第1章 年〜年

極東開発工業:極東開発機械工業の設立と横浜工場の完成

1955年〜川西モーターサービス部から分かれた極東開発機械工業と、西宮で始めた小型3輪ダンプの受託生産

極東開発機械工業は1955年6月、資本金2,500千円で横浜市鶴見区に設立され、特装車の販売から事業を始めた。設立を主導したのは、川西航空機(現・新明和工業)の特装車部門の前身にあたる川西モーターサービス部の幹部。幹部たちは、特装車の需要が急速に広がる局面をとらえ、その受注に応じる会社を部門の外に立てた。特装車は、トラックの台車に荷を運ぶボディや作業用の機械を載せた車で、ダンプやタンクローリーが代表的な車種である。登記上の設立年月は1917年3月となっており、これは1971年4月に株式額面の変更を目的として休眠会社へ吸収合併されたことによる。親元の部門の枠内で増産を待つより、別会社として受注の窓口を増やすほうが需要の伸びを取り込みやすいと、幹部たちは判断したとみられる。

  • 極東開発工業 有価証券報告書「沿革」
    • [1]1955年6月、資本金2,500千円で横浜市鶴見区に極東開発機械工業を設立し特装車の販売を開始。1971年4月の額面変更目的の合併で登記上の設立は1917年3月
    • [5]1955年6月、資本金2,500千円で横浜市鶴見区に極東開発機械工業を設立し特装車の販売を開始。1971年4月の額面変更目的の合併で登記上の設立は1917年3月
  • 証券 45(1)(526) 1993年
    • [2]1955年6月、川西航空機(現・新明和工業)特装車部門の前身・川西モーターサービス部の幹部が、拡大する特装車需要への対応を目的に設立
    • [3]1955年6月、川西航空機(現・新明和工業)特装車部門の前身・川西モーターサービス部の幹部が、拡大する特装車需要への対応を目的に設立
  • 証券アナリストジャーナル 28(2) 1990年 米田稲次郎
    • [4]特装車はトラックの台車の上に目的物を運ぶボディや作業機械を載せた車で、ダンプ・タンクローリーが代表例

極東開発機械工業は設立から半年後の1955年12月、川西モーターサービス部から出資を受け入れた。出資の背景には、発起人が同部の人員で占められていたという事情があった。社長の米田稲次郎氏は1990年、自社の成り立ちを新明和工業の中の川西モーターサービスから分離して生まれた会社と説明した。この出資によって、極東開発機械工業は川西モーターサービス部と人と資本の両面でつながる会社となった。独立した販売会社として出発しながら、半年で資本関係を結んだのは、親元から仕事を回してもらう道筋を確保する意味があったと推察される。

  • 証券 45(1)(526) 1993年
    • [6]設立当初の発起人は川西モーターサービス部の人員で、1955年12月に同部から出資を受けた
    • [7]設立当初の発起人は川西モーターサービス部の人員で、1955年12月に同部から出資を受けた
    • [9]設立当初の発起人は川西モーターサービス部の人員で、1955年12月に同部から出資を受けた
  • 証券アナリストジャーナル 28(2) 1990年 米田稲次郎
    • [8]1990年に社長の米田稲次郎氏が、昭和30年に新明和工業の中の川西モーターサービスから分離して設立されたと説明

極東開発機械工業は1957年4月、本社を兵庫県西宮市上甲子園へ移し、本社と本社工場を完成させた。転機は、川西モーターサービス部から小型3輪ダンプの生産を委託されたことだった。西宮の工場では、特装車の部品のほか、小型ダンプとタンクローリーの生産を始めた。社長の米田稲次郎氏は1992年、新明和工業から分かれた際に、関東以北を新明和工業、西の地域を自社が受け持つことにした事情を明かした。創業の地の横浜を離れた本社の移転は、この分担の時期と重なっていた。委託生産を機に関西へ本社を移したのは、自社の受け持つ市場に生産の拠点を合わせる判断だったのだろう。

  • 極東開発工業 有価証券報告書「沿革」
    • [10]1957年4月、本社を西宮市上甲子園に移転し本社・本社工場を完成。特装車部品・小型ダンプ・タンクローリの生産を開始
    • [12]1957年4月、本社を西宮市上甲子園に移転し本社・本社工場を完成。特装車部品・小型ダンプ・タンクローリの生産を開始
    • [14]1957年4月、本社を西宮市上甲子園に移転し本社・本社工場を完成。特装車部品・小型ダンプ・タンクローリの生産を開始
  • 証券 45(1)(526) 1993年
    • [11]昭和32年、川西モーターサービス部からの小型3輪ダンプの生産委託を契機に西宮市に工場を設置し、特装車の生産を開始
  • 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1992年12月 米田稲次郎「極東開発工業」
    • [13]1992年に社長の米田稲次郎氏が、新明和工業から分離した際に関東以北を同社、西を自社が受け持つことにしたと説明
    • [15]1992年に社長の米田稲次郎氏が、新明和工業から分離した際に関東以北を同社、西を自社が受け持つことにしたと説明
参考文献[1]-[15]
  • 極東開発工業 有価証券報告書「沿革」
    • [1]1955年6月、資本金2,500千円で横浜市鶴見区に極東開発機械工業を設立し特装車の販売を開始。1971年4月の額面変更目的の合併で登記上の設立は1917年3月
    • [5]1955年6月、資本金2,500千円で横浜市鶴見区に極東開発機械工業を設立し特装車の販売を開始。1971年4月の額面変更目的の合併で登記上の設立は1917年3月
    • [10]1957年4月、本社を西宮市上甲子園に移転し本社・本社工場を完成。特装車部品・小型ダンプ・タンクローリの生産を開始
    • [12]1957年4月、本社を西宮市上甲子園に移転し本社・本社工場を完成。特装車部品・小型ダンプ・タンクローリの生産を開始
    • [14]1957年4月、本社を西宮市上甲子園に移転し本社・本社工場を完成。特装車部品・小型ダンプ・タンクローリの生産を開始
  • 証券 45(1)(526) 1993年
    • [2]1955年6月、川西航空機(現・新明和工業)特装車部門の前身・川西モーターサービス部の幹部が、拡大する特装車需要への対応を目的に設立
    • [3]1955年6月、川西航空機(現・新明和工業)特装車部門の前身・川西モーターサービス部の幹部が、拡大する特装車需要への対応を目的に設立
    • [6]設立当初の発起人は川西モーターサービス部の人員で、1955年12月に同部から出資を受けた
    • [7]設立当初の発起人は川西モーターサービス部の人員で、1955年12月に同部から出資を受けた
    • [9]設立当初の発起人は川西モーターサービス部の人員で、1955年12月に同部から出資を受けた
    • [11]昭和32年、川西モーターサービス部からの小型3輪ダンプの生産委託を契機に西宮市に工場を設置し、特装車の生産を開始
  • 証券アナリストジャーナル 28(2) 1990年 米田稲次郎
    • [4]特装車はトラックの台車の上に目的物を運ぶボディや作業機械を載せた車で、ダンプ・タンクローリーが代表例
    • [8]1990年に社長の米田稲次郎氏が、昭和30年に新明和工業の中の川西モーターサービスから分離して設立されたと説明
  • 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1992年12月 米田稲次郎「極東開発工業」
    • [13]1992年に社長の米田稲次郎氏が、新明和工業から分離した際に関東以北を同社、西を自社が受け持つことにしたと説明
    • [15]1992年に社長の米田稲次郎氏が、新明和工業から分離した際に関東以北を同社、西を自社が受け持つことにしたと説明

1959年〜名古屋・横浜の2工場の完成と、川西モーターサービス部からの委託生産に頼った操業

極東開発機械工業は1959年10月、愛知県に名古屋工場を完成させ、各種の特装車の生産を始めた。営業網を広げるのに合わせ、特装車の需要の強さに応じて生産能力を増強する一環だった。特装車は顧客ごとに仕様が異なり、ごみを運ぶダンプは荷台を深く、土砂用は浅く作るといった違いが出る。社長の米田稲次郎氏の1992年の説明では、顧客の求める仕様は地域によって大きく異なる。納期も非常に短いため、顧客に近い場所で作るほうがよいという考えも示した。名古屋工場は、需要地に寄せて工場を置く後年の配置の考え方を、早い時期に形にした拠点だったと思われる。

  • 極東開発工業 有価証券報告書「沿革」
    • [16]1959年10月、名古屋工場完成。各種特装車の生産を開始
  • 証券 45(1)(526) 1993年
    • [17]営業網の拡充に伴い、旺盛な特装車需要に対応するため昭和34年に名古屋工場(愛知県)を設置し生産能力を増強
  • 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1992年12月 米田稲次郎「極東開発工業」
    • [18]1992年に社長の米田稲次郎氏が、仕様が地方で大きく異なり納期が短いため顧客の隣接地で生産するのが望ましく、仕様違いで製品のストックはできないと説明
    • [19]1992年に社長の米田稲次郎氏が、仕様が地方で大きく異なり納期が短いため顧客の隣接地で生産するのが望ましく、仕様違いで製品のストックはできないと説明
    • [20]1992年に社長の米田稲次郎氏が、仕様が地方で大きく異なり納期が短いため顧客の隣接地で生産するのが望ましく、仕様違いで製品のストックはできないと説明

1962年3月、極東開発機械工業は神奈川県に横浜工場を完成。工場は西宮・名古屋・横浜の3か所となり、創業の地の関東にも生産の拠点を持った。翌月の1962年4月には本社と本社工場を西宮市甲子園口へ移し、旧本社工場を機械工場と改称した。ただし、設立から1965年頃までの仕事は、川西モーターサービス部からの委託生産が中心だった。自社の技術で製品を持つ動きは、1966年に米国とスウェーデンの企業と技術導入契約を結んだことで始まった。3工場の生産能力を委託生産だけで埋め続けることはできず、自社製品の開発へ進む必要がこの時期に高まったと考えられる。

  • 極東開発工業 有価証券報告書「沿革」
    • [21]1962年3月横浜工場完成。1962年4月に本社・本社工場を西宮市甲子園口へ移転し旧本社工場を機械工場と改称
    • [22]1962年3月横浜工場完成。1962年4月に本社・本社工場を西宮市甲子園口へ移転し旧本社工場を機械工場と改称
    • [23]1962年3月横浜工場完成。1962年4月に本社・本社工場を西宮市甲子園口へ移転し旧本社工場を機械工場と改称
  • 証券 45(1)(526) 1993年
    • [24]設立当初から昭和40年頃までは川西モーターサービス部からの委託生産が中心。昭和41年に米チャレンジ・クック・ブラザーズ社、スウェーデンのインターコンサルト社と技術導入契約
    • [25]設立当初から昭和40年頃までは川西モーターサービス部からの委託生産が中心。昭和41年に米チャレンジ・クック・ブラザーズ社、スウェーデンのインターコンサルト社と技術導入契約
参考文献[16]-[25]
  • 極東開発工業 有価証券報告書「沿革」
    • [16]1959年10月、名古屋工場完成。各種特装車の生産を開始
    • [21]1962年3月横浜工場完成。1962年4月に本社・本社工場を西宮市甲子園口へ移転し旧本社工場を機械工場と改称
    • [22]1962年3月横浜工場完成。1962年4月に本社・本社工場を西宮市甲子園口へ移転し旧本社工場を機械工場と改称
    • [23]1962年3月横浜工場完成。1962年4月に本社・本社工場を西宮市甲子園口へ移転し旧本社工場を機械工場と改称
  • 証券 45(1)(526) 1993年
    • [17]営業網の拡充に伴い、旺盛な特装車需要に対応するため昭和34年に名古屋工場(愛知県)を設置し生産能力を増強
    • [24]設立当初から昭和40年頃までは川西モーターサービス部からの委託生産が中心。昭和41年に米チャレンジ・クック・ブラザーズ社、スウェーデンのインターコンサルト社と技術導入契約
    • [25]設立当初から昭和40年頃までは川西モーターサービス部からの委託生産が中心。昭和41年に米チャレンジ・クック・ブラザーズ社、スウェーデンのインターコンサルト社と技術導入契約
  • 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1992年12月 米田稲次郎「極東開発工業」
    • [18]1992年に社長の米田稲次郎氏が、仕様が地方で大きく異なり納期が短いため顧客の隣接地で生産するのが望ましく、仕様違いで製品のストックはできないと説明
    • [19]1992年に社長の米田稲次郎氏が、仕様が地方で大きく異なり納期が短いため顧客の隣接地で生産するのが望ましく、仕様違いで製品のストックはできないと説明
    • [20]1992年に社長の米田稲次郎氏が、仕様が地方で大きく異なり納期が短いため顧客の隣接地で生産するのが望ましく、仕様違いで製品のストックはできないと説明

出典・参考

4件
出典・参考
  • 極東開発工業 有価証券報告書「沿革」
  • 証券アナリストジャーナル 28(2) 1990年 米田稲次郎
  • 証券アナリストジャーナル 別冊付録「企業」1992年12月 米田稲次郎「極東開発工業」
  • 証券 45(1)(526) 1993年

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