1946年 樫尾製作所を創業

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下請け町工場を1946年4月に三鷹で起こした長男・樫尾忠雄が、逓信省を退いた次男ら兄弟3人と合流、約8年がかりでリレー素子341個・14桁の四則演算機を完成。1957年6月に資本金20万円で四兄弟がカシオ計算機を設立し、世界初の小型純電気式計算機14-Aで業界に衝撃を与えた。

創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?

  • 1946年4月、長男は東京都三鷹市に樫尾製作所を設立した。顕微鏡部品や歯車の下請けで生計を立てる町工場であり、戦後の物資不足のなかで手間賃の安い仕事を重ねても生活は楽にならず、下請けの将来性に限界を感じる日々が続いた。逓信省を退官した次男、役所勤めの三男、教員の四男が順次合流し、家庭用電熱器や自転車発電ランプの試作を経て、独創的な商品でなければ零細企業に飛躍はないという結論に至った。
  • 1949年に次男主導でリレー式計算機の開発が始まり、約8年の試行錯誤の末に1956年、リレー素子341個で14桁の四則演算を実現する小型機が完成した。1957年6月、四兄弟は東京都武蔵野市に資本金20万円・従業員20名でカシオ計算機株式会社を設立し、同年11月に発表された14-Aで業界にセンセーションを巻き起こした。三鷹工業組合の連帯保証で商工中金から融資を引き出した家族内部資金と地縁信用の組み合わせが、長期開発を可能にした。
  • 1961年に東大和市の大和工場が完成して量産体制が整うと、設立時20名の従業員は1964年に500人を突破した。1964年のシャープによる電子式発売の衝撃を受けて1965年9月に電子式卓上計算機001を発売、1970年9月に東証2部上場、1972年8月のカシオミニで個人向け市場を創造して電卓業界トップへ駆け上がり、1973年3月の八王子工場、1974年5月の本店新宿移転で首都圏拠点配置の原型を10年で築いた。
創業
上場
経営方針 何を目指していたか?

下請けでは将来性がないという長男の確信から独自商品開発へ転じ、独創的な商品でなければ零細企業に飛躍はないという教訓を経営哲学の原型に据えた。リレー式→電子式→個人向けという市場創造型の世代交代を、業界に先んじて自社主導で進めた。

1946.4 下請け町工場として発足
1949 独自商品開発へ転換
1957.6 計算機専業として法人化
1964 四兄弟分業の定着
1965.9 電子式へ自主転換
1972.8 6桁の割り切りで個人市場創造
資金調達 どう資金を工面したか?

長男の下請け収入と父の給料を全額開発費に投入する家族内部資金で出発、三鷹工業組合の連帯保証で商工中金が融資に応じた。1957年に資本金20万円で法人化し、1970年9月の東証2部上場(初値630円)で量産投資の資金基盤を整えた。

1946.4 家族内部資金で出発
1949 商工中金からの初期融資
1957.6 資本金20万円で法人化
1970.9 東証2部上場
1972.8 東証一部指定替
製品サービス 何を作って売ったか?

1946年は顕微鏡部品・歯車の下請け、1949年に家庭用電熱器・自転車発電ランプを試作し事業化に失敗、1957年に世界初の小型純電気式計算機14-Aを商品化、1965年に電子式卓上計算機001、1972年8月にカシオミニで個人向け市場を創造した。

1946 下請け加工
1949 家庭用商品の試作
1954 最初の試作機完成
1956 14桁四則演算機 完成
1957.11 14-A発表
1958 科学技術庁長官賞
1965.9 電子式卓上計算機001発売
1972.8 カシオミニ発売
1974.5 電子腕時計発売
主要顧客 誰に売ったか?

下請け期は他社の事務機メーカー向け部品が主、1957年以降は事務機商社経由で銀行・大企業へ計算機を納入。1972年のカシオミニ以降は全国2万軒の文具店を新販路として組織化し、約1万5,000軒を販売網に組み込んで主婦・学生・サラリーマン層へ直接届ける体制を築いた。

1946 下請け発注先
1957 事務機商社・銀行
1972.8 文具店2万軒の販路化
従業員数 誰と作っていたか?

1946年は家族数名の零細工場から出発し、1957年の法人化時は20名、1961年の大和工場完成を経て1964年に500人突破、1975年には2,000人規模の電卓量産メーカーへと、10数年で組織を一気に膨張させた。

1946 数名
1957.6 約20名
1964 500名超
1975 約2,000名
設備投資 どこで作っていたか?

創業地は東京都三鷹市の下請け町工場、1957年に武蔵野市で法人化、1961年に東大和市の大和工場で量産体制を整備、1973年3月に八王子工場(現八王子技術センター)、1974年5月に本店を東大和から新宿へ移転し、首都圏拠点配置の原型を初期10年で築いた。

1946.4 三鷹の下請け工場
1957.6 武蔵野市で法人化
1960.4 大和工場完成
1970.5 米Casio, Inc.設立
1972.10 独Casio Computer GmbH設立
1973.3 八王子工場完成
1974.5 本店を新宿へ移転

カシオ計算機 創業地の主な拠点一都三県 の地理(樫尾製作所 → カシオ計算機(新宿本店))

日本地図 1946年 樫尾製作所 東京都三鷹市 創業地(顕微鏡部品・歯車の下請け町工場) 1957年 カシオ計算機株式会社(本店) 東京都武蔵野市 法人化時の本店所在地 1961年 大和工場(東京工場) 東京都東大和市 14-A以降の量産工場(1960年4月完成) 1973年 八王子工場(現 八王子技術センター) 東京都八王子市 カシオミニ量産期の主力工場 1974年 カシオ計算機(新宿本店) 東京都新宿区 東大和から本店移転先(電子腕時計事業の開始時期と重なる)

創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部

1946〜1949年 なぜ下請け工場が独自製品の開発に踏み切ったのか?

顕微鏡部品や歯車の下請けでは手間賃が安く、いくら働いても生活は楽にならない状態が続いた。逓信省を退官して合流した次男が家庭用電熱器・自転車発電ランプを試作したが大資本の量産品と価格で太刀打ちできず、独創的な商品でなければ零細企業に飛躍の余地はないという結論に至った。

1946年、長男は東京都三鷹市に樫尾製作所を設立した。顕微鏡のボディ加工や歯車の下請けで生計を立てる町工場で、従業員は家族を含めて数名にすぎなかった。戦後の物資不足のなか手間賃の安い仕事を重ねても生活は一向に楽にならず、下請けでは企業の将来に限界があると痛感する日々が続いた。

逓信省を退官した次男が工場に合流し、家庭用電熱器や自転車の発電ランプなど自前商品の試作に乗り出した。だが大手の量産品と価格で競うことができず、いずれも事業化に至らなかった。1949年、東京・銀座の第1回ビジネスショウで外国製の電動計算機を目にした次男は、電気回路ですべてを処理すれば小型化と静粛性を同時に実現できると考え、リレー式計算機の開発を決意した。

1949〜1956年 なぜ無名の町工場が約8年もリレー計算機の開発を続けられたのか?

長男が下請け仕事で稼いだ資金を生活費以外すべて開発に投入し、父・茂の給料の大半も開発費に消えた。三鷹工業組合が連帯保証人となり商工中金が融資に応じたことで、家族内部資金と地縁信用を組み合わせた長期開発が可能となった。

1949年に開発が始まると、四兄弟は役所勤め・教員勤務をそれぞれ辞めて工場に集結した。長男は弟たちに今のままのほうがよいと引き止めたが翻意せず、結局その決断を受け入れている。資金調達は長男が担い、成功の保証がない試作品に融資する銀行はなく、行く先々で断られ続けた。最終的に三鷹工業組合が連帯保証人となり、商工中金が融資に応じている。

1954年に最初の試作機が完成し事務機商社に持ち込んだが、連剰機能のない欠陥計算機と酷評された。長男は当時を「自分一人ならまだしも弟たちの一生を狂わしたのではないか、という気持ちがときどき頭をよぎり、悩んだ」(日経ビジネス 380号 1984/7/9)と振り返っている。約2年の改良を経て1956年、リレー素子341個で14桁の四則演算を実現する小型機が完成した。

1957〜1964年 なぜ四兄弟の役割分担が事前設計なしに機能したのか?

経営と人事を束ねる長男、技術開発に没頭する次男、営業の最前線を指揮する三男、生産管理を統括する四男という配置が、それぞれの性格と前職の自然な結果として収まった。通常なら外部採用や内部育成が必要な経営・開発・営業・生産の4機能を、血縁の信頼だけで統合した点に創業期の特異性があった。

1957年6月、四兄弟は東京都武蔵野市に資本金20万円・従業員20名でカシオ計算機株式会社を設立し、社長に父・茂、専務に長男が就いた。同年11月に発表された14-Aは、それまで電動計算機が苦手としていた連剰計算をリレー方式で精密に処理し、一介の町工場が実用機を製品化した事実は業界にセンセーションを巻き起こした。1958年には東京都発明展で科学技術庁長官賞を受賞している。

初年度19台、翌年124台と注文は緩やかに立ち上がったが、1961年に東大和市の大和工場が完成して量産体制が整うと、設立時20名だった従業員は1964年には500人を突破した。開発に没頭する次男、営業で外を回る三男、生産を仕切る四男を束ねる長男の包容力という分業体制が、この時期に定着した。

1964〜1965年 なぜシャープの電子式発売を「冷水を浴びせられた」と受け止めたのか?

ビジネスショウで他社が出品した電子式計算機の小型さと、リレー式に見劣りしない性能を目の当たりにし、リレー方式を磨き上げてきた自社の主力が一夜にして旧式化する危機を実感したため。長男は大胆な開発投資に踏み切り、翌年には電子式卓上計算機001を発売して追撃に転じた。

1964年7月、シャープが世界初の電子式卓上計算機を発売した。長男は当時を「1964年7月、シャープは電子式計算機を発売した。その少し前のビジネスシヨウで、私はシャープ、大井電気など数社が出品した電子式計算機を見た。そのコンパクトさ。しかも、性能はリレー式に見劣りしないという。『これはえらいことになった』。背中に冷水を浴びせられた気持ちだった」(日経新聞 私の履歴書 1991/08/23)と振り返っている。

リレー式を量産化したばかりの主力が一夜にして旧式となる衝撃のなか、長男は開発投資の前倒しを決断し、翌1965年9月にカシオ初の電子式卓上計算機001を発売した。下請け時代に培われた独創的な商品でなければ飛躍できないという教訓は、リレー式から電子式への自社主導の世代交代でも貫かれ、その後の経営哲学の原型となった。

1969〜1972年 なぜ「6桁・1万2,800円」という割り切りで個人市場を創造できたのか?

主婦・学生・サラリーマン層の日常的な計算には6桁で十分であり、業界標準の8桁を切り下げれば1万円台の価格帯に到達できると営業本部長の三男が見極めた。月産5万台と他社が追従できない価格の同時提示で、存在しなかった個人向け市場を技術の引き算で創り出した。

1960年代後半の電卓は8桁以上の事務所用・3万円超が常識で、電卓はオフィスの事務機器であり個人が所有するものではないという認識が業界の前提だった。1969年にシャープが手帳サイズの電卓を発売した際、社内には追従論が上がったが、開発責任者はまねをすれば技術者も販売店も打撃を受けるとして拒否し、上回る製品の完成を待つ方針を貫いた。

営業本部長の三男は、表示桁数を6桁に切り下げ、価格を1万2,800円、月産5万台という計画を策定した。それまで1モデルで月産1万台を超えた経験はなく長男も当初反対したが、他社が追従できない価格を先に提示して市場を押さえる戦略が通った。1972年8月発売のカシオミニは10カ月で累計100万台、1年半で200万台を超え、文具店2万軒を販路として組織化したカシオを電卓業界トップへ押し上げた。

歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について

樫尾忠雄

1954年に試作機が事務機商社から酷評された時期、開発を続ける重圧について長男が後年振り返った発言

「自分一人ならまだしも弟たちの一生を狂わしたのではないか、という気持ちがときどき頭をよぎり、悩んだ」
樫尾忠雄

シャープの電子式卓上計算機発売を目にしてリレー式主力の旧式化を実感した瞬間の回想

「1964年7月、シャープは電子式計算機を発売した。その少し前のビジネスシヨウで、私はシャープ、大井電気など数社が出品した電子式計算機を見た。そのコンパクトさ。しかも、性能はリレー式に見劣りしないという。「これはえらいことになった」。背中に冷水を浴びせられた気持ちだった」
樫尾忠雄

カシオミニ発売直後、需要創造型の商品開発思想を長男が説明した発言

「当社は新しいものをつくれば売れるということではなく、どうすればより社会に寄与できるか、つまり一般の利用者が何を望んでいるか、どのような商品がより多くの人々に使ってもらえるか、ということを前提にしてきた」
樫尾忠雄

カシオミニ価格に対する業界からの反発を踏まえ、家庭向け需要創造の方針を長男が表明した発言

「12,800円のカシオミニを発表したが、いい話だけでなくいろいろな反響があった。業界からは、なぜ混乱させるような価格で出すのかと批判もいただいている。当社は、なんとか需要を開拓したい。必要としている人々に製品を届けるのがメーカーの使命であると考え、家庭向け商品の開発に取り組んできた」
業界関係者

カシオミニの6桁表示への業界内部からの批判を当時の業界関係者の発言として伝えた記録

「6ケタ表示(10万円単位までしか計算できない)のような、おもちゃみたいな電卓が作れるか」

参考文献

  • 有価証券報告書
  • 日経新聞 私の履歴書(樫尾忠雄)1991/08/23
  • 日経ビジネス 380号 1984/7/9(創業経営者・樫尾忠雄の半生)
  • 日経ビジネス 1980/06/02(樫尾忠雄社長インタビュー)
  • 樫尾俊雄発明記念館
  • 日経ビジネス 1975/04/14(安値電卓でつかんだ傷だらけの王座)
  • 日経ビジネス 1990/01/01
  • 月刊経済 1975/01
  • 証券アナリストジャーナル 1972/10
  • 日経ビジネス 380号 1984/7/9
  • 日経新聞 私の履歴書 1991/08/23