券 1997年
- [35]1970年(昭和45年)4月に商号を株式会社山月堂から株式会社サンゲツに変更
- ポケット社史 1991年4月『サンゲツ:トータルインテリアで夢空間を創造』
- [36]本社屋完成に合わせ社名を山月堂からサンゲツに改称、カタカナ社名は当時ほとんど無かった。当時の年商32億円・従業員75名。1972年9月隣地150坪を取得し増築。完成祝賀式で東海銀行頭取が役員室天井のサンゲツ壁材に触れた
- [37]本社屋完成に合わせ社名を山月堂からサンゲツに改称、カタカナ社名は当時ほとんど無かった。当時の年商32億円・従業員75名。1972年9月隣地150坪を取得し増築。完成祝賀式で東海銀行頭取が役員室天井のサンゲツ壁材に触れた
- [39]本社屋完成に合わせ社名を山月堂からサンゲツに改称、カタカナ社名は当時ほとんど無かった。当時の年商32億円・従業員75名。1972年9月隣地150坪を取得し増築。完成祝賀式で東海銀行頭取が役員室天井のサンゲツ壁材に触れた
- [40]本社屋完成に合わせ社名を山月堂からサンゲツに改称、カタカナ社名は当時ほとんど無かった。当時の年商32億円・従業員75名。1972年9月隣地150坪を取得し増築。完成祝賀式で東海銀行頭取が役員室天井のサンゲツ壁材に触れた
- [41]本社屋完成に合わせ社名を山月堂からサンゲツに改称、カタカナ社名は当時ほとんど無かった。当時の年商32億円・従業員75名。1972年9月隣地150坪を取得し増築。完成祝賀式で東海銀行頭取が役員室天井のサンゲツ壁材に触れた
- [42]1972年6月東京・青山に営業所とショールーム開設。石油危機下で便乗値上げをせずサンゲツ3則で安定供給。1975年5月大阪営業所、1976年6月広島営業所、同10月福岡店。1975年度売上100億円
- [44]1972年6月東京・青山に営業所とショールーム開設。石油危機下で便乗値上げをせずサンゲツ3則で安定供給。1975年5月大阪営業所、1976年6月広島営業所、同10月福岡店。1975年度売上100億円
- [46]1972年6月東京・青山に営業所とショールーム開設。石油危機下で便乗値上げをせずサンゲツ3則で安定供給。1975年5月大阪営業所、1976年6月広島営業所、同10月福岡店。1975年度売上100億円
- [47]1972年6月東京・青山に営業所とショールーム開設。石油危機下で便乗値上げをせずサンゲツ3則で安定供給。1975年5月大阪営業所、1976年6月広島営業所、同10月福岡店。1975年度売上100億円
- [48]1978年大阪営業所を店に昇格、北陸営業所、1979年仙台営業所。資本金1977年7月6000万円→1978年4月2億4000万円→1979年4月4億8000万円
- [49]1978年大阪営業所を店に昇格、北陸営業所、1979年仙台営業所。資本金1977年7月6000万円→1978年4月2億4000万円→1979年4月4億8000万円
- 証券アナリストジャーナル 19(1) 1981年(日比賢昭)
- [38]本社ビル完成時の年商23億円、業界1位は年商32億円で第2位に(日比賢昭氏の講演)
- [43]1973年の第1次石油危機まで売上高年率35%増、1975年3月期は前年比7%減で史上初の減収。正確迅速な納品とサンゲツ3則が業績伸長に寄与
- [45]1973年の第1次石油危機まで売上高年率35%増、1975年3月期は前年比7%減で史上初の減収。正確迅速な納品とサンゲツ3則が業績伸長に寄与
- [50]昭和52年ごろからオリジナル床材の販売を本格開始。ショールーム来客から床材・カーテンを求める声。55年3月期の年商は45年3月期の約12倍
- [51]昭和52年ごろからオリジナル床材の販売を本格開始。ショールーム来客から床材・カーテンを求める声。55年3月期の年商は45年3月期の約12倍
- [52]昭和52年ごろからオリジナル床材の販売を本格開始。ショールーム来客から床材・カーテンを求める声。55年3月期の年商は45年3月期の約12倍
1953年〜1979年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 151 | n/a | 12 | 7.9% | 6 | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 244 | n/a | 32 | 13.1% | 13 | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
3件
- ポケット社史 1991年4月『サンゲツ:トータルインテリアで夢空間を創造』
- 証券アナリストジャーナル 19(1) 1981年(日比賢昭)
- 証券 1997年