ホンダ:CVCCとシビックによる二輪から四輪への転換
排ガス規制を越えたCVCCシビックの四輪定着
1964年〜軽四輪N360と、四輪をさばくための販売網
1967年3月、本田技研工業は軽四輪乗用車N360を発売した。続いてLN型、TN型、変速を自動で行うホンダマチック取付け車やツーリング型を出し、軽の分野では短期間で乗用・ライトバン・トラックの国内販売三冠を占めた。四輪へ本格的に入る前の同社は、生産台数で世界最大の二輪メーカーであり、オートバイの国内占有度は60%を超えていた。1963年2月期の売上高306億6,638万円のうち9割以上をスーパーカブ、ベンリイ、ホンダおよびドリーム各車が占め、残りが耕運機と農工用エンジン、部品だった。四輪はこの二輪の収益の上に乗せられ、1968年には欧州市場へも大量に輸出されるようになった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]1967年3月 軽四輪乗用車N360を新発売
- [2]LN型・TN型・ホンダマチック取付け車・ツーリング型を続けて発売
- [3]軽の分野で短期間に乗用・ライトバン・トラックの国内販売三冠を獲得
- [6]1968年に欧州市場へ大量輸出されるようになった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「本田技研工業」
- [4]生産台数で世界最大の二輪メーカーであり、オートバイの国内占有度は60%以上
- [5]売上の90%以上をスーパーカブ・ベンリイ・ホンダ・ドリーム各車が占め、残りは耕運機・農工用エンジン・部品
四輪は工場と売り場を同時に用意して始めた事業だった。1963年6月から1965年3月の完成を目標に、埼玉・浜松・鈴鹿の各製作所で設備合理化と新機種の生産設備へ総額58億円を投じる計画が進んでいた。埼玉県狭山には四輪専用の量産工場が建てられ、鈴鹿製作所では最新鋭の量産設備を備えた四輪工場が竣工して稼働した。売り場も並行して広げた。1965年以降、ホンダ営研・ホンダ信販・ホンダ中古車販売を設立してホンダグループを強化し、サービス工場であるホンダSFや営業所、ホンダ専門店を全国各地へ置いた。小型乗用車の価格を当てる懸賞には572万通の応募があり、四輪の買い手の広がりがこの数字に表れた。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「本田技研工業」
- [7]1963年6月以降1965年3月完成目標で埼玉・浜松・鈴鹿の各製作所へ設備合理化と新機種生産設備に総額58億円を投下する計画
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [8]埼玉県狭山に四輪専用の量産工場を建設
- [9]鈴鹿製作所で最新鋭の量産設備を備えた四輪工場が竣工・稼働
- [10]1965年以降 ホンダ営研・ホンダ信販・ホンダ中古車販売を設立し、ホンダSF・営業所・ホンダ専門店を全国へ設置
- [11]小型乗用車の価格当て懸賞に572万通の応募
四輪部門の効果は決算にすぐ表れた。1967年8月期以降は軽四輪部門が新たに加わって売上高が著しく増え、1968年8月期には1,000億円の大台へ到達する見通しとなった。増資もこれに追随し、1968年6月払込みで資本金を倍額の181億8,000万円とした。1962年12月の米国公募で90億9,000万円としてから、6年で倍になった計算である。従業員は1万1,283名を数え、二輪車の生産累計は1,000万台を超えた。二輪で積んだ資金と量産の経験は、そのまま四輪の設備へ移された。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [12]1967年8月期以降 軽四輪部門が加わり売上高が著増、1968年8月期に1,000億円の大台へ到達する勢い
- [13]1968年6月払込みで倍額増資を実施、資本金181億8,000万円
- [15]1968年時点の従業員1万1,283名
- [16]二輪車の生産累計が1,000万台を突破
- 株式会社年鑑 1964年版「本田技研工業」【資本金移動】
- [14]1962年12月27日払込 米国公募により資本金90億9,000万円
参考文献[1]-[16]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]1967年3月 軽四輪乗用車N360を新発売
- [2]LN型・TN型・ホンダマチック取付け車・ツーリング型を続けて発売
- [3]軽の分野で短期間に乗用・ライトバン・トラックの国内販売三冠を獲得
- [6]1968年に欧州市場へ大量輸出されるようになった
- [8]埼玉県狭山に四輪専用の量産工場を建設
- [9]鈴鹿製作所で最新鋭の量産設備を備えた四輪工場が竣工・稼働
- [10]1965年以降 ホンダ営研・ホンダ信販・ホンダ中古車販売を設立し、ホンダSF・営業所・ホンダ専門店を全国へ設置
- [11]小型乗用車の価格当て懸賞に572万通の応募
- [12]1967年8月期以降 軽四輪部門が加わり売上高が著増、1968年8月期に1,000億円の大台へ到達する勢い
- [13]1968年6月払込みで倍額増資を実施、資本金181億8,000万円
- [15]1968年時点の従業員1万1,283名
- [16]二輪車の生産累計が1,000万台を突破
- [4]生産台数で世界最大の二輪メーカーであり、オートバイの国内占有度は60%以上
- [5]売上の90%以上をスーパーカブ・ベンリイ・ホンダ・ドリーム各車が占め、残りは耕運機・農工用エンジン・部品
- [7]1963年6月以降1965年3月完成目標で埼玉・浜松・鈴鹿の各製作所へ設備合理化と新機種生産設備に総額58億円を投下する計画
- [14]1962年12月27日払込 米国公募により資本金90億9,000万円
1970年〜解答のない排ガス規制へ当てたCVCCと、シビックの価格据え置き
日本版マスキー法が突きつけたのは、空気を浄化せよという要請だけが先に立ち、解き方がまだ見つかっていない課題だった。これに対し同社は、複合渦流調速燃焼方式と名付けたCVCCエンジンを答えとして示した。河島喜好氏の見方では、手法を決めておいて問題をはめ込む進め方は改善止まりで、改革には届かない。そこで答えのほとんど見えない問いを投げ、手法は各自に探させた。性格の違う複数の案を一つの目標に向けて同時に競わせるこのやり方は本田技術研究所で生まれた管理手法で、同社はこれを並行異質競争と名付けて全社に広げようとしていた。CVCCの開発を実際に担ったのは当時の重役たちで、本田宗一郎氏自身は1973年の時点で10年ほど重役会に出ていなかった。
- 日経ビジネス 1975年3月17日号
- [17]日本版マスキー法は空気をきれいにしたいというニーズが先にあり解答が無かったという河島喜好氏の説明
- [19]方法論を先に考える進め方では改善はできても改革はできないとし、解答の考えられない問題を投げる方式を採った
- [20]並行異質競争(一つの目標に向かって異質な各プロジェクトが並行的に競争する)は本田技術研究所の管理から生まれた
- 日経ビジネス 1974年4月29日号
- [18]CVCCは複合渦流調速燃焼方式の低公害エンジン
- 日経ビジネス 1973年9月3日号
- [21]CVCCを実際にやったのは当時の重役であり本田宗一郎氏は10年ほど重役会に出ていなかった
1972年7月、同社は主力車種となるシビックを発売した。極力ムダを排した設計と、米国でも燃費が最高と評価された経済性が、石油危機のあとの消費性向に合った。1973年12月には業界の先頭を切って、低公害のCVCCエンジンを積む車を売り出した。買い手はこの装備に追加の支出を認めた。1974年3月の国内販売では1500cc車の7割が、4万5,000円高いCVCCエンジン車であり、そのうちの3割はさらに3万2,000円高い自動変速機付きだった。同社取締役の中野保氏は、売れている原因をあえて分ければ商品性が6割、価格面が4割だと分析している。規制対応の装備が値引きの対象ではなく上乗せの根拠になった点に、この時期の四輪の強さが表れている。
- 日経ビジネス 1974年4月29日号
- [22]1972年7月 主力車種シビックを発売
- [23]シビックは極力ムダを排した設計と米国で燃費最高の折り紙が付く経済性を持ち、石油危機後の消費性向に合致
- [24]1973年12月 業界のトップを切って低公害CVCCエンジン搭載車を発売
- [25]1974年3月の国内販売で1500cc車の7割が4万5,000円高いCVCC車、そのうち3割がさらに3万2,000円高い自動変速機付き
- [26]中野保取締役は売れている原因を商品性6割・価格面4割と分析
1974年1月末、同社は再値上げの自粛を打ち出した。1974年2月期、同社は在庫の積み増しなどによって原材料費の上昇を12%にとどめ、トヨタ・日産との差である約25%が、値上げを見送れる余地を支えた。値上げは前年11月7日のシビック(7.2%・3万9,000円)が最後で、軽自動車を含めた上げ幅は5.7%・2万7,000円に抑えられていた。他社は違った。日産は1973年11月15日に平均6.5%、翌年1月14日に10%と二度にわたり価格を上げ、トヨタも1973年11月23日の7.0%に続いて翌年1月21日に10%を上乗せした。その結果、1974年3月には東洋工業と三菱自動車を上回り、四輪で業界3位に食い込んだ。ただしこの判断を大きく左右したのは、社長交代を機に前任者とは違う姿勢を社内に見せたいという思惑だった。役員会で値上げが議題になったこともなく、正月の記者会見で問われて答えた内容が宣言として受け取られたにすぎない。
- 日経ビジネス 1974年4月29日号
- [27]1974年1月末 再値上げ自粛を打ち出した
- [28]1974年2月期は原材料値上がりを資材の買いだめ等で12%に抑制(トヨタ・日産は約25%)
- [29]1973年11月7日にシビックを7.2%・3万9,000円値上げ(軽を含めると5.7%・2万7,000円)、以後1974年の再値上げを全製品で差し控え
- [30]日産は1973年11月15日に平均6.5%・1974年1月14日に10%、トヨタは1973年11月23日に7.0%・1974年1月21日に10%の値上げ
- [31]1974年3月 東洋工業・三菱自動車を抜いて業界第3位のシェアを確保
- 日経ビジネス 1975年3月17日号
- [32]価格据え置きは社長交代を社内へ示したい事情が先にあり、役員会で値上げを検討しておらず記者会見での回答が宣言として報じられたという河島喜好氏の説明
参考文献[17]-[32]
- 日経ビジネス 1975年3月17日号
- [17]日本版マスキー法は空気をきれいにしたいというニーズが先にあり解答が無かったという河島喜好氏の説明
- [19]方法論を先に考える進め方では改善はできても改革はできないとし、解答の考えられない問題を投げる方式を採った
- [20]並行異質競争(一つの目標に向かって異質な各プロジェクトが並行的に競争する)は本田技術研究所の管理から生まれた
- [32]価格据え置きは社長交代を社内へ示したい事情が先にあり、役員会で値上げを検討しておらず記者会見での回答が宣言として報じられたという河島喜好氏の説明
- 日経ビジネス 1974年4月29日号
- [18]CVCCは複合渦流調速燃焼方式の低公害エンジン
- [22]1972年7月 主力車種シビックを発売
- [23]シビックは極力ムダを排した設計と米国で燃費最高の折り紙が付く経済性を持ち、石油危機後の消費性向に合致
- [24]1973年12月 業界のトップを切って低公害CVCCエンジン搭載車を発売
- [25]1974年3月の国内販売で1500cc車の7割が4万5,000円高いCVCC車、そのうち3割がさらに3万2,000円高い自動変速機付き
- [26]中野保取締役は売れている原因を商品性6割・価格面4割と分析
- [27]1974年1月末 再値上げ自粛を打ち出した
- [28]1974年2月期は原材料値上がりを資材の買いだめ等で12%に抑制(トヨタ・日産は約25%)
- [29]1973年11月7日にシビックを7.2%・3万9,000円値上げ(軽を含めると5.7%・2万7,000円)、以後1974年の再値上げを全製品で差し控え
- [30]日産は1973年11月15日に平均6.5%・1974年1月14日に10%、トヨタは1973年11月23日に7.0%・1974年1月21日に10%の値上げ
- [31]1974年3月 東洋工業・三菱自動車を抜いて業界第3位のシェアを確保
- 日経ビジネス 1973年9月3日号
- [21]CVCCを実際にやったのは当時の重役であり本田宗一郎氏は10年ほど重役会に出ていなかった
1973年〜創業者2人の同時退任と、大部屋で回す経営への切り替え
1973年10月、河島喜好氏が本田技研工業の取締役社長に就任した。1928年に静岡で生まれ、1947年に浜松工業専門学校機械科を出て翌年入社した設計畑の技術者で、1946年に設立された本田技術研究所の一期生にあたる。本田宗一郎氏は交代の15年から20年前から、一番良い時期を見て辞める、辞める時には家のものには渡さないと言い続けていた。交代を控えた時点でも『辞める時には潔く辞めるべきですね。私のもんじゃないんだから会社は』と語った。本田家のものではなく株主のもの、ひいては世間のものだと20年言ってきた以上、ここで息子を入れて譲れば会社は一度に揺らぐという判断であり、重役の子供は誰も入社させていないという事実をその裏づけに挙げた。同じ日に藤沢武夫副社長も退き、2人は取締役最高顧問となった。
- 日本企業要覧 1975年版「本田技研工業」【役員の略歴】
- [33]1973年10月 河島喜好氏が本田技研工業の取締役社長に就任
- [37]1973年 本田宗一郎氏・藤沢武夫氏がともに退き取締役最高顧問へ
- 日経ビジネス 1975年3月17日号
- [34]河島喜好氏は1928年静岡生まれ、1947年浜松工業専門学校機械科卒、前年設立の本田技術研究所へ入所し設計畑を歩んだ
- 日経ビジネス 1973年9月3日号
- [35]15〜20年前から最良の時期に辞める・家のものには渡さないと言い続けてきたという本田宗一郎氏の説明
- [36]本田技研は本田家のものではなく株主のもの・世間のものだと20年言い続け、重役の子供も誰一人入社させていない
承継の備えは3年前から動いていた。1970年に4人の専務が代表権を得て、本田前社長・藤沢前副社長を加えた6人の代表権者で会社を運営する体制へ移り、創業者2人からは4専務でやりなさいという言葉があった。1975年時点でも代表取締役は河島社長のほか川島喜八郎副社長、西田通弘専務と複数に分かれている。役員は大部屋の重役室に置かれ、ラインの長を兼ねない。各役員が自由に動いて末端の状況を自ら拾い、将来の損になるものは早めに潰し、益になるものは伸ばすという分担である。河島氏は研究所の社長時代に30歳定年説を唱え、のちに5歳譲って35歳定年説としたが、その狙いは業種ごとの区切りを自覚する空気を社内へ作ることにあった。1975年の従業員の平均年齢は27歳だった。
- 日経ビジネス 1975年3月17日号
- [38]1970年に4専務が代表権を得て本田前社長・藤沢前副社長と6代表権者で運営、創業者から4専務でやりなさいという言葉があった
- [40]大部屋の重役室を採り、役員はラインの長を兼ねない
- [41]各役員が自由な行動から末端の状況を拾い、将来のマイナスは早めに潰しプラスは伸ばす
- [42]河島喜好氏は研究所社長時代に30歳定年説を唱え、のちに35歳定年説とした
- [43]1975年時点の従業員平均年齢は27歳
- 日本企業要覧 1975年版「本田技研工業」【役員の略歴】
- [39]1975年時点の代表取締役は河島喜好社長・川島喜八郎副社長・西田通弘専務
河島喜好氏は、偉大な創業者2人による25年の後を継いだのだから1割の利息論でいけば2年半は社長として責任を持てるが、利息では食べていけない、原資となる元金を増やさなければならないと社員へ呼びかけ、この時期を展開期と名づけた。具体策として掲げたのが体質改善である。熊本工場の建設は新機種の増産のためではなく、合理化・省力化と体質改善を進める機会と位置づけられ、職場での働きがい、産業公害、地域社会との関わりまでを課題に含めた。事業の伸ばし方についても、機種を増やすのではなく、より付加価値が高く公害の少ないものへ移していくことと、効率の追求に人間性と社会性を織り込んだ体質づくりの2つを挙げた。売上高は1975年2月期の2,743億4,400万円から1977年2月期には6,686億7,700万円へ伸び、1977年9月には米国オハイオ州での現地生産が報じられた。展開期という名は、二輪の会社が四輪の会社へ移りきるまでの数年を指していた。
- 日経ビジネス 1975年3月17日号
- [44]1割の利息論では2年半しか責任を持てず利息では食べられないため元金を増やすと呼びかけ、この時期を展開期と名づけた
- [45]熊本工場の建設を増産ではなく合理化・省力化・体質改善の機会と位置づけ、働きがい・産業公害・地域社会との関わりを課題に含めた
- [46]機種は増やすのではなく高付加価値・低公害のものへ移し、効率の追求へ人間性と社会性を織り込む体質づくりを進める方針
- 日本企業要覧 1978年版「本田技研工業」【最近の業績】
- [47]売上高 1975年2月期2,743億4,400万円 → 1977年2月期6,686億7,700万円
- 日経新聞(1977年9月27日)
- [48]1977年9月 米オハイオ州での現地生産が報じられた
参考文献[33]-[48]
- [33]1973年10月 河島喜好氏が本田技研工業の取締役社長に就任
- [37]1973年 本田宗一郎氏・藤沢武夫氏がともに退き取締役最高顧問へ
- [39]1975年時点の代表取締役は河島喜好社長・川島喜八郎副社長・西田通弘専務
- 日経ビジネス 1975年3月17日号
- [34]河島喜好氏は1928年静岡生まれ、1947年浜松工業専門学校機械科卒、前年設立の本田技術研究所へ入所し設計畑を歩んだ
- [38]1970年に4専務が代表権を得て本田前社長・藤沢前副社長と6代表権者で運営、創業者から4専務でやりなさいという言葉があった
- [40]大部屋の重役室を採り、役員はラインの長を兼ねない
- [41]各役員が自由な行動から末端の状況を拾い、将来のマイナスは早めに潰しプラスは伸ばす
- [42]河島喜好氏は研究所社長時代に30歳定年説を唱え、のちに35歳定年説とした
- [43]1975年時点の従業員平均年齢は27歳
- [44]1割の利息論では2年半しか責任を持てず利息では食べられないため元金を増やすと呼びかけ、この時期を展開期と名づけた
- [45]熊本工場の建設を増産ではなく合理化・省力化・体質改善の機会と位置づけ、働きがい・産業公害・地域社会との関わりを課題に含めた
- [46]機種は増やすのではなく高付加価値・低公害のものへ移し、効率の追求へ人間性と社会性を織り込む体質づくりを進める方針
- 日経ビジネス 1973年9月3日号
- [35]15〜20年前から最良の時期に辞める・家のものには渡さないと言い続けてきたという本田宗一郎氏の説明
- [36]本田技研は本田家のものではなく株主のもの・世間のものだと20年言い続け、重役の子供も誰一人入社させていない
- 日本企業要覧 1978年版「本田技研工業」【最近の業績】
- [47]売上高 1975年2月期2,743億4,400万円 → 1977年2月期6,686億7,700万円
- 日経新聞(1977年9月27日)
- [48]1977年9月 米オハイオ州での現地生産が報じられた
1964年〜1977年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1964年02月期 | 単体 | 831 | n/a | n/a | 73 | 8.8% | n/a |
| 1965年02月期 | 単体 | 978 | +17.7% | n/a | 37 | 3.8% | 狭山製作所が稼動開始(1964/11) |
| 1966年02月期 | 単体 | 1,236 | +26.4% | n/a | 65 | 5.3% | n/a |
| 1967年02月期 | 単体 | 1,067 | ▲13.7% | n/a | 30 | 2.8% | n/a |
| 1968年02月期 | 単体 | 1,411 | +32.2% | n/a | 26 | 1.8% | n/a |
| 1969年02月期 | 単体 | 1,938 | +37.3% | n/a | 66 | 3.4% | n/a |
| 1970年02月期 | 単体 | 2,447 | +26.3% | n/a | 123 | 5.0% | カナダにホンダカナダを設立(1969/03) |
| 1971年02月期 | 単体 | 3,163 | +29.3% | 157 | 121 | 3.8% | n/a |
| 1972年02月期 | 単体 | 3,329 | +5.2% | 155 | 124 | 3.7% | ブラジルにホンダモーター・ド・ブラジルを設立(1971/10) |
| 1973年02月期 | 単体 | 3,277 | ▲1.6% | 183 | 125 | 3.8% | n/a |
| 1974年02月期 | 単体 | 3,668 | +11.9% | 143 | 113 | 3.1% | n/a |
| 1975年02月期 | 単体 | 5,199 | +41.7% | 181 | 106 | 2.0% | n/a |
| 1976年02月期 | 単体 | 5,638 | +8.4% | 248 | 120 | 2.1% | ブラジルにモトホンダ・ダ・アマゾニアを設立(1975/07) |
| 1977年02月期 | 単体 | 6,687 | +18.6% | 329 | 155 | 2.3% | 熊本製作所が稼動開始(1976/03) |
出所:会社年鑑
出典・参考
9件
- 株式会社年鑑 1964年版「本田技研工業」【資本金移動】
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「本田技研工業」
- 日経ビジネス 1973年9月3日号
- 日経ビジネス 1974年4月29日号
- 日経ビジネス 1975年3月17日号
- 日経新聞(1977年9月27日)
- 日本企業要覧 1975年版「本田技研工業」【役員の略歴】
- 日本企業要覧 1978年版「本田技研工業」【最近の業績】