サン電子:江南市での設立とパチンコホール用コンピュータの開発
1971年〜毛糸加工から江南で興した電子機器の会社と、10人で請けた立石電機の切符販売機の組立
1971年4月、前田昌美氏は愛知県江南市でサン電子を設立し、繊維から電子機器へ事業を移した。前田昌美氏の前歴は、東京の鉄鋼商社での約3年の勤務と、江南に戻ってから10年ほど手伝った父の婦人物毛糸の加工業である。羊毛の買い付けで訪ねた海外では最新鋭機の導入が進み労働コストも安く、前田昌美氏は紡績業の先行きを明るくないとみた。転換先の調査には約2年を充て、当初は繊維業界の中で探したものの、帝人や東レを回って転換に要る資金と労力の大きさを知った。そこで繊維以外の技術革新の分野に狙いを定め、日商岩井の電子機器課で半年間、無給の実地研修を受けた。繊維の内側で転換に苦しむより、伸びる分野で努力を報われたいという思いが、経験のない電子機器へ移る決め手になったのだろう。
- 近代中小企業 臨時増刊 16(11) 1981年(編集部)
- [1]前田昌美は実父の婦人物毛糸加工業を手伝い、約2年の調査を経て日商岩井電子機器課に体験入社し、1971年4月にサン電子を設立
- [2]前田昌美は実父の婦人物毛糸加工業を手伝い、約2年の調査を経て日商岩井電子機器課に体験入社し、1971年4月にサン電子を設立
- [4]前田昌美は実父の婦人物毛糸加工業を手伝い、約2年の調査を経て日商岩井電子機器課に体験入社し、1971年4月にサン電子を設立
- レポート 夏(31) 1990年「時代を捉えた経営手腕で、驚異的な躍進を遂げる――サン電子株式会社代表取締役 前田昌美氏」(遠藤宏)
- [3]前田昌美は鉄鋼商社勤務の後、家業の紡績を10年ほど担い、海外の設備と労働コストを見て転身を考え、帝人・東レ等を回った後に日商岩井電子機器課で半年間無給研修
- [5]前田昌美は鉄鋼商社勤務の後、家業の紡績を10年ほど担い、海外の設備と労働コストを見て転身を考え、帝人・東レ等を回った後に日商岩井電子機器課で半年間無給研修
自社製品を作る技術を持たないサン電子は、立石電機の切符自動販売機の組立を下請けすることから事業を始めた。前田昌美氏は江南の青年会議所で理事長を務めた縁で、京都の青年会議所の理事長だった立石電機副社長の立石孝雄氏と面識を得た。前田昌美氏が京都の本社に立石孝雄氏を訪ねて相談した折に出たのが、一宮に工場を建てたばかりの立石電機で人手が足りないという話である。その後の年明け早々、立石電機から期末の繁忙に工場の人員を貸してほしいという依頼が届き、前田昌美氏は10人ほどを連れて応じた。社員は尾張一宮の工場で実習を重ね、組立の仕事を通じて電子機器の技術を少しずつ身に付けた。電子の素地のない会社にとって、大手の量産ラインへ人を出すことが技術を習得する最も早い手段だったとみられる。
- 近代中小企業 臨時増刊 16(11) 1981年(編集部)
- [6]立石電機の立石孝雄を頼って下請けとなり、尾張一宮の工場で実習し切符自動販売機のアセンブリーを担当
- [10]立石電機の立石孝雄を頼って下請けとなり、尾張一宮の工場で実習し切符自動販売機のアセンブリーを担当
- レポート 夏(31) 1990年「時代を捉えた経営手腕で、驚異的な躍進を遂げる――サン電子株式会社代表取締役 前田昌美氏」(遠藤宏)
- [7]青年会議所の縁で立石電機副社長の立石孝雄に相談、一宮工場の人手不足から期末の繁忙期に10人ほどを派遣し切符自動販売機の組立を開始
- [8]青年会議所の縁で立石電機副社長の立石孝雄に相談、一宮工場の人手不足から期末の繁忙期に10人ほどを派遣し切符自動販売機の組立を開始
- [9]青年会議所の縁で立石電機副社長の立石孝雄に相談、一宮工場の人手不足から期末の繁忙期に10人ほどを派遣し切符自動販売機の組立を開始
下請けの組立では利益が出ず、サン電子は赤字の年が何年か続いた。前田昌美氏は技術を社内に持つため、最初の年に工業高校の卒業生を採用し、創業2年目の1972年には大卒の技術者を初めて採用した。前田昌美氏は入社に迷う学生たちに自らの構想を語り、内定者は夏休みからアルバイトとして働いた。入社した若手からは『社長、会社はやっぱり儲けなきゃいけませんよ』と迫られ、前田昌美氏は自社製品の開発へ向かった。のちに電子機器課長となる山口正則氏もその一人で、大学で電子工学を専攻し、入社した以上は会社の基盤をつくりたいと考えた。社長の構想に共鳴した若手が、下請けに留まる経営を内側から動かしたと推察される。
- 近代中小企業 臨時増刊 16(11) 1981年(編集部)
- [11]赤字の年が数年続き、1972年入社の大卒技術者(山口正則ら)から儲けるよう迫られた
- [12]赤字の年が数年続き、1972年入社の大卒技術者(山口正則ら)から儲けるよう迫られた
- [15]赤字の年が数年続き、1972年入社の大卒技術者(山口正則ら)から儲けるよう迫られた
- [16]赤字の年が数年続き、1972年入社の大卒技術者(山口正則ら)から儲けるよう迫られた
- レポート 夏(31) 1990年「時代を捉えた経営手腕で、驚異的な躍進を遂げる――サン電子株式会社代表取締役 前田昌美氏」(遠藤宏)
- [13]初年度は工業高校卒、翌年に大卒技術職を採用し、内定者は夏休みからアルバイトで働いた
- [14]初年度は工業高校卒、翌年に大卒技術職を採用し、内定者は夏休みからアルバイトで働いた
参考文献[1]-[16]
- 近代中小企業 臨時増刊 16(11) 1981年(編集部)
- [1]前田昌美は実父の婦人物毛糸加工業を手伝い、約2年の調査を経て日商岩井電子機器課に体験入社し、1971年4月にサン電子を設立
- [2]前田昌美は実父の婦人物毛糸加工業を手伝い、約2年の調査を経て日商岩井電子機器課に体験入社し、1971年4月にサン電子を設立
- [4]前田昌美は実父の婦人物毛糸加工業を手伝い、約2年の調査を経て日商岩井電子機器課に体験入社し、1971年4月にサン電子を設立
- [6]立石電機の立石孝雄を頼って下請けとなり、尾張一宮の工場で実習し切符自動販売機のアセンブリーを担当
- [10]立石電機の立石孝雄を頼って下請けとなり、尾張一宮の工場で実習し切符自動販売機のアセンブリーを担当
- [11]赤字の年が数年続き、1972年入社の大卒技術者(山口正則ら)から儲けるよう迫られた
- [12]赤字の年が数年続き、1972年入社の大卒技術者(山口正則ら)から儲けるよう迫られた
- [15]赤字の年が数年続き、1972年入社の大卒技術者(山口正則ら)から儲けるよう迫られた
- [16]赤字の年が数年続き、1972年入社の大卒技術者(山口正則ら)から儲けるよう迫られた
- レポート 夏(31) 1990年「時代を捉えた経営手腕で、驚異的な躍進を遂げる――サン電子株式会社代表取締役 前田昌美氏」(遠藤宏)
- [3]前田昌美は鉄鋼商社勤務の後、家業の紡績を10年ほど担い、海外の設備と労働コストを見て転身を考え、帝人・東レ等を回った後に日商岩井電子機器課で半年間無給研修
- [5]前田昌美は鉄鋼商社勤務の後、家業の紡績を10年ほど担い、海外の設備と労働コストを見て転身を考え、帝人・東レ等を回った後に日商岩井電子機器課で半年間無給研修
- [7]青年会議所の縁で立石電機副社長の立石孝雄に相談、一宮工場の人手不足から期末の繁忙期に10人ほどを派遣し切符自動販売機の組立を開始
- [8]青年会議所の縁で立石電機副社長の立石孝雄に相談、一宮工場の人手不足から期末の繁忙期に10人ほどを派遣し切符自動販売機の組立を開始
- [9]青年会議所の縁で立石電機副社長の立石孝雄に相談、一宮工場の人手不足から期末の繁忙期に10人ほどを派遣し切符自動販売機の組立を開始
- [13]初年度は工業高校卒、翌年に大卒技術職を採用し、内定者は夏休みからアルバイトで働いた
- [14]初年度は工業高校卒、翌年に大卒技術職を採用し、内定者は夏休みからアルバイトで働いた
1973年〜毛糸加工から撤退した電子機器への一本化と、パチンコホール100軒を回って生んだサンタック
1973年、サン電子は毛糸加工の会社を閉鎖し、電子機器だけで事業を立てる体制に移った。最初の自社製品は、パチンコ店が出した景品の額を集計し、玉と景品の交換率や売上を把握する集計器である。この市場を選んだ理由は、地元の名古屋がパチンコで知られていたこと。前田昌美氏らは集計器を携えて地元の店を回ったものの、店側と会えるのは午前10時前か午後10時以降に限られ、販売は失敗に終わった。一方で店の側からは集計器とは別の機器の案が出され、これが次の製品の起点となった。社員に新製品を探させるなかで、ホールの省力化や自動化に役立つ機器が有望との話を聞き、前田昌美氏はホールを100軒ほど回って需要を調べた。
- 近代中小企業 臨時増刊 16(11) 1981年(編集部)
- [17]1973年に毛糸加工会社を閉鎖し電子機器一本化、最初の自社製品の景品集計器はパチンコ店回りで売れず、店側から次の製品の案を得た
- [18]1973年に毛糸加工会社を閉鎖し電子機器一本化、最初の自社製品の景品集計器はパチンコ店回りで売れず、店側から次の製品の案を得た
- [19]1973年に毛糸加工会社を閉鎖し電子機器一本化、最初の自社製品の景品集計器はパチンコ店回りで売れず、店側から次の製品の案を得た
- [20]1973年に毛糸加工会社を閉鎖し電子機器一本化、最初の自社製品の景品集計器はパチンコ店回りで売れず、店側から次の製品の案を得た
- [21]1973年に毛糸加工会社を閉鎖し電子機器一本化、最初の自社製品の景品集計器はパチンコ店回りで売れず、店側から次の製品の案を得た
- レポート 夏(31) 1990年「時代を捉えた経営手腕で、驚異的な躍進を遂げる――サン電子株式会社代表取締役 前田昌美氏」(遠藤宏)
- [22]2年目から社員に新商品を開発させ、ホール省力化の商品が有望と聞いてパチンコホールを100軒ほど調査
1974年5月、サン電子はパチンコホール用コンピュータ「サンタック」を開発し、販売を始めた。開発の決め手は、ホール100軒の調査で分かった制御用のコンピュータの不足である。サンタックは台ごとの玉の出入りと玉貸機・景品交換機のデータを集め、稼働率や出玉、売上を1か所で管理する装置だった。前田昌美氏はコンピュータの時代が来るとみてICを採用し、開発は入社2年目の山口正則氏ひとりが半導体の購入ルート探しから約1年かけて担った。参考書が少なく半導体の信頼性も低い時期の開発で、完成後も知名度の低さから当初の売れ行きは伸びなかった。それでもサンタックは、赤字が続いたサン電子の決算を黒字に転じさせた。
- 近代中小企業 臨時増刊 16(11) 1981年(編集部)
- [23]サンタックは玉出し・玉貸機・景品交換機のデータを集中管理する装置、ICを採用し入社2年目の山口正則が単独で約1年かけ開発、1974年完成で決算が黒字化
- [26]サンタックは玉出し・玉貸機・景品交換機のデータを集中管理する装置、ICを採用し入社2年目の山口正則が単独で約1年かけ開発、1974年完成で決算が黒字化
- [27]サンタックは玉出し・玉貸機・景品交換機のデータを集中管理する装置、ICを採用し入社2年目の山口正則が単独で約1年かけ開発、1974年完成で決算が黒字化
- [28]サンタックは玉出し・玉貸機・景品交換機のデータを集中管理する装置、ICを採用し入社2年目の山口正則が単独で約1年かけ開発、1974年完成で決算が黒字化
- [29]サンタックは玉出し・玉貸機・景品交換機のデータを集中管理する装置、ICを採用し入社2年目の山口正則が単独で約1年かけ開発、1974年完成で決算が黒字化
- サン電子 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- [24]1974年5月 パチンコホール用コンピュータを開発し販売開始
- レポート 夏(31) 1990年「時代を捉えた経営手腕で、驚異的な躍進を遂げる――サン電子株式会社代表取締役 前田昌美氏」(遠藤宏)
- [25]ホール100軒の調査で制御用コンピュータの不足を知り開発を決断
参考文献[17]-[29]
- 近代中小企業 臨時増刊 16(11) 1981年(編集部)
- [17]1973年に毛糸加工会社を閉鎖し電子機器一本化、最初の自社製品の景品集計器はパチンコ店回りで売れず、店側から次の製品の案を得た
- [18]1973年に毛糸加工会社を閉鎖し電子機器一本化、最初の自社製品の景品集計器はパチンコ店回りで売れず、店側から次の製品の案を得た
- [19]1973年に毛糸加工会社を閉鎖し電子機器一本化、最初の自社製品の景品集計器はパチンコ店回りで売れず、店側から次の製品の案を得た
- [20]1973年に毛糸加工会社を閉鎖し電子機器一本化、最初の自社製品の景品集計器はパチンコ店回りで売れず、店側から次の製品の案を得た
- [21]1973年に毛糸加工会社を閉鎖し電子機器一本化、最初の自社製品の景品集計器はパチンコ店回りで売れず、店側から次の製品の案を得た
- [23]サンタックは玉出し・玉貸機・景品交換機のデータを集中管理する装置、ICを採用し入社2年目の山口正則が単独で約1年かけ開発、1974年完成で決算が黒字化
- [26]サンタックは玉出し・玉貸機・景品交換機のデータを集中管理する装置、ICを採用し入社2年目の山口正則が単独で約1年かけ開発、1974年完成で決算が黒字化
- [27]サンタックは玉出し・玉貸機・景品交換機のデータを集中管理する装置、ICを採用し入社2年目の山口正則が単独で約1年かけ開発、1974年完成で決算が黒字化
- [28]サンタックは玉出し・玉貸機・景品交換機のデータを集中管理する装置、ICを採用し入社2年目の山口正則が単独で約1年かけ開発、1974年完成で決算が黒字化
- [29]サンタックは玉出し・玉貸機・景品交換機のデータを集中管理する装置、ICを採用し入社2年目の山口正則が単独で約1年かけ開発、1974年完成で決算が黒字化
- レポート 夏(31) 1990年「時代を捉えた経営手腕で、驚異的な躍進を遂げる――サン電子株式会社代表取締役 前田昌美氏」(遠藤宏)
- [22]2年目から社員に新商品を開発させ、ホール省力化の商品が有望と聞いてパチンコホールを100軒ほど調査
- [25]ホール100軒の調査で制御用コンピュータの不足を知り開発を決断
- サン電子 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- [24]1974年5月 パチンコホール用コンピュータを開発し販売開始
1978年〜シェア2割のサンタックで離れた下請けと、遊技機制御基板と10種を超すマイコン応用機器
サンタックは最大500台のパチンコ台を接続でき、1981年時点の出荷ペースで約2割のシェアを占めた。500台の店では配線が約1500本に及び、容量の小さい制御機では大型店に対応できなかった。1981年までに管理装置のメーカーは一時の十数社から4〜5社へ減少。台の打止めを設定する機能も備え、通常の営業なら店内の管理を1人で担えた。サンタックの販売で経営が安定し、サン電子は1978年ごろに下請けから独立し、同年11月には大阪営業所を開設した。大型店に対応できる接続台数が、メーカーの淘汰が進む市場での競争優位になったのだろう。
- 近代中小企業 臨時増刊 16(11) 1981年(編集部)
- [30]サンタックは500台まで接続可能でシェア約2割、メーカーは十数社から4〜5社に減少、1981年の3年前に下請けから独立
- [31]サンタックは500台まで接続可能でシェア約2割、メーカーは十数社から4〜5社に減少、1981年の3年前に下請けから独立
- [32]サンタックは500台まで接続可能でシェア約2割、メーカーは十数社から4〜5社に減少、1981年の3年前に下請けから独立
- [33]サンタックは500台まで接続可能でシェア約2割、メーカーは十数社から4〜5社に減少、1981年の3年前に下請けから独立
- [34]サンタックは500台まで接続可能でシェア約2割、メーカーは十数社から4〜5社に減少、1981年の3年前に下請けから独立
- サン電子 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- [35]1978年11月 大阪市に大阪営業所を開設
1980年3月、サン電子は遊技機に載せる制御基板を開発し、販売を始めた。当時のパチンコ店では電子パチンコ台が広がり、1台が1日に動かす玉は従来の4〜5万個から10万個近くに増えた。サンタックは台の上下に玉数の検出器を置き、数えた値をコンピュータへ送る仕組みで、サン電子は玉の計数を電子で扱う技術を蓄えた。同じ時期には音声合成と音声認識の技術を開発し、声の出るテレビゲームを商品化した。1980年11月には東京都千代田区に東京営業所を開設。ホールの管理で培った電子制御の技術を、台を作るメーカー向けの部品へ広げたものと思われる。
- サン電子 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- [36]1980年3月 遊技機制御基板を開発し販売開始、同年11月 東京営業所を開設
- [40]1980年3月 遊技機制御基板を開発し販売開始、同年11月 東京営業所を開設
- 近代中小企業 臨時増刊 16(11) 1981年(編集部)
- [37]電子パチンコ台では1台1日の玉が10万個近くに、サンタックで玉の計数と500台分の配線に対応、音声合成・認識を開発し声の出るテレビゲームを商品化
- [38]電子パチンコ台では1台1日の玉が10万個近くに、サンタックで玉の計数と500台分の配線に対応、音声合成・認識を開発し声の出るテレビゲームを商品化
- [39]電子パチンコ台では1台1日の玉が10万個近くに、サンタックで玉の計数と500台分の配線に対応、音声合成・認識を開発し声の出るテレビゲームを商品化
1980年までの数年で、サン電子はコーヒーメーカー、テレビゲーム、パソコンを含む10種以上の製品を商品化した。1981年に製造していた7〜8種はすべて自社製品で、その多くがマイコンを応用した機器である。販路はパチンコ店、コーヒー店、ゲームセンターと製品ごとに異なり、前田昌美氏はマーケティングの専門家から個人教授を受けた。前田昌美氏はマイコン応用機器について『マイコン応用機器をいかに売るかのほうがむずかしい』という認識を示し、試作品を展示会や試験販売で市場に出し、反応を確かめてから量産した。1980年の売上高は約17億円、従業員は50名、資本金は2000万円だった。1990年時点でもパチンコホール用コンピュータは主力商品の一つに数えられ、複数の市場に分けた製品群が経営を支えた。
- 近代中小企業 臨時増刊 16(11) 1981年(編集部)
- [41]10種以上のマイコン応用機器を商品化し、パチンコ店・コーヒー店・ゲームセンターの別販路で販売、社長がマーケティングの個人教授を受け、1980年売上約17億円・従業員50名
- [42]10種以上のマイコン応用機器を商品化し、パチンコ店・コーヒー店・ゲームセンターの別販路で販売、社長がマーケティングの個人教授を受け、1980年売上約17億円・従業員50名
- [43]10種以上のマイコン応用機器を商品化し、パチンコ店・コーヒー店・ゲームセンターの別販路で販売、社長がマーケティングの個人教授を受け、1980年売上約17億円・従業員50名
- [44]10種以上のマイコン応用機器を商品化し、パチンコ店・コーヒー店・ゲームセンターの別販路で販売、社長がマーケティングの個人教授を受け、1980年売上約17億円・従業員50名
- [45]10種以上のマイコン応用機器を商品化し、パチンコ店・コーヒー店・ゲームセンターの別販路で販売、社長がマーケティングの個人教授を受け、1980年売上約17億円・従業員50名
- レポート 夏(31) 1990年「時代を捉えた経営手腕で、驚異的な躍進を遂げる――サン電子株式会社代表取締役 前田昌美氏」(遠藤宏)
- [46]1990年時点の主力商品にパチンコホール用コンピュータ
参考文献[30]-[46]
- 近代中小企業 臨時増刊 16(11) 1981年(編集部)
- [30]サンタックは500台まで接続可能でシェア約2割、メーカーは十数社から4〜5社に減少、1981年の3年前に下請けから独立
- [31]サンタックは500台まで接続可能でシェア約2割、メーカーは十数社から4〜5社に減少、1981年の3年前に下請けから独立
- [32]サンタックは500台まで接続可能でシェア約2割、メーカーは十数社から4〜5社に減少、1981年の3年前に下請けから独立
- [33]サンタックは500台まで接続可能でシェア約2割、メーカーは十数社から4〜5社に減少、1981年の3年前に下請けから独立
- [34]サンタックは500台まで接続可能でシェア約2割、メーカーは十数社から4〜5社に減少、1981年の3年前に下請けから独立
- [37]電子パチンコ台では1台1日の玉が10万個近くに、サンタックで玉の計数と500台分の配線に対応、音声合成・認識を開発し声の出るテレビゲームを商品化
- [38]電子パチンコ台では1台1日の玉が10万個近くに、サンタックで玉の計数と500台分の配線に対応、音声合成・認識を開発し声の出るテレビゲームを商品化
- [39]電子パチンコ台では1台1日の玉が10万個近くに、サンタックで玉の計数と500台分の配線に対応、音声合成・認識を開発し声の出るテレビゲームを商品化
- [41]10種以上のマイコン応用機器を商品化し、パチンコ店・コーヒー店・ゲームセンターの別販路で販売、社長がマーケティングの個人教授を受け、1980年売上約17億円・従業員50名
- [42]10種以上のマイコン応用機器を商品化し、パチンコ店・コーヒー店・ゲームセンターの別販路で販売、社長がマーケティングの個人教授を受け、1980年売上約17億円・従業員50名
- [43]10種以上のマイコン応用機器を商品化し、パチンコ店・コーヒー店・ゲームセンターの別販路で販売、社長がマーケティングの個人教授を受け、1980年売上約17億円・従業員50名
- [44]10種以上のマイコン応用機器を商品化し、パチンコ店・コーヒー店・ゲームセンターの別販路で販売、社長がマーケティングの個人教授を受け、1980年売上約17億円・従業員50名
- [45]10種以上のマイコン応用機器を商品化し、パチンコ店・コーヒー店・ゲームセンターの別販路で販売、社長がマーケティングの個人教授を受け、1980年売上約17億円・従業員50名
- サン電子 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- [35]1978年11月 大阪市に大阪営業所を開設
- [36]1980年3月 遊技機制御基板を開発し販売開始、同年11月 東京営業所を開設
- [40]1980年3月 遊技機制御基板を開発し販売開始、同年11月 東京営業所を開設
- レポート 夏(31) 1990年「時代を捉えた経営手腕で、驚異的な躍進を遂げる――サン電子株式会社代表取締役 前田昌美氏」(遠藤宏)
- [46]1990年時点の主力商品にパチンコホール用コンピュータ
出典・参考
3件
- サン電子 有価証券報告書 2025年3月期【沿革】
- 近代中小企業 臨時増刊 16(11) 1981年(編集部)
- レポート 夏(31) 1990年「時代を捉えた経営手腕で、驚異的な躍進を遂げる――サン電子株式会社代表取締役 前田昌美氏」(遠藤宏)