第1章 年〜年

永大産業:大阪大正区での合板製造と大証・東証二部上場

1946年〜大阪大正区で興した合板工場と、直売店を組織化した販売会社の永大ベニヤ

永大産業は1946年7月29日、深尾茂氏が資本金18万円で大阪市大正区小林町に設立した会社である。設立者の深尾茂氏は早稲田を中退して正金銀行の天津支店に入り、1年で辞めて永大洋行を興した経歴を持っていた。資本金は1947年10月に250万円、1952年2月に500万円へ増え、設立から6年足らずで約28倍になった。大正区の本社は、1959年7月に住吉区へ移るまでの創業の地にあたる。1968年の企業要覧が掲げる会社の目的も、第1項は合板の製造・販売と製材だった。焼け跡の大阪で建材の需要が膨らむと見込み、外地で培った商才を国内の合板に振り向けたと思われる。

  • 日本企業要覧 1968年版「永大産業」
    • [1]1946年7月、深尾茂(現会長)が資本金18万円で大阪市大正区小林町に永大産業を創立。会社の目的①は合板の製造・販売及び製材。1959年7月に住吉区平林南之町へ移転
    • [4]1946年7月、深尾茂(現会長)が資本金18万円で大阪市大正区小林町に永大産業を創立。会社の目的①は合板の製造・販売及び製材。1959年7月に住吉区平林南之町へ移転
    • [5]1946年7月、深尾茂(現会長)が資本金18万円で大阪市大正区小林町に永大産業を創立。会社の目的①は合板の製造・販売及び製材。1959年7月に住吉区平林南之町へ移転
  • 野田経済 1968年6月12日
    • [2]深尾茂は早稲田を中退し正金銀行天津支店に入社、1年で辞めて永大洋行を設立し独立
  • 証券 15(8)(171) 1963年
    • [3]設立1946年7月29日。資本金は1946年7月18万円、1947年10月250万円、1952年2月500万円

1952年11月、永大産業は各地の直売店を合体させ、販売会社の永大ベニヤ株式会社を設立した。同じ1952年のうちに永大産業の資本金は2度増え、2月に500万円、9月に1,000万円。1964年版の年鑑では、永大ベニヤは永大産業の主な販売先の1社として名を連ねていた。深尾茂氏は商社や代理店に販売を任せず、自社の出張所を各地に置いて売る方針を貫いた。1965年時点の出張所は福岡、高松、広島、名古屋、東京、仙台、札幌などに及び、注文に即納できる態勢をとった。不況で売れなくなった時に備えるという理由から、『やはりふだんから販売に対しても、自分が作ったものは自ら売るんだという最善の努力を払っておかねばならない』という考えを示した。直売店をまとめた永大ベニヤは、この自販の方針を最初に組織にしたものとみられる。

  • 証券 15(8)(171) 1963年
    • [6]1952年11月、直売店を合体して永大ベニヤ(株)を設立。資本金は1952年2月500万円、同年9月1,000万円
    • [7]1952年11月、直売店を合体して永大ベニヤ(株)を設立。資本金は1952年2月500万円、同年9月1,000万円
  • 株式会社年鑑 1964年版「永大産業」
    • [8]主な取引先(販売)に永大ベニヤが載る(1964年版)
  • オール大衆 18(4) 1965年「安定成長に切替えた永大産業――深尾社長の真意はどこに?」
    • [9]深尾茂社長は商社に依存せず福岡・高松・広島・東京・札幌などに出張所を置き自ら販売。不況時に備えるためと説明(1965年)
    • [10]深尾茂社長は商社に依存せず福岡・高松・広島・東京・札幌などに出張所を置き自ら販売。不況時に備えるためと説明(1965年)
    • [11]深尾茂社長は商社に依存せず福岡・高松・広島・東京・札幌などに出張所を置き自ら販売。不況時に備えるためと説明(1965年)
参考文献[1]-[11]
  • 日本企業要覧 1968年版「永大産業」
    • [1]1946年7月、深尾茂(現会長)が資本金18万円で大阪市大正区小林町に永大産業を創立。会社の目的①は合板の製造・販売及び製材。1959年7月に住吉区平林南之町へ移転
    • [4]1946年7月、深尾茂(現会長)が資本金18万円で大阪市大正区小林町に永大産業を創立。会社の目的①は合板の製造・販売及び製材。1959年7月に住吉区平林南之町へ移転
    • [5]1946年7月、深尾茂(現会長)が資本金18万円で大阪市大正区小林町に永大産業を創立。会社の目的①は合板の製造・販売及び製材。1959年7月に住吉区平林南之町へ移転
  • 野田経済 1968年6月12日
    • [2]深尾茂は早稲田を中退し正金銀行天津支店に入社、1年で辞めて永大洋行を設立し独立
  • 証券 15(8)(171) 1963年
    • [3]設立1946年7月29日。資本金は1946年7月18万円、1947年10月250万円、1952年2月500万円
    • [6]1952年11月、直売店を合体して永大ベニヤ(株)を設立。資本金は1952年2月500万円、同年9月1,000万円
    • [7]1952年11月、直売店を合体して永大ベニヤ(株)を設立。資本金は1952年2月500万円、同年9月1,000万円
  • 株式会社年鑑 1964年版「永大産業」
    • [8]主な取引先(販売)に永大ベニヤが載る(1964年版)
  • オール大衆 18(4) 1965年「安定成長に切替えた永大産業――深尾社長の真意はどこに?」
    • [9]深尾茂社長は商社に依存せず福岡・高松・広島・東京・札幌などに出張所を置き自ら販売。不況時に備えるためと説明(1965年)
    • [10]深尾茂社長は商社に依存せず福岡・高松・広島・東京・札幌などに出張所を置き自ら販売。不況時に備えるためと説明(1965年)
    • [11]深尾茂社長は商社に依存せず福岡・高松・広島・東京・札幌などに出張所を置き自ら販売。不況時に備えるためと説明(1965年)

1953年〜フローリング工場と、阪南特殊合板で拡大した合板の二次加工

永大産業は普通合板に印刷や樹脂の加工を施した二次加工品を、売上の中心に据えた。1962年7〜12月の販売の内訳では、プリント合板が42.3%、加工合板が8.7%を占め、普通合板は8.2%にとどまった。輸出合板も20.4%あったが、国内業者の申し合わせで輸出を自主規制していた。1964年版の年鑑は主な製品として、プリント合板、ビニール合板、ポリエス合板、プラス床板、京壁合板を並べた。1965年時点の永大産業のプリント合板のシェアは60%強。深尾茂氏は後年、二次加工と三次加工を手がけるので合板工業会と化学工業協会の両方に属すると説明した。普通合板の値の競り合いを避け、加工の手間に利幅を求めたと考えられる。

  • 証券 15(8)(171) 1963年
    • [12]1962年12月期の販売実績はプリント合板42.3%、輸出合板20.4%、加工合板8.7%、普通合板8.2%。輸出は国内業者の申し合わせで自主規制
    • [13]1962年12月期の販売実績はプリント合板42.3%、輸出合板20.4%、加工合板8.7%、普通合板8.2%。輸出は国内業者の申し合わせで自主規制
    • [14]1962年12月期の販売実績はプリント合板42.3%、輸出合板20.4%、加工合板8.7%、普通合板8.2%。輸出は国内業者の申し合わせで自主規制
  • 株式会社年鑑 1964年版「永大産業」
    • [15]主なる事業内容にプリント合板・ポリエス合板・ビニール合板・プラス床板・京壁合板などを挙げる(1964年版)
  • オール大衆 18(4) 1965年「安定成長に切替えた永大産業――深尾社長の真意はどこに?」
    • [16]永大産業のプリント合板のシェアは60%強(1965年)
  • 野田経済 1968年6月12日
    • [17]深尾茂は二次加工・三次加工を行うため合板工業会と化学工業協会の両方に所属すると説明(1968年)

1959年3月、永大産業は阪南特殊合板株式会社を設立し、特殊合板を別会社で手がけ始めた。1961年の座談会によれば、永大産業はその2年ほど前に豊年製油と技術提携し、接着剤を薄く塗る微量塗布を取り入れた。1平方尺あたり40g前後だった接着剤の量を20g前後に抑え、表面に出るしみを減らした。色の黒いフェノール樹脂でも表板を汚さずに済むようになり、完全耐水性の合板を量産できる目処が立った。村田房之助氏は、従来の尿素・メラミン系の合板が3日間の連続煮沸ではがれる点を挙げ、差を強調した。1964年6月時点では、社内に特殊合板工場の工場長の職がある。耐水性という性能で売る合板を、量で売る普通合板と切り分けて育てる狙いがあったと推察される。

  • 証券 15(8)(171) 1963年
    • [18]1959年3月、阪南特殊合板(株)を設立
  • 接着 5(3)(19) 1961年「座談会 組立ハウスと接着剤」(永大産業 工場次長が出席)
    • [19]約2年前に豊年製油と技術提携し微量塗布を開始。接着剤を平方尺40g程度から20g程度に抑え表面汚染を減らし、フェノール樹脂による完全耐水性合板を製造(1961年座談会)
    • [20]約2年前に豊年製油と技術提携し微量塗布を開始。接着剤を平方尺40g程度から20g程度に抑え表面汚染を減らし、フェノール樹脂による完全耐水性合板を製造(1961年座談会)
    • [21]約2年前に豊年製油と技術提携し微量塗布を開始。接着剤を平方尺40g程度から20g程度に抑え表面汚染を減らし、フェノール樹脂による完全耐水性合板を製造(1961年座談会)
    • [22]約2年前に豊年製油と技術提携し微量塗布を開始。接着剤を平方尺40g程度から20g程度に抑え表面汚染を減らし、フェノール樹脂による完全耐水性合板を製造(1961年座談会)
  • 日本企業要覧 1968年版「永大産業」
    • [23]役員略歴に1964年6月特殊合板工場長の記載

1959年7月、永大産業は大阪市の港湾計画に基づき、大正区から住吉区平林南之町33へ本社を移した。1964年版の年鑑では、平林の同じ所在地に本社と工場が並んで記された。業界ではラワン材の原木を合板にするまで15時間かかるとされ、永大産業は2年で10時間を割った。1965年時点の本社工場では、所要時間を5時間未満まで縮めた。1963年の上場時点で、合板の生産量は月産1,500千m2に達し、永大産業は合板業界の最大手に数えられた。従業員は1962年12月31日時点で1,262名。港湾計画による移転を機に、量産を前提とした工場へ造り替えたのだろう。

  • 日本企業要覧 1968年版「永大産業」
    • [24]1959年7月、大阪市港湾計画に基づき大阪市住吉区平林南之町33に移転
  • 株式会社年鑑 1964年版「永大産業」
    • [25]本社・工場の所在地は大阪市住吉区平林南之町33(1964年版)
  • オール大衆 18(4) 1965年「安定成長に切替えた永大産業――深尾社長の真意はどこに?」
    • [26]ラワン材から合板まで15時間とされたものを2年で10時間台を割り、本社工場では5時間台を割る(1965年)
    • [27]ラワン材から合板まで15時間とされたものを2年で10時間台を割り、本社工場では5時間台を割る(1965年)
  • 証券 15(8)(171) 1963年
    • [28]合板業界の最大手。合板の生産量は現在月産1,500千m2(1963年)。従業員1,262名(1962年12月31日)
    • [29]合板業界の最大手。合板の生産量は現在月産1,500千m2(1963年)。従業員1,262名(1962年12月31日)
参考文献[12]-[29]
  • 証券 15(8)(171) 1963年
    • [12]1962年12月期の販売実績はプリント合板42.3%、輸出合板20.4%、加工合板8.7%、普通合板8.2%。輸出は国内業者の申し合わせで自主規制
    • [13]1962年12月期の販売実績はプリント合板42.3%、輸出合板20.4%、加工合板8.7%、普通合板8.2%。輸出は国内業者の申し合わせで自主規制
    • [14]1962年12月期の販売実績はプリント合板42.3%、輸出合板20.4%、加工合板8.7%、普通合板8.2%。輸出は国内業者の申し合わせで自主規制
    • [18]1959年3月、阪南特殊合板(株)を設立
    • [28]合板業界の最大手。合板の生産量は現在月産1,500千m2(1963年)。従業員1,262名(1962年12月31日)
    • [29]合板業界の最大手。合板の生産量は現在月産1,500千m2(1963年)。従業員1,262名(1962年12月31日)
  • 株式会社年鑑 1964年版「永大産業」
    • [15]主なる事業内容にプリント合板・ポリエス合板・ビニール合板・プラス床板・京壁合板などを挙げる(1964年版)
    • [25]本社・工場の所在地は大阪市住吉区平林南之町33(1964年版)
  • オール大衆 18(4) 1965年「安定成長に切替えた永大産業――深尾社長の真意はどこに?」
    • [16]永大産業のプリント合板のシェアは60%強(1965年)
    • [26]ラワン材から合板まで15時間とされたものを2年で10時間台を割り、本社工場では5時間台を割る(1965年)
    • [27]ラワン材から合板まで15時間とされたものを2年で10時間台を割り、本社工場では5時間台を割る(1965年)
  • 野田経済 1968年6月12日
    • [17]深尾茂は二次加工・三次加工を行うため合板工業会と化学工業協会の両方に所属すると説明(1968年)
  • 接着 5(3)(19) 1961年「座談会 組立ハウスと接着剤」(永大産業 工場次長が出席)
    • [19]約2年前に豊年製油と技術提携し微量塗布を開始。接着剤を平方尺40g程度から20g程度に抑え表面汚染を減らし、フェノール樹脂による完全耐水性合板を製造(1961年座談会)
    • [20]約2年前に豊年製油と技術提携し微量塗布を開始。接着剤を平方尺40g程度から20g程度に抑え表面汚染を減らし、フェノール樹脂による完全耐水性合板を製造(1961年座談会)
    • [21]約2年前に豊年製油と技術提携し微量塗布を開始。接着剤を平方尺40g程度から20g程度に抑え表面汚染を減らし、フェノール樹脂による完全耐水性合板を製造(1961年座談会)
    • [22]約2年前に豊年製油と技術提携し微量塗布を開始。接着剤を平方尺40g程度から20g程度に抑え表面汚染を減らし、フェノール樹脂による完全耐水性合板を製造(1961年座談会)
  • 日本企業要覧 1968年版「永大産業」
    • [23]役員略歴に1964年6月特殊合板工場長の記載
    • [24]1959年7月、大阪市港湾計画に基づき大阪市住吉区平林南之町33に移転

1960年〜組立ハウスとモーターボートへの用途の拡大と、資本金5億円での東証二部上場

永大産業は合板を主材にした組立ハウスも手がけ、その商品名が永大ハウスである。1961年の座談会で工場次長の村田房之助氏は、接着剤の進歩で合板の性能が高まったことを広く知らせる目的で始めたと説明した。同じ座談会には積水ハウス産業と大和ハウス工業の担当者も並び、金属を組み合わせる2社に対して永大産業は合板主体の方式と整理された。外壁にはフェノール樹脂の耐水合板を使い、20〜25年たってもはがれないという自信を示した。1964年版の年鑑には、東京都調布市の東京ハウス工場が永大ハウスの拠点として記された。1962年7〜12月の販売では、永大ハウスが全体の7.3%を占めた。合板の性能を家1棟で見せ、自社の合板の大口の用途を育てる狙いがあったと思われる。

  • 接着 5(3)(19) 1961年「座談会 組立ハウスと接着剤」(永大産業 工場次長が出席)
    • [30]工場次長村田房之助は、接着剤の進歩で高性能の合板ができることをPRする目的で合板主体の組立住宅(永大ハウス)を始めたと説明。外壁はフェノール樹脂の完全耐水合板で20〜25年はがれない(1961年座談会)。座談会では積水はメタルとプラスチック、大和はメタルと木材、永大は合板と整理
    • [31]工場次長村田房之助は、接着剤の進歩で高性能の合板ができることをPRする目的で合板主体の組立住宅(永大ハウス)を始めたと説明。外壁はフェノール樹脂の完全耐水合板で20〜25年はがれない(1961年座談会)。座談会では積水はメタルとプラスチック、大和はメタルと木材、永大は合板と整理
    • [32]工場次長村田房之助は、接着剤の進歩で高性能の合板ができることをPRする目的で合板主体の組立住宅(永大ハウス)を始めたと説明。外壁はフェノール樹脂の完全耐水合板で20〜25年はがれない(1961年座談会)。座談会では積水はメタルとプラスチック、大和はメタルと木材、永大は合板と整理
    • [33]工場次長村田房之助は、接着剤の進歩で高性能の合板ができることをPRする目的で合板主体の組立住宅(永大ハウス)を始めたと説明。外壁はフェノール樹脂の完全耐水合板で20〜25年はがれない(1961年座談会)。座談会では積水はメタルとプラスチック、大和はメタルと木材、永大は合板と整理
  • 株式会社年鑑 1964年版「永大産業」
    • [34]東京ハウス工場(東京都調布市柴崎町、永大ハウス)(1964年版)
  • 証券 15(8)(171) 1963年
    • [35]1962年12月期の販売実績で永大ハウスは7.3%

1962年7月、永大産業は株式会社永大モーターボート倶楽部を設立した。1964年版の年鑑が挙げる主な事業内容のひとつも、永大のモーターボートである。永大産業は日立造船と技術提携し、水中翼船の製作も手がけた。1963年の紹介記事は、京阪電鉄の沿線で土地付きの分譲住宅を売り出したことも新規事業として伝えた。ただし1962年7〜12月の販売は合板が全体の8割を占め、合板以外では原木が8.7%、永大ハウスが7.3%、製材品が3.0%だった。船や分譲住宅は、売上よりも合板の用途の幅を示す役割が大きかったと推測される。

  • 証券 15(8)(171) 1963年
    • [36]1962年7月(株)永大モーターボート倶楽部を設立。日立造船と技術提携し水中翼船を製作、京阪電鉄沿線で土地付分譲住宅を販売。1962年12月期の販売は合板が8割、原木8.7%、永大ハウス7.3%、製材品3.0%
    • [38]1962年7月(株)永大モーターボート倶楽部を設立。日立造船と技術提携し水中翼船を製作、京阪電鉄沿線で土地付分譲住宅を販売。1962年12月期の販売は合板が8割、原木8.7%、永大ハウス7.3%、製材品3.0%
    • [39]1962年7月(株)永大モーターボート倶楽部を設立。日立造船と技術提携し水中翼船を製作、京阪電鉄沿線で土地付分譲住宅を販売。1962年12月期の販売は合板が8割、原木8.7%、永大ハウス7.3%、製材品3.0%
    • [40]1962年7月(株)永大モーターボート倶楽部を設立。日立造船と技術提携し水中翼船を製作、京阪電鉄沿線で土地付分譲住宅を販売。1962年12月期の販売は合板が8割、原木8.7%、永大ハウス7.3%、製材品3.0%
  • 株式会社年鑑 1964年版「永大産業」
    • [37]主なる事業内容に永大のモーターボートを挙げる(1964年版)

1962年12月、永大産業は大阪証券取引所の市場第二部に株式を上場した。それまでに1961年2月から1962年6月までの間に5度の増資を重ねており、資本金は2億5,000万円である。1963年3月には倍額の5億円に増資し、同年7月1日に東京証券取引所の市場第二部にも上場した。上場時の公開価格は410円で、深尾茂氏は4,973,800株を持つ筆頭株主だった。深尾茂氏は『株に人気,会社に活気,社員に情熱』という標語を掲げ、株価の人気を経営の要に置いた。資本金は上場時の2億5,000万円から、1965年には20億円に増えた。1963年の紹介記事は、堺臨海工業地に12億円を投じる新工場で月産を2,300千m2に増やす計画を伝えた。

  • 証券 15(8)(171) 1963年
    • [41]1962年12月大証二部上場、1963年7月1日東証二部上場。資本金は1961年2月4,000万円、3月6,000万円、10月1億2,000万円、1962年5月2億4,000万円、6月2億5,000万円、1963年3月5億円。公開価格410円、深尾茂4,973,800株
    • [42]1962年12月大証二部上場、1963年7月1日東証二部上場。資本金は1961年2月4,000万円、3月6,000万円、10月1億2,000万円、1962年5月2億4,000万円、6月2億5,000万円、1963年3月5億円。公開価格410円、深尾茂4,973,800株
    • [43]1962年12月大証二部上場、1963年7月1日東証二部上場。資本金は1961年2月4,000万円、3月6,000万円、10月1億2,000万円、1962年5月2億4,000万円、6月2億5,000万円、1963年3月5億円。公開価格410円、深尾茂4,973,800株
    • [44]1962年12月大証二部上場、1963年7月1日東証二部上場。資本金は1961年2月4,000万円、3月6,000万円、10月1億2,000万円、1962年5月2億4,000万円、6月2億5,000万円、1963年3月5億円。公開価格410円、深尾茂4,973,800株
    • [47]堺臨海工業地に12億円を投じて工場を新設し、合板の月産を1,500千m2から1967年に2,300千m2へ増強する計画(1963年)
  • 野田経済 1968年6月12日
    • [45]深尾茂は「株に人気、会社に活気、社員に情熱」をスローガンに掲げ、上場した以上株価に人気がなければ困ると語る(1968年)
  • オール大衆 18(4) 1965年「安定成長に切替えた永大産業――深尾社長の真意はどこに?」
    • [46]上場当時の資本金2億5千万円が1965年に20億円
参考文献[30]-[47]
  • 接着 5(3)(19) 1961年「座談会 組立ハウスと接着剤」(永大産業 工場次長が出席)
    • [30]工場次長村田房之助は、接着剤の進歩で高性能の合板ができることをPRする目的で合板主体の組立住宅(永大ハウス)を始めたと説明。外壁はフェノール樹脂の完全耐水合板で20〜25年はがれない(1961年座談会)。座談会では積水はメタルとプラスチック、大和はメタルと木材、永大は合板と整理
    • [31]工場次長村田房之助は、接着剤の進歩で高性能の合板ができることをPRする目的で合板主体の組立住宅(永大ハウス)を始めたと説明。外壁はフェノール樹脂の完全耐水合板で20〜25年はがれない(1961年座談会)。座談会では積水はメタルとプラスチック、大和はメタルと木材、永大は合板と整理
    • [32]工場次長村田房之助は、接着剤の進歩で高性能の合板ができることをPRする目的で合板主体の組立住宅(永大ハウス)を始めたと説明。外壁はフェノール樹脂の完全耐水合板で20〜25年はがれない(1961年座談会)。座談会では積水はメタルとプラスチック、大和はメタルと木材、永大は合板と整理
    • [33]工場次長村田房之助は、接着剤の進歩で高性能の合板ができることをPRする目的で合板主体の組立住宅(永大ハウス)を始めたと説明。外壁はフェノール樹脂の完全耐水合板で20〜25年はがれない(1961年座談会)。座談会では積水はメタルとプラスチック、大和はメタルと木材、永大は合板と整理
  • 株式会社年鑑 1964年版「永大産業」
    • [34]東京ハウス工場(東京都調布市柴崎町、永大ハウス)(1964年版)
    • [37]主なる事業内容に永大のモーターボートを挙げる(1964年版)
  • 証券 15(8)(171) 1963年
    • [35]1962年12月期の販売実績で永大ハウスは7.3%
    • [36]1962年7月(株)永大モーターボート倶楽部を設立。日立造船と技術提携し水中翼船を製作、京阪電鉄沿線で土地付分譲住宅を販売。1962年12月期の販売は合板が8割、原木8.7%、永大ハウス7.3%、製材品3.0%
    • [38]1962年7月(株)永大モーターボート倶楽部を設立。日立造船と技術提携し水中翼船を製作、京阪電鉄沿線で土地付分譲住宅を販売。1962年12月期の販売は合板が8割、原木8.7%、永大ハウス7.3%、製材品3.0%
    • [39]1962年7月(株)永大モーターボート倶楽部を設立。日立造船と技術提携し水中翼船を製作、京阪電鉄沿線で土地付分譲住宅を販売。1962年12月期の販売は合板が8割、原木8.7%、永大ハウス7.3%、製材品3.0%
    • [40]1962年7月(株)永大モーターボート倶楽部を設立。日立造船と技術提携し水中翼船を製作、京阪電鉄沿線で土地付分譲住宅を販売。1962年12月期の販売は合板が8割、原木8.7%、永大ハウス7.3%、製材品3.0%
    • [41]1962年12月大証二部上場、1963年7月1日東証二部上場。資本金は1961年2月4,000万円、3月6,000万円、10月1億2,000万円、1962年5月2億4,000万円、6月2億5,000万円、1963年3月5億円。公開価格410円、深尾茂4,973,800株
    • [42]1962年12月大証二部上場、1963年7月1日東証二部上場。資本金は1961年2月4,000万円、3月6,000万円、10月1億2,000万円、1962年5月2億4,000万円、6月2億5,000万円、1963年3月5億円。公開価格410円、深尾茂4,973,800株
    • [43]1962年12月大証二部上場、1963年7月1日東証二部上場。資本金は1961年2月4,000万円、3月6,000万円、10月1億2,000万円、1962年5月2億4,000万円、6月2億5,000万円、1963年3月5億円。公開価格410円、深尾茂4,973,800株
    • [44]1962年12月大証二部上場、1963年7月1日東証二部上場。資本金は1961年2月4,000万円、3月6,000万円、10月1億2,000万円、1962年5月2億4,000万円、6月2億5,000万円、1963年3月5億円。公開価格410円、深尾茂4,973,800株
    • [47]堺臨海工業地に12億円を投じて工場を新設し、合板の月産を1,500千m2から1967年に2,300千m2へ増強する計画(1963年)
  • 野田経済 1968年6月12日
    • [45]深尾茂は「株に人気、会社に活気、社員に情熱」をスローガンに掲げ、上場した以上株価に人気がなければ困ると語る(1968年)
  • オール大衆 18(4) 1965年「安定成長に切替えた永大産業――深尾社長の真意はどこに?」
    • [46]上場当時の資本金2億5千万円が1965年に20億円

出典・参考

6件
出典・参考
  • 株式会社年鑑 1964年版「永大産業」
  • 接着 5(3)(19) 1961年「座談会 組立ハウスと接着剤」(永大産業 工場次長が出席)
  • 証券 15(8)(171) 1963年
  • オール大衆 18(4) 1965年「安定成長に切替えた永大産業――深尾社長の真意はどこに?」
  • 日本企業要覧 1968年版「永大産業」
  • 野田経済 1968年6月12日

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